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 重要な主題に関する Paul C. Jong 師による説教

 

本来の新たに生まれる
福音の意味


<ヨハネの福音書第 3 章 1-6 節>

「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。『先生、私たちはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。』 イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』ニコデモは言った。『人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。』イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。』」



聖書でいう、新たに生まれるということの意味

世の中には、イエスを信じて新たに生まれたいと願う人は大勢います。しかし、まず申し上げておきますが、新たに生まれるということは、自分でどうこうできるものではありありません。つまり、行ないによって得ることのできるものではないのです。


新たに生まれることは、肉体の感情や
変化に関係があるでしょうか?
いいえ。新たに生まれることは、
霊的変化に関係があります。
これは、罪人が罪のない人間に
生まれ変わることです。

たいていのキリスト教徒はこの点を誤解しています。人々は、新しい教会をたくさん建てたから、あるいは、宣教師として辺境の地のこれまで教えを知らなかった人々にキリストを説いて献身したから、結婚を拒み、神のわざと信じるところのもののためにすべての力を注いできたから、だから新たに生まれるのだと信じます。

それだけではありません。教会に多額の金を寄付する人々がいれば、毎日教会の床を掃く人々もいるでしょう。つまるところ、時間や所有物を教会にささげるのです。そうして、こうした努力によっていのちの栄光を得られると考えます。人々は神が自分たちの努力を認め、新たに生まれることをお許しになることを期待します。

つまり、イエスを信じて新たに生まれたいと願う献身的な信者が大勢いるのです。いたるところにいます。そうした人々は、いつか神が恵みによって新たに生まれることを許してくださることを期待して、懸命に努力します。祈りのための施設、神学校や保養所にもいます。この人たちが新たに生まれるということの真理について知らずにいるのは、実に不幸なことです。

この人たちはみな、「これを完全にやってのければ、新たに生まれるだろう」と、自分の行ないを基準にします。そこで、こうした行ないに努力を傾け、新たに生まれるための土台を築いているものだと信じ、「私もいつかウエスリー牧師のように新たに生まれるのだ」と考えます。そして、ヨハネの福音書第 3 章 8 節を読んで、新たに生まれる恵みがどこから来てそれが何につながるのかは誰にもわからないのだと解釈します。

そこで、いつかイエスが新たに生まれることをお許しくださるだろうと願ってよりいっそう励むしかないのです。世の中には、「ずっとこれを続けていけば、イエスが新しく生まれさせてくださるだろう。そうと知らないうちに新たに生まれているのだ。ある朝、ただ新たに生まれて目をさまし、天国に行くことになると知るのだ」と考える人は大勢います。そうした信仰や願いは、無益としか言いようがありません。

人間はそのようにして新たに生まれるのではないのです。酒や煙草から身を遠ざけ、あるいは勤勉に教会に通ったからといって新たに生まれることはできません。イエスがおっしゃったように、神の国に入るには、「水と御霊によって生まれ」なければならないのです。そして、新たに生まれるために神がお定めになった条件は、ただ水と御霊だけなのです。

水と聖霊によって新たに生まれたのでなければ、イエスの前で正しくあろうとする努力はすべて無駄です。ささげ物や寄付、献身によっては決して新たに生まれることができません。誰が新たに生まれるかは神だけがご存知なのだから、自分が新たに生まれた者かどうかはわかりようがない、と考える人はいるでしょう

このように考えるのは気休めにはなるでしょうが、新たに生まれた者はテーブルの下に隠れるようなことはできません。本人がそのことを確実に知っているでしょうし、周りの人々もそれを感じます。

肉体的には、たぶん何も感じないでしょうが、霊的にははっきりとわかるはずです。真に新たに生まれた者とは、神のみことば、水と血と御霊によって新たに生まれた信者です。しかし、新たに生まれていない人々には、ニコデモがそうだったように、決して理解できないでしょう。

ですから、イエスのバプテスマと血とによる贖いを伝える真理の言葉に耳を傾けることが必要です。みことばを聞き学ぶと、真理を見出すことができます。ですから、心を開いて注意深く聞くことが大切です。

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ 3:8)

新たに生まれていない人はこの部分を読んで、「ああ! イエスは、人はいつ新たに生まれるか知ることができないとおっしゃった! 誰にもわからないんだ!」と考えます。そしてその考えに慰められます。しかし、それは違います。人間には風がどこから来てどこへ行くのかわからないでしょうが、神はすべてをご存知です。

新たに生まれた人々の中にさえ、最初はこのことに気づかない人々がいます。それはあり得ます。しかし、そうした人の心には、福音があります。つまり、イエスのバプテスマと血とによる贖いを伝えるみことばです。

これが新たに生まれるあかしです。福音を聞いて、「ああ、では私には罪がないのか。私は救われ、新たに生まれたのだ」と知ります。水と御霊の福音を信じ心にもちつづける人は義人、神の子どもになります。

ある人は「新たに生まれたのですか?」と聞かれて、「まだです」と答えるでしょう。「では、あなたは救われたのですか?」「ええ、そう思います。」しかし、これは矛盾していませんか? その人は、人が新たに生まれた時には肉もまた変わっているはずだと考えてそのような受け答えをするのです。

こうした人々は、新たに生まれるということを生き方の急激な変化のようなものだとみなします。ですが、実のところ、その人たちは水と御霊によって新たに生まれる福音を理解していないのです。

新たに生まれることの意味を知らない人はほんとうに多いのです。残念なことです。平信徒ばかりではなく、たいていの教会指導者もまたこの幻想の中で活動しているのです。新たに生まれた人々の心はそうした人々のことを嘆きます。

私たちがそのように感じる時、天のイエスと神はどんなに悲しんでおいででしょう。イエスのバプテスマと十字架上の血とによって新たに生まれる福音を信じて、新たに生まれましょう。

新たに生まれることと救われるということは、同じことです。しかし、この真理を知らない人が大勢います。新たに生まれるとは、水と御霊の福音を信じることによって心の中の罪を洗い流されるということです。これは、イエスのバプテスマと十字架上での犠牲を信じることによって義となるということです。

新たに生まれる前、人は罪人ですが、その後は完全に罪のない新しい人間なのです。その人は、救済の福音を信じることによって神の子どもになったのです。

新たに生まれるとは、イエスのバプテスマの衣を身につけ、イエスとともに十字架上で死に、共によみがえらせられることを意味します。これはつまり、バプテスマとイエスの十字架のみことばによって義となったということです。

母の胎から生まれた時、人は罪人です。しかし、水と御霊によって新たに生まれる真の福音を聞いたならば、新たに生まれ、義となります。

外見はすこしも変わっていませんが、内では霊において生まれ変わっています。新たに生まれるとは、こういうことなのです。しかし、この真理を知らない人が大勢います。一万人に一人も知りません。新たに生まれることのほんとうの意味を知っている人々はごくわずかしかいないでしょう?

水と御霊の福音を信じて新たに生まれた人々は、真に新たに生まれた者と普通のキリスト教徒とを区別できます。



風を操るのはイエス・キリスト

救われる人を知るのは誰か?
新たに生まれた者だけが
知る。

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」イエスはここで、新たに生まれていない者のことをおっしゃっています。新たに生まれた者はその意味することを知っていますが、ニコデモは知りませんでした。神は誰が新たに生まれたかをご存知で、新たに生まれた者もまた知っています。

しかし、新たに生まれていない人々には、風がどこから来てどこへ行くのかわからないのと同じように、人がいかにして新たに生まれるのかがわかりません。

これがわかりますか? 風を吹かせるのは誰ですか? 神です。風を創ったのは誰ですか? 天の神です。地上の気候を操作し、風や水の動きを支配するのは誰ですか? また、すべての生きとし生けるものに命の息を吹き込んだのは誰ですか? つまり、誰が世界中の生命を創りだし、増え広がるようにしたのですか? ほかならぬ、イエス・キリストです。そして、イエスは神です。

水と血と御霊の福音のみことばを知らなければ、新たに生まれることはできませんし、他の人々を霊的に導くこともできません。イエスは、人は水と御霊によって生まれるのでなければ、新たに生まれることはできないとおっしゃいました。

人を新たに生まれさせる大いなる福音、水と御霊の福音を信じましょう。水と御霊の福音を信じる人々の心にはみな、御霊が入って住みます。

イエス・キリストは、人類の罪をすべて取り除くためにバプテスマを受けられ、そうして被った罪の報いとして十字架上で血を流されました。イエスはすべての人類の心に水と聖霊の福音の救済を植え付けられました。この福音を信じると、御霊がその人の魂に入ります。これが新たに生まれることによる救済です。イエスのバプテスマと血とによって罪がすべて洗い流されたと信じるとき、人は真に新たに生まれます。

創世記第 1 章 2 節に「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、 神の霊は水の上を動いていた」とあります。神の霊が水面の上を動いていたというのです。 神の霊が地表の上を動いていた。

これはつまり、霊は罪人の心に入れないということです。新たに生まれていない人の心は混沌として、罪の闇に満たされています。そのために、神の霊はその人の心に住むことができません。

神は罪人の心を照らすために福音の光を送られました。神が「光よ。あれ」とおっしゃると、光が現れました。そしてそのときはじめて、神の霊は人の心に住むことができるようになりました。

ですから、水と御霊の福音を信じる新たに生まれた人々の心には、神の霊が住まわれるのです。「新たに生まれた」とは、そういうことです。水と聖霊の救済のみことばを聞いて信じたために心が新たに生まれたのです。

人はどうして新たに生まれることができるのでしょう? イエスは、パリサイ人ニコデモに、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません」と説明なさいました。ニコデモは、「水と御霊でどうして新たに生まれることができるのですか」と尋ねました。「私たちはもう一度母の胎に入って再び生まれてくるのですか?」彼はことばを文字通りに解釈したために、どうして人が新たに生まれることができるのか理解することができなかったのです。

するとイエスはおっしゃいました。「あなたは教師でありながら、これがどういうことかわからないのですか?」イエスは、人は水と御霊によって新たに生まれなければ天の国に入ることはおろか、見ることさえもできないだろうとおっしゃいました。イエスはニコデモに、新たに生まれることの真理をお告げになりました。

たしかに、新たに生まれることなくイエスを信じる人々は大勢います。たいていのキリスト教徒はニコデモのように、ほんとうに新たに生まれてはいません。

ニコデモは当時のイスラエル人の霊的指導者でしたが、今日の教会の指導者たちのようなものです。ニコデモは、今でいえば国会議員に相当する人物でした。宗教的な基準からすれば彼は教師で、ヘブル人のラビであり、ユダヤ人の指導者でした。彼はまた優れた学者でもありでした。

当時のイスラエルには、現在の学校に相当するものはありませんでしたから、人々はみな神殿やシナゴーグに行って「学者」から学んだのです。彼らが人々の教師でした。今日と同じように、当時も偽りの教師が大勢いました。彼らは、新たに生まれることなしに人々に教えていました。

現在の教会の役員、教師、牧師、長老、執事などの宗教指導者の中には、新たに生まれていない人がほんとうに大勢います。ニコデモと同じように、この人たちは新たに生まれることの真理を知りません。多くは新たに生まれるためにはもう一度母の胎に戻らなければいけないとさえ考えます。彼らは新たに生まれなければいけないことは知っていますが、どのようにしてかは知りません。

そうして無知のために、盲目の者が両手で感じ取った象のことを教えるように、その教えは個人的な感覚と経験とに基づいたものなのです。彼らは教会で世俗的な価値観を説きます。そしてそのために大勢の敬虔な人々が新たに生まれることを妨げられています。

新たに生まれることは、よい行ないとは無関係です。人間は、神のお与えくださった水と血と御霊のみことばへの信仰によって新たに生まれるのです。神の福音が人間を罪人から義人に変えるのです。

イエスは、「あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう」とおっしゃいました。そしてなるほど、イエスが人類のすべての罪の贖いはご自分のバプテスマによって完了したとお告げになったとき、人々は信じませんでした。彼らは何を信じませんでしたか? 彼らは、イエスのバプテスマと十字架上での死とによって自分たちの贖いが可能になったということを信じませんでした。「天上のこと」を話したところで人々は信じないだろうとイエスがおっしゃったのは、このことを指しています。

人間の罪をすべて清めるために、イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、それから罪人が新たに生まれることができるようにするために死者の中からよみがえらせられたのです。

ですから、イエスは旧約を引用してこれをニコデモに説明なさいました。「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ 3:13-15) モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた、彼を信じる者が永遠のいのちを得られるようにするために上げられなければなりません。

イエスが「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」とおっしゃったのは、どういう意味でしょう?イエスは旧約のこの部分を引用して、自分のバプテスマと血とが人類の罪のすべてに対する贖いをもたらすことを説明しようとなさったのです。

イエスが十字架上で死に、上げられるためにはまず、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けて世の罪をすべて取り除かなければなりませんでした。イエスには罪がありませんから、十字架につけられることはできないはずでした。十字架につけられるためには、バプテスマのヨハネからバプテスマを受け、人類の罪のすべてをその身に被る必要がありました。

人類の罪をすべて負われ、その報いをご自分の血で支払うことによってはじめて、イエスはすべての罪人を断罪から救うことがおできになったのです。イエスは水と御霊によって新たに生まれる救済を人類にお与えくださいました。

ですから、イエスを救い主と信じる人々はイエスのバプテスマの衣をまとい、共に死に、共によみがえるのです。後に、ニコデモはこれを理解します。



蛇が上げられたように

イエスはなぜ十字架に
つけられたのか?
バプテスマによってすべての罪を
取り除いたから。

モーセが荒野で青銅の蛇を上げた話をごぞんじですか? この話は民数記第 21 章にあります。それによると、エジプト脱出後、イスラエル人は自分たちの状態に失望して、神やモーセに逆らって言うようになりました。

そのために主が人々の中に燃える蛇を送られると、それはテントに入って人々に噛みつき、殺しました。噛まれた人々は、体が腫れあがり、大勢が死にました。

人々が死にはじめると、指導者であったモーセが神に祈りました。「主よ、どうかお助けください。」 神は青銅の燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけるように命じられました。それを見る者は、だれでも生きるとおっしゃるのです。モーセは命じられたとおりにし、人々に神のみことばを告げました。

モーセの言葉を信じた者はみな、青銅の蛇を見て癒されました。同様に、人は悪魔の毒を癒されなければなりません。イスラエル人はモーセの言葉に従って、旗ざおに上げられた青銅の蛇を仰ぎ見て癒されました。

旗ざおの上の蛇は、バプテスマと十字架上での死とによってすべての人類の罪の裁きがイエスの上に下されたことを啓示しています。イエスは、身をもって世のすべての罪人の罪の報いを支払われました。それによって人間がもはや罪によって罰せられることのないようになさったのです。

イエス・キリストは、サタンの誘惑である「蛇の毒」によって死ぬ定めにあったすべての人々を救うためにこの世においでになりました。ご自分を信じる者すべてを救うためによみがえらせられる前に、イエスは人類の罪すべての報いをお受けになるために、バプテスマを受けて十字架上で死ななければなりませんでした。

旧約のイスラエル人が旗ざおにつけられた蛇を仰ぎ見て救われたように、今日イエスを信じ、イエスがバプテスマと血とによって人類の罪を贖ったということを信じる人々はみな、救われて新たに生まれることができます。

イエスは世の罪のすべてをバプテスマのヨハネから受けたバプテスマと十字架上の死とで完全に贖われ、それから死から復活なさいました。そうして、イエスを信じる者はみな、あわれみによって救済の恵みを受けることができるのです。

「誰も天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」(ヨハネ 3:13) 人類の罪の贖いとして、イエスはバプテスマを受け、十字架上で血を流して天への門を開いてくださいました。ヨハネの福音書第 14 章 6 節でイエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とおっしゃいました。

イエスは人類に天の門を開くためにバプテスマを受け、十字架につけられたのですから、イエスによる救済を信じる者はみな救われます。イエスが人類の罪をすでに贖ってくださったのですから、水と血と御霊の真理を信じる者は誰でも天の国に入ることができます。

イエスは水と御霊の福音によって人類をお救いになりました。イエスのバプテスマと血、イエスが神であるという事実を信じることによって新たに生まれることができます。

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」(ヨハネ 3:14) ここはどういう意味でしょう? なぜイエスは十字架につけられなければならなかったのでしょう? 人間と同じように罪を犯したのでしょうか? 人間と同じように弱かったのでしょうか? 人間と同じように不完全だったのでしょうか? いいえ、そうではありません!

では、なぜイエスは十字架につけられなければならなかったのでしょう? それは、人類を救い、人類の罪のすべてを贖うためでした。イエスは人類をすべての罪から救うためにバプテスマを受け、十字架につけられたのです。

これが水と御霊によって新たに生まれる救済の真理です。人類の罪の贖いであるバプテスマと十字架上の死とを信じる者すべてにイエスは新たないのちをお与えになります。   



水と御霊とは

水と御霊とは、何か?
水とはイエスのバプテスマであり、
御霊とは、イエスが神で
あるということ

聖書は、イエスのバプテスマと十字架上の血とを信じるとき人は新たに生まれると教えています。記された神のみことば、人類の罪の贖いである水と血と御霊の福音によって、人は新たに生まれて神の子どもになれるのです。

聖書によると、「水」とはイエスのバプテスマであり (ペテロの手紙第一 3:21)、「御霊」とは、イエスは神であるということを意味します。バプテスマと血とによって人類の罪を贖うためにイエスが人間の肉の形でこの世においでになったということが、新たに生まれる真理です。

イエスはバプテスマによって人類の罪をすべて取り除き、十字架上で死ぬことによって罪の報いをお受けになりました。バプテスマを受け十字架上で血を流すことによって、イエスは信じる者すべてを救われました。

イエスのバプテスマと血とが、人類を罪から救った救済のしるしなのです。水と聖霊によって新たに生まれた者だけが天の国を見、入れます。イエスはバプテスマの水、血、それに御霊によって人類をお救いになりました。これを信じますか?

イエスは世の罪を贖うためにこの世に下られた天の大祭司です。イエスはバプテスマを受け、十字架上で血を流し、復活させられ、信じる者すべての救い主となられました。

ヨハネの福音書第 10 章 7 節でイエスは、「わたしは羊の門です」とおっしゃっています。イエスは天の門に立っていらっしゃいます。誰が私たちのために扉を開けてくれるでしょう? イエス・キリストです。

イエスは、救済の真理を知ることなく信仰する者から顔をそむけられます。ご自分のバプテスマと血と御霊とを信じない者が新たに生まれることをイエスはお許しになりません。記されたみことばを信じない者、イエスの聖性を信じない者、イエスを神と認めない者からイエスは顔をそむけられます。

世の罪のすべてを贖うためにイエスがこの世に肉の形でおいでになり、バプテスマを受け、十字架上で死なれたことや、人類に代わって裁きを受けて十字架上で死なれたこと、磔刑の三日後に復活なさったことを信じようとしない人は誰でも見捨てられ、滅びるでしょう。「罪から来る報酬は死です。」と記されているとおりです。

しかし、イエスのバプテスマと血による贖罪の恵みを信じる者、心で聖くなった者は天の国に入ることを許されます。これが新たに生まれることについての真の福音であり、水と血と御霊によって示された福音なのです。水と聖霊によって新たに生まれるというのは、天から与えられた福音です。イエスのバプテスマと血とを信じる者だけが新たに生まれることができます。水と血と御霊の福音を信じる人々には罪がありません。彼らこそが真に新たに生まれた人々なのです。

しかし、ニコデモが真理を知らなかったように、現在たいていの人は真の福音を知ることなくイエスを信仰しています。ニコデモは、その社会で実に立派な人物でした。彼はイエスから福音を聞き、後にイエスが十字架につけられた時は、死体を埋葬するためにやってきます。そのころには、ニコデモはイエスの教えを完全に信じるようになっていました。

今日、あまりに多くの人々がイエスの水と御霊についての真理を知らずにいます。そのうえ、真の福音を聞く機会を得ながら、真理を受け入れない人々もまた大勢います。残念なことです。

イエスはすべての人間が新たに生まれることを可能になさいました。人は何によって新たに生まれるのでしょう? それは、水と血と御霊です。バプテスマをお受けになるときにイエスは人類の罪をすべて取り除かれました。十字架上で亡くなり、それから死から復活なさいました。

そして、ご自分を信じる者すべてに新たに生まれる恵みをお与えになります。イエスは、信じる者すべてを新たに生まれさせてくださる救い主です。天と地とその間のすべてをお創りになったイエスと常にともにありますように。

ヨハネの福音書第 3 章 16 節には、「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と記されています。私たちはイエスを信じることによって永遠のいのちを得ました。水と御霊を信じることによって新たに生まれました。救済の福音、すなわちイエスのバプテスマと血、それにイエスは救い主で神であるということを信じるならば救われるというのは真理です。

しかし、この真理を信じなければ、永遠に地獄に落とされます。イエスがニコデモに「あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう」とおっしゃったのは、このことを指しているのです。

では、神は人類のために何をなさったでしょう? イエスによる救済によって人類すべてが新たに生まれることが可能になりました。イエスは人類を世の中、悪魔、世の罪から救ってくださいました。世の罪人を罪の裁きから救うために、イエスはバプテスマによって人類の罪をすべて取り除き、十字架につけられ、死から復活なさいました。

この救済を信じるかどうかはその人次第です。新たに生まれる救いは、イエスのバプテスマと血による救済に対する信仰によって得られます。

神が人類にお与えになった恵みは二つあるとされています。一つは、太陽や空気を含む自然すべてを含む普遍的な恵みです。これは、罪人であると義人とであるとに関わらずすべての人に与えられているために普遍的な恵みとされています。

では、特別な恵みとは何でしょう? それは、すべての罪人をその罪のための死から救う、水と御霊によって新たに生まれる恵みです。



特別な恵み

神の特別な恵みとは?
バプテスマと磔刑、復活によって、
新たに生まれることを可能にした。

ヨハネの福音書第 3 章 16 節には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と記されています。イエスは人間の肉の形でこの世においでになり、バプテスマによって人類の罪をすべて取り除かれ、人類に代わって十字架につけられました。人類がすべての罪から救われたというこの真理が神からの特別な恵みです。

イエスが人類を救い、罪人を義人に変えられたのは、事実です。人は、ただこの真理を信じるだけで神からの特別な恵みを受けられます。みなさんはこれを信じますか?

生涯どんなに敬虔に生きようと、神のこの特別な恵みを拒むなら、信仰はすべて無益です。

私はいつも教えを説いていますが、イエスのバプテスマと十字架とを信じることが新たに生まれる唯一の道であることを必ず話します。聖書のどの書でも、イエスによって新たに生まれる恵みがここでいう「神の特別な恵み」であることがあかされています。イエスのバプテスマと磔刑による罪人の救済以上に神の恵みを雄弁に語るものはありません。

イエスのバプテスマと磔刑が神の特別な恵みです。世の中の偽りの聖職者はこれについては何も話しません。こうした偽りの聖職者は光の天使の衣をまとい、キリスト教倫理と道徳とを携えて現れます。ええ、そうなのです。彼らの演じて見せる奇跡、病者の癒しは、神の特別な恵みと関係がないのなら、みな邪悪なことです。

罪人に救済の福音をもたらしたのは、神のこの特別な恵みです。特別の恵みによって神は、人類が新たに生まれることができるようになさいました。主はバプテスマと血と死とよみがえりとによって、私たちを新たになさったのです。主は私たちを神の子ども、罪のない者となさいました。

これを信じますか? ─ はい。─ みなさんは、ほんとうに恵まれましたか? ─ はい。─ イエスのバプテスマと血、死、よみがえりが、神が水と御霊によってお与えになった特別な恵みなのです。これが特別な恵みの福音です。特別な恵みによってお救いくださった主をたたえます。

残念なことに、現在は神の特別な恵みであるバプテスマと血の福音、つまり、水と御霊によって新たに生まれることを知らずにいる敬虔なキリスト教徒が実に多いのです。その人々は、自分たちの神学論や宗教的道徳に従って闇雲に道を見出そうとします。無知なことです。

キリスト教がこの世界に生まれて長い時がたち、宗教改革から五百年が過ぎようとしていますが、新たに生まれる真理と神の特別な恵みとについて何も知らない人々が韓国にも世界の他の国々にも大勢います。

しかし、今は世の終わりの近づいた時代なのですから、神はその人々にも真理をお知らせになるでしょう。

罪人が義となって天の国に入るためには、新たに生まれて水と御霊の真理を受け入れなければなりません。多くのキリスト教徒が新たに生まれようと努力しています。

しかし、新たに生まれることの真の意味を知らずに努めるなら、その信仰は無益です。その人たちは、天の国に入るには新たに生まれなければならないと言いますが、新たに生まれることについてほんとうのところは何も知りません。

ただ、自分たちはとても敬虔に信仰し、心に情熱があるのだから、新たに生まれることができるだろうと考えます。しかし、個人的な感覚や熱心な宗教活動によって新たに生まれようとしても、誤った信仰につながるだけなのです。



真に新たに生まれることにつながるみことば

信仰と宗教との違いは?
信仰とは、イエスが人類のためになさった
ことを信じること。宗教とは、自分の
考えや行いに頼ること。

ヨハネの手紙第一の第 5 章 4-8 節には、水と血と御霊を信じることによってのみ人は新たに生まれることができるとはっきり記されています。新たに生まれたいのなら、記されたみことば、真理のみことばによってのみ人は新たに生まれることができるのだということを心しておきましょう。幻視や異言を話すこと、感覚的な体験は絶対に新たに生まれることにつながりません。

ヨハネの福音書第 3 章でイエスは、人は、水と御霊によって生まれなければ天の国に入ることができないとおっしゃっています。人が新たに生まれるためには、普通、イエスを二度信じなければなりません。まず、人は神の律法によって自身の罪を知って宗教的な意味でイエスを信じます。人が最初にイエスを信じるのは、神の律法によって自分がいかに深刻な罪人であるかに気づいた時です。

この世に数多くある宗教のようなしかたでイエスを信じてはいけません。キリスト教は、宗教ではありません。これは、信じることによって永遠のいのちを得る唯一の道なのです。

宗教としてイエスを信じる人は何も得られずに終わります。その人は心に罪と混沌と空しさをもつだけです。そうではありませんか? 聖書のパリサイ人のような偽善者にはなりたくないでしょう。

新たに生まれたキリスト教徒になりたいとは誰もが思います。しかし、キリスト教を宗教として信じるなら、その人は心に罪の満ちた偽善者になってしまいます。人は新たに生まれることの真理を知らなければなりません。

新たに生まれることなくキリスト教を宗教として信じる人はみな、混乱し、空しい気持ちになることでしょう。イエスを信じながら新たに生まれないのなら、その人の信仰は誤っています。そのために、結局は、他人の前では聖く見られようと努めながらみじめに失敗する偽者になってしまいます。

キリスト教を宗教として信じるかぎり、人はいつでも罪人、偽善者であり、罪を嘆きながら生涯を終えることになります。罪から解放されるためには、記された真理、水と血と御霊の福音を信じるのです。



イエスのバプテスマによる贖いの秘密を知る

人が新たに生まれることを
可能にするものは、何か?
イエスのバプテスマと十字架上の
死、よみがえり

聖書では、神の不変のみことばによって誰もが新たに生まれることができるとしています。ペテロの手紙第一第 3 章 21 節にある使徒ペテロの言葉を読みましょう。「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。」

聖書には、イエスのバプテスマが人類を救う型であると記されています。イエスを信じる者はみな、自分自身のではなく、イエスのバプテスマを知らなければなりません。イエスのバプテスマが罪人に新たないのちを与えるのです。信じれば、新たに生まれて救済の恵みにあずかれます。

イエスのバプテスマによって救済が得られるということを理解して人は救われ、義となって永遠のいのちを得るのです。つまり、みことばによる救済の真実を信じたとき、罪は永遠に清められるのです。

新たに生まれることは再び誕生することです。たいていの人は宗教としてイエスを信じ始めるのですが、それから真理を知って、信仰によって新たに生まれます。イエスという名は、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」(マタイ 1:21) という意味です。

イエスを信じ、イエスがすべての人類のために何をしてくださったのかを知ったときに人は自らの罪から解放され、ま新しい民として新たに生まれるのです。最初は宗教としてイエスを信じ、それからイエスのバプテスマと血の福音を聞いて信じて、人は新たに生まれます。

人が新たに生まれるための真理とは、何でしょう? 第一にイエスのバプテスマ、次に十字架上で流された血、そして最後によみがえりです。新たに生まれるとは、イエスを神、救い主であると信じることです。旧約聖書の人々がどのように新たに生まれたかを見ましょう。



旧約聖書における罪の贖い: 手を置くことと、血のささげ物

新たに生まれることに関する福音は、旧約ではどれでしょう? まず、レビ記の第 1 章で新たに生まれることについてどう述べているかを見ましょう。

レビ記第 1 章 1-5 節には次のように記されています。「主は、モーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。『イスラエル人に告げて言え。もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、主に受け入れられるために会見の天幕の入り口の所に連れて来なければならない。その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。その人は主の前で、その若い牛をほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。』」

レビ記では、イスラエル人がいけにえの制度によって神と結ばれる方法を神が告げておられます。この事実をよく理解しなければいけません。ですから、この部分を詳しくみてみましょう。

神はモーセをお召しになって、会見の幕屋の中からお話しになりました。それは、イスラエル人の罪の贖いについてでした。イスラエルの人々が神の律法への不服従の罪を犯したとき、傷のない家畜を神にささげることによって罪を贖うことができました。

こうした犠牲に用いる動物は神が特に指定なさいましたが、傷のないものでなければなりませんでした。また、それらを神が定められた儀式にしたがってささげる必要がありました。犠牲の方法は次のとおりです。

旧約の時代に罪を犯した人は、罪の赦しのために神の前にいけにえをささげなければなりませんでした。第一に、いけにえは傷がないものを選ぶこと、第二に、罪人は両手をその上に置いて罪をその動物の頭に移すこと。

動物を殺した後、その血を祭壇の角に振りかけ、残りは地面に注がれました。これが神が贖いの恵みとして定められた聖なる幕屋での儀式でした。

神の律法と戒めは 613 条からなり、人々が「するべきこと」、「してはならないこと」を定めています。神は律法と戒めをイスラエル人にお与えになりました。人々は神の律法と戒めとが良いものであることは知っていましたが、誰もが十二種の罪をアダムから受け継いで生まれていたため、それに従って生きることができませんでした。

人々には神の前で正しい行ないをする能力がなかったのです。イスラエル人には義となる力がありませんでした。罪を犯すまいと必死に努力しても、罪を犯し続けることを免れません。人類はみな、罪人として生まれて死ぬ定めにあるのです。

しかし、神は無限のあわれみによって、民が罪を贖うためのいけにえの制度をお与えになりました。神は聖なる幕屋での儀式をお定めになって、イスラエル人と世のすべての人々が罪を贖えるようになさいました。いけにえの制度によって神は、すべての人類に対する義である愛をお示しになったのです。神は世界中に救済への道を示されました。

神はいけにえの制度をお与えになり、レビ族をいけにえを司るべき者とお定めになりました。イスラエルの十二部族のうち、レビ族だけがイスラエル人のいけにえを司るよう任じられたのです。

モーセとアロンはレビ族でした。聖書には、いけにえと聖なる幕屋に関わる律法と規定、手を置くことによる贖罪の福音が記録されています。

ですから、レビ族のいけにえ儀式を真に理解すれば、人は新たに生まれることができるのです。現代の人間が聖なる幕屋でのいけにえに関するみことばを学ばなければいけないのはこのためです。これは旧約の中で最も重要な部分です。最後に、新約を見ると、こちらには水と御霊の恵みによって新たに生まれる恵みがあります。



旧約における罪の贖い

神の属性とは?
正義と愛

神はレビ族であるモーセを聖なる会見の幕屋にお召しになり、その弟アロンを大祭司に任じられました。アロンは罪の贖いのささげ物の上に手を置いて人々の罪をその上に移しました。

レビ記第 1 章 2 節に神がモーセに仰せになった言葉が次のように記されています。「イスラエル人に告げて言え。『もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない』」神はここで犠牲のささげ物を指定しておいでです。贖いを求める人は誰であれ、自分の家畜の中から雄牛または羊をささげなければなりませんでした。

神はまた、「もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、主に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない」(レビ記 1:3) とも仰せになりました。

神は、罪のゆえに死ぬはずの人の代わりとしていけにえを受け入れられました。イスラエル人は動物の頭の上に手を置くことで自分たちの罪を移すことができました。いけにえの動物はその人の自由意志によってささげられなければなりませんでした。さて、では第 4 節を読みましょう。

「その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。」こうしてささげ物は神に受け入れられました。罪人が全焼のいけにえの頭の上に手を置くと、その人の罪が動物の頭に移されました。ですから、神に受け入れていただいて罪の贖いをするためには、罪人はその手をささげ物の頭に置く必要がありました。

それから動物を殺し、その血を祭壇の角につけ、残りは祭壇の前の地面に注がれました。罪の贖いをし、罪なき者となるために、人は神の定められた律法に従っていけにえをささげなければなりませんでした。

レビ記第 1 章 5 節には、こうあります。「その人は、主の前で、その若い牛をほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。」幕屋の中、入口のところには、四隅に角のついた、全焼のささげ物のための祭壇がありました。

罪を移すために全焼のいけにえの頭に両手を置いた後、罪人はいけにえの動物を殺し、祭司はその血を角の上に振りかけました。祭壇の角は罪の裁きを象徴します。ですから、角に血をつけることは、罪の報いを支払うために動物が罪人に代わって血を流したことを意味しています。神は祭壇の角についた血をごらんになって罪人の罪をお赦しになりました。

贖いのささげ物はなぜ血を流さなければならなかったのでしょう?「罪から来る報酬は死」(ローマ 6:23) であり、また肉のいのちは血の中にあるからです。ですから、ヘブル人への手紙には、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」(ヘブル 9:22) と記されています。すなわち、ささげ物の血を流すことによって、罪の報いは死と定められた神の律法を満たしたのです。

本来ならささげる血は罪人のものでなければならないのですが、ささげ物が身代わりとなって贖いのために血を流したのです。次に祭司が血を祭壇の角につけたのは、罪の報いが支払われたことを表しています。

新約のヨハネの黙示録第 20 章 11-15 章によると、角はいのちの書を象徴しています。ですから、角に血をつけることは、いのちの書に血をつけるということなのです。これは、手を置くこととささげ物の血とによって罪の裁きが全うされたことを証するためです。



罪は二つの場所に記録された

人類が神の前で犯した罪のすべては二つの場所に記録されます。一つは人々の心の板に、そしてもう一つは神の前に開かれているいのちの書です。

これは、エレミヤ書第 17 章 1 節に記されています。「ユダの罪は鉄の筆と金剛石のとがりでしるされ、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。」

レビ記第 17 章 11 節には、「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである」とあります。血は肉のいのちであり、罪は血によってのみ贖うことができるのです。そのために祭壇の角に血がつけられました。律法によると、ほとんどすべてのものは血によって清められ、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです (ヘブル 9:22)。

「また、その全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさい。祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを整えなさい。祭司であるアロンの子らは、その切り分けた部分と、頭と、脂肪とを祭壇の上にある火の上のたきぎの上に整えなさい。内臓と足は、その人が水で洗わなければならない。祭司はこれら全部を祭壇の上で全焼のいけにえとして焼いて煙にする。これは、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。」(レビ 1:6-9)

次に祭司は全焼のささげ物を切り分け、祭壇の火の上に置きました。この儀式は、人々が神の前に罪を犯したとき、そのように死んで血を流し、地獄の炎に投げ込まれることを意味しています。しかし裁きは罪のためのささげ物によって行なわれ、人々は罪を贖うことができました。

全焼のささげ物のいけにえは神の義である律法の裁きの儀式でした。神はご自分の律法と義の律法、それに愛の律法とをすべての人類の贖いの儀式の形式の中に組み込まれたのです。

神は義ですから、罪人を裁いて死に定めなければなりませんでした。しかし、ご自分の民を愛されたので、その罪を罪のためのささげ物の上に移すことをお許しになったのです。新約では、主は人類を深く愛されたためにバプテスマを受けて十字架につけられ、罪人の身代わりのささげ物となられました。イエスのバプテスマと十字架上の死とによって世の罪はすべて消されました。



旧約聖書における一日の罪の贖い

旧約の傷のない罪のためのささげ
物が象徴するのは誰か?
イエス・キリスト

レビ記第 4 章 27 節から読みましょう。「また、もし一般の人々のひとりが、主がするなと命じたことの一つでも行なって、あやまって罪を犯し、罪に定められた場合、または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら、彼は犯した罪のために、そのささげ物として、傷のない雌やぎを連れて来て、その罪のためのいけにえの頭の上に手を置き、全焼のいけにえのための場所で罪のためのいけにえをほふりなさい。祭司は指で、その血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りなさい。その血は全部、祭壇の土台に注がなければならない。また、脂肪が和解のいけにえから取り除かれる場合と同様に、その脂肪全部を取り除かなければならない。祭司は主へのなだめのかおりとして、それを祭壇の上で焼いて煙にしなさい。祭司は、その人のために贖いをしなさい。その人は赦される。」(レビ 4:27-31)

アダムの子孫であるイスラエル人と世界中の人々は、罪に満ちたこの世に生まれました。ですから、人間の心には罪が満ちています。人間の心にはあらゆる種類の罪があります── よこしま、不倫、姦淫、殺人、盗み、貪り、愚かさ。

罪人がその日の罪を贖うときは、傷のない動物を聖なる幕屋に連れて来なければなりません。それから罪を移すために動物の頭に両手を置いた後、いけにえの動物を殺し、神の前にささげるためにその血を祭司に渡します。祭司は罪人の罪が赦されるよう、いけにえの儀式の残りの部分を行ないます。

神の律法と戒めがなければ、人々は自分たちに罪があるかどうかを知らなかったでしょう。神の律法と戒めに照らして自らを見るとき、人は自分の罪を知るのです。人間の罪は人間の基準によってではなく、神の律法と戒めとによって裁かれます。

イスラエルの一般の人々は、わざとではなく、心にあらゆる種類の罪をもって生まれたために罪を犯しました 人間が弱さのために犯す罪は、違反と呼ばれます。罪には人間のあらゆる違反と不正とが含まれます。

人間はみな、不完全な存在です。イスラエルの民もまた不完全であったので、罪人であり、罪を犯しました。人間の違反と不正はすべて次のように分類できます。心によこしまな考えがあるとき、それは罪と呼ばれますが、それを実行すれば、不法です。世の罪には両方とも含まれます。

旧約では、罪はいけにえの頭の上に手を置くことによって動物の頭に移されました。そうすると、罪人は罪がなくなり、罪のために死なずにすんだのです。ですから、いけにえの制度は神の正しい裁きと愛とを反映していました。

神は人間を土からお創りになったので、人間はそもそも塵に過ぎません。祭壇の角に血をつけ、残りを祭壇の土台に注ぐのは、イスラエル人が罪の報いを支払い、心の板からすべての罪を削除したことを意味します。

「祭司は主へのなだめのかおりとして脂肪を祭壇の上で焼かなければならない。」聖書では、脂肪は聖霊を意味します。罪の贖いは、神のお定めになった方法で行なわなければなりません。また、神が適切となさるように罪の贖いを考えるべきです。

神はイスラエル人に、いけにえには子羊、山羊、または子牛を使うよう仰せになりました。旧約聖書のいけにえは選ばれたものでした。子牛は清らかな動物です。いけにえは傷のないものでなければならないというのは、聖霊によって孕まれて人類すべてのためにいけにえとなられたイエス・キリストを啓示しています。

旧約の時代の人々は、傷のないいけにえの動物の頭に両手を置いて罪を移しました。祭司は、人々の罪を贖ういけにえの儀式を執り行いました。イスラエル人はこのようにして贖罪を行ないました。



贖いの日の儀式

なぜイスラエルの人々は贖いの日に
いけにえをささげなければ
ならなかったのか?
彼らは死ぬまで罪を犯し続けたから。
毎日のささげ物によっては神の前に
聖くなることができなかった。

しかし、罪を犯すたびにいけにえをささげなければならなかったため、罪を贖うために必要ないけにえをすべて提供することは不可能でした。そこで、人々は徐々にいいかげんになりました。毎日罪を贖うのは永久に続く作業のように思われて、人々は、この儀式をやめてもいいのではないかと感じるようになりました。

どんなに努力しても、人間の犯す罪のすべてのためにいけにえをささげることはできません。そこで、罪の真の贖いは神の救済の律法への心からの信仰によって与えられることになります。

人間はその弱さのために、神の律法に従って生きようとどんなに努力しても、ますます自らの不完全さと弱さを自覚するばかりなのです。ですから神は、イスラエルの人々に、一年分の罪を一度で贖う方法をお与えになりました。(レビ記 16:17-22)

レビ記には、次のように記されています。「第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。なぜなら、この日に、あなたがたをきよめるために、あなたがたの贖いがなされるからである。あなたがたは、主の前でそのすべての罪からきよめられるのである。これがあなたがたの全き休みの安息であり、あなたがたは身を戒める。これは永遠のおきてである。」(レビ記 16:29-31)

こうして大祭司が第七の月の十日に人々が一年に犯した罪すべての贖いのいけにえをささげ、イスラエル人は年に一度、心の平安を得ました。罪が洗い流されて、その日、人々の心は安らかになりました。

第七の月の十日に大祭司アロンがイスラエル人すべての代表として贖いのいけにえをささげました。このとき、他の祭司は聖なる幕屋に入れませんでした。自分と家族もまた罪を犯したので、まず最初に、アロンは自分と家族のために贖いのいけにえをささげ、その後で他のイスラエル人のためのいけにえをささげなければなりませんでした。

アロンは人々のためのいけにえを次のように行ないました。「二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。」(レビ記 16:7-10)

自分と家族のための贖いの儀式を行なった後で、アロンは二頭の山羊のためにくじを引きました。一つは主のため、もう一つはいけにえの山羊、「アザゼル」のためでした。

まず二頭のうち一頭は主にささげられました。このとき大祭司は両手をやぎの上に置き、人々に代わって一年間に犯した罪を山羊に移しました。

血は至聖所の中の『贖いのふた』のところに持っていき、七回振りかけます。イスラエル人は過去一年の罪をすべて赦されました。イスラエル人が罪のために死ぬ代わりに、大祭司アロンは罪を罪のいけにえの頭に移し、すべての人に代わって裁かれるようにしたのです。それからもう一頭の生きた山羊を神の前にいけにえとしてささげました。それが人々のためのいけにえでした。



人々のために

人々の前で、アロンは両手をもう一頭の山羊の頭の上に置き、神の前に告白しました。「主よ、イスラエル人は殺人、姦淫、盗み、貪り、欺き等の罪を犯し、偶像を拝みました。安息日を守らず、御名を徒に唱え、律法と戒めのすべてを破りました。」それから、両手を山羊から離しました。これによって、人々の一年分の罪がすべて罪のためのいけにえの上に移されました。

レビ記第 16 章 21 節を読みましょう。「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。」いけにえの山羊は荒野をさまよい、イスラエル人の罪をその頭にもったまま死にます。いけにえ、ヘブライ語の「Azazel」とは、「出す」という意味です。これは、罪のためのいけにえがイスラエルの民すべてに代わって追放されたということを示します。

アロンが手を置くことによって、イスラエル人の罪はいけにえの山羊の上に移されました。こうしてイスラエル人はすべての罪を赦されたのです。大祭司が手を山羊の頭に置き、山羊が荒野に連れて行かれて放たれるのを見て、イスラエル人はみな、贖いの儀式が自分たちの罪の贖いであることを信じました。旧約の儀式はすべて新約の「新たに生まれる福音」の影のようなものです。

旧約では、いけにえの頭の上に手を置くことといけにえの血とが罪からの救済の福音でした。新約でも基本的にはそれが継承されています。



新約における贖いの福音

新約では、人々のすべての罪はどのようにして消されるのでしょう?

マタイの福音書第 1 章 21-25 節には、次のように記されています。「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」

主イエスは、人類すべてを罪から救うためにインマヌエルという名でこの世においでになりました。そうしてイエスと名づけられたのです。イエスは人類の罪をすべて取り除くためにおいでになりました。人類の救い主になるために、イエスは人間の肉の形でおいでになりました。イエスは救済を全うして人類を永遠に罪から救われました。



新たに生まれる福音

イエスはどのようにして人類をすべての罪からお救いになったのでしょう? バプテスマによってです。マタイの福音書第 3 章 13 節を読みましょう。

「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」 そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」(マタイ 3:13-17)

新約聖書では、イエスは三十歳になられたとき、ヨルダン川にバプテスマのヨハネを訪ねたとしています。イエスはヨハネからバプテスマを受け、人類の罪をすべて取り除かれました。そうなさることで、神の義を全うされたのです。



イエスがヨルダン川でバプテスマを受けた理由

福音によって何があかされて
いますか?
神の義が。

天の大祭司が人類最後の大祭司に会った場面を検討しましょう。世の罪のすべての贖いをしたバプテスマには神の義が示されています。

イエスにバプテスマを授けたバプテスマのヨハネは、女から生まれた者の中で最も偉大な者でした。マタイの福音書第 11 章 11 節でイエスは、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」と証しなさいました。贖いの日に大祭司アロンが罪のいけにえの頭に両手を置いたときにすべての人の罪が消えたように、新約では、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったときに世の罪はすべて消えました。

新たに生まれる福音は、すべての罪の完全な贖いの福音です。ですから、イエスのバプテスマによる贖いの福音は、ご自身の義を全うするために神が定められ、世のすべての人を救った福音なのです。イエスは世の罪を贖うために最もふさわしい形でバプテスマをお受けになりました。

「すべての正しいこと」とは、どういう意味でしょうか。これは、神が世の罪のすべてを最も適切な方法で洗い流されるという意味です。イエスは人類の罪をすべて洗い流すためにバプテスマをお受けになりました。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」(ローマ 1:17)

御子イエスをこの世に遣わされ、バプテスマのヨハネからのバプテスマと十字架上の死とによってすべての罪を洗い流そうとする決定に、神の義は示されています。

新約では、神の義はイエスのバプテスマと血とによって示されています。イエスがヨルダン川のほとりで二千年ほど前に人類の罪のすべてを取り除かれたために、人間は義となりました。人が神の救済を心に受け入れたとき、神の義は真に全うされます。

「ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』 そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」(マタイ 3:15-17)

この部分では、御子のバプテスマが救済の義のすべてを全うされたことを神ご自身があかししておられることを示しています。神は、「バプテスマのヨハネからバプテスマを受けたイエスは、真にわたしの息子だ」とおっしゃっているのです。神は、御子が人類すべての贖いのためにバプテスマをお受けになったことをあかしなさいました。御子イエスの聖なるみわざが無駄にならないようにと、神はそうなさったのです。

イエスは神の御子であり、世の罪人の救い主でもあります。「わたしはこれを喜ぶ」と神はおっしゃいました。イエスが父なる神のみこころに従ってバプテスマによって世界の罪をすべて被られたのは真理です。

バプテスマとは、「洗われる、渡す、埋められる」という意味です。イエスがバプテスマをお受けになったときに人類の罪がすべてイエスの上に移されたので、世の罪のすべてから救われるためには、人間はただ福音を信じさえすればよいのです。

旧約に記された救済の預言は、新約でイエスのバプテスマによってすべて成就されました。ですから、旧約の預言は新約についにその成就を見たのです。旧約でイスラエル人が年に一度罪を贖ったように、新約で人類の罪はイエスの上に移されて永遠に消えました。

レビ記第 16 章 29 節はマタイの福音書第 3 章 15 節に対応しています。イエスは世の罪をすべてその身に被るためにバプテスマをお受けになりました。そのおかげで、イエスによる永遠の罪の赦しを信じる者は救われました。その人たちの罪はみな心の板から消されたのです。

イエスのバプテスマと十字架上の死の真理を心で信じないのなら、どんなに敬虔な生活をしようと、罪をきよめられることはありません。イエスのバプテスマによってのみ、神のみことばは全うされ、罪が消されるのです。真の救済は人類の罪すべての贖い、すなわちイエスのバプテスマによって成就されました。

では、どうしますか? この救済を心に受け入れますか? それとも受け入れませんか? これは人間の言葉ではなく、神ご自身の言葉です。イエスが十字架上で死なれたのは、バプテスマによって人類の罪をすべてその身に被られたからです。イエスの磔刑はバプテスマの結果であるとは思いませんか?

 ローマ人への手紙第 8 章 3-4 節には、「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」と記されています。

人間は肉の弱さのために神の律法と戒めを守ることができません。そこで、イエスが肉の罪のすべてをご自分で被って取り除いてくださったのです。これがイエスのバプテスマの真理です。イエスのバプテスマによって十字架上の死が定められました。これが神の本来の福音に示された知恵なのです。

イエスの十字架上の死だけを信じていたのなら、考えを改め、イエスのバプテスマによる救済の福音を心に受け入れなさい。そうしてはじめて、神の子どもとなれるのです。



本来の福音

本来の福音とは?
水と御霊の福音です。

本来の福音は罪の贖いの福音です。これは神が啓示なさったイエスのバプテスマと死、復活の福音です。イエス・キリストはヨルダン川でのバプテスマで一度で罪をすべて除かれ、これによってこの真理を信じる者すべてに救済をもたらされました。信じる者は未来に犯す罪のすべてもまた洗い流されました。

イエスのバプテスマと十字架上の血とを信じる者は誰でも世の罪から永遠に救われているのです。これを信じていますか? 「はい、信じます」と答えるなら、その人は義となります。

イエスがバプテスマをお受けになった後で起こったことをまとめてみましょう。ヨハネの福音書第 1 章 29 節には、次のようにあります。「見よ、 世の罪を取り除く神の子羊。」

バプテスマのヨハネは、イエスが世の罪を取り除いた神の子羊であるとあかししました。バプテスマのヨハネはヨルダン川でイエスにバプテスマを授けたときイエスの上に世の罪をすべて移しました。バプテスマのヨハネは自らイエスにバプテスマを授けたために、「見よ、 世の罪を取り除く神の子羊」とあかしすることができたのです。イエスはバプテスマをお受けになって世の罪をすべて取り除かれました。これが新たに生まれる福音です。



「見よ、 世の罪を取り除く神の子羊。」 (ヨハネ1:29) イエスはバプテスマによって世の罪をすべて被られました。

人が生まれた時から十歳の誕生日までに犯した罪も世の罪に含まれます。そうした罪がイエスの上に移されたと信じますか? - はい。- 十一歳から二十歳までの違反はどうですか? それらの罪もまたイエスの上に移されたと信じますか? - はい。-  

人が将来犯す罪もまた世の罪に含まれていますか? - はい、それもまた含まれています。- では、それらはイエスの上に移されましたか? - はい、移されました。- 自分の罪はみなイエスの上に移されたと、ほんとうに信じますか? - はい。- 世の罪がすべて、バプテスマによってイエスの上に移されたと信じますか? - はい。-

世の罪から救われたいですか? それなら、イエスのバプテスマと十字架上の血との福音を信じなさい。ひとたび信じれば、救われます。これを信じますか? これが新たに生まれることによる真の救済です。イエスのバプテスマと血とが本来の新たに生まれる福音なのです。これは世のすべての罪人への神の恵みです。

 イエスのバプテスマと十字架上の血によって新たに生まれる救済を信じること、イエスの愛を仰ぐことが真の信仰をもつということであり、真に新たに生まれることなのです。新たに生まれるしるしは、水とイエスの血です。聖書に記されている真理のみことばを信じさえすればよいのです。



宗教と信仰

新たに生まれた者の心には、
どのようなあかしがあるか?
イエスがバプテスマと血とによって
すべての罪を拭い去られたという
あかしがある。

宗教とは、純粋な神のみことばを退け、イエスを自分なりの考えに則って信じることです。しかし、罪からの救済は人間の考えによるものとは別物です。信仰とは、自分なりの考えを捨て、旧約と新約の言葉のすべてを信じることです。それは、聖書に記されているままに理解し、水と御霊による救済、すなわちイエスのバプテスマと十字架上の死を受け入れることです。本来の福音に示されている知恵を心に受け入れることで人は救われます。

イエスのバプテスマがなければ人類の罪は移されることがなく、血が流されることがなければ罪の赦しもありません。人類の罪はすべてイエスが十字架につけられる前に移されたのであり、その後でイエスは人類のために血を流されたのです。イエスのバプテスマと十字架上の血とを信じ、福音によって新たに生まれた時に、人は世の罪から解放されるのです。

真の信仰とは、イエス・キリストがバプテスマをお受けになったときに人類の罪をすべて洗い流してくださったと信じることです。それはまた、イエスが人類に代わって十字架上ですべての罪の裁きを受けられたと信じることです。神の義である救済を信じましょう。神は人類を深く愛されたので、イエスのバプテスマと十字架上の血とによって救ってくださいました。この福音を信じるとき、人はすべての罪から救われ、裁きを受けることがなくなり、神の前に義となるのです。

「主よ、信じます。私は救済には値しませんが、イエスのバプテスマ、磔刑、復活の福音を信じます。」 新たに生まれる福音の恵みにはただ感謝するばかりです。本来の新たに生まれる福音を信じるのが真の信仰です。

新たに生まれることの真理とは、次のようなものです。「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ 10:17) 「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ 8:32) 真理を正確に知り、真理をあかししている水と血と御霊を信じましょう (ヨハネI 5:5-8)。

「真理はあなたがたを自由にします。」 以上は水と血に関するイエスのみことばです。みなさんは自由になりましたか? 私たちは宗教者ですか、それとも信仰者ですか? 水と聖霊によって新たに生まれる福音を信じる者だけをイエスはお望みです。

イエスのバプテスマと血との福音を信じるならば、その人の心に罪はありません。しかし、宗教としてイエスを信じているのなら、イエスの救済を完全に信じてはいないのですから、その人の心にはまだ罪があります。宗教的な人々は、悔い改めの祈りをしては罪の赦しを得ようとします。

ですから、その人たちは完全に罪から救われることがありません。生涯悔い改め続けたとしても、イエスのバプテスマと十字架上の死による完全な罪の赦しにはとうてい及ばないのです。将来のものまで含めて世の罪のすべてを洗い流したイエスの福音を信じて救われましょう。

再度申しますが、毎日悔い改めても、それは新たに生まれる福音の代わりにはなりません。キリスト教徒はみな、新たに生まれる福音によって罪の赦しを受けるべきなのです。

人間は絶対に罪を完全に悔い改めることができません。偽りの悔い改めは神には届かない気休めでしかありません。偽りの悔い改めは、神が絶対に考慮にお入れにならない一方的な告白です。神はそのようなものを期待しておられません。

真の悔い改めとは、何でしょう? それは、神のもとに戻ることです。イエスの救済のみことばに戻り、記されているとおりに信じることです。人類を救うのは、イエスのバプテスマと磔刑、復活の福音です。この福音を完全に信じるとき人は救われ、永遠のいのちを得るのです。

これが新たに生まれる福音の知恵です。イエスのバプテスマと血と神の国の福音を信じることが新たに生まれることを可能にするのです。

人は水と御霊によって新しく生まれなければならないとイエスがおっしゃったのは、イエスのバプテスマと十字架上の血とを信じて新たに生まれなければならないという意味だったのです。そうすれば、人は神の国に入り住むことができます。みことばを信じましょう。イエスのバプテスマと十字架上の血の二つが罪の赦しをあかしし、人が新たに生まれることを可能にするのです。

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新たに生まれる

新たに生まれる福音と罪の赦しを信じますか? イエスのバプテスマと十字架上の血への信仰が人間を世の罪のすべてから救います。信仰によって人は新たに生まれることができます。聖書には、イエスが世のすべての罪人の罪を洗い流したと記されているのです。これを信じて新たに生まれましょう。

イエスのバプテスマと磔刑という、新たに生まれることをあかしする二つのことを信じる人々は真に新たに生まれます。神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中にもっています (ヨハネI 5:3-10)。イエスを信じるのなら、水と血と聖霊の福音を除外してはなりません。

ナアマン将軍がらい病を完全に癒されるためにヨルダン川で七回身を洗った (列王記II 第 5 章) ように、イエスはヨルダン川で罪を一度に永遠に洗い流され、その結果人類に永遠の救済をお与えになったのです。

イエスが人類を愛されたので、罪の赦しの福音を信じることによって人は世の罪のすべてから救われ、永遠のいのちを得るのです。新たに生まれる福音を信じ、神の救済を受けましょう。

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