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< ヨハネの福音書 13:1-17 > 「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」 イエスはなぜ過越の祭りの前日にペテロの足を洗われたのでしょう? ペテロの足を洗われる直前に、イエスはおっしゃいました。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」 ペテロはイエスの一番の弟子でした。彼はイエスが神の御子であると信じ、イエスはキリストであるとあかししました。イエスが彼の足を洗われたのですから、そうなさるには、それだけの理由があったはずです。イエスがキリストであるとの信仰をペテロが告白したのは、イエスが自分をすべての罪から救う救い主であると信じているという意味でした。 なぜイエスはペテロの足を洗われたのでしょう? イエスは、ペテロがじきに自分を三度否定すること、また将来も罪を犯し続けることをご存じでした。 イエスが天国に昇られた後にペテロの心に罪がいくらかでも残っていては、イエスと結ばれることがなかったでしょう。しかし、イエスは弟子たちの弱さをすべてご存じで、ご自分と弟子たちの間を罪が隔てることを望まれませんでした。そこで、彼らの不正がすべて洗い流されているということをお教えになることが必要でした。
イエスが弟子たちの足を洗われたのは、このためです。イエスは死んで彼らから離れられる前に、弟子たちがバプテスマの福音と生涯の罪の完全な赦しとの上に堅く立つようにしようと思われたのです。 ヨハネの福音書第 13 章は、イエスが弟子たちのために完了された完全な救済について語っています。弟子たちの足を洗いながら、イエスは彼らに、すべての人がその罪を洗われることのできるバプテスマの福音の知恵について話されました。 「将来、悪魔に欺かれてはいけません。わたしはヨルダン川でのバプテスマによってあなたたちの罪をすべて取り除きました。そして、十字架上でその罪の裁きを受けます。それから、死者の中からよみがえり、新たに生まれる救済をあなたたちのために全うします。わたしがすでにあなたたちの未来の罪までも洗い流したことを教えるために、本来の罪の赦しの福音を教えるために、十字架につけられる前にこうしてあなたたちの足を洗っているのです。これが、新たに生まれる福音の奥義です。みな、そのように信じなさい。」 イエスが弟子たちの足を洗われた理由を理解し、また、なぜ「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」とおっしゃったのかを知らなければなりません。そうしてはじめて、新たに生まれる福音を信じて新たに生まれることができるのです。 ヨハネの福音書第 13 章 12 節で告げていること
十字架上で死なれる前、イエスは弟子たちと過越の祭りをなさり、彼らの足を洗われることによって罪の赦しの福音についてお教えになりました。 「イエスは、父が万物を自分の手に渡されてたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」」(ヨハネ 13:3-7) イエスは弟子たちに、バプテスマの水によるバプテスマと罪の贖いの福音をお教えになりました。 そのとき、イエスに忠実なペテロは、主イエスが自分の足を洗われる理由が理解できませんでした。イエスが自分のために何をしてくださったのかを真に理解した後、ペテロのイエスへの信仰は変わりました。イエスは彼に罪の赦し、バプテスマの水の福音について教えようとなさったのです。 イエスはペテロが将来犯す罪、つまり、将来に犯す肉の罪のためにご自分のもとに来ることができないのではないかと心配なさいました。ペテロの足を洗われたのは、悪魔が弟子の信仰を奪うことができないようになさるためでした。後にペテロはこれを理解します。 イエスは、バプテスマの水と血とを信じる者が誰でも永遠に罪を贖われるように、道を整えられました。 ヨハネの福音書第 13 章には、イエスが弟子たちの足を洗いながら語られたことが記録されています。それは、新たに生まれた者だけがほんとうに理解できる、重要なみことばです。 イエスが過越の祭りの後で弟子たちの足を洗われたのは、ご自分がすでに彼らの生涯の罪を洗い流されたことに気づかせるためでした。イエスはおっしゃいました。「わたしがあなたの足を洗う理由は、今はあなたにはわからないが、後でわかるようになります。」 このペテロへのことばには、永遠の贖いが秘められています。 人はみな、人類の罪と不法のすべてを洗い流したイエスのバプテスマを知り、信じなければなりません。ヨルダン川でのイエスのバプテスマは、手を置くことによって罪を移すという福音でした。人はみなイエスのみことばを信じなければなりません。イエスはバプテスマによって人類の罪をすべて取り除かれ、裁かれて十字架上につけられることで罪の赦しを成就なさいました。イエスがバプテスマをお受けになったのは、すべての人の罪を始末なさるためでした。 人類の生涯に犯す罪の赦しはすべてイエスのバプテスマと血によって全うされた
ご自分が十字架につけられ、よみがえられ、天に昇られた後、悪魔と偽りの信仰を広める者たちが現われて弟子たちを欺こうとすることを、イエスはよくご存じでした。ペテロのあかし、「あなたは、生ける神の御子キリストです」から、彼がイエスを信じていたことがわかります。しかし、それでも、罪の赦しの福音を覚えておくよう、イエスはペテロに再度確認させることを望まれたのです。その福音とは、世の罪をすべて取り除いたイエスのバプテスマのことです。イエスはそれをペテロ、弟子たち、そして後に来る私たちにまで再度教えようとなさったのです。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」 イエスの弟子たちが罪を犯すたびに、悪魔は誘惑し、非難して言うでしょう。「ほら。まだ罪を犯すのなら、どうして自分に罪がないなどと言えますか? あなたは救われていないのです。あなたはただの罪人ですよ。」 そうした汚染を防ぐために、イエスはご自分のバプテスマへの信仰が彼らの生涯の罪──過去、現在、未来の──をすでに洗い流していると告げられたのです。 「わたしがバプテスマを受けたことは知っているでしょう。ヨルダン川でバプテスマを受けたのは、あなたたちの生涯の罪すべてと人類の原罪とを洗い流すためだったのです。なぜバプテスマを受けたのか、なぜ十字架につけられて死ななければならないのか、わかりますか?」イエスが弟子たちの足を洗われたのは、すでにバプテスマによって彼らの毎日の罪をすべて洗い流されたこと、また彼らに代わって十字架上で裁きを受けられることを示されるためでした。 さて、みなさんと私は、人類の罪すべての赦しを受けることを可能にするイエスのバプテスマと血の福音への信仰によって、すべての罪を贖われています。イエスは人類のためにバプテスマをお受けになり、十字架につけられました。イエスはバプテスマと血とによって人類の罪をすべて洗い流されました。罪の赦しの福音を知り、真理を信じる者は誰でも、すべての罪の赦されます。 では、救われた後、新たに生まれた者は何をするべきでしょう? その人々は、毎日罪を認め、イエスのバプテスマと血の救済、すべての罪の赦しの福音を信じるのです。罪の赦しの福音は、新たに生まれた者が心に深く刻むべきものです。 ただまた罪を犯したからといって、それでまた罪人だということになるでしょうか? いいえ。イエスが罪をすべて取り除かれたことを知っていて、どうしてまた罪人となれるでしょう。イエスのバプテスマと十字架上の血とが、人類の罪すべての贖いの福音なのです。この本来の罪の赦しの福音を信じる者は誰でも例外なく新たに生まれた者、「義人」となれるのです。 義人は二度と罪人にならない
罪の赦しの福音、水と御霊を信じながらまだ毎日の罪のために自分を罪人と感じるのなら、その人は、イエスが罪をすべて取り除くためにバプテスマを受けられたヨルダン川に行くべきです。罪の赦しを受けた後でまた罪人となったなら、イエスはまたバプテスマをお受けにならなければならないでしょう。イエスのバプテスマの福音の罪の赦しを信じるのです。イエスがバプテスマによって一度でみなさんの罪をすべて取り除かれたということを忘れてはなりません。イエス・キリストが救い主であるとの揺るがぬ信仰をもつのです。 イエスを救い主として信じるということは、生涯の罪をすべて取り除いたイエスのバプテスマを信じるということです。ほんとうにイエスのバプテスマ、十字架、死、そしてよみがえりを信じるのなら、どんな罪を犯そうと、再び罪人になることはありません。信仰によって生涯の罪すべての贖いを受けているのですから。 イエス・キリストは、将来の罪や弱さのために犯す罪までも洗い流されました。イエスはご自分のバプテスマの重要性を強調なさるために弟子たちの足を水で洗われることで罪の赦し、すなわちバプテスマの福音を象徴的に示されたのです。イエス・キリストは、世の罪をすべて完全に赦してすべての人類を救われるとの神のお約束を全うなさるためにバプテスマをお受けになり、十字架につけられ、よみがえられ、昇天なさいました。その結果、イエスの弟子たちは罪の贖いの福音、イエスのバプテスマ、十字架、そしてよみがえりについて、その生の終わりまで説くことができました。 ペテロの肉の弱さ
聖書は、ペテロが大祭司カヤパの召使から、イエスに従う者だろうと言われたとき、二度、「そんな人は知らない」と否定したとしています。ペテロはその後、三度目には、のろいをかけて誓っています。 マタイの福音書第 26 章 69 節を読みましょう。「ペテロが外の中庭にすわっていると、女中の一人が来て言った。『あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。』しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々に言った。『この人はナザレの人イエスといっしょでした。』 それで、ペテロはまたもそれを打ち消し、誓って、『そんな人は知らない。』と言った。しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、『確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。』と言った。すると彼は、『そんな人は知らない。』と言って、のろいをかけて誓い始めた。すると、すぐに鶏が鳴いた。 そこでペテロは、『鶏が鳴く前に三度、あなたはわたしを知らないと言います。』とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。」(マタイ 26:69-75) ペテロはほんとうにイエスを信じ、忠実に従いました。彼は、主イエスが来るべき救い主、「預言者」であると信じていました。しかし、イエスがピラトの宮殿に連れて行かれ、自分とイエスの関係を当局に知られることが危険になると、人々の前でイエスを否定し、誓いました。 ペテロは、自分がイエスを否定するだろうとは知りませんでした。しかし、イエスはそれをご存じでした。イエスはペテロの弱さをすっかりご存じでした。そこで、ペテロの足を洗われ、ヨハネの福音書第 13 章に記されているように、救済の福音をペテロの記憶に刻まれたのです。「あなたは将来罪を犯します。しかし、わたしは未来の罪までもすっかり洗い流したのです。」 ペテロは、ほんとうに命が危うくなるとイエスを否定しました。しかし、それは肉の弱さのためでした。ですから、弟子たちを将来の不法のすべてからお救いになるために、イエスは事前に彼らの足を洗われたのです。 「あなたたちの未来の罪も消しましょう。わたしはバプテスマを受けてあなたたちの罪をすべて取り除いたために十字架につけられます。そして、あなたたちみなの真の救い主となるためにその罪の贖いをするのです。わたしはあなたたちの神、救い主です。あなたたちの罪の報いをすべて受け、バプテスマと血とによってあなたたちの羊飼いとなりましょう。わたしはあなたたちの救済の羊飼いです。」 この真理を心に堅く植え付けるため、イエスは過越の祭りの後で弟子たちの足を洗われました。これが福音の真理です。 新たに生まれた後も肉は弱いので、また罪を犯します。もちろん、罪を犯すべきではありません。しかし、ペテロのように難局に臨むと、そのつもりはなくとも罪を犯しがちです。人間は肉の体をもっているのですから、時に自身の罪のために滅びに向かいます。人間がこの世に生きている限り、肉は罪を犯します。しかし、イエスはバプテスマと十字架上の血とによって、そうした罪をすべて贖われたのです。 イエスが救い主であられることを否定しません。しかし、肉の体にある限りは、神のみこころに叛いて罪を犯し続けるのです。これは、肉の体に生まれたためです。 イエスは、人間が肉の体で生きている間は罪を犯すことをご存じだったので、バプテスマと血とによって人類の罪を贖われて救い主となられたのです。イエスの救済とよみがえりとを信じる者すべての罪を、主は消されました。 四つの福音書全部がバプテスマのヨハネによるイエスのバプテスマに始まるのは、このためです。イエスが人間として生きられたのは、新たに生まれる福音、救済の福音を全うなさるためでした。
鶏が鳴く前にイエスを一度だけでなく、二度、三度否定したとき、ペテロはどんなに心破れる思いをしたでしょう。どんなに自らを恥じたでしょう。彼はイエスの前で、決して裏切りはしないと誓いました。ペテロは肉の弱さのために罪を犯したのですが、弱さのために一度どころか三度までイエスを否定したとき、どんなに惨めに思ったでしょう。イエスが再び憐れみの目でご覧になったとき、ペテロはどんなに気まずい思いをしたでしょう。 しかし、イエスはこうしたことも、またそれ以外のこともご存じでした。ですから、「あなたが何度も何度も罪を犯すことを知っています。でも、あなたが罪のためにつまずいて再び罪人となることのないよう、わたしのもとに戻ることができなくなることのないよう、わたしはバプテスマによってそうした罪をすべて取り除いているのです。バプテスマを受け、あなたのすべての罪のために裁かれて、完全な救い主となったのです。わたしはあなたの神、救い主となりました。罪の赦しの福音を信じなさい。たとえあなたが肉の罪を犯し続けても、あなたを愛し続けます。わたしはすでにあなたの不法のすべてを洗い流しました。罪の赦しの福音は永遠なのです。あなたへのわたしの愛もまた永遠です。」 イエスはペテロと弟子たちにおっしゃいました。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」イエスがヨハネの福音書第 13 章でこの福音について語られたのは、人々が水と御霊によって新たに生まれることが重要だったためです。これを信じますか? 第 9 節には、「シモン・ペテロは言った。『主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。』イエスは彼に言われた。『水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。』」 みなさん、みなさんは将来肉の罪を犯しますか、犯しませんか? 必ず犯します。しかし、イエスは、すでに将来の罪までも、つまり、人間の肉の不正のすべてをバプテスマと血とによって洗い流されたとおっしゃいます。そして、十字架につけられる前に、弟子たちに真理のみことば、贖いの福音を明確に告げられたのです。 人間は、ありとあらゆる弱点をもって肉の体に生きるのですから、罪を犯さずにはいられません。イエスは、バプテスマによって世の罪のすべてを洗い流されました。イエスは頭と体だけではなく、足、つまり、将来の罪までも洗われたのです。これが新たに生まれる、イエスのバプテスマの福音なのです。 イエスがバプテスマを授けられた後で、バプテスマのヨハネはあかししました。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ 1:29) 世の罪はすべて、バプテスマの際にイエスの上に移されたと信じなければなりません。 罪深い世にあるあいだ、人間は罪を犯さずにはいられません。これは明らかな事実です。肉の弱さが表に出るたびに、イエスが贖いの福音によって人間の罪のすべてと世の罪を洗い流してくださり、罪の報いをご自分の血によって支払われたことを思い出さなければなりません。心の底からイエスに感謝するのです。信仰をもってイエスが救い主の神であると告白しましょう。主をたたえよ。 この世界の誰もが肉で罪を犯さずにはいられません。人々は肉で罪を犯し続け、生涯の罪によって死にます。 人々の心にあるよこしまな考え
イエスはマタイの福音書第 15 章 19-20 節で、「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」とおっしゃっています。心にあるさまざまな罪が人を汚すのですから、人間は清くありません。 自分の邪悪な性質を認識しなければならない
人間は、「この十二種類の罪が人の心の中にあります。全部、私の心にあるのです。私の中には十二種類の罪があります。それは、聖書の中に記されています」と言えなければなりません。水と御霊によって新たに生まれる前に、罪はもともと心の中にあったのだと認める必要があります。人間は神の前に完全な罪人であると認めるべきなのですが、あまりそうはしません。たいていの人は罪の言い訳をします。「こんな考えはもったことがない。一瞬の気の迷いだったのです。」 しかし、イエスは人間について何とおっしゃるでしょう? イエスは、人間の心から出るものがその人を「汚す」と告げておられます。人間はその内に悪い考えをもっているとおっしゃいました。どう思います? みなさんはよい人間ですか、悪い人間ですか? みなさんは、誰もが悪い考えをもっていると知っていますか? そうです。人の考えはよこしまなのです。 数年前、ソウルの大きなデパートが、突然崩壊しました。家族を失った人々は深く悲しみましたが、大勢の人々が惨事を見物に出かけました。 人々は考えました。「何人死んだのかな? 二百人かな? いや、それでは少ないな。三百? そのくらいかな。死者が少なくとも千人だったら、もっと面白い、派手な見ものだったろうになあ……。」 人間の心は、このようによこしまなのです。これを認めなければなりません。先に挙げたような考えは、なんと死者に対して心ないことでしょう。家族にとってはどんな打撃だったでしょう。経済的に困窮することになった人々がいました。 見物人の中には、あまり思いやりのない人々がいました。「もっとたくさん死んでいたら、ずっとおもしろかったのにな。すごいもんだなあ。同じことが満員の球場で起こったらどうかなあ。何千人も瓦礫の下に埋まるんじゃないか? そうだよね。そのほうが、これよりずっとおもしろいだろうな。」 このように考えた人々は、いたことでしょう。同じことが、自動車事故についても言えます。物見高い野次馬は、ちょっとした衝突事故には、がっかりするものです。 自分が時にどんなに邪悪になり得るかは、誰もが知っていることです。もちろん、こうした悪い考えを決して口に出しはしません。偶然事故を見たなら、もっともらしく同情して見せるでしょうが、内心では密かに、もっと大規模だったらよかったのにと思うのです。人間は、それが自分に害を及ぼすのでなければ、何千人もが死ぬような恐ろしい惨劇を見たいと思います。人間の心はこのように働くのです。たいていの人間は、新たに生まれる前、このようなものなのです。 すべての人の心には殺人がある
神は、すべての人の心には殺人があるとおっしゃいました。しかし、多くの人は神の前でそれを否定し、言うでしょう。「よくもそんなことを。私の心には、人を殺そうなどという考えは何もありませんよ。よくも私のことをそんな人間だと思えるものですね。」そうした人々は、自分の心に殺人があるとは決して認めません。殺人者は自分たちとは毛色が違うのだと考えます。 「このあいだニュースに出ていた連続殺人犯、地下室で人殺しをして焼いた連中には、心に殺人があるのです。ああいう人間は別物です。私には、あんなふうには決してできません。あの連中はならず者です。人殺しです。」彼らは犯罪者に腹を立て、叫びます。「ああいう悪い血をもつ連中は地上から一掃しなくてはいけない。みんな死刑にすればいいのだ。」 しかし、残念なことに、殺人の考えは、連続殺人犯や殺人者の心の中と同じように、そうして腹を立てている人々の心の中にもあるのです。神は、すべての人の心の中に殺人者がいるとおっしゃいます。心の中に隠されたことまでもお見通しの神のみことばは受け入れなければなりません。ですから、「私は心の中では殺人者です」と認めるのです。 そうです。神は、すべての人の心には殺人を含め、悪い考えがあるとおっしゃいました。神のみことばを受け入れましょう。世代を追って人々がますます邪悪になると、自己防衛のための道具がいずれも殺人の道具となりました。これは、人間の心にある殺人の結果です。人は激怒や恐怖に襲われて人を殺すことがあります。誰もが実際に人を殺すというのではありません。しかし、心の中で殺すことを考えるのです。 人間はみな、心に悪い考えをもって生まれます。中には、実際に人を殺してしまう人々がいます。それは、別にその人が殺人者として生まれたからではありません。そうではなくて、人間にはみな、殺人者となる素質があるからです。神は、すべての人の心の中には悪い考えと殺人があるとおっしゃいます。これは、真理です。誰ひとり、この真理の例外ではありません。 ですから、取るべき正しい道は、神のみことばを受け入れ、従うことです。人間がこの世で罪を犯すのは、心の中に悪い考えがあるためです。 心の中の姦淫 神は、すべての人の心には姦淫があるとおっしゃいます。同意しますか? みなさんは、心に姦淫があると認めますか? はい。誰の心にも姦淫があるのです。 売春その他の性犯罪が社会で盛んに行なわれるのは、このためです。人類史のどの時代にあっても、性は容易に金をもうける確実な方法の一つでした。他の仕事であれば、不況の影響を受けるでしょう。しかし、性産業はそれほど影響を受けません。すべての人の心には姦淫が潜んでいるためです。 罪人の結ぶ果実は罪
りんごの木がりんごをつけ、桃の木は桃を、ナツメヤシの木はナツメヤシをつけ、柿の木が柿をつけるように、十二種類の罪を心にもって生まれた人間は、罪の実を結ばずにはいられません。 イエスは、人の心から出るものが人を汚すとおっしゃいました。同意しますか? イエスのことばに同意し、「はい。私たちは罪人の子ら、悪人です。はい。おっしゃるとおりです、主よ」と言うしかありません。そうです。自分たちの邪悪さを認めるのです。神の前に自分たちの真実を認めるのです。 イエス・キリストが神のみこころに従われたように、人間は神のみことばを認め、従うのです。これが、水と御霊によってすべての罪から救われる唯一の道なのです。それが神からの贈り物なのです。 私の国は美しい四季に恵まれています。季節が移り変わるにつれて、さまざまな木が実をつけます。同様に、心の中の十二種類の罪は人間を支配し、常に罪へと導きます。今日心をつかむのは殺人、明日は姦淫なのです。 その次の日は悪い考え、それから姦淫、盗み、偽証等々。人間は一年中、毎月、毎日、一時間ごとに罪を犯し続けます。何らかの罪を犯さずには一日たりとも過ぎません。人間は、自分は罪を犯すまいと誓い続けます。しかし、どうにもなりません。人間はそのように生まれついているのです。 みなさんは、りんごの木がそうしたくないからと、りんごをつけるのを拒むのを見たことがありますか? 「りんごなんか、つけたくありません。」 実を結ぶことを拒もうと決めたとしても、どうしてりんごの実を結ばずにいられるでしょう。春には避けようもなく花が咲き、りんごは大きくなり、夏には熟れていき、秋には実を摘んで食べられるようになります。 これが自然の摂理であり、罪人の生涯もまた同じ自然の法則に従わなければならないのです。罪人は罪の実を結ばずにはいられません。 イエスのバプテスマと十字架は人類の罪の贖いのため
聖書の一節を読んで、罪人、悪人の裔がどのようにして罪を赦されて幸福に生きることができるかを調べてみましょう。これは、罪の贖いの福音です。 レビ記第 4 章には、次のようにあります。「また、もし一般の人々のひとりが、主がするなと命じたことの一つでも行なって、あやまって罪を犯し、罪に定められた場合、または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら、彼は犯した罪のために、そのささげ物として、傷のない雌やぎを連れて来て、その罪のためのいけにえの頭の上に手を置き、全焼のいけにえの場所で罪のためのいけにえをほふりなさい。祭司は指で、その血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りなさい。その血は全部、祭壇の土台に注がなければならない。また、脂肪が和解のいけにえから取り除かれる場合と同様に、その脂肪全部を取り除かなければならない。祭司は主へのなだめのかおりとして、それを祭壇の上で焼いて煙にしなさい。祭司は、その人のために贖いをしなさい。その人は赦される。」 (レビ記 4:27-31) 旧約の時代、人々はどのようにして罪を贖ったでしょう? 罪のためのいけにえの頭に手を置き、罪をその上に移しました。 それはレビ記に記されています。「もしあなたがたが主にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、主にうけ入れらるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。」 (レビ記 1:2-4) 当時の人が心の内の罪に気づくと、罪を贖うために用いる「罪のためのささげ物」を用意しなければなりませんでした。犯した罪を移すには、罪のためのささげ物の頭に手を置かなければなりませんでした。聖なる幕屋の庭には、全焼のいけにえのための祭壇がありました。それは箱型で、説教壇より少し大きく、四隅には角がついていました。イスラエル人は、罪のためのいけにえの頭に罪を移し、その肉を全焼のいけにえのための祭壇上で焼いて罪を贖いました。 レビ記で神は、「それを、主に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない」とおっしゃっています。頭の上に手を置くと、罪のためのいけにえに罪が移されました。その後、罪人はささげ物の喉を切りました。その血が全焼のいけにえの祭壇の角に塗られます。 その後で、ささげ物の体から内臓が除かれ、肉は細かく刻まれ、全焼のいけにえの祭壇で焼かれます。それから、肉のかおりが贖いのために神にささげられます。人々は、このようにして毎日の罪を贖ったのです。 神は、年毎の罪の贖いには別のいけにえを定められました。これは、毎日の罪の贖いのいけにえとは異なっています。この場合、大祭司ひとりがイスラエル人全員を代表して罪のためのいけにえに手を置き、その血を『贖いのふた』の東に七回まきました。また、毎年第七の月の十日にイスラエル人の前で生きた山羊の頭に手を置くことも行なわれました (レビ記 16:5-27)。
さて、新約では、いけにえの制度がどのように変わり、神の永遠の法がいかに年を経ても一定であったかを見ましょう。 なぜイエスは十字架上で死なれなければならなかったのでしょう? 神が御子を十字架上で死ぬようになさるどんな悪を、イエスはこの地上で犯されたのでしょう? 誰がイエスが十字架上で死なれるように強いたのでしょう? 世の罪人のすべて、つまり、すべての人間が罪を犯したとき、イエスは人類救済のためにこの世に来られました。 イエスはヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを授けられ、人類に代わってすべての罪の罰を十字架上で受けられました。イエスがバプテスマを受けられ、十字架上で血を流されたのは、旧約の贖いのいけにえ、罪のためのいけにえの上に手を置くこととその血を流すことに似ています。 これは、旧約で行なわれた方法でした。罪人は、罪のためのいけにえの上に手を置いて罪を告白しました。「主よ、私は罪を犯しました。殺人と姦淫を犯しました。」そうすると、その人の罪は罪のためのいけにえの上に移されました。 罪人が罪のためのいけにえの喉を切って神にささげたように、イエスは人類の罪のすべてを贖うためにささげられました。イエスはご自分の犠牲によって人類を救われ、罪のすべてを贖うためにバプテスマを受けられ、十字架上で血を流されました。 実際、イエスは人間のために死なれたのです。考えてみると、こうした傷のない動物を人間の罪のためにささげることにどういう意味があったのでしょう? あの動物たちは、「罪」というのが何か、わかっていたでしょうか? 動物は罪を知りません。 いけにえは傷のないものでなければなりませんでした。動物たちが完全に傷のないものであったように、イエスにもまた、罪がありませんでした。イエスは聖なる神、神の御子であられ、決して罪を犯されませんでした。それで、三十歳のときにヨルダン川でのバプテスマによって人類の罪をすべて取り除かれたのです。 イエスが十字架上で死なれたのは、人類から取り除かれた罪のためでした。人類の罪をすべて洗い流したことが、イエスの救済のみわざでした。 罪の贖いの福音のはじめ
マタイの福音書第 3 章に、次のようにあります。「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』」(マタイ 3:13-15) イエスがなぜ三十歳のときにバプテスマをお受けになったのかを知って理解することが必要です。イエスは人類全員の罪を贖うため、そして、神の義をすべて全うなさるためにバプテスマをお受けになったのです。すべての人々を罪からお救いになるために、傷のないお方であるイエス・キリストがバプテスマのヨハネからバプテスマを授けられました。 こうして、世の罪をすべて取り除かれ、人類全員の罪を贖うためにご自分をささげられたのです。罪から救われるためには、真理をすべて知り、信じる必要があります。イエスの救済を信じ救われるのは、その人次第です。 イエスのバプテスマには、どういう意味があるのでしょう? これは、旧約の手を置くことと同じことです。旧約では、すべての人の罪は、大祭司が両手を罪のためのいけにえの上に置いて、その頭に移されました。同様に、新約では、イエスが自らを罪のためのいけにえとしてささげられ、バプテスマのヨハネからバプテスマを授けられることによって世の罪を取り除かれました。 バプテスマのヨハネはすべての人類の中で最も偉大な者で、神の任じられた人類の代表でした。人類の代表、人類の大祭司として、ヨハネは手をイエスの上に置き、世の罪のすべてをその上に移しました。「バプテスマ」とは、「渡す、埋められる、洗われる」という意味を含んでいます。 みなさんは、なぜイエスがこの世に来られてバプテスマのヨハネからバプテスマを授けられたかご存じですか? みなさんは、バプテスマの意味を知ったうえでイエスを信じていますか? イエスのバプテスマは人類の罪のすべて、悪を行なう者の裔である人類が肉によって生涯犯す罪を取り除くためでした。バプテスマのヨハネは、人類の罪全部の真の贖いの福音を全うするためにヨルダン川でイエスにバプテスマを施しました。 マタイの福音書第 3 章 13-17 節は、「さて (Then)」で始まります。これは、イエスがバプテスマを授けられた時、世の罪がすべてイエスの上に移された時を示しています。 「さて」イエスは人類の罪のすべてを取り除かれ、三年後に十字架上で死なれ、その三日後によみがえられました。世の罪のすべてを洗い流すためにイエスは一度バプテスマをお受けになり、十字架上で一度死なれ、死者の中から一度よみがえられました。神の前で罪を贖われたい者のために、イエスは一度で永遠に世の罪のすべてを取り除いて救われたのです。 なぜイエスはバプテスマを受けなければならなかったのでしょう? なぜイバラの冠を戴いたり、ピラトの宮殿で通常の犯罪者のように裁かれたりしなければならなかったのでしょう? なぜ十字架につけられ、血を流して死なれなければならなかったのでしょう? これらすべては、バプテスマによって世の罪のすべて、みなさんや私の罪を、被られたためです。人類の罪のために、イエスは十字架上で死なれなければならなかったのです。 神が人類を救われたという救済のみことばを信じ、感謝しましょう。イエスのバプテスマ・十字架・よみがえりがなければ、人類の救済はありません。 世の罪をすべて取り除くためにヨハネからバプテスマを授けられたとき、イエスは人類の罪を取り除かれ、そうして救済の福音を信じる者を救われたのです。「イエスは原罪だけを取り除かれたのです。そうではなかったのかな?」と思う人がいるでしょう。しかし、それは間違っています。 聖書には、バプテスマを授けられた時にイエスが世の罪をすべて一度で永遠に取り除かれたとはっきり記されています。人類の罪はすべて、原罪を含めて、洗い流されました。マタイの福音書第 3 章 15 節で、イエスはおっしゃいます。「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」「すべての正しいことを実行する」とは、例外なくすべての罪を人類から取り除くことを意味しています。 イエスは人間が生涯に犯す罪もすべて洗い流されましたか? はい、そうなさいました。まずレビ記にその証拠を求めましょう。ここでは、贖いの日の大祭司とささげ物について語っています。 イスラエル人全員の年ごとの罪の贖いのいけにえ
「アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするためにアザゼルとして荒野に放つためである。」(レビ記 16:6-10) ここで、アロンはイスラエル人の年ごとの罪を贖うために二頭の山羊を会見の天幕の戸口に連れて行きます。 「アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。」 毎日の罪を掟にかなった方法で贖うためには、いけにえの動物が必要でした。ささげ物の頭に手を置いて罪人の罪を移すためです。しかし、イスラエル人が一年に犯す罪のためには、毎年の第七の月の十日に大祭司がすべての人々に代わって一年の罪を罪のためのいけにえの上に移しました。 レビ記第 16 章 29-31 節には、次のように記されています。「第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなた方の中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。なぜなら、この日に、あなたがたをきよめるために、あなたがたの贖いがなされるからである。あなたがたは、主の前でそのすべての罪からきよめられるのである。これがあなたがたの全き休みの安息であり、あなたがたは身を戒める。これは永遠のおきてである。」 (レビ記 16:29-31) 旧約では、イスラエル人は毎日の罪を贖うには罪のためのささげ物を連れて来て、「主よ、私はこれこれの罪を犯しました。赦してください」と言って、動物の頭に罪を移しました。それから、罪のためのいけにえの喉を切り、血を祭司に渡し、自分から罪はなくなったと信じて帰りました。こうして、罪のためのいけにえは罪をその頭にもって罪人のために死にました。いけにえの動物は、罪人の身代わりとして殺されました。旧約では、罪のためのいけにえには山羊・子羊・子牛、または雄牛が使われました。つまり、神が定められた聖なる動物の一つが用いられたのです。 神は限りない慈悲によって、罪人がその罪のために死ぬ代わりに動物のいのちをささげることを許されました。 こうして、旧約では、罪人は贖いのささげ物によって罪を贖うことができました。罪人の不法は手を置くことによって罪のためのいけにえの上に移され、その血は罪人の罪を消すために祭司に渡されました。 しかしながら、毎日罪を贖うことは不可能でした。その結果、神は大祭司が毎年第七の月の十日に、イスラエル人全員に代わって一年分の罪を贖うことを許されました。 では、贖いの日、大祭司はどのような役目を果たしたのでしょう? 第一に、大祭司アロンは手を罪のためのいけにえの上に置き、人々の罪を告白しました。「主よ、イスラエル人はこれこれの罪を犯しました。殺人、姦淫、盗み、偽証、冒?……」 それから、罪のためのいけにえの喉を切り、血を取り、その血を至聖所の中の『贖いのふた』の上に七回振り掛けました。聖書では、「七」という数は完全な数とされています。 イスラエル人の一年に犯す罪を罪のためのいけにえの上に移しすことが大祭司の役目でした。そして、罪のためのいけにえが身代わりとしてささげられました。 神は公正ですから、すべての人々を罪から救うために罪のためのいけにえが人々に代わって死ぬことを許されました。神はほんとうに慈悲深いので、人々がいけにえの動物を身代わりとしてささげることを許されました。それから大祭司は血を『贖いのふた』の東にまきました。こうして、贖いの日、第七の月の十日に人々の過去一年の罪を贖ったのです。
大祭司は贖いの日、イスラエル人のために二頭の山羊をささげました。その一頭は「scapegoat (贖罪の山羊)」と呼ばれました。これは「追い出す」という意味です。同様に、新約での贖罪の山羊はイエス・キリストです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ 3:16) 神は人類に一人子をいけにえの子羊としてお与えくださいました。すべての人類のためのいけにえの子羊として、イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを授けられて、救い主、救世主となられました。「イエス」とは、「救い主」という意味であり、「キリスト」とは、「油注がれた王」という意味です。ですから、イエス・キリストとは、「人類をお救いになるために来られた神の御子」という意味なのです。 旧約で贖いの日に人々の一年分の罪が消えたように、イエス・キリストは二千年近く前、人類の罪のすべての贖いの福音を完成なさるためにバプテスマをお受けになり、十字架上で血を流して死なれるためにこの世に来られました。 ここで、レビ記の一節を読みましょう。「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はその山羊を荒野に放つ。」 (レビ記 16:21-22) イスラエル人全員の罪がいけにえの山羊の頭に移されると記されています。これはまた、レビ記第 1 章でも述べられています。「すべてのそむき」とは、人々が心と肉で犯した罪のすべてを指します。そして「すべてのそむき」は祭司が手を置くことによって、罪のためのささげ物の上に移されました。 神の律法によって、人は自らの罪のすべてについて真の知識をもたなければならない
神の律法は六百十三の戒めからなります。実際、考えてみると、人間は神がしてはならないとおっしゃったことをし、せよとおっしゃることをしません。 ですから、人間は罪人です。聖書には、神が律法をお与えになったのは、罪に気づかせるためであった (ローマ 3:20) と記されています。これは、人間が罪人であることをお教えになるために律法をお与えになったということです。人間が律法に従って生きられるからではなく、罪に気づくようにとお与えになったのです。 神は人間に従わせるために律法をお与えになったのではありません。犬に人間のように生きさせることはできません。同様に、人間は決して神の律法に忠実に生きることはできません。かえって、律法によって自分の罪に気づくことになるのです。 神は、人間が罪の塊であるのにそれに気づいていないために、律法をお与えになったのです。「あなたたちは殺人者、姦淫する者、悪を行なう者たちです。」 神は、律法によって逆説的に告げられます。神は殺すなとおっしゃるのですが、人間はそれでも心の中で、時には物理的に殺すのです。 しかしながら、律法に殺してはならないと書かれているために、自分が殺人者であることを知ります。「ああ、私は間違っていた。してはならないことをしたのだから、私は罪人だ。罪を犯してしまった。」 イスラエル人を罪からお救いになるために、旧約で神は、アロンが贖いのささげ物をささげるようになさいました。そして、アロンが人々のために年に一度贖いをしたのです。 旧約では、贖いの日、罪のためのいけにえを二頭、神にささげることになっていました。一頭は神の前でささげられ、もう一頭は手を置かれた後、人々の一年の罪を負って荒野に放たれました。山羊が係りの者によって荒野に連れて行かれる前、大祭司は生きた山羊の頭に両手を置いてイスラエル人の罪を告白しました。「主よ、民は殺し、姦淫し、盗み、偶像を拝み…… あなたの前に罪を犯しました。」 パレスチナの地は荒漠とした砂漠です。いけにえの山羊は果てしない荒野に放たれ、やがて死にました。山羊が連れて行かれるとき、イスラエル人は、それがはるか彼方に見えなくなるまで見送り、自分たちの罪がいけにえの山羊とともに消えたと信じました。人々はこうして心の安らぎを得、いけにえの山羊は人々の一年分の罪のために荒野で死にました。 これと同じ方法で、神は神の子羊、イエス・キリストによって人類の罪のすべてを贖われました。人類の罪はイエスのバプテスマと十字架上の血とによって完全に洗い流されました。 イエスは神で救い主です。イエスはすべての人類を罪からお救いになるために来られた神の御子です。イエスは人類をご自分の姿に似せて造られ、人類を罪から救われるためにこの世界に来られた造り主です。 人間が肉で毎日犯す罪だけでなく、未来に犯す罪、心と肉の罪までもイエスの上に移されました。ですから、イエスはすべての義を全うして世の罪をすべて完全に贖われるためにバプテスマのヨハネからバプテスマを受けなければなりませんでした。 イエスは十字架につけられる三年前、初めて人々に教えを説かれるとき、ヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって世の罪をすべて取り除かれました。罪のすべてを贖うことによる人類救済は、バプテスマによって始まったのです。 ヨルダン川の腰くらいの深さのところで、バプテスマのヨハネは両手をイエスの頭に置き、イエスを水に浸らせました。このバプテスマには、旧約の手を置くことと同じく、すべての罪を移すはたらきがありました。 完全に水に浸ることは死を意味します。そして、水から上がることは、よみがえりを示します。ですから、バプテスマのヨハネからバプテスマを授けられて、イエスはご自分の使命の三つの要素──すべての罪を取り除くこと、磔刑、よみがえり──すべてを全うし、示されたのです。 イエスが人類を罪から救われたみことばに従ってはじめて、人は救われることができます。神は、イエスによって人類を救われることになさいました。そして、旧約で結ばれた契約は、このようにして全うされたのです。この行ないにより、イエスは人類の罪すべてを頭に受けて十字架へと歩まれたのです。
ヨハネの福音書第 1 章 29 節には、「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ。世の罪を取り除く神の小羊。』」とあります。バプテスマのヨハネは、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」とあかししました。ヨルダン川でバプテスマを授けられた時、人類の罪はすべてイエスの上に移されました。これを信じなさい。そうすれば、すべての罪を贖う恵みを受けるのです。 神のみことばに信仰をもつのです。自分なりの考えや頑なさは捨て去り、記された神のみことばに従うのです。ただ、イエスが世の罪をすべて取り除いたということを信じるのです。 イエスが世の罪をすべて取り除いたと言うことと、イエスが人類の罪を贖って神の義をすべて全うしたと言うこととは、同じことです。「手を置くこと」と「バプテスマ」もまた同じことを意味します。 「全部」と言おうと「すべて」あるいは「完全に」と言おうと、意味は同じです。旧約の「手を置くこと」の意味を表わすうえで、新約では、ただ「バプテスマ」ということばが代わりに用いられているだけで、同じなのです。 これは、イエスが人類の罪をすべて贖うためにバプテスマを受けられ、裁かれたという単純な真理を示しているのです。この真の福音を信じるならば、人は救われます。 聖書には、イエスが「世の罪」(ヨハネ 1:29) をすべて取り除かれたとありますが、「世の罪」とは、どういう意味なのでしょう? これは、人が生まれつきもっている罪、つまり、心に潜んでいる悪い考え・盗み・不品行・強欲・よこしま・冒?・高慢・愚かさを指します。これはまた、人が肉と心とで犯すあらゆる不法と違反とを含みます。 「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ 6:23)「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル 9:22) ここに引用した句にあるように、すべての罪は贖われなければなりません。イエス・キリストは、全ての人類を罪から救われるために、ご自分のいのちをささげられ、人類全員に代わって罪の報いを支払われたのです。 ですから、罪のすべてから自由になるには、本来の福音、イエスのバプテスマと血、そして神性とを信じるだけでよいのです。 明日の罪の贖い
今日、昨日、一昨日の罪が「世の罪」に含まれているのと同様に、明日の罪、明後日の罪、死ぬまでに犯す罪も「世の罪」に含まれています。人間の誕生から死までの罪はすべて「世の罪」に含まれており、そうした世の罪は、バプテスマによって完全にイエスの上に移されたのです。人間が死の日まで犯す罪は全部、すでに取り除かれています。 ですから、本来の福音、記された神のみことばを信じ、真理に従うだけで救われるのです。全ての罪を贖われるには、自分なりの考えは捨て去らなければなりません。「どうしてまだ犯していない罪を取り除けるのだろう」と尋ねたいでしょう。私は、逆にこうお聞きします。「イエスは、人が罪を犯すたびに何度も何度もこの世に戻って血を流さなければならないのですか?」 新たに生まれる福音には、人間の罪の贖いの律法があります。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル 9:22) 旧約の時代、罪を贖いたいと思う者は、罪のためのいけにえの上に手を置いて罪を移し、そうして、罪のためのいけにえは、その移された罪のために死ななければなりませんでした。 神の御子は、それと同じ方法ですべての人類を罪から救われるためにこの世界に来られました。イエスは人類の罪を取り除くためにバプテスマを受けられ、罪の報いを支払うために十字架上で血を流され、「完了した」とおっしゃって十字架上で死なれました。三日後に死者の中からからよみがえられ、今は神の右手の座に着いておられます。こうして、イエスは永遠に人類の救い主となられたのです。 完全に罪を赦されるには、固定観念を捨て、毎日の罪を日々の悔い改めの祈りによって自分で贖わなければならないとする教義を放棄しなければなりません。人類の罪を消すためには、律法にかなったいけにえが一度で永遠にささげられなければなりませんでした。天の神は、バプテスマによって御子の上に世の罪をすべて移され、人類に代わって十字架につけられました。イエスのよみがえりとともに、人類救済は完了しました。 「しかし、彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。」 「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。……しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」 イザヤ書第 53 章では、全人類の、世のすべてのそむきと咎はイエス・キリストの上に移されたとしています。 新約のエペソ人への手紙第 1 章 4 節には、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び」と記されています。つまり、神は世界創造の前に人類を選ばれているというのです。世界が創られる前にすでに、神は人類をキリストのうちにご自分の民、傷のない義人とすることを決めておいでです。以前どう考えていたにしても、今は神のみことば、水と血と御霊のみことばに従うのです。 神は、子羊イエス・キリストが世の罪を取り除かれ、人類全員の贖いをしたとおっしゃいます。ヘブル人への手紙第 10 章には、次のようにあります。「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。」(ヘブル 10:1) ここでは、年ごとにささげ続ける同じいけにえによっては、決して人々を完全にすることはできないとしています。律法はやがて来るよいものの影であり、本物ではありません。やがて来るイエス・キリスト、救世主が、人類の罪をすべて贖うために──イスラエル人が年毎の罪を一度で永遠に贖ったように──バプテスマを授けられ、十字架につけられて、一度で永遠に人類を完全になさいました。 ですから、ヘブル人への手紙第 10 章には、次のようにあります。「また、『さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。』と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。また、すべての祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。『それらの日の後、わたしが彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。』またこう言われます。『わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。』これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です」(ヘブル 10:9-18)。 聖徒は、イエスがバプテスマと十字架上の血とによって世の罪のすべてから人類を救われたと信じています。 心と頭に刻まれた、水と御霊によって新たに生まれる救済
みなさんは、イエスの完全な救済を信じていますか? ──アーメン──みなさんは、人類を救うためにイエス・キリストご自身がバプテスマを授けられ、十字架上で血を流されたという神のみことばに、信仰をもって従いますか? 新たに生まれるためには、みことばを信じなければなりません。イエス・キリストが贖いの福音によって世の罪とともに人類の罪をすべて洗い流されたと信じるなら、人は救われます。 神の律法に従うことによっては、人は決して罪から自由にはなりません。しかし、みわざへの信仰によって、人は完全になることができるのです。イエス・キリストは、ヨルダン川でのバプテスマによって人類の罪をすべて取り除かれ、十字架上で人類の罪の裁きを受けられ、罰されたのです。この福音を心の底から信じることによって、人は罪のすべてを贖われ、義人となることができるのです。これを信じますか? イエスのバプテスマと磔刑、そしてよみがえりとは、神の限りない無条件の愛に基づいた、人類の罪すべての贖いのための救済の律法なのです。神は人類を愛されますが、神は正しい方であられるので、まず人間を義人になさるのです。神は、人類の罪をすべてバプテスマによってイエスの上に移されて、人間を義人となさいました。 神は人類の罪のすべてを洗い流されるために、一人子イエスをこの地上に遣わされました。イエスがバプテスマによって彼らの毎日の罪をすべて取り除くようになさり、それから人類の罪のすべてのために御子を十字架上で裁かれたのです。神は、水と血と、神の人間に対する愛であるアガペーによる救済によって、人類を義である子どもとなさいました。 ヘブル人への手紙第 10 章 16 節には次のようにあります。「わたしは、わたしの律法を彼らの心に書き、彼らの思いに書きつける。」 心と思いにおいて、人は神の前に罪人ですか、義人ですか? 神のみことばを信じるのなら、人は義人となります。イエス・キリストは人類の罪をすべて取り除かれ、そうして負われた罪のために裁かれました。イエス・キリストは救い主です。「人は毎日罪を犯します。どうして義人になれるのでしょう。人間は絶対に罪人なのです」と思われるでしょう。しかし、キリスト・イエスが父なる神に従われたように神のみことばを信じるなら、人は義人となるのです。 もちろん、前にも申しましたように、新たに生まれる前には、人間の心には罪があります。罪の贖いの福音を心に受け入れると、人はすべての罪から救われるのです。福音を知らないうちは、まだ罪人です。しかし、イエスによる救済を信じるようになると義人となり、神の義である子どもとなるのです。これが、使徒パウロの語った義人となる信仰です。贖いの福音への信仰が人を「義人」とします。 使徒パウロもアブラハムも、信仰における先人も、行ないによってではなく、神のみことば、罪の贖いの恵みのみことばへの信仰をもつことによって義人となったのです。 ヘブル人への手紙第 10 章 18 節には、「これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です」とあります。書き記されているとおり、神は人類が罪のために死ぬことのないよう、救われました。これを信じますか? ──アーメン── ピリピ人への手紙第 2 章には、次のようにあります。「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ 2:5-11) イエス・キリストは、神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ (ヘブル 1:3) でありがなら、ご自分のためには栄光を求められませんでした。そうではなくて、しもべの形をとられ、人間の姿で来られました。キリストは人類を救われるためにご自分を卑しくなさり、死にまで従われたのです。 ですから、イエスを「主は神、救い主で王です」とたたえるのです。神に栄光をささげ、イエスをたたえるのは、イエスが父なる神のみこころに最後まで従われたためです。従われなければ、今神の御子に栄光をささげてはいなかったでしょう。しかし、御子が父なる神のみこころに死に至るまで従われたために、すべての被造物とこの地上の人間は、主を永遠にたたえ続けるでしょう。 イエス・キリストは、世の罪を取り除く神の子羊となられました。イエスはバプテスマによって罪を取り除かれたと記されています。イエスが世の罪を取り除かれてから約二千年が過ぎました。みなさんや私は、誕生以来この世界に生きております。そして、私たちの罪はみな、世の罪に含まれています。 原罪と人間が生涯に犯す罪との別なく、人は生まれた時から罪を犯しているのではありません? ──はい。罪を犯しています。── イエスは、人間が生まれてから死ぬまで罪を犯すことをご存じだったので、前もってすべての罪を取り除かれたのです。わかりましたか? 人が七十歳まで生きるなら、その罪はダンプカー百台分以上になるでしょう。しかし、イエスはバプテスマによってすべての罪を一度で取り除かれ、それを十字架まで運ばれました。
イエスが原罪だけを取り除かれたのなら、人間はみんな死んで地獄に行くでしょう。イエスがすべての罪を取り除かれたはずはないと感じたとしても、イエスが人類の罪をすべて取り除かれたという事実は決して変わりません。 人は、この世界でどれだけの罪を犯すものでしょう? 私たちが犯す罪はみな、世の罪に含まれています。 イエスがヨハネにバプテスマを授けよとおっしゃったとき、文字通りの意味でそうおっしゃったのです。イエスご自身が、人類の罪をすべて取り除いたとあかしなさいました。神はイエスの前にしもべを遣わされて、イエスにバプテスマを授けるようになさいました。人類の代表であるヨハネからバプテスマを授けられ、バプテスマをお受けになるために彼の前で頭をたれて、イエスは人類全員の罪をすべて取り除かれました。 人間が二十歳から三十歳までに犯す罪のすべて、三十歳から四十歳等々、子孫の罪までも、イエスがバプテスマによって取り除かれた世の罪に含まれているのです。 この世に罪が残っていると、誰が言えるでしょう。イエス・キリストは世の罪をすべて取り除かれました。人はみな、イエスが人類の罪を贖われるためになさったこと、すなわちバプテスマと尊い血を流されたこととを一抹の疑いもなく心に信じたとき、救われるのです。 たいていの人間は落ち着きのない生を、人生がいかにも重要であるかのように話し、自分なりの考えにとらわれて生きます。しかし、より厳しい生き方をする人は大勢います。多くの人は落ち着きのない生き方をします。私もまた、新たに生まれる前はそのような生き方をしていました。どうして贖いの福音、イエスのバプテスマと血を理解したり認めたりせずにいられるでしょう。 罪人の救済は完了している
ヨハネの福音書第 19 章を読みましょう。「そして、イエスはご自分で十字架を負って、『どくろの地』という場所 (ヘブル語でゴルゴタと言われる) に出て行かれた。彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであった。ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには、『ユダヤ人の王、ナザレ人イエス。』と書いてあった。それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。」 (ヨハネ 19:17-20) みなさん、イエス・キリストは世の罪をすべて被られ、ピラトの宮殿で磔刑を宣せられました。さて、この場面について、一緒に考えてみましょう。 第 28 章には、「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く。』と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した。』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」 (ヨハネ 19:28-30) イエスは、「完了した」とおっしゃって、十字架上で死なれました。三日後、イエスは死者の中からからよみがえられ、昇天なさいました。 バプテスマのヨハネによるイエスのバプテスマと十字架上の死とは、互いに密接な関連があります。一方は他方なしには存在する理由がありません。ですから、贖いの福音によってお救いくださった主イエスをたたえましょう。 人類の肉は常に肉の要求に従います。ですから、肉によって罪を犯さずにはいられません。イエス・キリストは、人類を肉の罪からお救いになるためにバプテスマと血とをくださいました。イエスは、福音によって人類を肉の罪からお救いくださいました。 ベツレヘムに生まれ、ヨルダン川でバプテスマを授けられ、十字架上で死なれ、三日後によみがえられたイエスを信じることによって罪を完全に赦された者は、いつでも天の御国に入ることができます。主をたたえ、永遠に栄光をささげます。 ヨハネの福音書の最終章で、イエスは死者の中からよみがえられた後、ガリラヤにおいでになります。ペテロのところに行かれて、「ヨハネの子シモン、あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」とお尋ねになりました。すると、ペテロは、「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」と答えました。すると、イエスは、「わたしの子羊を飼いなさい」とおっしゃいました。 ペテロはすべてのこと、イエスのバプテスマと血の福音、罪の赦しを悟りました。さて、すべての罪の赦しを与えた水と血の福音を信じ、またイエスが自分の足を洗われた理由を悟って、ペテロのイエスへの信仰は、はるかに強くなりました。 ヨハネの福音書第 21 章 15 節をもう一度読みましょう。「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン、あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」 ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。『わたしの小羊を飼いなさい。』」イエスがペテロに小羊を託すことがおできになったのは、ペテロが完全に救われた弟子であり、また、義人として、完全な神のしもべとなったためです。 ペテロが日常の罪によって再び罪人になったなら、イエスは罪の贖いの福音を宣べ伝えよとはおっしゃらなかったでしょう。ペテロは他の弟子たち同様、毎日肉の罪を犯さずにはいられなかったからです。しかしながら、イエスは弟子たちに、すべての罪を拭い去った福音を説くようにとおっしゃいました。彼らがイエスのバプテスマと十字架上の血、罪の贖いの福音を信じたためです。 主よ。私もあなたを愛していることは、ご存じでしょう
イエスがペテロにおっしゃったことについて考えましょう。「ヨハネの子シモン、あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」 「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」 すべての罪の贖いの福音への信仰から発した彼の愛の告白は、真実です。 イエスが彼らの足を洗われることでペテロと他の弟子たちに罪の贖いの福音を教えておられなければ、このように愛を告白することは、彼らにはできなかったでしょう。 そして、イエスが「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」とお尋ねになったなら、ペテロは「主よ。わたしは不完全な人間にすぎません。私はこの人たちよりもあなたを愛することができない罪人です。どうか私にかまわないでください」と答えたでしょう。そうして、逃げてイエスから身を隠したことでしょう。 さて、ペテロの返答について考えてみましょう。彼は罪の贖いの福音、すべての人類を救ったイエスのバプテスマと血の恵みを受けていました。 ですから、「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えることができました。この愛の告白は、イエスの贖いの福音への信仰から発したものです。ペテロは、イエスがそれによって世の罪をすべて取り除いた、罪の贖いの真の福音を信じていました。世の罪には、人々が肉の不完全さと弱さのために犯すことになる未来の罪もすべて含まれています。 ペテロは罪の贖いの福音を堅く信じ、また、イエスが神の小羊であると信じていたために、ためらいなく主に答えることができたのです。イエスによる救済は、罪の贖いの福音からくるものです。ですから、ペテロは毎日犯す罪のすべてからも救われていたのです。ペテロは、すべての罪の赦しの福音による救済を信じました。 みなさんもペテロのようですか? みなさんは、贖いの福音、バプテスマと血とによりすべての罪を取り除かれたイエスを愛し、信じることができますか? どうして信じることも愛することもせずにいられるでしょう? 他に道はないのです。 イエスが過去と現在の罪だけを取り除かれて未来の罪をそのままになさったのなら、今のように主をたたえることはできないでしょう。また、人間は必ずや地獄に行くでしょう。ですから、人はみな、罪の贖いの福音を信じることによって救われたのだと告白するべきなのです。 肉は常に罪を犯してしまうものなので、人間はいつも罪を犯しています。ですから、イエスがお与えくださった罪の完全な贖いの福音、イエスのバプテスマと血の福音によって救われたと告白しなければなりません。 イエスのバプテスマと血である罪の贖いの福音を信じなければ、信者の誰ひとり生涯に犯す罪から救われることがないでしょう。さらにまた、罪を犯すたびに告白し、悔い改めることによって生涯に犯す罪を贖うのであれば、おそらく義であり続けるには、人間はあまりに怠惰なのですから、常に心に罪をもっていることになるでしょう。 それならば、罪人に戻り、イエスを愛することも近づくこともないでしょう。それでは、イエスの救済を信じていのちの終わりまで従うこともできません。 イエスは、罪の贖いの福音をお与えくださり、信じる者を救われました。イエスは完全な救い主となられ、人間が真にご自分を愛するよう、人類の日々の違反をすべて洗い流されました。 信者は、イエスのバプテスマと血の福音、罪の贖いを愛さずにはいられません。信者はみなイエスを永遠に愛し、イエスがお与えくださった罪の贖いの福音による救済の愛に心を奪われるのです。 聖徒のみなさん。イエスがごくわずかの罪でも残されたなら、みなさんは、イエスを信じることも罪の贖いの福音の証人となることもできないでしょう。神のしもべとして働くことはできないでしょう。 しかし、罪の贖いの福音を信じるならば、すべての罪から救われるのです。イエスのみことばに記されている真の贖いの福音を知るならば、主はすべての罪から救われるようにしてくださいます。 「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」
神は、罪の贖いの福音を完全に信じたしもべに小羊を託されました。イエスは三度問われました。「ヨハネの子シモン、あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」すると、ペテロは、そのたびに「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」と答えました。さて、ペテロの答えについて考えてみましょう。これは、ペテロの意思の表現ではなく、罪の贖いの福音への信仰の表現であることがわかります。 誰かを愛するとき、それが意思に基づくものであるなら、心が弱くなると衰えるでしょう。しかし、その愛が神の愛の力によるものであるなら、それは永遠に続きます。神の愛、すなわち、すべての罪の完全な贖い、イエスのバプテスマの水と御霊による救済は、このようなものです。 罪の赦しの福音への信仰が、主への愛と行ないとの基とならなければなりません。自身の意思によってのみ愛するのなら、明日つまずいて、自らの不正のために自分を憎むことになるでしょう。しかしながら、イエスはすべての罪を洗い流してくださったのです。原罪も、過去に犯した日々の罪も、今日と明日の罪も、そして、生涯の罪のすべてを。イエスは誰ひとりをも救済から除かれません。 これはすべて真実です。愛と信仰とが意思と決意に基づくものであるなら、信仰においてつまずくでしょう。しかし、愛と信仰がイエスがお与えくださった罪の赦しの福音によるものなので、聖徒はすでに神の子ども、義人なのです。水と御霊の救済を信じているので、聖徒には罪がありません。 自身の善良さによってではなく、神の愛と罪の赦しによる真の救済の律法によって救済が訪れたために、聖徒は人間としてどんなに不完全で弱くとも義人なのです。聖徒は天の御国に入り、永遠に神をたたえます。これを信じますか? ヨハネの手紙第一第 4 章 10 節には、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました」とあります。イエスは水と御霊によって人類を救われました。ですから、人は赦しの福音、イエスのバプテスマと血とを信じるのです。 神が赦しの福音によって救ってくださらなければ、どんなに篤く信じようと、救わることはできなかったでしょう。しかし、イエスは、人間が心と肉とで犯す罪のすべてを洗い流してくださいました。 義となるためには、水と御霊のみことば、贖いの福音による救済に確信をもっていなければなりません。世の罪のすべての赦しの福音は、イエスのバプテスマと血とからなります。赦しの福音こそが真の信仰の内容、救済の真の基盤、神の御国に入る鍵なのです。 自分の思いによる信仰を捨てよ
人間の思いから生じる信仰や愛は、真実の信仰でも真実の愛でもありません。この世界には、最初はよい心がけでイエスを愛しながら、後に心の中の罪による苦しみのためにすっかり信仰を捨ててしまう人が大勢います。 しかし、イエスは世の罪のすべてを、些細な不法だけではなく、無知から犯した深刻な罪までも洗い流されたことを知っていなければなりません。 ヨハネの福音書第 13 章では、弟子たちにご自分の救済が包括的・普遍的なものであることをお教えになるために、イエスは磔刑を受けられる前、弟子たちを集められます。弟子たちとの食事中、イエスは席を立たれ、弟子たちの足を洗われて、完全な救済の真理を彼らの心に刻み付けられました。人はみな、イエスが弟子たちの足を洗うことでお教えになった赦しの福音を知り、信じなければなりません。 このとき、ペテロは最初、イエスに自分の足を洗わせまいとしました。「決して私の足をお洗いにならないでください。」 これは、自分の思いから生まれた信仰の表れでした。しかし、イエスは「わたしがあなたたちの足を洗う理由は、今はあなたにはわからないが、後でわかるようになります」とおっしゃったのです。 さて、水と御霊の福音によって、理解を超えた聖書のことばを理解することができます。これは真理のみことばです。水と御霊の福音、罪の赦しを心のすべてで信じることによって、罪人は義人となることができるのです。 ペテロは、イエスと出会う前にもそうしていたように、他の弟子たちと漁に出ました。すると、彼らの前にイエスが現われて、呼びかけられました。イエスは彼らのために朝食を用意なさっていました。そして、朝食をとっていると、ペテロはイエスが以前におっしゃったことの意味に気づきます。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」イエスが彼の足を洗われたことの意味をついに理解したのです。 「主は私の罪を洗い流されたのだ。私が弱さのために犯した罪のすべて、未来に犯す罪までも。」ペテロは自分の思いや決意から生まれた信仰を捨て去り、イエスのバプテスマと血、罪の赦しの福音に堅く立つようになりました。 朝食後、イエスはペテロに問われました。「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」今度は、イエスの愛への信仰に基づいて、ペテロは告白します。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」ペテロが答えることができたのは、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」とイエスがおっしゃった意味を理解したためです。彼は真の信仰、イエスのバプテスマと血、罪の赦しの福音への信仰を告白することができました。 その後で、彼は神の真のしもべとなった この経験の後、ペテロと他の弟子たちは、死の時まで福音を説きました。執拗にキリスト教徒を迫害したパウロでさえも、ローマ帝国での困難な日々の中、福音をあかししました。
イエスの十二人の弟子のうち、ユダはイエスを売り、後に首を吊ります。彼の代わりに入ったのが使徒パウロでした。弟子たちは自分たちの中からマタイを選びましたが、神が選ばれたのはパウロでした。そこでパウロはイエスの使徒となり、他の弟子たちとともに罪の赦しの福音を説きました。 イエスの弟子のほとんどは殉教しました。死をもって脅されても、彼らは信仰を否定せず、本来の福音を説き続けました。 彼らは、このように説いたでしょう。「イエス・キリストは、バプテスマと血、すなわち罪の赦しの福音によって、みなさんの肉の罪をすべて洗い流されました。イエスはヨルダン川でのバプテスマによってみなさんの罪をすべて取り除かれ、みなさんに代わって十字架上で裁きを受けられたのです。イエスのバプテスマと十字架上の血を信じて救われなさい。」 本来の福音を聞き信じることで、実際に数多くの人々が救われました。これは、イエスのバプテスマと血、そして御霊の福音への信仰の力でした。 弟子たちは、水と御霊の福音を「イエスは神で救い主です」と言って説きました。彼らが水と御霊の福音をあかししたために、現在、私たちはイエスのバプテスマと血の福音を救済として聞き、罪から救われることができるのです。神の無限の愛とイエスの完全な救済とによって、人はみなイエスの弟子となります。 みなさんは、これを信じますか? イエスは人類を深く愛されたために水と御霊の福音、罪の赦しをお与えくださいました。そして、聖徒はイエスの義である弟子となったのです。赦しの真の福音をお教えになるために、イエスは弟子たちの足を洗われました。 イエスが弟子たちの足を洗われたのは、世の罪はすべて、人が生涯を通じて犯す罪を含めて、イエスがバプテスマを受けられ、十字架上で血を流されたときに完全に洗い流されたことをお教えになるためでした。イエスの愛と赦しの福音に感謝いたします。 イエスは、弟子たちの足を洗って二つのことを教えられました。第一に、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」とおっしゃったことですが、人類の罪はすべて赦しの福音、イエスのバプテスマと血とによって洗い流されたということ。 第二に、イエスが罪人を救われて義となさるために自らを卑しめられたように、新たに生まれた者は赦しの福音を説いて他の人々に仕えなければならないということ。先に来た聖徒が後に来た者に仕えるのは正しいことです。 過越の祭りの日にイエスが弟子たちの足を洗われた理由は明瞭で、それは今も教会に伝えられています。 弟子は、決してその師より高くなることはありません。ですから、福音を世に説き、イエスに仕えているかのように仕えるのです。先に救われた私たちは、後から来た人々に仕えなければなりません。これをお教えになるために、イエスは弟子たちの足を洗われたのです。さらに、ペテロの足を洗われることによって、人類が二度と悪魔に欺かれることがないように、ご自分が完全な救い主であられることを示されたのです。 罪の赦し、水と御霊の福音を信じることによって、人はみな救われるのです。バプテスマと磔刑、そしてよみがえりによって、イエスは人類の罪をすべて洗い流されました。イエスの福音を信じる者だけが世の罪から永遠に救われるのです。 日々の罪のすべてを洗い流した福音を信じる 赦しの福音、水と御霊のみことばを信じることによって悪魔の欺きを断つことができます。人々は悪魔に容易に欺かれます。そして、悪魔は常に彼らの耳にささやきかけています。人の肉は世の中でやむことなく罪を犯すものです。どうして罪なき者となれるでしょう。人はみな罪人です。 しかしながら、答えはあるのです。「イエスはバプテスマによって世の罪をすべて取り除かれたのです。どうして信者に罪があるでしょう。イエスは罪の報いをすべて支払われたのです。支払うべきどんな報いが残っているというのでしょう。」 水と血の福音を信じていなければ、悪魔の言葉は筋が通っているように聞こえます。しかし、福音を信じる者は、神のみことばに揺るがぬ信仰をもっているのです。 水と血によって新たに生まれる福音への信仰をもちましょう。真の信仰とは、イエスのバプテスマ、十字架上の血、死、そしてよみがえりの福音を信じることです。 みなさんは、聖なる幕屋の模型の写真を見たことがありますか? これは、小さなテントです。内部は二つに分かれています。外側は聖所、そして内側は至聖所で、そこに『贖いのふた』が置かれています。 聖なる幕屋の外庭には合計六十の柱が立ち、聖所には四十八枚の板が使われています。神のみことばを理解するには、聖なる幕屋を思い描く必要があります。 幕屋の庭の門は、何でできていますか?
幕屋の庭の門は、出エジプト記第 27 章 16 節に描写されています。「庭の門には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を使った長さ二十キュビトの刺繍した幕と、その四本の柱、その四個の台座とする。」幕屋の庭の門に使われた素材は青・紫・緋色の撚り糸、そして亜麻糸でした。それは複雑に織り出され、色鮮やかなものでした。 神は、誰もが容易に入口を見出せるように、門を青・紫・緋の糸を使って色鮮やかに織るようにとモーセに命じられました。青・紫・緋、それに亜麻糸で織られた門は四本の柱から吊られました。 四つの素材は、神の救済の計画を象徴しています。イエスのバプテスマと血によって、御子を信じる者すべてをお救いになること、イエスが神であられるということを。 聖なる幕屋を作るのに用いられた各素材にはそれぞれ特別な意味があり、神のみことばとイエスによって人類をお救いになるご計画を表わしているのです。 さて、幕屋の庭の門には、何種類の素材が用いられていましたか? 四種類の素材が用いられていました。青・紫・緋色の撚り糸、そして亜麻布です。この四つは、新たに生まれる福音への信仰を深めるうえで重要な意味をもっています。重要でなければ、この情報はこんなにも詳細に聖書に記されていなかったでしょう。 聖なる幕屋の庭の門に用いられた素材はみな、人類救済に重要な意味をもっています。ですから、神はそうしたことをモーセに明かされ、おっしゃるとおりにするようにと命じられたのです。 神の福音において、青・紫・緋色の糸はどんな意味をもつか
聖なる幕屋の内側でもまた、青・紫・緋色の撚り糸、そして亜麻布が至聖所との間に吊られた垂れ幕に用いられていました。同じ素材は、年に一度至聖所に入ることができた大祭司の衣にも用いられました。 青い糸はイエスのバプテスマを象徴します。ペテロの手紙第一第 3 章 21 節には、「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです」とあります。ペテロは、世の罪をすべて取り除いたイエスのバプテスマを贖いの救済の型であると断言しました。人類の罪はみな、バプテスマによってイエスの上に移されました。ですから、青い糸、イエスのバプテスマは救済のみことばの最も重要な部分なのです。 緋の糸はイエスの血、紫の糸は神性、すなわち、王と神であられるイエスの地位を象徴します。糸の三色は、イエスとイエスによる救済への信仰に不可欠です。 大祭司のつけた豪華な外衣はエポデと呼ばれ、エポデの下の衣の色もまた青でした。大祭司は頭にターバンを被り、それには「主への聖なるもの」と刻まれた純金の札がついていました。札もまた青いひもでターバンにつけられていました。 青い糸の示す真理
私は聖書で青い糸の意味を調べました。聖書は青について、何と言っているでしょう? 青・紫・緋色の糸の中での青い糸を理解する必要があります。 青い糸は「水」、すなわちイエスのバプテスマを表わします。イエス・キリストは、世の罪をすべて取り除くために (マタイ 3:15) バプテスマのヨハネからバプテスマを授けられました。 イエスが世の罪をすべて取り除かれなければ、人間が神の前で聖化されることはなかったでしょう。ですから、イエス・キリストはこの世に来られ、世の罪をすべて取り除かれるために、ヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを授けられなければならなかったのです。 聖なる幕屋の庭の門に青い糸がなければならなかったのは、イエスのバプテスマがなくては、人が聖化されることはなかったためです。 緋の糸はイエスの血、死を表わしています。紫はイエスの神性、すなわち、「唯一の主権者、王の王、主の主」(テモテI 6:15) という地位を示します。 緋色の糸は、全人類の罪の報いを支払うために十字架上で流されたイエスの血を象徴しているのです。イエス・キリストは、バプテスマによって人類の罪すべてを被られるために肉の形でこの世においでになり、十字架上でいけにえとなって罪をすべて贖われました。イエスのバプテスマと血とは、旧約の聖なる幕屋に用いられた糸の色で預言された赦しの真の福音なのです。 幕屋の柱はアカシア材で、台座は青銅、青銅の台座には銀の帯輪がついています。 罪から来る報酬は死ですから、罪人はみな、その罪によって裁かれます。旧約の時代、神の恵みを受けて新たないのちを受けるには、人は罪のためのささげ物をささげなければなりませんでした。 しかしながら、聖なる幕屋の青い撚り糸を表わす新約のイエスのバプテスマは、人類の罪をすべて取り除きました。イエスは人類の罪をすべて十字架に運ばれ、負われた罪のために血を流され、裁かれ、それによって、赦しの福音を信じる者すべてを救われました。イエスは王の王、聖なる神です。 キリスト教徒のみなさん、イエスのバプテスマが救済であったのです。イエスは罪をすべて取り除くことによって人類をお救いくださったのです。神であられるイエスは肉の形でこの世界においでになり (紫の糸)、世の罪をすべて取り除かれるためにバプテスマにをお受けになり (青い糸)、人類に代わって裁きを受けられて十字架上で血を流されたのです (緋の糸)。イエスのバプテスマは、イエスが全人類の真の救い主となられたことを疑問の余地なく示しているのです。 また、聖なる幕屋の門に用いられた色にも、このことを見てとることができます。 門の幕に青・紫・緋の撚り糸で刺繍したことが神の救済の真理を明らかに告げています。ここで撚り糸は、神が例外なくすべての人類を救われたことを意味します。これは、贖いの救済に絶対に必要なことでした。 同じ素材が聖なる幕屋の門に用いられていることから、イエス・キリストが無計画に、でたらめに罪人を救われたのではないことがわかります。イエスは神の注意深く詳細なご計画に基づいて、人類救済を完全に成就なさるためにバプテスマを受けられ、十字架につけられ、死者の中からよみがえられたのです。青・紫・緋の撚り糸、赦しの福音の素材によって、イエスは救済を信じる者すべてを救われたのです。 旧約の青銅製洗盤は新約のバプテスマの影
洗盤は青銅でできていました。青銅は、イエスが人類に代わって受けられた裁きを表わします。洗盤は、人類の不正のすべては洗い流されたという、福音のみことばを象徴しています。 これは、日々の罪がどのようにして洗い流されたかを示します。人類全員の日々の罪は、イエスのバプテスマのみことばへの信仰によって洗い流されるのです。 全焼のいけにえの祭壇は、裁きを表わします。青で表わされるイエスの水は、罪の贖いの福音、つまり、バプテスマのヨハネにより授けられた福音です(マタイ 3:15;ヨハネI 5:5-10)。これは、贖いによる救済の福音をあかしするものです。 ヨハネの手紙第一第 5 章には、次のようにあります。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。…… あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」 また、神の御子を信じる者は水と血と御霊のあかしを内にもつともあります。 神は、人が贖いの福音への信仰によって聖化されて聖なる幕屋に入ることができるようになさいました。ですから、人間は信仰に生き、神のみことばを糧とし、恵みを受け、義人として生きることができるのです。神の民となるということは、贖いの福音への信仰によって救われ、聖なる幕屋の中で生きるということを意味します。 聖なる幕屋の門の青・紫・緋色の糸の意味を考えなくとも、信じるだけで十分だと言う人が、現在は大勢います。こうしたことを知らずにイエスを信じるなら、心にまだ罪があるのですから、その人の信仰は本物ではありません。こうした人の心にまだ罪があるのは、水と血と御霊の贖いの福音によって新たに生まれる真理を信じないためです。 ほとんど知らない人を評価するように求められたなら、そして、聞き手を喜ばせたいなら、人はこう答えるでしょう。「ええ、この人を信用していますよ。もちろん、これまでにお会いしたことはありませんが、それでも信用します。」 相手はこれを聞いて、喜ぶでしょうか? 人間関係においてこのような振る舞いをする人は、いるでしょう。しかし、これは神が人間に求められるような信頼ではありません。 神は人間が罪の赦しの福音、青 (イエスのバプテスマ)・紫 (イエスの神性)・緋 (イエスの血)の撚り糸に表わされたイエスの救済を信じることを求められす。イエスを信仰する前に、イエスがどのようにして人類をすべての罪から救われたかを知る必要があります。 イエスを信じるには、イエスがどのようにして水 (イエスのバプテスマ)と血 (イエスの死)・御霊 (イエスが神であられること) によって人類をすべての罪から救われたかを知らなければなりません。 ほんとうに理解したとき、本物の完全な信仰を経験するのです。信仰は、この真理を知ることなくしては、決して完全ではありません。真の信仰は、イエスの救済、赦しの福音、イエスが人類の真の救い主であることのあかしを理解することによってのみ得られるのです。 では、イエスを嘲る信仰とは、どのようなものでしょう? みてみましょう。 イエスを嘲る信仰
イエスを恣意的に信じることは、イエスを嘲ることです。「ほんとうとは思えないけれど、イエスは神で神の御子なのだから、信じなくてはいけないな」と思うなら、その人はイエスを嘲っているのです。ほんとうに新たに生まれたいのなら、イエスのバプテスマと血、贖いの福音を信じるのです。 贖いの福音を知らずにイエスを信じることは、全くイエスを信じないことよりも悪いことです。イエスの血だけを説くことは、真理を知らない空しい行ないです。 イエスは、人が恣意的に信じることを説いて回ることや、理由もなく信仰をもつことを望まれません。贖いの福音を知って信じることをイエスは望まれます。 イエスを信じるには、贖いの福音はイエスのと血だと認める必要があります。イエスを信じるには、みことばによって贖いの福音を知り、どのようにして罪のすべてを洗われたかを具体的に知っていなければなりません。 また、聖なる幕屋の青・紫・緋の糸が何を示すものであるかを知らなければなりません。そうしてはじめて、永遠に続く真の信仰をもつことができるのです。 イエスを信じ、青・紫・緋の意味を知ることなしには決して新たに生まれることはできない
主イエスは人類を完全に救われました。イエスがどんなに完全に人類を救われたかを知ると、主をたたえずにはいられません。聖なる幕屋を見ましょう。主は聖なる幕屋の青・紫・緋の糸によって贖いの福音のみことばをくださいました。主に感謝し、たたえます。 罪人は、恐ろしい裁きを経ずには聖所に入ることができませんでした。罪を裁かれずに、どうして聖所に入れるでしょう? 不可能でしょう。そのような人が聖域に入ったなら、たちどころに殺されたでしょう。それは恐ろしい呪いです。罪人は、決して聖所に入って生き延びることができません。 主は、聖なる幕屋の門に隠された秘密によって人類を救われました。青・紫・緋色の撚り糸、そして亜麻糸によって主は人類を救われました。これらによって、主は救済の秘密を告げられました。 みなさんや私はそのように救われましたか? 青・紫・緋の糸のみことばを信じないなら、贖いの福音による救済はあり得ません。青は神を象徴するのではありません。これは、イエスのバプテスマを象徴するものにほかなりません。これは、人類の罪をすべて取り除かれたイエスのバプテスマです。 人は青い糸を信じることなしに全焼のいけにえの祭壇までは進むことができます。しかしながら、神のいます聖所に入ることはできません。 ですから、聖なる幕屋に入る前には、青い糸 (イエスのバプテスマ)・緋の糸 (十字架上の血)・紫の糸 (イエスが神、神の御子であられること) を信じなければなりません。信じてはじめて神に認められ、至聖所の垂れ幕の向こうに入ることができたのです。 幕屋の外庭に入って、自分は中にいるものと思う人々がいます。しかし、これは救済ではありません。救われるには、どこまで行かなければならないのでしょう? 至聖所に入れなければなりません。 至聖所に入るには、青銅の洗盤を通り抜ける必要があります。青銅の洗盤はイエスのバプテスマを表わします。人はイエスのバプテスマによって日々の罪をすべて洗い流し、聖化されなければ聖所に入ることができないのです。 旧約では、祭司は入る前に手足を洗わなければなりませんでした。新約では、イエスが弟子たちの足を洗われて、生涯の違反を洗い流すことを象徴的に示されました。 神の律法には、「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ 6:23) とあります。神は人間の罪を例外なく裁かれますが、それを御子の上に移され、身代わりに御子を裁かれたのです。これが神の愛、救済です。真の救済は、イエスのバプテスマ・血・死、そしてよみがえりを含む贖いの救済を信じたときに受けられるのです。 新たに生まれるためには、聖書に記された真理、罪の贖いの福音を軽んじてはならない
私は決して他の人々を軽んじません。人が私のよく知らないことを話しているときには、説明してくれるようにお願いします。しかし、聖なる幕屋の意味することについて聞きまわっても、誰も答えることができませんでした。 では、どうすればよいのでしょう? 聖書に戻らなければなりませんでした。聖書のどこに、聖なる幕屋についての記述があるでしょう? 出エジプト記に詳細に述べられています。これを注意深く読むならば、神の記されたみことばからその意味を理解することができます。 みなさん、イエスを好き勝手に信じることによっては、人は救われません。定期的に教会に通うだけでは、新たに生まれることはできません。イエスはニコデモにおっしゃっいました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ神の国にはいることができません。……あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」(ヨハネ 3:5;10) イエスを信じる者はみな、青い糸 (世の罪はすべて、イエスがバプテスマを授けられた時にその上に移された)・緋の糸 (人類の罪のすべてのためにイエスが死なれたこと)・紫の糸 (イエスは救い主、神、神の御子であられる) を信じるのです。 イエスは世のすべての罪人の救い主であられると信じるのです。この信仰なくしては、人は決して新たに生まれることも神の御国の聖所に入ることもできません。これなくしては、この世で忠実に生きることもできません。 イエスを信仰するだけで新たに生まれることができたら、ほんとうに簡単ですよね。──はい──「♫ あなたは救われた。私は救われた。私たちはみな救われた。 ♫ 」 なんとすてきでしょう。しかし、真に「新たに生まれる」ことなくイエスを信じる人は、実に多いのです。 イエスを信仰するとともに、聖書の真理を知っておく必要があります。聖なる幕屋に入り、信仰の領域で神とともにあるためには、聖書にある罪の赦しの福音と青・紫・緋の糸の意味とを理解しなければなりません。信仰の幕屋の中で、聖徒はイエスが御国をもたらしに再臨されるまで幸福に暮らすことができます。イエスを正しく信じることがぜひとも必要です。 真の福音は青い糸によって聖化する
人々は、失敗することなく完全に生きることができると考えます。しかしながら、よくあろうと努力すればするほど、自分の欠点がより目につくのです。人間はあまりに不完全なので、罪を犯さずにいるのは不可能です。しかしながら、イエスが青・紫・緋、贖いの福音によって救ってくださったので、聖化されて聖所に入ることができるのです。 神が青・紫・緋の糸によって救ってくださらなければ、人間は自力では決して聖所に入ることができなかったでしょう。これは、なぜでしょう? 肉によって完全に生きる者だけが聖所に入ることができるのなら、その資格のある者は一人もいないでしょう。真の福音を知らずにイエスを信じるなら、それによって心にもう一つ罪が加わるだけなのです。 イエスは注意深く計画された救済、青・紫・緋の糸と亜麻布による救済によって人類を救われました。イエスは人類の罪をすべて洗い流されました。これを信じますか? ──はい──赦しの福音を心にもち、それをあかししますか? ──はい── 福音をあかししてはじめて、人は額に「主への聖なるもの」と刻んだ金の札を額につけ、「王である祭司」の列に加わることができるのです(ペテロI 2:9)。そうしてはじめて、人々の前に立ち、自分が神のしもべであり、王である祭司として働いているのだと言うことができるのです。 大祭司のターバンには金の札がつけられていました。札は青いひもでつけられていました。なぜ青なのでしょう? イエスが赦しの福音によって人類を救われ、バプテスマによって人類の罪のすべてを取り除かれ、罪のない者となさったためです。新約のバプテスマは、旧約の手を置くことに対応します。 どんなに勤勉に誠実にイエスを信じようと、青・紫・緋の糸の秘密のことばを知ることなしには「主への聖なるもの」と刻まれた札を得ることはできません。 聖徒はどうして義となったのでしょう? マタイの福音書第 3 章 15 節には、「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」と記されています。イエスはバプテスマを授けられ、人類を世の罪のすべてから救われました。バプテスマによって、イエスは人類の罪をすべて取り除かれました。そして、信じる者は義人となりました イエスのバプテスマがなければ、人はどうして自分には罪がないと言えるでしょう? 十字架上での死のことを考えてイエスを信じ、叫んでも、この世のすべての涙をもってしても、人間の罪をすべて洗い流すことはできないのです。だめです。どんなに叫び、悔い改めても、罪は内に残るのです。 「主への聖なるもの。」主はバプテスマと血とによって人類の罪をすべて取り除かれました。主は罪人の罪がすべてイエスの上に移されるようになさいました。また、救済のみことばは聖書に記されているので、聖徒はあらゆる欠陥や弱さにもかかわらず、信仰によって義人となりました。 ですから、今は神の前に立つことができるのです。今は義人として生き、福音を世界に宣べ伝えることができます。「♪私は救われた。あなたは救われた。私たちはみな救われた。♪」私たちはみな、神の慈悲深いご計画にしたがって救われました。 心の中に贖いの福音のみことばがなければ、どんなに努力しても救済は得られません。これは、韓国の報われぬ愛を歌った歌にあるようなものです。「♫ あの子を見るたびに、わけもなく胸がときめく、あの子のそばにいると。これが片思いというものなのか。 ♫」自分の心臓はドキドキしますが、彼女の心臓は違います。私の愛は決して報われません。残念ながら、神に報われぬ恋をしているキリスト教徒は実に多いのです。 人々は、救済は大勢の人々にさまざまに訪れるものだと考えがちです。その人たちは、「どうしてバプテスマの福音によってしか得られないのです」と尋ねます。しかし、イエスのバプテスマの福音でなければ、完全な救済ではあり得ないのです。これによってのみ完全に罪を洗われるのですから、これが神の前に義となることのできる唯一の道なのです。 イエスがお与えくださった青い糸の救済とは何か 青・紫・緋の糸による福音は、神からすべての人類への贈り物です。この贈り物によって、人間が聖なる幕屋に入り、安らかに生きることができるようになったのです。これは人間を義とし、教会の中で生き、教会を通じて聖書によって訓練されることができるようにしました。
神の前に祈りに行くといつも、福音は神の愛によって恵んでくれます。聖徒にとって救済がそんなにも尊いのは、このためです。イエスは、信仰の家を「岩の上」に建てよとおっしゃいました。「岩」とは、イエスのバプテスマの福音です。人はみな救われ、救済とともに生き、天国に行き、永遠のいのちを受け、神の子どもとなるのです。 みなさん、贖いの福音のおかげで聖徒は信仰をもって聖なる幕屋に入ることができました。すべての罪が洗われた (イエスのバプテスマ) おかげで、イエスのバプテスマの福音への信仰をもつことによって救われました。 すべての罪の完全な贖い、イエスのバプテスマと血とが人類の罪をすべて洗い流した福音です。これを信じますか? 真の福音は、人類の罪をすべて洗い流した贖いの天の福音です。 贖いの福音を信じて、聖徒は新たに生まれました。イエスは日々の罪のすべてと未来の罪全部までも洗い流した贖いの福音をくださいました。主をたたえよ。ハレルヤ! 水と御霊の福音 (水と血の福音) とは、イエス・キリストによって完了され、説かれた、真の福音です。この本は、イエスの福音の奥義、水と御霊の福音を明かすために著されました。 完全な真理を知ることなくイエスを信じている人が大勢いるのですが、その人たちは、キリスト教の教義 (いわゆる宗教哲学) の世界で原理主義者とか宗教的多元主義者であることを誇っているだけです。つまり、人々は異端と迷いの中で生きているのです。ですから、真の福音に戻って信じなければなりません。まだ遅くはありません。 水と御霊によって新たに生まれる福音について疑問のある人々のために、第二巻でより詳細に述べることにします。 |