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幕屋に明かされた罪人の救済
< 出エジプト記 27:9-21>
幕屋の庭を造る。南側に面して、庭の掛け幕を、その側のための長さ百キュビトの撚り糸で織った亜麻布を、張る。柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀とする。同じように、北に面して、その長さで、長さ百キュビトの掛け幕とする。柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀とする。また、西に面して庭の幅には五十キュビトの掛け幕と、その三本の柱、その三個の台座とする。前面の東に面する庭の幅も五十キュビト。片側に寄せて、十五キュビトの掛け幕と、その三本の柱、その三個の台座とする。他の片側にも十五キュビトの掛け幕と、その三本の柱、その三個の台座とする。庭の門には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を使った長さ二十キュビトの刺繍した幕と、その四本の柱、その四個の台座とする。庭の周囲の柱はみな、銀の帯輪を巻きつけ、その鉤は銀、台座は青銅とする。この庭は、長さ百キュビト、幅は五十キュビトに五十キュビト、高さ五キュビト、幕は撚り糸で織った亜麻布、その台座は青銅とする。幕屋の奉仕に用いるすべての用具、すべての釘、庭のすべての釘は青銅とする。あなたはイスラエル人に命じて、燈火用に上質の純粋なオリーブ油を持って来させ、ともしびを絶えずともしておかなければならない。アロンとその子らは、あかしの箱の前の垂れ幕の外側にある会見の天幕で夕方から朝まで、主の前にそのともし火をととのえなければならない。これはイスラエル人が代々守るべき永遠のおきてである。
幕屋の長方形の庭の囲いは、長さ百キュビトありました。聖書では、キュビトはひじから指先までの長さとされていました。現在の約
45cm に当たります。ですから、幕屋の庭の囲いが百キュビトあったということは、約 45m だったということであり、その幅が 50
キュビトだったということは、幅約 22.5m だったということになります。旧約の時代に神がイスラエル人の間に宿られた家は、このような大きさだったのです。
幕屋の庭は幕で囲まれていた
幕屋の模型の写真や絵をご覧になったことがありますか? 大まかに言って、幕屋は庭と神の家である幕屋自体とに分けられていました。神の家、幕屋には、聖所とよばれる小さな建物がありました。聖所は四種類の覆いで覆われていました。撚り糸で織った亜麻布と青色・紫色・緋色の撚り糸で作られた覆い、山羊の毛の覆い、赤くなめした雄羊の皮、ジュゴンの皮です。
幕屋の庭の東側にあった門には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を使った幕がかかっていました。この門から入ると、全焼のいけにえの祭壇と洗盤が見えたでしょう。洗盤のところを通ると、幕屋自体の前に来ます。幕屋は聖所と、あかしの箱が置かれた至聖所とに仕切られていました。幕屋の庭の囲いは六十本の柱からなり、白い亜麻布の幕が掛かっていました。それに対して、幕屋自体は、四十八枚の板と九本の柱からなっていました。この形式から神がおっしゃろうとなさったことを理解するには、少なくとも幕屋の外形を大まかに把握していることが必要です。
神は、四十八枚の板で造られた幕屋の中に住まわれました。昼間は幕屋の上の雲の柱、夜は火の柱として、イスラエル人にその存在を示されました。神の宿られた至聖所の中には、神の栄光が満ちていました。聖所の中には供えのパンの机・燭代・香の壇があり、至聖所の中には、あかしの箱と「贖いのふた」がありました。これらの場所は、普通のイスラエル人には足を踏み入れることのできない場所でした。幕屋の制度では、祭司と大祭司だけが入ることができたのです。「さて、これらのものが以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつもはいって礼拝を行なうのですが、第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のために差上げられるものです。」(ヘブル
9:6-7)と記されています。ここから、現在は水と御霊の福音を信じる金の信仰をもつ者だけが神に仕え、神とともに生きることができるのだとわかります。
供えのパンの机に置かれたパンには、どのような意味があるのでしょう。これは、神のみことばをあらわします。では、香の壇には、どのような意味があるのでしょう。これは、祈りを表わします。至聖所の中にはあかしの箱があり、純金でできた「贖いのふた」がその上に置かれていました。二体のケルビムが翼を広げて「贖いのふた」を覆い、いずれも「贖いのふた」に顔を向けていました。これが「贖いのふた」、神の恵みの与えられた場所でした。あかしの箱の中には、十戒の刻まれた二枚の石板と、アロンの芽を出した杖、それにマナを入れた壷が収められていました。箱は金の覆い(「贖いのふた」)でふたをされ、ふたの上ではケルビムが「贖いのふた」を見下ろしていました。
罪の赦しを受けた者の住む場所
罪の赦しを受けた者は聖所の中に住みます。聖所は四十八枚の板で造られ、板はみな金がかぶせてありました。考えてみてください。ほんの少しではなく、四十八枚の金の板を見るのです。どんなにまばゆく輝いているでしょう。聖所の内部とそこにある用具には、みな純金が使われていたので、まばゆく輝いていました。
全焼のいけにえの祭壇と幕屋の庭にあった洗盤はいずれも青銅製で、庭の囲いは銀をかぶせた柱と白い亜麻布でできていました。それに対して、聖所の中の用具は、みな金が作われていました。燭台は金で、供えのパンの机もそうでした。聖所の中の物と三面の壁にはみな純金が使われ、内部は常に金色のまばゆい光が満ちていました。
聖所の内部がこのように金の輝きに満ちていたことから、救われた聖徒は、教会で信仰をもって尊い生を生きることがわかります。水と御霊の福音の内に信仰生活を生きる聖徒は、聖所の中の純金のようなものです。そうした聖徒が聖所で生きる生とは、教会に住み、みことばを糧とし、神に祈り、たたえ、毎日神の御座の前に行き、神の栄光に包まれる恵まれた生です。これが、聖所の中での信仰生活です。水と御霊の福音によって救われた義人だけが、聖所の中で尊い信仰生活を送ることができるということを心しておいてください。
神は聖所の中と外を明確に仕切られた
たいていの家に塀があるように、幕屋の庭にも六十本の柱からなる囲いがあり、白い亜麻布の掛け幕がかかっていました。庭の東側には、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布でできた、幅九メートルもある入り口がありました。
幕屋について調べると、神が人間にお求めになるまばゆい信仰とはどのようなものか、救われた者の信仰とはどんな信仰かがわかります。また、幕屋に用いられた素材から、主がどのようにして人類を救ってくださったかを知ることができます。聖所の内部に入れられた金色のまばゆい信仰とは何かを知るには、まず洗盤・全焼のいけにえの祭壇、それに幕屋の庭に設けられた囲いと、それらを作るのに用いられた素材についてすっかり知らなければなりません。それによって、どのような信仰をもてば金色のまばゆく輝く聖所に入ることができるかがわかるのです。
幕屋の庭には何があったでしょう?洗盤と全焼のいけにえの祭壇がありました。そして、庭は六十本の木製の柱で囲まれ、柱からは亜麻布の掛け幕が吊られ、それが庭の囲いをなしていました。この囲いの柱はアカシア材でできたいました。アカシア材は、堅いわりにはとても軽いものです。この木でできた柱は高さ約
2.25m あったので、普通の背丈の人には庭の囲いの外から幕屋の内部を覗くことができないようになっていました。何か踏み台を置いたなら、たぶん庭の中は見ることができたでしょうが、そうした物なしには中をのぞくことはできませんでした。このことから、人間の努力によってはけっして神の御国に入ることができないことがわかります。
庭の木製の柱の下部には青銅の台座が置かれ、上部には銀の柱頭がありました。柱はそれ自体では立たなかったので、銀の帯輪が隣り合った柱をつなぎ合わせていました。柱を横方向に固定するために、柱の銀の覆いに銀の鉤がつけられ、ひもで青銅の釘につながれていました(出エジプト記
35:18)。
幕屋の庭の門に用いられた素材
幕屋の庭の門には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布が用いられました。
門の高さは 2.25 m、幅は約 9m ありました。そこには青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作られた幕が四本の柱から吊られていました。ですから、幕屋の庭に入ろうとする人は、いつでも容易に入り口を見出すことができたのです。
幕屋の入り口に用いられた青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布は、神が御子イエスの四つのみわざによって人類をすべての罪からお救いになることを表わしています。幕屋の庭の囲いの六十本の木の柱と亜麻布からなる囲いもまた、明らかに、神が御子イエスによってどのような方法でみなさんや私を罪からお救いくださるかを示しています。
つまり、幕屋の庭の入り口によって、神は救済の奥義を明確に明かしておられるのです。もう一度、幕屋の庭の入り口の素材を確かめましょう。青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布です。この四つの糸は、イエスを信じて救われるためにとても重要です。これらの素材が重要でなければ、聖書はこれほど詳細に記してはいなかったでしょう。
幕屋の庭の入り口に用いられた素材はみな、神が人間をお救いくださるうえで絶対に必要だったのです。幕屋の入り口が青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって作られなければならなかったということは、神が罪人をお救いになるうえできわめて重要なことなのです。この四種の糸は神の完全な救済を明かしているものにほかならなかったためです。神は、このように定められました。神がシナイ山で幕屋の型をモーセに示されて幕屋の庭の入り口をそのように作るようにお命じになったのは、このためです。
青色・紫色・緋色の撚り糸と撚り糸で織った亜麻布の意味
聖所の入り口は、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の幕でできており、聖所と至聖所の間の垂れ幕もまた、同じ四種の糸で織られていました。こればかりではなく、大祭司のエポデと胸当てもまた、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作られていました。では、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布にはどのような意味があるのでしょう?主が人類をお救いになるために不可欠であった青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布には、どんな意味があるのでしょう?
この問題は、詳細に検討しなければなりません。
まず第一に、青い糸は、イエス・キリストのバプテスマを表わしています。バプテスマの意味するところを知らない人々は、青い糸がイエス・キリストのバプテスマを指していることを知りません。ですから、新たに生まれていない人は一般に、青い糸の意味は、イエス・キリストが神であり、この世に人間の肉の形で来られたということだと主張します。それに対して、別の人々は、青い糸は、ただみことばのことだと言います。しかしながら、聖書は、青い糸は、この世に来られてから世の罪を負われたイエスのバプテスマを指すと告げています。聖書は、青い糸がイエスがバプテスマのヨハネから授けられたバプテスマを指すとはっきり示しています。幕屋のみことばを読んでいて私は、ああ、神はイエスのバプテスマへの信仰の重要性を示そうとなさったのだとわかりました。
大祭司がささげ物をささげるときに着た服もまた、青い糸で織られていました。大祭司の被り物には金の札がついていて、札と被り物をつないだ紐もまた青でした。この金の札には、「主への聖なるもの」という句が刻まれていました。金の札を大祭司の被り物につないだ青い紐が明らかにイエスのバプテスマを表わしていることがわかります。バプテスマが主を聖なるものとしたのです。
このように、金の札を被り物につないだ青い紐によって、神は真の救済について告げておられるのです。つまり、人間を聖くするための要が青であり、これはイエスのバプテスマなのです。また、青い糸は一般に青い空を連想させます。青は神だけを示すのではありません。青色、紫色、緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布のうち、青い糸は間違いなくイエス・キリストのバプテスマを意味しているのです。別の言い方をすれば、青い糸はイエス・キリストがバプテスマをお受けになって世のすべての罪人の罪を被られたことを告げているのです(マタイ
3:15)。イエスがバプテスマをお受けになってすべての人の罪を被られなければ、信者は主を聖なるものとすることはできなかったでしょう。イエスがお受けになったバプテスマなくしては、人間はけっして神の前で聖性に包まれることができなかったでしょう。
みなさんは、モーセに示された、幕屋の庭の入り口を青い糸で作れとの神のご命令の霊的な意味がわかりますか?神が宿られた幕屋に続く庭の入り口は、イエス・キリストを指しています。イエス・キリストによらなくては、誰ひとり天の御国に入ることができません。イエスを示す庭の入り口は青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布でできていました。これは、神が人間を救済へと導く真理を明かそうとなさったためなのです。紫の糸は聖霊を指し、「イエスは王の王」と告げています。緋の糸は、イエスが十字架上で流された血を示しています。青い糸は、今申しましたように、イエスがバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマを指しています。
ですから、青色・紫色・緋色の撚り糸は、イエスのバプテスマ・神の受肉・十字架上の死を告げているのです。これらの糸が表わしてるイエスのみわざは、ヤーウェの前に聖い者として行くことを可能にする信仰を与えてくれます。神であられるイエスは、この世に人間の肉の形でおいでになり、バプテスマを受けられて罪人の咎を負われ、身代わりとして罪全部の罰と呪いを受けられ、血を流されました。これが、青色・紫色・緋色の撚り糸の霊的奥義なのです。
おそらくこれまでは、青い糸はただ神またはみことばを表わすのだと思っておられたでしょう。しかし、実際のところ、青糸はイエス・キリストのバプテスマを表わしているのです。イエスが人類の罪をすべて渡され、被られたバプテスマは極めて重要で、みわざから取り残すことはできません。そこで、旧約の幕屋によって神は、その重要性を告げておられるのです。
バプテスマによってイエスは人類の罪を負われた
幕屋の囲いの柱はアカシア材でできていました。柱の底部には青銅の台座が、上部には青銅の柱頭が置かれていました。このことから、まず、罪人は罪の裁きを受けなければならないことがわかります。一度罪の裁きを受けた者だけが救われるのです。まだ裁かれておらず、したがって救われていない者は、神の前に行ったときに罪の永遠の罰を受けることを免れません。
「罪から来る報酬は死」(ローマ 6:23)とあるように、罪人は必ず神から罪のために恐ろしい裁きを受けます。ですから、罪人は一度罪のために裁かれ、それから神の恵みに包まれて再び生きるのです。これが、新たに生まれるということです。イエス・キリストがバプテスマによって人類の罪をすべて被られたという青い糸の信仰、イエスが十字架上で裁かれてすべての罪人を救われたという緋の糸の信仰、この信仰こそが、人間を一度罪のために死なせ、それから再び生まれさせるものなのです。よろしいですか、信じないために、信仰によって裁きを逃れることができない者には、永遠の呪いだけが待っているのです。
イエスのバプテスマは、キリストが人類を罪からお救いになるためにその罪を被られるための手段であったのです。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたのは、人類の罪をすべて被られるためでした。イエスは神であられますが、それでも人類をお救いになるためにこの世に人間の肉の形で来られ、人類の代表であるバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって罪人の咎のすべてを被られ、罪人の身代わりとなって罰を受けられて十字架上で身をささげられ、水と血とを流されたのです。幕屋の庭の入り口は、イエスが救い主として成就されたみわざを詳細に告げています。幕屋の庭の入り口によって神は、イエスが罪人の救い主となられたことを明確に告げておられます。
撚り糸で織った亜麻布は、このように詳細で、照応している旧約と新約のみことばを指しています。この撚り糸で織った亜麻布を作るために、それぞれの糸はどんなに複雑に織られたのでしょう。撚り糸で織った亜麻布によって、神はどのようにして人類を救われたかを詳細に告げておいでです。
絨毯を見ると、異なった糸を織って作られているのがわかります。同様に、神はイスラエル人に幕屋の庭の門を青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作るようにとおっしゃいました。これは、神の複雑なみことばに隠された、水(バプテスマ)と血(十字架)と御霊(イエスは神)によって来られたイエスが人類の救済の門にほかならないことを告げているのです。神の複雑なみことばのうちに明かされたイエス・キリストへの正しい信仰をもち、その愛をまとって、聖徒は信仰によって完全に救われているのです。
イエス・キリストは、恣意的にお救いくださったのではありません。幕屋を見ると、それがわかります。イエスはご計画に従って罪人を救われました。囲いの柱を見るだけでも、主がいかに計画的に人類をお救いくださったかがわかります。いったい、なぜ囲いの柱の数は六十本なのでしょう?それは、数字の六が人間を、三が神を示しているためです。黙示録第
13 章には六百六十六という印が出ています。神は、この数は獣の数であり、賢人はこの数字の奥義を知っているとおっしゃっています。ですから、六百六十六という数は、人間が神のように振舞うことを意味します。人類の願いとは、何でしょう?それは、完全な神のような存在になることではありませんか?
ほんとうに神のような存在になりたいのなら、イエスを信じて新たに生まれ、神の子供にならなければなりません。六十本の柱は、このことを示しているのです。
しかしながら、人々は信仰をもつのではなく、自身の行ないによって自らを誇り、神の力を受けているかのように振舞うという、邪悪な行ないをしています。まさにこのために、人々はみことばを人間の欲情によって解釈し直し、自分なりの考えで誤り信じているのです。その人たちは信仰をもたず、神に敵対することだけを欲しているためです。自分で完全になり、肉において完全になろうとする、この肉の欲情のために、人々は神のみことばから遠く離れてしまうのです。
幕屋の諸々の物に明かされた救済のみことば
イエス・キリストが罪人を救われ、聖所に引き入れられるためには、幕屋の用具や素材のすべてが必要でした。全焼のいけにえの祭壇が必要でした。洗盤が必要でした。また、柱・青銅の台座・銀の柱頭・鉤・銀の帯輪も必要でした。これらはみな聖所の外にあり、その素材はみな、罪人を義人とするために必要でした。
罪人が神の御国に入って生きるためにこれらがみな必要だったのですが、とりわけ重要だったのは、青い糸(イエスのバプテスマ)でした。幕屋の庭の入り口には青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布が使われました。この糸は、人間が神を信じるうえで必要なイエスの三つのみわざを示しています。第一に、イエスはこの世に来られ、バプテスマによって人類の罪を被られたこと。第二に、イエスは神(御霊)であられること。第三に、イエスはヨルダン川でヨハネを介して負われた罪すべての罰をお受けになって十字架上で死なれたこと。これが、罪人が救われて義人となるために必要な真の信仰の正しい順序です。
聖書を読むと、主のみことばがいかに精緻なものであるかがわかります。このように意図的に、撚り糸で織った亜麻布のように計画的に手順を踏んで人類をお救いくださったお方がほかならぬ神ご自身であられることがよくわかります。さらに、神はイスラエル人に、幕屋の庭の入り口として、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって九メートルもの幕を作るようにお命じになりました。ですから、神は、幕屋を遠くからでも見る者は誰でも幕屋の庭の門を見分けることができるようになさったのです。
幕屋の庭の柱からかかった白い撚り糸で織った亜麻布は、神の聖性を示しています。ですから、罪人は幕屋に近づくことができず、幕屋の庭の入り口の青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布という形で表わされたイエスのみわざを信じてはじめて庭に入ることができることがわかるのです。このように、神はイエス・キリストが水と血と御霊によってすべての罪を消し去って救ってくださったと罪人にわかるようになさいました。
これだけではなく、庭の入り口を含めて幕屋を構成する素材のすべてもまた、神が罪人を義人となさるために必要であった精緻なみことばを示しているのです。神がイスラエル人に、幕屋の庭の入り口を誰にもわかる大きさにするようにせよとお命じになったために、また、この入り口が青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で精緻に作られたために、人間はみな、罪人を義人とする重要なみことばを理解できるようになっているのです。
幕屋の庭の入り口は、神がアカシア材のような人間を青色(イエスのバプテスマ)と緋の糸(十字架の血)と紫の糸(イエスが神であること)によって完全に救ってくださったことを告げています。神は、これをはっきりと信じている者だけが聖所、神の家に入ることができるように定められました。
イエス・キリストの告げられていること
神は、金色のまばゆく輝く信仰生活を生きるためには、イエスのバプテスマによって罪を全部洗い流されて主の前に行かなければならないとおっしゃいます。自ら幕屋の型をモーセに示され、モーセを介して建てさせ、イスラエル人にこの幕屋の制度によって罪の赦しを受けるようになさったのは、このためです。幕屋の庭から聖所へと導く信仰を要約しましょう。幕屋の庭によって、神はイエスが水と血と御霊によって人類を救われた真理への信仰について語り続けておいでです。庭の入り口への信仰、幕が青色・紫色・緋色の撚り糸で織られていたということ、大祭司がいけにえの子羊の上に手を置いてからその子羊の血を流すこと、大祭司が洗盤で手と足を洗った信仰、これらはみな、水と御霊の福音への信仰だけが、聖所に入って栄光の中で生きることを可能にする純金の信仰であることを告げているのです。
幕屋によって神は、すべての人が救済の恵みと神の祝福を受けられるようになさいました。幕屋によって、神がくださった恵みがわかります。神の恵みの御座の前に行き、ただ一度で救われるようにする救済の恵みを知り、信じることができます。これがわかりますか?幕屋によって、主がいかに計画的にみなさんや私をお救いくださったか、人類救済がどんなに複雑に計画されていたのか、また、このご計画にしたがっていかに確実に罪人を義人に変えてくださったことがわかるのです。
みなさんは、これまでただぼんやりとイエスを信じてきたのですか?青い糸は、空を表わしているだけだと信じていましたか?
紫と緋の色の信仰、イエス・キリスト、王の王がこの世に来られて十字架上で人類を救ってくださったことだけを知って、そのように信じていただけですか?もしそうなら、今こそは真の信仰を見出すのです。みなさんがイエスのバプテスマ、青い色の信仰をはっきりと知り、そうして神がお与えくださった計り知れない救済の恵みを知り、信じられるよう願っております。
神は、ただ血と御霊によってだけお救いくださったのではありません。なぜでしょうか。神は青と紫と緋の色ではっきりと語られ、この三つの糸によってイエスが具体的にどのように人類を救われたかを告げておられるためです。幕屋によって、神はイエスの救済のみわざを詳細に示されました。モーセを介して幕屋を造るようにおっしゃった後、神はこの幕屋を通して、そのように人類を救うと約束なさったのです。約束のとおり、イエス・キリストが人間の肉の形で来られ、ヨルダン川の水の中でバプテスマを授けられ(水)て人類の罪を被られたのです。バプテスマによって、イエスはほんとうに罪人を罪のすべてから救われました。ですから、救済とは、なんと精密で、確実なのでしょう。
聖所に入ると、燭台と供えのパンの机と香の壇が目に入ります。至聖所に入る前に、しばらくの間、まばゆい金色に輝く聖所でみことばのパンを心ゆくまで食べて過ごします。これはなんという恵みでしょう。神の御国に入る前に、聖徒は、水と御霊の福音によって新たに生まれて完全に救われた者として教会で過ごします。人々にいのちの糧を与える教会が聖所です。
聖所、すなわち教会には、燭台・供えのパンの机、それに香の壇があります。燭台はその全体を、支柱も枝・節・花も、一タラントの純金を打って作られました。一タラントの純金を打ってこのように作られた燭台は、義人が教会と一つにならなければならないことを告げています。
供えのパンの机には、パン種の入っていないパンが置かれていました。これは、世の邪悪な穢れた教えとは無縁な、神の純粋なみことばのパンを象徴しています。神の聖所、つまり、教会は、種の入らない純粋な神のみことばを説き、聖徒は神の前で悪い行ないをせず、純粋な信仰によって生きるのです。
至聖所に通じる垂れ幕の前には香の壇が置かれていました。香の壇の前は、そこで神への祈りがささげられた所です。聖所の用具によって神は、人が神の前に行く際には、調和と純粋なみことばへの信仰、それに祈りがなければならないことを告げておられるのです。義人だけが祈ることができます。神は義人の祈りだけをお聞きになるためです(イザヤ
59:1-2、ヤコブ 5:16)。そして、神の前で祈る者だけが神にお会いできるのです。
このように、聖所は教会で救われることがいかに栄光あるものであるかを告げています。幕屋に用いられている重要な素材、青い糸(イエスがバプテスマを授けられたこと)、緋の糸(バプテスマによって人類の罪を負われて、イエスが人類の罪を受けられて十字架上で死なれたこと)、紫の糸(イエスは神)は、人が必ずもたなけらばならない信仰を示しています。この三つが信仰の総体をなすのです。イエスが神の御子であられ、本質において神であられ、人類を救ってくださったお方だと信じて、神の宿られる金色に輝く聖所に入ることができるのです。この三つの糸として表わされたイエスのみわざを信じなければ、どんなに熱烈にイエスを信じていようと、けっして聖所に入ることができません。キリスト教徒全員が至聖所に入ることができるわけではありません。
誤った信仰によって幕屋の庭にとどまる人々
今日、信仰をもつと言いながら聖所に入ることのできないキリスト教徒が大勢います。つまり、盲目的な信仰によって救われようとする人々が大勢いるのです。イエス・キリストの血を信じるだけで救われるのであり、イエスは神、王の王であられると信じているのが、まさにそうした人々なのです。その人たちは、単純にイエスを信じています。イエスの血だけを信じ、全焼のいけにえの祭壇の前に立って盲目的に祈ります。「主よ、私は今日まだ罪人です。主よ、お赦しください。身代わりとなって十字架につけられ、死なれたことに心から感謝します。主よ、愛しています。」
朝、これをしてからそれぞれの生活に戻り、それから夜、全焼のいけにえの祭壇に戻って同じ祈りをささげます。朝夕に全焼のいけにえの祭壇に行く人々は、新たに生まれることができず、自分の考えに基づいて信じるという誤りを犯しています。
彼らは全焼のいけにえの祭壇にいけにえのささげ物を置き、真っ赤な火で焼いてささげ物をささげます。そこでは肉が焼かれますから、焼ける肉のにおいが広がり、黒と白の煙が昇り続けます。全焼のいけにえの祭壇は、罪を消してほしいと神に叫ぶところではなく、ほんとうは、地獄の恐ろしい火を思い起こさせるところなのです。
しかしながら、人々は朝夕そこに行って、「主よ、私は罪を犯しました。どうか罪を赦してください」と祈るのです。それから、ほんとうに罪を赦されたかのように満足して家に帰ります。「?私は赦された、♪あなたは赦された、?みな赦された」と歌うほどよい気分になるかもしれません。しかし、そうした気持ちは一時的なものにすぎません。たちまちのうちにまた罪を犯し、全焼のいけにえの祭壇の前に立って「主よ、私は罪人です」と告白するのです。毎日全焼のいけにえの祭壇の前に通う人は、イエスを信じているとは言っていても、まだ罪人です。そうした人々は、けっして神の御国に入ることができません。
では、誰が完全な罪の赦しを受けて神の聖所に入ることができるのでしょう?それは、神の定められた青色・紫色・緋色の撚り糸の奥義を知り、信じている者です。これを信じている者は、ご自分の上に移された罪を負われたイエスの死への信仰によって、全焼のいけにえの祭壇の前を通って洗盤で手と足を洗い、罪はみなバプテスマによってイエスの上に移されたことを思い、それから神の聖所に入ります。水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けた者は、信仰によって天の御国に入ります。信仰を神に認められているためです。
みなさんが、聖書に基づいた青い糸の意味はイエスのバプテスマであることを知り、信じられるといいのですが。今日、イエスを信じると言う人々は大勢います。しかし、水(青い糸)、イエスのバプテスマまで信じているような人は、ほとんどいません。これは、実に悲しい事態です。イエスは単に神としてこの世に来られ、ただ十字架上で死なれただけだというわけではないのに、これほど大勢の人々が、キリスト教の信条にバプテスマという重要な信仰を含めていないのは、ほんとうに嘆かわしいことです。たった今も、みなさんが青色・紫色・緋色の撚り糸への信仰を知り信じ、神の御国に入る者となられるよう願い、祈っております。
人類を救った実体、幕屋の青色・紫色・緋色の撚り糸という形で示された 主を信じよ
主は、みなさんや私を救ってくださいました。幕屋を見ると、主が人類を救われた方法がいかに計画的なものであったかがわかります。これには、とうてい感謝しきれません。主が青色・紫色・緋色の撚り糸によってお救いくださり、また、青色・紫色・緋色の撚り糸を信じる信仰をくださったことは、なんとありがたいことでしょう。
罪人は、神の恵みをまとって恐ろしい罪の裁きを経ることなくしては、けっして聖所に入ることができません。罪を裁かれていない者が、どうして幕屋の入り口を通って聖所に入ることができるでしょう。できません。そうした人が聖所に入ると、一瞬で呪われて盲目になります。「うわあ、まぶしいなあ。あれれ、どうして何も見えないんだ。外にいたときは、中に入りさえすれば聖所の中の物がすっかり見えると思ったのに。なぜ何も見えないのだろう。それに、どうして真っ暗なのだろう。聖所の外にいたときはよく見えたのに……。聖所は明るいと聞いていたのに、どうして外より暗いんだろう。」見ることができないのは、青色・紫色・緋色の撚り糸の信仰がないために、霊的に盲目になったからです。このように、罪人はけっして聖所に入ることができません。
主は、聖徒が聖所で目をくらまされることなく、そこで永遠に生きる恵みを受けるようにしてくださいました。幕屋のいたるところにある青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって、神は人類救済の方法をありのままに告げられ、そうして、このみことばのとおり、実際にすべての罪から救ってくださったです。
主は、人間が盲目にならずに輝く恵みの中で永遠に生きられるよう、水と血と御霊によって救ってくださいました(ヨハネI
5:4-8)。主は、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって救ってくださいました。主は、複雑なみことばで約束なさり、この約束を全うして人類を救ったとおっしゃいました。
青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布という形で表わされたイエスの精緻なみわざによって、みなさんや私が救われたと信じていますか?はい。私たちは、ただ恣意的に救われたのですか?
いいえ。人は青色・紫色・緋色の撚り糸を信じることなしには救われません。
青い糸は神を示してはいません。これは、イエスがヨルダン川で授けられて世のすべての罪人の罪を被られたバプテスマを指しています。
ところで、青い糸、イエスのバプテスマを信じないで全焼のいけにえの祭壇の前に立つことはできます。全焼のいけにえの祭壇の次にある洗盤の所までも行けるでしょう。しかし、神の宿られる聖所に入ることはできません。幕屋の入り口を通って聖所に入ることができたのは、心から水と御霊の福音を信じて罪を赦された、神の子供だけです。しかし、罪深い者は、誰であろうともけっして聖所に入ることができません。では、救済に至るには、どこまで行けばいいのでしょう?幕屋の庭に入るだけでは救われません。神の宿られる聖所に入って、人は救われるのです。
幕屋の内の信仰と幕屋の外の信仰の違い
幕屋の庭にあった全焼のいけにえの祭壇と洗盤は、いずれも青銅製で、庭の囲いは木と銀と青銅でできていました。ところが、幕屋に入ると、素材はまったく違っていました。幕屋の最も特徴的な点は、それが「金の家」であったことです。三面の壁は四十八枚のアカシア材の板でできていましたが、みな金をかぶせてありました。供えのパンの机と香の壇もまた金をかぶせたアカシア材で、燭台は一タラントの金を打って作ってありました。ですから、聖所の中の用具はみな金製か、金をかぶせたものでした。
それに対して、板の下の台座は何でできていたでしょう?銀でできていました。幕屋の庭の囲いの柱の台座は青銅製でしたが、幕屋の板の台座は銀でした。庭の囲いの柱は木製でしたが、幕屋の板は金をかぶせたアカシア材でした。幕屋の入り口の五本の柱は青銅製でした。
幕屋の板の台座は銀製でしたが、幕屋の入り口の柱の台座は青銅を鋳たものでした。これは、どういうことでしょう。これは、神の御前に来る者は、誰でもその罪を裁かれなければならないということを意味しています。では、裁かれて殺されるというのに、どうして神の前に行くことができるでしょう。人間が死んだなら、神の前に行くことはできません。
ですから、幕屋の入り口の五本の柱の台座に用いられた青銅によって、神は人間は罪のために裁かれなければならなかったのだけれど、イエスがバプテスマによって人類の罪を負われ、身代わりとなって罰されたということを告げておられるのです。人間は、罪のために裁かれるべき存在でした。しかし、他の誰かが代わりに罪全部の罰を受けてくれたのです。身代わりとして、別の人が死んでくれたのです。身代わりとなって罰を受けて死なれたのは、ほかならぬイエス・キリストです。
青い糸として表わされた信仰は、イエス・キリストがバプテスマによって渡された罪をすべて負われ、罪をすべて赦してくださったと信じる信仰です。神が、バプテスマによって渡された人類の罪全部の罰としてイエス・キリストの命を奪われ、罪の問題をすっかり解決なさったので、人間はもはや罪の罰を受けることがないのです。緋の糸として表わされた信仰は、イエスが十字架上で流された血への信仰です。この信仰は、人類の受けるはずであった罪の罰をイエス・キリストが身代わりとなって受けられたことを信じます。
イエスのバプテスマを信じて自分の罪をすべてイエスの上に移し、イエスが人類の罪のすべてのために十字架上で血を流され、肉の死を受けられたことを信じて罪全部の裁きを受けた者だけが聖所に入ることができるのです。幕屋の入り口の台座が青銅でできていたのは、このためです。ですから、バプテスマによって人類の罪をすべて被られ、身代わりとなって罰を受けられたキリストの血を信じるのです。
お救いくださったイエス・キリストが神であられる(紫の糸)こと、イエスのバプテスマ(青い糸)、イエスが身代わりとなって人類の罪の罰を受けられた(緋の糸)と信じる者だけが聖所に入ることができると、神は定められました。神は、イエスを信じて一度罪のすべての裁きを受けてすべての罪から救われた者だけが聖所に入るようになさいました。
幕屋の入り口の柱の台座は、青銅を鋳て作ったものです。青銅の台座には、誰であろうと、青い糸(イエスのバプテスマ)と緋の糸(イエスが身代わりとして受けられた裁き)、紫の糸(イエスが神であられること)への信仰をもつなら、アダムの子孫として生まれた罪人がご自分の宿られる聖所に入ることを神が許されたという霊的意味があります。入り口の柱の五個の台座がみな青銅でできていたことは、ローマ人への手紙第
6 章 23 節にある「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」という福音のことを告げています。イエスは、水と血と御霊によって人類の罪をすべて贖われました。
みことばと神を無視することなく信じよ
イエスを信じているということは、無条件に救われているということではありません。教会に出席しているからといって、無条件に新たに生まれているというわけではありません。主は、ヨハネの福音書第
3 章で、水と御霊によって新たに生まれた者だけが神の御国に入ることができるとおっしゃっています。イエスは、ユダヤ人の指導者で神の敬虔な信者であったニコデモに、「あなたはユダヤ人の教師でありながら、どうしたら新たに生まれるのか知らないのですか。人は水と御霊によって新たに生まれてはじめて神の御国を見、入ることができるのです」とおっしゃいました。イエスを信じる者は、青い糸(バプテスマを受けられたときに同時に人類の罪をすべて被られた)、緋の糸(イエスは人類の罪のために死なれた)、紫の糸(イエスは救い主、神、神の御子であられる)を信じてはじめて新たに生まれることができます。ですから、幕屋のいたるところにあった青色・紫色・緋色の撚り糸によって、罪人はみな、イエスが罪人の救い主であることを信じなければなりません。
多くの人は、この真理を信じることなくイエスを信じているために新たに生まれることができず、また、新たに生まれるみことばを知ることもないのです。主は、イエスを信じると言っても新たに生まれていないのなら、けっして聖所、父なる神の御国に入ることも、正しい信仰生活を送ることもできないと、はっきりとおっしゃいました。
人間の考えでは、どのように信じていようと、キリスト教徒がみな新たに生まれることを許されるのならどんなにいいだろうと思うでしょう。そうではありませんか?イエスが人類を救うためになさったことを詳しく知ることもなく、イエスの名を呼び、口先だけで信仰を告白するだけで救われるのなら、イエス・キリストを信じることはいともたやすいことでしょう。新しいキリスト教徒と会うたびに主に感謝し、歌うでしょう。「?私は赦された、♪あなたは赦された、?みな赦された。」
「信者がこんなに大勢いるのだから、あかしに何の意味があるだろう。このままでいいじゃないか。これって、すばらしいじゃありませんか。」ほんとうにそうならば、人々は救済がとても簡単だと思うでしょう。主の名を呼ぶ者が誰でも救われ、どんなに好き勝手に生きていても救済を受けられるのですからね。しかし、神は、そのような盲目的な信仰によってはけっして新たに生まれることができないとおっしゃいました。逆に、水と御霊の福音を知ることもなく救われたと主張する者は、みな不法を行なっているのだとおっしゃいました。
新たに生まれるとは、魂のことであり、肉のことではない
イエスは人となられ、この世に来られ、水と御霊の福音によって人類を救われました。イエスの肉の父ヨセフは大工で(マタイ 13:55)、イエスはこの大工の父のもとで人生の最初の二十九年間、大工として働かれ、家族にお仕えになりました。しかし、三十歳になられたとき、神としてのみわざ、つまり、教えを説くことを始められなければなりませんでした。
イエスは神と人の資質をあわせもっておられたように、私たち新たに生まれた義人にもまた、二つの性質があります。聖徒は肉と霊と両方の存在なのです。しかしながら、魂が新たに生まれていないのにイエスを信じると言うのなら、その人は新たに生まれていません。つまり、その人には新たに生まれた魂がありません。霊的に新たに生まれることなくイエスを信じようとするなら、その人はニコデモのように肉で新たに生まれようとしているにすぎず、新たに生まれた者ではあり得ません。イエスは実質的には神であられますが、それでも、弱点だらけの人間の肉の体に入ってもおられました。ですから、新たに生まれたと言うとき、それは、肉ではなく魂が新たに生まれたということなのです。
何らかの意味でイエスを信じる者がみなほんとうに新たに生まれているのなら、私は優しい牧師であろうとしたことでしょう。なぜでしょうか。真理を信じない人々にこれほど苛立たされることなく、人々に真理を知らせようとして、説教で率直な物言いをすることもなかったでしょうから。私は礼儀を心得た、気高く、優しく、慈愛深く、おもしろい牧師として知られ、どうしたら肉で聖くなれるかを説明していたでしょう。もちろん、そのように自分をよく見せることはできます。でも、けっしてそうはしません。「この牧師はほんとうにイエスの聖く慈愛深い姿そのものだ」という印象を与えることができないというのではありません。人間の肉は変わることができず、肉で少々慈愛深いからといって、新たに生まれた義人であるということにはならないためです。肉で新たに生まれることは誰にもできません。みことばを信じて新たに生まれるべきなのは人間の別の要素、魂なのです。
イエスを信じるには、真理を知っていなければなりません。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ
8:32)神の真理だけが人を新たに生まれさせます。魂を罪の奴隷状態から開放し、義人として新たに生まれさせます。聖書を正しく知り、信じてはじめて、人は聖所に入り、真の信仰に生きることができ、また至聖所の「贖いのふた」の前に行くことができるのです。人間の魂を新たに生まれさせる水と御霊の福音は真理であり、この福音への信仰によって、聖徒はすべての罪を赦され、神とともに信仰の領域で生きることができているのです。心の中の水と御霊の福音によって、霊的な輝く領域で、新たに生まれた神の子供として主とともに幸福に生きることができるのです。
イエスを盲目的に信じることは、正しい信仰ではありません。人間の観点からすると、私にはたくさんの欠点があります。べつに口先だけで言っているわけではありません。何かするたびに、ほんとうに自分の数多くの欠点を意識するのです。たとえば、参加する聖徒や新しい仲間が快適な状態でみことばを聞き、神の恵みによって心を啓発され、新たに生まれる恵みを受け、心身ともに安らいで帰っていくように聖書キャンプの用意をしているとき、実にたくさんのことを事前に思いつかず、用意をしていなかったのに気づくのです。もう少し注意していれば容易に処理できたはずのことが、準備が終わってキャンプが始まる直前になって出てくるのです。聖書キャンプの計画の段階でもうすこし気をつけていれば、聖徒と新しい魂はみことばをよく聞き、有益な時を過ごせたはずなのに、どうしてそんなことを事前に思いついて用意しなかったのだろうかと思います。また、一日中働くときも、効率の悪さから、努力に見合った結果が得られないことがよくあります。自分でも欠点がありすぎることは承知しています。
「どうしてこれができないのだろう。どうしてこれを考えつかなかったのだろう。もう少し気をつけていればよかったのに、どうしてそれができないのだろう。」実際に福音に仕えているとき、実にしばしば自分の欠点に気づきます。そこで、気づいて認めます。「これが私なのだ。私はこのように至らないのだ。」
口先だけでこう言っているのではありません。謙虚なふりをしているわけでもありません。ほんとうに、ちょっとしたことも満足にできずにいいかげんなことをしているのです。自分を見て、ほんとうに欠点だらけだと思います。
青い糸の信仰によって、人は聖くなる
人が自分について考えるとき、何でも少しも失敗せずにできると思います。しかし、実際に何事かに取り組むと、実力や欠点がはっきりと現われるのです。人間はほんとうに不完全で、罪を犯し、失敗をせずにはいられないことを知ります。また、自分はうまくやっていると思っているときは、立派な信仰をもっているのだから神の御国に入れるのだという幻想を抱きます。
しかし、肉はけっして変わりません。欠点のない肉はありません。また、肉はいつでも悪を行ない、その欠点を露呈させます。たとえ肉が行なった何らかの良い行ないのために主の御国に入ることができると思っていたとしても、よろしいですか、肉がどんなによいことをしたとしても、神の前ではまったく無益なのです。人が主の御国に入ることができるようにする唯一のものは真理のみことば、青色・紫色・緋色の撚り糸、主が人類を救われたということへの信仰です。主が青色・紫色・緋色の撚り糸によってお救いくださったので、人間は、それを信じさえすれば聖所に入ることができるのです。
神が青色・紫色・緋色の撚り糸でお救いくださらなければ、誰もけっして聖所に入ることができなかったでしょう。どんなに強い信仰があっても、入ることはできません。なぜでしょうか。もしそうだったなら、毎日聖所に入ることができるほど、肉の信仰がすぐれたものでなければならないからです。毎日十分良い信仰をもっているだけで神の御国に入ることができるなら、どうしてこのような弱い肉で毎日良い信仰をもち、入ることができるのでしょう。自分の力では罪の赦しを受けることができないというのに、罪を犯すたびに心を改める信仰をもたないときに、どうして神の御国に入れるだけの良い信仰をもつことができるのでしょう。肉は、そもそもそれ自体、まったく罪を犯さない聖いものでなければなりませんし、あるいは毎日悔い改めの祈りをささげ、断食しなければならないでしょう。しかし、いったい誰の体が聖いでしょう。また、誰にそんなことができるでしょう。
神が青色・紫色・緋色の撚り糸でお救いくださらなければ、人間の誰ひとりもけっして天の御国に入ることができなかったでしょう。人間というのは、ある時には良い信仰をもっていても、次の瞬間にはそれが消えてしまうような存在なのです。信仰が何度も良くなっては消えてしまうのならば、自分にはほんとうに信仰があるのかどうか惑い、最初にもっていた信仰さえも失ってしまうのです。結局は、初めてイエスを信じたときからずっと後には、前よりもはるかに罪深くなります。しかし、イエスは、この不完全な罪人である人類を青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布という形で表わされた救済のご計画にしたがって完全に救ってくださいました。主は罪の赦しをくださいました。
この証拠を得てはじめて、大司祭のように「主への聖なるもの」と刻んだ金の札を被り物につけることができるのです(出エジプト記
28:36-38)。そうすると、祭司の務めを行なうことができます。祭司として主に仕えながら、人々にこの「主への聖なるもの」をあかしすることができるのは、水と御霊の福音によって罪の赦しを受けた証拠を心にもつ者です。
大祭司の被り物には金の札がついていました。この金の札を被り物につないでいたのは、青い紐でした。では、なぜ神は、被り物に青い紐をつけなければならないとおっしゃったのでしょう。主が人類をお救いになるために必要だったのは青い糸であり、この青い糸とは、イエスが人類の罪をすべて被られるためにお受けになったバプテスマを示しています。新約で主が、旧約の手を置くことと同じ形のバプテスマによって人類の罪をすべて被られて消してくださらなければ、どんなにイエスを信じても、人間はヤーウェから聖性を受けることはできません。金の札が青い紐で被り物につけられていたのは、このためです。大祭司が「主への聖なるもの」と刻んだ金の札をつけているのを見る者はみな、神の前では罪の赦しを受けて聖くなければならないことを思い起こすのです。そうして、どうしたら神の前で聖くあることができるのかと考えます。
私たちもまた、どのようにして義人となったかを思い起こさなければなりません。どのようにして義人となりましたか?マタイの福音書第
3 章 15 章を読みましょう。「ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』そこで、ヨハネは承知した。」
イエスはバプテスマをお受けになって、人類を罪から救われました。イエスがバプテスマによって罪を被ってくださったので、これを信じる者には罪がないのです。イエスがバプテスマを受けられなければ、どうして自分に罪がないと言えたでしょう。イエスの十字架上の血への信仰の告白と、心からの涙だけで罪の赦しを受けたのですか?イエスという、何らの関わりのない人の死に悲しみを覚えることができずに、祖父母の死や自分が病気になったときのこと、過去の苦労や苦しかったことを考えて何とか涙を出そうとする人々が実に大勢います。このようにして泣くふりをしようと、あるいはイエスの磔刑に心からの悲しみを覚えようと、それによっては、けっして罪は消されません。
大祭司の被り物に「主への聖なるもの」と刻んだ金の札が青い紐でつけられていたように、人間の罪を消して聖くするのは、イエスのバプテスマなのです。イエスがバプテスマで人類の罪をすべて被られたために、主が人類の罪をすべて負われたために、また、世の罪がすべてバプテスマでイエスの上に移されたために、人は心に罪の赦しを受けるのです。心にどんなに感情が欠けていようとも、行ないにおいてどんなに不完全であろうと、聖徒は聖書に記された青い糸のみことばによって義人となり、完全に救われています。自分たちの肉を見ると、少しも威厳がありません。しかし、青色・紫色・緋色の撚り糸の信仰が心にあるために、つまり、イエスがバプテスマによって人類の罪をすべて被られ、十字架上で身代わりとして罪をお受けになったとする完全な水と御霊の福音があるために、大胆に、恐れることなく福音のことを語れるのです。水と御霊の福音があるために、聖徒は信仰によって義人として生き、またこの正しい信仰を人々に説くこともできるのです。
主の恵みには到底感謝しきれません。救済はでたらめに与えられるものではないのですから、いっそうありがたいのです。聖徒の受けた救済は、正しく信じていなくとも誰でも受けられるような些細なものではありません。「主よ、主よ」と言って自分勝手に主を呼ばわっても、そうする人がみな救われるというわけではありません。聖徒は、主が青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によってご計画にしたがって人類を救われたとする水と御霊の福音によって罪が消えたという証拠を心にもっていますから、この大いなる救済に深く感謝しているのです。
聖書は、神の御子イエス・キリストを信じる者は誰でも心にあかしをもつとしています(ヨハネI 5:10)。心にあかしがなければ、神を嘘つきにしてしまうのですから、人は心に決定的なあかしをもっていなければなりません。ですから、「救われているという証拠を見せてください。罪の赦しを受けると、賜物として御霊を受ける、それに、救済には、はっきりとした証拠があるとおっしゃるのですね。その証拠というのを示してください」と言われても、ひるむことはありません。次のように断固としてあかしすることができるのです。「私には、イエスが完全に救ってくださった水と御霊の福音が内にあります。主が完全に救ってくださったのですから、私には罪がありません。」
心に救済のあかしをもたないのなら、その人は救われていません。どんなに熱心にイエスを信じていようと、それ自体は救済ではないのです。それは報われない恋というものです。それは相手がどう思っているかをまったくかえりみない恋です。こちらが愛せないような人が心をときめかせ、何かを期待し、恋し、愛されたくてたまらないというような顔でこっちを見ても、お返しにその人を愛さなければならないということはありません。同様に、神は、その人たちが切に主を思っているからといって、罪の赦しを受けていない者を受け入れたりはなさいません。これは、罪人の、神に対する報われない愛というものでしかありません。
神を愛するには、みことばを心から信じて愛さなければなりません。神への愛は、一方的なものであってはなりません。神への愛を告げなくてはなりませんが、神を愛す前に、まず神がほんとうに愛してくださっているかどうかを確かめなくてはなりません。ほんとうはこちらを愛していない人に心をささげたなら、結局は失望するだけです。
主は、人間が罪のために罰されないように罪からの救済の栄光の衣に包んでくださいました。主は、人間が神の御国に入り、神とともに生きることができるようにしてくださいました。また、神の恵みにより罪の赦しを受けることができるようにする贈り物をくださいました。神による救済は、天の無数の霊的恵みをもたらしました。つまり、神がくださったこの救済だけが、神から恵みのすべてを受けることを可能にしているのです。
イエスがもたらされた救済
主は、青色・紫色・緋色の撚り糸によって救ってくださいました。主は三種の糸からなる救済をくださいました。この青色・紫色・緋色の撚り糸の救済は、神のくださった救済の賜物にほかなりません。これは、人が聖所に入って生きることができるようにする救済の贈り物です。
水と御霊の福音がみなさんや私を義人としました。これは、神の教会に来てきよい生を生きられるようにしました。真の福音はまた、霊的みことばを糧とし、恵みを受けることができるようにしました。これはまた、神の恵みの御座の前に行って祈ることができるようにし、神がくださったはかり知れない恵みを受けることができるようにする信仰を与えてくれました。救済だけでも、神はこのようにすばらしい恵みをくださっています。救済がまことに尊いのは、このためです。
イエスは、岩の上に信仰の家を建てよとおっしゃいました(マタイ 7:24)。岩とは、水と御霊の福音によってもたらされた人類の救済のことにほかなりません。ですから、みな救われて信仰の生を生きるのです。救われて義人となり、救われて永遠のいのちを享受し、救われて天国に入るのです。
この世の終わりの時が迫っています。ですから、この時代には、正確なみことばによって救われることがこれまで以上に必要なのです。青色・紫色・緋色の撚り糸の信仰のことを知らず、イエスを大まかに信じるだけで救われるのであり、救われるにはそれで十分なのだから、信仰生活について話す必要はないと言う人々がいます。
しかしながら、心に罪の赦しを受けた者だけが神のお認めになる信仰生活をすることができるからこそ、繰り返し、このことをお話ししているのです。罪の赦しを受けた聖徒の心はみな、御霊の宿る聖なる神殿なのですから、この聖さを汚さないように信仰生活を送らなければなりません。
義人の生き方は、罪人の生き方とはまったく次元が異なっています。神の観点からすれば、罪人の生き方はまったく基準に適わないものです。彼らの生には偽善ばかりが満ちています。彼らは、律法に従って生きようと努力します。どのように歩き、どのように生きるか、どのように話し、どのように笑うか、自分なりの基準を定めます。
しかし、それは義人の生きる信仰の生活とはかけ離れたものです。神は義人に、「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』」とおっしゃいました。これが神が義人に求められた生き方なのです。私たち義人が心から神を愛し、力の限りみことばとみこころに従って生きることが正しいことなのです。隣人を救うためには、みわざのために多くの犠牲を払わなければなりません。これがキリスト教徒の生き方です。
自分が罪を犯さないことが大事なのだと考えているようでは、新たに生まれたキリスト教徒の誠実な生き方を送ることはできません。新たに生まれる前、私は保守的な長老派で律法主義的な信仰生活を送っていました。それで、律法に生きることに関しては、完全にそれに従おうとしていました。今日、人々はもはやそういうことはしませんが、私はずっと以前から宗教生活をしていたので、毎日の生活の中で律法を守ることに熱心でした。私はあまりに律法に忠実であったために、律法が安息日を守って聖いものとせよと命じるので、主の日には絶対に仕事をしませんでした。それで、日曜には車に乗ることもしませんでした。そんな生き方をしろと言ったら、実際のところ、そのような律法主義的な生活ができる人は一人もいないでしょう。新たに生まれる前、私はそのように律法主義的だったのです。しかしながら、どんなに敬虔に宗教生活を送ろうと、それは神のみこころとはまったく関わりがなく、完全に無益でした。
読者のみなさん、みなさんには青色・紫色・緋色の撚り糸の信仰がありますか?イエスの救済がこの三種の糸に示されているのですから、人は信仰によって聖所に入ることができるのです。救済は二千年以上前に成就されています。イエス・キリストが、私たちが主のことを知るようになる前にすでにバプテスマを受けられて罪をすべて負われ、人類の罪の罰をお受けになって十字架上で死なれたのです。
罪からの救済は、イエス・キリストの内に定められた
新たに生まれていない者が幕屋に入るときには、庭の門からではなく、囲いを乗り越えて不法に入りました。彼らは言います。「囲いの撚り糸で織った亜麻布は、どうしてこんなに白いんだ?これは実に厄介だ。赤か青の色にすればよかったんだ。今はその方がしゃれているんだ。それなのに、この囲いは白すぎる。目立ちすぎる。それに、なぜこんなに高いんだ?
2.25 m 以上ある。私の背は 2m もないのに。囲いがこんなに高いのに、どうして入れるっていうんだ。ふん、はしごを使って乗り越えるさ。」
こうした人は、自身の善行によって入ろうとします。ささげ物や慈善行為や忍耐で幕屋の庭の囲いに登り、「どうせ2.5m
なら飛び降りられるさ」と言って、囲いから飛び降ります。そこで、幕屋の庭に入り込み、振り向くと、全焼のいけにえの祭壇が目に入ります。それから祭壇から目を離し、聖所のほうを見ます。すると、その前に洗盤があるのが見えます。
幕屋の庭の囲いの柱の高さは 2.25 m ですが、神の宿られる聖所の入り口の柱と垂れ幕の高さは
4.5 m です。本当にやろうと思えば、自分の力で幕屋の庭に入ることはできます。しかし、2.25m の囲いを越えて幕屋の庭に入ることはできても、神の宿られるところに入ろうとすると、聖所の入り口にある高さ
4.5m の柱と垂れ幕に出会います。人は自力で 2.5m を乗り越えることはできます。しかし、神の定められた 4.5m を乗り越えることはできません。ここに限界があります。
これは、人が初めてイエスを信じたときには、単なる宗教として信じることがあることを意味しています。また、中には自分の意思でイエスを救い主と信じ、救い主は四大賢人の一人に過ぎないと考える人々もいます。どのように信じるにしろ、人は思いのままにどのような信仰でももつことができます。しかし、そのような信仰によっては、ほんとうに新たに生まれることはできません。
ほんとうに新たに生まれるには、信仰によって青色・紫色・緋色の撚り糸の入り口を通らなければなりません。聖徒は、イエスが救い主であり、また真理の門である、主が水と血と御霊によって救ってくださったと信じて、神の前で新たに生まれています。三種の糸で表わされたイエスのみわざを信じる信仰こそが、水と血と御霊の信仰なのです。ほかのことを信じることはできます。しかし、そのような信じ方をしていて、救われて大いなる恵みを受けるという保証はまったくありません。水と御霊の福音への信仰をもってはじめて人は神に認められ、救済の大いなる恵みを受けることができるです。水と御霊の福音へのこの信仰の目的は、神の恵みの衣をまとうことです。
みなさんは、幕屋を中に家がある単なる長方形の庭だと思っていますか?それは、信仰に何の役にも立ちません。幕屋は完全な信仰について告げているのであり、人はその信仰が何であるかを正確に知っていなければなりません。
幕屋をよく知らなければ、幕屋の高さは囲いの高さの 2.25 m くらいだろうと思うでしょう。しかし、そうではありません。庭に入らなくとも、囲いの外から幕屋を見ると、幕屋は囲いの倍の高さがあることがわかります。幕屋の底部は見えませんが、それでも入り口ははっきり見えますから、幕屋は庭の囲いより高いことがわかります。
イエスを信じて罪の赦しを受けて幕屋の庭の入り口から入った者は、全焼のいけにえの祭壇と洗盤のところで信仰を確認し、聖所に入ります。聖所に入るには、必ず自己否定がなければなりません。聖所の中の用具は、聖所の外の用具とは区別されなければなりません。
サタンは何を一番嫌っているか、わかりますか?聖所の内と外を区切っている線をひどく嫌っています。神は聖所の内と外を区別する者の中で働かれますから、サタンはそうして引かれた線を憎み、人がこの線を引くことを妨げようとします。しかし、よろしいですか。神は、この信仰の境界線を引く者によってみわざを行なわれるのです。神は、境界線を引く者を喜ばれ、彼らが輝かしい信仰をもって聖所の中で生きられるよう、恵みをお与えになります。
幕屋の庭の用具やそこで使われる物はみな、人々が罪の赦しを受けることができるようにと、神が事前に用意なさっり、整えられたものなのです。これを信じて聖所に入ると、神はさらに大きな恵みと祝福をくださいます。
「贖いのふた」は、救済の恵みの与えられる場所
至聖所では、あかしの箱を覆う蓋の上で二体のケルビムが翼を伸ばし、見下ろしています。二体のケルビムの間の空間は「贖いのふた」と呼ばれます。「贖いのふた」とは、神が人間に恵みをお与えになる所です。あかしの箱の蓋には血がついています。大祭司が、イスラエル人のためにささげられたいけにえの血をこの「贖いのふた」の上に七回散らすからです。すると神は「贖いのふた」の上に降られ、イスラエル人に恵みをお与えになりました。これを信じる者に神の恵みと保護と導きが与えられるようになります。以後は、ほんとうに神の民となり、聖所に入る資格を得るのです。
この世界の数多くのキリスト教徒の中には、信仰によって聖所に入ることができる人々がいますが、聖所に入ることを可能にする信仰をもっていない人々もいます。みなさんの信仰は、どのようなものですか?救済の明確な線を引き、神の聖所に入る信仰をもたなければなりません。そうしてはじめて、神から大いなる恵みを受けることができるからです。
しかし、そうした信仰をもつことは容易なことではありません。サタンは、人が明確な救済の一線を画することを嫌いますから、いつでもその線をぼかそうとしています。「そんなふうに信じる必要はありませんよ。他の人がみんなそのように信じているわけではないのに、どうしてそんなに重視して繰り返し続けるのです?気楽にやりなさいよ。なるにまかせなさい。」そうしたことを言って、サタンはこの明確な救済の線をぼかそうとします。また、サタンは肉の弱点を明らかにし、それを問題にしようとします。みなさんは、サタンが欺いて神から引き離そうとして言うことに耳を傾けますか?それとも、自分の救済のことを毎日思い起こし、教会と結びつき、みことばに従い、祈りの生活を送り、神のくださる恵みを受けて生きますか?
実際、罪の赦しを受けた者は、救済のことを思い起こそうとします。彼らは水と御霊の福音について何度も考えます。福音について瞑想することは、良い、大切なことです。みなさんはこういうふうではありませんか?「うえっ、またあの話か。もう救われているのに。話の素材と筋は違っていても、いつもと同じことじゃないか。もううんざりだよ。」
こういうことを言う人がいますか?私が毎日、自分について同じことを話しているなら、それは申し訳ないことでしょう。しかし、聖書が救済について毎日思いを巡らさなければならないと言っているとき、どうしようがあります?旧約と新約の両方が水と御霊の福音のことを語っているのですから、神の前で悪とされることは、これ以外のことを説くことです。聖書のみことばはみな、水と御霊の福音について語っています。救済・信仰生活・信仰・宗教的な生き方・サタンとの戦い・天国・栄光・恵み・祝福・よみがえり・永遠のいのち・希望・御霊──これらはみな、聖徒にとって重要な概念であり、真の福音に関連しています。これら以外について話すことは異端であり、誤った教えでしかありません。似ているようでも本質が違うものは、偽りの教えというものです。一見似ているけれど中身が水と御霊の福音とは違っている福音は、単なるにせ宗教の偽物の福音です。
神の教会が、にせ宗教のいつわりではなく、神のみことばを毎日広めているのは、何とすばらしいことでしょう。聖徒が教会と結びついて純粋なみことばを聞き信じることは、恵みです。いつでも水と御霊の福音を宣べ広めていることによって、教会は聖徒が毎日神の恵みについて考え、祈り、崇め、悪を追い求める生活をしないようにしているのです。罪の赦しを受けることを可能にする真理のみことばをまた聞いて信じて、うれしくはないのですか?私も、とてもうれしいのです。
この水と御霊の福音以外のものを説くように促されたなら、ひどく苦しいことでしょう。救済のみことばではなく、それ以外の、人の考えた教えを広めるように強制されたら、逃げたくなるでしょう。もちろん、これは、ほかに話すことがないということではありません。もっと人間的なことでお話しできることはたくさんあります。しかし、それはみな新たに生まれた者には不要で、単なる腐ったパン種の教えに過ぎません。
神であられるイエスが人類を救ってくださった水と御霊の福音だけが、何度噛みしめても甘味を出すみことばなのです。お話できることは、ほんとうにたくさんあります。しかし、人間を救う水と御霊の福音のことをお話するのが一番好きなのです。ずっと大きな喜びを覚えます。私は、この救済についてお話しするとき最も幸せです。昔のことを思い出し、主がどのように救ってくださったかを思い、改めて主に感謝し、また救済のパンを食べるのです。
みなさんもまた、この救済のみことばを聞くのが一番好きだと思います。もしかしたら、毎日同じことを聞かされていると文句を言うかもしれません。しかし、心の底では「また聞いたけれど、ずっといい。最初はそれほど良くなかったけれど、聞き続けていると、これ以上に聞く価値のある話は他にないのがわかる。今日の話は何か特別なものだろうと思っていたけれど、結末はまた同じ話だった。それでも、うれしい」と思っているのです。みなさん、そのように感じておられるでしょう。
みなさん、ここでお話ししていることは、イエスのみことばです。牧師はイエスのみことばを説かなければなりません。イエスが人類のためにしてくださったことを説き、記されたみことばによって水と御霊の真理を広めることこそが、教会のするべきことなのです。私たちは今、教会で信仰の生活を送っています。聖所に入り、一タラントの金を打って作った七つの枝の燭台に火をともし、純金の家でパンを食べ、香の壇で祈り、神殿に行き、神を拝み、金の家に住む、これこそが聖徒の信仰生活なのです。
みなさんと私は今、神のお与えくださった信仰生活を送っています。罪の赦しを受けて信仰生活を送ることが、金の家の中での生活なのです。「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々に新たにされています。」(コリントII
4:16)幕屋の青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布への信仰によって、魂は金色に輝く神の家に住んでいます。
すべての罪と罰とから救ってくださったことを永遠に神に感謝いたします。ハレルヤ。
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