|
<ローマ人への手紙 第 8 章 28-30 節>
キリスト教の教理の基本をなす理論のひとつである神学、予定と選びの説のために、イエスを信じようとする大勢の人々が神のみことばを誤って解釈してきました。誤った理論のせいで多くの混乱が生じました。 この誤った神学における予定説では、神はご自分の愛する人々をお選びになり、嫌いな者は見捨てられるとしています。これはつまり、選ばれた者は水と御霊によって新たに生まれ天国に受け入れられるが、他の者は選ばれず、地獄で焼かれる定めにあるということです。 神がほんとうに一部の者だけをお選びになっているのなら、人は「私は救済に選ばれたのだろうか?」と悩まなければなりません。選ばれていないのなら、イエスを信じるのは無駄です。ですから、この理論のせいで、大勢の人々が信仰自体よりも自分が選ばれているかどうかに心を向けることになりました。 これを信じるなら、どうして疑いから自由になり神だけを信じることができましょう? 神がほんとうに選んでくださったと、どうしたら確かめられるのでしょう? 神は選ばれた人々だけの神なのでしょうか。聖書には、「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。」(ローマ 3:29) と記されています。 予定説と選びの説の意味するところを多くの人々が誤解して、自分はイエスを信じていても滅びることになるのではないかと心配します。 エペソ人への手紙第 1 章 3-5 節には、次のように記されています。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」 ここで神学における予定と選びの概念について検討しましよう。まず聖書では予定と選びについてなんと言っているかを理解し、水と御霊による救済についての信仰を強固にしましょう。 ローマ人への手紙では、どう書かれていますか。神学者の中には「無条件の選び」という、根拠のない説を立てた人々がいます。では、神学は神ですか? 神学自体は神ではありません。 世界創造の前にすでに、神はすべての人類をイエスの中に選ばれ、すべての人々を義にして救うことをお決めになりました。イエスは人類を無条件に愛されます。神を差別する神にしてはなりません。不信者は自分なりの考えを信じますが、信者は記された神のみことばに基づいて信仰します。 旧約における選び
創世記第 25 章 21-26 節には、イサクの二人の息子、エサウとヤコブのことが記されています。神はイサクの息子たちがまだ母親の胎の中にいるうちにヤコブをお選びになりました。 みことばを誤解する人々は、これを無条件の選びの説の根拠にしています。これは、キリスト教に運命の神を導入するようなものです。 神がイエスによってではなく「無条件の選び」によって人をお選びになるのなら、信者は運命の神と偶像を拝んでいるようなものです。神は運命の神ではありません。運命の神を信じるのなら、神が人類のためにお立てになったご計画を否定し、サタンの罠にはまることになります。 神のみこころに従わないのなら、人間は滅びる定めにある獣と同じことになります。信者は獣ではないのですから、聖書に記されている真理を読み信じて真の信者になるのです。聖書に記されている真理を第一に考えないのは、自らをサタンに引き渡すことです。 真の信仰をもつには、聖書に記されている真理を第一に考え、キリストのうちに新たに生まれた人々の信仰に従うことです。 カルビン主義は限定的贖罪を主張します。これは、神の愛と主の贖罪が適用されない人々がいるということを示唆しています。これは本当でしょうか? 聖書には、「神は、すべての人が救われ」ることを望んでいらっしゃる (テモテI 2:4)と記されています。贖いの恵みが一部の人々にのみ与えらえれるものなら、多くの信者はイエスを信じることを諦めるでしょう。結局のところ、そのような心の狭い神を誰が信じるでしょう? 人間には、神は心の狭い方ではないという確信が必要です。神は真理と愛と公正の神です。イエスと水と御霊によって新たに生まれる福音とを信じて、すべての罪から救われましょう。イエスは、水と御霊によって新たに生まれた者すべての救い主です。 カルビン主義によると、十人の人がいるとすると、そのうち何人かは神によって救われますが、残りは地獄の炎で焼かれるべく見捨てられます。これは真実ではありません。 神がある者を愛され、残りを見捨てられるというのは、筋が通りません。今ここに神がいらっしゃるとしましょう。神がご自分の右側に座っている人々を選ばれ、左側に座っている人々は地獄に送ることにお決めになったとしたら、私たちは神として崇めるでしょうか? 見捨てられた人々は抗議の叫びを上げるのではありませんか? すべての生き物が「なんと不公平なことを」と叫ぶでしょう。神はイエス・キリストの中にすべての人類をお選びになったのですから、無条件の選びは誤りです。 すなわち、キリストの名において神に召された人は誰でも選ばれているのです。では、神は誰をお召しになるのでしょう? 神は義人ではなく罪人をお召しになります。自らを義人と考える人々を神はお召しになりません。 神の贖いの恵みは、地獄に定められている罪人の上にあります。選びとは、罪人を義である子とするために神がお召しになることを意味します。 神は公正である
神は公正です。無条件に選ばれた者だけを愛されるのなら、神は神ではありません。神はキリストの名において罪人をお召しになりました。イエス・キリストの贖いと罪の赦しによる救済がなければ、どうして神の愛と救済を知ることができるでしょう。神を不公平な神にしてはなりません。 エペソ人への手紙第 1 章 3-5 節を読んで、欠けているものを探しなさい。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」 何が欠けていますか? 欠けている言葉は、「イエス・キリストによって」です。 カルビン主義の無条件の選びは、聖書の言葉と照応していません。聖書には、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び」とあります。 神はすべての人類が水と御霊によって新たに生まれるようお選びになりました。罪人として生まれるしかない人間は、罪を赦されて神の子どもになれます。神は人類全員を救われるべき者のリストにお入れになり、イエス・キリストのうちにお選びになるのです。 無条件の選びを主張する神学者の多くが、一部の人々だけが選ばれるのだと主張するために、不条理な教理の混沌にとらわれている人々が大勢います。偽りの神学者は、神は無条件の選びによってある人々を選び、残りをお捨てになると言いますが、みことばによる真実では、神はすべての罪人をイエス・キリストのうちにお選びになったとしています。迷信的な信条のせいで、多くの人々が誤った教理の犠牲になっています。 しかし、神がすべての人類をイエスのうちに救おうとお決めになったのであり、罪の赦しはイエスを信じる者すべてに与えられるのだと知るならば、人はすべての罪から救われて神の子どもとなり、義となり、永遠のいのちを得、神は公正であると確信できます。 ヤコブとエサウの物語にみる神の選び
創世記第 25 章 19-28 節で、エサウとヤコブは母リベカの胎内で争っていました。創世記第 25 章 23 節で神はおっしゃいます。「すると主は彼女に仰せられた。『二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。』」 罪人は、これらの言葉を神学上の予定説と選びの説に変え、イエスを信じる多くの人々を、自分は神に選ばれているのかどうかと惑わせているのです。自分は選ばれていると思うと、救われたと考え、水と御霊によって新たに生まれることへの関心を失います。 無条件の選びの概念は、イエスを信じる大勢の人々を贖いから遠ざけ、地獄に定めてきました。これはまた、神を不公平なものとします。 多くの神学者が自分の頭でひねり出した誤った教義を教えるため、イエスの信者の多くは不安になり、自分は選ばれているのだろうか、それとも贖いはすでに運命づけらたことなのだろうかと迷います。 ヤコブとエサウのうち、神はどちらを選ばれたでしょう? 神はヤコブをイエス・キリストのうちにお選びになりました。ローマ人への手紙第 9 章 10-11 節によると、同じ男を父とし、まだ生まれておらず良いことも悪いことも何もしていないうちに神は兄の方ではなくヤコブをお選びになったとしています。 神の目的は、その行ないによるのではなく、選びによってヤコブを選ぶことでした。聖書ではまた、イエスは、正しい生活をした者ではなく罪人をお召しにおいでになったとしています。 アダムの子孫である人類は、罪人として生まれます。ダビデは、自分は母の胎内にいたときから罪人であり、咎ある者として生まれたと言っています。「私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」 (詩篇 51:5) 人は祖先の罪のゆえに罪人として生まれます。ですからこの世に生まれた人はみな、そのつもりがなくても罪人になり、罪人として振舞い、罪の実を結びます。 まだ何ひとつ罪を犯していない赤子でさえ、罪の種をもって生まれたためにすでに罪人なのです。人の心にはよこしまな考え、不倫、密通、殺人があります。人は祖先の罪とともに生まれます。人は生まれる前にすでに罪人なのです。 神が人間を弱い者としてお造りになった理由は次のとおりです。人間は神の創造物ですが、主は罪から救って子どもとなさろうとご計画なさいました。アダムが罪を犯すのを許されたのはこのためです。 その結果人間が罪人になると、神はイエスを世に遣わされ、ただひとりの御子がバプテスマによって人類の罪をすべて取り除くようになさいました。 神の目的は、イエスのバプテスマと十字架上の血とによって人類を贖い、イエスを信じることによってご自分の子どもになる力を与えるというものでした。神はキリストのうちですべての罪を洗い流すという約束に基づいて、アダムが罪を犯すようになさいました。 誤った教義を信じる罪人は、言います。「ヤコブとエサウを見なさい。神は無条件に一人を選んでもう一人を見捨てたではありませんか。」 神は無条件にお選びにはなりません。イエス・キリストのうちにお選びになるのです。聖書に記されたみことばを調べるだけでそれはわかります。ローマ人への手紙第 9 章 10-12 節には、次のように記されています。「このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える』と彼女に告げられたのです。」 神はヤコブをイエス・キリストのうちにお選びになりました。ヤコブはつまらない、およそまともなところのない典型的な罪人です。エペソ人への手紙第 1 章第 4 節には、神はキリストの中に選ばれるとあります。 神は誰をお召しになったでしょう? 神はヤコブをお召しになりました。ヤコブは神の前に罪深くよこしまであることを自覚して神に頼ったからです。神は御子イエスの名によってヤコブをお召しになり、水と血の福音によって贖われて子どもになさいました。神はヤコブをお召しになり、贖いを恵まれたのです。 神はイエスの贖いによって義とするために罪人をお召しになりました。それが神のご計画です。 無条件の選びという誤った教理
最近、無条件の選びに基づいた本を読みました。若い男が夢を見ます。老女がその夢に現れて、とある場所に来るようにと言い、男は行きます。そこで老女は、彼が神に選ばれたと告げます。 男は老女に、自分は神を信じてさえいないのに、なぜ神は自分を選んだのかと尋ねます。老女は、信仰のない者であっても神は無条件に選んだのだと答えます。 これは真実ではありません。どうして神が恣意的にある人々を地獄に定め、他の人々を救済のために選ばれるでしょう。神はすべての人をイエスの中にお選びになりました。 イエスを除外した神学の選びの説は誤っています。これは真実ではありません。しかし、多くの神学者は、神は特定の人々だけをお選びになると主張します。それは誤っています。神はすべての人々をイエスの中に救いたいとお思いなのです。イエスの中の水と御霊の贖いを信じない人々だけが救われないのです。 神はすべての人々が御子イエスによって救われるよう予めお定めになり、世界創造の前から子どもにするおつもりだったのです。神はイエス・キリストの贖いによって人類を世の罪のすべてから救おうとご計画になりました。これが聖書に記されている真理です。 キリストにおいて新たに生まれた者は選ばれた者です。しかし、神学者は、神は特定の人々だけをお選びになると主張します。たとえば彼らは、仏教の僧侶は神がお選びにならなかった人々の中に入っていると言います。しかし、神は僧侶たちもイエスの中にお選びです。 神がイエスを抜きにして無条件に選ばれるのなら、私たちが福音を説く必要はありません。神がイエスを抜きにしてある人を選ぼうとご計画なら、罪人たちはイエスを信じる必要がありません。それでどうして神の愛と真理と救済のみことばが全うされるでしょう。 この世で神のしもべが福音を宣べ広げる理由がありますか? 神がすでにイエスを抜きにして無条件に選び、赦し、裁かれていらっしゃるなら、意味がありますか? 神がヤコブをイエスの中にお選びになった理由、神がヤコブを愛しエサウをお憎みになった理由は、創造の前にすでにヤコブはイエスを信じ、エサウは信じないとご存知だったからです。 世界にはイエスを信じる罪人が大勢います。その中にはエサウのような人もいれば、ヤコブのような人もいます。 なぜ神はヤコブを愛されたのでしょう? ヤコブはよこしまで、自分がつまらない人間であることを知っていました。そこで、自分は神の前で罪人であると認め、神の恵みを求めました。そのために神はヤコブををお救いになったのです。 しかし、エサウは主よりは自らを頼み、神の恵みを乞い求めませんでした。そこで神はヤコブを愛しエサウを憎むとおっしゃったのです。これが真理のみことばです。 神はすべての人間をイエスのうちの救済に予定なさいました。罪人はイエスを信じるだけでよいのです。そうすると、神の真理と正義がその人の心に吹き込まれます。罪人はイエスによって救われることを心のすべてで信じることしかできません。ただイエスによる贖いを信じるだけでよいのです。 誤った漸進的聖化の教理
サタンは漸進的聖化の教理で罪人を欺き、罪から救われないようにします。漸進的聖化とは、罪人がイエスを信じるようになってから徐々に聖化されるという意味です。 この教理は次のように教えます。罪人はイエスを信じたときには原罪から救われるだけであり、一度に永遠に義となることはできない。実際の罪は毎日の悔い改めの祈りによって洗い流され、人は徐々に聖化される。 この理論の最も重要な点は、聖化が徐々に行なわれるという点です。人がイエスを信じて徐々により聖いキリスト教徒になれるというのは、よいことのように聞えます。この教理が長年多くのキリスト教徒を欺き、安心させてきました。キリスト教社会に聖人ぶったキリスト教徒が大勢いるのは、このためです。 彼らは、自分がいつか自然に変化し、それ以上罪を犯さなくなると考えます。しかし、その人たちは生涯罪人として生き、死後に神の前で裁かれるのです。 聖書に記されている真のみことばを読みましょう。ローマ人への手紙第 8 章 30 節には、「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」と記されています。 また、第 29 節には、「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」とあります。一見、義となるには段階があるように見えます。しかし、みことばは一度に永遠に義とされると告げています。 「召した人々をさらに義と認め」たとあります。イエスは罪人を召され、ヨルダン川でのバプテスマと十字架上の死とによってその人々を義となさいました。 ですから、イエスの贖いを信じる人は、栄光を与えられた神の子になるのです。罪人を贖い、イエスの名によって栄光をお与えになるのは、神の恵みです。 これが神のおっしゃったことです。しかし、キリスト教徒の中には、ローマ人への手紙第 8 章 30 節を指摘する人々がいます。「聖化には段階があるのです。これは、徐々に変化するということではないのですか?」人々はこのように欺かれているのです。彼らは、罪人はいずれ義となるだろうと、未来形で話します。 しかし、聖書は未来形ではなく、一度に永遠に義とされたと過去完了形で言っているのです。未来と過去完了との間には明瞭な違いがあります。 人は聖書を完全に信じるべきです。記されていることによると、人は一度に永遠に神の子どもになるのです。これは漸進的聖化の教理とは全く異なっています。 漸進的聖化の教理は、イエスを信じたときには原罪だけが赦されるとしています。これは、宗教的生活を送り、毎日罪を悔い改め、神の前に立った時に義となるようにしなければならないということを意味します。 多くの人がこの教理を信じるために、その人たちはイエスを信じるようになっても罪人のままでいます。漸進的聖化が誤っているというのは、このためです。 聖書ははっきりと、人は信仰によって義となり、神の子供になるのだと語っています。赤ん坊がこの世に産まれてくるように、神の子はイエスの贖いを知り信じると即座に聖化されるのです。誤った漸進的聖化の教理は嘘から生まれたものです。 すべての罪からの完全な救い
ローマ人への手紙第 8 章 1-2 節には、次のように記されています。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」 これは、神がイエスに来たすべての罪人を義となさって罪と死の律法から救われたことを示しています。 聖書のヘブル人への手紙第 9 章 12 節では、完全な贖いについて述べています。「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」 これは、イエスを信じる者が贖われて天国に入れられたことを示しています。 キリスト・イエスの中の水と御霊の贖いの福音を聞き信じる人々は、すべての罪を赦されるのです。しかし、ただ原罪だけを赦されたのだと信じる罪人は、真に救われることができません。その人たちは、イエスを信じるようになってから犯した罪をきよめられるために毎日悔い改めなければならないと感じます。 誤った信仰は地獄につながります。彼らは誤った信仰から、すべての咎から解放されるために毎日悔い改めることになります。それは人を地獄から救う真の信仰ではありません。 イエスを信じ一度で永遠に贖われたのなら、義である神の子になったはずです。真の贖いは信者を義とし、一度で永遠に神の子にするのです。 信者は世の罪のすべてから救われても、肉は死ぬまで変わりません。しかし、心は神の義に満たされています。この事実を誤解しないでください。 聖書は、福音を信じたとき人は聖化され義となると教えています。 ヘブル人への手紙第 10 章 9-14 節を読んで、真の福音を確かめましょう。「また、『さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。』と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」 「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」 この部分が未来形ではなく現在完了であることに注意してください。 完全に聖化されるためには、人はイエスがお与えになった水と御霊の贖いを信じなければなりません。 イエスは一度で永遠の贖いをお与えになった
イエスの永遠の贖いを信じるなら、人はただ一度で義となります。聖書には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」 (テサロニケ I 5:16-18) と記されています。 いつも喜んでいなさい。どうして人はいつも喜んでいられるでしょう? 永遠の贖いを受けた人は、いつまでも喜んでいられます。イエスがヨルダン川ですべての罪を除いてくださったので自分は罪から解放されたと知っているのですから、安心です。神の前で謙虚にその恵みに感謝し、終わることなく喜んでいられるのです。 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。」 (ローマ 4:7) これは、まだ心に罪がありながらその人の罪が赦されたということではありません。その人の心はきよめられています。イエスは一度で永遠にその人の罪を洗い流してお救いになったのです。 この永遠の贖いは新約で述べられています。バプテスマをお受けになったとき、イエスはおっしゃいました。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」 (マタイ 3:15) 旧約において両手を置くことで山羊や羊が人間の罪を取り除いたように、イエスは最も正しくふさわしい方法で世の罪をすべて取り除いて人類をきよめられたのです。 イエスは「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」とおっしゃいました。イエスは最も正しい方法でバプテスマをお受けになり、人類の罪をすべて被られてお救いになったのです。 マタイの福音書第 3 章 15 節には、イエスが世の罪をすべて取り除かれたことが記されています。神の正義は完全です。この永遠の贖いを理解しようとしてはいけません。これは救いのみことばとして受け入れるべきです。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。」 (詩篇 32:1) ヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったときに、イエスは心と肉のすべての罪を取り除かれました。イエスは、人類がこの腐敗し堕落した世で犯した罪のために裁かれました。人類の罪をすべて被られてからイエスは十字架上で死なれました。 この罪の贖いを信じる人は誰でも、一度で永遠に、一点の汚れもない義人となります。イエスは永遠に生きられるのですから、キリストの贖いを信じる人はいつまでも義でいられます。 人間は今や神の前に自信をもって立ち、こう言えます。「主よ、こんにちは。私はあなたのただ一人の御子イエス・キリストを信じており、私もまたあなたの子です。父なる神よありがとうござます。子として受け入れてくださってありがとうございます。これは私の行ないによるのではなく、イエスの中の水と御霊によって新たに生まれることへの信仰によるものです。あなたは世のすべての罪から救ってくださいました。あなたが『このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです』 (マタイ 3:15) とおっしゃったことを信じています。イエスのバプテスマと十字架によって私はあなたの子になりました。このことに感謝しています。」 みなさんは自分の罪のすべてをイエスの上に移しましたか? あなたの罪はすべてイエスが取り除いてくださいましたか? 聖書はイエスのバプテスマと十字架上の死とのおかげで、罪人はただそれを信じるだけで聖化されると教えています。 イエスのバプテスマと贖いの関係
イエスを信じながら罪人として生きている人が教会で祈るところを考えてみましょう。「神様、先週犯した罪をお赦しください。過去三日間の罪をお許しください。ああ主よ、今日の罪をお許しください。イエスを信じています。」 この祈りでこの人が毎日の罪を赦されたとしましょう。しかし後で日常生活に戻ると、また罪を犯します。そうすると、また罪人になります。 イエスは神の子羊となられてバプテスマによってすべての罪人の罪を取り除き、十字架につけられることで彼らを贖われました。贖われるためには、罪人は次のことを信じなければなりません。 ヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったときに、イエスはすべての罪を取り除かれ、こうして神の義を全うされました。世の罪はすべて洗い流されました。この真理を信じる人は誰でも救われます。マタイの福音書第 3 章 13-17 節に記されているように、「このようにして」バプテスマのヨハネからパブテスマをお受けになって、イエスはすべての信者の救い主となられました。 真理の福音は、イエスが世の罪をすべて一度に永遠に取り除いたとしています。しかし、誤った神学は、人は毎日贖われるとしています。どちらを信じればよいのでしょう? 人間は一度で永遠に贖われたのでしょうか、それとも毎日贖われるのでしょうか? イエスが一度で永遠に人類を贖われたことは明らかです。水と御霊の贖いが一度で永遠のものであるとする信仰が真の信条です。毎日贖われなければならないと考える人々は、決して救われません。 真の贖いは、イエスがバプテスマと十字架上の死とによって一度で永遠に人類をお救いになったと信じることによって得られるのです。人はただ神に感謝し、この真の福音を信じさえすればよいのです。 しかし、誤った信仰をもつ人々は、自分は原罪から救われただけであり、実際の罪については毎日贖われなければならない、また、人は「徐々に」聖化されるものだと言います。これは誤りです。 イエスのバプテスマと十字架上の死とがすべての罪の赦しを一度で永遠に成し遂げたのです。これが真理です。人類が救われるためには、バプテスマのヨハネによって罪がイエスの上に移される必要があり、それからイエスが十字架上で死ななければならなかったのです。 罪を犯した後で「お赦しください」と言うのは、神の正義に適いません。神の律法は、罪から来る報酬は死であると定めています。神は公正で聖いのです。 罪を犯した後で「すみません。どうか赦してください」と祈る人々は、神の正義を知りません。彼らは赦しを求めて祈りますが、それは良心を慰めるためだけなのです。毎日罪を犯し、気休めのために繰り返し違反を悔い改めることは正しいことでしょうか。救われる唯一の方法は、イエスのバプテスマと血とを信じることです。人は心で信じるのです。ただこれによってのみ、神の裁きを免れることができるのです。 罪からの救いについて、もう少し考えてみましょう。ヘブル人への手紙第 9 章 22 節には、「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」と記されています。 神の正しい律法によると、罪は血によってきよめられ、血を注ぎ出すことがなければ赦しはないというのです。これが神の正しい律法です。罪の報いを払うことなしには赦しはあり得ません。 神の律法は正しいのです。イエスは罪人を救うためにバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架上で血を流されました。イエスはバプテスマと十字架上で血を流すことによって人類の罪のすべての報いをお受けになり、違反をすべて取り除かれました。イエスは人類に代わって罪の報いをお受けになったのです。
マタイの福音書第 3 章 15 節で、世の罪のすべてから人類をお救いになるためにイエスは最もふさわしい方法でバプテスマをお受けになり、バプテスマによってすべての罪を流し去り、十字架上で死なれました。 毎日赦しを求めることは、またすべての罪を除いて死んでくれとイエスに頼んでいるようなものです。神の正しい律法を真に理解しましょう。人類を罪から救うためにイエスが繰り返し死なれる必要はありません。 イエスを信じる者が何度も何度も犯した罪の赦しを乞うのは無礼極まりないと神はお考えになります。「あの愚かな無礼者ども! 彼らは息子イエスにまたバプテスマを受けて十字架上で死んでくれと言っているのだ! イエスの贖いを信じながら、自分を罪人だと言う! わたしの公正な律法で彼らを裁き、全員地獄の炎で焼いてくれよう。自分の子を二度殺そうというのか? あなたたちは罪を犯し、息子をまた殺してくれとわたしに頼む。人類を世の罪のすべてから救うために、わたしはすでに一度息子を殺している。だから、あなたたちが犯す罪の赦しを何度も乞うてわたしを怒らせるな。ただ水と御霊の贖いの福音を信じるのだ。」 イエスは、罪人のままでいる人々に、真の福音が説かれている教会に行き、誤った信条を捨て、信仰によって誤りを克服して贖いを受けろとおっしゃいます。 心で信じて救われましょう。信じますか? 真理ではなく行ないを信仰する結果
イエスを信じながら救われていない罪人であっても、数年はまばゆく輝くでしょう。はじめは熱心ですが、時とともに信仰は薄れていきます。行ないによってイエスを信じるのなら、その熱意もまたじきに消えるでしょう。 盲目の人は見ることができません。そこで、感覚に頼って知識を集めます。涙がこみあげるのを感じると、それを赦しのしるしと誤解します。真の赦しは感覚ではありません。 霊的な目の開いていない人は、信仰復興集会に出席して当初の愛を取り戻そうとしますが、その感覚は戻りません。罪の赦しもまた得ることができません。最初から正しく信じていれば、赦しと神の恵みは日ごとにさらに明るく輝いたでしょう。 しかし、偽りの赦しは最初だけ輝き、やがてあせていきます。霊的な目の開いていない人は、最初から真の福音を聞くことができないために、熱意に燃える気持ちはじきに消えます。 偽善的な律法学者やパリサイ人は聖書を小脇に抱え、主の祈りや使徒信条を暗記して、四六時中祈っています。彼らは教会で高い地位につけられ、感情的に高ぶっていますが、罪はたまっていき、最後には神に退けられるのです。外見は宗教的熱意の白い漆喰に覆われていても、内では、心が罪で腐っています。これが真理によらず行ないに基づいた信仰の結果なのです。 信仰によって義となる
ヘブル人への手紙第 10 章 16-18 節を読みましょう。「『それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。』またこう言われます。『わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。』」 人類はイエスのバプテスマと十字架上の血とによって贖われたので、もはや罪を贖う必要はありません。初めて聞くと変だと思うでしょうが、聖書にはそのように記されているのです。これは人の言葉でしょうか? 聖書がすべてを測る上での基準であり、下げ振り線なのです。 「わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」 贖われた後、どのように感じるでしょう? 心には罪がないのですから、さわやかな感じがします。義となり、光の中で生きられるのです。 また、主はヘブル人への手紙第 10 章 17 節で「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」とおっしゃっています。神は、贖われた者たちの罪や不法を思い出すことはなさらないとおっしゃいます。なぜでしょうか。イエスが「このように」最もふさわしい方法でバプテスマを受けられたからです。すべての罪を取り除いた後、イエスはご自分を信じる者に代わって裁かれました。 イエスが人類のすべての罪の代償を支払ってくださったのですから、罪を意識はしてもそのことで罪悪感を抱く必要はありません。イエスが人類のためにすべての罪を洗い流して十字架上で血を流されたのですから、人はもはや罪のために死ななくともよいのです。 ヘブル人への手紙第 10 章 18 節には、「これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。」とあります。これは、神が世の罪のすべてを消されたことを意味します。これはまた、イエスの中に新たに生まれた人々は、もはや罪のためのささげ物をする必要がないということでもあります。 「ああ神よ、許してください。イエスを信じながらまだみじめであるのは、まだ贖われていないからです。私はキリスト教徒ですが、心は罪で完全に腐っています。」 こんな祈りをする必要はありません。 罪人はそうと知らずに罪を犯します。神の真理の律法を知らないのですから、何が罪であるかを知りません。彼らはただ、自分たちは罪を犯してはならないと良心で知っているのですが、神の前で罪を犯すとはどういうことかを知りません。神は、イエスを信じないことは罪であると示されました。 ヨハネの福音書第 16 章 9 節は、神の前で罪を犯すとはどういうことかを述べています。「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」 イエスを信じないことは神の前で罪です。ヨハネの福音書第 16 章 10 節は、義とは何かを述べています。「また、義については、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」 つまり、イエスはすでにこの世をすべての罪からお救いになったので、第二のバプテスマと十字架上の死とによって人類を再びお救いになる必要はないのです。 イエスは贖いを信じる者をお召しになって聖化し、義となさいます。この世における贖いは、イエスのバプテスマと十字架上の死とによって完了しました。罪人を救う贖いは他に必要ありません。 「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒 4:12) イエスはすべての罪人を救うためにこの世に降臨され、バプテスマのヨハネからバプテスマを受け、十字架上で血を流されました。これを心で信じれば救われます。イエスは水と御霊によって人間を聖化なさいました。 イエスは水と御霊によって人間の肉からすべての罪を消し去ってくださいました。人間は信仰によって救われます。真理を信じるなら、イエス・キリストによる福音を信じるなら、人は一度で永遠に義となります。イエスのバプテスマと十字架上の死の二つは根本的な真理です。 罪人がよりどころとする聖句
ヨハネの手紙第一第 1 章 9 節は、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を許し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」と記されています。 罪を告白するだけで赦されるとしたらいいですね。このことからすばらしい新教理を考えついた神学者たちがいます。彼らは、人は罪を告白するたびにその罪を赦されると主張します。便利ですね。しかし、人が神に告白するたびに赦されるとは、イエスは一度もおっしゃいませんでした。 ただ罪を告白するだけで赦されるのですか、それともすでに贖われているのですか? どちらを信じますか? 誤った教理を唱える人々は、罪を告白するたびに赦されるのだと信じていますが、実際は、贖いの真のみことばを知らないために、罪はその人たちの心に残ります。イエスを信じる罪人が、犯した罪の赦しを求めて祈るたびに赦されるというのは、筋が通りません。 ですから、どのように教えられたにしろ、贖いについての神のみことばに耳を傾け、真理と誤りとを区別する必要があります。 罪人はヨハネの手紙第一第 1 章 9 節を誤解しています。彼らはこの部分は毎日の罪のことを言っているのだと考えています。教えを注意深く読んでみましょう。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を許し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」 人は原罪からだけ救われているのであり、神が真実で正しくあって罪をお赦しになるためには、犯した罪を告白しなければならないのですか? これは肉の弱さから生じた誤った考えです。 イエスのバプテスマと血を信じると、これは正しくないことがわかります。罪はすべてずっと昔にイエスのバプテスマと十字架上の血とによって洗い流されているのです。 御霊に従って信じることと誤った考えによって信じることとは全く別物です。自身の考えや感覚に基づいて信じる人々は、毎日罪を洗い流さなければならないと感じます。しかし、水と血との贖いを信じる人々は、イエス・キリストのバプテスマと血とによって一度で永遠に救われたことを知っています。 毎日告白して新たに贖われなければならないと信じる人々は、実際はイエスのバプテスマと血とによる贖いを信じないという罪を犯しています。 みなさんは、イエスのバプテスマと血によって一度で永遠に贖われていますか? 贖われていない人々は、毎日罪を告白することで救済を得ようとします。これでは、将来実際に犯す罪をどうするのかという問題が残ります。 その人たちは、将来の罪について事前に告白しようとするかもしれません。しかし、そうすることはイエスへの信仰の欠如を示しています。そうした人々は贖いの福音を知りません。イエスはバプテスマと血とによってご自分の身で裁きを受けられ、人類を一度で永遠にお救いになりました。人間はただイエスを信じるだけで救われます。 救われるためには将来犯す罪までも告白しなければいけないと考えるのなら、その人は水と御霊によって新たに生まれることを全く知らない不信者と変りません。罪人は告白によって贖われることができません。 ところが、「私はまだ贖われていない罪人です」と正直に告白し、それからイエスのバプテスマと十字架上の死とを聞き信じるなら、神はすべての罪から救ってくださいます。 しかし、贖いの福音を信じず、ただ悔い改めの祈りの陰に隠れるのなら、イエスが正しい裁き手としてこの世に再臨された時に恐ろしい裁きを受けることになります。 水と御霊の贖いの福音を信じない人々は裁かれます。告白の陰に隠れるなら、その人たちは裁きを受けます。すから、裁きの日を待たないでください。今、水と御霊の福音を信じるのです。 正しい告白と真の信仰
神は人類を一度で永遠に贖われました。次に、私の言いたいことをよく表している例を紹介しましょう。北朝鮮のスパイが南に来たとしましょう。彼は、この国が繁栄しているさまを見て自分が欺かれていたことに気づき、自首します。 近くの警察署に行って、彼はこのように告白します。「私は北からのスパイです」、あるいは、「私はだれそれを暗殺し、どこそこを爆破し、すでにこれこれを爆破しました。しかし、自首しに来ました。ですから、私はもうスパイではありません。」 これは正しい告白でしょうか? ほんとうに告白するつもりなら、ただ「私はスパイです」と言いさえすればいいのです。この簡潔な発言はすべてを示唆しています。彼は悪い人間で、裁かれなければならない。どんな使命を帯びてきたにしろ、この単純な発言によって彼は許されるでしょう。 このように罪人が「私はまだ贖われていない罪人です。私は裁かれ地獄に投げ込まれる定めにあります。どうかお救いください」と祈りイエスを信じるなら、その人は救われます。イエスは人類のためにバプテスマをお受けになって血を流されました。人間が救われるには、ただイエスによる救済を信じさえすればよいのです。 黙示録第 2 章 17 節には、「彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている」と記されています。聖書は、真の福音を受ける者だけがイエスの名を知るといっているのです。一度で永遠に贖われた者だけが義となる秘密を知っています。 これを知らない人は、毎日悔い改めて祈っても罪人のままです。告白することは、毎日赦しを求めて祈ることとは違います。十年間キリスト教徒である人でも、毎日神の赦しを求めるのなら、その人はまだ罪人です。その人はまだ神の子ではありません。 その人が救われるためには、自分は罪人であり、イエスの贖いを信じていると告白しなければなりません。これが真の信仰です。 自分の罪を数え上げることは、ヨハネの手紙第一第 1 章 9 節で述べられている告白ではない
盗人や殺人者が行ないを告白して贖われるでしょうか? 罪人は、罪を告白するだけでは贖われません。彼らは水と御霊によってイエスのうちに新たに生まれる恵みの福音によってのみ贖われます。誤ったキリスト教徒の中には次のような告白をする人々がいます。 「神様、私は今日も人と言い争いました。罪を犯しました。人をだましました。物を盗みました。」 このように続けたなら、神はおっしゃるでしょう。「黙れ、この罪人! それがどうしたのだ?」 「どうか先を聞いてください。神様、あなたは罪を告白しろとおっしゃいました。どうかお赦しください。」 こうした祈りは、神のお聞きになりたいものではありません。神は水と御霊の贖いを信じる者の祈りをお聞きになりたいのです。すなわち自らの罪を認め真に新たに生まれる福音を信じる者です。 アウグスティヌスは、母親の乳を吸ったことを悔い改めたと述べています。彼はこうした告白が天の国に続くものと考えました。これには笑ってしまいます。罪を告白するだけではだめなのです。 神は、「黙って、罪を犯したのならただそう言いなさい。そうしたら、もうそれ以上言うのではない。これまであなたは誤り信じてきた。だから、真理を教えている教会に行きなさい。贖いの福音を正しく信じて贖われなさい。そうでなければ、わたしが行ってあなたを裁こう。」 赦しを求める悔い改めの祈りその他の告白によって救われようとする試みは、誤った偽りの信仰のしるしです。 ヨハネの手紙第一第 1 章 9 節には、人がすべての罪を認めるならば、水と血の福音がすべての罪から救うであろうと記されています。 「わたしから離れて行け」
キリスト教徒の罪人は誤った信仰をもち、イエスの前に不法を行なっています。「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」 (マタイ 7:22-23) 誤りを信じる者が死んで神の前に立ち、こう言ったとします。「こんにちは、主よ。地上で想像していたあなたは本当にすばらしかったけれど、こうしてここで拝見するとずっとすばらしいのですね。主よ、ありがとうござます。あなたは私をお救いくださいました。私の心には罪がありますが、それでも罪のない者とみなしてくださると信じています。天国に入れるとお約束なさったので、ここに来ました。これから花が満開のところに行きます。さようなら、またお会いしましょう。」 彼は庭園の方に行こうとしますが、イエスは彼を止めます。「待ちなさい! この人の心に罪があるかどうか見よう。あなたは罪人ですか?」 「もちろん、私には罪があります。でもあなたを信じてきましたよ。」 「わたしを信じながら、罪があるというのですか?」 「ええ、あります。」 「何ですって? 罪がある? 『いのちの書』を持ってきなさい。それに『行ないの書』も。この人の名前を調べなさい。どちらの本にありますか。」 見ると、彼の名は『行ないの書』にあるのです。 「では、地上で犯した罪を告白しなさい。」 男はそうしまいとしますが、神は強いて口を開かせ、告白させます。」 「はい、私はこれこれの罪を犯しました……」 彼はすっかり混乱して、口を閉じていられません。 「よし、もういい! この男は地獄に行くだけのことをしている。十分以上だ! 燃えさかる場所に送りなさい。」 彼は、花が満開のところではなく火と硫黄に満ちたところに送られます。彼は地獄に連れて行かれながら歯軋りします。 「私はあなたを信じ、あなたの名で預言し、あなたの名で教えを説き、あなたに仕えるために自分の家を売り、孤児を助け、あなたの名によって多くを耐え、夜明けに祈り、病者の世話をし…… 私には天国に行く資格がある。」 彼は歯がすっかり摩滅するほどに歯軋りします。地獄に着くと、イエスの内の贖いの真の意味を知らなかった大勢のキリスト教徒を見ます。贖いの福音を誤解した人々は、見捨てられたのです。 誤った信者の罪は『行ないの書』に
イエスを信じるにしろ信じないにしろ、神は心に罪のある人々を滅ぼされます。人の心に塵ほどでも罪があれば、その人は裁きの日に地獄に送られるのです。神は、まだ贖われていない罪人に、贖われたければ、自分はまだ救われていないと告白しなさいと促されます。 罪人の罪はその人の心に記録されています。水と御霊によって新たに生まれた人々は、罪のことを覚えてはいても、罪は心から消されています。彼らは義人です。 しかし、新たに生まれていない人々は、心に罪があります。ですから、彼らは神の前に罪人です。祈りのためにひざまずく時はいつでも罪が神からその人たちを引き離し、神が祈りをお聞きになることができないようにします。彼らはあれこれのために祈りますが、罪は残ります。彼らは罪を告白し、十年前、十一年前、二十年前の違反までさかのぼって悔い改めることになります。 この人たちは、ほんとうに繰り返し祈りの中で悔い改めなければならないのでしょうか? なぜこういうことをするのでしょう? そうしたくはないのですが、祈り始めるといつでも、自分は神の前で有罪であることを思い出すのです。そこで、真剣に祈る前に罪を赦されなければいけないと感じます。 神は罪が絶対に消されないように、その人たちの心の板に鉄のペンで記入なさいます。その結果、彼らは神の前に出るたびに罪を告白しなければならないと感じます。ですから、イエスの完全な福音の半分しか信じていない人々は罪人として惨めに生き、地獄に行くのです。 エレミヤ書第 17 章 1 節には、「ユダの罪は鉄の筆と金剛石のとがりでしるされ、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている」と記されています。 ユダはイスラエル人の王家の部族です。聖書ではユダを人類すべての代表としていますから、ユダはすべての人間という意味です。 ユダの罪は、鉄の筆と鋼をも切り裂くダイヤモンドのペン先で刻まれています。ダイヤモンドは世界一硬い物質です。鉄の筆とダイヤモンドのペン先によって人間の罪が記録されます。 ひとたび刻まれると、消すことができません。水と御霊の真理を信じなければ、消されません。 心に罪があるのなら、自分の考えで贖われたり、キリスト教の教義を信じたり、神学を暗記したり、教会に献身したりするのは無益です。 イエスのバプテスマなしには罪は絶対に消されないのですから、罪人は祈る時いつでも罪を思い出しては「主よ、私は罪人です」と言います。教会でいろいろな役目を担い、神学や教理を勉強してどんなに神と交わろうとしても、心に罪があります。 ですから山に行って異言で話そうとし、燃え上がる炎の中に啓示を見ようとするのですが、すべては無駄です。罪が心に残っているのなら、心の安らぐことがありません。 エレミヤ書第 17 章 1 節に記されているように、人間の罪は祭壇の角に刻まれています。天には『いのちの書』と『行ないの書』があります。罪人の罪は『行ないの書』に記録されていますから、人間は絶対に違反から逃れられません。神は『行ないの書』と人間の良心の板に罪を記録なさり、律法によりそれをお示しになります。 イエスのバプテスマと十字架上で流された血とを信じて記録を消し去り、救われましょう。そうすれば、永遠のいのちを受ける資格を得、名前が『いのちの書』に記されます。 名前が『いのちの書』に記されているか
名前を『いのちの書』に記されていることは大切です。その書に名前が記されていなければ、イエスを信じても何の役にも立ちません。真に贖われるためには、水と御霊によって新たに生まれることを信じるのです。 イエスはこの世においでになり、三十歳の時に世の罪をすべて洗い流すためにバプテスマをお受けになり、人類を救うために十字架上で死なれました。マタイの福音書第 3 章 15 節に記されているように、イエスは「このように」バプテスマをお受けになり、十字架につけられたのです。『いのちの書』に名前を記されるためには、これを信じなければなりません。 人が死んで神の前に立つと、神はおっしゃいます。「この人の名が『いのちの書』にあるかどうか調べなさい。」 「あります。」 「そう、あなたは地上でわたしのために苦しみ涙を流した。わたしはあなたが二度とそうしなくていいようにしよう。」 神は、報いとしてその人に義の冠をお与えになります。 「主よ、ありがとうございます。永遠に感謝いたします。」 「天使、この人に冠をかぶらせなさい。」 「主よ、あなたがお救いくださっただけで十分です。冠はもったいなさ過ぎます。ありがとうござます。お救いくださって本当にありがとうございます。あなたのいらっしゃるところに住むだけで十分です。」 「天使、ひざまずいて私の 10,000 番目の子を背に負いなさい。」 天使は答えます。「はい。」 「背にお乗りください。」 「とてもいい具合です。これでいいのですか? では行きましょう。」 天使は慎重に歩きます。 「散歩はいかがですか?」 「うわあ、きれいですね。ここの広さはどれくらいありますか?」 「何十億年も歩き回っていますが、まだ果てを見つけていません。」 「そうですか。重いでしょう。おろしてください。」 「ここでは体力が衰えることがありません。」 「ありがとう。でも、天の国の地面に立ちたいのです。先に着いた義人はみなどこにいますか?」 「あちらです。」 「行きましょう。」 ハレルヤ! 彼らは抱き合い笑い、いつまでも幸せに暮らします。 さて、イエスを信じながらまだ罪人である人が死んで神の前に立ったところを想像してみましょう。その人もまたイエスを信じると言い、自分は罪人であると認めます。 神はおっしゃいます。「この人の名が『いのちの書』に記されているか調べなさい。」 「こちらにはありません。」 「では、『行ないの書』を見なさい。」 「この人の名と罪が記されています。」 「では、この人を二度と燃料費の心配をしなくていい場所に送り、永遠にそこで暮らさせなさい。」 「主よ、それは不公平です……」 彼はこれを不公平と言います。イエスをあんなに熱心に信じたのに、なぜ地獄に送られなければならないのでしょう。 サタンに欺かれて福音の真理の半分しか聞かなかったからです。イエスの贖いの真の意味を誤解したなら、人は地獄に行くことになります。 この人はイエスを信じましたが、サタンにだまされて自分を罪人だと思いました。真の福音を聞いていれば、自分の信仰が誤っていることに気づいたでしょう。しかし、自身の誤った信仰に身勝手に執着したために、それができませんでした。 天の国に行きたければ、水と御霊によって新たに生まれることを信じなければなりません。マタイの福音書第 3 章 15 節に記されているように、イエスは「このように」世の罪をすべて取り除かれたのです。水と血の救済を信じましょう。
他人の頼みを絶対に断らない気のいい人のように何でも信じようとするのなら、地獄に行くことになります。地獄には気のいい人が大勢いますが、天国には自分の信じることのために戦った真の戦士がいます。 天国にいる人々は、自分が地獄に行く定めにある罪人であることを知り、罪がイエスのバプテスマと血とによって洗い流されたことを信じ、感謝しています。 天には耳と口の山があるといいます。多くの人が耳や口でだけイエスの贖いを信じたために、神はその人々の体の残りの部分を燃える硫黄の炎の中に投げ込まれたのです。 イエスを信じながらまだ心に罪をもっている人が神の前に立って言うところを思い浮かべてみましょう。「主よ、私の心にはまだ罪があるのですが、イエスを信じるので、人々は私を義人だと言いました。あなたもまた私を罪のない者と見てくださいますね。私はそのように学び信じたのです。ただ多くの人がするように信じたのです。これは、私のいたところでは最も広く信じられていたことです。」 主はお答えになります。「心に罪のある者を許すことはできません。私は水と御霊によって新たに生まれる恵みによってすべての罪を洗い流しました。それなのに、あなたはそれを信じることを拒んだ。天使! この無礼な男を地獄の炎に放り込みなさい。」 イエスを信じながらまだ心に罪があると考える人は、地獄に行きます。贖いの真の福音を聞き、罪から救われなさい。そうでなければ、地獄で焼かれます。 心に罪がありながら自分に罪がないと言うのは、神を欺くことです。罪人と義人とは結末に大きな違いがあります。贖われなさいというわけがおわかりでしょう。 完全な贖い、つまりイエスのバプテスマと十字架上の死を信じる人々とそうでない人々が天国か地獄かの岐路に立った時の違いはおわかりでしょう。大違いです。ある人々は天の国に入りますが、別の人々は地獄に行きます。 みなさんは、イエスを信じながらまだ罪人のままでいるのですか? では、水と御霊によって新たに生まれることが必要です。神は心に罪のある者を地獄に送られます。罪の完全な赦しを信じる者だけが天の国に入れます。 今すぐそうしなさい。先に延ばせば手遅れになるかもしれません。前もって用意なさい。地獄に行く前に水と御霊の贖いを信じ、聖化されなさい。 主イエスに栄光あれ! 罪人を義となさった主の恵みに感謝いたします。ハレルヤ! イエス── 義人の弁護者
ヨハネの手紙第一第 2 章 1-2 節を読みましょう。「私の子どもたち、私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようにするためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、──私たちの罪だけでなく全世界のための、──なだめの供え物なのです。」 わかりますか? 信じながらまだ心に罪がある人がいますか? 心に罪がありながら、自分には罪がないと神に言うのなら、その人は神を欺いています。そして、自分をも欺いています。 真にイエスを理解し、イエスがヨルダン川ですべての罪を洗い流すためになさったことを信じるのなら、その人は完全に罪から解放されます。すると、その人は、こう言えます。「主よ、私は水と御霊によってあなたの中に新たに生まれました。私には罪がありません。あなたの前に恥じることなく立つことができます。」 すると、主はお答えになります。「そのとおりだ。アブラハムがわたしを信じて自分は義であると信じたように、あなたもまた、わたしがあなたの罪をすべて洗い流したために義なのです。」 しかし、イエスを信じながらまだ心に罪がある人の場合はどうでしょう。その人は言います。「私はイエスを信じるから、心に少々罪があっても天国に行けるだろう。」 その人は天国に行きたくてたまらないので、裁きの座の前に立って抵抗しようとしますが、それでも地獄に行くことになります。なぜでしょうか。その人は水と御霊によって新たに生まれる恵みの福音を知らなかったのです。 誰もが、この世にいる間に罪人であることを告白するべきです。「私は罪人です。私は地獄に行くでしょう。どうか救ってください。」 罪人は悔い改めの祈りでは贖われません。そうではなくて、救われるためには自分は罪人であると認め、水と御霊の贖いを受け入れるのです。水と御霊の贖いによってのみ、人は義となります。 イエスによって赦されたのは原罪だけだ、救われるためには自分の犯した罪を悔い改めなければならないと主張するのは、誤った福音です。誤った信仰はまっすぐに地獄につながります。偽りの福音を信じて自ら地獄に行くことに定めてしまう人は大勢いますが、この傾向は最近特に広まっています。 誤った福音を信じてしまったと、自分でわかるでしょうか? 借金をすべて払い終えた人はまだ負債を負っていますか? 考えてみてください。イエスを信じながらまだ自分は罪人だと考えるのなら、イエスを正しく信じていると言えるでしょうか? 信者で罪人なのですか、それとも信者で義である人ですか? 自分で決めてください。自分の罪はすべて赦されたと信じることも、毎日不法を悔い改めなければならないと信じることもできます。どちらを選ぶかによって、天国に行くか地獄に行くかが決まります。真の福音を語る福音伝道者に耳を傾けてください。 誤った福音を信じる人々は、まだ早朝祈祷集会や水曜礼拝、金曜ごとの終夜祈祷会のたびごとに罪を洗い流そうと、罪の赦しを祈ります。 「主よ、私は罪を犯しました。今週罪を犯しました」とその人たちは言います。それから、一年前の罪を思い出し、もう一度神の赦しを願います。これは、水と御霊によって新たに生まれる恵みの福音に反しています。 罪の報いは血で支払わなければなりません。ヘブル人への手紙第 9 章 22 節には「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」とあります。自分に罪があるというのは、もう一度あなたたちのために血を流してくれとイエスに頼んでいるのですか? 完全な贖いを信じない人々は、イエスの贖いを嘘にするという罪を犯しています。その人たちは事実上、イエスは一度で永遠に人類を救ってはおらず、イエスは嘘つきだと言っているのです。 イエスのうちに贖われるためには、水と御霊による贖いの真理を信じなければなりません。人は本当に何百、何千、何百万もの祈りによって赦されるのでしょうか? 真の福音は人を一度に永遠に贖います。義となり、天の国に行き、永遠に義であるいのちを生きましょう。 ♪イエスのうちに新たな生を生きる。過去は過ぎ去り、生まれ変わりし我。空しき過去は過ぎ去りぬ。ああ、イエスこそはまことのいのち。イエスの中に新たないのちを生きる。♪ 人はイエスの中に新たないのちを生きます。そうありたいと思うほどハンサムであろうとあるまいと、背が低すぎようと、おなかのあたりが少々太すぎようと、水と御霊によって新たに生まれる福音に恵まれた人々は幸福に生きます。鼻が理想的な形でないとか、ちょっと背が低いということが、どうだというのでしょう。人は完全ではないからこそ、イエスのうちに水と御霊によって新たに生まれることを信じて救われるのです。しかし、高慢な人々は地獄に行きます。 主よ、ありがとうござます。私はいつも主に感謝します。水と御霊によって新たに生まれることを信じるなら、人は天国に迎え入れられるでしょう。 誤りは人を地獄に導く
誤った福音は、赦されるためには毎日悔い改めなければならないと教えますが、水と御霊の福音は、人類がすべて完全に救われていて、人はただこれを信じさえすればよいと告げています。 どちらが本当でしょう? 毎日悔い改めなければならないのですか? それとも、イエスがふさわしい方法でバプテスマをお受けになり、すべての罪を取り除いて救ってくださったと信じるのが正しいのですか? 真理は、イエスは人類の罪を一度で永遠に取り除かれ、この正しい方法で救済をお与えになるのです。 霊的戦いで私たちは誤りに打ち勝つでしょう。大勢の人々が誤りを信じています。「また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの玉座がある。』」(黙示 2:12-13) 「わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」 (黙示 2:17) 無数の邪悪な魂が住み、誤りが真実を装って立つ所では、サタンが輝く天使のように見えます。神は、水と御霊の救済の真理を聞き知っていながら信じない人を誰もお救いになれません。その人は地獄に行きます。 イエスの救済を信じるかどうかは、各自が決めるべきことです。誰もその人の前にひざまずいて、信じて救われてくれと頼み込みはしません。 罪から救われたいのなら、水と御霊の救済を信じなさい。イエスの救済に示された愛と救済の恵みをありがたく思うなら、それを信じなさい。地獄に行く定めにある罪人であるなら、イエスのバプテスマと十字架上の死とを信じなさい。そうすれば義となります。 自分は罪人ではないと考えるなら、イエスを信じて赦される必要はありません。罪人だけが、水と御霊によって新たに生まれる福音を信じてすべての罪から救われます。イエスは罪人の救い主で、悩む者の慰め手です。イエスは造物主です。イエスは愛の主です。 どうか水と御霊によって新たに生まれる福音を信じてください。信じなさい。イエスは救い主、友、羊飼い、そして神になります。罪人はイエスを信じるべきです。地獄に行きたくないのなら、信じなさい。神は人に救済の福音を信じろと頼んだりはなさいません。 天国に入れてほしいですか? では、水と御霊によって新たに生まれる福音を信じなさい。イエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちです。わたしを信じなさい」とおっしゃいます。まさか、地獄に放り込まれたいのですか? では、信じないでください。主はすでに地獄に場所を用意しているとおっしゃっています。 神は乞われません。商人は品を売ろうとして誰でも歓迎しますが、神は贖われた者だけに天の国を価なしでお与えになるのです。神は公正です。 人々は、世の終わりが近いと言います。私もそう思います。水と御霊によって新たに生まれる真の福音を信じないのは愚かなことです。 水と御霊によって新たに生まれる恵みの福音の救済を信じなさい。共に天の国に行きましょう。イエスの住まいに一緒に行きませんか?
ローマ人への手紙第 8 章 1-2 節を読みましょう。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」 イエスはバプテスマと十字架上の死とによって人類の罪をすべて取り除かれました。イエスは罪のために裁かれるべき罪人をすべてお救いになりました。 神の救済は二つのことからなります。一つは律法でもう一つは愛です。律法は、人に自らが罪人であることを教えます。律法によると、罪から来る報いは死です。律法によっては人は救われません。それはただ人間の罪深い本性と運命を教えます。律法は人が罪人であることを悟らせます。 罪の報いを払うためにイエスはこの世においでになり、すべての罪を取り除き、ご自分の命でその支払いをして人類を裁きからお救いになりました。人類をすべての罪から救ったのは神の愛です。 私たちは誤りに打ち勝たなければなりません。神は、誤りに打ち勝つ人々に水と御霊によって新たに生まれる恵みをお与えになります。 人はイエスを信じることによって救われます。みことばを信じることによって人は義となり、真理を理解します。水と御霊によって新たに生まれる真理を心で信じなさい。 |