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 キリスト教信仰についてのFAQ

 

  • イエスのバプテスマを理解することが救済に不可欠であるというのは、福音にある十字架上の死を無にすることになるのではありませんか?
  • イエスのバプテスマと十字架上の死とは、人類の救済のためには同等に重要なのです。一方が他方よりも重要だとは言えません。しかしながら、問題は、今日の大方のキリスト教徒は、イエスが十字架上で流された血のことだけを知っている点にあります。そうした人たちは、自分たちが赦されているのはイエスが十字架上で死なれたためだと信じています。しかし、イエスが世の罪を取り除かれたのは、十字架だけによってではないのです (マタイ 3:11)。イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを授けられて世の罪のすべてを負われたので、十字架上の死は事実上、人類の罪すべての裁きであったのです。

    イエスのバプテスマを抜きにして十字架だけを信じることは、手を置くことを抜きにして主にいけにえをささげるようなものです。このようなささげ物をした人々は、罪を贖われることができません。このようないけにえは不法なささげものであり、神である主は受け入れることがおできにならないからです。主は、会見の天幕からモーセを呼ばれておっしゃいました。「もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、主にうけ入れらるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。」(レビ記 1:3-4)

    主は公正で正しい方です。主は、人類の罪を洗い流すために公正で正しいいけにえの制度を定められました。正しいいけにえをささげるとき、いけにえは主に受け入れられ、人は贖われました。手を置くことなしには、どのいけにえも神に受け入れられません。同様に、信仰からイエスのバプテスマを除くなら、そのような信仰によっては罪の赦しを受けることができないのです。

    今日のキリスト教徒の信じていることで最もよくある誤りは、主は愛なのだから、イエスが救い主であると告白するだけで救われるというものです。もちろん、聖書には、「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」(使徒 2:21;ローマ 10:13) とあります。しかし、また、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです」(マタイ 7:21) ともあります。

    イエスが救い主であると告白するには、神の定められた救済の法を知らなければなりません。ただイエスの名を信じることによって救われるのなら、聖書に旧約のいけにえの制度やマタイの福音書第 7 章 21 節にある不法を行なう者についての記述は必要なかったでしょう。

    しかしながら、驚くべき完全な主の救済の方法は、聖書に明確に記されています。実際、レビ記第 3・4 章で、罪人は罪のためのささげ物と和解のいけにえをささげるときには、いけにえの頭に手を置いて自分の罪を移してから殺し、その血は散らされたのです。手を置くことなしにいけにえをささげることと、傷のあるいけにえをささげることとは、贖いを行なううえで、はなはだしい不法でした。

    旧約にも新約にも、互いに照応するものがあります (イザヤ 34:16)。ヨルダン川でのイエスのバプテスマは、罪人が旧約で罪のためのいけにえの頭に手を置いたことと同じです。イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったとき、「今はそうさせてもらいたい。このようにしてすべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(マタイ 3:15) とおっしゃいました。

    ここで、「すべての正しいこと」とは、「正義と公正」を意味します。これはつまり、すべての人類のためにこの方法によってイエスが罪のためのいけにえとなられることは、ふさわしいことだということです。旧約で神が定められた、手を置くことと血とからなるいけにえの制度に則って、最も正しい方法で世の罪をすべて取り除かれるためにバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになることもまた、ふさわしいことでした。

    十字架だけを信じるということは、イエスの死が人類の罪とは何の関わりもないということを意味します。罪は、イエスのバプテスマなしには決して移されることがなかったのですから。これは、イエスの血を汚れたもので、罪を洗い流すことができないものとみなすことになります。 (ヘブル 10:29)

    ですから、イエスの血が信者の心から罪を洗い流すのことができるのは、自分の罪はみなバプテスマのヨハネがバプテスマを授けたときに手を置くことによってイエスの上に置かれたのだと信じたときだけなのです。そこで、使徒ヨハネは、イエスが水と血によって来られた神の御子であると信じる者は世に勝つとあかししたのです。イエス・キリストは、水によってではなく、血によってでもなく、水と血とによって来られたのです (ヨハネI 5:4-6)。

    イエス・キリストは、聖書のすべてで、ご自分について弟子たちに説明なさいました。モーセとそれに続く預言者全員に、旧約の罪のためのいけにえはご自分であることを示されました。ダビデは詩篇で、主に代わって「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。わが神。私はみこころを行なう……」(詩篇 40:7;ヘブル 10:7) と言いました。

    その結果、イエスのバプテスマは十字架を無効とせず、実際は、十字架の意味を補って完成させる、主の福音の重要な部分なのです。これはまた、イエス・キリストのバプテスマと尊い血とがなければ、人が贖いを受けることはできないことを教えます。救われるということは、イエスのバプテスマと十字架上の血とを信じて罪の赦しを受け、贈り物として御霊を受けるということなのです (ヨハネI 5:8;使徒 2:38)。

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