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 キリスト教信仰についてのFAQ

 

  • l しばしば無視されている、イエスのバプテスマを重視することを加えていることを除いては、これは私がこれまでに信じ、教えてきていることです。では、水と御霊の福音のどこがそれほど違っているのですか?
  • 「救われる」というのは、すべての罪の赦しを受けるということです。これはまた、新たに生まれるということでもあります。罪人がいのちの福音を信じて義人となると、聖徒は、「その人はイエスの救済によって、水と御霊で新たに生まれた」と言います。贖われて新たに生まれた人には御霊が訪れて、その人が神の子どもとなったことをあかしします。ですから、罪の赦し、御霊を受けること、贖われること、新たに生まれること、神の子どもとなること、そして、義人となることはみな、結局は同じことなのです。

    イエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6) とおっしゃいました。これは、神のひとり子イエスによってのみ、人が神の御国に入ることができることを示唆しています。ですから、イエスがどのようにして人類の罪をすべて洗い流され、神の国に入る資格のある民であるとなさったかを知らなければなりません。

    しかしながら、たいていのキリスト教徒は、いまだにイエスの名を呼ぶだけで救われると考えています。彼らは聖書を開いてみることもなく、人類をすべての罪からお救いになるために何をなさったかを知ることもなくイエスを信じています。神は御霊で聖いお方であり、変化・変動がありませんが、人間は罪深い生を生きます。主の御国に入ることは、イエスによってのみ可能です。そして、人は「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理」(ローマ 8:12) への信仰によって主を信じるのです。

    イエスが救済のためになさったことさえ知らない人々が大勢います。その人たちは、盲目的に空しく「主よ、主よ」と言ってイエスを信じています。彼らはまた、自分たちは救われているものと考えますが、それでもまだ心に罪があるのです。イエスへの信仰がありながらまだ心に罪をもっているのなら、何から救われているのですか? 人から「イエスはどのようにして罪を洗い流されたのですか」と訪ねられたなら、大方の人は「たぶん十字架上で洗い流されたのですよ」と答えます。次に、「あなたは心に罪がありますか」と尋ねられると、その人たちは、言います。「ええ。この地上の誰が完全に罪から自由になれますか?」

    イエスという名は、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」(マタイ 1:21) という意味です。信者は罪から救われるためにイエスを信じます。

    しかしながら、イエスを信じながらまだ心に罪をもっているのなら、その人はまだ罪の奴隷として売られ、そのような者として裁かれる罪人なのです。使徒パウロは、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ 8:1) と言いました。ですから、いまだに心に罪をもっている人がまだキリスト・イエスと一つになっていないのは確かです。その人たちはなぜ、イエスを信じながらまだ贖われず、救済から外れた罪人のままでいるのでしょう? イエスのバプテスマによって罪をその上に置くことなしに、十字架上の血だけを信じているためです。ですから、イエスは彼らの罪とは関わりなく十字架上で死なれ、彼らはまだ心に罪をもっているのです。

    これは、イエスのバプテスマを信じる者と信じないキリスト教徒との大きな違いです。イエスのバプテスマへの信仰をもって贖いを受け、義人となる者がある一方で、他の人々は信仰をもたずに罪人のままでいるのです。御霊は罪人には訪れません。水と御霊によって新たに生まれた義人にのみ、御霊は来られるのです。

    ですから、使徒パウロは、「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか」(ローマ 6:3) と言ったのです。イエスは十字架上で人類の罪を取り除かれたと言う人は大勢います。しかし、イエスのバプテスマを信じなければ、決して心に罪がないとは告白できないのです。言えば、神に嘘をつくことになります。これは、良心に反することです。

    イエスのバプテスマを信じてすべての罪をその上に移さなければ、まだ心に罪があるのです。イエスのバプテスマと十字架とを信じない人々は、律法主義に陥って深刻な罪人となりがちです。ですから、山奥で祈ろうと、祈祷集会で熱心に祈ろうと、何をしようと、その人々はまだ心に罪が残っていることに気づくのです。

    イエスは、「わたしに向かって、『主よ。主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの何よって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって預言をし、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども、わたしから離れて行け。』」 (マタイ 7:21-23) この「不法をなす者ども」とは、誰のことでしょう? これは、十字架だけを信じたために心に完全な贖いを受けていない人々を指します。それは表面的な信仰であって、神のものではありません。イエスがバプテスマと十字架とで人類を救われたということを信じないのなら、その人は不法を行なっているのです。イエスのバプテスマと十字架の両方を知り信じなければ、正しい信仰をもっているとは言えません。

    イエスは、人が新たに生まれたいのであれば、水と御霊によってのみ、それは可能になるとおっしゃいました。ノアの箱船に乗ることによってのみ人々が救われたはずであったのと同じように、水と御霊の福音を信じたときにのみ、すべての罪の赦しを受け、真の信仰生活を生きることができるのです。水と御霊の福音を抜きにしては、罪の赦しを受けることも、神の子どもとなることもできません。

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