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主題 3: 水と御霊の福音

[3-1] (ヨハネ 8:1-12) 永遠の贖い

( ヨハネの福音書 8 章 1-12 節 )
「イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。『先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。』 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。『婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。』 彼女は言った。『{主よ。}だれもいません。』 そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』 イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」
 

イエスはどれだけの罪を
消し去ったのでしょうか?
世の罪全部です。

イエスは、私たちに永遠の贖いを与えてくださいました。この世には、イエスを救い主として信じるならば、贖われない人はいません。イエスは私たち全員を贖ってくださいました。もし、自分の罪について悩んでいる罪人がいるとしたら、それは、イエスがバプテスマと十字架によって自分をすべての罪から解放してくださったことについて、その人が誤解しているからです。
私たちはみな、救いの秘訣を知り、信じるべきです。イエスは、バプテスマで私たちの罪をすべて負われ、十字架で死なれることによって裁きをお受けになりました。
水と御霊の救い、すべての罪からの永遠の贖いを信じるべきです。すでにみなさんを義としてくださった主の大きな愛を信じるべきです。ヨルダン川と十字架で主がみなさんの救いのためにしてくださったことを信じてください。
イエスも私たちの隠された罪をすべてご存じでした。ある人は、罪について誤解しています。罪の中には、贖えないものがあると思っているのです。イエスは、すべての罪を、ひとつ残らず贖ってくださいました。
この世の罪で、主が残されたものは一つもありません。この世のすべての罪を消し去ってくださったので、もう罪人はいないというのが真理です。福音がみなさんのすべての罪を、将来の罪までも贖ってくれたことを理解しておられますか。それを信じて救われ、すべての栄光を神にささげましょう。
 

姦淫の現場でつかまえられた女
 
世界にはどれだけの人が
姦淫をしているのでしょうか?
すべての人です。

ヨハネの福音書 8 章には、姦淫の現場でつかまえられた女の話があり、イエスがどのように彼女をお救いになったかが描かれています。私たちは、彼女が受けた恵みを分け合いたいと思います。人間は誰でも人生のどこかで姦淫をすると言っても過言ではありません。一人ひとりの人間が姦淫を犯しているのです。
もしそう思わないのであれば、それは私たちがあまりにも頻繁にやっているために、そうでないように見えるだけです。なぜでしょうか? 私たちは、あまりにも多くの姦淫に囲まれて生活しています。
ヨハネの福音書 8 章の女を見て、私たちの中に姦淫をしていない人がいるのかどうかを考えてみました。姦淫をしていない人はいません。それは、姦淫の現場でつかまえられた女と同じです。私たちはみな、やったことがあるのに、やっていないふりをしています。
私が間違っていると思いますか? いいえ、そんなことはありません。内側をよく見てください。地球上の誰もがやっていることです。道行く女性を見つめながら、思考の中で、行ないの中で、いつでもどこでも姦淫をしているのです。
彼らは、自分が姦淫をしていることに気づいていないだけです。一生の間に無数の姦淫をしてきたことに、死ぬまで気づかない人は大勢います。捕まったことのある人だけでなく、捕まったことのない私たち全員がそうなのです。すべての人が、心の中で、そして行ないの中で、姦淫をしているのです。これは私たちの生活の一部ではないでしょうか?
気を悪くなさったでしょうか? それは真実です。恥ずかしいから目立たないようにしているだけです。本当は、最近の人たちはいつも姦淫をしているのですが、そのことに気づいていないのです。
人は魂においても姦淫します。神に創造された私たちは、自分が霊的な姦淫をしていることに気づかずにこの地上で生きています。主は全人類の唯一の夫なので、他の神々を拝むことは霊的な姦淫をしているのと同じです。
現場でつかまえられた女は、私たちと同じ人間であり、贖われた私たちと同じように、神の恵みを受けたのです。しかし、偽善的なパリサイ人たちは、彼女を自分たちの前に立たせ、あたかも自分たちが裁判官であるかのように、彼女に石を投げようとして、彼女に指をさしました。彼らは、自分たちがきよく、姦淫をしたことがないかのように、彼女を叱り、裁こうとしていたのです。
キリスト教徒のみなさん、自分が罪の塊であることを知っている人は、神の前で人を裁くことはありません。むしろ、自分も生涯にわたって姦淫を犯していることを知っているからこそ、私たち全員を贖ってくださった神の恵みを受けることができるのです。自分がずっと姦淫を犯してきた罪人であることを自覚している人だけが、神の前で贖われる資格があるのです。
 

神の恵みを受けるのは誰なのか?
 

神の恵みを受けるのは
誰ですか?
価値のない人間です。

姦淫をせずに純粋に生きている者が主の恵みを受けるのでしょうか? それとも自分がとても罪深いと認めている価値のない人間が主の恵みを受けるのでしょうか? 恵みを受ける者とは、主の贖いという豊かな恵みを受ける者です。自分ではどうすることもできない人、弱い人、無力な人は、贖いを受けます。彼らこそが、主の恵みを受けている者なのです。
自分には罪がないと思っている人は、贖いを受けることができません。贖うべきものが何もないのに、どうして主の贖いの恵みを受けることができるでしょうか?
律法学者とパリサイ人は、姦淫の現場でつかまえられた女をイエスの前に引きずり出し、彼らの中に据えて、イエスに尋ねました。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」 なぜ彼らは女を主の前に連れてきて、主を試したのでしょうか?
彼ら自身も何度も姦淫を行なっていましたが、イエスを通して女を裁き、責任を負わせようとしながら殺そうとしていました。
イエスは、彼らの心の中を知り、その女のことをすべてご存じでした。そこで、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」とおっしゃいました。それから律法学者とパリサイ人は、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスと女だけが残されました。
去っていったのは、律法学者とパリサイ人という宗教指導者たちでした。彼らは、自分たちが罪人ではないかのように、まさに姦淫の現場でつかまえた女を裁こうとしていました。
イエスは、この世界でご自身の愛を明らかにされました。愛の主だったのです。イエスは人々に食物をお与えになり、死人を生き返らせ、やもめとなった息子に命を与え、ベタニヤのラザロをよみがえらせ、らい病人をきよめ、貧しい人々のために奇跡を起こされました。罪人の罪をすべて取り除かれ、救いを与えてくださいました。
イエスは私たちを愛しておられます。イエスは何でもできる全能のお方ですが、パリサイ人と律法学者はイエスを自分たちの敵だと思っていました。そのため、彼らは女をイエスの前に連れてきて、イエスを試したのです。
彼らは尋ねました。「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」 彼らは、イエスが女を石打ちにするように言うだろうと思いました。なぜでしょうか? もし私たちが神の律法に書かれていることに従って裁くのであれば、姦淫を行なった者は例外なく全員石打ちの刑に処せられるでしょう。
すべての人は石打ちの刑に処せられ、すべての人は地獄に行く運命にあります。罪から来る報酬は死です。しかしながら、イエスは、「彼女に石を投げなさい。」とはおっしゃいませんでした。むしろ、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」とおっしゃったのです。

神はなぜ 613 条の律法を
お与えになったのでしょうか?
私たちに罪人であることを
自覚させるためです。

律法は怒りをもたらします。神は聖なるお方であり、その律法も聖なるものです。この聖なる律法は 613 条で私たちに与えられました。神が 613 条の律法を与えられたのは、私たちが罪人であること、不完全な存在であることを悟らせるためです。贖われるためには、神の恵みを待ち望まなければならないことを教えているのです。もし私たちがこのことを知らずに、律法に書かれていることだけを考えていたら、姦淫の現場でつかまえられた女のように、石打ちの刑に処されなければならなかったでしょう。
神の律法の真理を知らない律法学者やパリサイ人は、この女に石を投げればいいと思ったかもしれませんし、おそらく私たちにも石を投げればいいと思ったでしょう。しかし、同じ罪深い存在として、無力な女に石を投げつける勇気のある人がいるでしょうか? たとえ、姦淫の現場でつかまえられたとしても、この世の誰も彼女に石を投げることはできません。
もし、この女や私たち一人ひとりが律法に従ってのみ裁かれていたならば、この女だけでなく、私たちもひどい裁きを受けていたことでしょう。しかし、イエスは、罪人である私たちを、その罪から、そして正しい裁きから救ってくださいました。すべての罪を抱えた私たちが、神の律法を厳格に適用するならば、誰が生きていられるでしょうか? 一人残らず地獄に落ちてしまいます。
しかし、律法学者とパリサイ人は、律法が書かれていることだけを知っていました。神の律法が正しく適用されるならば、それによって裁かれた者と同じように、彼らも確実に殺されるでしょう。実は、神の律法は、人間が自分の罪を自覚するために与えられたものなのですが、それを誤解し、間違って適用したために、人間は苦しんできました。
現代のパリサイ人は、聖書の中のパリサイ人と同じように、書かれている通りの律法しか知りません。彼らは、神の恵み、正義、真理を理解しなければなりません。彼らが救われるためには、贖いの福音を教えられなければなりません。
パリサイ人は、「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」と言いました。彼らは自分の石を持って自信満々に尋ねました。彼らは、イエスが何も言わないだろうと思っていたのです。彼らは、イエスが自分たちの餌になるのを待っていたのです。
もし、イエスが律法に従って裁かれたなら、彼らも石を投げたでしょう。彼らの目的は、女とイエスの両方に石を投げることでした。もしイエスが女に石を投げるなと言われたら、彼らはイエスが神の律法を軽んじたと言って、神への冒涜で石を投げたでしょう。恐ろしい陰謀でした。
しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられたので、彼らはイエスに尋ね続けました。「あなたは何を言われますか? 地面に何を書いておられるのですか? 私たちの質問に答えてください。あなたは何と言われますか?」 彼らは指をイエスに向け、イエスに嫌がらせを続けました。
そして、イエスは立ち上がって、彼らのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさいとおっしゃいました。そして、身をかがめて、地面に書き続けられました。それを聞いた人たちは、良心の呵責を感じて、年長者から最後の一人まで、ひとりひとり去っていきました。イエスは一人残され、女はイエスの前に立っていました。
 

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」

罪はどこに
記録されているのですか?
私たちの心の板と、
「行ないの書」です。

イエスは彼らに、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」とおっしゃって、地面に書き続けられました。何人かの年長者たちが立ち去り始めました。より多くの罪を犯した年配のパリサイ人が先に立ち去ったのかもしれません。若い人たちも去っていきました。仮に、イエスが私たちの中に立っていて、私たちが女の人の周りに立っていたとしましょう。もし、イエスが私たちに、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」とおっしゃったら、みなさんはどうしていたでしょう?
イエスは地面に何を書いておられたのでしょうか? 私たちを創られた神は、私たちの罪を二つの異なる場所に記されます。
まず、私たちの罪を心の板に記しておられます。「ユダの罪は鉄の筆と金剛石のとがりでしるされ、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている」(エレミヤ 17:1)。
神は、私たちの代表であるユダを通して私たちに語りかけておられます。人間の罪は、鉄の筆、金剛石のとがりで刻まれます。私たちの心の板に記録されているのです。イエスは身をかがめて、すべての人が罪人であることを地面に書かれました。
神は私たちが罪を犯すことをご存じで、私たちの心の板に罪を刻まれます。まず、私たちが律法の前ではもろい存在であることから、私たちの行ない、犯した罪を記録されます。罪が心に記録されると、律法を見たときに自分が罪人であることがわかります。主が私たちの心と良心にそれらを記録なさったので、私たちは主の前で罪人であることを知るのです。
イエスは二度目に身をかがめて地面に書かれました。聖書には、私たちのすべての罪が神の前の「行ないの書」に記録されているとも書かれています(黙示録 20:12)。すべての罪人の名前とその罪は、その書に記録されています。また、その人の心の板にも記録されています。私たちの罪は、「行ないの書」にも心の板にも記録されています。
罪は老若男女問わず、誰の心の板にも記録されています。そういうわけで、彼らはイエスの前で自分の罪について何も言うことができなかったのです。女に石を投げようとした彼らは、イエスのみことばの前では何もできませんでした。

二ヶ所に記録されている私たちの罪は、
いつ消されるのでしょうか?
イエスの水と血の贖いを
心に受け入れるときです。

しかしながら、主の救いを受けると、「行ないの書」にある罪がすべて消え、「いのちの書」に名前が載ります。「いのちの書」に名前が載る人は、天国に行きます。彼らの善行、つまり神の御国と神の義のためにこの世で行なったことも「いのちの書」に記録されます。彼らは天国に受け入れられます。自分の罪から解放された人は、永遠の場所に入ります。
すべての人のすべての罪が二ヶ所に記録されていることを忘れてはいけません。心の中で罪を犯していない人、姦淫していない人はいません。すべての人は罪人であり、不完全な存在です。
イエスの贖いを心に受け入れていない人は、自分の罪について悩むしかありません。自信がないのです。自分の罪のために、神や他人を恐れています。しかし、水と御霊の贖いの福音を心に受け入れた瞬間に、心の板と行ないの書に記録されているすべての罪がきれいに拭い去られます。彼らはすべての罪から解放されるのです。
天国には「いのちの書」があります。水と御霊の贖いを信じた人の名前はその書物に記録されているので、天国に入ることができます。彼らが天国に入るのは、この世で罪を犯していないからではなく、水と御霊の贖いを信じることによって、すべての罪から解放されたからなのです。それは「信仰の原理」(ローマ 3:27)です。
キリスト教徒のみなさん。律法学者とパリサイ人は、まさに姦淫の現場でつかまえられた女と同様、罪人でした。
むしろ、「自分は罪人ではない」と自分や他の人を欺いていたので、より多くの罪を犯していたかもしれません。宗教指導者たちは、正式な許可を得た強盗でした。彼らは魂の強盗であり、言い換えれば、人生の強盗でした。彼らは、自分自身がまだ贖われていないにもかかわらず、あえて権威的に人を教えていました。
律法によれば、罪のない人はいません。しかし、ある人が義人になることができるのは、その人が罪を犯していないからではなく、すべての罪を贖われたからです。そのような人は、いのちの書に記録されます。大事なのは、自分の名前が「いのちの書」に記されているかどうかです。一生罪を犯さずに生きていくことはできないので、いのちの書に記録されるためには、永遠に贖われなければなりません。
天国に受け入れられるかどうかは、真の福音を信じているかどうかにかかっています。神の恵みを受けるかどうかは、イエスの救いを受け入れるかどうかにかかっています。つかまえられた女はどうなったでしょうか? 自分が死ぬことがわかっていたので、ひざまづいて目を閉じたかもしれません。恐怖と悔い改めで泣いていたのではないでしょうか。人は死を前にすると、自分に正直になります。
「ああ、神よ。私が死ななければならないのは当然のことです。どうか、私の魂を御手にお受けして、私をあわれんでください。イエスよ、どうか私をあわれんでください。」 彼女はイエスに贖いの愛を願いました。「神よ。もしあなたが私を裁くならば、私は裁かれ、もしあなたが私に罪がないとおっしゃるならば、私の罪は消されます。それはあなた次第です。」 彼女はこれらすべてのことを言っていたのでしょう。彼女はすべてがイエスに委ねられていることを告白していたのかもしれません。
イエスの前に連れてこられた女は、「私は悪いことをしました。どうか私の姦淫をお許しください。」とは言いませんでした。彼女は、「どうか私を罪からお救いください。もしあなたが私の罪を贖ってくださるなら、私は救われます。そうでなければ、私は地獄に行きます。私にはあなたの贖いが必要です。神の愛が必要です。私をあわれんでください。」と言いました。彼女は目を閉じて、自分の罪深さを告白しました。
そして、イエスは彼女にお尋ねになりました。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 彼女は、「{主よ。}だれもいません。」と答えました。
そして、イエスは彼女におっしゃいました。「わたしもあなたを罪に定めない。」 イエスはヨルダン川でのバプテスマによって、すでに彼女の罪をすべて取り除かれ、彼女はすでに贖われていたので、彼女を罪にお定めにならなかったのです。彼女の罪のために裁かれなければならないのは、その女ではなく、イエスだったのです。
 

神は、「わたしもあなたを罪に定めない」とおっしゃった

女はイエスに
罪に定められたのですか?
いいえ。

この女は、イエスの救いによって祝福されました。彼女はすべての罪を贖われたのです。私たちの主イエスは、私たちのすべての罪を贖ってくださり、私たちはすべて義人であると教えてくださっています。
神は聖書の中でそう教えておられます。主は、ヨルダン川でのバプテスマによって取り除かれた私たちの罪を贖うために、十字架で死なれました。主は、バプテスマと十字架での裁きによって、信じる者全員を贖ってくださったことを明確に教えておられます。私たちはみな、イエスの書かれたみことばを必要としており、みことばを持ち続ける必要があるのです。そうすれば、私たちはみな、贖いによって祝福されます。
「神よ。私はあなたの前で何のメリットもありません。私の中には良いものは何もありません。私の罪の他に、あなたにお見せできるものは何もありません。しかし、私はイエスが私の贖いの主であられることを信じています。イエスはヨルダン川で私のすべての罪を取り除かれ、十字架で罪を贖ってくださいました。バプテスマと血で私の罪をすべて取り除いてくださいました。主よ、私はあなたを信じます。」
このようにして救われるのです。イエスは私たちを「罪に定める」ことはありません。私たちに神の子どもとなる特権を与えてくださいました。水と御霊の贖いを信じる者には、その罪をすべて取り除いて義としてくださったのです。
愛する友のみなさん。その女は贖われました。姦淫の現場でつかまえられた女は、私たちの主イエスの贖いによって祝福されました。私たちもそのように祝福されます。自分の罪を知り、神にあわれみを求める人、イエスの水と御霊の贖いを信じる人は、神からの贖いの祝福を受けます。神の前で自分の罪を認める人は贖われますが、自分の罪に気づかない人は贖いによる祝福を受けることができません。
イエスは、世の罪を取り除いてくださいました(ヨハネ 1:29)。世の中のどんな罪人でも、イエスを信じるならば、贖われるのです。イエスは女の人に、「わたしもあなたを罪に定めない。」とおっしゃいました。なぜなら、彼女の罪はバプテスマによってすでにイエスの上に負われていたからです。イエスは私たちのすべての罪をご自身に負われ、私たちの代わりに罪の裁きを受けられたのです。
 

私たちはイエスの前で贖われなければならない

神の愛と神の裁き、
どちらが大きいのでしょうか?
神の愛です。

石を手にしたパリサイ人も、今日の宗教指導者たちも、律法を文字通りに解釈しています。彼らは、律法が姦淫をしてはならないと告げているのだから、そのような罪を犯した者は石打ちの刑に処せられると信じています。姦淫をしないふりをして、女を淫らな目でチラ見します。彼らは贖うことも救うこともできません。パリサイ人と律法学者は、この世の倫理学者でした。彼らはイエスに召された人たちではありませんでした。これらの人々は、イエスから、「わたしもあなたを罪に定めない。」という、みことばを聞くことはありませんでした。
その喜びのみことばを聞いたのは、姦淫の現場でつかまえられた女だけでした。みなさんが主の前で正直であるならば、みなさんも彼女のように祝福されるのです。「神よ。私は生涯、姦淫を犯すしかありません。私がそれに気づかないのは、それがあまりにも頻繁に行われているからです。私は毎日何度もこのような罪を犯しています。」
律法を受け入れ、自分が死ななければならない罪人であることを受け入れ、素直に神に向かって、「神よ。私はこういう者です。どうか救ってください。」と言うと、神は贖いによって私たちを祝福してくださいます。
水と御霊の福音であるイエスの愛が、神の正しい裁きに勝ったのです。「わたしもあなたを罪に定めない。」 神は私たちを罪に定めません。「あなたは贖われた。」とおっしゃるのです。私たちの主イエス・キリストは、あわれみの神です。私たちをこの世のすべての罪から解放してくださいました。
私たちの神は、正義の神、愛の神です。水と御霊の愛は、その裁きよりもさらに大きなものです。
 

神の愛は神の正義に勝る

なぜ神は私たち全員を
贖ってくださったのでしょうか?
神の愛が神の正義に
勝るからです。

もし、神がご自分の正義を完成させるために裁きを強要しておられたなら、すべての罪人を裁かれ、地獄に送っていたでしょう。しかし、私たちを裁きから救ってくださるイエスの愛の方が大きいので、神はひとり子イエスを遣わされました。イエスは、私たちのすべての罪をご自分のからだに負われ、私たち全員のために正しい裁きを受けられました。そして、イエスを救い主として信じる人は、だれでも神の子どもとなり、義人となります。神の愛は神の正義に勝るので、神は私たち全員を贖われました。
神が正義だけで裁かれないことを感謝しなければなりません。かつてイエスは、律法学者やパリサイ人、その手下たちに、「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ 9:13)とおっしゃいました。今でも毎日牛やヤギを殺して神の前にささげ、「神よ。毎日私の罪をお許しください。」と祈る人もいるでしょう。神が求めておられるのは、私たちの供え物ではなく、水と御霊の贖いを信じることなのです。私たちが贖われ、解放されることを望んでおられます。私たちにご自分の愛をお与えになり、私たちの信仰を受け入れることを望んでおられるのです。みなさん、これがわかりますか? イエスは、ご自分の完全な救いを私たちに与えてくださったのです。
イエスは罪を憎んでおられますが、神に似せて創造された人間に対しては燃えるような愛を持っておられます。神は天地創造の前から私たちをご自分の子どもにすることを決めておられ、ご自分のバプテスマと血によって私たちの罪をすべて消してくださいました。神が私たちを創造なさったのは、やがて私たちを贖い、イエスを着せ、神の子どもとなさるためです。これが、神に造られたものである私たちへの愛なのです。
もし、神がその正しい律法に従って私たちを裁かれるだけなら、罪人である私たちはみな、死ななければなりません。しかし、御子のバプテスマと十字架での裁きによって、私たちを解放してくださいました。みなさんは信じますか? 旧約聖書で確認しましょう。
 

アロンはヤギの頭に両手を置いた

代表として、
イスラエルの罪を生きているやぎに
移したのは誰でしょうか?
大祭司です。

旧約聖書の按手と新約聖書のバプテスマへの信仰によって、この世のすべての罪が贖われました。旧約聖書では、イスラエルの毎年の罪はすべて、傷のない生きているヤギの頭に両手を置いた大祭司によって贖われました。
「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ」(レビ記 16:21)。
旧約聖書の時代には、このようにして贖われていました。日ごとの罪から贖われるために、傷のない子羊やヤギを幕屋に連れてきて、祭壇にささげました。いけにえの頭に両手を置いて、自分の罪がいけにえの上に移されたのです。そして、そのいけにえは殺され、祭司はその血を祭壇の角につけました。
祭壇の四隅には角がありました。この角は、黙示録 20 章 12 節に書かれている「行ないの書」を象徴しています。いけにえの残りの血は、地面にも注がれました。人間は塵から造られたので、地面は人間の心を表していました。人々はこのようにして、日ごとの罪を贖っていたのです。
しかしながら、彼らは毎日罪のためのいけにえをささげることができなかったので、神は年に一度、一年分の罪をすべて贖うことをお許しになりました。これは、第七の月の十日、贖いの日に行われました。その日、全イスラエル人の代表である大祭司は、二頭のヤギを連れてきて、そのヤギの頭に両手を置き、民の罪をすべてそのヤギの頭の上に移して神の前にささげ、イスラエルの民のための贖いをしました。
「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置く」(レビ記 16:21)。
神はイスラエルの代表として、その大祭司であるアロンを任命しました。すべての人が個々にいけにえの頭に手を置くのではなく、大祭司がすべての人の代表として、その年の罪の赦しのために、生きているヤギの頭に両手を置きました。
彼はイスラエルの罪をすべて神の前で告げました。「神よ、あなたのイスラエルの子らは罪を犯しました。私たちは偶像を拝み、あなたの律法のすべての条項を破り、あなたの御名をみだりに唱え、他の偶像を作り、あなたよりもそれらを愛しました。安息日を聖なるものとせず、両親を敬わず、殺し、姦淫、盗みをしました.... ねたみと争いに明け暮れていました。」
大祭司はすべての罪を列挙しました。「神よ、イスラエルの民も私も、神の律法を何一つ守ることができませんでした。これらすべての罪から贖われるために、私はこのヤギの頭に両手を置いて、すべての罪をその上に渡します。」 大祭司はすべての民のためにいけにえの頭に両手を置き、すべての罪をいけにえの頭の上に渡しました。按手または両手を置くことは「渡す」という意味です(レビ記 2:1-4, 16:20-21)。

旧約聖書の時代には
どのようにして贖いが
成し遂げられたのでしょうか?
罪のためのいけにえの頭に
両手を置くことによってです。
 
神は、イスラエルの民がすべての罪を渡して贖われるように、いけにえの制度をお与えになりました。傷のない罪のためのいけにえを備えて、人の代わりに罪のためのいけにえが死ぬようにと指定されました。一人ひとりの罪人の贖いもそのようなものでした。
しかしながら、贖いの日には、罪のためのいけにえが殺され、その血を聖所の内側に持って入り、七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけました。こうして、イスラエルの民は、第七の月の十日に、一年分の罪を贖いました。
大祭司は一人で聖所に入り、いけにえをささげましたが、人々は外に集まり、大祭司のエポデの青服のすそについている金の鐘の音を聞きました。金の鐘は、血が『贖いのふた』に振りかけられると七回鳴りました。そして、人々は自分たちの罪がすべて贖われたことを喜んだことでしょう。金の鐘の音は、喜びに満ちた福音の音を暗示しています。
イエスが一部の選ばれた人々を愛され、その人たちだけを贖うというのは事実ではありません。イエスは、バプテスマによって世の罪を一度で取り除かれました。イエスは私たちをただ一度で解放することを望まれたのです。私たちの罪は毎日贖うことができないので、一度に消し去られたのです。
旧約聖書では、贖いは按手と罪のためのいけにえの血によって与えられました。アロンは、すべての民の前で生きているヤギの頭に両手を置き、その年に犯した罪をすべて列挙しました。アロンは、イスラエル人全員の前で、その罪をヤギの上に渡しました。大祭司がヤギの頭に両手を置いた後、人々の罪はどこに行ったのでしょうか? すべての罪はヤギの上に移されました。
そして、ヤギは「係りの者」に連れて行かれました。イスラエルの罪をすべて背負ったヤギは、水も草もない砂漠に連れて行かれました。ヤギはその後、灼熱の太陽の下で砂漠をさまよい、最後には死んでしまうのです。ヤギはイスラエル人の罪のために死にました。
これが神の愛であり、贖いの愛です。これで当時の一年分の罪を贖ったのです。しかし、私たちは新約聖書の時代に生きています。イエスが私たちの世界に降りて来られてから約 2,000 年が経ちました。イエスが来られて、旧約聖書に書かれていた約束を成就してくださいました。そして、私たちの罪をすべて贖ってくださいました。
 

私たち全員を贖うために

イエスの意味とは?
人々を罪から
救ってくださる救い主です。

マタイの福音書 1 章 20-21 節を読んでみましょう。「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です』」(マタイ 1:20-21)。
天におられる私たちの父は、この世のすべての罪を洗い流すために、処女マリヤのからだを借りて御子をこの世に遣わされました。御使いをマリヤのところに遣わし、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と告げられました。それは、マリヤを介して来られた御子が救い主となることを意味していたのです。イエス・キリストとは、ご自分の民をその罪から救ってくださる方、つまり、救い主という意味です。
では、イエスはどのようにして私たち全員を罪から救ってくださったのでしょうか? イエスが世のすべての罪を取り除かれた方法は、ヨルダン川でのバプテスマでした。バプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授けた時、世のすべての罪がイエスの上に移されたのです。マタイの福音書 3 章 13-17 節を読んでみましょう。
「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』 ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』 そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」
イエスは、私たち全員を罪から贖うために、バプテスマのヨハネのもとへ行かれました。イエスは水の中に入り、ヨハネの前で頭を下げられました。「ヨハネ、今、わたしにバプテスマを授けなさい。すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。わたしが世のすべての罪を取り除き、すべての罪人をその罪から解放するためには、バプテスマによって彼らの罪を取り除く必要があります。今、わたしにバプテスマを授けなさい。それを許可しなさい。」
したがって、すべての正しいことを実行するのは、ふさわしいことでした。イエスは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、その瞬間に、私たちの罪を贖う神のすべての正しいことが実行されたのです。
このようにして、私たちのすべての罪を取り除いてくださいました。みなさんの罪もすべてイエスの上に渡されたのです。このことを理解しておられますか?
イエスのバプテスマと御霊の贖いを信じて、救われなさい。

どのようにして
すべての正しいことが
実行されたのでしょうか?
イエスのバプテスマを通してです。

神は最初にイスラエルに、手を置いて罪のためのいけにえをささげることで、全世界の罪が洗い流されると約束されました。しかしながら、すべての人が一人ずつヤギの頭に手を置くことは不可能だったので、神はアロンを大祭司に任命し、彼がすべての民のためにいけにえをささげることができるようにされました。そして、民の一年分の罪を一斉に罪のためのいけにえの頭の上に移しました。これが神の知恵であり、贖いの力でした。神は賢くて驚くべきお方です。
全世界を救うために、御子イエスを遣わされたのです。ですから、罪のためのいけにえは準備されていました。さて、全人類の代表として、イエスの頭に両手を置いて、世の罪をすべてイエスの上に渡す人がいなければなりませんでした。その代表がバプテスマのヨハネでした。聖書には、神がイエスの前に全人類の代表を遣わされたと書かれています。
それは、人間最後の大祭司であるバプテスマのヨハネでした。マタイの福音書 11 章 11 節に、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」と書かれているように、彼は人間の唯一の代表者です。ヨハネを全人類の代表として遣わし、イエスにバプテスマを授け、世の罪をすべて渡すようになさったのです。
もし今、地球上の 60 億人がイエスのもとに行き、それぞれがイエスに手を置かなければならないとしたら、イエスの頭はどうなるでしょうか? もし、この世界の 60 億人以上の人々がイエスの頭に手を置くとしたら、それはきれいな光景ではないでしょう。熱狂的な人が、イエスの髪が全部抜けてしまうほど強く押さえるかもしれません。そこで、神は知恵を絞ってヨハネを私たちの代表として任命なさり、世の罪のすべてを、ただ一度でイエスの上に移されたのです。
マタイの福音書 3 章 13 節に、「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。」と記録されています。これは、イエスが 30 歳の時のことです。イエスは生まれてから 8 日目に割礼を受けられ、それから 30 歳になられるまでの記録はほとんどありません。
イエスが 30 歳まで待たなければならなかったのは、旧約聖書によれば、律法上の天の大祭司となられるためです。申命記で、神はモーセに、大祭司は少なくとも 30 歳になってから大祭司の職を務めるべきだとおっしゃいました。イエスは天の大祭司でした。みなさんはこれを信じますか?
新約聖書でマタイの福音書 3 章 13-14 節には、「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」と書かれています。人類の代表は誰でしょうか? バプテスマのヨハネです。では、天の代表は誰でしょうか? イエス・キリストです。代表者が出会ったのです。では、どちらが上なのでしょうか? もちろん、天の代表が上です。
そのため、当時の宗教指導者たちに、「まむしのすえたち。悔い改めなさい。」と大胆に叫んだバプテスマのヨハネは、突然、イエスの前で謙虚になりました。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
ここで、イエスは、「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」とおっしゃいました。イエスは神の正しいことを実行なさるためにこの世に来られ、バプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授けた時にそれが実行されました。
「そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」
これは、イエスがバプテスマを受けられたときに起きた出来事です。バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったときに天の門が開かれ、世の罪がすべて取り除かれたのです。
「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」(マタイ 11:12)。
すべての預言者と神の律法は、バプテスマのヨハネまで預言していました。「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」 主のバプテスマを信じる人は誰でも例外なく天の御国に入ることができます。
 

「わたしもあなたを罪に定めない」

なぜイエスは十字架で
裁かれたのですか?
イエスが私たちの罪を
すべて取り除いてくださったからです。

イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、世の罪をすべて取り除かれました。その後、イエスは、姦淫の現場でつかまえられた女に、「わたしもあなたを罪に定めない。」とおっしゃいました。イエスはヨルダン川で世の罪をすべて取り除かれ、その罪のために裁かれるのは女ではなくイエスご自身だったからです。
イエスは世のすべての罪を消し去ってくださいました。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ 6:23)という理由で、十字架で受けなければならない苦痛をどれほど恐れておられたかがわかります。イエスはオリーブ山で、この裁きを自分から取り除いてくれるように、神に三度も祈りました。イエスは他の人間と同じように生身の人間でしたから、痛みを恐れたのは理解できます。イエスは裁きを成就なさるために血を流さなければなりませんでした。
旧約聖書の罪のためのいけにえが、罪を贖うために血を流さなければならなかったように、イエスも十字架で犠牲にならなければなりませんでした。イエスはすでに世の罪をすべて取り除いておられたのに、今度は私たちの贖いのためにご自分のいのちをささげなければならなかったのです。イエスは、ご自分が神の前で裁かれなければならないことをご存じでした。
イエスの心には何の罪もありませんでしたが、バプテスマによってすべての罪がイエスの上に移されたため、神は当時、ご自分の御子を裁かなければなりませんでした。このようにして、第一に神の正義が成就され、第二に私たちの救いのために神の愛を私たちに授けられたのです。ですから、イエスは十字架で裁かれなければなりませんでした。
「わたしはあなたを罪に定めないし、裁かない。」 意図的なものもそうでないものも、認識しているものもそうでないものも、私たちのすべての罪は、神に裁かれなければなりませんでした。
しかしながら、神は私たちを裁かれませんでした。神は、バプテスマによって私たちの罪のすべてをご自身に負われたイエスを裁かれたのです。神は、その愛とあわれみのゆえに、罪人を裁くことを望まれませんでした。バプテスマと十字架での血は、私たちに対する神の贖いの愛でした。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ 3:16)。
このようにして、私たちは神の愛を知ることができるのです。イエスは、姦淫の現場でつかまえられた女を罪に定めませんでした。
彼女は自分が罪人であることを知っていました。なぜなら、まさに姦淫の現場でつかまえられたからです。彼女は心に罪を抱えていただけでなく、肉にも罪を抱えていたのです。自分の罪を否定することはできませんでした。しかしながら、イエスが自分の罪をすべて取り除いてくださったと信じたからこそ、彼女は救われたのです。私たちも、イエスの贖いを信じれば救われます。それを信じてください。それは、私たち自身のためです。

最も幸いな者とは誰ですか?
罪のない者です。

すべての人が罪を犯します。すべての人が姦淫を犯します。しかし、すべての人がその罪を裁かれるわけではありません。人はみな、罪を犯していますが、イエス・キリストの救いを信じる人は、心の中に罪のない人です。イエスの救いを信じている人は、最も幸いな者です。すべての罪から解放された人は、最も幸いです。言い換えれば、彼らはイエスのうちに義人なのです。
神は、ローマ人への手紙 4 章 7 節で、「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。」と、幸福について語っておられます。私たちはみな、死ぬまで罪を犯します。私たちは神の前で律法を守らず、不完全な存在です。神の律法を知った後も、私たちは罪を犯し続けています。私たちはとても弱いのです。
しかし、神はそのひとり子のバプテスマと血によって私たちを救い出され、私とみなさんがもはや罪人ではなく、神の前で義人であるとおっしゃいます。そして、私たちは神の子どもであるとおっしゃいます。
水と御霊の福音は、永遠の贖いの福音です。みなさんはそれを信じますか? 信じる者に対して、主は義人、贖われた者、神の子どもと呼ばれます。この世で一番幸せな人は誰でしょうか? 真の福音を信じて解放された人です。みなさんは解放されましたか?
イエスはみなさんの罪を負うことを省かれたのでしょうか? いいえ、イエスはバプテスマでみなさんの罪をすべて負ってくださいました。それを信じてください。信じて、すべての罪を贖われてください。ヨハネの福音書 1 章 29 節を読んでみましょう。「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』」(ヨハネ 1:29)。
 

ほうきで掃いたように

イエスはどれだけの罪を
取り除かれたのでしょうか?
世の罪全部です。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
バプテスマのヨハネは、ヨルダン川で世のすべての罪をイエスの上に移しました。翌日、ヨハネはイエスが世の罪をすべて取り除く神の小羊であることをあかししました。イエスは世の罪をすべてご自分の肩に負われたのです。
世のすべての罪とは、天地創造から終わりまで、人間がこの世で犯すすべての罪のことを指します。約 2000 年前、イエスはこの世のすべての罪を取り除かれ、私たちを贖われました。神の小羊として、私たちの罪をすべて取り除かれ、私たちのために裁かれたのです。
私たち人間が犯したあらゆる罪は、イエスに引き継がれました。イエスは世の罪をすべて取り除く神の小羊となられたのです。
イエスは、この世のすべての罪人を救うお方として、謙虚な人としてこの世に来られました。私たちが罪を犯すのは、私たちが弱く、邪悪で、無知で、愚かで、不完全だからです。つまり、共通の祖先であるアダムから罪を受け継いだために罪を犯すのです。これらの罪は、ヨルダン川でのバプテスマによって、イエスの頭の上に一掃されました。イエスは、十字架での肉の死によって、すべてを終わらせてくださいました。イエスは葬られましたが、神は三日目にイエスを死人の中からよみがえらせました。
すべての罪人の救い主として、勝利者として、裁き主として、今、神の右の座に着座しておられます。私たちを何度も贖う必要はありません。私たちはイエスを信じるだけで救われるのです。信じる者には永遠のいのちが、信じない者には破滅が待っています。それ以外の選択肢はありません。
イエスがみなさんを救い出してくださいました。みなさんは、この世で一番幸せな人たちです。自分の弱さのために、きっとこれから罪を犯してしまうでしょうが、その罪もすべて負ってくださいました。
みなさんの心に罪が残っていますか? ――いいえ――
イエスは罪をすべて負われたのでしょうか? ――はい、負われました。――
すべての人は同じです。隣人よりも聖なる者はいません。しかし、多くの人が偽善者なので、自分は罪人ではないと信じていますが、実際には彼らも罪人なのです。この世は、罪を育む温室です。
女性は家を出るとき、赤い口紅を塗り、顔に化粧し、髪を巻き、素敵な服を着て、ハイヒールを履きます。男性も理容室に行って髪を切り、身だしなみを整え、清潔なシャツを着て、しゃれたネクタイを身につけ、靴を磨きます。
しかし、外見は王子様やお姫様のように見えても、中身は絶対に汚れています。
お金は人を幸せにしますか? 健康は人を幸せにしますか? そうではありません。すべての罪が赦される永遠の贖いだけが、人をほんとうに幸せにするのです。外見がどんなに幸せそうに見えても、心に罪があれば、その人は悲惨です。そのような人は、裁きを恐れて生きています。
贖われた人は、ぼろを着ていても獅子のように大胆です。その心には罪がありません。「主よ、私のような罪人を救ってくださり、感謝します。私の罪をすべて消し去ってくださいました。私はあなたの愛を受けるに値しないことを知っていますが、私を救ってくださったことを賛美します。私はすべての罪から永遠に贖われました。神に栄光あれ!」
解放された人は、ほんとうに幸せな人です。贖いという主の恵みを受けた人は、ほんとうに幸せな人です。
「世の罪を取り除く神の小羊」であるイエスが、私たちの罪をすべて取り除いてくださったので、私たちには罪がありません。イエスは十字架で私たちのために救いを「完了した」のです。みなさんも私も含めて、私たちの罪はすべて「世の罪」に含まれているので、私たちはみな救われているのです。
 

神のみこころによって

イエス・キリストのもとにいる私たちの心には
罪があるのでしょうか?
いいえ、ありません。

愛する友のみなさん。姦淫の現場でつかまえられた女は、イエスのみことばを信じて救われました。彼女が聖書に記録されているのは、主の永遠の贖いによって祝福されたからです。しかしながら、偽善的な律法学者とパリサイ人は、イエスから逃げてしまいました。
イエスを信じれば天国が待っていますが、イエスから離れれば地獄に行くことになります。主の正義のみわざを信じれば天国のようですが、主のみわざを信じなければ地獄のようになります。贖いは個人の努力ではなく、イエスの救いに委ねられています。
へブル人への手紙 10 章を読んでみましょう。「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。『あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。「さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。」』 すなわち、初めには、『あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした。』と言い、また、『さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。』と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです」(へブル 10:1-10)。
「神のみこころによって」 イエスは、私たちの罪を一度に引き受けてご自分のいのちをささげられ、一度に裁かれて復活されました。
したがって、私たちは聖なるものとされているのです。「聖なるものとされている」(へブル 10:10)というのは、現在完了形で書かれています。これは、私たちの贖いが絶対的に完了したことを意味しており、二度と触れる必要はありません。みなさんは聖なるものとされているのです。
「また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです」(へブル 10:11-14)。
みなさんは永遠に聖なるものとされています。明日罪を犯したら、また罪人になってしまうのでしょうか? イエスはその罪も取り除いてくださったのではありませんか? そうです。将来の罪も取り除いてくださいました。
「聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。『それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。』 またこう言われます。『わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。』 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です」(へブル 10:15-18)。
「これらのことが赦されるところ」というのは、この世のすべての罪を贖ってくださったということです。イエスは私たちの救い主であり、私の救い主でもあり、みなさんの救い主でもあります。イエスを信じることで、私たちは救われました。これがイエスのうちにある贖いであり、神からの最大の恵みであり、賜物です。すべての罪を贖われたみなさんと私は、最も幸いな者なのです。