説教集

主題 3: 水と御霊の福音

[3-8] (マタイ 3:13-17) イエスのバプテスマは贖いに不可欠な過程

(マタイ 3:13-17)
「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』 ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』 そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」
 
 
バプテスマのヨハネのバプテスマ
 
悔い改めとは何か。
罪深い生活から立ち返り、聖なるものとされるためにイエスを信じること。

世の非常に多くの人々は、イエスがなぜこの世に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたのかを知りません。したがって、イエスのバプテスマの目的と、イエスにバプテスマを授けたバプテスマのヨハネについて話しましょう。
まず私たちは、バプテスマのヨハネがヨルダン川で人々にバプテスマを授けるきっかけについて考えるべきです。バプテスマのヨハネが人々に罪を告白させることによって、罪から神に連れ戻すためにバプテスマを授けたと、マタイの福音書 3:1-12 で説明されています。
「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授け」 (第 11 節)、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」 (第 3 節)。バプテスマのヨハネは、ラクダの毛をまとい、いなごの束を持って、荒野で叫び、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを説きました。
ヨハネは人々に叫びました。「悔い改めなさい。人類の救い主が来られる。主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。異邦人の神々を拝むのをやめて、心の中で主を受け入れよ。」
何から立ち返るのでしょう。偶像崇拝や罪に満ちた生活の他のすべての悪い行ないからです。ですから、私たちは何をしなければならないのでしょう。私たちは、聖なるものとされるために、イエスにつくバプテスマを受けなければなりません。バプテスマのヨハネは、荒野で叫びました。「私からバプテスマを受けなさい。あなたの罪を洗い流しなさい。あなたがたの救世主である救い主が、この世に来ている。この方は、旧約聖書のいけにえの小羊として、あなたがたの罪を取り除かれ、すべての罪を洗い流されるであろう。」
旧約聖書では、日々の罪は、按手を通して罪のためのいけにえに渡されました。すべてのイスラエルの一年の罪が、第七の月の十日にあたる贖いの日に大祭司によって、やぎに移されました (レビ記 16:29-31)。
同じように、人類の罪がイエスを通して消されるように、イエスのバプテスマによって、一度でイエスに渡されなければなりませんでした。ですから、ヨハネは人々に、イエスに戻って、バプテスマを受けるように勧めました。
バプテスマのヨハネによって行われたバプテスマの主要な重要性は、イスラエルの民を後に来るイエスに立ち返らせる悔い改めでした。悔い改めとは、すべての罪を赦されるために罪の生活から離れ、救世主を信じることです。
イスラエルの民は、後に罪をすべて洗い流すために来られる救世主を期待することによって、贖われることができました。同様に、私たちは、2000年前に天から降りて来られたイエスを信じることによって贖われ、世の罪をすべて洗い流されました。しかし、旧約聖書のイスラエル人は、神の律法を捨て、間違ったいけにえをささげ、救世主を忘れました。
バプテスマのヨハネは、神の律法と後に来るメシアのことを思い出させる必要があるため、ヨルダン川で人々にバプテスマを授け始め、最終的にイエスにバプテスマを授けました。
多くの人々が、ヨハネのところに来てバプテスマを受け、偶像を拝んだことや、神の律法を捨てたことを悔い改めました。本来のいけにえには、――生きている動物、按手、その血――という三つの不可欠な要素があります。世のすべての人々は、イエスを信じることによって救われています。
パリサイ人とサドカイ人がバプテスマを受けるようになったとき、ヨハネは彼らに叫びました。「しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。『まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。「われわれの先祖はアブラハムだ。」と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです』」 (マタイ 3:7-9)。
政治家や偶像崇拝者の群れである、こうしたパリサイ人とサドカイ人は、神のみことばを信じていなかったにもかかわらず、彼らは神の民であると考えていました。彼らは、他の神々と自分の考えを信じていました。
彼らがバプテスマを受けるために、バプテスマのヨハネのところに来たとき、ヨハネは彼らに言いました。「間違ったいけにえをささげるのではなく、罪から立ち返り、救世主が来られ、あなたがたの罪を洗い流すことを、ほんとうに信じなければならない。心でこれを信じなければならない。」
悔い改めるとは、間違った道から引き返すことです。真の悔い改めとは、罪と誤った信仰から引き返し、イエスに立ち返ることです。それは、イエスのバプテスマと十字架での裁きを信じることです。
このように、バプテスマのヨハネは、神の律法といけにえの制度を捨てたイスラエルの民に、神に立ち返るよう説得するために、叫びました。バプテスマのヨハネの役割は、人々がイエスを信じて、すべての罪から救われるように、彼らをイエスに連れ戻すことでした。
 
 
イエスのバプテスマによる贖いを信じているか
 
すべての人はイエスの前に何をしなければならないのか。
すべての罪から救われるためにイエスを信じなければならない。

イエスが公の宣教において最初になさったことは、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けることでした。このようにして、世の罪がすべて、イエスに移されました。
こうして、イエスのバプテスマは、人類の神の救済のはじめであり、世の罪をすべて洗い流したイエスの義なる行ないでした。神は、イエスがバプテスマを通して世の罪をすべて取り除かれたという真理を信じるすべての人を贖われます。
イエスがこの世に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けたとき、天の御国の福音が始まりました。天は、イエスのバプテスマによって開かれ、マタイの福音書 3:15 に述べられているように、それは旧約聖書のレビ記 1:1-5、4:27-31 に記述されている贖いのいけにえと全く同じでした。
旧約聖書のすべてのものには、新約聖書の連れ合いがあり、その逆もあります。「主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである」 (イザヤ 34:16)。
 
 
旧約聖書と新約聖書の両方が、すべての人々の罪の贖いについて語る
 
私たちは毎日、日々の罪を悔い改めなければならないのか。
いいえ。真の悔い改めとは、贖いを得るために、すべての罪を認め、イエスのバプテスマに心を向けること。

旧約聖書では、一日の罪が按手によって罪のためのいけにえに渡されました。それから罪人の代わりに、いけにえが血を流して、裁かれたことでしょう。そして、一年の蓄積された罪は、すべての人がその一年の罪を赦されるように、按手によって罪のためのいけにえに渡されました。
新約聖書では、まったく同じように、イエス・キリストが世の罪を取り除くためにヨルダン川に来られ、バプテスマを受けました。こうして、旧約聖書で預言された神のみことばが、成就されました。
イエスにバプテスマを授けたバプテスマのヨハネは、イエスの6ヶ月前に遣わされた神のしもべでした。ヨハネは、ヨハネの福音書 1:29 で、イエスが世の罪をすべて取り除かれたとあかししました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
バプテスマのヨハネは、ヨルダン川でイエスにバプテスマを授けることによって、世の罪をイエスに渡しました。このようにして、主は人類のすべての罪を贖われたのです。今私たちがしなければならないのは、信じることです。
世の罪がすべてイエスに渡されました。イエスの弟子たちは、使徒の働き 3:19 で述べました。「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」
彼らは、なぜバプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授けたのか、人々になぜイエスに従うように告げたのかを理解するように促していました。ヨハネは言いました。「悔い改めて、立ち返りなさい。イエスのバプテスマの贖いを信じなさい。あなたがたの罪を洗い流されなさい。」
救世主が来て、バプテスマを受けることによって、すべて一度に私たちの罪を洗い流されました。このようにして、世の罪はすべてイエスに移されました。こうして、神の契約は、マタイの福音書 3:13-17 に記録されているように、イエスのバプテスマによって成就されました。
「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』 ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』 そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」
神の救済を成就なさるために、イエスはバプテスマを受けるためにヨハネのところに来られした。バプテスマのヨハネは、神の特別なしもべでした。ルカの福音書の第1章は、ヨハネは最初の大祭司アロンの子孫であったと告げています。神は、全人類の代表者がすべての正しい (義) を成就なさることを望まれたので、アロンの子孫であるヨハネを選ばれたのです。
ですから、神はヨハネをイエスの誕生の6ヶ月前に大祭司の家で生まれさせました。バプテスマのヨハネは、荒野で叫ぶことによって、イエスの道を用意させました。「悔い改めなさい、まむしの末たち。悔い改めて、立ち返りなさい。救世主が来られる。神に立ち返りなさい。さもないと、神はあなたがたを切り倒して、火に投げ込まれます。イエスのバプテスマと十字架での血を信じなさい。悔い改めて、バプテスマを受けると、あなたがたは贖われるだろう。」
贖いの福音は、使徒の働き 3:19 に明確に記述されています。バプテスマのヨハネが人類の罪について叫んだとき、多くの人が立ち返りました。
ヨハネは、世の罪をイエスに渡したので、人類の罪はすべて一度に消し去られました。バプテスマのヨハネは、イエスが私たちの罪をすべて取り除いたとあかししているので、贖いの福音、水と血の福音を信じることによって救われることを知っています。
 
 
バプテスマのヨハネがイエスの前に来なければならなかった理由
 
「このようにして」とはどういうことか。
①    最も正しく
②    最もふさわしく
③    必然的にこの方法だけ
(他の道はない)

救い主であるイエスを信じることによって罪が洗い流された人々は、マタイによるイエスのバプテスマの福音のあかしを通して、救済を確認することができます。マタイの福音書 3:15-16 で、イエスはヨハネのもとに来て、「わたしにバプテスマを授けなさい」とおっしゃいました。そしてヨハネは答えました。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
イエスが誰であるかを認識して、イエスにバプテスマを授けたのは、バプテスマのヨハネでした。ヨハネは、人類の罪をすべてイエスに移すために遣わされた神のしもべでした。イエスは、旧約聖書の預言を成就なさるために救い主として来られたので、世の罪をすべてご自分の頭に負わせるために、バプテスマを授けるようにバプテスマのヨハネに命じました。
なぜでしょう。イエスは全能の神の御子であり、創造主であり、救い主でもあったからです。イエスは、すべての罪を洗い流すために、私たちのところに来られました。ですから、すべての人々を救うために、バプテスマを受けなければなりませんでした。
「このようにして、」イエスは、バプテスマのヨハネからバプテスマを受け、すべての罪を洗い流されました。イエスは、私たちのために十字架で裁かれました。イエスのバプテスマは、私たちの救済のあかしでした。神が旧約聖書で、すべての罪がいけにえの小羊に渡されると約束しておられたように、神の御子は小羊となられ、私たちの罪をすべてご自身に負われました。
ですから、旧約聖書での按手と新約聖書でのイエスのバプテスマの両方は、罪を渡すことであり、水と御霊の福音を信じる者に、救済と永遠のいのちが与えられます。
 
 
イエスのバプテスマは私たちの罪をすべて洗い流した
 
どのようにキリストをその身に着ることができるのか。
キリストにつくバプテスマを受けることによって

イエスがバプテスマを受けることを望まれたとき、バプテスマのヨハネは、イエスにそうさせまいとして、言いました。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
しかし、イエスは答えて言われました。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」 今はそうさせてもらいたい。そうさせてもらいたい。イエスは、ヨハネにおっしゃいました。「贖いの水の福音を信じるすべての者をわたしのところに導けるように、あなたはすべての人々の罪をわたしに移さなければなりません。わたしのバプテスマを信じるすべての人が、すべての罪を贖われるように、わたしは彼らのすべての罪のために裁かれるだろう。後に来るすべての人が一度ですべての罪を贖われるように、バプテスマを通して、わたしに世の罪を渡しなさい。したがって、今はそうさせてもらいたい。」
イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受け、イエスのバプテスマは神の贖いの正しい律法に従っていました。イエスがバプテスマを受けたときにすべての罪がイエスに渡されたので、イエスを信じてバプテスマを受けたとき、私たちは一度で贖われることができます。イエスは按手を通してすべての罪を負われ、私たちに代わって十字架で死なれ、今は神の右の座に着いておられるため、私たちは水と御霊の贖いを信じることによって救われることができるのです。
彼は、世のすべての罪から私たちをお救いくださったイエスです。イエスがすべての罪を取り除かれ、十字架ですべての罪の報酬を支払ったと信じることによって、私たちは救われることができます。イエスのバプテスマは、贖いの福音のはじめでした。
贖いのバプテスマは、聖書でしばしば述べられており、使徒パウロはまた、ガラテヤ人への手紙で、キリストにつくバプテスマを受け、キリストを着たので、キリストとともに十字架につけられたと述べています。使徒パウロは、イエスのバプテスマと十字架での死による贖いへの信仰をついて語っています。
 
 
「今は、そうさせてもらいたい」
 
バプテスマのヨハネの役割とは何だったのか。
ヨハネの役割は、全人類の大祭司としてイエスに世の罪をすべて渡すことだった。

イエスは、おっしゃいました。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」 すべての正しいこととは、イエスのバプテスマを通してすべての罪を消し去り、すべての人々を心に罪のないものにすることです。「そこで、ヨハネは承知した。」 イエスは、ヨルダン川でバプテスマを受けました。
大祭司がやぎの頭に両手を置いたように、バプテスマのヨハネはイエスの頭に両手を置いて、世の罪をすべてイエスに渡しました。バプテスマのヨハネは、人類の代表として、イエスに世の罪をすべて渡すことを務めとする大祭司でした。「神よ、私は世の罪をすべて、あなたの小羊イエスに渡します。」 こうして、人類の罪がすべてイエスに渡されました。
 
 
天が開け、天から告げる声がした
 
天の御国が開いたのは、いつからだったのか。
バプテスマのヨハネの日以来 (マタイ 11:12)

「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ』」 (マタイ 3:16-17)。
イエスがバプテスマで世の罪をすべて取り除かれたとき、天がイエスに開かれました。こうして、数千年前に結ばれた契約は、ヨルダン川でイエスのバプテスマを通して成就されました。
こうして、イエスは、神の小羊として、世のすべての民を彼らの罪から救われました。この世の罪はすべてイエスに渡され、イエスは神のみこころを成就なさったのです。
ヨハネの福音書 1:29 で、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」 とあかしされています。
すべての罪が神の小羊イエスに渡されたので、イエスはその罪の重荷を肩に負いながら、三年後にゴルゴダの十字架に向かって歩みました。イエスはバプテスマですべての罪を負われた後、どこへ行っても、信仰によってイエスを受け入れた人々に、彼らの罪はすべて赦されたと告げました。
ヨハネの福音書 8:11 で、イエスは姦淫の現場で捕えられた女におっしゃいました。「わたしもあなたを罪に定めない。」 裁かれるべきだったのは、すべての罪を負われたイエスご自身であったため、イエスは女を罪に定めることがありませんでした。こうして、イエスはすべての人々に、ご自分が罪人の救い主であるとおっしゃったのです。
神の御子が私たちの罪をすべて取り除いたので、世のすべての信者が聖なるものとされることができます。イエスがバプテスマを受けたとき、天が開かれました。天の御国の門が開かれ、イエスのバプテスマを信じる者は誰でも、自由に入ることができるのです。
 
 
イエスはバプテスマを通して世の罪をすべて取り除いた後、十字架につけられた
 
イエスはどのようにサタンの頭を踏み砕いたのか。
すべての罪のために裁きを受け入れた後、死からよみがえられることによって

すべての罪がイエスの頭に渡されたので、イエスは十字架で裁かれなければなりませんでした。イエスは十字架で苦しむという苦悩について考えたとき、深く悲しみ、悩みました。イエスは、ご自分の汗が血の滴のようになるまで祈りました。弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来たとき、イエスは叫びました。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」 (マタイ 26:39)。「わたしはバプテスマを受け、世の罪をすべて負いましたが、そのためにわたしを死なせないでください。」 しかし、神はお答えになりませんでした。
旧約聖書での贖いの日に、血が大祭司によって「贖いのふた」の前に注がれるように、罪のためのいけにえは殺されなければなりませんでした。同じように、イエスは十字架で殺されなければならず、神は他に方法がなく、イエスが死ななければならないことをお決めになりました。
祭壇は神の裁きであり、罪のためのいけにえの血は「いのち」です。七たび血を「贖いのふた」の上と前に振りかけることは、すべての審判が過ぎ去ったという意味です (レビ記 16:1-22)。
イエスは、ご自分から盃を過ぎ去らせるために神に祈りました。しかし、父はイエスにお許しにならず、イエスは最後におっしゃいました。「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」 (マタイ 26:39)。イエスは、神の目にふさわしい務めをなさるために、神に祈りました。イエスは祈りを終え、父のみこころに従いました。
イエスは、ご自身の意志をあきらめ、父に従いました。なぜでしょう。もし世の罪をすべて取り除いた後にイエスが裁かれなければ、救済は完了しなかったでしょう。イエスはバプテスマによって人類の罪をすべて取り除かれたので、十字架につけられました。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」 (ローマ 6:23)。
神は、救い主を遣わし、按手、すなわちイエスのバプテスマを通して人類を救うとおっしゃった契約を成就なさいました。イエスは、神のみこころに従い、私たちのために裁きを受けてくださったのです。
それは、創世記 3:15 の預言の成就でもありました。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」 神はアダムに、エバの種である救世主を遣わすと約束なさり、人類を罪人にし、地獄に行かせるサタンの力を打ち負かすでしょう。
イエスのバプテスマと十字架での死を知って信じるとき、すべての罪が洗い流され、裁きから救われます。
イエスのバプテスマと十字架での血を考えるとき、私たちは心に健全な信仰を持つ必要があります。それをみなさんの心で信じてください。そうすれば、みなさんは救われるでしょう。
 
 
イエスのバプテスマは天の福音のはじめ
 
主が天に上られる前の主の最後のご命令は何だったのか。
イエスは、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、あらゆる国の人々を弟子とするように、弟子たちにお命じになった。

イエスのバプテスマは福音のはじめであり、バプテスマと血ですべての罪人を救われました。マタイの福音書 28:19 には、次のように記録されています。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい。」 イエスは弟子たちに、父と子と聖霊がバプテスマと血を通して、全人類を罪から救い、それらすべてを洗い流したとあかしするのだとおっしゃいました。
イエスは弟子たちに、イエスのバプテスマ、贖いのバプテスマ、世の罪をすべて洗い流したバプテスマについて教えるために、あらゆる国の人々を弟子とする権限をお与えになりました。
約2000年前、イエスは肉において地上に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けました。イエスのバプテスマによって、私たちのすべての罪を含む世のすべての罪が、イエスに渡されたのです。
どれほど多くの罪がイエスに渡されたのでしょう。明日の罪はどうでしょう。イエスは、明日の罪さえもイエスに渡されたとおっしゃっています。私たちの子供たちの罪、すべての世代の罪、過去、現在、未来の罪、アダムの罪さえもイエスに渡されたのです。
どうして罪がないのでしょうか。どうして私たちは罪がない者になることができるでしょうか。すべての信者が自分自身を罪から解放し、天の御国への道を得ることができるように、イエスがバプテスマによって私たちのすべての罪と世のすべての罪を取り除いたからです。
「しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである」 (ヨハネ 3:21)。
イエスは、バプテスマ、十字架での血、死、そして復活によって、すべての罪を洗い流されました。したがって、バプテスマと十字架での死を信じることは、すべての罪から救われることです。これが贖いの信仰なのです。
キリストのバプテスマと血を信じるとき、私たちは救われます。イエスを正しく信じるとき、私たちは義人でしょうか、それとも罪人でしょうか。私たちは義人です。たとえ私たちは不完全な存在であっても、罪はないのでしょうか。そうです、私たちには罪がありません。イエスのバプテスマと十字架でのさばきを信じることは、完全な正しい信仰を持つことです。
 
 
イエスの御名によってバプテスマを授けることと、バプテスマを受けること
 
天の福音のはじめとは何か
イエスのバプテスマ

人々は不完全な存在であるため、牧師はイエスのバプテスマと血を信じる人々にバプテスマを授け、彼らの信仰を確認させます。新しく生まれた者は、イエスのバプテスマと同じ方法で信仰のあかしとしてバプテスマを受けることによって、彼らが救われていることを確認します。
牧師は、まず新しく生まれた人が人生の終わりまで神をよく礼拝するように、神の祝福を求めて、この人の頭に手を当てて祈ります。それから牧師は、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けます。
私たちは、イエスのバプテスマとその血への信仰に基づいて、バプテスマを受けます。このバプテスマは、すべての罪がイエスに渡されたこと、バプテスマを受けた人がイエスとともに死に、イエスとともによみがえったことを示しているのです。
バプテスマを受けるとは、イエスのバプテスマを通して罪をイエスに移すこと、イエスとともにさばかれること、イエスとともによみがえることへの信仰を告白することです。それは、父、子、聖霊、サタン、そして兄弟姉妹の前で信仰を告白することです。水と御霊によって新しく生まれていることを告白することです。
イエスのバプテスマの真の意味と十字架の血を知って、イエスを信じる者は、世のすべて罪から救われます。したがって、彼らは父、子、聖霊の御名によってバプテスマを受けます。
「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」 (Ⅱコリント 5:17)。私たちの古いものは過ぎ去って、私たちは信仰の民として新しく生まれています。心の中で確かなものとするために、私たちはバプテスマを受けるのです。私たちは、イエスのバプテスマを信じることによって、イエスにつくバプテスマを受けています。
 
 
イエスのバプテスマと十字架での血によって新しく生まれた後の生活
 
新しく生まれた者は何のために生きるのか。
神の御国、神の義、世界中に福音を宣べ伝えるために生きる。

贖われて新しく生まれた後の生活は、神のみことばへの信仰を持たなければなりません。毎日、日々の罪を悔い改めなければならない感情的な生活であってはいけません。むしろ、イエスがバプテスマによってすべての罪を取り除いてくださったことを毎日保証される忠実な生活でなければなりません。
私たちの罪はすべて、イエスがバプテスマを受けたときに、イエスに移されました。それから、イエスは私たちのすべての罪の裁きを引き受け、十字架につけられるまで、この重荷を持って三年の間、生きました。
したがって、私たち信者は単なる感情ではなく、記されたみことばを信じるべきです。そうすることができないなら、私たちは贖われて新しく生まれた後、日々の罪について心配するだけです。
罪の主観的な視点を捨て、水と血の福音だけを信じなければなりません。これは贖われた人が送るべき生活です。
バプテスマのヨハネは、イエスについて何と告げたでしょう。ヨハネは告げました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」 (ヨハネ 1:29)。ヨハネは、イエスは今日、明日、そして昨日、原罪にまでさかのぼって罪を取り除かれたことをあかししました。
イエスは、そうした罪をすべて取り除かれなかったでしょうか。こうした罪は、イエスに渡されたのではありませんか。世の罪は、過去、現在、未来のすべての罪が含まれます。イエスのバプテスマを通して贖いの福音を確認しなければならない。
イエスのバプテスマとその血の真理を信じる者は、救われるでしょう。イエスのバプテスマを信じる者はだれでも、心に罪がありません。
しかしながら、多くの人々は、自分の罪がすべてイエスのバプテスマを通してすでに渡されたことを知らないため、まだ罪があると考えています。彼らはサタンに欺かれています。サタンは、彼らの肉の考えを通して彼らにささやきます。「お前は毎日、罪を犯している。どうして、お前は罪のない者でいられるのか。」
彼らは、罪のない者になるために神を信じなければならないだけです。しかし、サタンは、彼らがまだ罪を犯しているので、彼らを騙して罪人であると考えさせます。イエスのバプテスマと十字架での血とを信じるなら、だれも罪がありません。
私たちは、欠点があって弱い存在としてこの世に生きているので、私たちが自分の働きと行いだけで義人になったとは決して言えません。しかし、私たちは、イエスのバプテスマと十字架での血の真理によって救われていると、信仰をもって言えます。イエスのバプテスマとその血を信じることによって、私たちの心が聖なるものとされることを理解すると、私たちは確かに罪がないことがわかります。
「♬私は贖われている。あなたは贖われている。私たちはみな贖われている。♬」 すべての人に福音を宣べ伝えたいという願いを持って生き、私たちが御霊によって導かれていることを知るのは、とても嬉しくて幸せな気持ちです。
もちろん、私たち信者は毎日罪を犯しますが、罪はありません。私たちの心には、イエスのバプテスマと血があります。私たちの心は、かつて罪で満たされていましたが、今ではイエスのバプテスマを信じているので、どうして罪深いままでいられるでしょう。
「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける」 (ヘブル 10:16)。
私たちの心は、罪から自由です。イエスは、バプテスマと十字架での死とによって、私たちが完全に贖われることを可能になさいました。罪からの救済は、神のみことばへの信仰に由来します。
 
 
イエスのバプテスマと十字架での血を信じる者はだれでも、再び罪人になることはない
 
私たちは罪を犯したときまた罪人になるのか。
いいえ。再び決して罪人になることはない。

イエスのバプテスマとその血を信じなかったとき、赦しのためにどれほど頻繁に祈ったとしても、心に罪がありました。しかし、真の福音を信じるようになったとき、罪はすべて洗い流されました。
「ねえ、最近どうしてそんなに明るく元気なの?」
「私はもう心に罪がありません。」
「本当なの?それなら、今あなたが罪を犯したいだけ犯すことができるってことだね?」
「ご存知のとおり、人は罪を犯さずにはいられません。それが人というものです。しかし、イエスはバプテスマによってすべての罪を取り除き、十字架でその罪のさばきを引き受けられました。このため、私は今、教会で福音に仕えることに献身しているのです。ローマ人への手紙第6章は、私たち全員がこのように生きるべきだと告げています。心に罪がないので、正しいことをしたいと思います。イエスのバプテスマと十字架での血を信じ、世界中に福音を宣べ伝えなければなりません。贖いの主人イエスを信じるとき、私たちは二度と罪人になることはありません。イエスのバプテスマと十字架での血の永遠の救済を信じなければなりません。私は、感謝の気持ちでいっぱいです。」
 
 
誰が御霊を受けるのか
 
バプテスマのヨハネはイエスについて何をあかししたのか。
ヨハネは、イエスが世のすべての罪、すなわち過去・現在・未来の罪、さらには原罪をも取り除いた神の小羊であるとあかしした。

イエスのバプテスマと十字架での血を信じる者はだれでも、救済を受けます。どうやって御霊を受けるのでしょう。使徒の働き 2:38-39は、答えを告げています。「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。』」
イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けることは、イエスのバプテスマを信じて贖われることを意味します。それから、御霊は神からの贈物として与えられるでしょう。
イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けることは、キリストのバプテスマと血を信じることによって聖なるものとされることをも意味します。この信仰を抱くとき、私たちは贖われ、義人になります。信者は、イエスのバプテスマと十字架での血を通して、雪のように白くなります。
「賜物として聖霊を受けるでしょう。」 私たちの罪はすべて、バプテスマを通してイエスに渡され、イエスが十字架での死によって私たちの罪のために裁かれたと固く信じるとき、私たちの心はきれいに洗われます。私たちの新しい生活は、イエスのバプテスマとその血を信じ、聖霊の賜物を受けて神の子どもとなることから始まります。
「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」 (ヨハネ 8:32)。主の十字架でのさばきの真の意味を知るべきです。真理は、イエスがバプテスマと十字架での死とによって、すべての罪を消されたということです。真理を信じると、贖いが与えられます。
 
 
イエスのバプテスマが私たちを贖う
 
御霊を受けるのは誰か。
イエスのバプテスマと十字架での血への信仰を通してすべての罪を贖われている者

旧約聖書のいけにえの制度による罪の贖いは、新約聖書のイエスのバプテスマを表しています。イエスのバプテスマは、旧約聖書のすべての預言の中核です。旧約聖書で按手に相当するのは、新約聖書のイエスのバプテスマにあります。
イスラエルの罪が按手を通してアザゼルに移されたように、世の罪はすべてバプテスマを通してイエスに移されました。
私たちは、すべての罪から救われるためにイエスのバプテスマを信じなければならないのでしょうか。そうです。信じなければなりません。イエスがバプテスマを通して世の罪をすべて取り除かれたという事実の真理を受け入れなければなりません。イエスのバプテスマを信じないなら、私たちの罪はイエスに移すことができません。救済を完成するために信じなければなりません。さもなければ、私たちは義人になれません。
イエスはバプテスマによって、世のすべての罪人に最もふさわしく、正しい方法で救われました。もっとふさわしい方法で行われたはずがありません。イエスのバプテスマは、すべての罪がイエスに移される過程だったので、私たちは永久に罪からきよめられた心を持つために、それを信じなければなりません。
また、私たちはイエスの血がすべての罪の裁きであると信じるべきです。こうして、イエスのバプテスマと十字架での血を信じるすべての人は、罪から救われます。
天の御国に入るためには、イエスのバプテスマを信じなければなりません。これこそ、私たちがすべての罪から救われ、正しい罰を免れる唯一の方法です。
新約聖書のイエスのバプテスマと旧約聖書の按手は、お互いの鏡です。それらは、旧約聖書と新約聖書の間での連結金具であり、連結リングでもあります。
新約聖書では、バプテスマのヨハネはイエスの6ヶ月前に来ました。イエスがバプテスマを受けたとき、それは、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」 (マルコ 1:1) だったのです。福音は、イエスがバプテスマを通して世の罪をすべて取り除かれた時に始まります。
人類救済の務めは、一連の出来事――イエスの誕生、イエスのバプテスマ、十字架での死、復活、天国への昇天――を通して行われました。この一連の出来事における救済の過程を知り、理解し、信じるとき、私たちはすべての罪から救われます。イエスのバプテスマは福音のはじめであり、十字架での血はその完成でした。
「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」 (マルコ 1:1)。神の御子の福音から、神の正しい行ない――バプテスマ、十字架での血、よみがえり、昇天、そして再臨――を除外することはできません。
イエスは、肉においてこの世に来られ、バプテスマによって人類の罪をすべて洗い流されました。これが天の福音のはじめでした。これらの一つでも欠けていたら、天の福音は完全ではありません。
したがって、誰かが新しく生まれるなら、キリストのバプテスマと血を信じなければなりません。最近、多くの人がイエスのバプテスマと血の真理を信じていません。彼らは、イエスのバプテスマは単なる儀式であると考えています。これは重大な誤解です。イエスを信じる人はだれでも、イエスのバプテスマと血をも信じなければなりません。
赦しを祈るだけで、どうして罪を洗い流すことができるのでしょう。私たちの罪はすべて、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたときに渡されました。イエスが人類の罪を負う他の方法はありませんでした。
天の御国に入るために、水と御霊によって新しく生まれなければなりません。バプテスマの水、十字架での血、御霊なしには、贖いはあり得ません。イエスが、ヨハネの福音書 3:5 でニコデモにおっしゃったように、新しく生まれた者だけが神を見ることができます。イエスのバプテスマと血を信じるときにのみ、真の救済がもたらされます。
 
 
イエスのバプテスマなしで、どうして救われるのか
 
イエスはどのように私たちの救い主になられたのか。
バプテスマを通してすべての罪を負われることによって

イエスがこの世に来られ、バプテスマを通してすべての罪を取り除いたという事実を、主の公の宣教から省いたり、または処女マリヤのところに生まれたイエスの神聖さを見落としたり、またはイエスの十字架を信じることを怠ることになっていたなら、キリスト教は、仏教徒が寺院で行うように、「赦してください。赦してください。赦してください」と唱えるように信者を導く単なる迷信的な宗教になっていたでしょう。
イエスのバプテスマを省くことは、私たちの罪がイエスに移されなかったことを意味したことでしょう。私たちの信仰は価値がなく、実際には全く何も支払わなかったときに借金を全額返済したと主張する債務者と変わりません。それは私たち全員を嘘つきにします。債務者が、実際には何もしていないのに、借金を全額返済したと言ったなら、その人は、まだ実際には、良心においても債務者だったでしょう。
イエスは、バプテスマの水で信者を洗いきよめ、神の子どもになさいました。イエスは、すべての信者が聖なるものとされるように、バプテスマのヨハネを通して世の罪をすべて取り除かれました。これを知って信じると、私たちの心は永遠にきよくなります。
神の恵みを神に感謝します。ルカの福音書 2:14 には、次のようにあります。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」 イエスの水と血への信仰は、私たちに完全な救いをもたらし、神の子どもとなります。イエスのバプテスマと血は私たちを救い、こうした二つのことを信じる者は救われます。
神のみわざから何も省略できません。使徒パウロが十字架以外に誇りとするものがなかったと言って、血だけを信じている人もいます。しかし、イエスのバプテスマは、イエスの十字架に含まれていました。
ローマ人への手紙第 6 章では、パウロがキリストにつくバプテスマを受け、キリストとともに死んだことがわかります。また、ガラテヤ人への手紙 2:20 でも、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
そして、ガラテヤ人への手紙 3:27-29 には、次のようにあります。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」
キリストにつくバプテスマを受けるとは、この世でイエスがなさったすべてのこと、バプテスマと十字架での血を信じることを意味します。イエスのバプテスマとその血を信じることは、イエスがほぼ2000年前に私たちの罪をすべて消し去ったという真理を信じることです。私たちに救済をもたらす他の方法はありません。
 
 
イエスのバプテスマと十字架での血を信じるとき、神によって救われる
 
赦しを祈るだけで罪を洗い流すことができるのか。
いいえ。罪の赦しは、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたとき、イエスに渡されたという信仰を通してのみ可能となる。

「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」 (ローマ 10:10)。
「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」 (ガラテヤ 3:27)。私たちの信仰は、キリストにつくバプテスマを受け、キリストをその身に着て、神の子どもとなるように導きます。イエスがこの世に来られ、バプテスマを受けたとき、私たちの罪と世の罪はすべてイエスに移されました。
私たちの信仰は、私たちをキリストと一つにしました。キリストが死なれたとき、私たちは死にました。キリストが復活したとき、私たちは復活しました。イエスのバプテスマ、血、復活、昇天、再臨を信じている今、天の御国に入り、永遠に生きることができます。
人々がイエスの血だけを信じるとき、彼らは心に残っている罪に苦しむしかありません。なぜでしょう。彼らは、罪をすべて取り除き、罪の心を清め、永遠に雪のように白くしたイエスのバプテスマの意味を、知ることも受け入れもしなかったからです。
みなさんは、みなさんをすべての罪から救うイエスのバプテスマとその血を信じていますか。この不変の真理を信じてください。イエスのバプテスマを信じなければ、みなさんの信仰は無益です。イエスのバプテスマへの信仰がなければ、罪を贖うことはできず、片思いをしているのです。
十字架だけを信じている人々は言います。「イエスは私の主、私のために十字架で死なれた私の救い主です。イエスは再び死からよみがえり、天国に昇る前の40日間、復活をあかしなさり、今は神の右の座に着いておられます。イエスは私たちを裁くために二度目に来ると信じており、イエスが私を完全に変え、イエスにお会いできるように祈っています。ああ、私の愛するイエス、私の主よ。」
彼らは罪の赦しを求め、罪のない者であることを望みますが、心には罪があります。「イエスを信じていますが、心に罪があります。私はイエスを愛していますが、心に罪があります。『私の花婿、おいでください』と言うことはできません。なぜなら私には罪があり、私の救いを確信できないからです。ですから、私がよく準備をし、もっと激しく祈り、もっと悔い改めてからイエスが来られることを願っています。私は心を尽くしてイエスを愛していますが、心の罪のためにイエスと向き合うことができません。」
イエスがそのような人々に、「なぜあなたは完全ではないと思うのか」と尋ねることになっていたなら、彼らは、「主よ、私は毎日罪を犯しているので、私は義人ではないことを知っています。ですから、あなたが私を罪人とお呼びになるとき、私を召してください」と答えるでしょう。
彼らは、創造主であり裁き主である神が罪人を受け入れず、彼らを神の子どもとなさらないことを知りません。
花婿が来て、花嫁の罪の問題をすべて解決しましたが、花嫁はこの事実を知らなかったため、苦しみました。肉で罪を犯したために自分が罪人であると思うとき、神への信仰はありません。私たちが神のみことばの真理を知らない、あるいは理解できないとき、私たちの心の罪は増え続けます。
 
心の中に残っている罪に苦しむ人がいるのはなぜか。
彼らは自分の罪をすべて取り除いたイエスのバプテスマの意味を知らず、心に受け入れもしないから。

花婿は、世の罪を取り除きました。どこでしょう。イエスがバプテスマを受けたときのヨルダン川です。これを信じない者は、まだ罪人です。彼らは、汚れた花嫁のままです。
花婿は花嫁に尋ねます。「あなたがわたしの花嫁ではないのに、どうしてわたしを愛することができるのですか。わたしをあなたの花婿と呼ぶ前に、あなたのすべての罪を洗い流さなければなりません。」
イエスのバプテスマなしで贖われるのでしょうか。いいえ。私たちは神のかたちに似せて創造されているので、私たちは心の中で正義を求め、良心もまた公正になろうとします。しかし、心が清められていなければ、私たちは罪がないと考えることはできません。イエスのバプテスマを受け入れて信じるときのみ、罪がなく、義人であるとほんとうに言うことができるのです。
現実に心に罪があるとき、自分が罪のない者であると考えるなら、良心は決して聖なるものとされることはありません。こうした状況下で、神は私たちを受け入れることもできません。神は決して嘘をつかれません。
神はモーセにイスラエル人を数えて人口調査を行ない、彼らの生活のために身代金を神に支払うようにおっしゃいました。金持ちは半シェケル以上を与えてはならず、貧しい人はそれ以下を与えてはなりませんでした。誰もが身代金を支払わなければなりませんでした。
したがって、誰かが自分の人生のために身代金を支払ってくださったイエスを信じないなら、どうしてその人は聖なるものとされることができるでしょう。そのような人は、心に罪を持ち続けています。
イエスの血だけを信じるとき、心に罪があり、罪人であると告白しなければなりません。しかし、イエスのバプテスマと十字架の福音を一緒に信じるとき、私たちは本当に罪がないと述べることができます。救済と永遠のいのちは、私たちのものです。
 
 
御霊に対する冒瀆の罪
 
どのような罪が人を地獄に投げ込むのか
御霊に対する罪、すなわちイエスのバプテスマを信じないこと

ローマ人への手紙 1:17 には、次のようにあります。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」 福音のうちには神の義が啓示されています。イエス・キリストがこの世に来られ、バプテスマと十字架での死によってすべての罪を洗い流されました。イエスのバプテスマとその血は、福音の力です。イエスは、私たちの罪をただ一度で洗い流されました。
信じることは、救済を意味し、信じないことは永遠の地獄を意味します。天におられる私たちの父は、ひとり子イエスをこの世に遣わし、罪の贖いのためにバプテスマを受けました。こうして、イエスを信じる人は、すべてのそむきを清めることができます。
この世に残っている唯一の罪は、バプテスマと血を信じない罪です。信じないのは、御霊に対する冒瀆であり、神によって裁かれる罪であり、不信仰者を地獄に投げ込むことです。それはすべての最も重大な罪です。この罪を犯す人はだれでも、悔い改め、イエスのバプテスマを信じることによって、贖われなければなりません。そうでなければ、みなさんも永遠に台無しにされます。
みなさんは、イエスのバプテスマと血による贖いのあかしで救われていますか。ヨハネの福音書 1:29 に、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」 と記されているように、みなさんはヨハネのあかしを受けておられますか。ヘブル人への手紙 10:18 に、「これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です」 と記されているように、イエスのバプテスマと血を信じておられますか。
神は、心の中にイエスのバプテスマと血を信じる者に証印を押します。神は彼らをご自分の子どもになさいます。イエスのバプテスマと血を信じる者は、イエスの正しい愛を通して贖われます。
神が遣わされた者はだれでも、神のみことばを語りますが、地上から来た者、神に遣わされていない者は、自分の考えに従って説教します。この地上には神のみことばを宣べ伝える者が大勢いて、神から遣わされている者は、イエスのバプテスマとその血について語っています。
しかし、自分の言葉を説く者は、自分の考えを表現するだけです。彼らは、言います。「私たちは原罪を贖われているけれど、それぞれが日々の罪を悔い改めなければならない。」
しかし、人は自分で聖なるものとされることができるのでしょうか。私たちは、自分の長所の強さや自分の努力によって聖なるものとされることができるのでしょうか。私たちが聖なるものとされるのは、神が私たちの罪をすべて取り除かれたからですか、それとも自分で贖いに達しようとしたからですか。
真の信仰は、私たちを聖なるものにします。石炭を千回洗って白くできるでしょうか。灰汁で黒い肌を白くできるでしょうか。石鹸や灰汁で罪を洗い流すことはできません。自分自身の義は、汚れたぼろきれのようです。私たちが義人になるのは、イエスのバプテスマとその血を信じることによってでしょうか、あるいは十字架での血だけを信じることによってでしょうか。
真の信仰は、イエスのバプテスマと十字架での血から来ます。救済は私たち自身の努力の結果ではありません。イエスのバプテスマとその血への信仰だけが、私たちを罪から解放し、義人にするのです。
父はすべての人々をご自分の御子の手に渡され、そして御子を信じる者は、永遠のいのちを持つでしょう。御子を信じることは、イエスのバプテスマと血による贖いを信じるということです。信じる者は、神の子どもとして永遠のいのちを持つでしょう。救われた者は、神の右の座で永遠に生きるのです。
イエスのバプテスマと神とともに一つになる信仰は、御霊への信仰でもあります。真理のみことばは、私たちを新しく生まれることを可能にします。私たちは、イエスのバプテスマと血を信じることによって救われています。
信仰を持ってください。イエスのバプテスマと血を信じることは、贖いを得ることなのです。真の福音への信仰を持ち、罪の赦しを得てください。