説教集

主題 3: 水と御霊の福音

[3-9] (マタイ 7:21-23) 信仰をもって父のみこころを行なおう

(マタイ 7:21-23)
「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」
 
 
たぶん、私がその一人だ...
 
「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのか。
いいえ。神のみこころを行なう者だけ

イエス・キリストは、おっしゃいます。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」 こうしたみことばは、多くのキリスト教徒に神のみこころを行なうように懸命に働かせて、彼らの心に恐怖を与えています。
ほとんどのキリスト教徒は、自分たちがする必要がある唯一のことは、天の御国に入るために、イエスを信じることだと考えていますが、マタイの福音書 7:21 は、イエスに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではないと教えています。
この聖句を読んだ人の多くは、「たぶん、私がその一人だ」と思うようになります。彼らは、自分自身を説得しようとします。「いいや、イエスがおっしゃっていたのは、不信者を意味したに違いない。」 しかし、思考は彼らの心の中に残り、彼らを苦しめ続けます。
「天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです」 と記されている節の後半部分に固執します。彼らは、「わたしの父のみこころを行なう」 という言葉に執着し、什一献金を忠実にささげ、夜明けに祈って、説教し、善行をし、罪を犯さないようにするといったことで、父のみこころを行なうことができるのだと考えます。彼らは、一生懸命に努力します。彼らを見ると、非常に気の毒になります。
多くの人々は、この節を理解していないために間違いを犯します。したがって、私たち全員が神のみこころを知り、それによって生きるように、この節を明確に説明したいと思います。
まず、神のみこころは、御子がすべての人々の罪を取り除き、こうして私たちを罪から解放することであるということを知っていなければなりません。
エペソ人への手紙 1:5 には、次のように記されています。「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」
言い換えれば、神のみこころは、イエス・キリストが私たち全員の罪を洗い流された真の福音を知り、新しく生まれるようになさったことです。神は、すべての罪を御子イエスに渡すことによって、水と御霊によって新しく生まれることを望んでおられます。これが神のみこころです。
 
 
ただ「主よ、主よ」と言う
 
私たちがイエスを信じるとき、何を知らなければならないのか。
父のみこころ

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです」 (マタイ 7:21)。
私たちは、父のみこころを二通りに理解しなければなりません。まず、私たちが罪の赦しを得て、水と御霊によって新しく生まれることが神のみこころであると知っておくべきです。第二に、私たちはその信仰に基づいて行なうべきです。
地上のすべての人々の罪を消し去るのは、神のみこころです。サタンは、罪を通して先祖アダムの堕落をもたらしました。しかし、私たちの父のみこころは、人の罪をすべて消し去ることです。什一献金を忠実にささげ、夜明けに祈りをささげるのは、私たちの父のみこころではなく、私たちをみな罪から救うことだということを理解すべきです。罪の海で溺れることから私たち全員を救うのが、父のみこころです。
聖書は、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国に入るのではないと告げています。これは、ただイエスを信じるのではなく、父が私たちに何を望んでおられるかを知るべきだということを意味します。アダムとエバの受け継いだものは、私たちが罪の中で生きるしかないということを意味するのだと知って、罪と地獄の裁きから私たちを救うことが、神のみこころなのです。
 
 
神のみこころ
 
神のみこころとは何か。
私たちを罪から解放して神の子どもになさること。

マタイの福音書 3:15 には、次のようにあります。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」 こうして、イエスが人類を罪から救うために、この世に来られたという神のご計画を成就なさることでした。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたとき、神のみこころが成就されました。
神は、私たちを救われ、私たちを神の子どもになさることを望まれました。そうなさるために、御子は私たちの罪をすべて取り除かなければなりませんでした。すべての人々を神の子どもになさることが、神のみこころでした。そこで、神は、サタンの支配に堕落したすべての人々の罪を取り除くために、ご自分の息子を遣わされました。彼らが神の子どもになるように、すべての人々のためにご自分の息子のいのちをささげることが、神のみこころでした。
イエスがバプテスマを受けて十字架で死なれたとき、神のみこころは成就されました。また、イエスがバプテスマを受けたときにすべての罪がイエスに渡され、十字架での死を通してすべてのそむきの罪のために裁きを下されたと、私たちが信じるのも、神のみこころです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」 (ヨハネ 3:16)。神は、ご自分の民を罪から救われました。そうするために、イエスが公の宣教でなさった最初のことは、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けることでした。
「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」 (マタイ 3:15)。イエスがこの世に来られ、バプテスマを通して世の罪をすべて取り除かれ、十字架で死なれ、よみがえられたことは、神のみこころでした。
私たちは、これをはっきりと知るべきです。多くの人々は、マタイの福音書 7:21 を読み、教会を建てるために世の所有物をすべてささげることによって、死の時点までさえ、主に仕えるのが神のみこころであると考えています。
信者のみなさん、イエスを信じる私たちは、まず神のみこころを知るべきであり、それから、みこころを行なうべきです。みなさんが、神のみこころを知ることなしに、教会に自分自身をささげるのは、間違っています。
人々は、正統派教会の中で信仰のうちに生きる以外に、何ができるかを自問します。しかし、私自身は長老派教会でカルヴァン主義を学び、老練な牧師と同じくらい宗教的な養母の下で育ちました。私は、いわゆる正統派教会で学びました。
使徒パウロは、自分がベニヤミン族の出身であることを自慢することができ、当時偉大なラビだったガマリエルの下で律法を研究したと告げました。パウロが新しく生まれる前、イエスを信じる人々を逮捕する途中でした。しかし、ダマスカスへの道でイエスへの信仰を見いだし、水と御霊によって新しく生まれるという祝福を通して義人になりました。
 
 
私たちは神のみこころを行う前にそれを知らなければならない
 
私たちがイエスを信じる前に必要とされるものは何か。
私たちはまず神のみこころを知らなければならない。

私たちが聖くなることは、神のみこころです。「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避けることです」 (Ⅰテサロニケ 4:3)。私たちは、水と御霊を通して完全に聖なるものとされ、私たちのすべての生活において、信仰のうちに生きることが、神のみこころであることを知っています。
イエスを信じても、心に罪がある人がいるなら、その人は神のみこころに従って生きていないのです。神のみこころに従って、イエスのうちに見られる救済を通して聖くなる必要があります。これを知ることは、神のみこころを行なうことです。
私がみなさんに、「イエスを信じているにもかかわらず、みなさんはまだ心に罪がありますか」とお尋ねにして、みなさんの答えが「はい」であるなら、明らかにみなさんは、まだ神のみこころを知らないのです。それは、水と御霊への信仰を通して、私たちが聖なるものとされ、すべての罪から救われるべきであるという神のみこころです。
かつて従順な息子を持つ人がいました。ある日、彼は最も従順な長男に電話し、「息子よ、野原の向こうの村に行きなさい...」と言いました。
彼が話し終わる前に、息子は、「はい、父さん」と言って、去りました。息子は自分が何をすべきかを知るのを待ちませんでした。息子は、ただ行きました。
父親は息子に電話しました。「息子よ、お前がとても従順なのは、すべて非常によく、良いことだが、お前は私に何をしてほしいかを知っているべきだ。」
しかし、息子は言いました。「父よ、大丈夫です。私はあなたに従います。誰が私よりも従うことができるというのですか。」
しかし、もちろん息子は手ぶらで戻ってきました。父親が何を望んでいたのか知らずに、父の意志をする方法がありませんでした。彼はただ盲目的に従いました。
イエス・キリストを知らなければ、私たちはあの息子のようになるでしょう。多くの人は、神のみこころを知らず、神学の教義に従い、什一献金を忠実にささげ、一晩中祈って断食します。
彼らが心の中に罪をもって死ぬとき、彼らは天国の門で追い払われます。彼らは、神のみこころを行なうことに熱心でしたが、神が何を望んでおられたのか知りませんでした。
 
不法をなすとはどういうことか。
水と御霊の福音を知らずに、罪人としてイエスを信じること

「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』」 (マタイ 7:22-23)。
神が私たちに望んでおられることがあり、神が私たちに求めておられる信仰があります。神は、イエスが私たちの罪をすべて取り除かれたと、私たちが信じることをお望みです。多くの人は、水と御霊の真理を知らずに、イエスの御名によって悪霊を追い出し、預言をし、奇蹟をたくさん行なっています。
奇蹟を行なうことは、多くの教会を建て、彼らのもので教会に寄付するために、すべての所有物を売り、主のために自分自身の人生をささげることを意味します。
イエスの名によって預言をすることは、指導者になることを意味します。そのような人々は、イエスに敵対しながら、律法に従って生きることを自慢するパリサイ人のようです。これは、正統派のキリスト教徒にも当てはまります。
悪霊を追い出すことは、力を使うことです。彼らはみな、信仰に非常に熱心ですが、主は彼らに、彼らを知らないことを最終的に告げます。主は彼らを知らないのに、どうやって彼らは主を知ることができるのかを尋ねるでしょう。
主は、おっしゃいます。「その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」 その日、大勢の人が主に叫ぶでしょう。「主よ、私は信じています。あなたが私の救い主であると信じています。」彼らは自分たちが主を愛していると言うでしょうが、心に罪があります。主は、彼らを「不法をなす者ども」(救われていない罪人)と呼び、主から離れて行くようにおっしゃるでしょう。
その日、新しく生まれることなく死んだ人々は、イエスの前で叫びます。「私は、あなたの名によって預言をし、教会を建て、50人の宣教師を遣わしました。」
しかし、イエスはそうした罪人に宣告なさいます。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」
「どういうことですか。私があなたの名によって預言をしたことを、ご存じないのですか。私は長年、教会で仕えました。あなたを信じるように他の人に教えました。どうして私をご存じないのですか。」
神はおっしゃいます。「わたしはあなたがたを全然知らない。わたしを知っていると主張するあなたがたには、まだ心に罪がある。わたしから離れて行け。」
自分の心に罪をもって神を信じることや、神の救済の律法に従って信じないのは、神の前で不法をなす者です。神のみこころを知らないことは、不法です。それを知らずに神のみこころを行なおうとすることや、水と御霊によって新しく生まれるという祝福を知らないことは、不法です。神のみこころに従わずに、神についていくことも不法です。不法は罪です。
 
 
聖書における神のみこころ
 
だれが神の子どもなのか。
罪がない義人

水と御霊によって新しく生まれるという福音を信じることは、私たちに対する神のみこころです。真の福音は、私たちを新しく生まれさせます。私たちが神の子どもとして、福音のために生きるのも、神のみこころです。私たちは神のみこころを知るべきですが、多くの人は水と御霊によって新しく生まれるという福音を知りません。
なぜイエスを信じるのかを人々に尋ねると、多くの人が自分の罪から救われるためにイエスを信じると言います。
私は尋ねます。「それでは、あなたの心には罪がありますか。」
彼らは言います。「もちろん、あります。」
「では、あなたは救われているのですか、そうではないのですか。」
「もちろん、救われています。」
「心に罪がある罪人は、天の御国に入ることができますか。」
「いいえ、できません。」
「では、あなたは天の御国に行くのですか、それとも地獄の火の中に行くのですか。」
彼らは、天の御国に行くだろうと言いますが、できるでしょうか。彼らは、地獄に行きます。
一部の人は、イエスを信じているから、彼らはたとえ罪があっても天の御国に入ることができるのだと考え、また、そうすることが神のみこころであるとも考えています。しかし、神は、罪人を天の御国の中に受け入れることをなさいません。
神のみこころとは何でしょう。聖書には、神のみこころとは、イエスのバプテスマと十字架での血とによって贖われる祝福を信じ、御子を信じることであると記されています。
水と御霊によって新しく生まれる祝福を信じる者は、神の子どもになります。神の子どもになることは、私たちの栄光です。神の子どもは義人です。
神が私たちを義人と呼ばれるとき、罪人のキリスト教徒であるとみなされるのでしょうか。神は、決して嘘をつくことがおできになりません。ですから、神の前に、みなさんは罪人か義人のどちらかです。「罪のない者だとみなす」ということは決してありません。聖なるものとされるために、水と御霊の福音を信じる者だけを召されます。
 
私たちはどのように神の子どもになれるのか。
水と血の福音を受け入れることによって

神は、世の罪をすべて御子の上に渡されたので、御子さえも十字架で裁かれなければなりませんでした。神は決して嘘をつかれませんでした。神は、おっしゃいます。「罪から来る報酬は死です」 (ローマ 6:23)。御子が死なれたとき、三時間地上が暗くなりました。
「イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である」 (マタイ 27:46)。
イエスは、すべての人々を罪から救うために、バプテスマを通して世の罪をすべて取り除かれました。イエスは、ご自分が父なる神によって裁かれ、見捨てられなければならないことをご存じで、人類の罪を取り除かれました。ですから、神はご自分の御子を、ヨルダン川で取り除いた罪のためにさばき、御子から三時間も顔を背けられました。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」 (ヨハネ 1:12)。
みなさんは、神の子どもでしょうか。水と御霊によって新しく生まれる福音を受け入れているので、私たちは新しく生まれている者です。水と御霊によって新しく生まれている者は、義人です。今、私たちはみな、義人になっています。
「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」 (ローマ 8:31)。義人が神と人々の前で義人と呼ぶとき、贖われていない者はその人を裁く傾向があります。ですから、使徒パウロは、こう述べました。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです」 (ローマ 8:33)。神は、イエスを通して私たちの罪をすべて一掃なさり、聖なるものとされ、義人、神の子どもと呼ばれました。イエスは、私たちに神の栄光の子どもになる特権をお与えになりました。
水と御霊によって新しく生まれている者は、神の子どもです。彼らは、永遠に主とともに生きます。彼らがもはや、この世の被造物ではなく、天に属する神の子どもです。
彼らは神の正しい子どもである今、彼らに対して告発をしたり、裁いたり、神から切り離したりできる人はいません。
イエスを信じるには、水と御霊の福音を知る必要があります。聖書を知る必要があります。神のみこころに従って、それを実行できるようにするには、神のみこころを知って信じることが不可欠です。
 
 
罪人が水と御霊によって新しく生まれるのは神のみこころ
 
神はなぜ罪深い人に似せて御子を遣わされたのか
すべての罪を御子に移すため

贖われた者になって、新しく生まれることは、神のみこころです。「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです」 (Ⅰテサロニケ 4:3)。
すべての罪が御子に渡され、私たちが救われるように、御子を遣わすことは、神のみこころでした。これは、水と御霊によって新しく生まれさせる御霊の律法です。それが私たちをすべての罪から解放しました。
私たちは贖われています。さて、みなさんはみな、神のみこころを認めることができますか。それは、私たち全員を贖う神のみこころです。神は、私たちに世と妥協することは望んでおらず、むしろ神のみことばだけを信じ、神だけを礼拝することを望んでおられます。
また、新しく生まれた人々が、他の魂を神に立ち返らせる仕事に自分自身をささげて、福音をあかしし、教会に住んでいるのは、神のみこころでもあります。
私たちが罪を犯すのは、私たちが望むからではなく、弱いからです。しかし、イエスはそうした罪を取り除かれました。神はバプテスマのヨハネを通して世の罪をすべてイエスの上に渡されました。神は、ご自分の御子をその目的のために遣わし、ヨハネからバプテスマを受けました。これを信じて救われるのです。これが神のみこころです。
 
 
神が遣わしたイエスを信じることが私たちに対する神のみこころ
 
なぜイエスは罪深い人間に似せて来られたのか。
人類の罪をすべて取り除くために。

聖書は、神のみこころを行なうことは、神がお遣わしになったイエスを信じることだと告げています。「すると彼らはイエスに言った。『私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。』 イエスは答えて言われた。『あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。』 そこで彼らはイエスに言った。『それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。「彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。」と書いてあるとおりです』」 (ヨハネ 6:28-31)。
神がモーセに、カナンに向かう途中でしるしを与え、イスラエル人に天からマナを与え、その結果、彼らは神を信じたと、人々はイエスに告げました (ヨハネ 6:32-39)。人々は、イエスに尋ねました。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
イエスは、彼らが神のわざをするために、神が遣わした者を信じるべきだと答えられました。神のわざを行なうのであれば、イエス・キリストのみわざを信じなければなりません。私たちが福音を信じて伝えることだけでなく、福音に従うことが、神のみこころです。
神は私たちにお命じになりました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」 (マタイ 28:19-20)。
イエスは、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい、と明確におっしゃっています。イエスが父と聖霊のためになさったことはすべて、イエスのバプテスマに含まれています。それを理解するとき、私たちは神を信じ、イエスがこの世でなさったすべてのことと、聖霊がそれをどのようにあかしなさったかがわかります。
イエスは、水と御霊の福音をあかしするために、神から遣わされました。したがって、神とそのしもべの言葉を信じるときのみ、私たちは救われることができるのです。
 
 
神のわざを行なうために
 
私たちの人生の目的は何か。
世界中に福音を広めて神のみこころを行なうこと

神のわざを行なうなら、まずイエスのバプテスマと十字架での死の福音を信じなければなりません。神が遣わした者を信じることは、神のわざです。イエスを信じるには、まずイエスが水と血によって私たちを救われたと信じるべきです。
神のみこころは、イエスを信じて福音を宣べ伝えるときに、私たちのうちに成し遂げられます。このようにして、私たちは神のわざを行なうのです。水と御霊によって新しく生まれるという祝福を信じる者だけが、天の御国に入ることができると、イエスはおっしゃいました。
次の本質的な真理を認識することによって、私たち全員が天の御国で自分たちの場所を取りましょう。私たちのすべての罪が、イエスのバプテスマでイエスに渡されたことを知って、信じることによって神の真のみこころを認識することです。神の御国の拡大のために生きましょう。最後に、みなさんが死ぬまで福音を宣べ伝えてください。
キリスト教徒のみなさん、水と御霊の福音を信じる者は、神のわざを行なう人です。神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。神が遣わした者に、すべての罪が渡され、イエス・キリストが私たちの救い主であると信じることが、神のみこころを行なうことです。
罪から人を救い出すわざは、イエスがヨルダン川でバプテスマをお受けになり、十字架で私たち全員のために死なれたときに、成し遂げられました。神のわざの二つ目の部分は、神が遣わされた者を信じることであり、世の罪をすべて取り除いた救い主を信じ、世界中で福音を宣べ伝えることです。
新しく生まれている私たちは今、世の終わりまで福音のために生き、福音を宣べ伝えるべきです。
 
神のみこころを知らずにイエスを信じる者はどこへ行くのか
地獄へ行く

「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』 (マタイ 7:22-23)。
この節は、神の前で誰が罪人であり、誰が不法をなす者であるかを明確に教えてくれます。
「主よ、主よ」と言う人々の中には、新しく生まれていない人が非常に大勢います。彼らは、まだ心に罪があるので、苦しんでいます。ですから、彼らはふさわしくない礼拝時間の祈りの中で不満をもって、「主よ、主よ」と呼びながら、神に叫びました。
彼らは祈りの中で叫ぶなら、良心が清められると信じていますが、罪は心の中に残っているので不可能です。彼らは、まるで神が遠くにいるかのように、苦しみながら叫んで、山の中で祈ります。私たちが完全な信仰を持っていないとき、私たちは「主よ、主よ」という言葉をより頻繁に呼ぶ傾向があります。
会衆が新しく生まれていない教会では、説教壇が壊れるほどの熱意をもって祈ります。
しかし、聖書では、「主よ、主よ」と呼ぶすべての人が、天の御国に入るわけではないことがわかります。水と御霊の福音を信じる者だけが、神のわざをするように導く信仰を持っています。
聖書は、心に罪をもって神の御名を呼ぶことは不法であると教えています。みなさんは、山の祈祷会に行ったことがありますか。ある女性の執事は、真理のうちにイエスに会うこともなく、心の中に御霊を受け入れておらず、水と御霊によって新しく生まれてもいないので、彼らは泣き叫んでいます。彼らは地獄に行くことを永久に恐れて生きているので、神の御名を非常に緊急に呼びます。
これがみなさんの誰にも起こらないことを願っています。水と御霊の福音を聞いて信じてください。私たちが新しく生まれ、水と御霊の福音の中で生きることが、神のみこころです。
私たちキリスト教徒は、水と御霊の福音をほんとうに信じ、聖書の真理から力を引き出す必要があります。そうしてはじめて、神の裁きから救われるのです。