説教集

主題 8: 聖霊

[8-7](イザヤ 9:6-7) あなたの心に聖霊を宿らせる美しい福音

(イザヤ 9:6-7)
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」
 
 
何が信者の中に聖霊を宿らせることを可能にするのか
水と御霊の美しい福音

聖霊を受けるためには、水と御霊の福音への信仰を持つ必要があります。私たちの主は、不思議な助言者、力ある神と呼ばれています。私たちの主は、ご自身を天国への道と呼ばれました。イエス・キリストは、すべての人に美しい福音の賜物を贈られました。
しかしながら、この世には、まだ闇の中で生きている人が非常に大勢います。彼らはこの闇から逃れようとしますが、美しい福音を知らないので、決して罪から逃れることができません。代わりに、彼らは偽りの教義への信仰から衰えます。対照的に、真理を求める者にとって、彼らは美しい福音に出会い、神の祝福で満たされた残りの人生を生きるでしょう。私は、彼らが美しい福音を見つけ、彼らの罪を清めるのを助けるのは神の特別な祝福だと信じています。
したがって、神の祝福がなければ、罪からの解放は不可能でしょう。私たちが主にお会いして聖霊を受けているなら、私たちはとても祝福されます。残念なことに、多くの人々は、この美しい福音への信仰から神の祝福が来ていることを知りません。
神の祝福は、神のひとり子イエス・キリストによって、私たちに与えられた美しい福音を信じることから生じます。イエスは、私たちを世の罪から救い、私たちをそのあわれみで祝福してくださる方です。誰も私たちを罪から救うことも、心の罪悪感を消すように助けることもできません。誰が自分の罪と永遠の死の痛みから自分自身を救うことができるでしょうか。
神は私たちにおっしゃいます。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」 (箴言 16:25)。人々は、自分自身の宗教を確立し、破壊と死に向かって自らを駆り立てます。多くの宗教は、義を強調し、人々を罪から救うための独自の道を示していると誇っていますが、私たちをすべての罪から救うことができるのは、主が私たちに与えてくださった水と御霊の福音だけです。イエスだけが、罪人を罪から救うことができる救い主です。
ヨハネの福音書 14:6 で、私たちの主はおっしゃいました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」 主は、ご自身の肉と血を死に向かう者にお与えになりました。主はまた、ご自身を真のいのちへの道であるとお呼びになりました。神は、イエスの美しい福音を信じないなら、天の御国に入ることができないとおっしゃいます。
私たちは、天の御国に入るために、水と御霊の福音を信じ、罪を赦され、主が私たちの救い主であると信じなければなりません。
 
 
古代イスラエルで
 
「ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった」 (イザヤ 7:1)。
イスラエルは、もともと一つの国家でした。しかしながら、イスラエルは南と北に分かれました。神の神殿は、ソロモン王の息子レハブアムが支配した南ユダヤのエルサレムにありました。その後、ソロモンのしもべの一人ヤロブアムが北部にもう一つの国を設立したため、イスラエルは分裂しました。その時から、神への信仰は堕落しました。信仰の堕落は、今日の異端宗教の源になりました。このように、ヤロブアムは異端者の創始者になりました。彼は王位を維持する必要があり、したがって異端者の父になったため、神の律法を改正しました。ヤロブアムは、イスラエルの北王国の民のために異なる宗教を創り、南王国のユダに侵入しようとさえしました。ほぼ200年が過ぎましたが、二つの王国間の敵対関係は変わりませんでした。
しかしながら、神はイザヤを通して語られました。「アラムはエフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。『われわれはユダに上って、これを脅かし、これに攻め入り、わがものとし、タベアルの子をそこの王にしよう。』と。神である主はこう仰せられる。『そのことは起こらないし、ありえない。実に、アラムのかしらはダマスコ、ダマスコのかしらはレツィン。――六十五年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民ではなくなる。――また、エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマルヤの子。もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない』」 (イザヤ 7:5-9)。
その時、神はイザヤを通してアハズ王に預言しましたが、王は神への信仰がありませんでした。アハズは、シリアの軍隊に対抗することさえできないのではないかと心配していましたが、シリアとイスラエルが互いに同盟関係にあることを聞いて、恐怖に震えました。しかし、神のしもべ、イザヤが来て彼に言いました。「六十五年のうちに、北イスラエルは粉砕されて、二人の王が企てた邪悪な陰謀は決して起こらない。」
神のしもべは、アハズ王に神からのしるしを求めるように告げました。「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから」 (イザヤ 7:11)。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」 (イザヤ 7:13-14)。これが彼の預言でした:神は、ご自分の民をその罪から救ってくださると。
 
 
神の敵とは誰か
 
人類の敵は罪であり、罪はサタンに起因しています。そして、私たちの罪からの救い主は、誰でしょう。救い主は、神の御子イエス・キリストにほかなりません。人は、肉の根本的な弱点があるため、罪を犯さざるを得ません。人はサタンの力の下にいます。非常に多くの人々がまだ占い師を訪問し、こうした偽預言者が彼らに命じたとおりに生活を送ろうとしています。これは、彼らがサタンの支配下にいるという直接的証拠です。
主は、イザヤに救済の証拠をお与えになり、処女が息子を産み、彼をインマヌエルと名づけるとおっしゃいました。人の罪深い肉のかたちでイエスを遣わされ、罪人をサタンの抑圧から救わせるという神のご計画でした。預言どおりに、イエスは処女マリヤから生まれた人間として、この世に来られました。
イエスが私たちのところに来られなかったなら、私たちはまだサタンの支配下で生きていたでしょう。しかし、イエスはこの世の中に来られ、すべての罪人を罪から救う美しい福音を私たちにお与えになるために、ヨハネからバプテスマを受け、十字架で死なれました。したがって、多くの人が美しい福音を信じ、罪の赦しを受け、神の子どもになりました。
今日でさえ、多くの神学者は、イエス・キリストが神であるか、人であるかについて議論しています。保守的な神学者は「イエスは神である」と言いますが、一部の新神学者は、イエスがヨセフの私生児であると主張して反論しました。これは、なんという嘆かわしい主張でしょう。
いくつかの新神学者の中には、イエスが水の上を歩く力があると信じることができないと言う人もいます。彼らは、「イエスは地平線の向こうの低い丘を実際に歩き、弟子たちは遠くからイエスを見て、彼は水の上を歩いていると思ったのだ」と言います。新神学の学校に所属する現代の神性の医師がみな、神学の偉大な人ばかりではありません。彼らのほとんどは、聖書で理解できることだけを信じることを選びます。
別の例を挙げると、聖書はイエスが5,000人に2匹の魚と5つのパンを与えたとあります。しかし彼らは、この奇跡に関して非常に懐疑的なままです。彼らは、次の言葉でそれを説明します。「人々は、イエスに従い、死ぬほど飢えていたんだ。だから、イエスは弟子たちに残った食物をすべて集めるように頼んだのだ。それから子供が自発的に食事をイエスに与え、他のすべての大人は感動して、自分たちの食物を取り出した。だから、彼らがすべての食べ物を集めて食べた後、十二個のかごに残ったのだ。」 こうした神学者は、神のみことばが自分の非常に限られた理解に合うようにしようとするだけです。
神の真理を信じることは、神がお与えになった美しい福音への信仰をただ信じることです。信仰とは、理にかなうので信じるわけでもなく、理にあわないので、信じないことでもないということです。理解できるかどうかに続き、私たちは神を信じ、記されているとおりに神のみことばを受け入れなければなりません。
イエスが、人の子として私たちのところに来られたという事実は、私たちをすべての罪から救うために、イエスが遣わされたことを意味します。神であるイエスは、私たちを救うためにこの地上に来られました。イザヤは、イエスが処女から生まれる人の子として、私たちのところに来られると預言していました。
創世記 3:15 で、主なる神は蛇におっしゃいました。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」 これは、神が人類を罪から救うために、イエスを人のように見える救い主として遣わすことをご計画になっていたことを意味します。
聖書には、次のように記されています。「『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』 死のとげは罪であり、罪の力は律法です」 (Ⅰコリント 15:55-56)。死のとげは罪です。人が罪を犯したとき、死はその人を奴隷にします。しかし、私たちの主は約束なさいました。「女の子孫は、お前の頭を踏み砕く。」 これはイエスが、サタンがもたらした罪のとげを滅ぼすことを意味します。
イエスは、この世の中に来られ、世の罪をすべて取り除くためにバプテスマを受け、世の罪のために十字架につけられ、裁かれました。イエスは、美しい福音を信じるすべての者を罪からお救いくださいました。アダムとエバが罪を犯したとき、神は人類をサタンの力から救うと約束なさいました。現代の世界では、神の敵とは美しい福音を信じない者です。
 
 
なぜイエスはこの世に生まれたのか
 
神は、私たちを罪から救うために、律法と美しい福音をくださいました。神の律法の下で、人々は神の前で罪人になりました。同様に、人々が自分の罪を知るようになるために、律法が与えられました。人々が罪と律法そのものの奴隷になったとき、私たちの主は、律法の要求が全うされるために、この世の中に来られました。
イエスは、律法の下で生まれました。イエスは、律法の時代に生まれました。人々が律法を必要としたのは、罪の赦しを受けるために、自分の罪を知る必要があったからです。人々は、自分が汚れていることに気づいたときにのみ、衣服の汚れをきれいにします。同様に、自分の罪を認識するために、人々は神の律法を知るべきです。律法がなければ、罪のいかなる意識もせず、イエスがこの世の中に来られる必要はなかったでしょう。
神の律法を知っていれば、神にお会いする機会があります。私たちは律法を知っており、そのため私たちの罪について学ぶことができました。私たちは自分の罪を知った後にのみ、イエス・キリストは私たちに信じるための美しい福音をもたらしてくださるのです。神が律法をお与えにならなかったなら、私たちは罪人ではなく、裁きも存在しなかったでしょう。ですから、神は私たちに律法をお与えになり、すべての罪人を罪から救うために、美しい福音を私たちに賜ってくださったのです。
創造主とその創造物との間に存在しなければならない律法とは、神の救済の律法です。これが愛の律法です。神は人におっしゃいました。「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」 (創世記 2:17)。これは神が私たちにお与えになった律法であり、その律法は神が私たち全員を罪からお救いくださった愛の基礎となりました。救済の律法は、私たちの罪の赦しに、その基礎を置いていました。神は、私たちの創造主であり、すべてのものが神のみこころによって存在するようになったと告げておられます。これは、神が絶対的な存在であり、人々が美しい福音によって成し遂げられた救済の律法を信じるべきであることを意味します。
絶対的な神は、絶対に善です。この世に対する神の愛は、すべての罪人の救い主となられたひとり子をいけにえとなさいました。もし神が私たちを造られ、罪から私たちを救うための美しい福音をお与えにならなかったなら、私たちは神に対する不満を起こしたでしょう。しかし、神は私たちを滅びから救おうとして、救済の律法を定められました。律法のため、私たちは自分の罪を悟ることができ、直接それらを見ることによって、イエスの美しい福音を信じ始めました。私たちが神のみことばにそむくとき、私たちは律法の前に罪人として明かされ、結局私たち罪人は、神の前で罪の赦しのあわれみを願うために、ひざまずきます。
イエスは、女から生まれ、人類を罪からお救いくださるために、この世の中に来られました。イエスは、私たちのために神のご計画を成就するために、人としてこの世の中に来られました。私たちは、イエスの美しい福音を信じています。したがって、私たちは主をほめたたえます。
「なぜ神は、私が罪に陥りやすく、自分の悪行に苦しむほどに私をとても脆く造られたのか」と文句を言う人もいます。しかし、神は決して私たちが苦しむことを望まれませんでした。私たちは、イエスの福音について懐疑的だったので、神は私たちが苦しむようになさいました。私たちが神の子どもと同じ力を持つように、神は私たちに苦しみと美しい福音との両方をお与えくださいました。これが神のご計画でした。
しかし、悪魔は言います。「いいえ、いいえ。神は独裁者だ。どうぞ、あなたが望むように生きてください。独立してください。自分の努力で財産を作ってください!」 悪魔はまた、人類の神への信仰を阻害しようとします。しかし、神から離れて生きることを選んだ者は、神の救済のご計画に対する障壁です。イエスは、この世の中に来られ、サタンの力の下にいる者に罪を捨てるよう呼びかけました。私たちは、神から離れて生きるべきではありません。
 
 
人は地獄に定められた罪人として生まれる
 
この地上には、不変の真理はありません。しかし、イエスの美しい福音は不変の真理です。したがって、人々はその真理に頼って、サタンの力から救われることができます。人類は、アダムとエバの罪を受け継いでおり、キリストの介入なしには、地獄の火に定められるでしょう。代わりに、イエスのいけにえのおかげで、人は神の子どもになる力に祝福されました。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる」 (イザヤ 9:1)。神は、御子をこの世に遣わし、美しい救済を信じる者に栄光をお与えになりました。
「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」 (イザヤ 9:2)。今日、このみことばは、みなさんと私に当てはまります。美しい福音を信じることによって、私たちは、この世で持つことができない永遠のいのちに祝福されました。イエス・キリストは、世のすべての罪から人類を救われ、この美しい福音を信じる者に永遠のいのちと天の御国をお与えになりました。
 
 
イエスは、希望のない者に福音の美しい光をお与えになった
 
霧のような人間は、この世にしばらくの間存在しますが、すぐに消えます。人の人生は、一年生植物や一年草のようなものです。草は、その年の数ヵ月間だけ生命力を保持し、神の摂理に従って消えます。私たちの生活の中で、この草くらい無意味なものはすべて、むなしいものです。しかし、神は私たちの疲れ果てた魂に美しい福音を与えられ、神の義で私たちをご自分の子どもになさいました。これは、なんと驚くべき恵みでしょう。私たちの無意味な人生は、神の愛のおかげで永遠のいのちになり、神の子どもになる特権に祝福されました。
ここでは、美しい福音を信じて神の恵みに祝福された魂の告白です。
「私は、神を信じない家庭に生まれました。だから母が毎朝、水を入れた鉢を前にして、天と地の神々に家族の幸福を祈るのを、美しいことだと思って育ちました。私は成長するにつれ、私は自分の価値や自分の存在理由を知らなかったので、私が生きているか死んでいるかは本当にどうでもいいと考えさせられました。私は自分の価値を知らなかったので、孤独に生きていました。
このような人生が私を疲れさせたので、私は結婚するために急ぎました。私の結婚生活は良いものでした。私は望むものが何もなかったので、静かで穏やかな生活を送りました。それから私は子供を授かり、その時から私の中に愛が現れ始めたことがわかりました。私は、利己的な欲望を捨て始めましたが、私の周りにいるすべてのものを失ってしまうことに対する恐れもありました。
こうして、私は神を探し始めました。私は弱くて無力だったので、愛する人を見守るために絶対的な存在が必要でした。だから私は教会に通い始めましたが、私の信仰は、母が水の入った鉢の前で祈っていたため、母の信仰とは少し違いました。私の祈りは、漠然とした恐怖と希望に基づいていました。
かつて、私は地元の教会で開かれた小さな集会の一つに参加しましたが、祈っていると目から涙が出始めました。私は恥ずかしくて泣き止もうとしましたが、涙がこぼれ続けました。私の周りの人々は、私の頭に手を置いて、聖霊を受けたことを祝福しました。しかし、私は困惑しました。神のみことばすら知らなかったし、神への信仰はあいまいだったので、この力が聖霊によるものであるという確信はありませんでした。
私が参加した教会は、ペンテコステ・カリスマ運動に関連しており、多くの人が私のような経験をし、ほとんどの人が異言で話しました。ある日、人々から聖霊に満たされたと言われた牧師が率いるリバイバル集会に招待されました。牧師は、教会に多くの人々を集め、自分には霊的な力があるので、誰かの副鼻腔炎を治すと言いました。しかし、副鼻腔炎は病院で簡単に治る病気だと思っていたので、彼がどのように聖霊を受けたかにもっと興味がありました。しかし、牧師が癒しの試みに成功したように見えた後、彼は高校生が大学入試に成功するかどうかを予測できると自慢し始めました。多くの人が、彼の力を神のものであるかのようにたたえました。
しかし、私は彼を理解できませんでした。そして、牧師が持っている力がどんなものであっても、聖霊と何か関係があるとは言えませんでした。彼が副鼻腔炎を治すことができるか、試験で誰かの成功を予測できるかどうかは重要ではないと思いました。ですから、彼の明らかな奇蹟を聖霊の働きとしてみなすことはできませんでした。
私が念頭に置いていた神の力と愛は、私が見たものとは異なっていました。そのため、私はその教会への出席をやめ、牧師の力を信じる人々を避けました。その後、私は静かな教会に参加しました。それは、神のみことばをもっと論じると信じていたからです。私は律法を学び、それを通して私は非常に不義であったことを学びました。神は、私の恐れの対象となりました。私は神の前に尊くはなく、聖霊が私を知らないとされることを学びました。
イザヤ書 59:1-2 には、次のように記されています。『見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。』 これは、私の状況に合うように見えました。私がしたことや考えたことはすべて罪深いので、私が神の子どもになって聖霊を受けることも、不可能でした。
私は神を恐れたので、いつも悔い改めの祈りをささげました。誰にもそうするように言われたわけではありませんが、私は神の前に立派に立ちたいと思いました。私は罪深かったので、さらに悔い改めの祈りをささげました。しかし、こうした祈りは、私の罪を洗い流すことができませんでした。私がしたことは、自分の考えと誠実さを神に示すことだけでした。その時から、私は神に対して不平を言い始めました。私は、神の目に完璧になりたかったのですが、すぐに完璧になることはできなかったので、私の不満と罪は積み重なりました。
この宗教的混乱の時期に、私の父は脳卒中を起こしました。父が亡くなる前に、手術室と病院のベッドで40日間苦しみました。しかし、父のために一度も祈ることはできませんでした。私は罪人だったので、父のために祈れば、父の痛みは悪化するだけだと思いました。私は信仰の不足に苦しみ、神に従おうと思いましたが、できなかったので、私は文句を言い続け、ついに神から背を向けました。私の宗教生活は、そのように終わりました。もし私が神を信じれば、神の霊が私の中に宿り、平和を見つけると思いましたが、そうではありませんでした。その後、私の人生はさらに無意味になり、恐怖と不幸の中に生きました。
しかし、主は私をお捨てになりませんでした。神は私に、みことばを通して本当に聖霊を受けた信者に出会わせてくださいました。この人から私は、イエスがヨハネのバプテスマを通して罪を背負われ、十字架でそうした罪のために裁かれたことを学びました。したがって、私を含め、この世のすべての罪は、すべて赦されました。これを聞いて理解すると、私の罪がすべて清められたことがわかりました。神は、私が罪の赦しを受けるのを助け、聖霊の祝福をお与えくださり、平和な生活を与えてくださいました。神は、静かに私を導かれ、善と悪の明確な理解を与え、この世の誘惑に打ち勝つ力を与えてくださいました。神は、私の祈りに答え、義にかなった価値のある生活を送るのを助けてくれました。 聖霊を与えてくださった神に心から感謝します。」
私たちは一人ひとり、主の恵みに祝福されており、聖霊を受けることができます。美しい福音をくださったことを主に感謝します。神は、そのような幸福で義人を祝福なさいました。義人の心は喜びです。主は、私たちに永遠の幸福を与えてくださいました。神の救済、愛、恵みがどれほど貴重であるかを知っており、こうしたもののために感謝しています。主は、天国の美しい福音を通して私たちに幸福を与えてくださいました。これはお金では買えないものです。神は、私たちを喜びとまっすぐ立たせるために聖霊と美しい福音を送ってくださいました。美しい福音は、私たちの生活を祝福させるものです。主は、私たちに美しい福音をくださり、義人たちが祝福された生活を享受するのに喜んでおられます。
ルカの福音書に記録されているように、マリヤは言いました。「神にとって不可能なことは一つもありません。… ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」 (ルカ 1:37-38)。マリヤが、神の御使いに語られた神の美しいみことばを信じた瞬間、イエスが宿りました。同様に、信仰を通して、義人は心に美しい福音を宿します。
「あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ」 (イザヤ 9:4)。サタンは私たちの生活の中で、すべての苦痛、病気、抑圧を引き起こしましたが、私たちがサタンに打ち勝つにはあまりに弱いのです。しかし、神は私たちを愛しておられるので、サタンと戦って、サタンを打ち負かしました。
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は 『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』 と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」 (イザヤ 9:6-7)。
神は、イエスがもたらした美しい福音を通して、私たちを神の子どもとして栄光を与えることを約束なさいました。神は、ご自分の約束に従ってサタンを打ち負かし、サタンの力から私たちを救い出されました。
主は地上に来られ、罪のすべての闇を取り除くことを、神の力で約束なさいました。ですから、私たちはまた、主を素晴らしい方と呼びます。主は、私たちのために、多くの素晴らしいことをなさいました。人の子として、この世に来られるという神のご決定は、神秘的でした。「さあ、来たれ。論じ合おう。…たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」 (イザヤ 1:18)。
主は、私たちを罪からお救いになり、永遠の赦しを与えると約束なさいました。イエスは不思議な方と呼ばれ、それに応じて、主は私たちのために奇跡的なみわざをなさいました。「その名は、...助言者、力ある神...と呼ばれる。」 神は、私たちの助言者として、美しい福音による救済をご計画になり、私たちを罪から永遠にお救いになるために、神のご計画を実行なさいました。
神の愚かさは、人間より賢いです。イエスが、私たちをすべての罪からお救いくださるために、ヨハネからバプテスマを受け、十字架で死ぬことは、イエスのための神の知恵でした。これは、神が私たちのためになさった不思議なみわざですが、愛の律法が私たちをすべての罪から救ったのです。愛の律法は、水と血を通して私たちに聖霊を受けるように導く真理の福音です。
イザヤ書 53:10 で、主はおっしゃいます。「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」 イエスは、神のみこころを行なうために、ご自身の魂を罪のためのいけにえとなさいました。神は、世の罪をご自分の子イエス・キリストに移し、イエスが世の罪のために裁かれるために、イエスに十字架の痛みを負わせました。これが、人類をただ一度で罪からお救いくださった美しい福音です。キリストは、私たちのためにご自分のいのちをささげ、罪の報酬を支払われ、救済で私たちを祝福なさいました。
 
 
神のいけにえの制度
 
イエスは、ヨハネによるバプテスマを通してどれほど多くの罪を背負われたのか。
初めから終わりの時までの過去・現在・未来の罪

聖書は、かつて日ごとの罪の赦しをもたらした罪のためのいけにえについて教えています。罪人は、自分の罪を移すために、傷のない動物を連れて来て、動物の頭に手を置かなければなりませんでした。それから、その人はいけにえを殺し、その血を祭司に渡さなければなりませんでした。祭司は動物の血の一部を取り、全焼のいけにえの祭壇の角につけて、その血はみな祭壇の土台に注ぎました。
このようにして、その人は日ごとの罪を赦されました。按手は、罪人が自分の罪をいけにえに移す方法でした。いけにえの制度に従って、いけにえをささげた者は、罪の赦しを受けることができました。いけにえの制度は、イエスがすべての罪を取り除く前の時代に、人々が罪を贖った方法でした。
神はまた、イスラエルの民が一年の間に犯した罪を贖うことができるように、贖いの日を定められました。いけにえは、第七の月の十日に起こりました。神は、大祭司であるアロンを、すべてのイスラエル人の年ごとの罪をやぎに移す者として任命なさいました。この儀式は、神のご計画に従って行われました。罪の赦しは、神の知恵と人類への愛から来たのです。これが神の力です。
「全焼のいけにえの祭壇の角」とは、人類の罪が記録されている「裁きの書」 (黙示録 20:12) の略です。祭司が全焼のいけにえの祭壇の角に、罪のためのいけにえの血を塗った理由は、裁きの書に記された名前とそのそむきを消すためでした。血は、すべての肉のいのちです。いけにえがイスラエル人の罪を取り除かれ、罪の報酬を支払うために、やぎが殺されました。神は、彼らの罪の裁きを受け入れるために、いけにえの動物を彼らに殺させました。これが、私たちに対する神の知恵と愛のしるしでした。
イエス・キリストは、神のご計画を成し遂げるために、罪のためのいけにえとして、この世に来られました。イエスは、いけにえを通して世の罪を取り除かれました。この約束のみことばを見ると、「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった」 または「彼は世の罪を取り除いた」とわかります。
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は 『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』 と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」 (イザヤ 9:6-7)。
神秘的で不思議なお約束は、イエスが神のみこころを実行なさり、世の罪を取り除くことによって、すべての信者に平和を与えるということでした。神のお約束は愛の約束であり、それによってすべての人に平和をもたらすことをご計画なさいました。これは神が私たちに約束なさったことであり、これは神がなさったことです。
マタイの福音書 1:18 には、次のようにあります。「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」 「イエス」とは、ご自分の民をその罪から救ってくださる救い主を意味します。「キリスト」とは、油そそがれた王を意味し、王であられるイエスは罪を犯されませんでした。イエスは、罪からご自分の民をお救いになるために、処女から生まれた私たちの王であり、救い主です。
「『マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった」 (マタイ 1:21-22)。
 
 
イエスはバプテスマを通して世のすべての罪をご自身に背負われた
 
マタイの福音書 3:13-16 には、次のように記されています。「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』 ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』 そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」
バプテスマのヨハネが、この聖句に登場します。なぜイエスは、ヨハネからバプテスマを受けなければならなかったのでしょう。イエスは、世のすべての罪を負い、神のご計画に従ってすべての罪を取り除くために、バプテスマを受けなければなりませんでした。
「主権はその肩にある」 (イザヤ 9:6)。ここで「主権」とは、イエスが天の支配者として、世の王としての権威と力を持っているお方であることを意味します。これは、イエス・キリストだけに与えられた権威です。イエスは、人類の罪をすべて取り除くために、不思議なことをなさいました。この不思議なこととは、イエスがヨハネからバプテスマを受けられたことでした。イエスが、「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」 とおっしゃったのは、世の罪をすべて取り除くことは正しいことであり、ふさわしいということです。
ローマ人への手紙 1:17 には、次のようにあります。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」 神の義は福音に啓示されています。水と御霊の真の福音は、本当に神の義を啓示しているでしょうか。そうです。真の福音は、イエス・キリストがバプテスマと磔刑を通して、世の罪をすべて取り除いたということです。水と御霊の福音は、神の義が啓示されている美しい福音です。イエスは、どのようにして世の罪を取り除いたのでしょう。ヨルダン川でヨハネがイエスにバプテスマを授けたとき、イエスは世の罪をすべて取り除かれました。
「すべての正しいこと」とは、ギリシャ語で、 “pa'san dikaiosuvnhn” です。これは、イエスが人類の罪をすべて最も公正で、すばらしい方法で取り除かれたことを意味します。それは、イエスが世の罪をすべて清めることは、絶対に正義と公正だったことを意味します。イエスは、世の罪を消すために、ヨハネからバプテスマを受けなければなりませんでした。
神は、人類に平和をもたらすために、イエスのバプテスマが絶対に必要であることをご存じでした。イエスがヨハネからバプテスマを受けることもなく、十字架で血を流されることもなかったなら、イエスは私たちの救い主になれなかったでしょう。イエスは、世の罪をすべて取り除く、罪のためのいけにえとして仕えました。
イザヤ書 53:6 で、神は次のようにおっしゃいます。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」 イエスは、神のみこころを行なうために、世の罪をすべて引き受けなければなりませんでした。これが、イエスが人の肉において罪のためのいけにえとして来られ、ヨハネからバプテスマを受けた理由です。
イエスは、人類のすべての罪を受けられ、神のご計画を成し遂げられ、永遠の愛を表現できるように、人類の罪のために裁かれなければなりませんでした。イエスがバプテスマの後、水から出られた時、神は、おっしゃいました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」 (マタイ 3:17)。
 
 
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれた
 
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は 『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』 と呼ばれる」 (イザヤ 9:6)。イエスは、神の御子です。イエスは、全宇宙を創造なさった創造の神であられます。全能の神の御子であられるだけでなく、創造主であり、平和の王でもあります。イエスは、人類に幸福をお与えになった神であられます。
イエスは、真理の神であられます。神は、私たちの罪をすべて取り除かれ、私たちを救われ、平和をお与えくださいました。この世に罪はあるのでしょうか。いいえ、罪はありません。罪がないと自信を持って言えるのは、イエスがバプテスマと十字架での血とによって、世の罪をすべて洗い流されたという美しい福音を信じているからです。イエスは、私たちに嘘をつきませんでした。イエスは、バプテスマと血で罪の報酬を支払われました。イエスは、これを信じていたすべての人を神の子どもになさり、私たち全員に平和をお与えくださいました。イエスは、私たちを聖なる者とされた子どもとして、信仰において永遠に生きるようにしてくださいました。主をほめたたえ、感謝します。
 
 
見よ、世の罪を取り除く神の小羊
 
ヨハネの福音書 1:29 には、次のようにあります。「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』」 イエス・キリストは、バプテスマを通して世の罪をすべて取り除かれた翌日、バプテスマのヨハネの前に再び現れました。バプテスマのヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」 と言って、イエスをあかししました。ヨハネの福音書 1:35-36 で、バプテスマのヨハネは再びあかししました。「その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、『見よ、神の小羊。』 と言った。」
イエスは、神が旧約聖書で約束なさったように、神の小羊として来られたメシヤでした。メシヤであられるイエス・キリストは、不思議な助言者、力ある神として私たちのところに来られ、私たちをすべての罪からお救いくださるために、バプテスマを受けました。ひとりのみどりごが、私たちのために生まれました。彼は、ヨハネによるバプテスマを通して世の罪をすべて引き受け、罪の報酬を支払い、平和とすべての罪の赦しを与える平和の君になられました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
人々はかつて、自分の罪のために死ぬ以外に、選択肢がありませんでした。人間は、罪深い性質のために無数の罪を犯すよう定められており、最終的には地獄に墜ちます。彼らは、悲惨な生活を送っていました。彼らの弱さのために、神の御国に入る夢さえ見ることができませんでした。私たちの神であるイエス・キリストは、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受け、彼らの不正の裁きで十字架につけられたとき、彼らの罪をすべて引き受けられました。キリストは死ぬとき、「完了した」 (ヨハネ 19:30) とおっしゃいました。これは、イエスがすべての人類を罪と死から救われ、美しい福音を信じる人を絶対にお救いになったという、事実のあかしの叫びでした。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」 みなさんは、世のすべての罪がどこにあるか、ご存じですか。すべての罪は、イエス・キリストのからだの上ではありませんか。この世で私たちを卑しくする、すべての罪とそむきは、どこにあるでしょう。それらはすべて、イエス・キリストに移されました。私たちのすべての罪は、どこにあるでしょう。すべての罪は、イエス・キリストの肩の上に置かれました。すなわち、全能の神の肉に移されたのです。
 
 
誕生から墓までのすべての罪
 
私たちは、人生を通して罪を犯します。私たちは、生まれた日から20歳になるまで罪を犯しました。20 年間に犯した罪は、どこに行ったでしょう。それらは、イエス・キリストの肉に移されました。21 歳から 40 歳の間に私たちが犯した罪も、イエスに渡されました。人が何年生きていても、人生の初めから終わりまでに犯した罪は、イエス・キリストに移されました。アダムからこの地上の最後の人まで、人類が犯した罪はすべて、イエスに移されました。私たちの子供や孫の罪でさえ、すでにイエスに渡されています。すべての罪は、イエスがバプテスマを受けた時、イエスに移されました。
この世界にはまだ罪があるのでしょうか。いいえ、残っていません。イエス・キリストが私たちにくださった美しい福音を信じているので、この世に罪は残っていません。みなさんの心に罪があるでしょうか。いいえ。アーメン。私たちは、イエス・キリストが私たちをすべての罪からお救いくださったと告げる美しい福音を信じています。私たちのために、このすばらしいみわざをなさった全能のイエスをたたえます。
イエス・キリストは、滅びた命を私たちに返しました。今、私たちは神とともに生きることができるように、美しい福音を信じています。神の敵であった民、つまり暗い森に隠れることしか選択肢のなかった罪人でさえ、今では美しい福音を信じることによって、罪から救われることができます。
美しい福音は、主がヨハネからバプテスマを受け、十字架につけられ、よみがえられたとき、すべての罪をきれいに洗い流されたことを教えておられます。私たちは、イエスの福音を信じることによって、神の聖なる子どもになりました。イエスは、ご自分のからだを私たちの罪のためのいけにえとしてささげられました。この世で一度も罪を犯したことのない全能の神の御子は、世の罪をただ一度で取り除かれ、神を信じるすべての者をお救いになりました。イザヤ書 53:5 には、次のようにあります。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。」
イエスは、原罪と実際の罪の両方を含む世の罪をすべて取り除いて、ただ一つのそむきも取り残されませんでした。主は、十字架での死で罪の報酬を支払い、それによって私たちをすべての罪から救われました。イエスは、この美しい福音を通して世の罪をすべて洗い流されました。私たちは、イエスを通して新しい命を見つけたのです。この美しい福音を信じる者は、もはや霊において死んでいません。イエスが私たちの罪のすべての報酬を支払われたので、私たちは今、新しい永遠のいのちを持っています。私たちは、イエス・キリストの美しい福音を信じることによって、神の子どもになっています。
みなさんは、イエス・キリストが神の御子であられると信じていますか。また、イエスはみなさんの救い主であられると信じていますか。私は信じています。イエス・キリストは、私たちにとって、いのちです。私たちは、イエスを通して新しい命を見つけました。私たちは、罪とそむきのため、死ぬ定めにありました。しかし、イエスはバプテスマと十字架での死を通して、罪の報酬を支払われました。主は私たちを罪の奴隷と死の力から、そしてサタンのくびきから救われました。
主は、私たちを罪から救われ、イエスを信じるすべての救い主となられた神です。へブル人への手紙 10:10-12、14節、18節を見ると、罪の赦しを受ける必要がなくなるように、主が私たちを聖なるものとなさったことがわかります。私たちは、イエスを信じることによって神の御国に入ります。私たちは、罪とそむきのゆえに死ぬ定めにありましたが、イエスのバプテスマと血とを信じることによって、天国に入り、永遠のいのちを享受することができるようになりました。
「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」 (ヨハネ 10:11)。私たちの主は、バプテスマ、十字架での死、そして復活を通して、私たちを世の罪から救うためにこの世の中に来られました。また、この真理を信じて罪の赦しを受けた者に、内に宿る聖霊をお与えになります。主よ、感謝します。あなたの福音は、信者に内に宿る聖霊を与えることのできる美しい福音です。ハレルヤ!主をほめたたえます。