説教集

主題 8: 聖霊

[8-8] (ヨハネ 7:37-38) 聖霊の生ける水は誰を通して流れるのか

(ヨハネ 7:37-38)
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」
 
 
聖霊の生ける水をだれが飲むことができるのか
イエスのバプテスマと十字架での血の美しい福音を信じる者

聖霊の生ける水は、美しい福音を信じる者の心から流れ出ます。ヨハネの福音書 7:38 には、次のようにあります。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 これは、神がくださった美しい福音を信じる者のために、真の救いと罪の赦しがあることを意味します。
内に宿る聖霊は、いつ起こるのでしょう。イエス・キリストがヨハネによるバプテスマを通して世の罪をすべて取り除かれたと告げる真の福音を聞いて信じるときに、内に宿る聖霊が得られます。すると、聖霊の生ける水を飲むことができます。美しい福音を信じる者は、内に宿る聖霊を持ち、神のみことばを説教したり、聞いたりするたびに、霊的な生ける水が溢れ出し、渇いた心を潤す感覚を経験することができます。
聖霊の生ける水は、すべての罪人を罪から救うために、主がこの世の中に来られたと告げる水と御霊の福音を信じる者の心から流れ出ます。聖霊は、水と御霊の福音から切り離せない真理であり、神のみことばを信じる人々にかかっています。
聖霊の生ける水を飲みたい者はだれでも、イエスのバプテスマと十字架での血の美しい福音を信じることによって、すべての罪の赦しを受けなければなりません。この聖霊の生ける水は、神のみことばを信じる者の心の中に存在します。水と御霊の福音を信じる人々には、川のように流れる聖霊の生ける水が心を流れます。この瞬間にさえ、聖霊の生ける水は、イエス・キリストのバプテスマと十字架での血の美しい福音を信じることによって、罪の赦しを受けている者の心に湧き水のように湧き出ています。
しかしながら、この美しい真理の福音を信じない者の心から流れる聖霊の生ける水は、一滴もありません。水と御霊の福音を信じて認めるまで、私は霊的な生ける水が一滴も心から流れ出ることはありませんでした。当時、私はイエス・キリストを熱心に信じていたにもかかわらず、心に聖霊がおられなかったので、聖霊の生ける水の重要性すら知りませんでした。しかしながら、今では水と御霊の美しい福音があり、聖霊の生ける水は、心から自由に流れ出ています。
今、聖霊の生ける水は私の心から、そして神のみことばを聞いて信じる者の心から流れ出ます。イエスが、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」 とおっしゃったように、聖霊の生ける水は、水と御霊の美しい福音を信じる新しく生まれたキリスト教徒を通して、他の人を癒します。この生ける水は、この瞬間でも、水と御霊の福音への信仰とともに私の心から流れ出て、他の人が飲めるようにしています。神は、聖霊の生ける水を私の心から川のように流れ出させておられます。これは、内に宿る聖霊を持っている者だけが知っていることです。
それを受け取った者以外は誰も知らないと黙示録に記されているように、内に宿る聖霊と生ける水は、水と御霊の美しい福音を知って信じている者だけが知っている秘密です。したがって、聖霊が誰の中に宿るかを知っておくべきです。内に宿る聖霊は、イエスの福音を信じる者だけに与えられることを知っておくべきです。
 
 
かつて私は十字架での血だけを信じていた
 
十年以上にわたってイエスの十字架での血を信じていたにもかかわらず、罪はまだ私の心の中にありました。当時、私は自分の罪はイエスの血によってのみ赦されると信じていました。しかしながら、私はこのような信仰を通して罪の完全な赦しも聖霊の内在も受けることができず、私の生活には混乱と空虚さしかありませんでした。イエスへの信仰を示す唯一のしるしは、私が教会に通っていたという事実でした。
それが、私の信仰を考え直し始めた時です。「私は、本当に聖霊を受けたのか。」 イエスを初めて信じるようになったとき、私の心は神への愛に情熱を傾け、異言の賜物さえも持っていました。しかし、私はどうなったでしょう。この感情を燃やす経験は、内に宿る聖霊のしるしではなく、聖霊をまったく受けていなかったことを悟りました。私はイエスを信じましたが、聖霊と聖霊の生ける水は、私の心の中にありませんでした。
私の信仰は、4カルヴァン主義に基づいていたので、私の心が熱いか冷たいかは重要ではありませんでした。私が本当に答えなければならなかった質問は、次のとおりです。
(1) 聖霊は、私の中に宿っているのか。――いいえ。聖霊が私の中にいるかどうかはわからない。――
(2) 私の中に罪があるか。――はい、ある。―― それで私は、イエスの十字架での血を信じていたにもかかわらず、私には間違いなく罪がありました。イエスを信じて、毎日悔い改めの祈りを言ったにもかかわらず、私はまだ心に罪があったのです。どんなに一生懸命努力しても、私の心にある罪は、決して完全に清められることはありませんでした。
 
4ジャン・カルヴァンによって開始されたキリスト教の解釈の制度です。それは予定説と救いを強調しています。カルヴァン主義の五つの特質は、アルミニウス主義に対する応答として定められました。
カルヴァン主義の教え:
(1) 全的堕落 : 人間はその体・魂・心・感情など全存在が罪に触れている。
(2) 無条件的選び : 神の人間に対する選びは、完全に神の自由意志によるものであり、人間とは全く関わりがない。それは人間には全くふさわしくない。
(3) 限定的贖罪 : キリストは、かつて生きたすべての人間の罪を負ったのではなく、救いに選ばれた者の罪だけを負われた。
(4) 不可抗的恩恵 : 救いへの神のお召しには抵抗できない。
(5) 聖徒の堅忍 : 救いを失うことは不可能。
 
しかし、これらの教えと、水と御霊の福音との間には、とりわけ限定的贖罪に関して、その教えを明確に識別することができます。
「内に宿る聖霊をどのように受けることができるか。」 「どのように心にある罪を洗い流すことができるか。」 こうしたことは、イエスを信じるようになった後でも、私が頭に抱えていた二つの悩みの種でした。イエスを信じるようになった後、私は異言で話しました。また、イエスの血への信仰のおかげで私の罪が清められたと信じていました。
しかしながら、時間が経つにつれて、ますます多くの罪が私の心に積み重なりました。私は罪に満ちていました。悔い改めの祈りや断食は、イエスの血だけに頼っている限り、心の罪を洗い流すことができませんでした。私は、行ないの罪について長い間当惑していました。当惑すればするほど、イエスのメッセージを他の人にもっと激しく説きました。また、私は教会にもっと定期的に出席し、イエスの血に頼って、イエスに仕えることに専念しました。
しかしながら、時間が経つにつれて、私の心にある実際の罪が、真の信仰を持つことから私を妨げていました。イエスを信じるのは、かつてないほど困難でした。私は、イエスの血にもっと頼ろうとし、最善を尽くし、神への献身を増しました。しかしながら、私の心の空虚さが大きくなりました。このような信仰により、私は空しく無気力になり、外見だけを気にする偽善的なキリスト教徒になりました。「イエスを信じることは誰にとってもそうであり、それは私だけではないのだ!」と自分自身に問いかけました。私は、自分の信仰が誤った方向に導かれたことを否定しようとしました。しかし、イエスの血と悔い改めの祈りは、私の実際の罪をすべて洗い流すことができませんでした。
それでは、実際の罪はどの信仰によって清められるのでしょうか。私の実際の罪は、イエスがヨルダン川でバプテスマを受けたときに、すべての罪がイエスに移されたという信仰を通してのみ、洗い流すことができました。これは、マタイの福音書 3:13-17 に記されていることです。では、なぜ私の実際の罪は、イエスの血によって洗い流されなかったのでしょうか。イエスに対するヨハネのバプテスマの意味が含まれている美しい福音を知らなかったのです。
これは、世の罪がすべてイエスのバプテスマを通して洗い流されたことを意味しているでしょうか。はい、そうです。聖書で、人は、水と御霊によって新しく生まれない限り、神の国に入ることができないと告げて、これをあかししています (ヨハネ 3:3-5)。イエスは、この世の中に来られ、ヨハネによるイエスのバプテスマを通して世の罪をすべて引き受けられました。
私は、まだこれについて疑っていて、これを明確にするために、旧約聖書と新約聖書を比較しました。その結果、確かに真実であることがわかりました。世の罪はすべて、イエスがバプテスマを受けたときに、イエスに移され、そのとき私の罪もすべてイエスに移されました。私は、こうしたみことばへの信仰によって、聖なるものとなりました。これが聖書に記されている真理のみことばであり、世で最も美しい福音であることを悟りました。
さらに、私はイエスの血だけを信じて罪が消されない理由に気づきました。その理由は、ヨルダン川でのイエスのバプテスマの真理を知らなかったときに、イエスに実際の罪を移すことができなかったからです。私は、ついに真理に会いました。イエスは、私のためにこの世の中に来られ、バプテスマを通して世の罪をすべて取り除かれ、後に世の罪から私たちを救うために、十字架につけられたことを学びました。また、イエスのバプテスマと十字架での血の目的は、世の罪をすべて取り除くことであったという真理を学び、信じました。今、私はイエスが私たちに与えてくださった美しい福音への信仰のおかげで、また私のすべての罪が赦されたので、義人です。
私の罪を消し去ったのは教会の教義ではなく、イエスのバプテスマと十字架での血でした。この真理は、美しい福音の中にありました。私はすべての罪から救われ、イエスの血だけへの信仰によるのではなく、イエスのバプテスマと十字架での血が、私の救いであるという信仰を通して、義人になりました。
もう一つ感謝しなければならないのは、美しい福音を信じ始めた後、神の聖霊が私に臨まれたことです。今、聖霊は、ヨハネによるイエスのバプテスマと十字架での血のみことばとともに、私のうちに宿っています。
この美しい福音をくださり、イエスの使徒たちと同じ信仰を私に説いてくださった主に、感謝します。私がした唯一のことと言えば、美しい福音を信じることでしたが、神は私に聖霊を賜ってくださいました。今、私はこのメッセージを世界中のすべての人々に大きな名誉と確信をもって伝えることができます。確かに、イエスの血だけを信じても罪を消し去ることはない、とすべての人に言うことができます。
しかし、ヨハネによるイエスのバプテスマと十字架での血とを告げる美しい福音を信じる場合にのみ、人々の罪はすべて確実に洗い流されることを言うことができます。この美しい福音を宣べ伝えるとき、私は神の前で少しも恥をかいていません。私は今、世のすべての人々に、水と御霊によって新しく生まれる、この美しい福音を立派に宣べ伝えることができます。主に感謝をささげます。水と御霊の福音を与えてくださって、聖霊の生ける水を飲ませてくださった主に感謝します。
 
 
臨床試験は、真の福音が水と御霊の福音であることを示す
 
みなさんは、ほんとうに罪の赦しと内に宿る聖霊を受けましたか。みなさんは、どのように福音がほんとうに真実であるかどうかを見分けることができるでしょう。かつて、イエスから与えられた美しい福音を信じようとしていた人々に対して、試験を行ないました。私は、一人の人にイエス・キリストの十字架での血だけのメッセージを説きました。私はまた彼に、イエス・キリストには罪がないはずだと言いました。別の人には、ヨハネによるイエスのバプテスマと十字架での血の美しい福音を説きました。その結果、イエスの血だけを信じて罪の赦しを受けた人は、実際の罪を継続的に赦されなければならないと言いました。しかし、その一方で、イエスのバプテスマと血の美しい福音を信じた人は、今や完全に罪のない人になったと言いました。
彼は、イエスがすべての罪を取り除き、そうした罪のために裁かれたという真理を信じたので、心には罪がなくなったと言いました。この人は、ヨハネによるイエスのバプテスマが世の罪をすべて洗い流したと告げる美しい福音を信じたので、神から聖霊を受けることができました。
この人が、心の中に罪がもはやなくなったと言えたのは、美しい福音への信仰を通して、心の中に聖霊を受けたからでした。聖霊は、彼に心の中に罪はないと告げる確信をお与えになりました。神は、ヨハネによるイエスのバプテスマと十字架での血を信じるすべての人に、内に宿る聖霊をお与えになります。誰に聖霊が宿るのでしょう。聖霊は、ヨハネによるイエスのバプテスマと十字架での血の美しい福音を信じる者への賜物として与えられます。
ただ五旬節の日に表面的な現象を見ることは、多くの人々に聖霊を受けることについての真理を誤解させ、美しい福音を捨てさせました。人々は、必死に祈って聖霊を求めるなら、内に宿る聖霊を受けることができると考えています。長い間、世界中のキリスト教徒は、イエスのバプテスマと血の美しい福音を信じるだけで聖霊を受けることができると告げた、真理について少しも考えていませんでした。しかしながら、今は水と御霊の福音への信仰を通して、内に宿る聖霊を受けた多くの神のしもべたちは、聖霊の助けを借りて、福音を宣べ伝えています。その結果、世界中の多くの人々が、この美しい福音を受け入れ、内に宿る聖霊を受けることを学びました。
神は、この美しい福音を信じる人々が内に宿る聖霊を経験するようになさいます。聖書には、次のようにあります。「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」 (使徒 2:17)。しかしながら、美しい福音を知らずに、内に宿る聖霊を受けようとするのは、間違いであることを知っておくべきです。ヨハネによるイエスのバプテスマと十字架での血とを信じる以外に、内に宿る聖霊を受ける方法はありません。
神は、人が水と御霊によって新しく生まれたときにのみ、天の御国に入ることができ、新しく生まれた者だけが聖霊の賜物を持っているとおっしゃるので、天の御国に入るために誰もが内に宿る聖霊を必要とすることは間違いありません。水と御霊の美しい福音を信じずに、聖霊を受けることや天国に入ることを、どうして考えられるでしょう。美しい福音を信じる以外に、天国への道はありません。イエスのバプテスマと血の福音を信じることによってのみ、聖霊を受けることができます。物を買うときにお金を払うように、美しい福音を信じるときに内に宿る聖霊を受けます。
ほんとうに内に宿る聖霊を受けたいなら、まず水と御霊の福音を知り、信じなければならないことを伝えたいと思います。そうすれば、聖霊を受ける経験をするでしょう。水と御霊の美しい福音を信じることによってのみ、内に宿る聖霊を受けることができます。神は、みなさんに内に宿る聖霊を賜ることを望んでおられます。
私は美しい福音を信じており、時間が経つにつれて、神が私に与えてくださった美しい福音が、世界で最も美しく貴重なものであると、さらに強く感じます。神に感謝したいと思います。みなさんも同じように感じておられますか。私たちは、聖霊を受けている者が神に大いに祝福されていることを悟ります。
美しい福音を信じることによって、内に宿る聖霊をどのように受けることができるかというメッセージをお伝えしています。人々は、水と御霊によって新しく生まれる、この祝福された美しい福音を受け入れることによってのみ、内に宿る聖霊を受ける資格を得ることができるのです。
ヨハネの福音書 7:38 で、イエスはおっしゃいました。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 これは、イエス・キリストがお与えになった美しい福音を信じることによって、すべての罪の赦しを受ける人々が、内に宿る聖霊を持っていることを意味します。聖霊の生ける水は、彼らの心から川のように流れ出ます。この美しい福音を信じる人々は、霊的な生ける水から流れ出るのを経験します。
水と御霊の福音を通して新しく生まれる前、私はイエスの信心深い信奉者であったにもかかわらず、心から流れ出る聖霊の生ける水はありませんでした。しかしながら、水と御霊の美しい福音を信じるようになった後、聖書に記されているように、生ける水が心から自由に流れ始めました。この瞬間でさえ、聖霊の生ける水は、神が私にくださった水と御霊の福音とともに流れ出ます。聖霊の生ける水は、年中ずっと私の心から豊かに流れ出ています。私は、内に宿る聖霊を受けた後、美しい福音を宣べ伝え、伝道者の仕事を始めました。
 
 
美しい福音を信じ、内に宿る聖霊を受けた後の私の信仰告白
 
20代前半の秋の終わりの直前でした。その秋は、特に私の死の必然性について考えさせられました。その年の私の生活は、心の罪による混沌、空虚さ、やみに見込まれました。どちらの道に曲がればいいか分からず、私は間違った方向に動いていました。私の体は、ずっと病気になり、私の心の空虚さは高まっていました。
私の罪のため、私は完全に絶望して、さらには原因さえ確信していませんでした。私の人生の突然の終わりに神の裁きを待ち、罪の赦しを請う以外に選択肢はありませんでした。「ああ、主よ、私は死ぬ前にあなたへの信仰を通して罪の赦しを受けたいです。また、私の体の病気を癒してください!」 私は祈りに祈りを重ねました。
ちょうどその時、私の絶望的な心の底から新しい希望が注ぎ出されました。私の心は、神への憧れで満たされ、火の玉のように暑かったです。それは絶望ではなく、私の希望を燃やすような新しい希望でした。その日から、私は罪から私を救うためにイエスが十字架で死なれたと信じて、新しい宗教生活を始めました。
それから間もなく、私は異言で話す経験をしました。イエスが十字架で流した血について考えた後、私は涙を流し続けました。イエスが私のために十字架で血を流されたことに感謝しました。
その出来事の後、私は昔の生活を捨て、聖なる日曜日を守ることができる新しい仕事を得ました。当時、私の心はイエスへの愛に満ちていて、イエスが十字架で血を流して罪から救われたと感じる度に、感謝の気持ちで溢れていました。私の宗教魂は成長し始めましたが、それは専らイエスの十字架の血の言葉に基づいていました。
しかしながら、時間が経つにつれて、私の弱点と実際の罪のために、私の宗教生活は苦しみに悩まされ始めました。私の信仰は、イエスの十字架での血だけにあったので、私の実際の罪はすべて完全には洗い流されていませんでした。私は、悔い改めの祈りを通して実際の罪を洗い流そうとしました。しかしながら、神の許しを達成することを願って私がささげた祈りは、実際の罪を完全に洗い流すことができませんでした。神の律法を守ることができなかったからです。私の実際の罪が積み重なり始めました。
私の罪は、悔い改めの祈りを通して完全に洗い流されていないにもかかわらず、こうした祈りを唱え続ける以外に選択肢はありませんでした。私は、罪を犯すたびに、悔い改めの祈りとイエスの十字架での血について考えることによって、罪を洗い流すことができると信じていました。宗教生活を続ければ続けるほど、弱さのために実際の罪が積み重なっていきました。私の苦しみは、こうした罪のためにのみ増大していきました。
私は、偽善のキリスト教徒になりつつあり、罪の重荷に関係なく執事に任命され、後に伝道者に任命されました。これが私の魂を清める唯一の方法だと思い、実際の罪の痛みを感じるたびに、私は福音を宣べ伝えに行きました。しかし、私の実際の罪は、教義と自己犠牲に基づく、このような信仰によって洗い流されませんでした。
私は、サタンに捕らえられた経験さえありました。私は実際の罪のために非難され、そむきのために死ぬ衝動さえ感じました。「あなたは罪を犯しましたよね。」 サタンは私の罪で私を非難し、苦しめ続けました。
私の信仰は崩壊寸前でした。イエスの血への信仰と悔い改めの祈りだけでは、実際の罪を洗い流すことができないことを悟り、やがて欲求不満の状態にいるのに気づきました。
神学校でカルヴァン主義を学び、ヨハネによるイエスのバプテスマの理由に興味を持つようになりました。ヨルダン川で、イエス・キリストがヨハネからバプテスマを受けた理由を、多くの教授に尋ねました。しかし、彼らの答えは、イエスが謙虚さを示すためにバプテスマを受けた、またはイエスが神の御子であったことを告げるなど、型にハマったものでした。しかしながら、こうした答えは、私の好奇心を癒すには十分ではありませんでした。
 
 
ヨハネによるイエスのバプテスマの真理は、私に美しい福音を認めさせた
 
神学校で過ごした後、私の罪はまだ洗い流されておらず、私はかつてないほど罪の重荷に苦しみました。それからある日、私はイエスがバプテスマを受けた理由と、すべての正しいこと(義)がこの行ないを通して成就されるとおっしゃった理由を理解するようになりました。私の罪がすべて、ヨルダン川でのイエスのバプテスマを通して、イエスに移されたと告げたのは、美しい福音でした。神は、記されたみことばを通して、私にこの真理を悟るのを助けてくださいました。
美しい福音が記録されている神のみことばを読み、そして読み直した後、私はすべての罪がヨハネによるバプテスマを通して、イエスに移され、そうした罪のために十字架で裁かれたという真理をついに認めたのです。
これは、内に宿る聖霊がほんとうに私のところに臨まれたことを悟った時でした。この美しい福音を理解し、信じた後、私の心の罪はすべて完全に赦されました。私を欲求不満と絶望に陥れた罪は、美しい福音の力によって完全に洗い流されました。私の終わりのない自己犠牲と悔い改めの祈りにもかかわらず、消されなかった罪は、一度ですぐに完全に消えました。主に心から感謝します。
世の罪はすべて、イエスの十字架での血を通してのみ洗い流すことができなかったと私が言うとき、私は真理を話します。ヨハネによるイエスのバプテスマはまた、罪の赦しに導きました。今では、水と御霊の美しい福音のおかげで、すべての人の罪が洗い流されたことを誰もが理解し、信じるべきです。私は、水と御霊の美しい福音と、神が御子についてあかしされた神のあかしのみことばが、私の心からすべての罪を追い出すのに十分でした。美しい福音への信仰の結果、鳩のような聖霊を受けました。
その日から、聖霊が私に霊的なわざをするように、つまり美しい福音を宣べ伝えることができるようになさって、私の心の中で働かれます。今、私の心には罪はありません。ヨハネによるイエスのバプテスマと十字架での血は、私の罪の赦しをあかしし、内に宿る聖霊を受けるように導きました。ハレルヤ!主をほめたたえます。聖霊は、鳩のように静かに私の上に下り、水と御霊の福音を信じるようになった日から私の中に宿り始めました。聖霊は、私の心の中で、時には鳩のように、別の時には高炉のように働き始めました。
今、みなさんも水と御霊の美しい福音を受け入れて信じるなら、内に宿る聖霊も受けることができます。私とともに水と御霊の美しい福音を信じて、聖霊を受け、主をほめたたえたくありませんか。水と御霊の美しい福音を全世界に宣べ伝えることにおいて、私とともに働きたくありませんか。水と御霊の美しい福音は、みなさんを聖別し、内に宿る聖霊を与えます。福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませます。そういうわけで、内に宿る聖霊は、水と御霊の美しい福音への信仰を通してのみ、与えられるのです。
 
 
聖霊が私のためにしてくださった素晴らしいこと
 
内に宿る聖霊を受けた後、美しい福音を宣べ伝えるために、新しい教会で働き始めました。聖霊によって、美しい福音を力強く宣べ伝えることができました。
このとき、次の事件が発生しました。私が住んでいた街には、外国の買い手と取引をする仕立屋がいました。この人は執事でした。彼は、かつて誰かとビジネスをするために、地元のホテルに立ち寄り、そこで私たちのポスターを見ました。彼は招待状に魅了され、私に連絡しようとしました。彼は私と会い、長い間罪の中に生きていたと言いました。水と御霊の福音に関する五時間のカウンセリングの後、彼はついに罪の赦しの真理を認めました。彼は、新しく生まれるようになり、その時に内に宿る聖霊も受けました。
教会の建物を探しに出かけたときに起こった別の話があります。素晴らしい広々とした建物を見つけました。でも当時は、教会の建物として借りるのに十分なお金がありませんでした。私の見積では、大きな不足のために、私にとって建物を借りることは不可能に思えました。しかしながら、私の中の聖霊は「強くあれ、確信をもて!」と告げました。驚くべきことに、私は教会の建物を手に入れ、聖霊の助けのおかげで神のみわざをすることができました。聖霊は、その時から水と御霊の美しい福音を私に宣べ伝えるようにさせました。私の心に宿る聖霊は、この瞬間でも私とともにおられ、すべての人々に美しい福音を宣べ伝えるように掻き立てられます。そして、この美しい福音を聞いて信じる者が、内に宿る聖霊を受けるのがわかります。
この美しい福音を宣べ伝える能力を、与えてくださった聖霊に感謝します。私は、全生涯でさえ、聖霊が私のためになさったすべてのことについて書くには、不十分であることを知っています。聖霊は、心から自由に流れ出ている生ける水で、私を生かせてくれます。私の中に宿る聖霊に感謝します。
 
 
聖霊は、水と御霊の福音を通して聖霊とともに歩む教会を植えた
 
一度、私は荒野に出て、美しい福音を宣べ伝えました。その時、神は私を小さな町に導かれ、私は神を探している人々の小さなグループに会いました。神は私に、彼らに美しい福音を宣べ伝えさせ、それが彼らに内に宿る聖霊をもたらしました。彼らはまた、美しい福音を聞いて信じることによって聖霊を受けました。聖霊は、彼らを私の同僚に導かれ、私はこの美しい福音を彼らとともに世界中に宣べ伝えるようになりました。
当時、彼らはほんの少数の人々であり、宗教団体に属していませんでした。彼らは、神のみことばによって生きることを望んでいましたが、罪への奴隷制のため、罪の赦しを必死に神に叫びました。聖霊は私をこの人々のグループに導かれ、この美しい福音を宣べ伝えるように、私を駆り立てました。聖霊が、彼らと私とが互いに出会う準備をしていたことが分かりました。神は私に、レビ記に記されている「いけにえの制度」から始めて、水と御霊の美しい福音を宣べ伝えるようにさせ、人々は美しい福音のみことばを通して聖霊を受けました。
神は、美しい福音の信者たちとともに聖霊の教会を設立されました。聖霊は彼らを、美しい福音を通してイエスの弟子たちに任命なさいました。今、ますます多くの羊が聖霊を受け、教会に入り始めています。
聖霊は私に、伝道学校を立ち上げ、弟子を育てるように導きました。聖霊は私に、人々に神のみことばを教えるのを助け、彼らが信仰によって従うことを学び、神の働き手として仕えるのを助けました。聖霊は、美しい福音の働きが、彼らの行く先々で起こることを許し、神は彼らを通して神の教会を植えられました。聖霊は、水と御霊の美しい福音を宣べ伝えるように、神のしもべを導いてきました。聖霊は、罪の赦しを受けた義人を、教会と結びつけ、この世で義なる生活を送るために、祝福されるよう導かれました。
サタンは、太古の昔から人々を欺いてきましたが、これからもそうし続けるでしょう。サタンは、悔い改めの祈り、断食または按手を通して聖霊を受けることができると、人々に言います。これは、まったく真実ではありません。人々は、悔い改めの祈りや按手を通して聖霊を受けることはできません。彼らは、神が私たちにくださった水と御霊の福音を信じることによって、罪をすべて赦されたときにのみ、聖霊を受けることができるのです。これが内に宿る聖霊の真の意味です。聖霊は、人々が内に宿る聖霊を受けるのを助けるために、イエス・キリストの弟子たちを水と御霊の美しい福音を継続的に宣べ伝えるように、私を導かれました。
 
 
聖霊は私たちを世界的な文書宣教に導いた
 
パウロが自分の手紙に美しい福音を残したように、私の心に宿っている聖霊は、水と御霊の美しい福音を書面で宣べ伝えるきっかけとなりました。これこそ私たちが、信者が聖霊を受けるように導く美しい福音を含むキリスト教徒の本を出版する理由なのです。最初は、ほんの数ページの小型の書物から始めましたが、すぐに美しい福音を成している本が世界中に広まりました。
私の中に宿る聖霊は、本を読んで、美しい福音を信じることによって罪の赦しを受けた後、ますます多くの人々を教会に導きました。さらに、聖霊は私たちを様々な外国語で美しい福音を宣べ伝えるように導いてくださいました。聖霊は私たちに、米国を含む世界約150ヵ国で美しい福音を宣べ伝えるように導きました。
聖霊は、教会に世界宣教のために祈るよう駆り立て、多くの異なる外国人が福音を聞いて信じられるように、美しい福音をさまざまな言語に翻訳し、文書宣教を通して宣べ伝えるように導きました。聖霊は、私を他の国の新しい弟子たちとともに働き、彼らとともに美しい福音を宣べ伝えるように導かれました。聖霊に感謝します。
聖霊は、ロシアで福音を宣べ伝えたいという熱意で私を満たしました。聖霊は私たちを、祈るように導き、真理を求めるロシアの伝道者に会わせ、彼らに美しい福音を宣べ伝える機会を与えてくれました。それは、彼らが初めて美しい福音を聞いた時でした。彼らは、水と御霊の美しい福音を聞いて信じた後、私たちと同じように聖霊を受けました。
そのうちの一人、モスクワの国立大学の教授は、水と御霊の美しい福音を聞いた後、私にこの告白を申し出ました。
「私は 6 年間、神を信じていましたが、神を本当に理解せずに信じていました。しかしながら、水と御霊の美しい福音について聞いた後、私は心に強い信仰と穏やかな安らぎを感じました。本当に主に感謝します。それまでは、正しい信仰を通して宗教生活を送っていると思っていました。私の宗教生活は、私たちの罪のために死んだイエスの血を信じることだけから成っていました。しかしながら、神が私の罪をすべて清められたとは思いもしませんでした。
それから私は、新しく生まれた牧師たちにお会いし、神が私たちに与えてくださった美しい福音について聞き、私はまだ罪人であることを学びました。私は美しい福音について、また義人とはどういう意味かについてもっと調べようとしました。私は、イエスがバプテスマを受けたときに、すべての罪がイエスに渡されたことを悟りました。それは美しい福音でした。私は、原罪だけでなく、私の日ごとの罪と将来の罪がすべて、イエスのバプテスマを通して、イエスに移されたことを悟ったのです。この真理の福音を聞いて信じることによって、新しく生まれることの大きな幸福を得ました。」
この教授を含む多くのロシア人は、水と御霊の美しい福音を聞いて信じることによって、聖霊を受けました。現在、聖霊の教会がそこに植えられており、聖霊のみわざを通して、ますます多くの人々が美しい福音を信じるようになりました。神は、こうしたすべてのことをなさったので、私は聖霊に特別な感謝をささげます。
私のうちに宿る聖霊は、水と御霊の美しい福音を信じるすべての人々と同じように、私を新しく生まれさせ、今では世界に美しい福音を宣べ伝えています。聖霊は、美しい福音に関する私たちの本を英語だけでなく、世界中の多くの言語に翻訳し続けました。聖霊は、私たちに世界中でこの美しい福音を宣べ伝えさせました。聖霊に感謝します。みなさんも内に宿る聖霊を受けることができます。神は、みなさんに内に宿る聖霊を持つように望んでおられます。
多くの人々は、神の御名を呼び、必死の祈りを神にささげることによって聖霊を受けようとします。しかしながら、イエスがくださった水と御霊の美しい福音なしで、聖霊を受けようとするのは、間違いです。イエスの水と御霊の美しい福音がなくても聖霊を受けることができると言うのは、偽りの教えです。
イエスの弟子たちは、イエスが彼らにお与えになった美しい福音を信じることなしに聖霊を受けたのでしょうか。いいえ、絶対にそうではありません。今日、聖霊は水と御霊の美しい福音を信じる者の中に宿っており、聖霊の生ける水は、そうした人々の心から流れるということを知っておくべきです。この瞬間でさえ、聖霊の生ける水は美しい福音とともに私の心から流れ出ます。ハレルヤ、主に感謝します。