説教集

主題 8: 聖霊

[8-11] (エペソ 5:6-18) 聖霊に満たされる生活を保持するには

(エペソ 5:6-18)
「むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。ですから、彼らの仲間になってはいけません。あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。―― そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。『眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。』 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」
 
 
聖霊に満たされる生活を保持するために、私たちは何をしなければならないのか。
私たちは自分自身を捨て、十字架を負い、悪い考えを否定し、福音を宣べ伝えることに自分自身をささげなければならない。
 
「聖霊に満たされる生活を保持する」ためには、福音を宣べ伝えることに自分自身をささげなければなりません。聖霊に満たされる生活を送るには、まず聖霊を心に宿らせる祝福を受けなければなりません。内に宿る聖霊を受けるには、このような信仰、つまり、神がくださった水と御霊の福音を信じなければなりません。この信仰を持つことによって、聖霊を私たちの内に宿らせる祝福を受けるのです。
内に宿る聖霊を持つ者は、聖霊に満たされる生活を望んでいるのでしょうか。もちろん、そうです。しかし、なぜ彼らの中に、この生活を送ることができない人がいるのでしょう。その理由は、彼ら自身の問題が神のわざよりも優先されるため、彼らは聖霊とともに歩むことができないということです。聖霊に満たされる生活を保持するには、神のみことばを学び、信じなければなりません。まず聖書を見て、どのような生活と信仰が必要なのかを調べましょう。
 
 
聖霊に満たされる生活を送れない人がいる理由とは何か
 
まず、それは彼らが自分自身を捨てることができないからだと言えます。聖書は、自分を捨てた者だけが主とともに歩むことができると告げています。聖霊に満たされる生活に達することは、自分の力では不可能なので、誰もが自分自身を捨てるために、内に宿る聖霊の信仰を持たなければなりません。内に宿る聖霊を持っている者でさえ、神の御国に対して何らかの関わりを持つことなく、自分を捨てることは困難です。ですから、聖霊に満たされる生活のために、水と御霊の福音に仕えなければなりません。そうしてはじめて、人は自分を捨て、義のしもべとして生きることができるのです。
マタイの福音書 16:24-26 には、次のようにあります。「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。』」
新しく生まれた人々の中に、聖霊に満たされる生活を送ることができない人がいるのは、肉の欲を否定できなかったからです。内に宿る聖霊を持つ人々でさえ、自分の肉の欲を捨てるときにのみ、聖霊に従うことができます。主に従うために、私たちが捨てなければならない肉の生活の多くの側面があります。イエスはおっしゃいました。「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。御霊によって歩みたい人々は、肉の生活を捨てなければなりません。この犠牲を思い切って払う者だけが、聖霊に満たされる生活を保持することができます。これが、聖霊の豊かさの真理です。
みなさんが従いたいのは、主ですか、それとも世ですか。みなさんの選択に従って、聖霊に満たされる生活か欲望の生活かは、みなさんのものになります。みなさんがほんとうに聖霊に満たされる生活を送りたいなら、選択はみなさん次第です。神は、私たちをすべての罪から救われ、内に宿る聖霊の賜物をくださいました。しかし、聖霊に満たされる生活を送るかどうかを決めるのは、みなさん次第です。言い換えれば、聖霊に満たされる生活は、神に定められたものでも、運命づけられたものでもありません。聖霊に満たされる生活は、水と御霊の美しい福音を信じる私たちの意志にのみ、かかっているのです。
 
 
聖霊に満たされる生活を送る意志を持たなければならない
 
聖霊に満たされる生活を送る意志を持つなら、神はそれをお許しになります。神はみなさんを助け、祝福なさいます。しかし、それを望まないなら、聖霊に満たされる生活を諦めなければなりません。
みなさんは、自分の意志によってではなく、水と御霊の福音への信仰によってのみ、内に宿る聖霊を受けることができます。しかし、聖霊に満たされる生活を送り、保持することは、完全にみなさんの意志にかかっています。
したがって、聖霊に満たされる生活を望むなら、自分の意志を調べて、神の助けを求めなければなりません。私たちが本当に聖霊に満たされて生きることを望んでいるなら、神は私たちを祝福なさり、私たちの願いを実現してくださいます。しかし、目標を達成するには、まず肉の欲を否定しなければなりません。
第二に、聖霊に満たされる生活を送るために、私たちは自分の十字架を負わなければなりません。困難な状況にあっても、神のみこころによって生き、歩まなければなりません。これが、聖霊に満たされた義人の生活を送るということです。
第三に、主はおっしゃいました。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」 これは、主に従うことが私たちの生活に関連していることを意味します。確かに、私たちが主に従うなら、私たちの霊と肉は繁栄しますが、主に従わず、自分の生活を送ることを選ぶなら、私たちの霊と肉は滅びます。
私たちは、なぜ聖霊に満たされる生活を送ることができないのでしょう。その理由は、私たちの考え、つまり肉の欲を否定しないからです。私たちがイエスに従うとき、御霊は私たちの内なる自己を強めるため、イエスは私たちをより強い力で導くことがおできになります。
エペソ人への手紙 5:11-14には、次のようにあります。「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。」 キリスト教徒は、実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしてはいけません。むしろ私たちが、実を結ばない暗やみのわざにふけるとき、神はそれを明るみに出しなさいとおっしゃいます。私たちがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことであるため、私たちの暗やみのわざに非難されるべきです。しかし、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
誰がこうした恥ずかしいことすべてを明るみに出し、それについて話すことができるでしょう。他の人、みなさんの兄弟姉妹、または神のしもべがそれを明るみに出せないのなら、みなさんが自分でそれを明るみに出さなければなりません。明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされると言われています。したがって私たちは、自分の悪い行ないを正しくないと認め、自分で、あるいは指導者を通して、実を結ばない暗やみのわざを明るみに出すために、聖霊に導かれなければなりません。
この世で、明るみに引き出されたものはすべて、非難されるだけで終わりますが、神の世界では、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。私たちは、完全には程遠いので、この世で無意識のうちに多くの罪を犯します。しかしながら、私たちが自分に神のみことばの光を当てると、いくつかの罪を意識し、そうした罪を認めることができます。ですから、私たちは神に限りない感謝をささげるようになります。
イエスは、ヨルダン川でバプテスマを受けたとき、罪と咎をすべて取り除かれ、神のすべての義が成就されたので、神の義を通して光によって明らかにされることができます。人類が犯した数十億の罪は、ヨハネがイエスにバプテスマを授けたときに、イエスに移されました。
イエスは、世の罪を取り除かれた神の小羊であり、そうした罪を裁かれるために十字架で死なれ、よみがえられました。イエスは、人類の罪をすべて赦され、「完了した」 (ヨハネ19:30) とおっしゃったとき、人類のすべてが救われました。私たちは、イエス・キリストがなさったことへの信仰を通して、聖なるものとされているのです。私たちは、罪が赦されているので、再び光の中に来て、正しく神に従うことができます。
 
 
神は私たちに機会を十分に生かして用いなさいとおっしゃった
 
パウロは、私たちが聖霊に満たされる生活を送りたいのなら、機会を十分に生かして用いなければならないと告げました。エペソ人への手紙 5:16-17 には、次のようにあります。「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」 聖霊に満たされる生活を送りたいのなら、私たちは機会を十分に生かして用いなければならず、愚かになってはいけません。私たちは、主のみこころは何であるかを、よく悟り、それを実行すべきです。私たちは、どちらがより価値があるかを決めなければなりません。肉に忠実な生活か、それとも神にささげられた忠実な生活かを。
私たちが新しく生まれた後、聖霊が私たちの内に宿ります。私たちが内に宿る聖霊を受けるなら、それは私たちの主人が主であり、主が私たちの王であることを意味します。主だけが私たちの救い主であり、私たちは主が神であられることを絶対に認めなければなりません。主は、私たちの唯一の主人です。主は、私を造られ、罪をすべて赦され、私を祝福なさった主人です。そして、主は私の生と死、祝福や呪いを支配なさる王です。主は主人ご自身であり、神であられることを、私たちは認めなければなりません。ですから、生涯を通して主に従うべきです。
ピリピ人への手紙 2:5-11 から、告げていることを見てみましょう。「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
パウロは述べました。「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。」 パウロは、これがイエス・キリストの心であったと述べました。「そのような心構え」 が、創造主である神であり、父のみこころに従って神の民を罪から救うために、この世に来られたイエスであるというのが、パウロが告げたことです。主は、この世に来られ、ヨハネからバプテスマを通して世の罪をすべて取り除かれました。そして、イエスが十字架で死なれた時、世の罪はイエスとともに根絶やしにされました。イエスはそれから三日目によみがえり、私たちの救い主になられました。
創造主イエス・キリストが、この世に来られた理由は、私たちを救うためでした。イエスは、バプテスマと十字架での血を通して、私たちへの愛をお示しになりました。すべての被造物は、イエスの前にひざをかがめ、イエスが創造主であるにもかかわらず、ご自身を被造物として低くなさることによって、私たちに罪の赦しをお与えになった神の愛に感謝しなければなりません。そういうわけで、すべての被造物は、イエスが真の救い主であることを告白するべきです。イエスは、すべての被造物の主であられるだけでなく、私たちにとって最大限の義の主でもあると、私たちに告白させました。
神を信じ、内に宿る聖霊を持っている私たちは、「神は私にとって唯一の本物の主人である」と信じ、イエス・キリストの愛を心に持たなければなりません。私たちの主人が、私たち自身ではなく、私たちを創造なさり、すべての罪からお救いくださったイエス・キリストであるという信仰を持たなければなりません。そして、主が私たちを祝福された新しい生活を送らせ、私たちのためにすべてを備えてくださり、私たちのために働かれる主人であられるという信仰も持たなければなりません。
新しく生まれた後、主人を取り替えたくない人が大勢います。内に宿る聖霊を持っていても、彼らは自分の主人であると主張する人が大勢います。聖霊に満たされる生活とは、神に従う生活です。このような生活は一日で得られるものではなく、イエスが私たちの生活の主人であり、私たちと宇宙の他のすべての被造物を創造なさったお方であると信じるときにのみ、可能です。私たちを罪からお救いになり、天の御国で永遠のいのちを与えてくださった私たちの主であり、主人でもあり、また神であられるイエスに仕えるためには、信仰を持つことが必要です。
私たちは、心に真理を抱く必要があります。多くの人々が自分自身の主人として生活を送っています。彼らは、自分たちの生活に対する支配権を守って、保持します。しかし、今こそ主人を変える時です。私たちは今、神を知っている人になっているので、私たちの本質的な主人は、主です。
私たちはみな、心の中に罪があり、自分の悪行のために地獄に投げ込まれるべきです。しかし、私たちは水と御霊の福音への信仰を通して、神を見つけました。神は、真の救い主となるために、この世に来られ、ヨハネからバプテスマを受け、十字架で死なれて、私たちの罪をすべて取り除かれたほどに、私たちを深く愛しておられます。そして、神への信仰を通して、私たちはすべての罪から救われました。言い換えれば、私たちは内に宿る聖霊を受けたのです。
聖書には、次のようにあります。「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」 (ローマ 8:9)。私たちが神の贖いを受けたとき、すなわち内に宿る聖霊を受けたとき、私たちは神の子どもになったのです。聖霊は、私たちにとって神であり、聖霊の指示の下で神の義によって歩まなければなりません。そのように生きるためには、私たちは自分自身の支配権を捨てなければなりません。私たちがイエスにお会いし、イエスによって救われた後、私たちは主を唯一無二の主人としなければなりません。
 
 
私たちは心の中の王位をイエスに渡さなければならない
 
私たちは、自分自身を自分の生活の主人と考えるなら、主に従うことはできません。神が私たちに、神に仕えるようにお命じになるとき、私たちが自分自身の主人でなければ、私たちは躊躇せずに「はい」と言うでしょう。そうでなければ、「どうして、あなたのためにそんなことをすべきなんですか」と言うでしょう。自分自身を自分の主人であるとする人は、「主が、私に願うことをするように命令するのではなく、親切にお願いをするべきだ」と考えて、神がその人に望んでおられることを拒否します。そのような人にとって、神のご命令は、無益で煩わしい言葉でしかありません。
しかしながら、聖霊に満たされるためには、神のご命令に従わなければなりません。私たちは、屠殺場に引かれていく牛になることはありませんが、むしろ神に従うことを志願しなければなりません。正しい道に私たちを導いてくださる救い主、神に従わなければなりません。神は、救済とともに私たちを祝福してくださった主です。私たちの主人として主に仕え、主のご支配を保つなら、私たちは聖霊に満たされることができます。みなさんやご家族のメンバーがイエスに王位を渡し、イエスを他の何よりも上に置くなら、みなさんは生活に恵みと祝福があるでしょう。
強い暴風に逆らって航海している人と、イエスがその人のすぐ後ろに立っているような絵を見たことがあるでしょう。私たちが生活の困難を処理し、主のわざをしているように見えるとき、実際に私たちを導き、手を握っておられるのは、主イエス・キリストなのです。私たちの生活をつかさどるのは、全能の神です。神は、私たちを救われました。神は、私たちをサタンから守り、導かれ、私たちの生活を支配しておられます。
主は、私たちの主人になられたので、私たちを監督なさり、祝福なさることができます。しかし、私たちが神を主人として認めないなら、神はその役割を果たすことがおできになりません。神は、人格神であられるように、神は私たちにみこころに従うことを強制なさいません。神が全能の神であるとしても、私たちが神を主人として仕えることを志願し、助けを求めない限り、神は私たちのために何もなさいません。
 
 
主にすべてのものを投げかけよ
 
神が私たちに主の支配権を握ることができるように、すべてのものを神に投げかけてください。神に仕え、神が私たちの主人であると認めてください。私たちは完全には程遠いので、すべてのものを神に投げかけ、すべての責任を神にお渡ししなければなりません。家族や日常生活、その他すべてを神に投げかけると、神から知恵を受け、神が望んでおられるように生きることができるようになり、神がくださった信仰と力で、すべての問題を処理できるようになります。
すると、私たちの問題は、私たちの主人の問題になります。つまり、全能の神イエスにただ従うなら、イエスは私たちのために責任を負ってくださいます。私たちは、聖霊に満たされる生活を送り、神のうちにある平和を享受できるようになります。忠実なキリスト教徒として、私たちは神の前にひざをかがめ、神を私たちの主人と認め、神に仕えなければなりません。
聖霊に満たされる生活を送るためには、どのような信仰を持たなければならないかについて、ピリピ人への手紙 3:3 で告げていることを見ていきましょう。「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」 ここで「割礼の者」が意味することは、神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない人々です。
割礼を受けた者として生きるということは、私たちの心にあるすべての罪を切り捨て、ヨハネからバプテスマを受けたイエス・キリストに、その罪を移すことを意味します。御霊に導かれる者は、御霊のために生きる義務があります。彼らは神に仕え、「イエスは、この輝かしい生活を送るように私を導いてくださった。イエスは、私を義人となさり、祝福してくださった。イエスは私に、神に仕えるのに必要な恵みをすべて与えてくださった」と言って、キリスト・イエスを誇ります。私たちは、このように生きる必要があります。これが、聖霊に満たされる生活です。パウロは告げました。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」 (Ⅰコリント 10:31)。
ピリピ人への手紙 3:13-14 には、次のようにあります。「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」 神は、過去において、私たちのうしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進むようにとおっしゃいました。私たちは目標を目ざして一心に走らなければなりません。私たちの正しい行いや不正行為に関係なく、私たちはうしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、私たちの目標を目ざして一心に走らなければなりません。私たちの目標とは、イエス・キリストを信じて、イエス・キリストにすがる神のみこころに、仕えることです。
私たちは、完璧には程遠いので、肉体の誘惑を感じるとき、倒れそうになります。しかしながら、神を仰ぎ見て、信仰を持つことによって、私たちはすべての弱点や咎を捨てることができます。イエス・キリストがヨハネからバプテスマを受け、十字架で死なれたとき、私たちの罪はすべてイエスに移されました。イエスが復活を通して、私たちの救い主になられたとき、私たちはイエスへの信仰のおかげで、新たないのちを与えられました。したがって、私たちはうしろのものをすべて捨て、ひたむきに前のものに向かって進み、私たちの目標を目ざして一心に走らなければなりません。
 
 
聖霊に満たされる生活を保持するために
 
ひたむきに前のものに向かって進み、より高い目標を目ざして一心に走らなければなりません。過去のあらゆる事柄がみなさんに負担をかけているなら、できる限り早く忘れることができることを願っています。私たちの弱さのためにできないことがたくさんありますが、重要なものは未来にあるので、そうした弱さのためにできないことは無関係です。未来がより重要であるように、私たちは信仰を通して、王位をイエス・キリストにお渡しし、神に導かれなければなりません。将来に私たちがどのように生きるかを神に決めさせ、神に喜ばれることをしなければなりません。
 
 
私たちは、弟子たちがしたように生きなければならない
 
私たちは、罪の赦しへの信仰によって強くなる場合にのみ、聖霊に満たされる生活を送ることができます。これは、とても重要です。テモテへの手紙第二 2:1-10 を見てみましょう。「そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます。私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。」
パウロがテモテに述べたように、聖霊は私たちに告げています。「キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」
「キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」 ここで、恵みによって強くなるということは、神を信じて、すがることによって、水と御霊の福音への信仰を強くしなければならないことを意味します。イエス・キリストは、バプテスマを通してすべての罪を引き受けるために、この世に来られ、十字架で死なれ、復活なさり、私たちの救い主となられました。これは、私たちが神の恵みによって強くなるべきであり、神に感謝すべきであることを意味します。神は、私たちをお救いになり、そのために信仰を通して、救済を神の賜物として受け入れるべきです。これが、罪の赦しの救済です。毎日の早朝祈祷をささげたり、教会の建設のためにお金を寄付したりすることとは、何の関係もありません。それらはすべて、救済を受けるために有害無益です。
罪の赦しによる私たちの救いは、イエス・キリストが私たちの行いに関係なく、すべての罪を負うためにバプテスマを受け、それから私たちのすべてのそむきを消し去るために、十字架で死なれたことを意味します。イエスは、私たちをすべての罪からお救いになるために、復活なさいました。牧師たちは、素人のように、この真理の福音を信じることによって罪を赦されます。このようにイエス・キリストを心から信じる人はだれでも、罪の赦しを受けます。私たちはそのため、救済の恵みに確信を持ち、信仰を強めることができます。
私たちが聖霊に満たされる生活を望むなら、水と御霊の福音への信仰によって強くならなければなりません。私たちの生活には、上手くできない点があり、弱点を抱えている領域があります。そういうわけで、救済の恵みによって強くなるべきです。私たちの欠点が現れるたびに、「神は、水と御霊の福音を通して私を救われた。イエスは、水と御霊を通して私の罪をすべて赦された」と自分自身に言うことによって、私たちの信仰を深く考えなければなりません。私たちは、この福音を信じることによって義人となり、内に宿る聖霊を持つことによって自分を強めます。私たちは、すべての罪から救われ、水と御霊の福音を信じることによって強くなりました。私たちは、信仰を通して祝福された民になりました。
パウロは告げました。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」 (Ⅰコリント 10:31)。これは非常に重要です。それは、自分の生活を神にささげなければならないことを意味します。「食べるにも、飲むにも。」 私たちは、神の働きをするために、食べて、飲んで、神のために強くなるべきです。福音を宣べ伝えるためには、健康のために良いものを食べるべきです。
「兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです」 (Ⅱテモテ 2:4)。みなさんは福音を宣べ伝えるために、聖霊に満たされる生活を送るべきです。私たちが福音を宣べ伝えるために生活を送るとき、忠実な生活を送ることができます。このように忠実な生活を送る者はみな、聖霊に満たされます。聖霊に満たされる生活のために、私たちはみな努力するべきです。みなさんが一生懸命働いて得た献金でさえ、福音のために使われるべきです。
みなさんが聖霊に満たされる生活を保持したいなら、自分を主にささげ、主の礼拝に参加し、福音のためにお金を使い、みなさんのすべての喜びと悲しみを、主と分かち合わなければなりません。このような生活を送りたいなら、私たちは福音を仕えようとする強い意志を持って、信仰によって生きなければなりません。
今まで多くの人々が自分のために生活を送っています。彼らは、壁を掲げて、自分の主人であることによって、自分のために自分の資産を蓄えました。しかしながら今、私たちは神のために生きなければなりません。私たちは、神を私たちの唯一の主人だと思わなければなりません。主はおっしゃいました。「兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。」 良い兵士の生活を送ることは、規制に従うことです。私たちが主のために、主の忠実な兵士として生きるなら、主は私たちのために問題を解決なさり、私たちを守り、導いてくださいます。主は私たちに、神の国とその義とをまず第一に求めなさいと教えておられます (マタイ 6:33)。
神のみことばには、偽りがありません。私たちが神に従うなら、神のみことばの真実性を経験するでしょう。しかし、まずみなさんの心に内に宿る聖霊を持っていなければならないことを覚えておいてください。内に宿る聖霊がない人は、自分の王位を神に渡すことができません。しかしながら、内に宿る聖霊を持つ人は、神に自分の王位を与えることができ、それによって聖霊の豊かさを経験し、心に幸福と平安を持つことができます。
内に宿る聖霊は、みなさんが水と御霊の美しい福音を理解し、信じる場合にのみ、みなさんのところに来ます。みなさんが聖霊の豊かさを持ちたいなら、また、祝福された生活を送りたいなら、みなさんは神を王として仕え、神の御国の有益のために生きるべきです。すると、みなさんは聖霊に満たされ、そして心は豊かになり、神の御国で子どもとなる祝福を受けたため、みなさんの豊かな生活は保持されます。
私は、主を信じて罪からの救済と内に宿る聖霊を受けている人々は、聖霊に満たされる生活を送るべきであるというメッセージを伝えました。私は、聖霊に満たされる生活を定義して、このような生活がどのように保持されることができるかを説明しました。私はまた、信仰によって、みなさんの王位を主に渡さなければならないこと、また信仰によって主に仕え、聖霊に満たされる生活を保持しなければならないということを説明しました。
内に宿る聖霊を持つ人に対して、もう一度申し上げておきますが、新しく生まれることは終わりではありません。その人は、聖霊に満たされる生活を送り続けなければなりません。私たちがそのような生活を送るなら、私たちの霊と肉が祝福されるしかないということを確かに知り、信じるべきです。
このような生活は、自然に起こりません。ただ私たちが神を私たちの主人として信じて、心で一番高い位置に主を置くときに、このことが起こります。神は私たちをお救いになり、すでに聖霊に満たされる生活、福音に仕える生活をお与えくださいました。神はまた、神の仕事と、神の仕事をする務めを私たちにお与えになったので、私たちは聖霊に満たされる生活を保持することができるのです。
みなさんは、自分自身を主にささげ、主のために生活を送らなければなりません。この美しい福音を宣べ伝えることによって、主に仕えてください。すると、みなさんの心は、聖霊に満たされるようになり、幸福と恵みがみなさんから流れ出るでしょう。主が戻られる日に、みなさんは祝福され、神の御前に誇らしげに立ち、神の栄冠を得るでしょう。みなさんと私は、聖霊に満たされる生活を尊重すべきです。信仰を通して、このような生活を送るように努力すべきです。これが、聖霊に満たされる生活が保持される方法です。
聖霊に満たされる生活を送るために、みなさんの心の王位を放棄しておられますか。みなさんが心で一番高い位置に主を保持させるように、私は願っています。みなさんは、聖霊に満たされる生活を送る意志を持たなければなりません。すると、みなさんが聖霊に満たされる生活を送ることができるように、主がみなさんを祝福してくださるということです。