説教集

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 1-1] ローマ人への手紙 第 1 章の概論

「ローマ人への使徒パウロの手紙」は、聖書の至宝と呼ばれることがあります。とりわけ、水と御霊の福音を信じて、神の義を得る方法について述べています。ローマ人への手紙をヤコブの手紙と比較して、誰かが前者を「宝のみことば」と定義し、後者を「わらの言葉」と定義しました。しかしながら、ヤコブの手紙はローマ人への手紙と同様に、神のみことばなのです。唯一の違いとは、ローマ人への手紙は、聖書の全般的な概要を説明しているから貴重であるのに対し、ヤコブの手紙は、義人が神のみこころによって生きるようにするみことばであるから、貴重なのです。
 
 
パウロという人物は誰なのか
 
最初に、ローマ人への手紙 1:1-7 を読みましょう。「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。――このパウロから、ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」
これらの聖句は、「ローマにいるキリスト教徒に対するパウロの挨拶」として数えられます。パウロは、神の義になっておられるイエス・キリストのしもべとして、彼らに挨拶しています。
第 1 節は、「パウロとは誰か」という質問について述べています。彼は、ダマスカスへの道で、よみがえられた主にお会いしたユダヤ人であり、異邦人に福音を広めるための、主の選びの器でした (使徒 9:15)。
 
 
パウロは旧約聖書のいけにえの制度と預言に基づいて真の福音を広めた
 
第 2 節で、使徒パウロは、旧約聖書のみことばに基づいて福音を広めていたとあります。彼は、「神の福音」 を、「神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもの」 と定義しました。この節を通して、使徒パウロが旧約聖書のいけにえの制度に基づいて、水と御霊の福音を宣べ伝えたことがわかります。さらに第 2 節は、パウロが福音の働きをするために選ばれたことを、示しています。
「その預言者たちを通して、聖書において」 という表現は、いけにえの制度または旧約聖書の預言に登場するイエス・キリストを遣わすという、神のお約束を示しています。モーセ、イザヤ、エゼキエル、エレミヤ、ダニエルを含む、旧約聖書の預言者はみな、イエス・キリストがこの世に来られ、世の罪を背負われた後、十字架で死なれるであろうという事実をあかししました。
使徒パウロが伝えた福音は、どのようなものでしょう。彼は、神の御子イエス・キリストについて語った水と御霊の福音を宣べ伝えました。
旧約聖書のみことばはすでに終わったと言う人もいれば、マタイの福音書 11:13 のみことばを証拠として引用し、同じ点を主張する人もいます。
しかしながら、神が私たちに旧約聖書を通して約束なさり、新約聖書でイエス・キリストを通して、この約束を成就なさっています。したがって、信仰の世界において、新約聖書は旧約聖書なしには存在し得ず、また同様に、旧約聖書のみことばは新約聖書のみことばなしには成就し得ないのです。
使徒パウロは、神の福音のために選ばれました。それでは、次に問題になるのは、「パウロは、どのような福音を宣べ伝えたのか」ということです。彼は、イエス・キリストがこの地上に来られ、旧約聖書に基づいて、水と御霊の福音によって私たちをすべての罪からお救いくださったという事実を、宣べ伝えました。したがって、私たちが水と御霊の福音を宣べ伝えるときはいつでも、旧約聖書の預言といけにえの制度に基づいて宣べ伝えるべきです。そうしてはじめて、人々は水と御霊の福音が真理であり、新約聖書が旧約聖書の約束のみことばの成就であることを信じるようになるのです。
新約聖書の初めから、イエスがヨハネから受けたバプテスマと十字架での血に重点が置かれていることがわかります。旧約聖書の核となる部分には、罪人を贖う方法だった、いけにえの制度がありました。人が罪を赦されるためには、罪のためのいけにえの頭に両手を置いて、自分の罪を渡し、その血を流させて死なさなければなりませんでした。
それでは、旧約聖書に罪の赦しのために按手といけにえの動物の血があったなら、新約聖書には何があったのでしょう。イエスがお受けになったバプテスマと十字架での血がありました。さらに、旧約聖書で述べられている大祭司 (レビ記 16:21) は、新約聖書にあるバプテスマのヨハネに相当するものでした。
第 3 節と第 4 節は、「イエスとは、どのようなお方か」という質問について述べています。その節では、イエスの全体的な性格を説明しています。イエス・キリストは、肉によればダビデの一族として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活の大能により、神の御子として認められました。したがって、御子は、信じた者に水と血をお与えになって、救い主となられました。イエス・キリストは、信じた者にとっての救済の神、王の王、天の永遠の大祭司となられたのです。
いくつかのキリスト教神学には、イエスの神性が否定されています。こうした神学者は、「イエスは単に優秀な若者だった」と言います。さらに、新神学によると、「救済はすべての宗教にある」と教えています。したがって、自由主義の神学校では、人々は、悪魔払い、仏教、カトリック教、その他のこの世の宗教をすべて受け入れなければならないと主張します。このいわゆる自由主義神学あるいは新神学は、すべてが尊重されるべきであり、そのために、すべての人間が結束して、「一つ」にならなければならないと言っています。
しかしながら、聖書では、初めに、神が天と地を創造したと明確に述べられました。それでは、この神とは、どなたでしょう。それは、イエス・キリストです。「キリスト」という名は、油を注がれていることを意味します。旧約聖書では、王や預言者が大祭司からその頭に油を注がれました。したがって、イエスは王の王と呼ばれています。神としてのイエスを否定する人は、神の信者ではありません。
最近、世界中の人々の信仰は、宗教多元主義に基づく世界教会主義に戻っています。彼らは、仏教や儒教といった異教的な宗教から、あらゆる種類の要素を組み合わせながら、たたえ、礼拝します。ある時には、会衆は仏教のやり方で礼拝し、別の時にはキリスト教徒のやり方で礼拝します。まあ、おいしい無国籍料理というものはあります。しかしながら、信仰に関して言えば、純粋であればあるほど良いのです。
したがって、第 3 節と第 4 節で「イエスとは、どのような方か」という質問に対する答えは、彼が死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方であるということです。キリストは、私たちにとって主であり、救い主となられました。
第 5 節と第 6 節は、パウロが神によって、どのように使徒になったのかについて述べています。彼は、異邦人がイエス・キリストを信じて、救済を受けることができるように、彼らに福音を宣べ伝える証人になりました。
 
 
使徒パウロは、どのような権威を持っていたのか
 
第 7 節に記されているように、使徒パウロは、神の御名によってイエスの信者を祝福する権威を、持っていました。使徒の権威とは、イエス・キリストの御名によって、すべての人々を祝福することができる霊的な力を、意味します。
したがって、パウロは、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように」 と言うことができたのです。
ここで、この祝福の祈りについて、もう少し考えてみたいと思います。使徒パウロは、人々を祝福する権威があったようです。そして私たちが日曜日の礼拝を終えるときはいつでも、祝福の祈りで締めくくります。「神が、聖徒たちにこのような祝福をお与えになることを望んでおられます。」 祝福の本来のみことばは、次のとおりです。
民数記 6:22 から始めましょう。「ついで主はモーセに告げて仰せられた。『アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」』」
大祭司アロンとその子らは、「あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい」 と語られました。彼らがイスラエル人をこのように祝福するなら、聖書で告げられたように、実際に神が彼らを祝福なさったでしょう。「どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。」 これは、祝福を与えるのが、パウロ自身ではなく、そうなさるのは神であられるということです。したがって、使徒パウロは、自分の手紙を書き終えるたびに、いつも聖徒に祝福を与えました。
パウロは、神の民に祝福を与える権威を持っていました。この権威は、すべてのキリスト教徒の宣教師に与えられたわけではありません。その代わり、神のしもべにだけ与えられたのです。神のしもべが祝福を与えることを本当に望んで祝福の祈りをするとき、神はその祈りによって実際に、こうした祝福をお授けになります。
神は、ご自分のしもべだけでなく、すべての新しく生まれた聖徒たちにも、天の権威をお与えになります。神はおっしゃいます。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」 (ヨハネ 20:23)。神は、そのような権威をすべての義人にお与えになっています。したがって、人は新しく生まれた聖徒や神のしもべに立ち向かわないように注意する必要があります。それは、神に立ち向かうことと同じだからです。神が、使徒たちに加えて、しもべや義人たちにも祝福とのろいの権威を授けられたためです。
 
 
聖徒たちに御霊の賜物を分けたいと願う、使徒パウロ
 
ローマ人への手紙 1:8-12 を読みましょう。「まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」
まず第一に、使徒パウロは何のために、神に感謝したのでしょう。彼は、ローマにいるキリスト教徒のことを神に感謝しました。彼らが、イエスを信じ、彼らを通して、福音が他の人々に宣べ伝えられていたからです。
第 9 節と第 10 節では、「使徒パウロがなぜ宣教の旅の途中、ローマに行きたかったのか」という疑問がわきます。その理由は、当時に水と御霊の福音がローマで宣べ伝えられたなら、全世界に広がっていただろうからです。今日、全世界がアメリカに目を向けているように、古代では、「すべての道はローマに通ず」という諺があったように、ローマは世界の中心でした。
私たちは、アメリカで福音を宣べ伝える多くの仕事をしています。この水と聖霊の福音をアメリカに広めるなら、多くの宣教師がこの美しい福音を他の人々に宣べ伝えるために立ち上がって、世に出て行くでしょう。そのため、パウロはローマに行きたいと思いました。
 
 
パウロが語る御霊の賜物
 
第 11 節には、次のように記されています。「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。」
使徒パウロが御霊の賜物をいくらかでも人々に分けて、人々を強くするというのは、どういうことでしょう。彼が語る御霊の賜物とは、私たちが宣べ伝えている水と御霊の福音です。第 12 節には、次のように記されています。「というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」 パウロと彼らとの互いの信仰によって、御霊の賜物がいくらかでも人々に分けられ、彼らを強くさせ、人々を励ますと言ったのは、水と御霊の福音を伝えることによって、人々を休ませ、慰めを得て、祝福を受け、同じような信仰の中で交わりを持ちたかったからです。
使徒パウロが、互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいと言っているのは、彼が水と聖霊の福音をローマの教会にもう一度、宣べ伝えたかったことを示しています。今、私たちの教会のメンバーはみな、水と御霊の福音を具体的に理解し信じていますが、時間の経過とともに真の福音を信じない名目上のキリスト教徒もいるようです。このように、ローマの教会は、福音を新たにする必要があったのかもしれません。
したがって、使徒パウロは、自分のうちにある互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのだと言いました。実際、私たちは神の御前に慰めを受け、水と御霊の福音への信仰のおかげで、心が安らぐことができます。私たちは、水と御霊の福音なしには安らぐことができないでしょう。
また、次のように記されています。「御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。」 この御霊の賜物とは、水と御霊の福音です。人は、水と御霊の福音を信じるときにのみ、神の子どもとなり、恵みを受けることができるのです。
しかしながら、イエスを何とか信じているにもかかわらず、水と御霊の福音を知らないのなら、喫煙や飲酒をやめ、悪行をすることなく、誠実に、または忠実に生きることが、何の役に立つのでしょう。彼らのすることは、神の義とは何の関係もありません。神の義は人間の義よりもはるかに偉大です。人々を教会に引き込むのは簡単ですが、こうした新しい信者が天の霊的祝福をまとうことによって、罪の赦しを受け、神の子どもになれるように、水と御霊の福音を宣べ伝えることが、もっと重要です。
使徒パウロは、ローマの聖徒たちがパウロ自身の信仰によって励まされることを望んでいました。ですから、彼は言いました。「というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」 したがって、使徒パウロは、教会のすべての会衆に信仰を持たせるために、真の福音を宣べ伝えなければならなかったので、彼らは水と御霊の福音へのパウロ自身の信仰によって強くされることができました。使徒パウロは、ローマの教会の信者たちに水と聖霊の福音を伝え、それが本当に何であるかを教えなければなりませんでした。
これが、使徒パウロを今日の世界にいる他の伝道者と異なるようにさせたことなのです。ローマの教会への手紙で、使徒パウロは、御霊の賜物をいくらかでも人々に分けて、彼らを強くし、人々とパウロとの互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいと述べました。これは、今日の既存の教会のすべての伝道者が、使徒パウロから学ぶべきことです。使徒パウロは、水と御霊の福音を宣べ伝えており、それによって、真の兄弟と偽の兄弟を識別することができました。
最近の教会では、新しい参加者のグループに教義の教えを6ヶ月間受けさせ、1年以内に最終的にバプテスマを受けさせます。それでおしまいです。彼らは、イエスが成就なさった水と御霊の福音について知っているかどうかに関係なく、バプテスマを受けます。言い換えれば、人々が教会のメンバーになったとしても、彼らは神の義を得た神の子どもになることができていません。今日の教会の牧師たちが、自分たちの新しい信者に尋ねることは、十戒と使徒信条を暗記することだけです。新しい信者が暗記テストに合格すると、「飲酒をやめますか。喫煙をやめますか。毎月什一献金しますか。いい人生を送りますか」と尋ねられます。
ヨーロッパ、アジア、そして世界中の教会が神の義から遠ざかったのは、彼らが人間の義を追い求めるからです。今日、韓国でも、いわゆる「アジアのエルサレム」でさえも、キリスト教徒の人口は減少しています。今では、賛美歌フェスティバルやPOPコンサートなどの特別なイベントが教会内で開催されない限り、誰も教会に行きたくない時代が来ています。たとえ人々が来たとしても、若者に与えられる通常の説教には、「喫煙せず、高潔な生活を送り、聖なる日曜日を守り、多くのボランティア活動をしなさい」といったテーマが含まれていますが、神の義とは何の関係もありません。
人間は素早く罪を犯し、罪を犯すのをやめるには、あまりに脆いので、主に頼らなければなりません。したがって、人々が神の教会に来るとき、私たちは彼らに水と御霊の福音を伝えて、彼らが神の義を得られるようにしなければなりません。彼らにとって、私たちはまだ不十分であるにもかかわらず、みなさんと私が罪のない者になっていると告げる神の義を、本当に伝えるべきです。
必ずこれを覚えておくようにしてください。人は、神の義を信じることによって罪のない者になった後にしか、神のみこころに従って生きることができないのです。自分の罪の問題が解決したら、福音を宣べ伝えることができます。福音を他の人に広めるという私たちの仕事が、私たち自身の罪の問題の解決に先立つべきではありません。自分の罪の問題が解決されていない限り、決して真の福音を他の人に宣べ伝えることはできません。
使徒パウロは、ほんとうに御霊の賜物をいくらかでも他の人に分けたと言われています。パウロが語った賜物は、現在のキリスト教のペンテコステ運動で語られた異言や癒しの贈物ではありません。ほとんどのキリスト教徒は、幻想を見たり、預言をしたり、他の異言を話したり、病気を癒したりといった奇妙な現象を賜物だと見なしています。
しかしながら、こうしたものは、天国からの御霊の賜物ではありません。祈りながら幻想を見ることは、御霊の賜物ではありません。激しい叫び声を上げる人や洞窟の中にいる人が、三日間寝られずに奇妙な音を聞くのは、神の贈物ではありません。異言を話し、ねじれた舌で「ラ・ラ・ラ・ラ」という奇妙な言葉を叫んだ後、無意識に床に倒れると主張する人は、聖霊を受けている人の見解ではありません。代わりに、それは精神病院で気が荒く、精神的に不安定な患者に似ています。しかしながら、キリスト教徒に他の異言の話し方や聖霊を受ける方法を教えることができると主張する、いわゆる「カリスマ主義復興論者」がいます。彼らは何か非常に悪いことをしており、彼らが持っている信仰は間違いなく正しくありません。
神の霊的なみわざを忠実に行い、主に従うと、聖霊の生ける水が心から流れ出ます。肉の行いを減らし、代わりに霊的な行いに従うと、聖霊の水が心にあふれます。
キリスト教徒は、水と御霊の福音を信じることによって、罪の赦しという御霊の賜物を得るべきです。多くのキリスト教徒が現在、今日の教会の椅子を通して地獄に向かっているのだと、誰かが言います。これは、今日の教会が神の義を宣べ伝える代わりに、人間の義を奨励していることを示しています。
兄弟のみなさん、たとえ教会に通ってから多くの人間の義を積み重ねたとしても、それはそのような行為によって御霊の賜物を受けることができるという意味ではありません。私たちは、御霊の賜物を得ることができるように、水と御霊の福音への信仰によって、神の義を心に取り入れ、霊的な賜物を手に入れるべきです。
第 13 節から第 17 節まで読みましょう。「兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」
使徒パウロは、ローマに行きたいと思いました。しかしながら、彼は妨げられていたので、そうすることができませんでした。そのため、彼は宣教活動の扉が開かれるように祈らなければなりませんでした。同様に、私たちは文書の宣教を通して世界中に福音を宣べ伝えながら、同じような祈りをささげるべきです。私たちが祈るときにだけ、神の心が動かされ、神が私たちのために扉と道を開かれて初めて、水と御霊の福音を世界中に伝えることができるのです。
 
 
すべての人々に負債を負ったパウロ
 
使徒パウロは、誰に負債を負っていると言ったのでしょう。また第 14 節と第 15 節で、どのような負債を意味していたのでしょう。彼は、ギリシヤ人にも未開人にも、負債を負う者となり、水と御霊の福音の宣教を負っていたと言いました。彼は、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っていると付け加えました。したがって、彼はローマのそうした人々に、できる限り最善を尽くして、福音を宣べ伝えたいと思っていました。
したがって、使徒パウロが教会に手紙を書いた目的は、真の福音を伝えることでした。ローマにある教会の中の人々の心でさえ、水と御霊の福音が信仰によって断固としておらず、こうして彼は福音を御霊の賜物と呼びました。ですから、世のすべての人々だけでなく、教会の中にすでにいた人々にさえ、水と御霊の福音を宣べ伝えました。彼は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っていると述べました。
パウロは、どのような負債を負っていたのでしょう。彼は、世のすべての人々に水と聖霊の福音を宣べ伝えなければならないという負債を負っていました。
彼は世の人々に対して負っているすべての負債を返すことを主張しました。このように、水と御霊の福音を今持っている人々でさえ、福音の伝道を負っています。彼らが返さなければならない負債とは、福音を広めるというみわざです。これが、私たちがこの時代に水と御霊の福音を全世界に広めなければならない理由なのです。
人々は、十字架の血だけが救いのすべてであると誤解しています。しかしながら、聖書があかしする天の福音とは、使徒パウロもあかしした水と御霊の福音なのです。ですから、ローマ人への手紙第 6 章で、パウロは、キリスト・イエスにつくバプテスマを受け、その死にあずかるバプテスマを受けたと述べました。ローマの教会には、十字架の血だけを信じる名目上のキリスト教徒がいたので、パウロはイエスがお受けになったバプテスマの隠された秘密を、彼らに伝えたかったのです。このように、教会の中に長くいながら、水と御霊の福音を聞くことができていなかった人々に、私たちは、それを宣べ伝えるべきです。
キリスト教徒が罪を持っているかどうか尋ねられたとき、彼らはこの質問自体が無駄であり、性格を無視していると考えます。しかしながら、この質問は実際には非常に重要であり、非常に大きな価値があります。人間が罪のために地獄に行くように定められているなら、誰がこのような質問をして、解決策を与えるのでしょうか。水と御霊の福音によって新しく生まれた後、心に罪のない人だけが、そのような質問をし、人々に正しい答えを与えることができるのです。新しく生まれた聖徒だけが、音の福音、すなわち罪人がこれまで聞いたことのない水と聖霊の福音を伝えることによって、罪人を新しく生まれさせることができるのです。
兄弟のみなさん、たとえイエスを信じていても、水と聖霊によって新しく生まれていないなら、神の御国に入ることも見ることもできません。ですから、水と御霊の福音をみなさんに伝えることによって、罪人が罪の赦しを受けることができる人々に会うとき、感謝してください。すると、みなさんは大きな祝福を受けます。
 
 
パウロが恥とは思わなかった福音
 
第 16 節で、使徒パウロが恥と思わなかった福音とは、何でしょう。それは水と御霊の福音でした。この福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力であるため、パウロはそれを「私の福音」と呼び(ローマ 2:16、16:25)、彼はそれを恥じる代わりに、誇りに思って、偉大だと考えました。彼が水と御霊の福音を恥と思わなかったのは、この福音が人々を完全に罪のないものにし、全人類を神から隔てる罪の障壁を破壊するからです。
人々が十字架の血の福音だけを信じているなら、罪を洗い流すことは可能なのでしょうか。このような信仰で今まで犯した罪を洗い流すことは、表面的には可能のように見えるのですが、私たちの将来の罪を清めることは不可能です。したがって、このような信仰を持つ人々は、毎日悔い改めの祈りをすることによって罪を洗い流そうとします。彼らは、自分の心には罪だけで満たされ、避けられない罪人であると告白します。罪を持っている、こうしたキリスト教徒の罪人は、他の人に真剣に福音について話すことができません。彼らが持っている「福音」は、もはや彼らにとって「良い知らせ」ではないからです。
福音とは、ギリシャ語で「euaggelion」、言い換えれば、この世ですべての罪を吹き飛ばす力がある福音です。唯一の真の福音は、ダイナマイトのようなものです。この真の福音が、この世の罪をすべて除くのは、この真の福音です。したがって、罪を除く力を持つ水と御霊の福音を信じたパウロのような人は、福音を恥とは思いませんでした。今日、キリスト教徒でさえ、福音を宣べ伝えることを恥と思っているようです。しかしながら、神の義を持つ者とは、福音を宣べ伝えているとき、威厳と栄光をもって、より際立っている人々なのです。
使徒パウロは、福音を宣べ伝えている間、少しも恥とは思いませんでした。彼が宣べ伝えていた福音は、水と御霊の福音だったからです。それは、この美しい福音が、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だったからです。
この福音は、だれが伝えようと、信じている人はだれでも、罪を赦される強力な福音です。聞き手が自分の心で福音を受け入れるなら、世の罪は完全に洗い流されます。しかしながら、十字架の血だけの福音は、人々に不完全な救済を告げます。つまり、人々に、原罪を取り除くだけであり、したがって、日々の悔い改めの祈りをすることによって、さらなる罪を洗い流さなければならないと告げます。それは、その聞き手に罪の後味を残します。
イエスは、ご自分の力が十分ではなかったので、罪の一部しか取り除かれなかったのでしょうか。イエスは、人間をとてもよくご存じだったので、どのような罪も残されませんでした。水と血と聖霊とによって、すべての罪をご自分に負われました。この美しい福音が、イエスのバプテスマと十字架での血の福音を聞いて、信じるすべての人に、罪からの完全な救いを与えると、私は信じています。
したがって、福音は、ユダヤ人やギリシヤ人を含むすべての人に、同じ力を持っています。水と御霊の福音は、福音が宣べ伝えられるときにイエスを信じるすべての人に、罪からの同じ救済を許します。一方、水と御霊の福音以外のものを伝えると、神の怒りを受けます。ですからパウロは、「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです」 (ガラテヤ 1:8)。使徒パウロは、他のすべての福音の中から本物なのは、水と御霊の福音しかないと、明確に告げました。
異邦人であろうとユダヤ人であろうと、またイスラム教、儒教、仏教、道教、太陽神、また他のものを信じているかどうかにかかわらず、一人ひとりが福音を聞く機会を得ます。さらに、この水と聖霊の福音は、すべての罪から救われるチャンスを与えます。ですから、イエス・キリストが神であり、宇宙を創造なさり、私たちをお救いくださるために、人の肉に似せて、この世に来られ、ヨハネからバプテスマを受けて、世の罪を背負われ、十字架で死なれることによって、私たちの罪のために裁きを受けてくださったことを、私たちは伝えるべきです。
ですから、使徒パウロは、水と御霊の福音を恥とは思いませんでした。十字架だけの福音は恥ずべき福音であるはずなのに、水と御霊の福音は全く恥ではあり得ず、誇りと威厳にあふれる健全で強力な福音なのです。この福音を信じる者はだれでも、神の子どもになっているという事実への信仰によって、聖霊の豊かさを受けます。繰り返しますが、水と聖霊の美しい福音は、決して恥ずべき福音になることがありません。しかしながら、十字架の血だけを信じる福音は、恥ずべきものです。
キリスト教徒のみなさん、みなさんは十字架の血だけの福音を宣べ伝えるときはいつでも、恥ずかしくなかったですか。イエスのバプテスマを含まない血だけの福音を伝え、信じたとき、恥ずかしく思ったはずです。みなさんはそのような役に立たない福音を宣べ伝えることを恥と思っていたので、みなさんが「イエスを信じなさい。イエスを信じなさい!」と叫ぶために通りに出かける前に、いつも主を求めて叫ぶことや、異言で狂信的な祈りをして、感情を満たさなければなりませんでした。
これは、あふれる気持ちでできることですが、冷静な心では決してできないことです。そういうわけで、十字架の血だけを信じる人々は、大声で叫び、伝道のために外出するたびに騒動を引き起こします。メガホンを口元につけて、彼らは「イエスを信じる者は天国へ、信じない者は地獄へ」という言葉を叫ぶだけです。しかしながら、水と御霊の福音の信者は、非常に紳士的な方法で福音を伝えます。聖書を開きながら、お茶を飲んで、他の人と会話します。
 
 
神の義の福音について何が告げられているのか
 
第 17 節で、キリストの福音には何が啓示されていると告げられているでしょう。神の福音のうちには、「神の義」 が啓示されているとあります。神の義は、真の福音のうちに完全に啓示されています。したがって、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませ、義人は信仰によって生きると告げられています。十字架の血だけを伝える福音は、神の義を含んでいません。
兄弟のみなさん、もし原罪をすでに赦されているにもかかわらず、日々の罪のために毎日、悔い改めの祈りをささげなければならないと言われ、また、徐々に聖くなり、最終的に完全に義人になることができると言われたら、そのような信仰には神の義が含まれているでしょうか。これは、神の義が啓示されているものではありません。神の義を啓示しているものは、完全なものについて語っています。水と聖霊の福音は、初めから終わりまで完全な福音について語っています。
毎日、またはおそらく毎週あるいは月ごとに恥ずかしい側面を覆うためにイチジクの木の葉から新しい覆いを作らなければならないかのように、毎日罪を犯しているので、人々は日々、悔い改めの祈りをささげます。日々の悔い改めの祈りをして、繰り返し罪人になる人は、自分の恥ずべき体を、イチジクの木の葉で覆うようなものです。これは、十字架の血だけの福音を信じる人々の宗教生活の状態です。彼らは、神が惜し気なく与えてくださった皮の衣を着ることを望まず、代わりにイチジクの木の葉の覆いを着ることを楽しむ愚かな人たちです。
イエスの十字架での血は、イエスのバプテスマの結果であって、イエスが私たちの罪を負うことができたのは、十字架で流された血ではありませんでした。イエスは、バプテスマをお受けになったときに私たちの罪を負われ、世のすべての罪を負って十字架へと歩み、世の罪を贖うために死なれました。したがって、十字架とは、イエスがお受けになったバプテスマの結果でした。イエスはバプテスマによって私たちの罪を負われたので、十字架で流された血は、私たちのすべての罪を贖うためのイエスの最後の行ないでした。イエスはバプテスマをお受けになったので、十字架で罪の呪いのすべてをお受けになったのです。
それでは、どのようにして神の義を得ることができるでしょう。水と御霊の福音を知り、信じることによって、神の義を手に入れることができます。みなさんはお尋ねになるでしょう。「それなら、あなたは水と御霊の福音を信じているのですか。」 それで、私はこの質問にすぐに、はっきりと「はい」と答えることができます。神の義を得る秘密とは、水と御霊の福音を信じることです。
その理由は、水と御霊の福音が真理であり、それが神の愛と神の義を啓示しているからです。また、水と御霊の福音には、地上で神が人類に惜しみなく与えられた罪の赦し、神の子どもとなる道、聖霊を受けることができる永遠のいのちの祝福、肉体的および霊的な祝福を受けることができるのです。
使徒パウロは、神の義が自分の宣べ伝えている水と御霊の福音に完全に啓示されていると告げました。したがって、神の義を知らずに人間の義を立てることは、神の前で罪を犯すことに似ています。さらに、十字架の血だけを信じても、神の義を含まない福音は、偽物です。
神の義とは、神がお与えくださった水と御霊の健全な福音を指しています。一組としての旧約聖書と新約聖書が、私たちを罪から救うのです。旧約聖書は新約聖書に備え、新約聖書は旧約聖書に含まれる約束のみことばを成就します。神は、神の義が完全に啓示されている真の福音を私たちにお与えになり、私たちを世の罪からお救いくださいました。こうして、神は人類をすべての罪から救われました。
今、全世界が水と御霊の福音に立ち返るべきです。人を罪から救う唯一の福音とは、水と御霊の原福音です。兄弟のみなさん、全世界が水と血の福音に立ち返らなければなりません。彼らは、神の義を含む、この水と御霊の福音に立ち返らなければならないのです。
その理由は、水と御霊の福音が私たちを罪から救うことができる唯一の真理だからです。神の義を含む福音だけが私たちを救い、罪のない者とし、神の子どもに変えることができるのです。さらに、私たちの心の中の聖霊は神の民を守り、この聖霊が私たちのために祈り、私たちを祝福なさり、いつも私たちとともにおられ、贈物として永遠のいのちをお与えくださいます。
この福音にさえ、注意を払わない人々が非常に大勢いるのを見るのは、非常にじれったいことです。誰もがイエスのバプテスマを明確に理解することによって、この水と聖霊の福音を信じることを願っています。イエスがヨハネから受けたバプテスマは、イエスが謙虚だったために受け入れたものではありません。イエスがバプテスマを受けたのは、この世のすべての罪を負うためでした。女から生まれた者の中で最もすぐれた人であったヨハネが、イエスにバプテスマを授けたとき、イエスの頭に両手を置きました。これは旧約聖書で大祭司が傷のない罪のためのいけにえの頭に両手を置いたことに相当します。イエスの十字架での死は、罪をイエスのからだに負わせた結果であり、両手を置いた後に、罪のためのいけにえが血を流して死んだことに相当します。
この水と聖霊の福音は、旧約聖書と新約聖書の両方で述べられているので、原福音の一部を無視しながら、他の福音を信じる人はだれでも、間違った信仰を持っています。イエスがこの世に来られたときに、最も重要で最初になさったことは、ヨハネからバプテスマを受けることでした。みなさんがイエスのバプテスマは単なる象徴であると信じ、イエスがご自分の謙虚さからバプテスマを受けたと考えるのは、非常に間違っています。
異端者とは、どのような人でしょう。テトス 3:10-11 には、次のように記されています。「分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。このような人は、あなたも知っているとおり、堕落しており、自分で悪いと知りながら罪を犯しているのです。」 分派を起こす者とは、自分で悪いとする者です。自分で悪いとする人とは、罪を持っていることを認め、告白する人を意味します。ですから、「私は罪人です」と言うキリスト教徒は、分派を起こす者、つまり、異端者です。「分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい」 と記されているとおりです。
このようなキリスト教徒は堕落しており、腐っているので、罪のない聖徒は、そのような異端者に近寄るべきではありません。その人は、その信仰と宗教生活が朽ち果てているため、自分で悪いとする人です。神の前で許されない罪を犯す人は、水と御霊の福音を信じて罪のない者になりたがらず、代わりに、自分はまだ罪人であると言いながら、神の絶対的な救済を拒否するという罪を犯し続けます。イエスを信じているにもかかわらず、自分は罪を持っていると知りながら、自分で悪いとし、自分を罪人だと呼ぶ人は、地獄に向かっている異端者です。
一部のキリスト教徒は、「私が悪い」というステッカーを車の後ろに貼り付けます。これは、人間の目で見るとき、優しくて温かい格言のように見えますが、真実では、すべてその人が悪いのですから、地獄に行ったり、分派を起こす者になったり、呪われているといった問題は、すべてその人自身が悪いということになります。「私が悪い」とは、その人が高潔に生きるという逆説的なことわざでもあります。しかしながら、自分が高潔に生きることができると考えながら、こうした標語を支持すると言う者は、人を「悪を行なう者どもの子孫」と定める神のみことばに直接挑戦しています。そのような人間の考えを追い求める人々は、やがてあらゆる呪いを受けるでしょう。
みなさんの中に、自分を悪いとする人がいるでしょうか。それなら、罪の赦しは義人の教義を指さないことを述べているローマ人への手紙第 3 章の説教を、もう一度注意深く聴くべきです。ローマ人への手紙は、これについて非常に詳細に告げています。使徒パウロは、いつの日か人々が言うことを事前に知っていたので、罪のない者になることは、ほんとうに罪のない者になることであり、罪人を義人とただ呼ぶのではありません。パウロはまた、水と御霊の福音だけが真理であることを、はっきりとあかししました。したがって、十字架の血だけを信じる人々は、ローマ人への手紙を読みながら、無知で愚かになるでしょう。
ローマ人への使徒パウロの手紙は、水と御霊の福音をあかししているので、とてもすばらしい聖書です。たとえ、人がもともと信じる前に罪人であったとしても、イエスを信じたら義人になるべきです。人は、ほんとうに心に罪のない義人になるべきです。これが、正しい信仰をもつ方法です。
たとえ現時点では、人々の信仰が完全ではなくても、新しく生まれた教会を通して、水と御霊のみことばに耳を傾けながら、彼らの信仰は最終的に完成します。こうした説教を通して、水と御霊の福音についてもっと学び、真理のみことばを確認してください。
神が私たちに天の祝福の富を授けてくださると、信じています。