説教集

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 1-2] (ローマ 1:16-17) 福音のうちに啓示されている神の義

(ローマ 1:16-17)
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」
 
 
私たちは神の義を受けなければならない
 
使徒パウロは、キリストの福音を恥とは思いませんでした。彼は堂々と福音をあかししました。しかしながら、イエスを信じているにもかかわらず、多くの人々が泣く理由の一つは、彼らの罪のためです。神の義を認めることにおいて、彼らの無知のためです。私たちは、神の義を信じることによって、そして自分自身の義を放棄することによって、救われることができます。
使徒パウロは、なぜ福音を恥と思わなかったのでしょう。まず第一に、福音には神の義が啓示されていたからです。
ギリシャ語の福音「euaggelion」 とは、「良い知らせ」という意味です。イエス・キリストがベツレヘムで生まれたとき、神の御使いが現われ、夜に群れを見守っていた羊飼いたちに告げました。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」 (ルカ 2:14)。「平和が、御心にかなう人々にあるように」―― これが、良い知らせでした。主の福音が、私たちをすべての罪から救い、世の罪を洗い流しました。イエスは、私たちの罪をすべて洗い流されました。肥やしの中にいる蛆のようにうごめき、泥の中で罪を犯した人々の罪を、イエスご自身がすべて洗い流されたのです。第一に、使徒パウロは、神の義が福音のうちに啓示されたと述べました。神の義は、私たちの罪をすべて消し去った福音のうちに啓示されました。神の義が私たちを聖徒や義人にならせたのです。また、それが私たちに永遠のいのちを得させ、罪のない者にしました。
人間の義とは何でしょう。人々は、自慢できることがあると、神の前で自分を誇示するのが好きです。善行をすることによって自分自身の誇りを積み重ねることは、人間の義を描写しています。しかしながら、すべての罪から私たちをお救いくださったイエスの義の行為が、福音のうちに神の義を啓示させることを可能にしました。これが神の義です。
最近、ほとんどのキリスト教徒は、神の義の福音を知らずに福音を説いています。「イエスを信じなさい。そうすれば、あなたは救われて金持ちになる」と彼らは言います。しかしながら、こうしたものは神の義の福音の教えではありません。福音は何よりも人気があるようですが、ほとんどの人は無知であり、福音を理解していません。それは聖書がベストセラーであるという事実に似ていますが、人々はまだ実際にはその内容を知りません。この世で最も貴重で有益なものは、神が私たちにくださった福音です。
「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」 神の福音は、砂漠のオアシスのようなものです。イエスは、多くの罪を犯した罪人のところに来られ、彼らの罪をすべて洗い流されました。しかしながら、人々は、自分自身の義を立てようとしながら、世の罪を洗い流している神の義の賜物を拒否しています。
自分の努力(奉仕、献身、熱意、献金、悔い改めの祈り、断食の祈り、主の日を守ること、神のみことばを実践に移すなど)を行い、神の贈物を拒否する人々は、神の義を拒否する者です。自分自身の義が放棄されたときにのみ、神の義を受けることができるのです。
 
 
彼らはイチジクの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った
 
創世記 3:21 には、次のように記されています。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」
最初の人であるアダムは、サタンの策略に陥ることによって神に対して罪を犯しました。アダムとエバが罪を犯した直後にしたことは、イチジクの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作ることでした。イチジクの葉をつづり合わせた衣は、皮でできた衣とは際立った対照をなします。それは、「人間の義」と「神の義」との違いでした。創世記 3:7 によると、「彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」 とあります。大根の葉を編んだことがありますか。私たち韓国人は、大根の葉を大根から切り取り、稲わらと一緒に編んで乾燥させます。冬には、テンジャンチゲ(味噌スープ)を作ります。それがとても美味しいのですよ。
アダムとエバが罪を犯した後、イチジクの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作りました。このような行ない――善行、自己試練、自己犠牲――は、人間の義の構成要素となります。それは自分自身の義であって、神の義ではありません。彼らがイチジクの葉で自分のおおいを作ったという事実は、神の前に自分の善行で罪を隠そうとすることによる、高慢の罪を示しています。自分自身の義をつづり合わせること――自己献身、ささげ物、自己試練、悔い改めの祈りを衣につづり合わせ、それで心の罪を覆うことは、神の前で高慢を積む「偶像礼拝」です。
衣を作るためにイチジクの葉をつづり合わせることによって、神の前に自分の罪を心に隠すことができるでしょうか。私たちの善行によって自分の罪を隠すことはできるのでしょうか。決してできません。葉は一日で落ち始め、最終的に三日目にはすべての葉が落ちます。植物性の衣類は長持ちしません。イチジクの葉をつづり合わせて衣を作る人々、すなわち、自分の行いで神に仕えることによって義人になろうとする人々は、天の御国に入ることができません。私たちは、自分の行いの義によって罪の赦しを受けることはできません。
アダムとエバは、イチジクの葉で衣を作ることによって罪を隠そうとしたとき、神はアダムに呼びかけました。「アダム、あなたは、どこにいるのか。」 アダムは園の木の間に身を隠しながら、言いました。「私は裸なので、恐れて、隠れました。」 罪のある人は、木の中に隠れようとします。木は、しばしば聖書で人を暗示しています。心に罪のある人は、人々の中に身を隠そうとします。人は、多くの人々が集まる教会の前や後ろにあまり座るのではなく、真ん中に座るのが好きです。なぜでしょう。その人は人々の中に自分自身を隠したいからです。
しかしながら、人は神の前で罪を隠すことができません。人は、自分自身の義を放棄し、神の義を信じることによって、罪を赦されなければなりません。漠然とした信仰を持ち、真理を信じない人も、同じような人々の間に身を隠して天の御国に入りたいと思っていますが、自分の罪を自分の善行で隠そうとする人々とともに地獄に墜ちてしまいます。神の前に罪人は、罪人として明らかにさせ、神に身を委ねなければなりません。
神は、イチジクの葉で衣を作ったアダムにおっしゃいました。「あなたはなぜ実を取ったのか。だれがあなたに食べさせたのか。」
「ああ、神よ。あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」「エバ。あなたは、いったいなんということをしたのか。」「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」それで、神である主は蛇に仰せられました。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」 蛇が腹をくねらせるのは、このためです。再び神はアダムとエバに仰せられました。「あなたがたも罪を犯した。罪に惑わされたあなたと、あなたに罪を犯させた張本人も同じ罪人だ。」 最近では、偽預言者も「火を受けなさい!」と言って、偽りの福音を宣べ伝えています。彼らに惑わされた人々は、偽預言者と同じように扱われ、地獄に行きます。
 
 
主は、アダムとその妻のために、皮の衣をお作りになった
 
主はお考えになりました。「わたしは、サタンに惑わされて罪を犯したアダムとエバをそのままにしておかない。もともと、わたしのかたちに似せて人を造り、息子にしようと思っていたから、わたしの計画を完成させるために、彼らを救おう。」 このご計画は、神のうちにありました。したがって、神は彼らの罪を動物に移し、動物を殺し、皮を剥ぎ、その皮から衣を作り、アダムとエバに皮の衣を着せてくださいました。神は、それを私たちの救済の象徴となさいました。実際、イチジクの葉で作られた植物の衣は、一日ももたず、何度も何度も修復する必要がありました。「アダムとエバ。さあ、わたしは、動物から皮の衣を作った。それを着なさい。それは、あなたがたのために死んだ動物の皮だ」と仰せられて、神はアダムとエバに永遠のいのちを着せられました。主は、アダムとエバに新しい命を与えるために、神の義で祝福された皮の衣をアダムとエバに着せてくださったのです。神が信者たちに神の義の救済を着せてくださったように、主なる神は、アダムとその妻のために皮から衣を作り、それを着せてくださいました。
しかしながら、神による救済から離れた人類の救済は、イチジクの葉で作られた植物の衣でした。神は、私たちを神の義である皮の衣を着せてくださいました。主は私たちに、主の肉と血をお与えになることによって、神の義で罪の赦しを着せてくださいました。私たちの身代わりとなって、すべての裁きを受けるために、主はバプテスマと十字架刑で私たちの罪をすべて取り除いたのです。イエスのバプテスマと血の福音を通して神の義を信じるとき、神は私たちに罪の赦しを持たせてくださいます。罪人を罪から救うのは、福音です。
世界には、神の義を拒否して、自分自身の義を立てようとする人々が大勢います。彼らは自分自身の義を捨てなければなりません。ローマ人への手紙 10:1-4 には、次のように記されています。「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」
イスラエル人は、神の義を無視しながら、自分自身の義を立てようとするために、自分たちの律法主義を主張しました。神は人に罪を悟らせるために律法を与えられました。人々は、十戒を通して罪の知識をもち、幕屋のいけにえの制度を通して、彼らを罪から救う救済の義を信じることによって罪の赦しを得るのです。したがって、幕屋の罪のためのいけにえは、イエスが新約聖書における神の正確な肖像であることを暗示しています。しかしながら、イスラエル人は、この神の義を知りませんでした。
 
 
なぜイエスはバプテスマを受けたのか
 
イエスは、なぜバプテスマをお受けになったのでしょう。バプテスマのヨハネは、世の罪をすべて洗い流すために、イエスにバプテスマを授けました。イエスがバプテスマを受ける直前に、イエスはヨハネにおっしゃいました。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」 (マタイ 3:15)。これが、イエスがバプテスマをお受けになった理由です。イエスは、人類の罪をすべて洗い流すことができるように、バプテスマをお受けになりました。イエスはバプテスマを受けることによって、この世の罪を取り除かれました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」 (ヨハネ 1:29)。イエスは、すべての罪を取り除かれ、罪を贖うために十字架につけられました。しかしながら、イスラエル人は、イエスが罪人の完全な救い主になられたとは信じませんでした。
イスラエル人は神の義に服従していませんが、イエスは、信じるすべての人にとって義の律法の終わりなのです。律法の終わりとは、イエスが世の罪をすべて洗い流されたことを意味します。キリストは、すべての信者が聖なるものとされるために、律法の呪いとして裁かれました。彼は、律法の呪いを終わらせたのです。イエスは、すべての人を罪から贖われました。イエスは、全人類の罪を洗い流すためにバプテスマをお受けになったのです。イエスはバプテスマを受けるために、ご自分の肉をヨハネに差し出して、世の罪をすべてご自分の肉に移すことによって、世の罪をすべて取り除かれました。イエスは、それによってすべての人々を罪からお救いくださいました。バプテスマと十字架刑を通して、この世の罪を取り除くことによって、律法の呪いの裁きを終わらせたのです。イエスは、私たちを律法のさばきと呪いから完全に救ってくださいました。
それは律法の終わりであり、神の救済の義の初めでした。イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けることによって、世の罪を的確に取り除かれ、十字架に行かれました。たとえ人がほんとうにイエスの救済の義を信じていても、どうして心に罪があり得るのでしょうか。「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」 イエスのバプテスマと血が、神の義でした。神の義を信じることは、イエスのバプテスマと血を信じることです。
神の義は、イエスのバプテスマによって合法的に成就されました。みなさんに、それを信じてほしいのです。そうすれば、みなさんはすべての罪から救われます。イエスのバプテスマを通して罪人が罪のない者になるために、義が与えられました。さらに、神の裁きの義とは、イエスの十字架刑でした。「キリストが律法を終わらせられた」 (ローマ 10:4) とあります。神の裁きは、律法が存在する限り、まだ裁かれていない人々にもたらされます。神の律法は罪を明らかにし、罪から来る報酬が死であり、呪いでもあり、地獄そのものであることを証明しています。したがって、イエスのバプテスマと十字架での血が、律法の呪いを終わらせました。イエスは、すべての罪を取り除かれ、すべての義を成就なさるために律法を終わらせられました。
 
 
愚かな者は、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった
 
マタイの福音書 25:1-13を見てみましょう。ここに花婿、私たちの主の再臨を待っていた十人の娘のたとえがあります。聖書を通して、神の義が何であるかを見てみましょう。
「そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです」 (マタイ 25:1-13)。
天の御国は、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようであると記されています。天の御国に入るのは誰でしょう。十人の娘たちのうち、誰が天の御国に入ったのでしょう。イエスを信じていたのに、何人かの娘たちが天の御国に入れなかったのは、なぜでしょう。主はこれについて、上記の聖句を通して語られます。十人の娘たちのうち五人は愚かで、五人は賢かったのです。愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油を用意しておきませんでした。ともしびとは、「教会」の略です。彼らがともしびは持っていたが、油を用意しておかなかったという事実は、聖霊のない教会に行く人々を表わしています。(油とは、聖書で聖霊を意味します。)
愚かな娘たちは、何をしたでしょう。彼らは、ともしびは持っていましたが、油を用意しておきませんでした。イエスを信じているにもかかわらず、新しく生まれていない人は、献身的に教会に出席することがあります。「私の教会は本当に正統派です」と、誰もが言います。この世のすべてのキリスト教徒は、そう言います。彼らは創設者と自分の宗派の特徴を、非常に誇りに思っています。愚かな者たちは、自分のともしびは持っていましたが、油を用意しておきませんでした。
人間とは何でしょう。人間とは神の前では器です。人は、ちりです。人は、ちりで造られています。ですから、人類は神を帯びることができる器なのです。賢い娘たちは、自分の器に油を用意して、ともしびを持っていました。
 
 
油を用意せずにともしびだけを持つ愚かな娘たちは感情を燃やす
 
聖書は、イエスを信じる人々の中には愚かな娘たちがいると教えています。彼らは、ともしびは持っていますが、油は用意しておきませんでした。これは、彼らが新しく生まれていないことを意味します。油のない芯は長持ちするでしょうか。ここで知っておかなければならないことは、芯がどれほど良くても、油のないともしびはすぐに燃え尽きるということです。まだ新しく生まれていない信者は、最初は主への熱い情熱を持っています。これは、わずか4〜5年しか続きません。その後、主への情熱的な愛は消滅します。彼らは、罪の赦しを持っていないことを悟らなければなりません。
新しく生まれていない者、または油(聖霊)のない人は、次のようなことを言います。「昔は良い信仰を持っていたものだ。最初は良かったけれど、今はそうではない。あなたもすぐに私のようになるさ。」 彼らは、新しく生まれることなしに宗教生活を送る偽預言者であり、偽りの聖徒です。彼らの信仰は、油(聖霊)に基づいていないので、救済の信仰を持たなければなりません。彼らの信仰は、感情に基づいているだけです。彼らは、イエス・キリストの水と血を信じることによって、救済を得なければならず、賜物として神の油を受けなければなりません。芯とは、人間の心を表わします。
上記の聖句で、娘たちが花婿を待っています。ここでは、イスラエル人の文化的背景を十分に理解しておかなければなりません。彼らは夜に結婚式を行い、花婿が来るときに始まります。ですから、花嫁は花婿を待たなければなりません。イスラエル人の結婚式は、こうしたものなのです。
「花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。」 「そら、花婿だ」 と叫ぶ声がしました。それから、花嫁は起きて、自分たちの表情を整えるために多くの苦労をしました。十人の娘たちが花婿を待っていたとき、「そら、花婿だ」と叫び声がして、花婿が来ました。「娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』」 愚かな娘たちは、いつも愚かでした。彼らは花婿が来る前に油を用意しておくべきでした。ともしびの芯がどれほど弱くても、油の入ったともしびは消えません。
油のないともしびを持っていた愚かな娘たちは、芯だけを燃やしました。これは、彼らの心だけが燃えていたことを意味します。「私は新しく生まれ、新しく生まれた人の生活を送り、聖霊に満たされなければならない。」 彼らはこのように真剣に心を燃やします。私たちの子供の頃、灯油ランプが夜の部屋を照らすために使用されていました。ランプで一片の紙を燃やせば、瞬く間に燃え尽きてしまいます。火は三十センチ以上の高さで非常に明るくなりますが、すぐに消えます。
地獄に行く愚かな娘たちは、油を使わずに自分の心(感情)を燃やし、実際に主に会わなければならないときに、信仰の火が消える人たちです。彼らのうちには聖霊がいません。彼らは聖霊を持っていなくても、正しく信じていると考えます。「♬おいでください、炎のような聖霊よ、おいでください♬」 彼らは大騒ぎしています。それから、女性は踊り(スピリットダンスと呼ばれる)に夢中になり、胸をひらひらさせながら「おいでください、どうぞ、おいでください」と言います。彼らは愚かで狂っています。救い主の前にまだ罪があるなら、私たちは愚かであるはずです。イエスを信じていても、心に罪があれば、愚かな娘たちのようになります。決して愚かな娘であってはなりません。
 
 
主はどうして罪を持つ花嫁と結婚できるのか
 
主は聖なる神であられます。花婿は神であり、罪のない神の御子であられます。神は、私たちの花婿です。しかしながら、罪を抱えながらどのようにして神にお会いすることができるでしょう。心に罪を抱えて、神にお会いしたいですか。これは、非常に間抜けで愚かなことです。
花婿イエスは、世に来られ、花嫁を聖なるものとなさいました。彼は、ご自分のバプテスマを通して、花嫁の罪をすべて洗い流されることによって、義の民に変えてくださいました。彼のうちの花嫁として、彼らをお選びになったのです。時が満ちた時、娘たちの五人は、「どうぞ、おいでください」と言いました。しかしながら、娘たちの他の五人は、まだやみのうちに立っていました。彼らの顔が暗い時に、どうして結婚式に臨めるでしょう。花婿が来られて、「お元気でしたか」とおっしゃいました。後者の五人の花嫁の顔は、罪のために暗くなりました。彼らの罪が心のあちこちに付着していたので、彼らは深い悲しみのうちにありました。
主が、どうして罪のために泣いている花嫁と結婚おできになるでしょう。「主よ、このように私を聖なるものとなさったことを感謝します。」 このような人は、たとえ弱くても、花婿がその人を愛され、すべての弱さと罪を洗い流してくださったので、霊的花婿と幸せになることでしょう。花婿は通常、花嫁に化粧を施し、服と最高の香水と化粧品を送ります。それから、花嫁は花婿を迎えに出る用意ができるように、こうしたすべてのもので着飾ります。
主は、私たちを導くために花婿として世に遣わされたので、私たちは、主の花嫁として主にお会いできるようになりました。主は、ヨルダン川での罪の赦しのために、ご自分の肉を私たちにお与えくださいました。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」 (ヨハネ 1:14)。主を信じることによって、私たちが恵みの豊かさ、真理、罪の赦しを得るように、主ご自身がすべての罪を取り除いてくださいました。花婿は、ヨルダン川で花嫁の罪をすべて取り除かれました。主は、十字架で身代わりとなって裁かれることによって、花嫁を罪から救われました。
 
 
お金や試練で聖霊を買うことができるのか
 
しかしながら、愚かな娘たちは、花婿が近づいたときに、ともしびが燃え尽きてしまったので、賢い娘たちに油を少し自分たちに分けてくださいと頼みました。私たちは聖霊を分けることができるでしょうか。お金で聖霊を買うことができるでしょうか。善行、試練、お金で罪の赦しを買うことができるでしょうか。賢い娘たちは、彼らにリバイバル集会の伝道師から聖霊を買うように言いました。愚かな娘たちは、すでに彼らから聖霊を買ったと思っていました。彼らは、お金で油を変えると思っていました。彼らは熱心に宗教生活を送り、大きなささげ物や礼拝、正統派の教会に出席し、繰り返し祈ることが自分たちに何かを与えるだろうと思っていました。
しかし、何であろうと、地上からの何かで、主がお与えくださった罪の赦しを買うことはできません。愚かな娘たちは、主の前に立つようになるまで感情を燃やそうとします。五人の愚かな娘たちのうちの一人が、宗教生活を始めました。「私はあなたに従います。また、祈りと悔い改めの祈りのために山に登ります。神に仕えに行きましょう。福音を宣べ伝えるために海外に行きましょう。」
花婿は、ついに素晴らしい鳴り物で来られました。愚かな娘たちは花婿が来たときに油を買いに行きましたが、罪の赦しを持ち、油(聖霊)を用意した娘たちは、婚礼の祝宴に入りました。花婿がすべてを備えた後、花嫁にお会いしました。それから花婿は戸を閉めました。イエスは、五人の娘たちをランダムに選ばれたわけではありません。「五」という数字は、聖書では「恵み」を意味します。五人の娘たちは、恵みによって罪の赦しを受け、その恵みと義の行為を信じる人々を、表しています。彼らは、花婿が自分たちのためにしたことを認識し、自分たちを義人にする神の義を信じています。しかしながら、ほかの娘たちが帰ってくると、「主よ、主よ、開けてください」 と言いました。しかし、彼は答えて、「確かなところ、私はあなたがたを知りません」 と言いました。
 
 
罪が消されてはじめて聖霊の賜物を受けることができる
 
油を用意しない人は、主にお会いできません。主は、神の義を信じて天の御国を待っていた人々と、実際に心に罪の赦しを持った人だけを、天の御国に連れて行かれます。主は、約束のみことばを語られました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」 (使徒 2:38)。それでは、罪の赦しの後に何が起こるのでしょうか。聖書は、「賜物として聖霊を受けるでしょう」  と告げています。
みなさんが神の義の福音を受けるなら、みなさんの心にある罪は実際に消され、聖霊がみなさんのところに来られます。神の聖霊を肉体的に感じることはできません。それにもかかわらず、聖霊は存在します。私たちは心に聖霊と神のみことばがあるので、私たちには罪がないと言うことができます。ほんとうに存在します。神の義を受ける人は、弱い人ですが、義人になります。しかしながら、神の義を持たない人は、罪人のままです。
 
 
福音のうちには、神の義が啓示されているために
 
主は、水と血とによって来られました。バプテスマによって私たちを罪から救われたのです。バプテスマを受けたときに私たちの罪をすべて取り除かれ、血を流されることによって私たちのすべての罪の代価の罰を受けました。使徒ヨハネ、ペテロ、パウロは、これについて何を告げているでしょう。彼らはみな、イエスの肉と血について話しています。彼らは、イエスのバプテスマと十字架の血について語っています。マタイの福音書 3:13-17 は、イエスのバプテスマについて正確に説明しています。イエスは、罪人を罪のない者になさり、ヨルダン川で世の罪をすべて洗い流すために、バプテスマを受けました。
ペテロの手紙第一 3:21 を見てみましょう。ペテロは、救済の型がイエスのバプテスマであるとあかししました。「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます」 (Ⅰペテロ 3:21-22)。
「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは、…イエス・キリストの復活によるものです。」 イエスの肉によって私たちの罪をすべて取り除いた、イエスのバプテスマとは、私たちの救済の証拠になっています。イエスが十字架で血を流されたという事実は、私たちの罪を裁かれたという事実を証明しています。私の言っていることがわかりますか。そのため、聖書は、イエスが水と血と御霊によって来られた方であると述べているのです (Ⅰヨハネ 5:6-9)。イエスは人の肉において世に遣わされ、大祭司アロンが神の民の罪を渡すために、いけにえの頭に両手を置いたのと同じように、私たちの罪をすべて取り除かれました。
水とは、私たちを救う型――バプテスマです。それは、肉体の汚れを取り除くものではないと記されています。これは、私たちが罪の赦しを得た後に、罪を犯さないという意味ではありません。私たちは、イエスのバプテスマを信じることによって、罪の赦しを受けます。それなら、私たちは肉で罪を犯さないのでしょうか。いいえ、罪を犯します。多くの人は罪の赦しを誤解し、「心に罪がなければ、二度と罪を犯さない」と言っています。これは誤解です。聖書には、次のようにあります。「この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから」 (伝道者 7:20)。肉は、まだ弱いです。肉が死ぬまで弱いのです。肉は死ぬまで罪を犯します。「肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓い」 です。私たちの良心は、イエスのバプテスマと血への信仰を通して、神に対する正しい良心に変わります。私たちの良心は、主がバプテスマを通して、すべての罪を取り除かれたという事実への信仰によって、神を私たちの主であり、救い主と呼ぶことができます。
 
 
私たちの心の霊的な栄養とは、イエスのバプテスマと血
 
心の栄養とは、イエスのバプテスマと血です。心の栄養と、私たちの罪を洗い流された型とは、イエスのバプテスマです。こうして、使徒ペテロが、私たちを救った型であるバプテスマを告げました。
ペテロの手紙第一 1:22-23 を見てみましょう。「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」 アーメン。
私たちは新しく生まれ、イエスのバプテスマと血を信じることによって、すべての罪の赦しを受けています。私たちは、主の記されたみことばを信じることによって新しく生まれました。私たちが新しく生まれたのは、「生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」 ハレルヤ!新しく生まれるということは、生ける、いつまでも変わることのない、みことばによって起こります。神のみことばは、測りざおを指している正典です。それは救済のための基準です。神による救済のための測りざおは、決して変わりません。
バプテスマのヨハネは、ヨハネの福音書 1:29 で告げました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」 ヨルダン川で、バプテスマを受けた神の小羊は、肉と血によって私たちをお救いくださった、まことのいのちのパンです。私たちは、神のみことばを信じることによって聖なるものとされ、救われています。聖書には、次のようにあります。「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」 (ローマ 10:17)。そして、「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです」 (ローマ 1:17)。福音を信じることによって、私たちは義人になることができます。
みなさんは、聖なるものとされていますか。――アーメン。―― どんな罪も持っておられませんか。それは、ギリシャ語で 「euaggelion」 である良い知らせ、福音なのです。神の義とは何でしょう。それは、主が私たちにご自分の肉と血をお与えになって、すべての罪を消し去られたという事実です。神の義が私たちを聖なるものとしたのです。神の義とは、罪のなかったイエスが世の罪を取り除かれ、罪人のために裁かれたということです。それは、世の罪をすべてきよめたという、イエスのバプテスマである水です。イエスがバプテスマと十字架刑によって、世の罪を取り除かれたという事実を通して、神の義が与えられています。神の義がバプテスマと死を成しており、十字架が裁きの型です。これが、福音のうちに啓示された神の義なのです。