説教集

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 6-3] (ローマ 6:12-19) 手足を義の器としてささげよ

(ローマ 6:12-19)
「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」
 
 
恵みを増すために罪を犯し続けることはできない
 
使徒パウロはローマ書第 6 章で、罪から救われた後、義人はどう生きるべきかを説いています。パウロはここでも信仰とイエスのバプテスマを明らかにします。人間の罪は、イエスのバプテスマと十字架・よみがえりへの信仰によって、ただ一度で赦されました。
イエスのバプテスマなしには、人間が神の義に満たされることはありません。イエスがバプテスマをお受けになった際に人類の罪をみな取り除いてくださらなかったなら、罪の赦しを受けた後、自分は義人であるとは言えなかったでしょう。
聖徒が自分は義人だと自信をもって言えるのは、罪がみなイエスの上に移されたためであり、また、イエスが人類の罪のために十字架につけられ、裁かれたためなのです。ローマ書第 6 章は、信仰による救済と義人の実際の生き方について教えています。パウロは述べています。「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」(ローマ 6:1)前の部分では、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです」(ローマ 5:20-21)と述べています。世の罪がどんなに深刻なものであっても、神の愛と義とを超えることはありません。人間の罪は、真のみことばへの信仰をもったとき、神の愛と義とによって赦されました。
聖書は、肉に生きる者が罪すべての赦しを受けても、恵みが増し加わるように罪を犯し続けることはできないとしています。「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」(ローマ 6:2-4)
 
 
イエスの死にあずかるバプテスマによって、イエスとともに葬られた
 
古い自己はイエスとともに十字架につけられました。これは、罪に対して死んだということです。罪はみなイエスの上に移され、イエスは身代わりとして死なれました。ですから、イエスが死なれたことは、人間が罪に対して死んだということなのです。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」
古い肉の体は、死につくバプテスマによってイエスとともに埋葬されました。主はバプテスマによって人類の罪を被られ、罪人の身代わりとして十字架上で死なれました。本来、イエスには罪がありません。しかしながら、罪人の罪をすべて被られ、身代わりとして裁きをお受けになったのです。これを信じていますか? イエスご自身は裁かれる必要がなかったのです。しかし、罪人である人間はバプテスマによってイエス・キリストについていたので、イエスの内にあって裁かれたのです。
使徒パウロは、イエスのバプテスマをとりわけ重視しました。聖徒もまた、イエスのバプテスマのことを説いています。信仰の観点からして、イエスのバプテスマを説くことは誤ってはいません。旧約の時代に罪人がささげ物の頭に両手を置いて罪を移し、それを殺したように、イエスはバプテスマによって罪人の罪を被られ、身代わりとして死なれました。
バプテスマのヨハネはイエス、神の小羊にバプテスマを授けました。イエスは罪のためのいけにえとしてバプテスマをお受けになり、世の罪をすべて被られました。ですから、イエスの死は人間の死であり、信じる者すべての死であったのです。バプテスマによってイエス・キリストについた者はみな、イエス・キリストとともに埋葬されました。バプテスマによってイエスについていない者は、救われることも、信じることも、自身を否定することも、また、世に打ち勝つこともできません。
イエス・キリストのバプテスマを信じる者だけが、自分がイエスの内にあって十字架上で死んだことを知っています。こうした人は自己を否定して世を支配し、打ち勝ちます。また、そうした人は神のみことばを信じ、頼りとします。イエスのバプテスマが世の罪を負われるために不可欠の方法であったと信じる者だけが罪の赦し、つまり完全な救済を受けるのです。
罪の赦しによる救済の要となるのは、イエスのバプテスマと血です。イエスがバプテスマによって罪人の罪を取り除いておられなければ、その死は救済に何の関わりもなかったでしょう。救済の要はイエスのバプテスマなのです。世の罪はみな、バプテスマのヨハネがバプテスマを授けたときにイエスの上に移されたのです。
 
 
神とともに新たないのちを生きる
 
使徒パウロは、「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られた」(ローマ 6:4)と述べています。イエス・キリストにつくバプテスマを受けた者はみな、信仰によって贖いを受け、イエスとともに葬られ、ともに新たないのちを得ているのです。この信仰はすばらしい信仰です。バプテスマへの信仰は、確固とした土台の上に築かれた信仰です。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」(ローマ 6:4-5)
イエスのバプテスマへの信仰によって、人は神と結ばれます。イエス・キリストを信じる者は、いのちにあって新たな歩みをします。それまでの古い自分は死んで新たによみがえり、新たになり、新しい仕事をし、それまでとは違う生き方をし、新たな信仰をもって生きるのです。新たに生まれた者は、古い生き方や考え方をしません。古い考えを否定しなければならないのは、古い自己がイエス・キリストとともに十字架上で死んだためです。
コリント II 5:17 には、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」とあります。主は人類の罪をすべて取り除かれるためヨルダン川でバプテスマをお受けになり、十字架につけられ、死者の中からよみがえられました。ですから、主は罪人全員を罪からお救いになり、いのちにあって新たに生きるようになさったのです。古い「物」、惨めさ・困難・恨み・傷ついた心は、みな過去のものとなりました。今は新たな生が始まったのです。救われることは新たな生の出発点です。
神は、イスラエル人がエジプトから脱出し、カナンの地に入ってから、過越しを祝うようにと彼らにおっしゃいました。エジプトからの脱出は、罪から救われることを象徴しています。出エジプト記 12:1-11 には、次のようにあります。「主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。イスラエルの全会衆に告げて言え。『この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全会衆は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越しのいけにえである。』」(出エジプト 12:1-11)
ここで注意するべきことは、過越しの祭りに小羊の肉を種を入れないパンと苦菜と一緒に食べるようにと神がお命じになっていることです。
人は罪から救われた後にも数多くの苦い体験をします。苦菜は自己否定を象徴しています。必ず困難というものはあります。しかし、聖徒はキリストとともに葬られているのです。「なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい。」(ローマ 6:10-11) 
これが、イエスとともにあるということの核心なのです。イエスのみわざ、すなわちバプテスマと十字架、よみがえりを信じて、人はイエスにある者になるのです。イエスのみわざには、誕生、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったこと、磔刑・よみがえり、そして、使者を裁かれるために再臨されることが含まれます。これらすべてを信じることが真の信仰、つまり、救済・裁き・神の儀への信仰なのです。
ローマ 6:10 には、「なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり」とあります。イエスは、二度の機会に人類の罪を洗い流されたのではありません。イエスは世の罪をただ一度で消されたのです。
ローマ 6:10-11 には、「キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい」とあります。
確かに人間は罪に対して死んだのであり、神に対しては生きているのです。今、私たちは神に対しては生きています。新たないのちを得、新たな存在になったのです。
「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」(ローマ 6:12-14)
「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」
贖われた後、生きていくうえでどんな弱点が表に出ようと、聖徒にはもう罪がありません。確かに弱点はあります。まだ肉の体をもっているのですから。しかしながら、罪は私たちを支配はしません。聖徒は、イエスのバプテスマとその血による裁きとへの信仰によって罪の赦しを受けているのですから、どんなに弱い人間であっても、罰されることはないのです。聖徒の不正もまた罪です。
罪が聖徒を支配できないというのは、ほんとうです。神は義人が罪に支配されないようになさいました。どんな弱い人間であろうと罪に支配されることのないように、イエスはそのバプテスマによってただ一度で罪を洗い流されたのです。主は十字架上で罪の代償を支払われました。信じる者には罪がありません。主が罪を贖ってくださったためです。
義人は自分の内の数多くの短所や咎が明らかになるのを目にするのですが、罪に支配されることはありません。また、信仰をもって主に頼っているなら、罰もないのです。ですから、いつでもいのちにあって新たに生きることができるのです。
 
 
手足を義の器として神にささげよ
 
主は、義人が毎日新たに生きるよう、恵んでくださいます。では、罪を犯し続けてもよいのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ローマ 6:13 には、「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」とあります。
「神に感謝すべきことには、あなたがたは、元は罪の奴隷でしたが……。」人間は本来罪の奴隷で、罪を犯すのに巧みでした。しかし聖書には、「伝えられた教えの基準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです」(ローマ 6:17-18)とあります。
義人となった者は罪から解放され、神の義の奴隷となりました。恵みにより、義人になれるのです。聖徒は完全に罪から解放され、義人となることができました。聖徒は神の義のために働く義人になりました。
贖われて後、自分の体で何をしたらよいのでしょう。救われた後、肉の体でどのような行ないをすればよいのでしょう。聖書には、「今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい」(ローマ 6:19)とあります。罪から救われても、肉は何をするでしょう。心には罪がなくとも、肉は罪に陥るものです。ですから、肉を義の奴隷として差し出して、罪に陥ることを免れるのです。これはまた、義人となっているのだから、ただ肉を義の働きのために差し出せということなのです。
 
 
敬虔のために鍛錬する
 
肉は弱いのですが、救われた後、その人に罪はないのでしょうか。イエスのバプテスマ・十字架・よみがえり・再臨・最後の審判を信じる者には、確かに罪がありません。その人たちには罪がありません。肉を義の働きに差し出しさえすればよいのです。そうすると、心もまた義のために働くことを望むのです。しかし、肉は神の義のために働くのが得意ではありません。ですから、テモテI 4:7 には、「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」とあるのです。敬虔のために鍛錬しましょう。
これは短時間でできることではありません。福音の小冊子を人々に配布していて知人に会うと、恥ずかしく思います。最初はその人たちを避け、家に帰ります。恥ずかしいからです。しかしながら、「古い自分は死んだのだ」と考えて何度かやってみて、勇気を出して「贖いを得なければ地獄に行きます。ですからこの小冊子を読んで贖いを受けてください」と言います。このように行動することが、肉を義のためにささげるということなのです。
ローマ書第 6 章は、自分の手足を敬虔のための義の奴隷に差し出せと告げています。自身のからだを義の奴隷として差し出すのです。何度も鍛錬するのです。これは短時間ではできません。何度も何度もしなければなりません。教会に出席しようとすると、教会に行くことがおもしろく思えるようになります。「これを信じている。でも、全部家で信じていた。牧師さんが話していることは全部わかっているもの」などと考えてはいけません。肉と心の両方が教会にいなくてはなりません。自分の手足を義の奴隷として差し出してはじめて、信仰は心の中で育つのです。
自身のからだを義の働きのために差し出すのです。言っていることがわかりますか? 指導者と会うことや集会を避けてはいけません。マーケットに行くときは教会に立ち寄り、「マーケットに行く途中なんです。何かありますか」と言いましょう。教会にしばしば立ち寄ることが、手足を義の奴隷にするということです。
すると、指導者は「そうですね。ここを片付けていただけませんか」と言うでしょう。
「はい。」
「それから、今夜また来てください。」
「何があるのですか?」
「今夜は青年交流会があるのです。」
「そうですか。では、今夜来ます。」
この世の中にいると、とても忙しいのですが、世の人から集まりに参加するよう頼まれたなら、どこに行くべきでしょう。
教会に行くべきです。たとえ会社の同僚から食事に誘われても、教会に出席するべきなのです。心は教会にありながら、体はレストランにいるということがあってはなりません。肉を世から逃れさせて教会に置くなら、肉と心は安らぎます。
どう思いますか? しばしば他の世俗的な場所に身を運ぶなら、心は教会につながっていたくとも、意思に反して神に敵対する者になるでしょう。
 
 
霊によって肉を鍛錬する
 
体を義の奴隷として差し出さなければなりませんが、それは肉が完全だということではありません。肉はしたいようにしがちなのですが、義の働きのために手足を何度も差しださなければなりません。人間は慣れたことをするものです。それは肉を何の奴隷にするかによって決まります。
使徒パウロは、「今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」と教えました。自分自身をどのように訓練するかが大事なのです。体に飲むことを教えれば、体は自動的に飲みに行きます。その結果、教会にいる間にも体はバーに行こうとします。バーにかけていると、心が痛みます。しかし、教会に座っていると、心は安らぎますが肉は苦しみます。
体にも個性というものがあります。肉は心による訓練次第です。何度も酒を飲むと、肉は「お酒が好きだ」と言います。しかし、酒を飲まなければ、肉は「酒はいやだ」と言います。なぜでしょうか。肉は訓練されていないためです。心は聖化されていても、肉はどのように訓練するかによるのです。御霊は心の世話をしてくださいます。御霊は教会の外にいても支えてくださいます。しかしながら、肉は義の奴隷として聖潔に進まなければなりません。ですから、ともかく何度も教会に来ることです。
救われた者は敬虔であるよう鍛錬しなければなりません。聖書は、みことばに従い、導かれよと告げています。みことばに導かれなければならないというのは、人間はいつも肉を自分の物と考え、その喜ぶようにしたいと思うためです。望みのままに買い物やダンス、酒を飲む場に行っていると、教会ですわり、礼拝に集中することがとても難しいのです。ですから、指導者が導かなければなりません。「こちらに座って、みことばを聞きなさい。」
「はい。」
説教を聴くのに飽き飽きするのですが、忍耐強くあらねばなりません。
「我慢して座っているのだ。なぜこんなに退屈なのだろう。バーなら三時間だって座っていられるのに。なぜここでは一時間もじっとしていられないのだろう。説教を聴いてたった一時間過ぎただけだ。バーでは五時間も酒を飲んだし、二十時間ぶっ通しでポーカーをしたこともあるのに。」
これはみな、どう体を訓練しているかによるのです。教会で座っていることに慣れた肉は、バーに行くのを嫌います。しかしながら、酒を飲むのに慣れている人は、教会で座っていると地獄にいるような気がするのです。数日間我慢してごらんなさい。そうすると、我慢できるようになります。自分自身に教え込むまでは、とても苦しいのです。自分の時間に他のことをしたいときも、教会で時を過ごすようにしましょう。
体に覚えこませるために、教会で指導者や兄弟姉妹と話して時を過ごします。私は教会がとても心地よいのです。ここには誘惑するものは何もありません。しかしながら、通りを歩いていると、いろいろなものが誘惑するのです。洋装店のウインドウの中にある洋服のように心を誘うものがたくさんあります。見たい物を全部見ながら家に帰ると、二時間かかります。そうして最後には道を誤るのです。
何か変わった物があると、それを見にそちらに行きます。後になって、「いつになったら家に着くんだ。誰か家に連れて行ってくれないだろうか」と思います。ですから、帰宅の途中であちこちうろついてはいけません。礼拝の後はまっすぐ帰るのです。教会のバスに乗って、まっすぐ家に帰りなさい。
「教会に行くのに迎えに来ないでいいですよ。一人で行けますから。丈夫な足があるんです。教会のバスで行く必要はありません」と考えるなら、誘惑されて道を逸れます。教会に行くのに送迎用バスに乗り、礼拝が終わり次第、余計なことを考えることなく家に帰れることをうれしく思うべきなのです。聖書を読み、祈りをささげ、家に帰ってすぐ眠る──そのほうがよいのです。
このように生きるほうがよいのです。
「私の信仰は深い。私には罪がない。自分で何かを証明しよう。バーに行っても酒を飲まないことにしよう。罪の増し加わるところには恵みも満ちあふれる 私は恵みに満ちている」と思う人がいるでしょう。
このように考えてバーに行ったなら、友人たちは「おい、飲めよ」と言うでしょう。
「いや。ぼくが飲んでるのをみたことがないだろう。酒はやめたんだ。」
「いいから飲めよ。」
「だめだ。」
「ワイン一杯くらい飲めるだろう。」
友人はグラスにワインを注いで渡します。しかし、思います。
「君は酒を飲まそうとするが、私はソーダを飲んでいるんだ。」
すると、ずっと以前に酒を飲んだことを思い出します。
「おいしいだろうなあ。もう一度ワインを勧めてくれないかな。一杯だけ飲もう。」
彼は大急ぎでソーダを飲み終えます。
すると、友人たちは彼が飲みたがっているのを知り、空のグラスにワインを注ぎます。
「これは強くないよ。カクテルがわりに飲めばいいさ。」
「いや、飲めないよ。ぼくはイエスを信じているんだよ。」
しかしながら、とうとう酒を一杯飲み、友人は彼が酒を飲めることを知ります。
「今日だけはいいだろう。」
「わかったよ。今日は飲もう。でも、イエスを信じろよ。いいだろう。酒を飲んでもぼくには罪がないんだ。君には罪があるか? だったら罪から救われなくては。」
 
 
いつ肉に妥協するか
 
人間とは、こうしたものです。特に変わったことではありません。重要なことは、肉をどこに差し出すか、です。手足を義の奴隷として聖潔に進みなさい。肉は聖くないのですから、肉を聖潔に進ませなさい。今の例のように、私も以前は酒を飲みました。しかし、他のことも同じなのです。これは、自分自身をどのように訓練するかによります。
聖徒は信仰によって一瞬に、それも永遠に救われました。しかし、心と体の敬虔さは、肉をどこに差し出すかによるのです。心はきよいはずなのに、肉を汚れに向けると心もまた汚れるような気がします。それから信仰を捨て、教会に敵対し、神の御名を空しく唱え、神の御前から遠ざかり、サタンに欺かれるのです。そうして結局は滅ぼされます。
ですから、気をつけなさい。さもないと、滅びます。注意なさい。罪から救われた後、日々の罪をどうしたらよいのでしょう。「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」何度罪を犯そうと、人間が二度と再び罪人になることがないよう、主は、日々の罪もまた完全に消し去ってくださいました。
しかしながら、肉が何度も何度も悪に向かっていくのなら、困ったことになります。どこに肉を差し出せばよいのでしょう。肉は所定の方向へ行かなければなりません。これまで、この点をわかっていただくためにお話ししてきました。
心が聖いように、肉は聖くなります。義の奴隷としてささげるなら、肉は神の前で義の奴隷になります。救われた後、どのように生きたらいいのかわからないのなら、教会を生活の中心に据えるのです。聖書は、教会は宿のようなものだとしています。宿で飲み、話し合うのと同じように、聖徒は教会で飲み、霊的糧を食べ、交流します。
教会は宿と同じです。教会で交流し、話し合います。ですから、いずれにしろいつでも教会に行く必要があるのです。いつも教会に行く人は霊的人になり、通常教会に行かない人は、以前はどんなにすばらしい信仰をもっていても、御霊とともに歩むことができません。いつも教会に来る人は、どんなに弱い人であろうと、自然に霊的に豊かになります。これは贖いを受けた後の霊的交流によるものです。
聖徒が宿る場所は教会しかありません。できるだけ頻繁に教会に来てください。そして、神の民と交流するのです。教会に立ち寄りなさい。礼拝には毎回参加しなさい。みことばを聞き、しようとしていることについて教会の指導者に相談しなさい。
みことばを生の中心に据え、共に集うのです。そうすれば、必ずやよき信仰生活を送ることができます。主によく使われ、恵みを受けるのです。肉と心とを神の義の器としてささげてください。