説教集

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 7-5] (ローマ人への手紙 第 7 章 24-25 節) 肉は罪の律法に従う

(ローマ人への手紙 第 7 章 24-25 節)
「私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」
 
 
肉は罪に仕える定めにある
 
みなさんの信仰生活はどうですか? 「心は燃えていても、肉体は弱いのです」(マタイ 26:41)。みなさんはこんなふうですか?
聖書にはまた、こうもあります。「ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」 そうして、こうした原理が私たちを支配しているのです。私たちの心は、神を愛し、真理を愛すように作られていますが、肉が罪の律法に従うのはごく自然なことなのです。神のみことばは、心は福音と神の義に従うが、肉は罪にのみ従うと言っています。
罪の律法とは何かわかりますか? 私たちは忠実な信者として生きたいと思います。ですから、聖徒と神のしもべとは、肉が実際に罪に仕えていないときには、獅子のように自信に満ちています。しかし、肉が罪に仕えほしいままにするときには、まったく無力です。これ以上罪を犯さなければ幸福で勇気に満ちていられるだろうと思うでしょうが、実際は、二度と罪を犯さないでいる自信はもてないのです。信徒や神のしもべの心は、このために萎縮します。
「♫罪はすべて消えた。♪カルヴァリーの恵みにより。♫」 赦しを受けてこのように神をたたえはしますが、これからの信仰生活について考えると、自信がありません。そこで、肉の弱さについて考え、こう結論します。「これからはこんな生き方をしてはいけない。もう罪を犯してはいけない。」しかし、主に頼り、再び神の義にしっかり立ったときには、神にこう約束します。「主よ、ありがとうございます。ハレルヤ。死の訪れるまであなたに従います。」 そうして、猛烈な勢いで主に仕えますが、それは長続きしません。じきにまた罪を犯して、自分に失望するからです。実際、救われた信徒や神のしもべは、みんなこんなふうなのです。こうして、肉は罪にしか仕えないという事実に暗澹とした気分になるのです。
主は、人間が肉の弱さに縛られることを望まれません。これはまた、パウロが霊を肉と区別した理由なのです。「ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」 肉は向上しません。肉は罪の律法にのみ従うのです。パウロはそれが当然なのだと言います。肉は罪にのみ従い仕えるようにできているのです。わかりますか? それが律法なのです。誰に肉の律法を変えられるでしょう? みなさんも私もできません。では、心では誰に仕えたらよいのでしょう? 神に仕えるのです。神と真実、魂と神の義を心から愛すのです。
 
 
肉に多くを期待してはいけない
 
肉は、神の義ではなく肉体的な快楽、快適さ、平安、喜び、それに虚栄を増幅しようとします 肉は心地よいことならなんでも行なおうとします。
「おい、肉よ、いい仕事をするんだよ」と言って、肉に多くを期待してはいけません。肉が向上するだろうなどという期待は捨てなさい。肉が神と神の義を愛すとか、神の義に仕え、神のために苦しむだろうなどと考えてはいけません。
肉から何か良いものを期待する人々は愚かです。では、どうしたらいいのでしょう? すべては神の律法に従って行なわれます。それを知っていても、神の律法を変えられますか? もちろん、変えることはできません。主の律法なのですから。
肉が罪に仕えるのは、神の律法です。鬱屈して表情が暗いのは、それは肉に仕えているからです。肉は良い暮らしを求めるので、いつでも自分を正当化します。自己正当化は止めましょう。それよりは、肉はそのままにしておきましょう。心で主への信仰に生きるのです。肉は死ぬまで罪を犯すことを免れません。肉は罪にのみ仕えるからです。人間は、自分では罪から逃れることができません。「肉は良くなるだろう」と思うでしょう。しかし、絶対にそんなことにはなりません。あるいは、無意識に罪を犯したとき、「環境が悪いせいだ」と考えるでしょう。違うのです! それは環境のせいなどではありません。肉は初めから罪に仕えることになっているのです。
肉は何ひとつ良いことをしません。肉は死ぬまで罪を犯します。「肉は向上するでしょうか?」 そんなことを期待してはいけません。すっかり失望するでしょうから。どんなに頻繁に決心して「こういうことはしまい」と自分に言い聞かせてみても、肉は意思に反してでも悪を行なわずにいられないのです。誰が罪を犯すまいと心の中で決心しなかったでしょう? みんなしました! しかし、肉が罪にのみ仕えるのは、神の律法なのです。
カトリックの神父や尼、あらゆる宗教の修道僧や隠者も、肉で聖なる生活をしようとしました。しかし、肉が汚れのない生活をするのは不可能です。その人々は、偽善者として生きるのです。肉で善を行なうのは不可能です。肉は罪の律法に従うのです。これは神が定められた律法なのです。セミが空を飛んでいるときでも幼虫は飛ぶことができないように、これが律法なのです。イモムシが汚い泥を食べたがるように、人間の肉は罪を犯したがるのです。自分の肉に何か良いことを期待できると正直に言えますか? もちろん、言えません。このために使徒パウロは「ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」(ローマ 7:25) と言ったのです。
肉は死ぬまで罪を犯します。罪を犯さずにはいられないのです。長い訓練の後、肉はもう罪を犯さなくなるでしょうか? いいえ! 肉は向上できないのです。では、肉は好きなだけ罪を犯してよいのでしょうか? いいえ! 私が言いたいのはそういうことではありません。ただ、肉は罪を犯さずにはいられないと言っているのです。罪はその人の意思や能力には依存していません。たとえそうしたくなくとも罪を犯さずにはいられず、罪を犯すまいとすればするほど、より多くの罪を犯すことになるのです。
「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」 (ローマ 7:23-24) 肉は人間を罪の律法のとりこにするのですから、肉には善を行なうことができません。
人々はこの真実を恥じ、語るのを嫌って「どうしてそんなことを人前で言えるんです?」と尋ねます。しかし、これをあんなに率直に話したのは、パウロその人だったのではありませんか? 肉は罪の律法に従うのです。人間はその思いとは無関係に、死ぬまで罪に仕えるのです。人間は罪を犯すためだけに生まれたのではありません。それでも、肉が罪の道具であることは否定できません。
 
 
主は、人間が神に仕えることを可能になさった
 
聖徒のみなさん、これはどうでしょう? 努力し続ければ肉で主に仕えることができるでしょうか? できますか? いいえ!
誰が人類をすべての罪からすっかり救ってくださったのですか? イエスです。では、イエス・キリストは罪の律法に仕える肉の罪のすべてから人類を救ってくださいましたか? イエス・キリストは、罪の律法に従って一生罪を犯し続ける人類を肉の罪のすべてから救ってくださいましたか? 主は本当にすべての罪から救ってくださいましたか? 答えは、そう、その通りです! もちろん、主はそうなさいました! 肉が罪を犯さずにいることはできません。また、肉によって罪を赦されて神の罰から救われることは不可能です。しかし、主はそれを可能になさいました。主はいつでも罪を犯し続けている人間を義とし、すべての罪から救われたのです。
主イエス・キリストが救ってくださったのです。人類を救った主とは、どなたですか? イエス・キリストです。では、イエス・キリストとはどなたでしょう? イエスは神の御子で、信者すべての主です。イエスは救い主です。主イエス・キリストが、人類をすべての罪から完全に解放なさったのです。イエス・キリストは、人間が神に仕えられるようになさいました。
主は、人間が罪なしに生きられるようにしてくださいました。人類を創った全能の主が、すべての罪から救ってくださったのです。肉は死ぬまで罪の律法に仕えるにも関わらず、主は人類を完全に救い、義となさいました。使徒パウロが主イエス・キリストによって神に感謝を捧げたのはこのためです。私たちもまた、主イエス・キリストをお遣わしになった神には、感謝のしようがありません。
主の救済はなんとすばらしく、なんと大きく慈愛深いのでしょう。死ぬまで罪を犯さずにはいられない堕落した肉を救ってくださった主の全能の力に感謝せずにはいられません。主はその力で私たちを救い、四肢を信仰によって神に仕える道具となさいました。主は、もう罪のしもべではなくなるよう、完全に救ってくださいました。
主は完全に救ってくださいませんでしたか? もちろん、そうなさいました! 主はすっかり完全に救ってくださいました。主は、神に仕え得るようにしてくださいました。このすばらしいことをしたのは、誰ですか? 主です! 肉で罪を犯さずにはいられない人間を、義とし、神に仕えられるようにしたのは誰ですか? 主です! 主は、一生罪を犯し続ける人類をすべての罪から救ってくださいました。主はまた、神の義に仕えられるように私たちを変えられました。
 
 
主はすべての罪から救ってくださった
 
人間として、このことをよく考えなければいけません。主の救済がすばらしく思われるのは、自分が人間だからです。肉が罪にのみ仕えるということを知らなければ、私はいつでも失望していたでしょう。おそらくは、すでに罪の赦しを得ていながら罪のために信仰生活を諦めていたでしょう。
「救われる前、私は罪を犯してもやってこれた。しかし、いまだに罪を犯すのなら、救われていてもいなくても同じではないか。新たに生まれるのが何になる?」 みなさんは、自分は以前より良くなるはずだと思うでしょう。今は救われたのだから、肉は救われる前よりも良くなるだろうと思うでしょう。まだ新たに生まれていない人々には、私の言っていることがわからないでしょう。
肉の罪がすべて赦されたと知り信じて、はじめてイエスに感謝できるのです。死ぬまでの罪のすべてを取り除いてくださった主に感謝いたします。
韓国の聖歌集の前の版には、次のような聖歌がありました。「ハレルヤ! 主をたたえよ。♫すべての罪は赦された。主イエスと共に歩めば、道はすべて天の国に続く♪」 これはどういうことでしょう? 主が取り去ったのが過去の罪だけだったなら、次にどうしたらよいのでしょう? これ以上罪を犯してはいけません。罪を犯すたびにいちいち赦しを求めて祈らなければなりません。そうして、いずれにしても良く生きなければいけません。しかし、これはサタンの恐ろしい計略でしかないです。
この計略ほど甘美なものはありません。サタンは、欺いて言います、「過去の罪はすべて赦された。だから、イエスと共に歩みこれ以上の罪を犯さなければ、天の国に入れるだろう。しかし、これからは罪を犯した時はいつでも、天の国に入れてもらうために悔い改めの祈りを捧げて赦しを乞わなければいけない。わかるか?」 たいていの人は聖書を読んだとき、これを信じます。その人たちはすすり泣きながら聖歌を歌います。「♪ハレルヤ! 主をたたえよ。♫過去の罪はすべて赦された。主イエスと共に歩めば、道はすべて天の国に続く。♪」 
しかし、その人たちは歌いやめられません。それが肉についての神の律法なのです。肉は何度も何度も罪を犯さずにはいられません。そこでその人たちは、赦しを求めて祈らなければいけないと考えます。毎日の罪の赦しを得るために、熱心に悔い改めの祈りを捧げます。祈りの後で聖歌を歌います。「♪ハレルヤ! 主をたたえよ。♫すべての罪は赦された。主イエスと共に歩めば、すべての道は天の国に続く。♪」 しかし、これはほんの 二、三 日でも続くでしょうか? その人たちは数日どころか数時間のうちにまた罪を犯します。赦しを得るために祈り、断食しますが、肉に生きている限りは、不変の神の律法を免れることはできません。
聖歌の歌詞は本当ですか? 過去の罪だけが赦されたのですか? 主は、過去の罪だけでなくすべての罪を取り除かれたのです。だからこそ神をたたえることができます。「♪ ハレルヤ! 主をたたえよ! ♫すべての罪は赦された! 主イエスと共に歩めば、すべての道は天の国に続く。♪」 
肉が死ぬまで罪を犯し続けるのは神の律法であるということを知らなければ、救われた人々はまた罪を犯した後で、とまどったでしょう。新たに生まれてはいない人々と同じ悪を自分たちの肉に見いだしたとき、その人たちは容易に心の平安を失います。その人たちが安らかでいられるのは罪を犯していないときだけです。これは、まだ罪の赦しを得ていないキリスト教徒全員の生活にも見られる現象です。その人たちは、口先だけで歌っているのです。「♫私の罪は消えた、♪あなたの罪も消えた。罪はみな消えた。♫」 しかし、また罪を犯しすと、またも赦しを乞わなければいけないと考えます。罪を犯すことが多ければ多いほど、その人たちの声は小さくなります。「♫私の罪は消えた、 ♫あなたの罪も消えた...」そうして、やがて自分自身に失望してしまいます。
主はすべての罪から完全に救ってくださったのです。いついかなる時にも神をたたえ感謝できるよう、主はすべての罪から救ってくださったのです。イエス・キリストによって、私たちはいつでも神の平安を楽しみ、救いを求めて祈ることができるのです。
 
 
肉は罪の律法にのみ仕えることを知れば、信仰によって罪から解放される
 
なぜ信仰生活が難しいのでしょう? 信仰生活に苦しむのは、肉は罪の律法にのみ仕えるのだという真理を知らないからではありませんか? この真理を知って、霊的生活を送りましょう。
神のみことばを熱心に聞いて仲間と交流する中で神の真理を知り、人は変わります。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あながたがは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ 8:31-32) 「私たちの主イエス・キリストのゆえに、神に感謝します。」 主は、いつでも神をたたえられるよう、人類をすべての罪から完全に救われたのです。これを信じますか? 主はすべての罪から人類を救われました。
自分の考えにおぼれ、沈み込んではいけません。そんなことをしてもどうにもなりません。罪のくびきから自由になってはじめて、主に従い、感謝し、信仰に生きることができるのです。信仰が行ないと結びついていて、しかも自分がまた罪を犯すと知っていては、いつでも喜んで主に従うことはできません。主の救済がほんのわずかでも不完全だったのなら、あまり自信をもって主に従うことができないでしょう。
罪をすべて取り除いてくださったから主に感謝するのです。私たちは主をたたえ、力強く従います。自分の罪の問題を解決できないで、どうして他の人々を罪から救えますか? どうして他の人に福音を説くことができます? 溺れている人間がどうして他の溺れている人を救えるでしょう? 肉は罪を犯さずにはいられないということを認めれば、罪から解放されるのです。しかし、この真理を認めなければ、それは「キリスト教」という宗教の偽りの教理に毒されているのです。
おもしろい話があります。みなさんもご存知かもしれません。昔、若いカトリックの神父が、教会から遠い村で死にかけている信者を尋ねるために、二人の尼と一緒に馬車に乗りました。神父は馬を操作するために二人の間に座りました。若くかわいらしい尼が神父の右に、醜い老いた尼が左側に座っていました。馬車が町の広く平坦な通りを進んでいる間は問題がありませんでしたが、狭いでこぼこの山道にさしかかると、馬車がひどく揺れ始めました。神父は心の中で何を考えていたでしょう? 馬車が右に傾くと、神父は「ああ、神よ。みこころのままになさってください!」と祈りました。しかし、反対側に傾いた時は、心の中で必死に叫びました。「ああ、主よ。誘惑に導かないでください!」 神父は二つのことを祈りました。「ああ、神よ。みこころのままにしてください」と、「ああ、主よ。誘惑に導かないでください!」 
人はみな、この神父と同じです。肉は罪の律法にのみ従いますが、主のみこころを知って、みこころのままに信仰をもって従わなければいけません。なぜなら、自分自身には何も期待できないからです。私たちは死んでおり、肉が向上することはありません。
 
 
完全に救われたので主に従う
 
良い行ないをすることによって天の国に入るのなら、あるいは救済がどれだけ良い行ないをし、どれだけの罪を犯したかにかかっていたとしたら、どんなに憂鬱でしょう。主はおっしゃいました。「あなたたちは一生罪を犯し続けます。しかし、わたしはあなたたちが死ぬまで犯す罪をすべて取り除きました。あなたたちを義とし、罪のない義人とし、完全に救いました。感謝していますか?」 何と答えますか? 「はい、主よ、感謝します!」 イエスはまた尋ねられます。「わたしに従いますか?」 何と答えますか? 「はい、従います。」
みなさんは、神に従いたいと思いますか? もちろん、罪をすべて取り除いてくださった主に従いたいと思います。主が罪の 90% だけを取り除いたのであれば、従うことはできなかったでしょう。みなさんは、神に訴えて言うでしょう、「残りの 10% の罪も取り除いてくださればいいのに! この罪の問題をどうして自分で解決できますか? 自分の汚れを洗わなければいけないときに、どうしてあなたに従えますか?」 そうして、罪のせいで、神に従うのをやめてしまいます。
しかしながら、神が罪のすべてから完全に救ってくださったので、今は進んで主に従いたいと思います。「はい、あなたは完全に救ってくださいました。たった今から従うことができます! 主よ、ありがとうございます! 主にたたえあれ! 主に栄光あれ。あなたを愛しています!」 神に仕え身を捧げるのは、神を愛し、従いたいと思うからです。心の底から主に従いたいと思うのは、すべての罪から救われたからであり、神の愛に触れたからです。
同じことが教会に参加することにもいえます。日曜礼拝に出席するのは、そうしたいという気持ちがあれば、いとも簡単なことです。しかし、何らかの理由で出席したくなければ、週に一度教会に行くことも重労働になります。礼拝のたびに「みなさん、先週中に犯した罪すべてを悔い改めなさい」という、同じ悲しい言葉を聞かなければいけないとしたら、二年もしたら、教会に行くのをやめるでしょう。意志の強い人はもっと長続きするでしょう、たぶん十年か、二十年は続くでしょうが、でもその人たちもいずれはやめてしまいます。偽りの預言者の多くは、罪に苦しむ人々に悔い改めを強います。このために大勢の人々が、イエスを信じるのはあまりに厳しく難しいと思って、教会に行くのをやめます。
人は愛に感じて主に従うのです。主をたたえられずにはいられないので、歌うのです。「♪愛しいイエス。この世の何にもまさるイエス♪」 イエスに従うのは、本当に愛しているからです。
主の救済はなんとすばらしいのでしょう! 主は、微塵の罪もなく神に仕えることができるようになさいました。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ 8:1-2) いつでも神に感謝し、たたえることができるよう、主は恵まれます。主は私たちがいつも喜び従うことを望まれるます。主は私たちを救われました。これを信じますか?
自分の弱さに悩まされてはいけません。主は、自分の気質を抑えられない人々の罪をすべて取り除かれました。主はまた、みだらでひねくれた人々の罪をもすべて取り除かれました。さて、これで主に従いたくなりませんか? ですから私たちは主を愛するのです。主は従うことを強いも、崇拝を強制したりもなさいません。神が恵みをお与えくださったのです。神は私たちの父に、私たちは神の子どもとなりました。そして、神は従えとおっしゃいます。神はご自分のしもべに、仕えよとおっしゃいます。
神に救われた者はみな、神のしもべです。神はご自分のしもべすべてに恵みをお与えになり、従えとおっしゃいます。主は行ないを愛でて召されるのではありません。主は、おっしゃいます。「わたしはあなたたちをすべての罪から救いました。あなたたちの気質はとんでもない。あなたたちの中にはみだらさがあります。あなたたちは言語道断です。あなたたちは愚かです。あなたたちは先祖の罪のゆえに呪われるべきです。それでもあなたたちを救いました。他のことはどうでもいいのです。あなたたちは、生涯罪を犯さずにはいられませんが、わたしは罪をすべて取り除きました。わたしはあなたたちのために苦しみ、あなたたちの罪をすべて消すために死者たちの中からよみがえりました。わたしがこれらのことをしたのは、愛しているからです。あなたたちを愛しています。あなたたちはわたしを愛しますか?」 何と答えますか? 「はい、主よ、愛しています。私もあなたを愛していることは、ご存知でしょう。主よ、ありがとうございます!」
「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです」と主はおっしゃいました。これを信じますか? 人間はほんとうによこしまです! 神の前でどれだけの罪を犯したでしょう? 罪を犯さないふりをしないでください。
人間は生涯を通じて無数の罪を犯します。しかし、主は、星の数ほどもある罪のすべてを永遠に取り除かれたのです。主イエスは人類の罪をすべて完全に取り除かれたのです。
 
 
神はご自分の義をまとわせて私たちをしもべとなさった
 
ときには自分を省みて、これ以上は神に従って行けないと思うことがあるでしょう。晴れた日のように心が明るいときもあれば、ひどく暗いときもあります。そうして、ときには、新たに生まれて後、神に従っていながら闇の中にいる自分を見出すこともあります。人間は四季の移り変わるように変ります。ノアが箱舟から出たとき、神は八種類の季節をお与えになりました。神はおっしゃいました。「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」(創世記 8:22) 
信仰の起伏もやむことがありません。あるときは喜んでイエスをたたえますが、困難に出会ったときには、すぐさま腹を立てます。
「またこう言われます。『わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。』 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。」(ヘブル 10:17-18)  主はこのようにおっしゃいました。
肉は死ぬまで罪を犯さずにはいられません。それが肉の律法です。肉は罪の律法に仕えます。つまり、肉は罪を犯すことしかできないのです。しかし、神はその罪を犯すことしかできない者たちをしもべとなさいました。神はどのようにして人間をしもべとなさったのでしょう? もちろん神は、罪のある者をしもべすることはおできになれません。
神は、肉が死の時までに犯す罪のすべてを取り除いて罪の報いを支払い、完全なものにして、しもべとなさったのです。神はみなさんを聖別し、聖なる働き手となるよう召されました。神は私たちをしもべとなさいました。私たちは弱い存在ですが、今は力があります。「どんな力ですか」ですって? 神の義の力です。主の義をまとうことで、完全な力を得ているのです。つまり、私たちは完全になったのです。肉においては弱いのですが、霊においては強いのです。
 
 
主に仕えられる人は誰か
 
「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」(コリントII 6:10) 罪深く見えても、私たちに罪はありません。罪を犯しますが、私たちに罪はありません。ですから、水と聖霊の福音によって大勢の人を助けることができるのです。これがキリストの秘儀であり、天の国の秘密なのです。
完全に救ってくださった主をたたえます。誰が主に仕えられますか? 罪を犯すまいとすることで主に仕えようとする人々ですか、それとも、生涯に犯す罪をすべて主が取り除いてくださったと信じる人々ですか? 後者だけが主に仕え、たたえることができるのです。主がすべての罪を完全に洗い流してくださったと信じる人々だけが、仕えることができるのです。その人たちは進んで主に奉仕し、その所有物をすべてをみわざに投入います。神の働き手であることを、どんなにささやかでも何かしらできることを、その人たちは誇りに思います。
自分の義が損なわれることを恐れて、腹を立てるべき状況にある時でさえも絶対に怒らない人々がいます。その人たちの独善はくじかれなければなりません。自分自身の義はごみを捨てるように屑入れに捨てましょう。自分自身の義は捨てなさい。踏みつけ、切り刻んで屑入れに放り込みましょう。自分自身の義を捨ててはじめて、主に感謝し、神の義をたたえることができるのです。
そうした人々は、主に感謝して歌うことができます。「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。」(詩篇 100:4) 自分自身の義をもつ人々は、たとえ救われたとしても、最後まで主を愛したり仕えたりすることができません。肉は生涯罪にのみ仕えるのであり、主がその罪のすべてを将来の罪も含めて取り除いてくださったと信じる人々は、忍耐強く主を愛し仕えようとします。その人たちの心の中には主を愛そうという衝動があります。
みなさんには、主を愛し仕えたいという心がありますか? 神に感謝する心がありますか?
 
 
主は、罪なしに幸福に生きられるようにしてくださった
 
私たち神のしもべは、年に百万ドルを稼ぐ人々よりも豊かで幸福に生きています。夏には西瓜を食べ、季節には桃やブドウを食べます。何でも食べたいものを食べられます。貧しくありません。みなさんは、贖われた後で貧しく暮らしたことがありますか? 私たちは豊かに生きてきました。
主と共に歩めば、豊かに生きることができます。主と共に歩む者は、困窮することがありません。これを信じますか? 世の中の基準からすれば豊かではありませんが、私たちは何不自由なく生きています。これを信じますか? 主に会った後でも何か得られなかったものや満たされなかった欲求がありますか? 私たちは満ち足りています。これまで以上に豊かに生きています。たとえば私は、これまで以上によく生き、よく眠っています。
主は完全に救ってくださいました。この恵みは言葉では言い表せません。主は完全に救ってくださり、主によって神に感謝できるようになさったのです。神の恵みはなんとすばらしいのでしょう!
「私はなんとみじめな人間なのだろう」 パウロは自分の肉を見て言いました。「だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」 人間は生涯を通して罪を犯します。肉で犯す罪のすべてから人類を救ったのは誰ですか? 主イエス・キリストが私たちをお救いになりました。パウロがそうしたように、私も主イエス・キリストのゆえに、神に感謝します。主よ、ありがとうございます。すべての罪を取り除いてくださってありがとうございます。
使徒パウロは神の義を得て後、自分自身の義によっては生きませんでした。パウロは何度も、自分の肉が売られて罪の下にあったと告白しました。パウロは第 7 章を救われる前に、第 8 章を救われて後に書いたと主張する人々がいます。それは正しくありません。
みことばは救われた者にも救われていない者にも当てはまるのです。これはすべての人に当てはまるのです。たいていの神学者は、神のみことばを知らず、第 7 章と第 8 章を切り離し、前者を救われていない人々に、後者を救われた人々に当てはめがちです。その人たちは、段落の分け方を知らないのに神のみことばを機械的に段落に切り分けます。この社会には、頭がよいけれど偽りに満ちた人々が大勢いるのです。
主イエスは人類の罪を完全に、すっかり取り除かれたのです。みなさんは、神に感謝して信仰によって生きてください。しかめっ面はやめましょう。主は人間の心から暗い罪をすべて取り除かれたのです。肉の罪すべてから救ってくださった主に感謝いたします。