説教集

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 8-6] (ローマ人への手紙 第 8 章 16-27 節) 神の国を継ぐ者

(ローマ人への手紙 第 8 章 16-27 節)
「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」
 
 
水と聖霊の福音を信じることによって罪を赦された者はみな、心に御霊が住んでいます。ヨハネの手紙 I 第 5 章 10 節には、「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。」とあります。心に神の義をもつ者は心に御霊が住んでいます。水と聖霊の福音への信仰が、御霊が永遠に心に住むことを可能にしているのです。
私たちは、水と聖霊の福音を信じることで罪を赦され、神の子どもになりました。御霊は心の中に住み、あかしして「あなたたちは神の子どもであり、神の民です」と言います。それに対して、心に御霊をもたない人々は、律法があかしして、「あなたたちは神の子どもではなく、罪人です」と言うのです。
水と聖霊の福音を信じる人々には、御霊があかしして、言います。「あなたたちは神の子どもです。あなたたちは罪のない、神の民です。」 神は、神の子どもになるには、水と聖霊の福音を信じなければいけないということがよく分かるようになさいました。
みなさんは、「何も感じないけれど、それは私は神の子どもではないということですか?」とたずねるでしょう。あまりにも子どもっぽい信仰のために心に御霊の宿っていることに気づかない人々がいます。しかし、たとえ自分では確信がもてないでいても、御霊は私たちを励まし、「ちょっと! あなたは神の子どもなんですよ! 水と聖霊の福音を信じているんじゃないの? 信じているから、あなたは神の民なんですよ」と言って、うけあうのです。ですから、たとえ自分では確信をもてずにいても、水と聖霊の福音を信じるなら、その人は神の子どもなのです。御霊が、神の子どもであることをあかししてくださるのです。御霊は、人間の感情や感覚によって心の中に住んでいるものではありません。水と聖霊の福音を信じる人みな、心に罪がなく、罪がないのですから、心に御霊が住んでいるのです。その人たちは、間違いなく神の子どもです。
御霊は心の中で、「あなたはイエスのバプテスマと十字架を信じて赦された。だから、あなたには罪がなく、神の子どもなのです」と言います。
しかしながら、このあかしは、人間の声で行なわれるのではありません。ですから、響き渡る声が聞こえるとは期待しないでください。声を聞くことを求めれば、サタンが人間の声を装って誘惑するでしょう。サタンは、御霊が神のみ言葉に従って働いているとき、人の心の中を覗いて働きます。
 
 
神の義を受けている者は神の子どもであり相続人である
 
第 17 節を一緒に読みましょう。「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」
私たちが神の子どもであるなら、相続人でもあります。そうして、相続人とはすべてを両親から受け継ぐ者です。つまり、父なる神のものをすべて分かち合う権利があるということなのです。「父なる神の相続人は誰ですか?」とたずねられたら、「水と聖霊の福音を信じて罪を赦された人々が神の相続人です」と答えることができます。
こうした信仰をもつ人々は、祝福され、神の国でキリストと共に神の栄光を相続します。この節は、キリストととの共同相続人なのですから、栄光を共にするためには、私たちもまた共に苦しまなければならないと言っています。キリストとの共同相続人であるということは、父の国で永遠に生きるということです。水と聖霊の福音を信じるのなら、みなさんはキリストとの共同相続人です。相続人であるというのは、父のものをすべて相続するからです。
私は時おり、神の国がすぐ近くにきているのを感じます。物事には起こるべき時があります。聖書にある神の約束はひとつひとつ成就されています。今残されているのは、イスラエルの民が悔い改め、イエスを救い主と認め、罪から救われることと他にいくつかのことだけです。イスラエルは七年の患難の間にイエスを救い主として認めることになっています。
地上と天上における神の国の実現は、イスラエル人の悔い改めと結びついています。終末は間もなく訪れるでしょう。水と聖霊の福音を信じる人々が永遠に神と共に住む日は近いと思います。世界中が、2000 年こそがその日だと考えて、待ちました。しかし、2000 年はすでに過ぎました。実際、世界中で多くの人が2000 年に地上で大きな変化が起こるだろうと考えていましたが、2000 年問題についての大騒ぎは終わり、私たちはすでに 2002 年の半ばにいます。
それでも、長く待ち望まれているキリストの国は、今でも毎日、私たちひとりひとりに近づいてきているのです。御霊はまた、罪を赦された者が神の国の近いことを感じ取れるよう導きます。今も、これまでと同じように、何もかも神がおっしゃったように実現されるでしょう。信じてその日を待ちましょう。
将来、イスラエルは世界平和のつまずきの石、障害となり、そのために多くの国々が敵対することになるでしょう。これが聖書に語られていることなのです。イスラエルが多くの人々の敵となり、イスラエル人の中から、自分たちがあんなにも待っていた救世主は本当はイエスであったことに気づく人が出てくるでしょう。その人たちは、水と聖霊の福音を信じることによって罪の赦しと御霊を受けるでしょう。神のご計画になったことが成就しようとしているのです。しかしながら、これらはしかるべき時に起こるのであり、心得違いをしている終末論者のように、特定の日の特定の時間に起こるのを待つべきではありません。水と聖霊の福音を信じる人々は、神の予言が実現するのを見るでしょう。信じる人々は、神の約束した地上の国と天の国とを待ち望んでいます。その日は近いはずです。
主が約束なさったことがひとつひとつ実現する日がじきに訪れるでしょう。神の約束した千年王国と神の国とはきわめて近いところにあるはずです。みなさんも、御霊に感じてそう思いますか? 神の予言が御霊によって実現されると信じていますか? 御霊は、神の約束を心から信じることを助けてくださいます。
御霊によって、神の終末についての約束がすぐに実現するだろうと確信できるのです。御霊によって、心に起こることや望むことも神の予言とともに実現するだろうと信じます。これが真の信仰なのです。
みなさんと私は、神の約束なさった恵みすべての相続者なのです。ですから、内にある御霊とともに待ちましょう。神の国は間もなく訪れるでしょう。イスラエル人はまもなくイエスを救世主と認め、信じるでしょう。
多くの人がたった今も主を待ち、「主イエスよ、おいでください」と言っています。パウロは、自分は神の相続人だから、自分が経てきた苦しみは間もなく受けるだろう栄光には比べようもないと記しています。これは、キリストと栄光を共にするためには、私たちもまた共に苦しまなければならないという意味です。それは、神の国の訪れを信じ待っているからです。キリストと栄光を共にするためには、私たちもまた共に苦しまなければならないのです。
パウロの望みは、すべての動植物を含むあらゆる被造物が死から解放されることでした。すべての被造物が切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのは、このためです。神の子どもたちへの期待とは、すべての生き物が永遠に生きられる日が来るだろうというものです。
ですから、信者は永遠のいのちを恵まれているのです。この生涯で主の来臨の日を目にするかどうか、お連れになるために主が私たちを眠りから覚まされるかどうかは、主を待たなければなりません。
 
    
啓示される神の栄光は本当に大きなものだろうか?
 
義なる者に間もなく明かされる栄光は、永遠の栄光です。永遠の王国を相続し、神の栄光の中で永遠に生きるのです。もはや死も悲しみも、涙もありません。王国にはもう痛みはありません。王国には太陽や星が照らす必要もありません。神の栄光が照らすからです。子羊がその光です。そこは、イエスと新たに生まれた者たち、罪なき信者のみが住むところであり、神の栄光で満たされています。王国は金色の光で満たされています。私たちが永遠に住む王国の栄光はとても大きいので、ことばで言い表すことはとうていできません。待ち望んでいる栄光があまりに大きいので、パウロは、今のもろもろの苦しみは、将来啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものだと言っています。
この世界で神のために働いていて、神の栄光を自然の中に見ることがあります。彩り豊かな花や露を帯びた草、輝く葉、暖かい春の大気、森のさわやかさ、澄んだ風、寒い夜まばゆく輝く星々などを見る時、四季のことを思うとき、人は天国のことを考えずにはいられません。神の創造物の驚異をみるとき、神の国が早く訪れてほしいと思います。
神の国が訪れたとき、もはや死はなく、栄光の中で生きるでしょう。何ひとつ不足はなく、豊かな繁栄の中で生きるのです。すべてが完全で整ったところで栄光の中で生きると考えただけで、心は神の栄光で満たされます。これらのすべてが信者のものになることは夢のようで、新たに生まれたことを改めてうれしく思うのです。心にこの希望を満たしてくださった主に深く感謝いたします。
現在のところ、天国は想像力によって期待するしかないのですが、いつの日か、神の約束がすべて実現されることを私たちは知っています。ですから、神の栄光が日ごとに強くなるのを感じて、希望はより強くなるのです。
信者が未来を待ち望むのは、このためです。神への信仰と、未来への希望とが神の国を相続する人々の栄光と信仰なのです。では、この輝かしい信仰は、水と聖霊の福音を信じる人々にのみ与えられる恵みなのでしょうか? 答えは、そう、そのとおりです! 神の義が正しい人々、水と聖霊の福音を信じる人々に与えられるには時が過ぎるのを待つだけです。やがて、神の栄光のすべての約束は私たちのために実現されます。これらの輝かしい物事は信じる人々に本当に起こります。私たちを待ち受ける栄光は、圧倒的に華麗で美しいのです。
みなさんと私、水と聖霊の福音を信じる者が、神の栄光の王国に入る者なのです。混乱した邪悪な世界は時に心を暗くしますから、失望し、困惑することもあるでしょう。しかし、新たに生まれた者は、自分たちが神の相続人になったことを信じることで、これらの困難を克服できるのです。罪のない信者の心の中にあらゆる種類の問題があっても、力を見つけ、神の約束を思い出して生きていくことができるでしょう。御霊が心の中におとどまりになり、慰め、私たちが神の子どもであるとあかしてくださることに感謝します
最近罪を赦された人々もまた、天の栄光を思って希望に生きてください。私たちは、等しく神の民になるのです。長い間教会で信仰生活を送られたのなら、魂の中の御霊が輝かしい相続に喜んでいるのを見ることができるでしょう。
 
 
義である人の心でも、この地上ではうめく 
 
第 23 節を一緒に読みましょう。「そればかりではなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを、待ち望んでいます。」 自分にたずねてみましょう。「生きることに何を望むだろうか?」 信者は、体の贖いを希望して生きます。神の子どもであるというのは、霊だけが神の子どもであるという意味です。からだはまだ栄光を得ていないので、すべての信者は自分の体もまた変えられることを信じ、望みます。
信者の体が神の栄光をまとうとき、その人たちは火の中を通っても燃えず、どんな障害物や壁も通り抜けられるでしょう。変化した体は時空の制約から解放されます。
しかし、まだ変っていないのですから、体の中で御霊の初穂がうめいているのです。ですから、水と聖霊の福音を信じることによって新たに生まれた義人は体の贖いを待ち望むのです。
うめく! 御霊の初穂をいただいている私たちでもうめくと書かれているのです。みなさんは、御霊が体の中でうめくのを感じたことがありますか? 御霊は、いつうめきましたか? 御霊は、人が肉の欲望を追求しようとするときうめきます。
人が世の中を見て、見た物を愛したときにも御霊はうめきます。からだは変っていないのですから、世の中のことを楽しみ、追求しようとしますが、魂はすでに変化していますから、中にいらっしゃる御霊がうめくのです。ですから、世の中の快楽を求めようとすることから心を遠ざけ、御霊のお導きを受けなければなりません。
御霊が神の相続人である私たちの中でうめくのは、御霊が内にいらっしゃるからです。この世界に生きていると、未来がいかに暗く、自分たちのからだがいかに弱いかを見ることができます。このような時、神の相続人を見上げ、その恵みを思うのです。その人たちは、からだもまた贖われることを知っているからです。信者は完全に贖われた完璧なからだをもてる日を待っています。
 
 
輝かしい希望をもって生きる
 
第 24 節と 25 節を声をそろえて読みましょう。「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」 
「私たちは、すべての罪の赦しを、神の国を望んで受けたのですか?」 この問いについて考えましょう。水と聖霊の福音を信じることによって私たちは罪の赦しを受けたと言いました。「もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます」と神はおっしゃいました。
天国に行き、罪から解放されるためには、水と聖霊のみことばを信じることによって救われなければいけません。すべての罪から救われた後に目を世の中に向けて目に見えるものを望んだなら、それは、神の栄光を知らず、それを待ち望んでもいないということを意味します。目で見ていることを望むとしたら、それは望みではあり得ません。ですから、パウロは「目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう」と尋ねたのです。義となった者は、地上にあるものを望むのではなく、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望む (ペテロII 3:13) べきなのです。
こうした信仰が義である者が望むものなのです。義である者は、新しい天と地を望んで生きます。肉の目で見ることのできるものは、本当に望むものではありません。人間の目では見られないのですから、霊の目で神の約束なさった王国を待ち望むのです。真に義である人々が天の国を待ち望むのは、このためなのです。望みとは、神がおっしゃったものが、本当に実現すると信じることです。
神は、「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」(コリントI 13:13) とおっしゃいました。私たちは、天の国を信じ望むことにより罪を赦されました。神の国は天にあって地上に来るでしょう。そして、私たちは永遠に神の国に住むことを望んでいます。神の約束のみことばを信じ現在の苦難を耐えるのは、このためです。
ここに「もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます」と書かれています。私たちが得ようと努力しているものは、目に見えるものではありません。肉体的には見ることのできない神の約束を待ち望んでいるのです。神の栄光はすぐに啓示されると言われているのですから、信者の上に神の約束が実現するでしょう。私たちはこの約束を信じます。主がこの地上に再臨されると信じているので、現在の苦難を耐えることができます。
神の国がこの地上に現れることには一抹の疑いもありません。福音がすべての国々に広まったとき、神の国は実現するのです。義である者たちは、その日を忍耐強く待ちます。主は私たちが待っている間においでになります。これが、みなさんと私が生きているこの時代の真実なのです。
宣教会の本をウクライナ語に翻訳しているウクライナ人女性がいます。この人は最近、世界貿易センターがテロリストの攻撃によって崩壊するのを見、混乱し、こわかったと言いました。彼女はこれが黙示録にある「青ざめた馬の時代」を告げているのだろうかと尋ね、聖書のこの部分に関わる本を求めました。
この出来事が確かに青ざめた馬の時代の前兆とは言えませんが、これが関連しているかもしれないことは否定できません。こういうことが頻繁に起こると、戦争が起こり、国々が互いに戦うでしょう。戦争が起こると、世界は飢えに苦しみ、青ざめた馬の時代が突然実現するかもしれません。
ですから、こうした世界の破壊の前兆となる出来事を目にするとき、福音を世界の果てまで広めなければいけないという思いを新たにするのです。私たちがこの世界に希望を失っているのは、本当です。心は悲劇が起こるとうめきます。それでも、生きている限りは、人間の目では見られない、霊の目でしか見えない神の国を待つのです。
水と聖霊の福音を信じるので、私たちは天の国を望み、辛抱強く待つのです。神の国が近づいていることを信じるので、私たちは困難を耐えることができます。これは、心の中に御霊が住んでいらっしゃるからです。
みなさんは苦しんでいますか? よく耐えて辛抱強くありなさい。苦しんでいるのはあなた一人ではなく、私たちみなもなのです。私たちには、これが終わったとき、すべてがよいようになるという望みがあります。みなさんは、肉体的な困難に苦しんでいなければ霊的な希望を抱けないということを知らないのですか? からだがあまり快適だと、人は神を探して恵みを求めようとしません。そのために神から離れて行くのです。新たに生まれた者は、やがて訪れる栄光を望み、現在の困難を耐えなければなりません。
神は、主のために困難をじっと耐えた者が祝福されるとおっしゃいました。神の国が地上に実現する日は訪れるでしょう。そうして、私たちは神の国に入ります。その日のために耐え、忍耐をもちましょう。希望を失ってはなりません。耐えてその日を待ちましょう。今はどんなに悲しく苦しくとも、神の国が新たな天と地として訪れるまで待ち、努力し続けましょう。
    
 
御霊は神の義をもつ者を助ける
 
第 26 節を読みましょう。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」
御霊は私たちのために祈りますか? はい、そうなさいます。御霊は私たちの弱さを知っていて、私たちのために祈られます。
御霊のうめきについては既に多少話しています。繰り返しますと、御霊は私たちが神のお望みにならない方向に向かうとき、うめくのです。世の中の状況を見て共にうめくとき、父なる神が行くことをお望みにならない方角に行くとき、あるいは、我らの父のみこころを無視し、みこころに注意を払わずに生きるとき、御霊はうめきます。
新たに生まれた信者の中に住む御霊が言いようもないうめきをあげるとき、心の中の力を失い、弱くなります。そのような時、御霊は私たちに祈らせます。御霊はときに私たちのためにとりなしをなさったり、祈りを必要としていることに気づかせたりします。
御霊は私たちの心の中でうめき、みこころに従って父なる神の前で祈らせます。「主なる神よ、あなたは私たちの罪を洗礼と十字架上の血によって消し去ってくださり、それによって私たちはあなたの子どもになりました。あなたの二度目の来臨がこの地上にすぐに訪れますように。みこころが実現されますように。」 このように祈るのです。
私たちは霊的な信仰を求めます。神よ、私たちは貧しく、あなたのような目はありません。ですから、どうか、みこころを実現するために必要な信仰をお与えください。すると神は、弱さをご存知なので助けてくださるのです。御霊は私たちを一人にせず、みこころに従って私たちのために祈ってくださり、心を強くしてくださいます。
御霊はみこころに従って私たちに祈らせ、助けをお願いすると、神のみこころをお知らせになり、新たな力をお与えになります。
「私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」
こういうことを感じますか? 神がお望みになるのとは違うように考え行動するとき、御霊が義である者に、何かがおかしいと告げているのを感じますか? 御霊は言います。「おい、だめだぞ!」そして心はうめきだします。これは御霊がうめいているのだということを知っていましたか? たぶん経験したことがあるでしょうが、義である人の心が喜んでいるとき、それは御霊が内で喜んでいるのです。それで、心がうめくときは、それは御霊がうめいているのだということがわかるのです。
私たちが弱くて悪い行ないをするとき、御霊はうめいて私たちのためにとりなしをなさり、父なる神が力をくださいます。御霊はあらゆることのために祈らせ、新たな霊的力をお与えになります。御霊を心にもつ人がとても幸福なのは、このためなのです。御霊は、神のみことばを通して力をお与えになるのです。つまり、御霊は心の中にあって、私たちに新たな霊的力を与えるためにみことばとともに働くのです。
御霊はそれ以外の手段で話そうとはしません。御霊は聖書、神の教会、仲間の兄弟姉妹によって力をお与えになります。教会がたいへん重要で、御霊の仕事にきわめて重要な役割を果たすのはこのためなのです。
教会には信者がいて、その人々の親睦と、賛美と教えがあります。伝道者が誰であろうと、御霊がいらっしゃってその人たちの中で働くので、そうあるべき時に、必要な正しい教えを伝えるのです。御霊は、教えを伝える人とそれを受ける人の両方の中で働いて心を目覚めさせ、それぞれに必要な恵みをお与えになります。御霊は、義である人の集う教会でこれを行ないます。教会が信者にとってとても重要なのは、このためです。信者が心の中で困難に出会っていて苦痛を他の人々と分かち合えないとき、神のしもべはそれでも御霊によってそれに気づきます。信者が教会の集まりに出席していると、御霊が触れて心を慰めることができます。御霊はその人たちが聖書にすがるのを助け、回復するための力を与えます。
信仰に生きているとき、私たちは水と聖霊の福音を信じ、罪を赦され、神の子どもになり、その証明として神の御霊を贈り物として受けます。それから神は私たちに教会をお与えになります。教会をお与えになった後、神は教会を通してしもべに話しかけられ、教えを説かせるのです。神は聖書によって傷を癒され、弱い者には力をお与えになり、心の貧しい者に恵まれ、そうして神の仕事を実行する能力をお与えになります。神は私たちを通してみこころを実行なさいます。ですから、信者は教会から離れてしまってはいけないのです。
信者は、他の義である人々との交流や聖書における成長から遠ざかったりすることはできません。絶対の真理は神の教会の中にだけあるのです。ですから、信者は教会の中でひとつにならなければなりません。ひとつになっていない信仰は偽りの信仰です。
みなさんは、御霊が心の中に住んでいると信じていますか? 私たちが神の教会でひとつになっていると、聖書にあるように、そして教えで教会が伝えるように、御霊が私たちの目を真実に開くのを助け、恵みをお与えくださるのです。ですから、そのような信仰をもって教会と一体になるのです。そうすると、御霊はお喜びになります。
私たちはこれまで、御霊の助けを受けて生きてきました。これからもまた、神の救いを受けて生きるのです。すべての罪の赦しを受けた私たちにとって御霊がとても重要なのは、このためなのです。御霊が存在することを知り信じましょう。御霊によって生き、心に導きを受けましょう。御霊を心にもつ人は、神のみこころに従うものです。人が義であれば、御霊は中に住んでいます。ですから御霊がお導きになるとおり、いのちの律法に従っていくのです。
第 27 節を一緒に読みましょう。「人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」 父なる神は、私たちの内に住む御霊の心をご存知です。御霊は、心の中にあることを何でもご存知です。ですから、父なる神は心の中にあることをすべてご存知なのです。そういうわけで、「御霊は神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださる」のです。
これは、父なる神が御霊の心をご存知で、御霊は父のみこころに従って祈るということです。こうして信者は神のみこころに従って生きるのです。罪の赦しを得た人々が信仰に生きることの恩恵を御霊に見いだすのは、このためなのです。義である人の心は御霊のめざめに導かれています。
御霊を心にもたない人が教会にいるとき、教会に問題が起こります。水と聖霊の福音を信じない人々は、内に御霊をもたないために、御霊をもつ真の信者と交流することができません。その人たちは教会に多くの問題をもたらします。それに対して、御霊と共にある人々が御霊に満ちた神の僕の説教を聞くと、心は穏やかです。しもべを通して神がおっしゃろうとしていることを理解できるからです。
罪を赦された人であれば、誰でも内に御霊が住んでいるはずです。私たちは内に御霊を宿し、神のみ心に従い、御霊に導かれて生きているのです。
御霊は次のように導きます──時には教会によって、時には信者の親睦によって、また別の時には神のみことばによって。御霊は神のみこころを知ることを助け、神の義である道に従うようになさいます。御霊は、神の国に着く日まで、神の側で生きていけるよう新たな力をお与えになります。
ですから、信仰生活における御霊の重要さを心得ておきましょう。水と聖霊の福音を信じるとき、聖書にあるように、御霊を贈り物として受けます。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒 2:38) 
神は、私たちがみこころに従って生きるようお導きになるために、贈り物として御霊をくださいました。これが父なる神のみこころなのです。神は、神の国に入るためにはみこころに従って生きなければならないとおっしゃいます。神のみこころに従って生きるためには内に御霊を宿さなければならず、水と聖霊の福音を信じる者だけが御霊を受けるのです。ですから、御霊を贈り物として受け、神のみこころに従って生き、神の国に入るために水と聖霊の福音を信じるのです。
御霊と贖罪は別々に受けるものではありません。今日の人々は、これら二つの恵みは別物だと考えます。その人たちは、山の洞窟に行って熱心に祈り、異言で祈りを上げれば御霊が下ると考えます。御霊は天から下って神の教えを直接伝え、自分たちと話すものだと考えます。しかし、残念ながら、そうではないのです。
御霊と聖書は切り離すことができず、御霊と信者を切り離すこともできないのです。信者と御霊、教会と三位一体の神──父、子、聖霊──の間の関係が密接なのはこのためなのです。
この終わりの時代に生きている者は、御霊によって生きます。私たちは父なる神のみこころと御霊に従って生きます。御霊は神のみこころをすべてご存知です。父なる神は、御霊の心の中にあることをすべてご存知です。御霊は私たちの考えを導き、神と連絡をとります。こうして御霊は神のみこころに従って祈り、父なる神は祈りに応え、みこころに従って生きられるようになさるのです。
パウロがローマ人への手紙第 8 章 16 節から 27 節で御霊の仕事について述べているのは、このためです。
私たちは御霊によって神の国を待つことができます。心の中に住んでいらっしゃる御霊の力によって現在の苦難を耐え、主のみこころに従って生き、神の国を待ち望むことができます。御霊によって耐え、御霊によって主のみこころに従い、御霊によって主に仕える能力を得るのです。こうしたことはみな、御霊によって与えられたのです。自分が御霊とともに歩み、いつでも神のみことばを学び、心をみことばに結びつけ、みことばを聴いて従う民であることを心しておきましょう。肉だけを喜ばせる肉の生ではなく、父なる神と御霊が喜ばれるような生き方をしましょう。これがパウロがこの節で言っていることなのです。
神はいつでも私たちの生活の中においでです。神は私たちの心を保ち、助けようとなさいます。主がいつまでも恵みをお与えになりますよう。主が再びおいでになったとき、誰もが栄光に変えられます。神の義をもつ者は、神の国と栄光のすべてを相続するのです。神の国を相続しようと思う者はみな、水と聖霊の福音をよく聞いて信じるのです。
ハレルヤ! 神の義がみなさんと共にあり祝福してくださいますように。