説教集

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 8-9] (ローマ人への手紙第 8 章 28-30 節) すべてのことを働かせて益とする

(ローマ人への手紙第 8 章 28-30 節)
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」
 
 
今日は、ローマ人への手紙第 8 章の、上に引用した節について考えましょう。神は、私たち、御子イエス・キリストにある者たちをあらかじめ定め、召し、栄光を与えられたとしています。これと、人々が漸進的聖化をどのように考えがちであるかをここでお話します。
ローマ人への手紙第 8 章 28 節には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」とあります。この「神を愛する人々」とは、誰のことか考えてみましょう。
すべてのことは本当に益とするように働いているのでしょうか? 神はそうおっしゃいました。はじめ、神は人間をお創りになる前に、目的に従ってご自分の民にしようとご計画になり、ただひとりの御子イエス・キリストにより、永遠にそうなさったのです。
エデンの園に善悪の知識の木があったことを思い出しましょう。なぜ神はこの木をお植えになったのでしょう? 最初から善悪の知識の木をお植えにならなかった方がよかったでしょう。多くの人がこの点について疑問をもちます。
しかし、これは神の深い目的とご計画によるものなのです。神は人間をご自分の姿に似せてお創りになりましたが、実際のところ、神の義を受けるまで人類は他の被造物と変りませんでした。
 
 
なぜ神は善悪の知識の木をお植えになったのか? 
 
そもそも、なぜ神はアダムとイブに善悪の知識の木の実を食べてはならないとお命じになったでしょう? それは、人間を神の律法の下に置き、イエス・キリストによって贖罪をすることによって、神の子どもとなさるためです。神の義のすべては、「神を愛する人々……のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」という句の中に隠されています。神は、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益と」(ローマ 8-28) するとおっしゃっているのですから、イエス・キリストのお与えになった水と聖霊の福音の中に答えを探します。
まず神の福音を真理と認めなければなりません。それから、神のご計画がすべて益のためであることを知るのです。しかし、この真理を理解するには、水と聖霊の福音への信仰によって新たに生まれなければなりません。答えは神が与えてくださった福音の中に求めるのです。
神が人間をお創りになり、善悪の知識の木をエデンの園に植えられ、アダムとイブにその実を食べることをお許しになり、人間が律法を知るようになさったのは、人類をご自分の子どもになさるためでした。私たちをお救いになった主がこれらすべてのことが行なわれるようになさったのは、罪の赦しと永遠のいのち、天の栄光をお与えになるためだったのです。神は人を塵からお造りになりました。人類は弱い者として造られ、生まれました。聖書はしばしば人類を粘土でできた器に例えます。土師である神は、人間を粘土からお造りになりました。神は人間を塵から造り、水と聖霊の愛を吹き込まれました。神が人間に水と聖霊の真理をお与えになったのは、神の子どもとなさるためでした。
粘土で作られた器は、容易に壊れます。このように神は、ご自分の子どもとするために、はじめに人間の体と霊を弱くお造りになりました。人間を水と聖霊の福音によって新たに生まれさせて永遠のいのちを与えるという神の目的は、イエスが人類の罪をすべて洗い流し、神の聖性で包まれて全うされました。神がはじめに人間を完璧なものではなく、不完全な弱い存在としてお造りになったのは、そのためなのです。
 
 
なぜ神ははじめに人間を弱くお創りになったのでしょう?
 
なぜ神は、善悪の知識の木の実をエデンの園に植え、アダムとイブに食べてはならないとお命じになったのでしょう? この裏にある理由は、水と聖霊の福音の中で理解され信じなければなりません。なぜ神は、アダムとイブが堕落して罪を犯したとき、女の種はサタンの頭を傷つけ、サタンは人のかかとを傷つけるとおっしゃったのでしょう? これらはみな、人々を神の子どもとするためでした。人類が神のひとり子イエス・キリストの中にあるようにするのは、神の計画でした。
では、神のご計画に従って召された人々とは、誰でしょう? 自分たちの罪と不正を認め、神の愛と赦しを求めた人々です。無条件の選びや漸進的聖化といった神学上の教理は誤っています。無条件の選びの説が誤っているのは、神は、誰かを無条件に選んでおいて、他の人々をこれといった理由もなく見放されるような神ではないからです。
そうではなくて、神が選びお召しになる人々とは、自分たちの罪に絶望し、地獄に行くしかないのだと告白する人々、神がお許しになり、水と聖霊の福音によってお召しになった人々なのです。
この世界に生まれて神のもとへ戻った無数の人々の中で、ひとりたりとも、理由なく選ばれたり見捨てられたりはしていないのです。神が理由なくお選びになるのなら、みなさんは神に抗議するでしょう。神がみなさんや他の誰かを理由もなく子どもとなさったというのは、ばかげています。それは神のなさったことではありません。
人が神に選ばれなかったのなら、それは、水と聖霊の福音を信じていないからです。水と聖霊の福音を信じないのなら、神はその人を見捨てるでしょう。主は、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マタイ 9:13) とおっしゃっているのですから。不幸にして神学者は、神を偏狭で偏見に満ちた存在にしてしまったのです。
 
 
神のみこころに従って召された者とは誰か?
 
神のみこころに従って召された者とは、地獄に行く定めにある罪人です。その人たちは、神の下に来て、自分は弱く、死ぬまで神の戒めに背くことしかできないのだから、地獄に行くしかないのだと告白します。神は罪人をお召しになり、水と聖霊の福音によって浄化なさいました。神は地獄に行くしかない人々をお召しになり、水と聖霊の福音によってその人たちを罪からお救いになりました。
神は、行ないの正しい、律法に忠実な人をお召しになるためにはおいでになりませんでした。神は、神を信じ、頼りとして、懸命に神のみこころに従って生きようとしながら、自分の弱さのために罪を犯してしまうことを認めた人々をお召しになります。神の目的は、弱く不安定で、もろい人々をお召しになって義とし、自分の子どもとなさることです。これが神のみこころによるお召しなのです。神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益となるようにしてくださいます。
神のお召しを信じましょう。理由もなくイエスを信じると言ってはいけません。そのような信仰は正しい信仰ではありません。正しい信仰は、自分自身の目的によるのではなく、神の目的に従って主を信じることです。それはつまり、神が人類の弱さをよくご存知で、その罪を一度で永遠に取り除かれ、そうして罪なき者としてくださったと信じることです。神の目的、イエス・キリストのバプテスマと血とを信じる信仰をもつことで、人は神の子どもになるのです。神の目的を認め信じたとき、その人を神の罪なき子どもとなさることが神のみこころです。そのような人を神は真に愛され、お召しになるのです。
 
 
神に選ばれた人々とは? 
 
神はすべての人を二列に並ばせて右側の人を全員選んで、「一緒に来てイエスを信じ、天国に行きなさい」とおっしゃり、それから、左側を向いて、そちらにいる人たちに「そのまま地獄に行きなさい」とおっしゃるようなことはなさいません。
カルビン主義者は、神は初めから特定の人々をこれといった理由もなくお選びになり、残りを見捨てることをお決めになったと主張します。しかし、神はそのようではありません。神は、ご計画に従って召された人々のためには、すべてのことを働かせて益となるようにしてくださるのです。私たちが何の理由もなく無条件に選ばれたというのは、ばかげています。
では、神は不公平なのですか? もちろん違います。神と神の律法の前には、誰もが平等です。また、誰もが裁きの前では平等です。私たちは、イエス・キリストによって罪から救ってくださった神の救済の恵みを受けました。この真理を信じる機会はすべての人に平等に与えられているのです。神の目的を認め、自分の弱さを知る人々を神は、水と聖霊の福音を知って信じるようになさるのです。
では、真の神の予定と選びとは、何でしょう? それは、神が与えられた水と聖霊の福音の中にある神の目的に従って召されることです。イエスによって罪を取り除き、子どもとするよう神が計画なさったために、人はこの世に生まれ、福音を聞く機会を与えられたのです。神はこのすべてをイエス・キリストの中に事前にご計画になったのです。これが神のご計画でした。ですから、神の前に出るとき、まず、自分はヤコブとエサウのどちらなのだろうと考えなければいけません。
聖書には、神はヤコブを愛し、エサウを憎んだとあります。聖書にはまた、カインとアベルの話があり、神はアベルを愛し、カインを憎んだとしています。神はわけもなくエサウとカインを憎み、ヤコブとアベルを愛されたのでしょうか? いいえ。これは、エサウとカインが自分たちの力だけを頼り、一度も神の助けをお願いしなかったのに、ヤコブとアベルは自分たちの弱さを知って神の助けを求め、神のみことばを信じたからなのです。
聖書ではこれらの人々の例を使って予定と選択を説明しています。私たちは、どちらなのでしょう? エサウのように自分自身の力を信じていたら、神にお会いできるでしょうか? いいえ、できません。神の恵みに満ちた水と聖霊の福音によってだけ、神にお会いできるのです。神の前のどちら側に私たちは立っているのでしょう? 人間は神の前で恵まれたいと願いながら、弱さのためにいつも失敗しているのです。神の目的に従って生きたいと願っても、神の前では弱く不安定なのですから、唯一お願いできるのは恵みだけなのです。
神の恵みを求めるのなら、ヤコブのようになり、アベルのような信仰をもたなければなりません。神の前で自分は弱く不安定で臆病なのだと認めるしかないのです。
詩篇 145 章 14 節には 「主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます」とあります。本当に、誰もが神の前では身を屈めます。人間には勇気がありません。ほんのわずかの利益のために妥協します。人間は卑屈です。時には勇敢に見えるでしょうが、それはつかの間のことです。自分たちの生活をよくよく見れば、いかに卑屈に振舞っているかが容易に見てとれるでしょう。強い者に従い、事実を見ぬ振りをさせようとする不誠実な人間にさえ屈するのです。しかし、神はその卑屈な存在を愛し、イエス・キリストによる救済を与え、自分の子どもとするためにお召しになりました。
神に愛されるためには、自分がいかに弱く罪深い者であるかを知らなければなりません。自分が本当に完全に律法に従えるかどうかを問うてみることです。そうすると、すぐに、自分には律法を守ることができず、そのため完全な生き方をすることができないのだとわかるでしょう。
完全であれば、救い主は必要ではないでしょう。完全ならば、なぜ神の助けと恵みが必要でしょう? 人間は神の前であまりに弱いために、神の恵みが必要なのです。人には神の恵みが必要です。人類に対する神の憐れみはとても強いので、ただひとりの御子を遣わされ、人類の罪を洗い去るために、すべて被らせられたのです。そして人類が罪から救われるようにと、代わりにイエスを罪により裁かれたのです。これを信じるのです。
この信仰をもってはじめて、人は神の愛する子どもになれるのです。この恵みにより、神の愛に包まれているのであって、救済を得ようとする自身の努力によるのではないのです。
多くのキリスト教徒は予定と選びの説を教え、従いますが、同時にこの説に不安を覚えもするのです。それは、その人たちが自分は神に選ばれているのかどうかといつも考えるからです。
この二つの説は、カルビン主義神学の 90% をなしています。問題は、イエスに対する信仰にも関わらす、本当に選ばれているのかどうかであり、これが人々を不安にします。しかし、重要なのは、自分が選ばれているかどうかではありません。そうではなく、神の義を受けて救われるために水と聖霊の福音を信じることが重要なのです。この神の義を受けた人々が、選ばれた者なのです。
かつて、保守的神学の大家のひとりと見なされた神学博士がいました。博士は予定と選びの説のようなカルビン主義の教えをきわめて重視しました。
ある日、この主題で講義をしていたとき、ひとりの学生が質問しました。「先生は、神に選ばれていらしゃいますか? 神が誰を選ぶか、どうしてわかるのですか?」 
神学者が応えました。「誰にわかります? それがわかるのは、神の前に立ったときだけですよ。」 
そこで、その学生はまた尋ねました。「では、神の前に行って、神からあなたは選ばれていないと言われたら、どうなさいますか?」 
教授は答えました。「神がすでにお決めになったことを、私がどうできるんです? ですから、神の前に立った時でなければわからないと言ったのです。」 
学生は思いました。「この人は、とても謙虚な人だ。このようにえらい学者でも、自分が選ばれているかどうかわからないと言う。だから、自分が選ばれているかどうか誰にもわからないのは当然なのだ。」
しかし、神の義の隠されている真理が今は明らかになっているのです。神は多くのことを人間から隠されたのですが、時が来ると、それらを明かされています。福音伝道者は、自分たちが救われているかどうかすら知らないで、どうして福音を説くことができるのでしょう? 神に召された人々は、神の義を信じる人々です。
ローマ人への手紙第 8 章 29 節に「なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」とあります。父なる神は御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるよう、人間を御子イエス・キリストの形と同じ姿にあらかじめ定めらました。ここでイエスは「長子」と呼ばれています。イエスとイエスがお与えになった水と聖霊の福音を信じるなら、人はすべての罪から救われ、神の子どもとなるのです。では、イエスは私たちの何にあたるのでしょう? イエスは私たちの長兄になるのです。イエスは神の長子であり、私たちはイエスの弟や妹なのです。
ずっと以前、教会に住んでいたとき、年老いた福音伝道者が訪ねて来ました。彼は中国にいたときにイエスを信じるようになり、それから韓国に来ました。ある日、彼が祈るのを聞きました。彼は、こう言っていました。「イエス兄さん、父なる神、お救いくださってどうもありがとうございます。」 イエス兄さん、どうか助けてください。」 イエスが兄なのです!
神は私たちのことを何もかもご存知なのでしょうか。答えは、はいです。神は、私たちのことを何でもご存知です。父なる神は私たちのことを何もかもご存知です。神は、世界をお創りになる前に、ただひとりの御子によって人類を罪から救うことをご計画になりました。これが神のご計画でした。神の御子イエスがこの世界においでになり、人類を罪から救うためにヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架につけられたのです。神はこれをあらかじめご計画でした。
世界が創られる前、神は三者による会合を開いたのだといってもいいでしょう 三位一体の神──父と子、聖霊──が神の義を信じる人々を救済することをご計画になりました。神のご計画は、人々を創り、完全な神の国で共に住むよう子どもとすることでした。
父と子と聖霊はみな、この計画に賛成なさいました。それから、どのように人を創り、どのように人類を子どもとするか考える過程で、人が御子の姿に似るよう、御子イエスを世界に送り、バプテスマを受けさせ、十字架上で死につかせることをご計画になりました。
神は何のために人類を創られたのでしょう? それは、子どもとするためでした。イエスは、神のご長子ですか? はい、そうです。それに神の子どもになったのですから、私たちはイエスの弟妹です。
この地上で三十三年間お暮らしになる間に、イエスは人間の弱さと不安定さのすべてを経験なさいました。祈るときに、「イエス、私は本当に弱いのです。これが私です。どうぞ、助け、守ってください。みことばを受け入れるよう人々の心をやわらげてください。あの人たちを見守り、恵みを賜り、お助けください」と祈るのは、このためです。主はお聞きになり、祈りにお答えになります。イエスに祈るのは、神に祈るのと同じことです。
神は何のために人間を創られたのでしょう? 子どもとなさるためです。神は人間のことを何もかもご存知です。神は人間をこの世に生まれさせ、イエスのバプテスマと十字架上の血とで罪のすべてから救われました。世界をお創りになる前からご自分の息子や娘にしようと、あらかじめお定めになっていたからです。ですから、人間の生や死だけではなく、あらゆる瞬間をもご存知なのです。神は人がいつ生まれ、親は誰で、いつ結婚し、いつ最初の子をもち、生涯に何が起こったかをご存知です。人の一生について何もかもご存知の神は、イエス・キリストを信じ神の子どもとなるよう、水と聖霊の福音をお与えになりました。
神はあらかじめ人間をご存知で、あらかじめ定められたのです。ローマ人への手紙第 8 章 30 節に「なぜなら、神はあらかじめ定められた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」とあります。この節を理解することの重要さはいくら強調してもし足りません。
多くの人が上記の節を漸進的聖化の教理を裏付けるものだと考えています。この一節でイエスが私たちをあらかじめ定め、お召しになり、義となさり、栄光をお与えになったとしていることに基づいて、まるで聖化に段階があるかのように、人間は心に罪があっても神が罪のない者とお考えになり、浄化の期間を経て栄光を与えられると主張するのです。
神はすべての罪人をイエス・キリストにお召しになることをあらかじめ定められましたか? 神は全員をお召しになりましたが、お召しに答えない人々がいました。その人たちは、エサウやカインのようなものです。その人たちは地獄に送られるのです。
 
 
神の恵みの中で
 
父なる神は、人類を聖なる御子イエス・キリストの中にお召しになることをご計画になり、水と血とで罪を洗い流すことで子どもとすることをあらかじめお定めになりました。神がお召しになっても行こうとしない人々は、みな救済の外にいるのです。そうした人々は恵みを与えられず、地獄に行くのです。しかし、神のお召しに従う人々もいます。その人たちは、「主よ、私はこのように弱いのですが、私のような者でも受け入れてくださるのですか?」と言います。
神は、「もちろんだ」とおっしゃいます。
「本当に? こんなにも弱い私を受け入れてくださるのですか?」 
「もちろん受け入れよう。」 
「神よ、私には、あなたに差し上げられるような特別なものは何もありません。それに、これ以後正しい行ないができるというお約束もできません。」 
「それでもおまえを受け入れよう。」 
「私は、向上する自信がありませんし、そうする力もないのです。」 
「それでも、おまえを受け入れよう。」 
「それはたぶん、あなたが私のことをご存知ないからなのです。きっと失望なさいます。」 
自分がどんな人間であるか知っているときに、誰かから「あなたのことを本当に信用していますよ」と言われると、普通、はずかしくて、どこかに隠れたくなりませんか? なぜ隠れたくなるのでしょう? それは、これ以上よくなることができず、これまで行なってきたことをし続けることさえできないからです。
ですから私たちは、尋ね続けます。「主よ、こんなに弱い私を受け入れてくださるのですか? 本当に受け入れてくださるのですか? あなたを信じることすら許されているのですか? 私のような者が罪の許しを得られるのですか? この先も善であることができなくとも、私のような者が義になれるのですか?」 しかし、神には、野生のオリーブを栽培されたオリーブの木に変える力がおありです。
人間は生まれつき、野生のオリーブの木です。しかし、イエスがお与えになった福音によって、栽培されたオリーブの木になりました。神は罪を犯さずにはいられない人々を召されました。神は、私たちがほんの少しだけ弱かったときに召されたのですか? 神は、私たちが全く何の力もなかったときにさえ召されました。ひどい欠陥や明らかな弱さがあるにもかかわらず、神は、私たちをイエス・キリストの中に召されました。神は不安定な私たちを召されました。召された後、何をなさったでしょう? 神は罪をすべて取り除かれ、永遠のいのちをもてるよう、神の義をお与えになりました。
神はこれらのことをどのようになさったのでしょう? マタイの福音書第 3 章は、イエスがこの世界においでになり、人類すべてのために神がお定めになった義をすべて満たすために、バプテスマをお受けになったとしています。イエスはヨハネからバプテスマを受けて人類の罪をすべてご自分の上に被られ、そうして十字架上で死に、三日目に、人類を世界の罪から救うために死からよみがえられました。イエスは人類に新しいいのちをお与えになり、そうすることで、義となさり、罪をすべて洗い流してくださいました。イエスは人類をお召しになり、水と血とで罪を洗い流してくださり、神の義をお与えくださり、罪なき者となさり、それから神が義とされた者に栄光をお与えになり、神の子どもとなさったのです。
イエスは人類に栄光をお与えになり、天国に入って神の子どもとして永遠に生きられるようになさったのです。わかりますか? しかし、宗教上の教理は、人は罪人だけれど、イエスを信じれば時と共に徐々に聖化され、死ぬときには、神の前に完全な人として立つだろうと教えます。これは、真実に反します。これは真の信仰ではありません。こうした信仰は聖化説であり、真実の教理ではないのです。
主は人類を罪からお救いになり、神はあらかじめお定めになってお召しになり、水と血とで一度に罪を洗い流してくださり、清められた者を神の子どもとなさり栄光のうちに神の国に入れるように恵みをお与えになったのです。これが真理であり、神はこのように真理について、イエス・キリストの中にある恵みのすべてを一文でお話になったのです。この節は、七段階の漸進的聖化について述べているのではありません。七つの段階を経ることによって徐々に完全になってすっかり聖化されるとしているのではないのです。
ローマ人への手紙第 8 章30節は、人々がイエスを信じるようになって後に神がお召しになるとか、年をとるにしたがって聖化されるとは言っていません。また、人は一歩一歩聖化のはしごを上っていってついには完全な聖化に到達するとも言っていません。人がイエス・キリストを知り、イエス・キリストがお召しになったとき、水と血とで罪を一度に永遠にお赦しくださったのです。この真理の福音によって神の下に来たとき、その腕に抱かれるのです。
「以前は自分の罪を知らなかった。しかし、説教を聞いた後で、わかるようになりました。これまでにひとつやふたつの罪は覚えているのですが、おそらくは、これからもずっと罪を犯し続けるでしょう。だから、神を信じられるとは思いません」と言う人々がいます。しかし、それは正しくありません。そうではなく、「ああ! そのとおりだ。私は自分で罪を犯しながら、そうとは気づかずにいた。神のみことばはみな正しい。みことばを信じなければいけないが、でも、それに従って生きることはできない。私は、どうみてもひどい罪人で、地獄に行く定めなのだ。だから、イエスがおいでになったのだ」と考えるべきなのです。
私たちは、イエスを信じて罪の赦しを得ることで罪のない者になったのです。聖化されて神の子どもとなったのです。神の子どもとなったのですから、天国に入って栄光を与えられるのです。それが神の義であり真理なのです。
神はあらかじめ定められて私たちをお召しになり、義とされて、栄光を与えられました。みなさんは、漸進的聖化の教理が正しいと考えて、「私は徐々に変化して罪のない人になるのだ」と思うでしょう。しかし、人は水と聖霊の福音を信じたその瞬間に一度で義とされ、聖化されるのです。心は段階的に変化するものではありません。心から一度で罪がなくなり、神のみことばと教会を信じることで信仰が徐々に深まっていくのです。
信仰は、神のみことばを受けるにつれて次第に深まり、やがて他の人たちを教えられるほどになります。しかし、自分がより完全に、より罪がなくなったときに神の子どもになるだろうという考えは、聖書に基づいたものではありません。人は一度で聖化されて罪のない者となるのです。
神は前もってお定めになった通りに私たちをイエス・キリストの中にお召しになりましたか? はい、そうなさいました。神は私たちをイエス・キリストの中にお召しになり、義となさり、罪のない者となさいました。神はイエス・キリストによって私たちを義となさり、罪のない者となさって子どもとし、栄光を与えて神の国に入るようになさったのです。
神の義をすべて全うされたイエス・キリストによる救済を信じることによって一度で義となったのです。恵みを受けたのは、神のお召しに従い、もろい私たちを罪のない、義である神の子ども、神の国の民とするためにイエスが罪をすべて流してくださったと信じたからです。
聖化の教理が正しくないというのは、このためです。これは筋が通らないのです。聖書にははっきり「なぜなら、神はあらかじめ定められた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」と記されています。信仰は徐々に深まります。しかし、罪の赦しと神の子どもとなること、天国に入ること、これらは、一度に永遠に行なわれるのです。これを信じますか?
私たちは、水と聖霊の福音を信じることで神の子どもになることができました。神は、無価値ないのちを水と聖霊の恵みによってすべての罪から救ってくださいました。私たちは、救いを受けるに値する何かを神のためにしたでしょうか? 私たちは、義となるために何か貢献しましたか? 私たちが計画したことは何もありませんし、誰も生まれる前からイエスを信じようと決めてはいません。母の胎内にいるうちからイエスを信じようと決めていた人はいますか? 
たまたま水と聖霊の福音を説く人から真理を聞き、それが正しいと知って考えました。「これは信じるしかない。私のように罪深い人間は、これを信じなければならないのだ。」 そのときから水と聖霊の福音を信じ始め、罪の赦しを受け、神の子どもとなったのです。
義である人だけが神の子どもです。神はその人たちに永遠の富と神の国の誉れとで永遠に栄光をお与えになります。それが、栄光を与えられるということなのです。神はその恵みを水と聖霊の真理を受け入れた信者に与えられました。
主をたたえよ!