説教集

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 8-13] (ローマ人への手紙 8 章 35-39 節) 義である者をキリストの愛から引き離すのはだれですか?

(ローマ人への手紙 8 章 35-39 節)
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
 
 
第 35 節は、「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」とあります。神の義を明かしている水と聖霊の福音を信じる者に与えられたキリストの愛から、誰が私たちを引き離すことができるでしょう? 迫害と困難はその愛を切り離せるでしょうか? 七年の患難が私たちをその愛から切り離せるでしょうか? もちろん、できません!
この世界のどんな迫害も苦しみも、罪からお救いくださった主の愛から私たちを切り離すことはできません。疲れていて、ひとりきりでいたい時でさえ、誰かがイエスは私たちを罪から救ってくださったかどうかと尋ねたならば、イエスは本当にお救いくださいました、私たちには罪がありませんと答えるでしょう。心がどんなに疲れ悩んでいても、イエスは私たちを救ってくださった永遠の救い主なのです。体をまっすぐにしていることもできないほど疲れあるいは病んでいる時でも、神の義に感謝していると言うでしょう。どんな疲労も、罪から救ってくださった神の義から切り離すことはできません。
迫害も、飢えも、裸も、危険も、剣も私たちを神の義から切り離すことはできません。時に信仰者から避けられ、非難されるのが私たちの直面する迫害です。私たちの受ける迫害とは、友人や隣人、親類、それに家族までが私たちを異端と非難して去っていくことです。こうした迫害が私たちをイエスの救済から切り離せるでしょうか? まずできません!
どんなに厳しい迫害を受けても、それで私たちをお救いになった神の義と切り離すことはできないのです。神の義が私たちを義となさったのであり、これが不変の真理なのですから、何者も私たちを神の愛から切り離すことはできないのです。
精神的なものでも肉体的なものでも、飢えは私たちを切り離すことはできませんでした。水と聖霊の福音を信じているので、いつも心に残るのは神の義です。つまり、水と聖霊の福音によって私たちを罪のない者となさった主に対する信仰なのです この信仰が神の義に従う信仰であり恵みなのです。「主がすべての罪を消してくださったのですから、私には罪がありません! 神は私を義で罪のない者とし、御自分の義で包んでくださったのです!」 どんなに飢えが厳しくとも神の義に対する信仰が消えないのは、このためなのです。
 
 
水と聖霊の福音による神の義
 
水と聖霊の福音を信じない限り、人の心には罪が残っています。しかし、神の義を信じる者には罪がありません。主が、木はその実によって知ることができるとおっしゃったのは、そのためなのです。神の義を信じない者は、ほんのわずかの困難や飢え、迫害、試練に遭っただけでイエスへの信仰を捨てます。
「イエスは私の罪のために十字架上で裁かれたけれど、原罪だけが除かれたのであって、私は毎日、自分のその日犯した罪の赦しを求めなければいけないのだ」と考える人々がいます。こうした信仰をもつ人々は、実際は、イエスが罪をすべて取り除いたということを信じないことで神に対して罪を犯し、それによって自身を罪に定め、だめにしているのです。こうした人々はイエスを否定し、神の義を信じないのです。
しかし、水と聖霊の福音を信じる人々は神の義を信じ、どんな状況にあっても「神はたしかに私をこの世のすべての罪からお救いになったのです。私には罪がありません」と言って、信仰を堅くもち続けるのです。霊的飢えの果てに死に面しても、神が自分を罪のない者としたこと、自分は神の民となったことを否定しないでしょう。罪のすべてを取り除いてくださった神の義は、心の中に信仰として残るでしょう。水と聖霊の福音はそれだけ強く偉大なのです。人生でどんな試練に遭っても、キリストの中に神の義があるのですから、私たちがキリストの愛から切り離されることはありません。
上に引用した節で「裸」とは、どういう意味でしょう? 裸とは、すべての所有物を失うことを指しています。中世まで、ヨーロッパの村や国に問題が起こると、しばしば魔女狩りが行なわれ、犠牲者にすべての罪を負わせたのです。人々は犠牲者からすべてを奪い、異端者として告発しました。パウロがここで「裸」という語を使ったのはそのためです。
その当時は、ほんの一人二人の証人がいれば、誰かを異端者として告発し、杭に繋いで火刑にし、所有物をすべて没収し、社会的に葬ることができました。
たとえそのように裸の状態にされ、所有物をすべて失い、死につけられても、人類の罪をすべて取り去ったキリストの愛の中の神の義は絶対に消えません。水と聖霊の福音はそれほど完全なのです。
危険も剣も私たちをキリストの愛から切り離すことはできません。たとえ剣にかけられ、殺されても、私たち信者に罪はありません。原始教会のキリスト教徒の多くが、ローマに放火した罪を着せられ、闘技場で公開処刑され、ライオンの餌食となりました。この人たちは死に瀕しても自分たちを救った主をたたえました。水と聖霊の福音を信じていたために、主をたたえることができたのです。神が自分を愛し、罪をすべて取り除いたという真理を信じて贖われた人々は、ライオンに食い殺されようとしていても主をたたえることができました。
この強さは、罪のすべてを取り除いてくださった神の義と愛に対する信仰から生まれたものです。神が人々の内にいらっしゃって、話しかけ、強くあるよう支え、守り、慰めてくださるので、そのような強さが生まれるのです。危険も、剣も脅迫も、殉教も信者を神の愛から切り離すことはできません。
水と聖霊の福音を信じる人は、神の義を信じる者であり、キリストの民なのです。神の義を信じる人々は、キリストに愛されている人々です。が、キリストの完全な愛を単なる感情的な愛にすり替え、十字架上の死だけを見て、イエスの苦しみを悲しんで泣く人々がいます。しかし、人間の感情は、変りやすいものです。
感情は朝夕変化しますが、主が人類をお救いになった愛は、何ものによっても変えたり交換したりすることができないのです。主の愛は、永遠に変りません。水と聖霊の福音はこのように強く、神の義は、このように偉大なのです。私たちを完全にし、完全な愛で包んでくださった主から私たちを切り離すことは、誰にもできません。これが水と聖霊の福音の力であり、これはまた、神の義に対する信仰の力でもあるのです。
「福音」のギリシャ語は「euaggelion」で、これには神の「dunamis」──このギリシャ語は強さ、力、または能力の意味で、「ダイナマイト (dynamite)」の語源となりました──がこもっているとされていました (ローマ 1:16)。ほんの一束のダイナマイトがあれば、一軒の家を土台まで粉々にできます。戦艦から発射されたトマホークミサイルは、大きなコンクリートの建物を跡形もなく破壊できます。建物がどんなに堅固に守りを固めていても、ミサイルの破壊力にはかないません。
二機の民間航空機がニューヨークの世界貿易センターのツインタワーを破壊し去りました。航空機が建物に激突したとき、何が起こりましたか? 航空機の爆発によって発火したジェット燃料の炎の高熱が航空機の突っ込んだ階のものをすべて熔かしました。建物を支えていた各階のスチール構造と柱がすべて熔けてしまったため、階層が一気に崩れ、建物は崩れ落ちる階の重みに耐えられず、ついに完全に崩壊したのです。各階がゆっくりと落ちたなら、建物は崩壊しなかったでしょう。しかし、いくつもの階層が突然急速に落ちたために、柱その他の支持構造が崩れ、見たとおり、建物全体が瞬く間に崩れ落ちたのです。
神の福音の力は、水と聖霊の福音の力です。これはまた、神の義のこもった力でもあります。おそらくは、この悲劇を神の義を表現するために取り上げるのは不適当でしょうが、神の義によって与えられた水と聖霊の福音の力はすべての罪を完全に消し去るダイナマイトのようなものです。神の義とは、主がこの地上に降りられて、洗礼を受け、十字架上で死に、死からよみがえられて、人類の罪をすべて取り除くことによって救ってくださったことです。
水と聖霊の福音が神の義であり、それによってイエスは、人類が宇宙の初めから終わりまでに犯し続ける罪をすべて取り除いてくださったのです。何者も神の義の福音に対する信仰による贖いによって、神に愛された人々から神を引き離すことができないというのは、このためなのです。パウロの信仰もまた、神の義を信じたものでした。
では、十字架上の血の福音だけで神の義を受けられるのでしょうか? できません。十字架上の血を信じるだけでは、人は神の義にあずかることができないのです。そうではないと考える人々は、ほんのちょっとしたきっかけで容易にイエスへの信仰を諦めるでしょう。
例えば、地上の所有物が奪い去られた場合、あるいは、信仰のせいで仕事で困難に直面した場合、その人たちは、容易に信仰を放棄してしまうでしょう。これは必然的な結果であり、多くのキリスト教徒に起こることです。水と聖霊の福音を信じないために心に御霊をもたない人々は、罪の赦しを得ておらず、ほんのわずかの脅しにあっただけで屈してしまうのです。
今日のキリスト教が世界でこんなにも弱いのは、十字架上の血に限定された信仰のためです。こうした信仰は、水と聖霊の福音によって神の義を受けていないのです。
神の義を受けてすべての罪を赦された、義である信者は、多くの魂のために働くことができます。その人は、水と聖霊の福音を信じ、御霊をもち、神がみことばとして内にいらっしゃるのですから、多くの霊的な仕事をし、多数の迷える魂を神のもとに連れ戻れるのです。これが神の義にある信仰であり、水と聖霊の福音への信仰なのです。水と聖霊の福音は自分たちの仕事によってではなく神によって与えられたものですから、神の仕事を行なえるのも神によってなのです。
第 36 節は、「『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた』と書いてあるとおりです」とあります。水と聖霊の福音を信じる人々の中には、この世界で生きている間に実際このような扱いを受けた人々がいます。事実、水と聖霊の福音の信者はしばしば他の人から、とりわけ、自らをキリスト教徒と主張する、誤った信仰をもつ人たちから憎まれています。
つまり、新たに生まれたキリスト教徒は、仏教徒からよりも普通のキリスト教徒から、より憎まれているのです。この節で、「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた」は、水と聖霊の福音で神が信者にお話しになったみことばです。父のみこころに従って洗礼を受け、十字架上で死なれた主でさえ、「ほふられる羊とみなされた」のです。主は、地上においでになり、そのように生きられて私たちをお救いになりました。
 
 
神の義が世界のすべての罪に打ち勝った
 
第 37 節は、「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」とあります。どうすればすべてのことに勝てるのでしょう? 神の愛への信仰の力によって勝利者となるのです。
水と聖霊の福音を信じる人には、神の力があります。しかし、水と聖霊の福音を信じない人は、心に罪しかありません。罪のある人たちの信仰と救済は、感情のために起伏があり、そのために力がありません。しかし、水と聖霊の福音を信じる人々には力があります。その人たち自身には力はありませんが、神に与えられた福音の力があり、この力によって、あらゆる迫害と試練とに耐え、打ち勝つことができるのです。しかし、水と聖霊の福音を信じない罪人は、神は律法を従うために与えられたのだと考え続けます。義である人はまた、福音のために迫害されて生きるのは当然なのだと考えて耐えなければなりません。主のために生きるよう定められているからです。
東洋のことわざに、「一日読まざれば口に棘あり」というのがあります。では、私たちはどうでしょう? 私たちも、一日でも神と福音のために生きなければ、あっという間に堕落していまいがちです。私たちは、死ぬまで主のために生きるのです。しかし、キリストのために生き、自分を犠牲にして神のゆえに迫害され、悪の霊の勢力に対して霊的戦いを行なえば、心は霊的食物に満たされ、それによって続けていくための新たな力を得るのです。
キリスト教徒が堕落するのは、主のために生きなかったからなのです。しかし、主のために生きるとき、霊はさらに強くなり、健康と体力もまた増すのです。
第 38-39 節は、「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」とあります。水と聖霊の福音の信者として、パウロはこのことを確信していました。同じ真理が私たちにも当てはまります。死も生も私たちをキリストから切り離すことはできません。
遠い昔、ローマ皇帝のような世俗的権力を振るった人々が、キリスト教徒に信仰を放棄し仲間の信者を役人に密告させようとして、高い地位、女、財産など、あらゆる手段で誘惑しました。すべては棄教させるためでした。しかし、福音の真の信者は決して権力や富や名誉の誘惑に屈しませんでした。
信仰は世俗的なものと交換できるようなものではありません。誰かが白紙小切手を見せて、「福音を広めるのをやめるなら、この小切手を上げましょう」と言ったなら、私たちは、未来への希望と神への強い信仰から、「それはご自分で取っておいてお使いなさい。それはただの紙切れに過ぎません」と言うことができるのです。
 
 
水と聖霊の福音の中にだけ神の義はある
 
「あなたが私たちの十字架上の血への信仰もまた正しい信仰だと言いさえしたら、私たちもあなたの信仰を認めましょう。あなたたちを異端として非難するのをやめるばかりでなく、実際、手助けもしましょう」と言う人が大勢います。いわゆる宗教指導者は、とりわけそのような妥協をさせようとしました。しかし、神の義はみことばに照らして正しく確かなのです。誤りはあくまで誤りであり、真理はあくまで真理なのです。誤った信仰を認めること自体が神に対する反逆なのですから、私はその人たちの信仰を認めることができないばかりでなく、常に誤りを指摘し続けなければならないのです。
「十字架上の血だけを信じるですって? では、あなたの心には罪があるのでしょう。地獄に行きますよ。私のことを頭が固くて融通がきかないと思われてもしかたがありません。真理はあくまで真理なのです。」 こうしたことを言うので、人々は私に近づきません。というよりも、近づくことができないのです。かつては、大勢の人々が、私も自分たちと同じようだろうと思って近づいてきました。しかし、そのたびに私は、「あなたは偽りの羊飼いであり、生活のために神の名を売るペテン師で、ただの泥棒です」と言わなければなりません。こんなことを言う人間を誰が好くでしょう? しかし、違うものは違うのです。ですから私は、断固として譲らないできたのです。
私はまた、十字架上の血を信じさえしたらこれこれの権威を与えようと言う人たちから誘惑を受けてきました。しかし、先に引用した部分にあるように、「今あるものも後に来るものも、力ある者も高さも、深さも、その他のどんな被造物も」高かろうと深かろうと、権威として必要ないのです。詐欺師のいくたりかが主張するような癒しの力は無用です。新たに生まれた私たちにはそのようなものは必要なく、そういうものが好きでもありません。
この節はまた、他のどんな被造物も、主イエス・キリストの中の神の愛から私たちを切り離すことはできないと言っています。この宇宙に異星人がいようと、私たちをお救いになった神の愛から私たちを引き離すことはできないでしょう。
異星人の存在を信じるキリスト教徒たちがいます。牧師の中でさえ、大勢がその存在を信じています。しかし、異星人などというものは存在しません。神学校で学んでいたとき、ギリシャ語を教えていた先生が異星人の存在を信じていました。それで、尋ねました。「先生は、聖書の言葉でその考えを証明できますか?」 もちろん、先生は、答えることができませんでした。異星人は絶対に存在しません。神はこの世界を深くお愛しになったので、ただ一人の御子をお与えになったのです。本当に異星人が存在するのなら、イエスがこの地上にだけ生まれる必要はなかったでしょう。
膨大な投資と研究の結果、人類は月に到達しました。火星にも探査艇が着陸しました。しかし、地球外に生命体が存在するという証拠は、ただの一つも発見できませんでした。私は聖書に基づいて自信をもって、人間の科学技術がどんなに発展しても、どんなに広く宇宙を探しても、異星人を見つけることは絶対にないだろうと言えます。聖書は、他のどんな被造物も、主イエス・キリストの中の神の愛から私たちを切り離すことはできないと言っています。では、この神の愛とは何でしょう? これは、水と聖霊の福音にほかなりません。これが神の愛です。水と聖霊の福音によって人類を救って罪のないものとした救済が神の愛であり、何者も私たちをこの愛から切り離すことはできないのです。
パウロは第 9 章でも信仰のことを話していますが、この信仰の究極の点は第 8 章のこの結論なのです。ローマ人への手紙の第 1 章から第 8 章が主題を形成し、そして第 8 章がその結論の章であり、ここで信仰は極点に達しているのです。第 8 章のみことばにみるように、水と聖霊の福音を信じる人々は、神の義と切り離すことができなくなるのです。
しかしながら、そのように信じない人々はの信仰はそう堅固ではありありません。おそらく、一時的に主のために生きることはできるでしょうが、死ぬまで信仰を守って神のために生きるということはできません。十年や二十年は信仰をもって生きるでしょうが、やがて信仰は衰え、消え、すっかり切り離され、神とは全く関わりがなくなるのです。その人たちの行ないが不完全だというのではありません。しかし、心の中のキリストへの愛は消えてしまうでしょう。心に御霊を宿していないのですから、その人たちは心に主への愛ももっていないのです。つまり、その人たちの心には代わりに罪があるのです。
主が人類を水と聖霊の福音によってお救いになった救済の愛がいかに深く完全であるか、私には時とともに、それまで以上にわかるようになってきました。はじめて主を知ったとき、キリストの愛についての理解は静かで穏やかで、湖に投げた小石が小さな、かろうじてそれとわかる波を起こす程度のものでした。ただ、イエスが罪をすべて取り除いてくださり、それによって罪のない者となったのだという真理を静かに認識していたのです。しかし、それ以後、福音を説く生活をしてきて、心の中の波は想像もつかないほどに大きく深く、まるで爆弾が炸裂したようになってきたのです。
十字架上の血だけを信じればいいと、誰が言いましたか? パウロがそう言いましたか? ローマ人への手紙で、パウロははっきりと誤解の余地なく水と聖霊の福音のことを話しました。「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ 6:3-4)
水と聖霊の福音は、本当に偉大で完璧なのではありませんか? どんなに小さな信仰であろうと、水と聖霊の福音を信じれば、その人は罪から救われます。どんなにたくさんの欠点があろうと、水と聖霊の福音によって、その人の信仰は完全になります。どんなに弱くとも、水と聖霊の福音への信仰によって、その人は救われんます。自分自身は無力ですが、神のために生き、神と共にあれば、心から汚れはすべて除かれるのです。
しかし、最初から信じようとしない人々は、たとえこの福音を聞いて十年間共に生きてきても、結局は神に背き、神から離れます。目を閉じ耳をふさいで神の真理を見も聞こうともしないことにした人々は、自分で神の恵みを拒んで死に向かう、愚かな人々です。イエスのバプテスマがなければ十字架上での死もなかったはずなのに、その人たちは毎日自分たちの罪でキリストを十字架につけます。
私は、福音の偉大さ完全さを、日ごとに実感します。自分が弱くなるにつれてこの福音に示された主の愛がどんなにすばらしく完全であるかに気づき、そのためにそれまで以上に主に感謝します。この福音を説けば説くほど、私の声は大きくなります。説けば説くほど、私は強くなります。そして、この真の福音を説くほどに確信は深まるのです。
新たに生まれても、神のみことばを聞かず、神に仕えなければ、心に雑草が生え始め、その雑草のために心は荒れるでしょう。そうなったときは、また賛美歌を歌い、エホバのことを考えなさい。神をたたえる歌を歌うことによって、心は清められ、再び活力を得ることができます。
心を振るって不純物をすべて排出し、神のみことばで満たして心を新たにしなければいけません。心は既に清められているのですが、世の中の不純物が心に入り込んで混乱させ迷わせようとしたときには、主をたたえる歌を歌い、神を崇め、祈り、心を新たにし、活気を取り戻すことができます。
たとえどこに行こうと、神をたたえることは楽しく心弾む経験です。赦された人々の心には罪がないのですから、ほめ喜ぶ思いは自然に心に起こるのです。楽しい心のほめ歌は、心に生えた雑草を消すことができます。
時に、弱さが表れることがあります。考えや感情は状況に応じて容易に変化しますから、キリストにある兄弟と共にある時には幸福でよい気分であっても、ひとりでいるときには汚れた不純な考えをもつことがあるでしょう。パウロが自らの肉を見て「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と言ったのは、このためなのです。
パウロは弱く、まだ肉の中にいたのですが、それでも水と聖霊の福音に救われることによって完全になりました。このようであったのは、パウロ一人でしたか? 私も、パウロと同じです。みなさんもパウロのようではありませんか?
世間の人が集まると、男性は普通、酒を飲み、しばしば自分たちの仕事や誰が昇進し、誰がしなかったかなどといったことを話し、女性は夫や子ども、家のことをさかんに自慢します。しかし、義である人々の会話はこうした世俗的な人々のものとは質的に異なります。私たちは食事を共にしていても、日本、ヨーロッパ、アフリカ、合衆国その他、世界中で救われた魂について話し、神をたたえ、心で親睦します。
ローマ人への手紙を読むときは心でパウロの信仰を共に経験できます。また、神のお与えくださった救済がどんなに偉大であるかを発見します。福音のすばらしさを感じます。章句を理解し、文章に隠された意味を発見します。主の救済がいかに完璧であるかに思い至ると、神の義をたたえずにはいられません。
世界中がたった今変わってしまったとしても、水と聖霊の福音が人類を罪から救ったという事実は変わらず残ります。キリストの愛が人類をお救いになったのであり、この愛は離れることなくいつも私たちの中にあるのですから、私たちがするべきことは、心を世の中から転じて神にまた集中するだけでよいのです。人間は弱く、この弱さのために時に世俗の行ないに堕ちるのですが、その時には、心を神に向け、主がお救いくださったのだという真理を信じさえすればいいのです。肉はまだ変わっていないのですから、罪の律法の下で生きなければなりません。ですから、いつでも肉を否定し、霊的な考えによって生きるようにするのです。心に雑草の生えるのを止めるには、いつでも神に戻り、神の義をたたえることです。
みなさんは、この水と聖霊の福音の強力さがわかりましたか? ローマ人への手紙は全体が水と聖霊の福音に基づいていますから、まず福音を信じなければ神のみことばを解明することはできません。
このみことばの秘密を開き知るようにしてくださった主に感謝いたします。主の愛である神の義から私たちを切り離すことは誰にもできません。神の義を信じたければ、ヨハネによるイエスのバプテスマと十字架上の血とを自分の贖罪と救済であると信じなさい。そうすれば、神の義を受けられるのです。
神の義の恵みがみなさんと共にありますように。