説教集

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 8-14] (ローマ 8:1-39) 罰を受けない人々

(ローマ 8:1-39)
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなた方のうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。ですから、兄弟たち、私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。わたしたちは、御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりではなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、いいようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるのなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。それは、
「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた」と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
 
 
<ローマ 8:1>こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
聖書のみことばでは、接続詞や修飾成句にはそれぞれ深い意味があります。使徒パウロのこの句にある「こういうわけで」は、人間の肉のことに関連して神の義の偉大さを語るのに用いられています。
使徒パウロは、自分の肉が罪に従うのを見ました。また、自分の心には肉に従う心と、神の義に従って歩む心とがあるのを知ります。そうして、魂が肉の欲情へと傾くのを見て、キリストの内に示された神の義をたたえています。パウロは神の義を信じていましたが、肉のために苦しみを覚えていたので、神の義は彼にとって永遠のたたえに値するものだったのです。そこで、神の義である水と御霊の福音の力がいかに偉大かをあかししているのです。
これはキリスト・イエスの内の信仰です。パウロはキリストの内の神の義が世の罪を完全に打ち破ったことを叫んでいます。まことに、この世の誰が、自分には罪がないと言えるでしょう。神の義を信じている者には罪がありませんから、罰を受けることもありません。パウロはこのことをあかししています。
人間が罪を処理する唯一の道は、イエスの成就された神の義を信じることです。イエスを救い主と信じているといっても、神の義が何であり、イエスがバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマがどういう役割をもつものであったかを知らなければ、罪のない者になるのは不可能です。キリストの内の神の義を信じる者は、まったく罪のないすばらしい栄光をまといます。これは「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」 (ローマ 10:10) とあるのと同じです。「罪のない者になる」というのは、水と御霊、神の義によって来た福音の真理を信じてはじめて可能です。
ですから、神の義の福音を信じないで半分の福音を信じる者は、神の義を含む福音を信じなければなりません。では、神の義を信じて罪のない者であることは可能でしょうか。可能です。神は「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」とおっしゃっているのですから。
それならば、神の義を信じる信仰をもつためには、神の義を含む水と御霊の福音のみことばをもたなければなりません。この水と御霊の福音のみことばを信じる者は、罪のない者になる信仰をもつのです。水と御霊の福音は、たった今も悔い改めの祈りによって罪を清めようとしている人に必要な福音です。神の義を含む水と御霊の福音のみことばを知り、信じる信仰をもってはじめて、「罪に定められることは決してありません」という、みことばどおりの状態になるのです。
 
<ローマ 8:2>なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
義人とは、神の義の福音に仕える人です。神の義を知り、信じる者であっても、罪の内に歩み、肉の欲求の中で生きることがあります。しかしながら、基本的に、神の義に仕える者には、御霊にしたがって歩もうという気持ちが強いのです。
第二句は、イエスが神の義の内でバプテスマを受けられたことと十字架上で血を流され、死者の中からよみがえられて罪人を律法の条項の示す罪すべてから救ったことを告げています。罪と死の律法からの自由は、神の義によってイエス・キリストの内で成就しました。これは、イエス・キリストがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって、ただ一度で世の罪を被られたため、十字架につけられて血を流す資格をもっておられたということです。イエス・キリストは、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、世の罪を被られて十字架上で死なれ、それから死者の中からよみがえられ、神の義を信じる者を罪と死の律法から解放してくださいました。父なる神が御子イエスの内に定められた義は、罪の赦しのためのバプテスマと十字架の血により成就され、人間にいのちを与え、罪から救いました。ですから、聖書は、神の義が人間を罪から解放した御霊の律法だとしているのです。
いのちの御霊の律法とは、神の定められた、神の義の救済の律法です。神の義とは何でしょう。父なる神が人類にくださった義、すなわちイエスのバプテスマと十字架の血、死、そしてよみがえりによって成就された罪の赦しによる救済です。これは神の義によって人間を完全にする神の愛を示しています。神の愛とは、人類を罪からお救いになるために主がバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマ、十字架上の血、そしてよみがえりによって成就された神の義です。
先の引用部分で「罪と死の律法」というのは、神がモーセを通じてお与えになった律法を指します。神の定められた律法は罪を漉し取るフィルターです。人間の罪を照らし出すサーチライトです。律法は神の設けられた基準です。これは何が罪であるかを示すと同時に、律法によって裁かれる者に神の義が必要であることを教えます。律法はすべての人に神の義が必要であることを知らせるのです。同時に、神がモーセを通じてお与えになった律法から、人間は自身が罪人であること、死の律法にしたがって、罪の報いである死の罰を受けるのだということを教えます。
よろしいですか、神は人間を罪からお救いになるために一つの義の律法を定められたのです。それは神の義によって定められた救済の律法です。神の義の定めた罪の赦しの律法は、イエスがバプテスマを受けられたことと、十字架の血とによって成就しました。神はその義によって、どうすれば罪を贖えるかをお教えになったのです。
神のくださった義を信じてすべての罪から永遠に解放されなければなりません。これまでに犯してきた罪、今犯している罪、将来繰り返し犯す罪のすべてから解放されるには、神の義を信じなければなりません。神の定められたいのちの律法を信じて、罪と死とから解放されたいですか? すべての罪から自由になっておられますか? 神の義の定める新たないのちを得られるようにする救済の律法、イエスのバプテスマと十字架の血とを信じるなら、すべての罪から必ず解放されます。しかしながら、イエスのバプテスマと血とにより罪の赦しを得ることを知らず、信じていない者は、罪から永遠に自由になることができません。
ですから、神の定められたいのちの御霊の律法と罪と死の律法とを信じて永遠のいのちを得なければなりません。
 
<ローマ 8:3>肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
神の定められた律法では人間の罪を取り除けません。これは神の義の内の真理です。人間の肉には神の律法を守る能力がないからです。律法の機能は、人間の罪を指摘し、裁き、救い主を求めるように仕向けることです。しかし、律法には人間を本質的に罪のない者にする機能はありません。その代わり、神の定められた律法には、罪のある者を、自分には罪がないと言える者へと変える力があります。使徒パウロは律法に関して、「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていること」と述べています。律法主義的信仰によって罪を清めることはできないのだということを知っておかなければなりません。律法主義的信仰をもつ人が悔い改めの祈りをささげ、罪を清めるために祈り続けても、神の律法は罪を明らかにします。そうした人が信仰生活を長く続けるほど、罪はますます積もっていきます。神の義を信じなければ罪を清めることができないからです。
神の義を知らないまま律法主義的信仰生活を送っている人は、そうした信仰を改めなければなりません。神の義がある限り、もはや律法主義的信仰生活に縛られることはありません。神の義が罪をみな消しているのですから。神の義を知らなければなりません。神の義が罪をみな取り除いたことを知らなければなりません。神の義とは、父なる神が御子を罪深い肉の形で遣わされ、御子が罪を負われ、肉において罪の罰を受けられ、それによって人間の罪がみな消されたことを指します。父が御子の肉において罪を罰されたというのは、バプテスマによってイエス・キリストの体に世の罪を移し、そうして世の罪を取り除かれたのです。神は、その義を信じる者の罪をただ一度で清められました。
この真理の根拠はヨルダン川(マタイ 3:13-17)にあります。イエスはこの世にお生まれになると、三十歳の時に、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになるためにヨルダン川に行かれました。イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって、ただ一度でこの世の罪をみな被られて神の義を成就されました。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになると、世の罪がみな、イエスの頭から背に移りました。イエスに世の罪を被ることがおできだったのは、神の義を満たすバプテスマを受けられたからです。ですから、世の罪を負われた状態で十字架につけられることもおできでした。さらにまた、死者の中からよみがえられ、信じる者に罪の赦しと新たないのちとを永遠にお与えになることもおできでした。
これが、父なる神が御子を通じて世の罪を取り除かれたみわざ、すなわち神の義なのです。神の義は神の公正と愛です。父なる神は御子を通じて愛を実現なさいました。神の義とは神の愛であり、それが人類の罪をすべて取り去ったのです。では、みなさんの罪もまた、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったときに、その上に移されたことをご存じですか?
使徒パウロのあかしした神の義を信じておられますか。彼は、律法にはできないことを神がなさったと述べています。これをご存じですか? 必ず神の義を知り、信じていなければなりません。バプテスマのヨハネは神の義をあかしして、イエスに授けたバプテスマにより世の罪を移し、それにより神の義が成就したと述べています。みなさんの罪はどんな信仰によって、誰に移されたのでしょう。バプテスマのヨハネが按手の形でバプテスマを授けた時に世の罪をイエスに移したのだと信じて、ご自分の罪もイエスに移されましたか? イエスが十字架につけられて死なれ、よみがえることがおできになったのは、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた時に世の罪を被っておられたからだということをご存じですか? イエスが受けられたバプテスマ、死、よみがえりが神の義を成就し、これを信じる私たちをイエスはただ一度で罪からお救いくださいました。神の義を信じれば、罪をみな贖われ、永遠のいのちを得ます。このことを信じておられますか?
使徒パウロはローマ第 8 章で、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してないと述べていますが、これを知り、信じなければなりません。パウロの言葉は、イエスが受けられたバプテスマ、十字架上の死、そしてよみがえりを指しているのです。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって、ただ一度で罪を被られたと信じておられますか。イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたので、世の罪を負われて十字架につけられ、そうして、ただ一度で神の義を満たされることが可能だったのです。イエスが人類の罪のために死なれるためには、バプテスマをお受けになる必要がありました。そして、私たちをよみがえらせてくださるために死者の中からよみがえられたのです。これは神の義を信じる私たちへの賜物です。みなさんは感謝しておられますか? 神の義をくださった主に栄光をささげておられますか?
 
<ローマ 8:4>それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
正しい信仰生活は、自分の考えによって歩むのではなく、神のみことばに沿って考え、信じるものです。そうした信仰が最高の信仰であり、最高の信仰生活なのです。みことばに沿って神の義を信じる信仰をおもちなら、イエスがバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマが律法の要求を満たすためのものであったことがおわかりでしょう。イエスは罪の赦し、すなわち神の義をすべて成就されました。そのおかげで人間は主を救い主と信じて救済を受けるのです。イエスは人間の罪と、その報いである死とをすべてお引き受けになるためにバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、律法の要求をすべて満たされました。
イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネから神の義を満たすバプテスマを受けられ、水に身を浸されたのは、そのためです。それから、信じる者をお救いになるために水から出られました。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたのは、世の罪を被られるためでした。それが神の義をすべて満たしたのです。それから、身代わりとしてすべての罪のために十字架上で死なれるために、水に身を沈められました。罪をみな被っておられたからです。
パウロは、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたのは、神の律法の要求を満たしたのだと述べています。パウロはローマ人への手紙第 6 章にある、イエスがバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマについて霊的説明をしています。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられて成就された罪の赦しについての真実を知り、律法の必要が満たされたと信じておられますか。もうためらうことなく神の義を含む真理を信じなければなりません。
 
<ローマ 8:5>肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
人間は肉に従うか御霊に従うかして考えます。パウロは、肉に従う者は肉の働きをし、他方、御霊に従う者は、霊の救済のことをひたすら考え、そのような生き方をすると述べています。
彼はここで、二つの生き方の結果が全く違ってくるというのです。主は、人間は自分で種をまいたものに応じて収穫をするとおっしゃいましたが、肉のために生きれば、肉の果実を収穫します。しかし、神の義のために生きるなら、永遠のいのちの実を結ぶのです。ですから、新たに生まれた者にとって、霊的にどちらの生き方を選ぶかが重要です。どの種を選ぼうと、自分のまいた種を刈ることになるのです。これは神の語られた真理のみことばですから、誰一人その結果は否定できません。ですから、肉の恩恵ではなく、神の義の恩恵を求めるべきです。
肉に従って生きることについて、パウロはガラテヤ 5:19-21で次のように述べました。
不品行、穢れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
実際、「党派心、分裂、分派、ねたみ」というのは、神の義に敵対し、信じない者から出ることなのです。神の義を信じない者は党派を作り、神のみことばに敵対しています。「これこれの長老派教会(あるいはバプテスト教会、フルゴスペル教会、メソジスト教会)に行きます」と誇らしげに言って、分派を作ります。それから、集団として神の義に敵対しようとし、神の義を信じる者と争います。「うちの教派では、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたのは謙虚さを示すためだとしています。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けた時に罪がみなイエスに渡されたことで神の義が実現したとは考えていません」と言います。
異端者もそういったものです。神の御前で異端者とされるのは誰でしょう。神の義にしたがって信じる信仰の人が異端であり得るでしょうか。今日のキリスト教徒は、自分たちの教派と違う信仰をもつ者は異端だと見なします。しかしながら、「異端」とは、神の望まれるのとは違うように信じることをいうのです。最後まで心に罪をもったままイエスを信じる者は異端者です。神の語られたみことばとは違うことを信じているのですから。
誰であろうと、自分の心を覗いてみて、罪があるのなら、その人はまだご自分の中にいないと主はおっしゃいます。これは、たとえキリスト教徒であっても、その人は異端者だということです(テトス 3:11)。今日のキリスト教徒の中に異端を信じている者がまことに多いことは否定できません。そうした人は神の義を信じていないのですから。これはまことに残念なことです。しかし、私たちに何ができるでしょう。イエスを信じていても罪がある者は、間違った信仰を改め、神の義に沿って信仰しなければなりません。
みなさんは肉のことに心を定めておられるのですか、それとも神の義の働きにですか。この二つのどちらかを取るしかありません。そして、選んだ道にしたがって結果を得るのです。
神の働きを考える者は、神の義とは何かということに心を定めています。「イエス・キリストがこの世に来られて受けられたバプテスマの意味は何だろうか。その死は何を意味するのだろう。また、よみがえりの意味は何だろう」と考えなければなりません。そして、水と御霊の福音のみことばを信じ、御霊に従い、全世界に福音を広める働きが良いことであるかどうか考えます。
御霊の働きに心を定めている者は、神の義の働きをする信仰の人です。肉の働きに心を定めている人は、世俗的なことだけを考える肉の人です。ですから、肉の考えを追求する人は死に至り、御霊の働きを考え、御霊に従う人は、いのちと平安を得ます。神のこと、人々のいのちを救う働きの楽しさを考えて生きなければなりません。
 
<ローマ 8:6-7>肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
肉のことを考えるようになると、神の働きをするのがどれほど良いことであるかを忘れがちです。ですから、神の働きのことを考えて暮らさなければなりません。そのためには神の義を信じなければなりません。神の義は、すべての良きものの基本です。神の義を信じる者は、自分なりの義を投げ捨てます。神の義は善ですから、高潔な行いをさせ、聖徒が善の実を結べるようにします。
人間は誰でも、自分の肉のことを考えることも神の義のことを考えることもできます。ですから、正しい考えをもたなければなりません。そうすれば、神は認めてくださいます。
 
<ローマ 8:8>肉にある者は神を喜ばせることができません。
神の義を信じる者は、自分の肉のことではなく神のことを考えるなら、主に従えます。ほんとうに神をお喜ばせしたいのなら、「神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル 11:6) 神に仕えようとする者は、肉に関わる働きを避けなければなりません。
神の義を信じる者が神の御霊に従って生きようとするなら、絶えず主にお仕えし、従っていなければなりません。そうしてはじめて肉の働きを避け、水と御霊の福音を他の人々に広めることができるのです。
みなさんは魂を罪から救う働きをしたいと思われますか。それなら、水と御霊の福音のみことばを信じなさい。そうすれば、神の義を含む真理を広めることになります。水と御霊の福音は魂から罪を消し、御霊に満たされて生きられるようにします。
 
<ローマ 8:9>けれども、もし神の御霊があなた方のうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
神の霊である御霊がキリストを信じる者の心におられるかどうかは、その人が御霊の人であるか肉の人であるかによって決まります。みなさんの心には御霊がおられますか? おられるなら、その方は確かに神の義を信じておられます。
次に、神から御霊の賜物を受ける道について述べた部分を読みましょう。使徒の働き 2:38 には「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物としての聖霊を受けるでしょう』」とあります。
なぜここには「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」とあるのでしょう。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって世の罪をすべて被られ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられたためです。主はこのようにして、神の義を信じる者みなを救われたのです。ですから、イエスがバプテスマを受けられたことを知り、信じて罪をみなきよめられた者は、イエス・キリストの御名により、手を置く形でのバプテスマを受けます。イエスがバプテスマを受けられ、血を流され、死者の中からよみがえられたのは、罪をみな贖ってくださり、人間が死んでまた生きるようになさるためであったと信じて、神から賜物として御霊を受けるのです。
ですから、水と御霊の福音を信じて罪のきよめを受けた者は、賜物として御霊を受けます。それが神の民となったしるしです。ですから、御霊の賜物を受けた者は、誰でも神の義を信じているわけです。
これは、神の義のみことばを信じて罪をすべてきよめられることなしには、神から御霊の賜物を受けられないということです。神は聖いのですから、神の義を信じて罪を完全にきよめられていない者は、心に罪があるため、御霊の賜物を受けられません。ですから、心に罪のある者は御霊をもたないのです。罪人の心には罪とサタンの霊だけがあります。神の御霊は、そうした心にはただの一瞬も宿れません。御霊がほんの少しとどまっただけで消えたと感じたなら、間違いなく、それは御霊を装った悪魔だったのであって、御霊ではなかったのです。
心の中に御霊のおられるあかしは、その時に心に罪があるかどうかによります。たった今心に罪があるのなら、以前は御霊のために働いたことがあっても、その時心におられたのは実は本物の御霊ではなかったのです。その時も心に罪があったのですから。
今すぐに御霊を心にお呼びしたい方は、水と御霊の福音のみことばを心で信じてください。イエスがバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマは、罪を全部負われ、きよめるためのものでした。イエスがバプテスマによって世の罪をみな被られ、十字架に釘打たれて死なれ、よみがえられたと信じておられるなら、その方はすでにすべての罪から救われ、御霊の賜物を受けておられます。ひとたびイエスを信じるようになったなら、水と御霊の福音のみことばを知り、信じていなければなりません。それにより、心にある罪をみなきよめるための御霊の賜物を受けるのです。
みなさんの心には神の御霊が宿っておられるでしょうか。それはひとえに、神の義を知り、信じる信仰が心にあるかどうかで決まります。もしないのなら、水と御霊の福音に示された神の義を信じる信仰をもたなければなりません。他には何もいりません。みなさんはキリストに属する者になられましたか?
 
<ローマ 8:10>もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでも、霊が義のゆえに生きています。
キリストは聖書の主人公で、神の義を成就されたお方です。キリストは正しい神を信じる者の心にある罪を消されましたが、同時に彼らの心に宿ってもおられるのです。
神の義を信じる者は、すべての罪の赦しを受けています。イエスが十字架上で死なれた時、その人たちもまた、死んだのです。そして、心は神の義により新たないのちによみがえりを受けました。言葉を換えて言えば、信じる者の魂は信仰により、神の義によってよみがえりを受けたのです。ですから、神の義である水と御霊の福音のみことばを信じる者は、キリストの内に宿る者になるのです。しかしながら、世の情欲に満ちた欲求に対しては死んでいます。
 
<ローマ 8:11>もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
神の義を信じる者の心は死んでおらず、神の御霊によって生きています。神の御霊をもつ聖徒の肉は一度死んで、もう一度よみがえりを受けます。罪をもたず、神の義を信じるのが聖徒です。信仰により水と御霊の真理を通じて霊が新生していても、肉は一度死に、それからよみがえりを受けることに定められています。ですから、聖徒とは、新たな永遠のいのちを得た者なのです。
 
<ローマ 8:12>ですから、兄弟たち、私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
神の義を信じる者の心は生きています。罪に従う肉のつまらない欲求を追い求めて生きてはなりません。肉は既に罪のために十字架上でキリストとともに死に、キリストとともに新たないのちを得ているのですから。
 
<ローマ 8:13>もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
聖徒が死んだいのちを生きるのか、生けるいのちを生きるかは、肉の罪にしたがって歩むか、神の義に仕えるかによります。
 
<ローマ 8:14>神の御霊に導かれる人は、誰でも神の子どもです。
心に御霊をもつ者は御霊に耳を傾け、御霊の導きを与える霊的指導者の言葉に従います。ですから、神の子らは先輩のしもべに導かれます。しかし、罪人は他の罪人に導かれるのです。
わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。(ヨハネ 10:27)
神の義を信じて神の子どもになった者は、神のみことばに従います。神の子であるかどうかもまた、その人が信仰によってみことばに従うかどうかによって決まります。これは「木のよしあしはその実によって知られる」(マタイ 12:33)とあるのと同じです。
 
<ローマ 8:15>あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。わたしたちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。
神の義を信じる者は御霊を受け、それによって神の子どもになります。聖徒は罪の赦しを受け、水と御霊に示された神の義を信じ、イエス・キリストを救い主と信じています。イエス・キリストを受け入れたなら、自分は神の義を知り、信じていると言うことができます。
 
<ローマ 8:16-17>私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
心に御霊をもつ者には、神の子どもであることを御霊があかしなさいます。神の義を信じて神の子どもになるなら、父なる神とともに天の栄光を享受することになるでしょう。私たちはキリストとともに神の栄光を受けるのですから、神の義のためにともに苦しまなければなりません。
 
<ローマ 8:18>今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
神の義を信じる者には、果てしない栄光のいのちが待っています。パウロがキリストのこの世での苦しみに比較して天国での栄光に満ちた生を語っているのは、そのためです。この世のどんな苦しみも、義人が次の世で享受する栄光に比べれば問題になりません。そうなのです。聖書には「天上のからだもあり、地上のからだもあり」(コリント I 15:40)とありますが、天国の栄光はたとえようがありません。
まことに、聖徒に与えられる栄光の生は、この世のどんな生にもたとえようもないものなのです。聖徒としもべに与えられる栄光があまりにすばらしいものなので、ただ感謝するしかありません。
 
<ローマ 8 :19>被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。
神の被造物はみな、将来みことばがすべて実現し、神の子らが栄光をまとう時を待っています。その理由は、その瞬間、神の摂理によってすべては完全になるからです。たった今も、あらゆる被造物は千年王国と永遠の天の御国が聖徒のうえに実現するのを待っています。
 
<ローマ 8:20>それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
今はまだ神のみこころの実現する時ではありません。神のみこころはまだイエス・キリストの内で実現していません。被造物が罪人から苦しみを受けているのは、そのためです。神のみこころが成就する時まで、被造物が無益な生を生きることになるよう定められているからです。
 
<ローマ 8:21>それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
罪から救われて神の子どもになった義人が天の栄光を受ける日を待ち望むのと同じように、すべての被造物もその日を待っているのです。神の義を知る私たちは、死の奴隷から解放され、新たないのちを得て後、そうした栄光を待ち望んでいます。被造物もまた同じです。
 
<ローマ 8:22>私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
被造物はまだ義人とともに苦しんでいます。神の栄光の生は、主の御国で始まります。神の義を信じる者がそれをともにします。今までは神お一方が栄光の生を生きておられました。しかし、これからは、栄光ある新たな世界を、神の義を信じて罪の赦しを得た義人と分け合ってくださいます。その世界が主の御国です。
被造物と主の民はみな、じきに訪れる神の御国を待ち、信じています。私たちはみな、その日まで苦しみます。
 
<ローマ 8:23>そればかりではなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを、待ち望んでいます。
被造物が神の御国を待つように、神の義を信じてキリストの民となった私たちも、主の御国がこの世と天で実現する日を待ち望んでいます。これは、罪の赦しを受けた聖徒としもべ全員の心からの願いです。
 
<ローマ 8:24>私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。誰でも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
神の義を信じる者は、罪の赦しを受けて神の栄光をまとい、天の御国に入って暮らす日を待ち望んでいます。聖徒は神の義への信仰によって罪の赦しを得ています。聖徒がその日を待つのは、天の御国に入る資格を得ているからです。ですから、義人はこの世で見るものは望まず、信仰によって天の御国に入って暮らす日を待ち望んでいるのです。これが神の義を信じる者の信仰です。
 
<ローマ 8:25>もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」
神の義を信じてこの世に生きている者は、主の日を待って忍耐強く信仰に生きています。それが聖徒の生です。「待つ」というのは、聖徒になった者の信仰のしるしです。
聖徒になった者はみな、現実の苦難に耐えて主の日を待ちます。待ち望んだ日が来れば、神の義を信じる者の願いがすべてかないます。ですから、「信仰と愛と希望」は常に待つのです。人間にとって最後の望みは、主の日に栄光の場所にいることです。その時には神の栄光を享受できるのです。
 
<ローマ 8:26>御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、いいようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
御霊は、神の義を信じる者の内に世の終わる日まで宿られます。義人には、神に何を祈ればいいのか、わからないことがあります。しかし、御霊は神に祈るべきことをご存じで、神の義を信じる聖徒をいつも助けてくださいます。聖徒が苦難の中にある時、御霊は祈る力をくださり、祈る主題を考えつかせ、心から祈る力をくださいます。心に確信と平安をくださいます。御霊はまた、神の義に仕える働きすべてに力をくださいます。
 
<ローマ 8:27>人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は神のみ心に従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
父なる神は、聖徒となった子どもに御霊をくださいました。そこで、御霊は御父のみこころに従って祈れるようにしてくださるのです。御霊は神だからです。ですから、御霊の働きは神の子どもになっている者にだけあるのです。
心に御霊が宿っている者には、御霊が、父なる神のみこころに従って心から祈れるようにしてくださいます。御霊は、水と御霊の福音を信じる聖徒が父なる神のみこころにしたがって生き、祈るようにしてくださるのです。聖徒の心が信仰によって清められただけなら、心に御霊はおられず、聖徒は神のみこころに沿って生きることができません。御霊が常に聖徒の心におられて、すべて神のみこころのままに熱心に祈るようにしてくださるのです。水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けた者の心には御霊がおられ、働いておられます。
心に御霊がおられる人は、この世で最も幸いな人です。御霊が聖徒の守護者であり、助言者でもあるからです。
 
<ローマ8:28>神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
神は罪人を召され、義人となさいました。神は、聖徒の生活や環境で信仰が成熟するよう働かれるので、すべてのことが益となるよう働くのです。神の義には、あらゆるものを良い方向に向ける力があります。
神は人間の生のあらゆる局面で働かれ、すべてが良い方向に働くようになさったのです。神の働きの証拠は、罪人をご自分の民である義人になさることです。そうしたことはみな、神の義によって成就された力の中で行われました。
 
<ローマ 8:29>なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子の形と同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
ここは、人間が御子イエス・キリストを通じてご自分の子どもになるよう、父なる神が予め定めておられたという意味です。このことは人間がイエス・キリストの弟妹になるよう予め定められたご計画の中に示されています。神はご自分の民をイエス・キリストの内に予め定められ、そのご計画にしたがって水と御霊の福音によって救われたのです。
神が宇宙を創られて以来、人間をイエス・キリストの内に民となさることは予定されていました。ですから、キリストが神の義によって成就なさった救済のご計画は、水と御霊の福音の内で完了するはずのことだったのです。父なる神はイエス・キリストをこの世に遣わされ、イエス・キリストのバプテスマと血により罪人を召されました。これは、神の子どもになりたい者は誰でもイエス・キリストのバプテスマと血とを信じなければならないことが予め定められていたということです。人間が神の子どもになるには、イエスが受けられたバプテスマと血との真理を信じなければならないと決められていたのです。ですから、自分には何の義もないことを認め、神の義を心から信じなければなりません。
父なる神はイエス・キリストを通じて成就されたご自分の義を信じる罪人だけをお召しになりました。神は、ご自分の義を信じない者は、自分なりの義がどれほどあろうと、神のご計画を拒み続けたため、救われることができないということを予め決めておられます。ですから、神の義を信じるには、神がその義の内であらかじめ定められたことを信じなければならないのです。
 
<ローマ 8:30>神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
父なる神は誰をお召しになるでしょう。イエス・キリストの内で自分の義をすべて砕かれた罪人を召されます。神は召された者にご自分の義をまとわせ、罪人から義人に変えられました。神は罪人を完全に罪から救われ、信じる者には、ご自分の民になるという栄光をお与えになりました。
使徒パウロは、第30節を聖化説のような教義の根拠とみなしてはならないと言っています。キリスト教徒は聖化の教義に気をつけなければなりません。たった今も、多くのキリスト教徒や神学者が神の義のみことばを誤解し、聖化説を作り上げているのです。
そうした人は聖書の記述を次のように理解しています。まず、父なる神はイエス・キリストを通じて罪人を召されて罪からお救いくださったけれど、救済は完全ではなかったため、心と体が徐々に聖化されて、はじめて完全になる。
しかしながら、神が人間を時とともに徐々に聖化して子どもになさるとは、聖書に書かれていません。神がその義により、ただ一度で完了なさったとしているのです。神は人間の義によってではなく、ご自分の義によって、罪人を完全に義となさいました。
「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し」から終わりまでの部分で、神の義について、神が罪人を召され、イエスがバプテスマによって世の罪を被られ、十字架上で血を流されるようになさることによって罪から完全に救われたことが述べられています。神はその義によって罪人を召されました。信じる者を完全に子どもとなさるためにあらかじめ定めて召されたのです。
私がみなさんに説いている福音は水と御霊の福音で、これには神の義が示されています。そして、この福音が罪人を義人にしているのです。神のご計画は水と御霊の福音にまことに明らかに示されています。水と御霊の福音は真理だからです。ローマ 8:30 を今日のキリスト教の聖化説や予定説によって説明しようとすれば、混乱することになるでしょう。頑なに聖化説や予定説で聖書の記述を説明しようとしたために、罪の赦しを受けずに混沌と闇の中に陥っている人がまことに大勢いるのです。聖化説というのは、まったく根拠のない誤りだからです。
神の義を信じてこの世を生きなければなりません。そうしてはじめて、すべての罪から自由になるのです。そのように信じないで、頑なにキリスト教の教義によって神の義を説明してイエスを信仰しようとするなら、けっして罪から逃れることができません。あらゆる真理は御霊によって解明されます。この真理が神の義を成すことをけっして忘れてはなりません。
聖化の教義は様々な点で作りものです。しかし、水と御霊の福音の真理は神の義です。すべては神の義によって証明されています。ですから、罪はみな神の義によって解決されることを知っていなければなりません。聖書の真理に依拠することなしに聖化の教義で解明しようとするなら、努力すればするほど解決から遠ざかります。ですから、まず神の義である真理を知らなければならないのです。よろしいですか、水と御霊の福音が神の義の実体なのです。水と御霊の福音は、罪人が福音のみことばを信じて自身の罪を認めて、はじめて信じられるものです。事実も神の義も水と御霊の福音の内で理解し、体得できます。
救い主として水と御霊によってこの世に来られたイエス・キリストを受け入れることをためらってはなりません。受け入れるなら、神の義が心の中で実現し、その人は恵みを受けます。神の義を信じるなら、神の栄光をまとう恵みを受けることができます。
 
<ローマ 8:31>では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるのなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
神は、ご自分の義である水と御霊の福音を信じる者を完全になさいました。ですから、宗教的義や宗教的善行、神の義に敵対する教義は捨て、神に戻らなければなりません。神の義は人間の汚れた罪を完全に清めた真理です。
神はご自分の義を信じる私たちを愛しておられるのですから、私たちが間違っていると、誰が言えるでしょう。誰にも言えません。神の御前で正しい信仰とは、神の義を信じるものであり、これは罪人を義人とし、天国に入れるようにする無敵の信仰です。あらゆる嘘に打ち勝つ道は、神の義を信じる信仰です。サタンに打ち勝つには、神の義を信じる信仰をもたなければなりません。
神は、その義である水と御霊の福音のみことばをくださいました。キリスト教の聖化説を信じても、罪のない者になれないということをご存じですか。仏教にも同じような教えがあります。いわゆるキリスト教教義を信じるのではなく、神の義を信じなければなりません。神の義は栄光を与え、イエスを信じる者を永遠に義人にするに余りあるものです。
 
<ローマ 8:32>私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
父なる神は、神の義を信じる者に、イエス・キリストを通じて、ご自分の民になる恵みと、千年王国で王として支配する恵みをくださいました。
神はここで、御子イエス・キリストといっしょにすべてのものを恵んでくださることを約束なさっています。水と御霊によって新たに生まれた義人がこの世に生きている限り、イエス・キリストと御霊が多くの恵みをくださいます。神は、義人がご自分の義の中に生き、真理を信じて、いつでもご自分の愛を受けているようになさいました。
 
<ローマ 8:33>神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか。神が義と認めてくださるのです。
神は、ご自分の義を信じる者をとりわけ愛され、子どもになさいました。ですから、神が私たちのためにしてくださったことを誰も責めることはできません。これは、神がその義によって受け入れられた者について、誰も抗議できないということです。神はご自分の義を信じる者の信仰をお認めになります。ですから、神の義を信じる義人の信仰が間違っているとは誰にも言えないのです。神の義がいつも正しく、慈悲深く、正直だからです。
 
<ローマ 8:34> 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
神の義を信じる者の信仰を誰も間違っていると言えないのと同様、そうした信仰をお認めになった神が間違っていると言える者も一人もいません。神の義を信じる者が正しいとお認めになるお方は、神なのです。
イエス・キリストがこの世に来られ、バプテスマを受けられ、十字架につけられて世の罪をきよめられ、神の義を信じる者の身代わりとして、ただ一度で罰をすべて受けられました。イエス・キリストはバプテスマを受けられ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、神の右の座に着かれ、神の義を信じる者の代弁者となられました。水と御霊の福音のみことばを信じる者の信仰が間違っていると言える人は一人もいないのです。
 
<ローマ 8:35>私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
この世の何も神の義を信じる者をキリストの愛と信仰から引き離せません。キリストの愛と私たちを引き離すことができる人が誰かいるでしょうか。一人もいません。では、キリストの愛を信じる信仰から引き離すことができる苦難があるでしょうか。一つもありません。迫害も飢えも貧困も危険も死も、キリストの愛から私たちを引き離すことはできません。
 
<ローマ 8:36> 
あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
旧約に書いてあるとおり、聖徒とキリストの予言された関係、聖徒のキリストへの愛は多くの愛と犠牲のもとになり、神の義を信じる聖徒はみな、主のために生きられるようになりました。
 
<ローマ 8:37>しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
神の義を信じる者は、イエス・キリストがくださった水と御霊の福音のみことばを信じてすべての迫害に打ち勝てます。神は、聖徒が水と御霊の福音のみことばを信じて、生のあらゆる局面で信仰をもって主のために生きられるようになさいます。
 
<ローマ 8:38>私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、・・・・・・私たちを引き離すことはできません。
今のこの時代にあって、神の義を信じたパウロと同じ信仰をもつのは、水と御霊の福音を信じている者です。原始教会時代にパウロや聖徒たちの信仰を砕ける者が誰もいなかったように、今のこの時代にも、水と御霊の福音を信じる者の信仰生活や信仰を打ち砕ける者は誰もいません。聖徒は常に神の愛と水と御霊の福音への信仰を守らなければなりません。そうすれば、やがて主にお会いできるのです。