説教集

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 9-1] 第 9 章のはじめに

イスラエル人と異邦人両方のために水と聖霊の福音はある
 
なぜパウロは、自分の同胞のために悲しみと心の痛みがあると言ったのでしょう? それは、その人たちのためには告発されキリストから切り離されてもいいと思うほど愛しい同胞兄弟のための願いがあったからです。パウロは本当に自身の肉によって同胞が救われるようにしたいと思ったのです。
この終末の世にあって、私たちは水と聖霊の福音を全世界に広めたいのです。神の真理を広めることは、新たに生まれた信者にとって最大の関心であり、同時に最も重要な目標です。終末にイスラエル人が水と聖霊の福音を受け入れるかどうかも関心事のひとつです。イスラエル人が救われるように祈り続けましょう。イスラエル人が福音を受け入れたとき、主の再臨は近いからです。
今年の私の祈りのテーマは、世界伝道のこととイスラエル人が真の福音を受け入れるよう祈るということです。また、イスラエル人自身の中から神のしもべが生まれますようにとも祈ります。神はかつてイスラエル人に律法をお与えになり、神の目の前にイスラエルを祭司の王国となさいました。キリストご自身も、肉の身として、イスラエル人からお出になったのですが、イスラエル人は信じることを拒み、いまだに神のみこころに背き続けているのです。
 
 
主は、二度目の来臨の時には信仰を見つけることが難しいだろうとおっしゃった
 
イスラエルに始まった水と聖霊の福音が世界中に広がることは、神のみこころです。しかしながら、最近は、人々の心が硬くなっています。多くの人々が真理を求めることから離れて行きました。
最近、韓国で「最後の誘惑」という、イエスを庶子としている映画が公開されました。これは冒涜だらけの映画で、主題は、イエスは決して神ではなく、仏陀として知られているインドのシッダルタ王子がそうだったように、ただの人間であったというものでした。この映画は、イエスが神であり救い主であるという真理を踏みにじっています。神が「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(ルカ 18:8) とおっしゃったのは、このためです。
私たちの信じるイエス・キリストは神であり、被造物より上にあって、永遠のほめたたえを受けるべきお方です。イスラエル人として生まれ、ヨハネのバプテスマを受けて人類の罪をすべて被られ、十字架上で血を流して死に、三日目に死からよみがえられて、信じる者すべてのための救い主になられたのです。神の義となられた主は、信じる者を義とされて、罪からお救いくださいました。
パウロは、イスラエル人が何人いようと、アブラハムの子孫、神の子どもとなることのできる人々はイエスを信じる者だけだと言っています。
イスラエル人は、将来多くの試練と迫害に遭うでしょう。神のみこころは、彼らのうちのある者は、主を救い主と信じるようになるだろうというものです。主はイスラエル人のものも含めて世界の罪をすべて取り除かれたのですが、彼らはイエスを救い主として信じようとはしません。
みなさんは弱いですか? 私たちの中には人より弱い人や強い人がいるでしょう。しかし、神の前ではみな、弱点だらけです。主が地上においでになってバプテスマによって私たちの罪を背負われ、私たちに代わって裁かれ、罰されて十字架上で亡くなったということを信じることによってのみ、罪のない、神の子どもになることができるのです。私たちを神の民、罪のない者としてくださった神の力を信じたたえましょう。主は本当に偉大です。
すべては人間のために存在すると信じる人々がいます。たとえば、その人たちは、律法は人間が定めたものであり、人間のために存在するのだと考えます。しかしながら、すべてが人間に発するものではないのです。事物は、神のみこころによってはじめて存在するようになったのです。神はこの世界と宇宙全体をお創りになりました。人が作った法律でさえ、その根底には神のみこころが働いているのです。
神はすべての中で働き、すべてはみこころのままになっていくのですから、すべての物の中に神の義を見いだせるのです。人類が弱くあったとき、神に対して罪を犯したとき、そして自身の罪深さのために神から切り離されたとき、神はイエス・キリストをお遣わしになると約束なさいました。神はイエスの受肉と、世界の罪から人類をお救いになったバプテスマとによって約束を満たされました。
さて、水と聖霊の福音が世界の隅々に広がったとき、神の本来のご計画が成就します。世界で物事がどのように展開しているか見ると、合衆国とイスラエルとがその中心にあることが見てとれます。神のご介入がなければ、新たな世界大戦が起こる可能性がとても高くなっています。
世界貿易センターが崩壊したとき、その巨大な衝撃は世界中で感じられました。世界が再び戦争に巻き込まれたとき、今のこの時代にあって、人類はどうなるのでしょう? 人類は新たな世界大戦から回復できないでしょう。自然さえ、人間の引き起こす徹底的な破壊からは立ち直れません。どうぞ、みなさんも水と聖霊の福音が全世界で平和のうちに説かれるよう、祈ってください。心配なのは、それは世界が平和でなければできないだろうという点です。平和のために祈り、戦争とテロリズムがなくなるよう努力しましょう。
人の作ったどの宗教も、人間の罪を除くことはできません。ただイエス・キリストだけが、人を罪から救うことがおできになるのです。ヨハネによるバプテスマと十字架上の血とによってだけ、人の罪は消され、裁かれるのです。この恵みは、神の義を信じる人々に与えられます。罪を赦される唯一の道は、キリストのバプテスマと血とを信じることによってなのです。他に道はありません。多くの宗教家が好むような儀式的な祈りや悔い改めによっては、贖われません。そうではなく、罪の赦しへの唯一の道は、バプテスマと十字架上の死によって罪をすべて取り除いてくださったイエスの受肉によって人類をすべての罪から完全にお救いくださった神の義を信じることなのです。
 
 
水と聖霊の福音の真理を信じることですべての罪から救われた
 
この真理は世界の隅々に宣べ広げなければなりません。この真理を信じないことは、異邦人と同様イスラエル人にとっても罪なのです。すべての人は水と聖霊の福音を信じなければなりません。
イスラエル人も異邦人も、この世界で生きている限りは、罪を犯し続けないではいられません。しかし、主はバプテスマによってこれらの罪をすべて一度で永遠に取り除いてくださったのです。イエスのバプテスマと十字架上の血以上に単純で明瞭な真理が他にあり得るでしょうか? なぜヨハネはイエスにバプテスマを施したのでしょう? イエスは、人類の罪をすべて一度で取り除けるように、ヨハネからバプテスマを受け、十字架につけられました。この真理を信じたり心に受け入れたりしないために、人々は罪のために滅びに向かっているのです。
「そう」(マタイ3:15) してイエスの受けたバプテスマは、すべての義を全うします。「そう」という言葉は、「このように」「最もふさわしい」「これ以外に道はない」という意味のギリシャ語「hutos」です。この言葉は、イエスがヨハネから受けたバプテスマによって人類の罪を不可逆的に御身に負われたことを表しています。イエスはヨハネから受けたバプテスマによって世界の罪をすべてその身に被られたために、人類のために十字架を運び、その上で血を流すことがおできになったのです。これが贖罪の真理であり、これによって人類全体がその罪の赦しを得ることができるのです。
主は、「もしあなたがたが、わたしの言葉にとどまるなら、あなたがたは本当にわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」とおっしゃいました。イエスのバプテスマと血とが神の真実で、これが人類を罪から救いました。これはすべて、書かれた神のみことばに基づいているのです。贖罪の真理は、水と聖霊の福音と共に永遠に続きます。父なる神のお決めになった、イエスのバプテスマと十字架上の血とによって罪人を赦そうということは、神のみこころです。人類の贖罪のためのイエスのバプテスマと血とを信じることは、神が人類のために定められたことを信じることです。人間の罪は水と聖霊の福音の真理を信じた時にだけ赦されるのです。
キリストのバプテスマと十字架上の血とを贖罪の真理であり赦しであると信じるならば、今この瞬間にその人は義とされるのです。しかし、信じなければ、その人はまだ罪人なのです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」、イエス・キリストを信じることによってのみ、すべての罪を赦され、神の子どもとなることができるのです。人が水と聖霊の福音の真理を信じてはいけない理由などありません。この福音を贖いのために必要としない人はいません。誰もが必要なのです。水と聖霊の福音の真理がこんなにも明らかに示されているのに、罪を清められることを望まないということでないのなら、なぜ信じようとしないのでしょう。
世界中で多くの人が水と聖霊の福音を受け入れ、さらに広めるために説いています。中には、私たちの本をボランティアで配布したいと申し出た人々もいます。十字架上の血を信じるだけで罪から赦されるのなら、この世界のすべての人が義となり、罪のない者となったでしょう。十字架上の血だけを信じるのなら、その人は毎日悔い改めの祈りを繰り返しても罪の中にあり続けます。そのような祈りは、日課として動作を繰り返しているだけであり、単なる宗教儀式を行なっているに過ぎないからです。
悔い改めの祈りを捧げることによって罪を洗い流そうとしているのなら、実際には神に対して深刻な罪を犯していることになります。その行ないは、人間の努力によってではなく、すべての罪を取り除き、身代わりになって罰をお受けになったイエスのバプテスマと十字架上の犠牲によって全うされた神の義を卑しめているからです。
イエスを救い主として受け入れるなら、贖いはイエスのバプテスマと磔刑とによるのだと信じなさい。イエスは罪人を罪から救うと約束なさって、ヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架上で血を流して神の義を全うされることで約束を守られたのです。この真理を信じない、どんな理由があるでしょう? キリストのバプテスマと十字架上で血を流されたこととが自分の贖罪であったと信じるのです。
ヨハネからバプテスマを受けたときにイエスが世界の罪をすべてその身に被られたことは、マタイの福音書第 3 章 13-17 節に記されています。すべての罪を赦されたいと思わない人々だけが、この真理を信じることを拒むのです。水と聖霊の福音の真理を信じることによってのみ、人は神の子どもとなって永遠のいのちを得ることができます。人を罪から救うものは他にありません。この真理を信じるよりすばらしいことはありません。赦しよりすばらしい神の贈り物もありません。神がくださった多くの贈り物の中で、罪の赦しが最高の贈り物なのです。
二番目によい神の贈り物は、やがて来る千年王国です、私たちがその支配者となるのです。そして、第三の贈り物は、天の国で神と共に永遠に支配するということです。神は、この終わりの時代にまで贖いの真理がイスラエル人にも異邦人にも明かされるようになさいました。
聖書で予言されたように、神のしもべが二人、イスラエル人から現れ、神はその二人によってすばらしい福音の奇跡を起こされます。すると、イスラエル人は、神がイスラエル人の中から引き上げられたその二人のしもべから水と聖霊の福音を聞き、大勢がイエスを救世主と信じるようになるのです。ヨハネが「主イエスよ、来てください」(黙示 22:20) と頼んで待ったように、私たちはその日の訪れを待ちます。
主の再臨の時が訪れるたなら、この真理を信じて赦され救われたことを本当によかったと思うでしょう。みなさんが水と聖霊の福音の真理を信じることによってすべての罪から救われるよう心から願っています。世界は変るでしょうが、神がそれによって人類を罪から救った水と聖霊の福音は、変わることのない永遠の真理なのです。贖いの不変の救済を受けるためにこの真理を信じましょう。神の贖いの真理がみなさんと共にありますように。
 
 
神は私たちをあわれみの器となさってお救いくださった
 
ローマ人への手紙第9章では、神がヤコブを救ったのは、神がヤコブをエサウ以上に愛したからだとしています。すなわち、ヤコブはあわれみの器に、エサウは怒りの器に造られたのです。これは、なぜなのでしょう? つまり、神はエサウよりもヤコブをひいきしたのでしょうか? 当然ながら、大勢の人が「神は一方的で偏見がおありで、何の理由もなくひとりを愛することにし、もうひとりを憎むことになさったのだ。神の予定と選びは過っている」と主張するでしょう。
神がお創りになった世界を見ると、被造物はいかにも美しく純粋です。植物、動物その他すべて、神のお創りになったものは完全に見えます。では、どうして神はひとりの人を愛し、もうひとりに偏見をもって憎まれるのでしょう? でも、そういうことではないのです。
アダムとイブの不服従によって罪が世界に入り、この罪のためにそれ以後に生まれた者はみな罪の中にい続けるよう運命づけられており、地獄に落とされることを避けられないのです。神がヤコブを罪から救い、エサウを救わなかったからといって、神が何か悪いことをしたということにはなりません。神の目で見ると、そうする立派な理由があったのです。
キリスト教社会にはエサウのように振舞う人が大勢います。そうした人々はだいたい、早朝から深夜まで、いつであろうと礼拝には欠かさず出席します。中には、会社から教会に通って、家でより教会で過ごす時間の方が長い人もいます。こうした人を「宗教的走者」と呼びましょう。しかしながら、そうした人々の中には、神の義を真剣に受け取らない人が大勢います。その人たちは自分自身の義を築こうとしていて、そうすることで神の義を無視しているのです。
神の義を無視する人々でも、罪を赦されて天国へ行きたいと望みます。しかし、この人たちの努力は神や他の人の前に自分自身の義を築こうとするものであり、罪から救われようというものではないのです。神の義を信じない人々に対して、神はご自分の義への信仰はすべての人のものではないとおっしゃいました。
では、どんな人々が神の義を信じられるのでしょう? それは、自分の罪深さを知り、自分の心で自分はつまらない存在なのだと気づく人々です。その人々は、水と聖霊の福音に啓示された贖いによって神の義を発見し、直ちに信じて神の栄光の方に向いた人々です。神の義を信じてそのように救われたということは、私たちが神の義を必要とするあわれな存在だということを意味します。そうでなければ、私たちは生涯罪の中に生きなければならないのです。
しかし、神の前に自分自身の義を追求する人々は、高慢です。そうした人は、「主よ、私は十一献金をいたしました。一晩中起きていてあなたに祈りを捧げました。過去十年間、毎日の早朝礼拝を欠席したことがありません。そして、あなたのためによい行ないをしました」と言うでしょう。
しかしながら、神は、その人が身に備わっておらず得ることもできないものを自分の努力によって証明しようとするよりは、自分には全く義がなく、水と聖霊の福音による贖いによって神の義を信じる必要があるのだということに気がついたほうが、ずっとお喜びになるでしょう。
たった今も、キリスト教社会には、自分自身の義を示そうと、あらゆる努力をしている人々が大勢います。中には、自分の言ったとおりに実行する人々もいます。しかし、その人たちは水と聖霊の福音に表された神の義を信じていないために、罪が完全に洗い流されていないのです。神はその人たちの末路を決めます。その人たちが主のバプテスマと血とを贖いの真理として信仰することで罪を赦され、真の神の子どもとなりますように。
救いの器について、使徒パウロは、誰でも神があわれみをもつ者を神はあわれみ、神が思いやりをもつ者に思いやりをもつのだと言っています。では、だれが神のあわれみを受ける人々なのでしょう? すべての人間は、本当にそうしたくとも、神のみことばの通りに生きることはできません。人々は、心から神のみことばを信じ従って生きようと願いながら、何度もつまずきます。その人たちは神の前にあって惨めで罪悪感を感じ、自分は地獄に行くのがふさわしいのだと思います。そこで、自分が地上でも神の国でもあわれな存在であることを知り、神にあわれみを乞うのです。神があわれんでくださらなければ救われないと知っているので、必死に願います。
つまり、罪からの救いは、神があわれむ人、神が恵む人の上にあるのです。その人たちにを避けようもない滅びから救うために、神はただひとりの御子にバプテスマによってすべての罪を被らせられ、十字架上で死なせられ、死からよみがえらせられることによって、水と聖霊の福音をお与えになりました。父なる神はあわれな人々に恵みをお与えになります。
しかし、この世界には神が恵みをお与えになる人よりも、怒りをもつ人のほうが多いようです。神は、今日のキリスト教社会にはあわれみの器と怒りの器とがあるとおっしゃいました。つまり、神に愛される人々と、神に愛されない人々とがいるのです。
ローマ人への手紙第 9 章 17 節は「聖書はパロに『わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。』と言っています」と記されています。神は自分の力が知られるようにするためにパロのような人を立てたのです。しかしながら、あわれみの器には、神は愛を示され、自分の名が世界中に告げ知らせられるようになさったのです。罪と神の怒りのために、人間はみな地獄に行く定めなのです。しかし、神が自分を信じる者をあわれまれて義の愛をくださったため、人類は罪のすべてから救われました。
神の義を信じない人々と自分自身の義を追い求めることだけを考える人々は、神に背いているのです。その人たちは、神の怒りを受けるのです。神の強い怒りを示すには、神に敵対する者が必要で、これによって神の裁きの正義が示されるのです。
パロのような人々は、神の義の愛を拒否した人々です。神はパロに十の災厄をお与えになり、最後のものは死でした。神を拒んだ者には、果てしない火の湖が待っています。これが神の怒りの力なのです。この世界には神を否定する権力者が大勢います。しかし、神はやがてこの人たちを打ち倒し、ご自分の怒りの力を告げ知らせられるでしょう。ご自分を否定する人々のかたくなな心を神がそのままにしておかれるのは、そのためなのです。
ここで重要なことは、では、どのようにしたらあわれみの器になることができるか、ということです。そうなることによって、神の義の愛を信じることができるからです。人間には、神の前でお見せするものは何もありません。そうではなく、人は神の義の愛を信じるために生まれたのです。聖書は取税人とパリサイ人が神の前で祈った話を伝えています。神は前者をあわれまれ、後者にはあわれみをお与えになりませんでした。取税人のような人々とは、神の前で自分は何ひとつよいことを行なわず、神の栄光には届き得ないのだと知って、神の憐れみを乞うた人々です。
その人々は、神の義の愛に包まれる人々です。しかし、パリサイ人のような人々は、自分は十一献金をした、週二回断食した、祈った、信仰熱心であると言って、いつでも自分がどれだけ神のための行いをしたかを自慢します。神の前のどこに立つかによって、神の義の愛に包まれるか、罰の怒りにさらされるかが決まります。神の前で心をかたくなにしていると、罪は永遠に赦されないままです。赦しがない者は地獄に行く運命なのです。
水と聖霊の福音は世界中で説かれています。救われない人々は、ただ心がかたくななために救われないでいるのです。人間には義である点はあらず、信仰によってのみ神の義である愛に包まれるのです。神は、被造物の身でありながら神の義を認めることを拒む人々を憎まれます。しかし、水と聖霊の福音と神の義を信じる人々は、神に愛され永遠のいのちを受けるのです。
今日この世界のキリスト教徒の多くは神の前で怒りの器として生きています。ローマ人への手紙から神の義とは何かを学ぶ必要があるというのは、このためです。神がある者を愛し、他の者を愛されないのは、ある者は神の義を信じ、他の者はそれを信じないからです。この真理についてお話ししましょう。神がヤコブとエサウになさったことは、正しいことです。イエスを信仰する人の中には、水と聖霊の福音を信じることなく神に愛されたいと願う人々が大勢います。こうした人々は、エサウのようなもので、神はその人たちを罪にしたがって裁かれるのです。
神は、世界の罪をすべて一度に取り除くために御子をヨハネからバプテスマを受けるようにお遣わしになりました。この真理を信じていますか? 本当に心の底から信じていますか? 神の義の示されている水と聖霊の福音の真理を信じたとき、人はすぐにすべての罪から救われます。イエスはたった一度でこの世界の罪をすべて取り除いてご自分の肩に負われ、十字架上で死に、死からよみがえり、人類がすぐさま罪から解放されるようになさったのです。
しかし、神の義を信じることなく赦されようとしたなら、それは神に対して罪を犯しているのです。神の義を信じないということは、イエス・キリストが毎日私たちの罪のためにバプテスマを受けて死ななければならないということなのです。無限の叡智をおもちの神がそのような方法を選ばれるでしょうか? 神は人類を罪からお救いになるために、罪のすべてからただ一度で完全に救えるようにと、御子をただ一度バプテスマを受けて十字架につけられ、よみがえらせられるように遣わされました。
神は義である神です。神はご自分の義のうちで人類の罪の赦しをご計画になりました。神が人類の罪を消されたのは、罪を起こす度に赦しを求めて祈ったためではありません。そうではなくて、神の義を知ることによって一度で贖われた者の罪をすべて一度で永遠に消し去られたのです。
では、その後で人間が毎日犯す罪は、どうなるのでしょう? それは、神の義のために感謝を込めて礼拝し、すべての栄光を神だけに帰すときに処理されるのです。神の視点からすると、完全な救済のために、イエスがバプテスマでたった一度でこの世界の罪をすべて被られ、十字架上で血を流し、代わりに裁かれ、このようにして一度で人類の罪をすべて取り除かれたのです。神の義の愛は、神のご計画によって世界の罪をすべて一度に除くことで全うされたのです。
ローマ人への手紙第 9 章 25 節に「それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。『わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ』」とあります。そう、神はご自分の民ではない人々を自分の民と呼ぶとおっしゃいました。私たちの信じる神の義は理論ではなく現実なので、神の義を信じることによってすべての罪から救われているのです。これはすべて現実なのですから、神の義を無視する人々は憎まれ、エサウのように裁かれるのです。神の前で自分の義を自慢できる者はいません。
すべての罪から救うために、神はご自分の義によって人類をお救いになったのです。では、どうして感謝したたえずにいられるでしょう。感謝と信仰をもって神の義の福音を広げずにはいられません。