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主題 10: 黙示録

[第2章-9] (黙示録 第 2 章 18-29 節) 水と御霊によって救われているか

(黙示録 第 2 章 18-29 節)
 
テアテラの教会は神のわざに愛と信仰と忍耐をもって仕え、その行ないは時とともに向上していました。しかし、同時にこの教会はよこしまな預言者に冒されてもいたのです。この教会の悪行とは、会衆の中に、この悔い改めないにせ預言者に欺かれ、偶像崇拝と不品行をする人々がいたことです。そこで主は、テアテラの教会に悔い改めて初めの信仰を最後までもち続けるようにと要求なさいました。主はまた、最後まで信仰を守った人々には国々を支配する権威と明けの明星とをお与えになると約束なさっています。
 
 
イゼベルのバアル
 
イゼベルは異邦人の王女で、アハブ王の妻となったとき、異教の神バアルをイスラエルにもたらしました (列王記I 16:31)。バアルは異教の太陽神で、フェニキアの偶像であり、人々は繁栄を願ってこの神を拝みました。この神の像を彫り、礼拝したのです。信者は家族と土地の豊饒を祈りました。これは世界中でみられる、異教徒が大地と自然を礼拝する行為に似ています。たとえば、大きな石に神格を与えて神として拝むことは、自然崇拝を行なう異教徒にはよく見られることです。汎神論に従う人々は、こうした宗教行為や信仰をもっています。
イゼベルがこの異教の宗教をもたらすと、バアルはイスラエル人の尊崇する偶像神となりました。かつてはエホバ神のみを礼拝していたアハブ王は、異邦人の女と結婚したためにバアルを拝むようになりました。多くのイスラエル人がその後に続き、真の神を離れて代わりにバアルに礼拝して偶像崇拝を行ないました。こうして彼らは自分たちの上に神の怒りを招きました。
神はにせ預言者イゼベルの信仰が教会に入ることを許したことで、テアテラの教会のしもべを非難なさいました。イゼベルとそれに従う者に悔い改めるようお命じになった神は、従わなければたいへんな患難と破壊をもたらそうと警告なさいました。
これは、真の教会では富と物質的所有とがその支配的な関心になってはならないということです。今日の信者は、イスラエル人が太陽神バアルを礼拝して豊饒と繁栄を願ったように世を神としてはならないという意味なのです。
ヨハネの手紙第三第 1 章 2 節には、「愛する者よ、あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります」とあります。使徒ヨハネの信仰を見ると、彼の第一の関心は霊的な幸いであることがわかります。ヨハネにとっては、その他のすべての点での幸いは先ではなく、魂の幸いの後に来るのです。では、この信仰がどうして現代の世の中では変わってしまったのでしょう。信仰は堕落して肉の恵みだけを求めるものへと変じ、信仰によってまず第一に世俗的な繁栄を求め、それ以外の霊的幸いはないがしろにするようになっています。イエスの信者の多くは魂を豊かにすることをせず、肉を第一に豊かにします。
私たちのまわりには、礼拝の見返りとして富と健康を与えると主張する、麻薬と同じくらい有害な宗教的カルトが数多くあります。イゼベルのバール崇拝は、このようなものでした。こうしたカルトに従う人々は、ただ肉の繁栄と豊饒とをのみ求めます。
今日の新たに生まれた教会には、会衆を増やすためにイゼベルの信仰に迎合するところがあるでしょう。しかし、その論理は神殿に偶像を入れるのと同じようなものです。
イゼベルは異教の神バアルをイスラエルにもたらしたばかりではなく、エホバの神殿にまで持ち込んだのです。イエスのうちの罪の贖いについて何も知らないままに肉の繁栄と世俗的な利益を求めるこうした信仰は、神の目の前で偶像を拝むのと同じくらい誤った信仰なのです。
現在、世界中の教会ではヨハネの福音書第 1 章 29 節を引いて、「みなさんの罪はすべてなくなりました。イエスが十字架上で取り除いてくださったからです」と説きます。彼らはイエスのバプテスマを単なる付随物とし、バプテスマは信じなくとも、ただイエスを信じさえすれば救済は得られるのだと言います。しかし、キリストがヨハネからお受けになったバプテスマは、それによって世の罪をすべて被られたバプテスマなのであり、人が恣意的に加えたり除いたりできるようなものではありません。イエスのバプテスマを福音の単なる付随物として扱い説くことは、バアルを礼拝するようなものです。
では、なぜこの人々はイエスのバプテスマを抜きにした福音を説くのでしょう? 彼らがそうするのは、神の国ではなく、この地上の世俗的な富を得たいと願うからなのです。こうした信仰をもつ人々は、異教の神バアルを拝んだ人々と全く同じです。
以前は水と御霊の福音を信じていながら、今は十字架上の血だけを説くようになった人々は、自分がバアル崇拝と同じくらい深刻な偶像崇拝の罪を犯していることを認識するべきです。
自分の目標をこの世の物質的利益に置くことによっては、誰ひとり正しく聖職を務めることができません。牧師がイエスのバプテスマを除外して十字架上の血だけを説くなら、この世界の世俗的な富を蓄えることができるでしょう。しかし、そうした信仰は真の信仰ではありませんし、またその説教も真の説教ではありません。
黙示録を読むと、テアテラの教会指導者は、イゼベルがバアルを拝んだのと同じように、教会でバアルを拝んだことがわかります。
水と御霊の福音を信じないのなら、御霊はその心に住むことも、内で働くこともできません。使徒パウロが「キリストの御霊を持たない人は、キリストの物ではありません」と述べているように、人が神の子であるかどうかは、その人の心にキリストの御霊が宿っているかどうかによるのです。聖書は、キリストの御霊をもたない人々は見放されるとしています。
 
 
イエスのバプテスマを知り信じる人々
 
イエスがそれによって世の罪をすべて被られたバプテスマ (水) と十字架上の血とを信じると、御霊がその人の心に住むことができます。
しかし、水と御霊の福音を信じなければ、たとえイエスのために殉教したとしても、それは真の殉教ではなく、ただ自分なりの義を打ち立てようとしているだけなのです。
十字架上の血だけを信じて世界の果てまで福音を説きに行き、生涯を宣教にささげ、ときに信仰のために殉教する人々もいます。ですから、たとえ十字架上のキリストの血だけを信じていたとしても、キリストの愛に刺激を受けて、殉教できるのです。しかし、マタイの福音書第 7 章 23 節にあるように、主ご自身がそれらの行ないと犠牲のすべてを認めることを拒まれたなら、何の役に立つでしょう。どんなに熱心に、例えばそう、モルモンの宣教師のように、忠実に福音を広めようと、同じことです。彼らは水と御霊の福音を説かなかったために、その信仰と努力のすべては無駄なのです。
神がテアテラの教会のしもべを非難なさったのは、彼がイゼベルの信仰の信者が教会に入り込むのを許し、その数が増すままにしていたためなのです。現在の世の中には、まさにこのような、魂を欺こうとする宗教指導者が大勢います。真の教会は、キリストの誕生、バプテスマ、磔刑、死、よみがえり、そして昇天、これらすべてに正しい信仰をもって正しい福音を広めなければなりません。そうでなければ、彼らの信仰は無益です。
にせの預言者はバプテスマの重要性を知らず、救われるためにはキリストの十字架上の血だけを信じれば足りると主張します。水の真理をとり残しているためにキリスト教は腐敗し、世界に数多くある宗教の一つになってしまいました。このために、キリスト教はもはや世界のすべての人に救済をもたらすことができないのです。
イエスのバプテスマと十字架上の血なしでは、キリスト教は世俗的倫理道徳を重視する単なる宗教になってしまいました。ヨーロッパや北米では大多数の人々がキリスト教徒だったのですが、現在は東洋の宗教が多くの信者を集めています。なぜでしょうか? 宗教としてのキリスト教は罪の赦しと神への信仰をもたらすことができず、大勢の人々が東洋の宗教の神秘性に惹かれ、そちらのほうが西洋の宗教よりも自分たちのためになると考えるからです。しかし、キリスト教は西洋の宗教でも東洋の宗教でもありません。
今こそは、水と御霊の福音と現在のキリスト教のありようについて考えるべき時です。なぜ真のキリスト教が今日あるようなものになってしまったのか、なぜ現在のキリスト教は多くの人々に無価値で厄介なものとみなされるようになってしまったのかを考えてみましょう。答えは水と御霊の福音の中にあります。水と御霊の福音を知ることなくイエスを信じることは、神の目の前でバアルを拝むようなものです。神の前に最も邪悪な行ないは、水と御霊の福音を真の救済の真理であると信じることを拒むことです。
今日のキリスト教は、水と御霊の福音の美しさではなく、この世の美のほうに心を奪われています。アジアの七つの教会は、イエスのバプテスマと十字架上の血とを信じて主に仕えました。しかし、聖書に見られるように、彼らもまたある点で世に屈し、水と御霊の福音は次第に押しのけられ、その代わりに世の中のことがますます人々の心を占めるようになったのです。
教会が救済の真理、水と御霊によって新たに生まれる福音を説かなくなり、代わりに十字架上の血のみを説くようになったら、どうなるのでしょう? こうお尋ねするのは、神の教会でさえ、世俗のことを追い求めるならば、じきに世に汚され、遠からず、救われるためにはイエスのバプテスマについて何も知らなくてもいいのだと言い始めるのです。この重要な点を神のみことばによって何度も確認し、お話ししているのは、このためです。
 
 
イエスのバプテスマを含む福音と含まない福音の違い
 
みなさんと私は水と御霊の福音を信じてすべての罪の赦しを受けました。水と御霊の福音は主の真理であり、イエスのバプテスマと十字架上の血、それに御霊は救済をあかしするものです。
ヨハネの手紙第一第 5 章 5-7 節とペテロの手紙第一第 3 章 21 節では、「水」すなわちバプテスマが人類救済のしるしであるとしていますが、これはマタイの福音書第 3 章 15 節で、イエスが人類の罪のすべてをバプテスマによって被られたとしている救済のみことばと同じことなのです。イエスのバプテスマは重要なのです。それなのに、キリストのバプテスマを無視し、十字架上の血だけを説いて、完璧な救済に人を導けるものなのでしょうか? 罪から救われた者はみことばを信じ、救済について厳密であらねばなりません。自分自身に繰り返し言い聞かせ、この部分がよりはっきりするようにしましょう。
自身の救済のしるしについて明瞭な一線を画することができなければ、これはその人がまだ救われていないということです。罪からの救いが単に信仰が進んだ段階であると考えるのは誤りです。罪からの救いは霊的確認の段階ではなく、信仰の基盤そのものであり、信仰の家を岩の上に築くうえで最も重要な段階なのです。
また、救済を各宗派による「教義上の立場」に過ぎないものとして扱うべきではありません。教義は宗派によって異なるでしょうが、聖書の真理、イエスがバプテスマによって人類の罪をすべて被られたという真理は、宗派によって異なっていてはなりません。水と御霊の福音を宣べ広げる際にイエスのバプテスマという肝要な点を落とすことができないのは、このためです。
キリストのバプテスマをとり残し、ただ「世の罪を取り除く神の子羊」として説き、あるいは十字架上の血だけを信じて救われると説くことはできないのです。人は、イエス・キリストのバプテスマと十字架上の血の両方を信じて罪の赦しを得ます。バプテスマを信じることなしに、どうしてキリストの十字架上の血を信じるだけですべての罪を消すことができるのでしょう? 十字架上の血だけを信じるとき、良心の罪もまた消えるのでしょうか? もちろん、違います!
イエスは聖書によって、神の義、人類の罪、そして裁きについてあかしなさいます。人がもつべき真の信仰とは、キリストのあかしなさったこの真の知識です。真の知識とは、どういうことでしょう? 神に裁かれる罪とは何であるのか、神の義とは何か、神の前に滅びに定められる信仰とはどのようなものであるかについての明確な理解をいうのです。こうしたことを知ってはじめて、真の知識から真の信仰が生まれるのです。
福音を説く際にイエスのバプテスマと十字架上の血のいずれかを除外したならば、それは水と御霊の福音を説くことにはなりません。神の真理を人間の観念によって扱い、誰でもイエスを信じさえすれば罪がなくなると説くならば、説く人もそれを聞く人も罪人のままでいることになります。イエスのバプテスマを説くか否かに魂が救われるかどうかがかかっているのです。
使徒の信仰をみると、彼らは十字架上の血だけを説いてはいません。彼らはみな、イエスのバプテスマと十字架上の血との二つが救済のみわざの要素であると信じていました。イエスがまずバプテスマによって罪のすべてをその身に負われたことを信じず、イエスは人類の罪のすべてを十字架上で処理なさったと唱えるのは、人間の論理として不合理であるばかりでなく、水と御霊の真理にも適いません。こうした中途半端な福音を信じる人々は、罪から救われることがありません。
 
 
福音を説く者の行ない
 
聖書について言えば、霊的仲人は水と御霊の福音を説く人々です。霊的救済の仲人は主と花嫁との間をとりもちます。まず第一にするべきことは、主が彼らのために何をなさったかを罪人に説くことです。イエスは人々の罪を被られるためにバプテスマをお受けになり、その罪のすべてのために十字架上で裁かれたと教えます。また、花嫁がこれを信じるかどうかを見極め、花嫁が信じるなら、仲人の役目はすべて成し遂げられたのです。
このためには、仲人が花嫁に、花婿は誰であり、また彼がみなのために何をしてくれたのかを花嫁が理解しやすいように説明することが大切です。花嫁の心が花婿がしてくれたことを知ったならば、仲人は花婿が水と血とによってすべての罪を取り除いてくれたことを教えます。
花嫁が花婿がなさったこうしたことをすべて受け入れたなら、その人はキリストの花嫁と呼ばれます。イエス・キリストの花嫁になった人々は、花婿が水と御霊の福音という代価を払って自分を買われたことを知っているでしょう。ご自分のものとなさるために、花婿は水と血とですべての罪を洗い流し、雪のようにして花嫁となさったのです。
そうしてはじめて花嫁は永遠に花婿を敬い認めることができるのです。すべての罪の赦しを得た人々は義であり、義である人々には罪がなく、罪のない人々はイエス・キリストの花嫁です。花嫁がそのような信仰をもっていると、花婿と結婚でき、花婿はその腕に花嫁を迎えることができるのです。ですから、真理のみことばで花嫁を用意する霊的仲人だけがうまく結婚をとりまとめることができるのです。
霊的救済の仲人として成功するためには、花婿がどんな花嫁を望まれるかを知っていなければなりません。花婿であるイエスには罪がありません。イエスは聖いのです。ですから、イエスは傷のない、罪のない花嫁を求められます。仲人が花婿のみわざによって花嫁を清め装わせるのは、このためです。花嫁に装わせるとは、花婿の成就なさった水と御霊の福音によって罪が完全に洗い流されてはじめて花嫁が花婿のところに連れて来られることを意味します。罪が部分的に清められたままで連れて来られたなら、花婿は受け入れられません。完全に罪のない花嫁をお望みだからです。この役割を務める神のしもべは霊的救済の仲人です。
ですから、神のしもべは霊的救済のために花嫁の準備を続けなければなりません。同時に、今日のキリスト教社会には、いたるところに数多くの肉の仲人がいて、物質的利益を引き出そうとしていることを覚えておきましょう。こうした肉の仲人は、イエス・キリストと拒絶された花嫁との両方によって倒されます。肉の仲人になってはなりません。
 
 
サタンの深いところを知る
 
神のしもべと民の間にもサタンのはかりごとの深さを知らない人は大勢います。つまり、サタンがどんなに執拗に人をつまずかせようとしているかに気づいていない人々が大勢いるのです。神のしもべのあまりに多くが、サタンがどのように水と御霊の福音を変え、損ない、どのように信者を欺いて誤った教えに従うようにしたかに気づかずにいます。その結果、イエスの信者の多くが真の水と御霊の福音ではなく、不完全な福音を教えられ、その魂もまた神のお気持ちに反して破壊されています。
神はおっしゃいます。「イゼベルの教えに従ってはならない。わたしが戻るまで、水と御霊の福音を信じ説き続けなさい。そうしたら、国々を支配する権威を与えよう。」しかし、イゼベルの信仰に欺かれた人々は、神が患難の中に放り込み、造り直すとおっしゃいます。
キリストの再臨のとき、イエスの血のみを信じそれによって救済を説いてきた人々は、自らの信仰に裏切られることになります。彼らは、異なった信仰をもつ人々に対していつでも優越感を覚え、自分の信仰を誇りがちです。しかし、神は彼らの信仰と水と御霊の福音を信仰する人々の信仰とを区別し、異なった扱いをなさいます。「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。」
主が地上に戻られるとき、新たに生まれることなく主にお会いするはめになるキリスト教徒が大勢いるでしょう。彼らは水と御霊の福音を信じなかったために、心に罪をもって主にお会いすることになります。それに対して、水と御霊の福音を信じて罪を赦された人々は、主の再臨とともに変えられ、ともに支配するのです。ここに記されているところでは、主とその民の権威は土の器を打ち砕く鉄の杖のようなものです。
神は、水と御霊の福音への信仰を最後まで守った者たちに国々を支配する権威をお与えになるはずです。主は、この権威は、ご自分が父なる神からいただいた権威と同じであるとおっしゃいます。信者は主がくださるこの国々を支配する権威をもって永遠に支配できるよう、イゼベルとバラムのようなにせ預言者と戦って勝利しなければなりません。
 
 
真理の確かな救済
 
罪人を救うために主はこの地上においでになりましたが、人類の罪のすべてをその身に被られるには、ヨハネからバプテスマをお受けにならなければなりませんでした。主は人類の罪を負うためにバプテスマをお受けになったので、その罪を十字架に運び、その上で死なれ、死からよみがえられることが可能だったのです。イエスがこれらの義であるわざを人類のためになさったのは、人類が罪を犯し、もがき続ける様を見ていることに耐えることがおできにならなくなったからです。水と御霊の福音は人をすべての罪から救う真理です。
また、主は水と御霊の福音を信じる者すべての救い主となられます。主はヨハネからヨハネからバプテスマをお受けになったために、その結果として、ヨハネの福音書第 1 章 29 節と第 19 章 30 節で「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と「完了した」とあかしされている、このすばらしい実を結ぶことができたのです。このみことばによって贖いを確信する人々は、イエスがバプテスマによってすべての罪を取り除いてくださったと知っているために、深い信仰をもつことができます。自分の心の中をよくよく見ることです。水と御霊の福音を信じなければ罪は心の中にあり続けるからです。
イエスのバプテスマを無視して十字架上の血だけを信じる人々の心をよく見るならば、罪の存在が否定しようもないことが分かります。神のみことばには自分たちの考えを加えたり引いたりできないのですから、バプテスマのヨハネの授けたイエスのバプテスマにとりわけ注意を払い、より強く信じるのです。水と御霊の福音を信じる人々の信仰を破壊する危険のある誤った福音と戦うのです。
イエスご自身が、「パリサイ人のパン種に気をつけなさい」とおっしゃいました。ここでいう「パン種」とは、酒やパンに使う物のことではなく、イエスのバプテスマを含まない福音を指しています。イエスがバプテスマによって世の罪を負われてそれを十字架に運ばれ、十字架につけられ、死からよみがえられて真の救い主になられたという事実を知り信じましょう。
イエスはヨハネからお受けになったバプテスマによって世の罪をすべて負われ、十字架上で流された血によってそれを消されました。しかし、人間はというと、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマを信じないために、罪がいつまでも残るのです。イエスが世の罪をすべて受け取るためにヨハネからバプテスマをお受けになったという事実を信じることなしには、罪が根本から消し去られることはありません。水と御霊の福音は、イエスのバプテスマと十字架上の血とが一つであると信じたときに人類の罪をすべてきよめ、雪のように白くする力の福音です。
 
 
勝利する者となる
 
この章では、神がテアテラの教会にお話しになったことを見てきました。神は、テアテラの教会のしもべに国々を治める権威を与えると約束なさいました。新たに生まれた聖徒はみな、霊的戦場で戦われている霊的戦いを戦って生きています。水と御霊の福音をもって霊的戦場で常に勝利しなければなりません。この霊的戦いは、人が水と御霊の福音を信じた瞬間に始まります。
水と御霊の福音を信じる人々は、サタンとの戦いに打ち勝たなければなりません。中には、神の前に立つその日までサタンと戦って誤った福音に勝利する人々がいるでしょう。勝利する人々は、主がこの地上においでになり、バプテスマをお受けになり、十字架上で死なれ、死からよみがえられて人類の罪をすべて除かれたと信じます。ほかの人がどう言おうと、罪が清められたのはヨルダン川においてであり、すべての罪はイエスがヨハネからお受けになったバプテスマによってその上に移されたのだという信仰が揺るぐことはありません。
主は、サタンと戦い勝利せよとお命じになりました。信者の肉は懸命に働き、ときに疲れますが、水と御霊の福音が誤った福音との戦いに敗れることは決してありません。
主はおっしゃいます。「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ 7:13-14) 旧約の預言者エリヤは、バアルの神官八百五十人以上と戦い、勝利しました。
使徒パウロもまた、自分が広めるもの以外に福音はないと言いました (ガラテヤ 1:7)。パウロの福音とは、イエスのバプテスマと十字架上の血への信仰にほかなりません。この福音を信じる人々は、たとえ新たに生まれた後でも欠点があるでしょうが、心には永遠に少しも罪がありません。主は水によって人類の罪をすべて清められ、被られた罪のためにその血で裁きをお受けになりました。イエスのバプテスマと十字架上の血とが信じる者に永遠の贖いをもたらしたのです。
救われた者に主は、信仰を守って最後まで戦う力をお与えになります。