説教集

主題 10: 黙示録

[第13章-2] (黙示録 13:1-18) 反キリストの登場

(黙示録 13:1-18)
 
さて、本文に基づいて、反キリストの出現と聖徒の殉教についてお話ししましょう。第13章では、獣が海から上がってきます。十本の角と七つの頭をもったこの獣は、反キリストにほかなりません。この部分では、獣の角には十の冠があり、その頭には神を汚す名があったとされています。また、獣は豹のようで、その足は熊の足のようで、口はししの口のようであったと記されています。さらに、竜はこの獣に、自分の力と地位と大きな権威とを与えています。獣の頭の一つは致命的な傷を負いますが、それが奇跡的に癒されます。
これに驚嘆して、全世界が獣に従うようになります。彼は竜から権威を与えられていたので、人々は「誰がこの獣に比べられよう。誰がこれと戦うことができよう。」と言って竜と獣とを崇めます。本章ではまた、獣には傲慢なことと冒瀆的なことを言う権威、四十二か月の間活動する権威が与えられているとしています。
 
 
海から上って来る獣
 
使徒ヨハネが見たのは、終わりの時に反キリストが世界の指導者の中から出現するさまでした。反キリストが海から上がって来る獣、十本の角と七つの頭をもった怪物なのです。
まず、この「獣」がこの世界に実際に現われるほんとうの獣であるかどうかを確かめておきましょう。ここでは、獣について二つの主要な点に注目します。第一に、この獣がほんとうにこの世界に出現して多くの人々を殺すのかどうか。第二に、この獣とは、世界の指導者たちの中から現われる専制的な反キリストのことなのかどうか。人々は、こうした点について最も興味をもちます。こうした問題について知る人々は、こうしたことがわかりやすいと言うでしょうが、知らない人々は、当然ながら、このような獣が実際に終わりの時の世界に現れて人々を支配するのかどうかといったことに疑問をもつでしょう。
第 13 章で神が告げられているのは、将来この世界に、サタンに操られた王が出現するということです。「海から一匹の獣が上って来た」というのは、世界の七人の王のうちの一人が反キリストになるという意味です。ここではまた、反キリストを中心に十の国々が一つになり、完全に破壊された世界を支配することをも告げています。
一方、獣の頭の一つの致命傷とその回復とは、七人の王の一人が致命傷を負いながら、その傷が治ることを告げています。この王は医学的には死んだとされますが、奇跡的によみがえり、それから竜のように振る舞います。ここで「竜」とは、サタンのことです。竜のように、獣もまた人々を滅ぼし、傷つける権威をもちます。終わりの時が来ると、こうした残虐な人間がこの世に現われ、映画のゴジラのように狂暴に人々を虐殺します。
サタンのしもべの出現とともに、世界は急速にその破壊へと向かいます。最後の時代にサタンが働くために選んだ方法は、しもべを通して人々への残虐行為を行なうというものです。これは、神が聖徒を通して罪人を罪からお救いになるのと同じ方針です。
ここが厳密にどのような意味をもつのかをはっきりさせておきましょう。本文で、獣の頭の一つが致命傷を負っているように、この世界の支配者の一人が致命傷からよみがえり、竜から権威を与えられ、人々から神であるかのような栄誉を与えられます。このために、人々は「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう」と言います。
この部分に現われる反キリストは、サタンの支配下にあって神に敵対するすべての人々から崇められます。これは、強力な指導者が終わりの世界に現れて支配するという意味です。この指導者は、世界の国々の支配者の一人です。サタンから反キリストの霊を受けて、彼は強力な指導者として出現します。世界はこの指導者の支配下に置かれ、統治されます。この世界は、将来統合されて一つの国家になります。現在の先進諸国は互いに協力し合い、強力な支配者を戴いてその支配を全世界に広げます。
ヨーロッパには現在欧州連合があります。アジアとアメリカにも、同様に個々の国家を単一の政治組織に統合していこうとしている組織があります。そうした組織がさらに発展すると、超国家的連合国家が実現し、強力な指導者がそうして統合された国家から出現します。この指導者は、神に敵対する反キリストの役を演じます。彼は全世界を思いのままに支配し抑圧する力をもった、指導力のある人物でしょう。
なぜでしょう? 竜、サタンから大きな能力と権威とを与えられているために、彼の知恵は通常の人々のものとは異なり、その思考もまた常人のものとは異なっているのです。彼の知恵と力とは空前絶後のものです。彼の言うことは支障なく成し遂げられ、誰ひとり彼の地位を望もうとしません。彼の支配するこの時期が、黙示録第 6 章に記されている、青ざめた馬の時代です。
青ざめた馬の時代は必ずや近い将来に訪れ、世界はしばらくの間、反キリストの手に握られます。しかし、この真理を知らない人々は、実際、やがて来る反キリストのような強力な指導者の出現を願います。それに対して、聖徒はこの真理を知り、この時代に目覚めているために、その時が来ると、反キリストに抵抗して戦い、信仰を守って殉教することができるのです。
今日、自分の国の指導者を完全に尊敬する人はほとんどいません。どの国に住んでいようと、人々は一般に政治的指導者に対して何らかの不満をもっています。全世界の人々は、強力で有能な指導者を求めています。なぜでしょう? 食糧不足から環境破壊、宗教問題、経済不況、人種的対立等々の、この世界に山積している問題のすべてを解決することのできる指導者を求めるためです。世界的指導者の一人が卓越した知恵と力によってすべての問題を解決することができれば、世界の誰もが彼を神のように崇め、喜んでその支配を受け入れるでしょう。この指導者、反キリストは全世界を手中にし、すべてのことを処理します。
人間はみな、あらゆる点で尊敬できる政治指導者を求めますが、それはとうていかなわない望みです。そのような指導者は、実際に台頭することも出現することもできないからです。しかし、反キリストがこの世界の数多くの政治的・経済的問題を解決すると、誰もが願うような指導者、この世界を政治的にも経済的にも安定させることのできる人物となります。
黒い馬の時代が終わり、青ざめた馬の時代が始まると、七つのラッパの災害のために荒廃した世界は、強力で有能な指導者を求めます。小国の無力な指導者では地球規模の問題を解決できません。ですから、人々は絶対的指導者を求めます。反キリストがこのとき現われ、神のように話し、振る舞います。彼の致命傷が治癒するために、人々は彼に驚嘆します。彼が死の淵からよみがえり、強大な力・勇気・決意と知恵をもつ指導者として働くと、全世界の人々は彼を神とみなします。
そこで、イスラエル人でさえ、彼を長く待ち望んできた救世主であると考えます。しかし、イスラエル人はすぐに、彼が嘘つきであり、イエス・キリストが真の救世主なのだと気づき、そうしてその多くが救われます。反キリストは、人々が「だれがこれと戦うことができよう」と言うのを聞きます。彼に従わない人々はみな、例外なく殺されます。
青ざめた馬の時代が訪れると、森林の三分の一を焼き尽くす火災、息を詰まらせる濃いスモッグといった自然災害によって、全世界がひどく苦しみ、また世界中の人々はただ一人の支配者を王と仰いで一つになります。問題のすべてを解決する人物は、神として崇められることになります。
こうしたことはみな、神がご計画になったことの一部にすぎません。こうしたことがこの世界に起こるためには、まず大規模な環境変化、それに、各国の指導的立場にある人々が中央集権的な政府が必要であると合意することが必要です。そのような指導者を求めるこうした合意は、現在の黒い馬の時代に形成されつつあります。世界は、今極めて強力な指導者を必要としています。各国の指導者が一人ではその国民の不満を解消することができないために、人類は今、直面している問題をすべて解決できる強力な指導者を求めているのです。
この世界で起こっていることをよくよく見るならば、こうしたことはすべて実現するだろうことがわかるでしょう。預言された指導者は熊の足のような足、ライオンの口のような口、それに豹の顔のような顔の持ち主と描かれているように、きわめて狂暴で、絶対的な権力とすぐれた能力とを具えています。
この人物は竜から権威を与えられて、神、天の御使いと聖徒を冒瀆します。そして聖徒に対して戦い、勝利します。反キリストは、信仰を捨てよと要求する戦いで聖徒を殺します。聖徒はこのとき信仰を捨てないために、彼らはみな殉教します。そして、反キリストは全世界に支配力をもちますから、自分の命令を聞かない人々をみな、思いのままに殺し滅ぼします。
第8節には、「地に住む者で、ほふられた子羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる」とあります。反キリストは、このとき絶対的な支配者として統治しますから、彼の意思に従わない者はみな、その命令によって殺されます。しかしながら、すべての聖徒にとって、こうした時は殉教の時なのです。
上に引いた第 8 節で「拝む」とは、絶対的な権力者をほめたたえ仕えることを意味します。終わりの時に、反キリストはこの地上の人々に神のように崇められ、それまでいかなる王も受けたことがないような高い栄誉を与えられます。しかし、一群の人々はこの指導者を崇めません。それが「新たに生まれたキリスト教徒」にほかなりません。彼らは反キリストを神として認めず、そのために彼を礼拝することなく、信仰を守って殺されます。
 
 
地から上がって来るもう一頭の獣
 
反キリストにはまた、 にせ預言者がいます。このにせ預言者は、反キリストを高い地位に上げるばかりではなく、獣に従わない人々を脅し、殺します。黙示録第 13 章 11 節には、「また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには子羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った」とあります。ここに登場する第二の獣は、最初の獣──つまり、反キリスト──のしもべです。反キリスト同様、彼は神に敵対し、世界の人々と義人を殺します。
竜から権威を与えられ、彼は人々に、自分の前に神として来た反キリストを礼拝することを教えます。彼もまた竜から権威を与えられているために、竜がそうさせたいと望むことを行なうのです。彼は人々に、自分の前に来た反キリストを礼拝させ、従わない者をすべて殺すばかりではなく、空から火を降らせるといった奇蹟を起こし、反キリストのように振る舞いさえします。彼は、致命傷を負いながらその負傷からよみがえる獣をすべての人々の前で神格化し、偶像とします。
では、誰がこうしたことすべてを行なうのでしょう? それは、反キリストの預言者です。彼の役目は、自分の前に来た反キリストの像を造り、人々に彼を神よりも高い地位に据えるようにさせることでした。そのために、反キリストの像にいのちの息を吹き込んで話せるようにし、この獣の偶像をおがまない人々を、どんなに大勢であろうと、すべて殺します。聖徒は偶像を拝むことを拒否して殉教するために、このときに無数の人々が殉教者となります。
それに対して、世の新たに生まれてない人々は死の前に震え、死の奴隷となってしまいます。ですから、彼らはみな反キリストを神として崇めます。良心的な知識人は専制君主に対して抵抗しますが、にせ預言者と反キリストの口から出る火に焼かれて速やかに鎮圧されます。
このにせ預言者は偶像を作り、「誰もが彼の名前または数を受けよ」と言います。それから、この獣の印をつけていない人にはどんな取引もすることを禁じる政策をとり、すべての人が確かに獣の名の印を受けるようにします。第 18 節には、次のように記されています。「ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。」
これは実に明瞭です。六百六十六という数を難しく考えることがありますが、これは単に反キリストの名前または数なのです。獣の印を受けるとは、彼の名前の印を額か右手に受けるということです。これは数値化され、バーコードにデジタル化した支配者の名前を体に刻印するということです。
この印は何かを買おうとするとき、いつでもいたるところで必要になります。バスに乗るときでさえ、このデジタル化した数が体に刻印されていなければならず、それなしには拘束されます。今日の時代は、このデジタル時代です。これは、数字の時代です。すべてが数値化されるため、かつてきわめて複雑であったことが今は実に単純になっています。こうした時代にこの獣の印が現われるのです。
反キリストは自身の偶像を造り、人々に自分を神のように崇めよと要求します。人々がこのように反キリストを「神」と呼び、たたえ、その名にかけて誓い、その名を右手か額に受ける時が実際に訪れます。こうしたことが起こった時、聖徒はみな殉教します。反キリストは聖徒に、「イエスを信じているのですね。神だと思っているのですね。そんなものは捨てなさい。この像の前で礼拝し、私を神と呼ぶのです。私を絶対者と信じなさい。さもなければ、死ぬことになります」と言って、自分の印を受けて礼拝するよう要求します。
反キリストは、全世界にただ一つの信仰をもつよう求めます。そして、すべての人に自分を神と崇めよと要求します。このときに彼を神と認めない人々は殺されます。反キリストは、自分に敵対する聖徒を公開処刑します。
その名が子羊の『いのちの書』に書き記されていない人はみな、彼の印を受け、彼を拝むようになります。人が心に罪の赦しを受けるとき、御霊が内に宿り、その人の名が天の御国の『いのちの書』に記されます。その名が『いのちの書』に記され、また、御霊が心に封をしているのですから、神が召された時には子どもとして引き上げられます。
お救いくださったイエス・キリストを放棄し、獣の像を神で救い主であると宣言することができるものでしょうか? もちろん、できません。人間が主の前にいかに不十分な存在であろうと、主はこの地上に人間の肉の形でおいでになり、バプテスマによって人類の罪をすべてその身に被られ、十字架上で身代わりとなって裁かれることでお救いくださったのです。
また、主がすでに起こるべきことを事前にお告げになったので、聖徒は反キリストの時代に信仰を裏切ることは、決してできません。大艱難の時が訪れ、続いて聖徒が死ぬでしょう。しかし、それでも私たちは、主は殉教の後間もなくよみがえらせ、携挙させ、天の御国に住まわせてくださると信じています。
携挙の後、神は七つの鉢の災害をこの世界に注いで破壊なさり、その後で聖徒はこの地上に降り、千年間王となると信じているので、偶像の前に膝まずくことはけっしてできないのです。神のしもべと聖徒がすすんで命を捨てることができるのは、このためです。
すると、にせ預言者は考えを変えさせようとします。彼は懐柔しようとするでしょう。「いいですか、今、この世界は混沌とした状態に陥っているのです。知識人や学者を含め、誰もが最高指導者を神と信じ従っているのに、どうしてあなたは、いまだにこの絶対君主を信じることを拒むのです?」しかし、神のみことばを常に知り信じているのなら、最後には殉教に赴いて勝利します。
黙示録第 14 章には、天国で神をたたえる十四万四千人の聖徒が登場します。このことから、聖徒のよみがえりと携挙が殉教の後で起こることがわかります。聖書の別の場所、パウロがキリストの再臨について述べている部分や、他のしもべが旧約で預言したことの中にも、聖徒が空中に引き上げられ、主とともに子羊の結婚の祝宴に参加する携挙のことが記されています。この結婚の祝宴に聖徒は加わります。
聖徒がこうして天で子羊の結婚の祝宴に加わると、七つの鉢の災害がこの地上に注がれ、完全に破壊するのです。その後で、地球は新たにされ、聖徒は主とともに下って、キリストの御国を以後千年間支配します。たとえ反キリストがあらゆる懐柔と誘惑とによって、その像の前に額づかせ、神と崇めさせ、真の神への信仰を捨てさせようとしたとしても、こうした事実をしっかり知っていながら彼を神と呼ぶことがほんとうにできるでしょうか。もちろん、できません。
聖書に「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル 11:1) とあるように、神がやがて起こることについて告げられたことを、預言者は信じます。みことばを信じる神のしもべと民はみな祭司であり、預言者です。罪の赦しの福音を世界中のすべての人々に宣べ広めるようにおさせになることによって、神は多くの魂が罪の赦しを受けられるよう導かれます。ご自分の前でどんなに不十分な存在であろうとお救いくださったように、神は聖徒をご自分の民となさり、この瞬間まで、変わることなく愛し、導き、恵んでくださっておいでです。
主は魂に平安をお与えくださったばかりではなく、また、御霊をくださることによって、天の御国への希望をもつようになさいました。ですから、反キリストが自分を神として拝むように言うと、聖徒は心の底から抵抗せざるを得ません。
神がお告げになった時がついに訪れたのだと突然気づいたときは、事態のありさまに驚くことでしょうが、聖徒はじきに平静を取り戻し、反キリストに抵抗し始めます。「ご自分がほんとうの神だとおっしゃるのですね? あなたは宇宙を創りましたか? あなたは人類を創りましたか? あなたはほんとうに人々の魂の主ですか?」聖徒は、このようなことばで反キリストと戦います。
この、反キリストが聖徒と神のしもべを殺すとき、私たちもまた死にます。聖徒はけっして神を換えることはできません。信仰は強制されるものではありません。また、信仰は力の原理によって生じたり消えたりするものでもありません。それどころか、真の信仰には、実際強制に打ち勝つだけの大きな力があるのです。ですから、聖徒は殉教し、反キリストは聖徒に敗れます。
反キリストが自身の姿の偶像を造り聖徒に自分を神として崇めよと要求するとき、聖徒と神のしもべは叫ぶでしょう。「あなたは神のしもべですか、サタンのしもべですか? 水と御霊の福音を知っていますか? イエス・キリストが神であると知り信じていますか? イエス・キリストがこの地上に戻られると、あなたのような人々を地獄の最も深いところに投げ込まれるでしょう。わかりますか、サタンの子よ?」すると、反キリストとその預言者は 聖徒を殺し、聖徒は喜んで神のために殉教を受け入れます。
第 10 節には、「剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない」とあります。これは、反キリストが聖徒を殺すと、神もまた、彼とそれに従う人々を地上で殺されるばかりではなく、底なしの穴に投げ込まれるということです。神に敵対する者が聖徒を苦しめると、彼らもまた神によってより大きな苦しみを受けることになります。
ですから、忍耐強い信仰によって反キリストに敵対しなければなりません。このときの聖徒迫害は、ほんの三年半しか続きません。しかし、神は聖徒の迫害と艱難とを減じ、その期間をほんの数か月か二週間に短縮なさいます。聖徒は殉教するでしょうが、再び生きるのです。彼らは復活され、携挙され、イエス・キリストとともに千年王国を支配する恵みを受けます。
千年王国が訪れると、自然の美しさはその極みに達し、聖徒は主とともに、かつての肉から変えられた聖い体で支配します。それから、その後で主とともに新たな天と地で永遠に暮らします。こうしたことすべてを知り信じる者が、どうしてイエスへの信仰のゆえに訪れる短期間の苦しみを耐え忍べないことがありましょう。
このときの艱難がいかに厳しくとも、それでも無数の聖徒が殉教するのですから、私たちもまた同様に殉教できないわけがありません。こうしたことはすべてほんとうなのですから、聖徒はこの世界でほんの短期間だけの大艱難に決して屈しません。また、たとえ世界が百年や千年楽園になったとしても、反キリストに屈することはできません。こうしたことすべてはそう遠いことではなく、ごく近いうちに起こります。
ですから今、世界が平和なときに水と御霊の福音を説かなければなりません。この大艱難の時に備えるために、私たちは今、たゆむことなく水と御霊の福音を宣べ伝えています。一年のうちに、私たちの広めている福音はすばらしい働きをします。国内でも海外でも、福音のすばらしい働きが見られるでしょう。人々は、初めは水と御霊の福音を軽く考えるでしょう。しかし、黙示のみことばを知らない大勢の人々がこれを求め聞き、黙示のみことばに深い関心をもち、それを軽んじることができないために、水と御霊の福音に戻るでしょう。
黙示録第 13 章は、聖徒の殉教の章です。殉教の時が来ると、聖徒は剣にかかり、あるいは射殺されます。多くの聖徒は、こうして反キリストの手にかかって殺されます。しかし、私たちは少しも恐れず死に赴くことができます。それは肉の死であり、信仰自体の死ではないからです。信仰と御霊とに満たされて、聖徒はたとえようもない勇気の言葉を叫びます。
話し下手でも臆病でも、恐れることは何もありません。原始キリスト教時代の聖徒たちのことを思いなさい。当時の聖徒がサタンの力に屈しなかったのは、一人ではなく、一緒に殺されたからであり、また、御霊に満たされてもいたからです。イエスはすでにおっしゃっています。「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」(マタイ 10:19-20) 神の国を受けるために、神の民として、死に耐えられないことがありましょうか? みな耐えることができます。
この世界は、反キリストという絶対専制君主がしばらくの間支配しているときに、神の七つのラッパの災害によって完全に破壊されます。では、それがどんなに良いものであろうと、どうしてこの地上の何かと永遠の天国を交換できるでしょう。川が苦よもぎとなり、海が血となり、自然が荒廃し、世界が居住不能な場所になるとき、信仰を裏切らせようとする残虐な人物に屈服することは、とうていできません。
聖徒の殉教のその日から、いまだにこの地上に残っている人々の前にあるのはただ、正体不明の疫病が蔓延し、穀物は萎えるか雹で一掃されるかして実らないような世界だけなのです。たとえ信仰問題を別にしたところで、そのような世界に、誰ひとりそれ以上とどまりたいとは思わないでしょう。
黙示録は、将来起こることを示しています。現在の黒い馬の時代がもう少しだけ進むと、青ざめた馬の時代がほんとうに訪れます。つまり、主はじきに戻られるのです。主の再臨が迫っているのだから所有物をすべて放棄しなさい、などと言っているのではありません。そうではなくて、反キリストの出現する日まで、今と同じように誠実に変わることなく主に仕え続けなければならないと言っているのです。
仮に今問題を抱え、あるいは抑鬱状態にあっても、もはや心配することはありません。自分が殉教することになるのだと知ったならば、心は安らかで穏やかになります。つまり、殉教者になるというのに、心の中にどんな欲望が残るのでしょう? ただ一つの欲求が残るとしたら、それは、福音を全世界のいたるところで説き、多くの聖徒が終わりの時に立ち上がり、この福音を信じて救われ、殉教し、そうして新たな天と地を受けるようにしようというものです。私はまた、聖徒の全員がこの真理を信じることによって糧を得、反キリストの時代に待ち受けることのすべてを進んで経験し、信仰によってキリストの御国を得られることを願っています。
神は殉教の恵みをくださいました。誰でも殉教できるわけではなく、また、誰でもが主のために生きられるのではありません。このような恵みをくださった神にただ感謝し、また、信仰のために死ぬことをうれしく思います。この世界には、希望もいかなる愛着も残っていないのですから、聖徒にとって殉教は大きな幸福です。
するべきことはただ、神が備えてくださった千年王国と新たな天と地を願い、主の再臨の日まで全世界に福音を宣べ広め、主が戻られた時には喜び迎え、待ち望んだ場所への希望をもっていることだけなのです。このみことばを信じなさい。これはほんとうに実現することだからです。
聖徒は天の御国の民なのですから、反キリストの印を受けることはできません。印を受けることは個人の選択ですから、強制することによってではなく、心に受け入れることによって行なわれるのです。
子どもでさえ、心に福音があるのなら大人よりも大胆に殉教を受け入れるでしょう。彼らもまた、内に御霊が宿っているからです。大人がイエスを救い主であると告白するように、子どもの心に御霊があるのなら、彼らもまた、イエスが救い主で神であると告白するはずです。聖書は、反キリストの前に引き出されたときには、何を言うべきかと考える必要はないと告げています。語るべきことを御霊が心に満たしてくれるはずだからです。
神の子どももまた、霊的に若く弱いので恐れるでしょうが、内にある御霊は恐れません。子どもは内に宿る御霊の力によって殉教するでしょう。彼らもまた神のものなのですから、神は彼らの魂を受け入れられ、その体か殺されるようになさり、また、よりよい世界を支配させる報いをお与えになります。
神は、水と御霊の福音によって新たに生まれた人々の心を、語るべきみことばで満たされます。神に選ばれ、受け入れられた魂だけが殉教できるのですから、神はそうした人々の信仰をご自分の名にかけて備えられるはずなのです。水と御霊の福音を信じることによって心に御霊が宿っているという事実だけによっても、聖徒はみな、千年王国と新たな天と地の栄光とを受けるでしょう。
終わりの時に、聖徒はみな心の内の御霊の偉大さを実感することでしょう。聖徒は殉教する定めにあるのですから、神のご計画どおりに殉教するときには、みな神の御前でたたえ、礼拝し、栄光をささげながら殉教に赴くのです。神を信じているために、聖徒は「アーメン」と叫ぶ信仰によってのみ従います。自分が殉教する定めであることを知っているので、肉の欲望は自然に身から去り、魂を純粋にします。
神のみこころによって殉教することは、大きな恵みを受け、栄光を与えられるということです。聖徒はみな、新たな天と地で永遠に生きる希望をもっているのですから、反キリストと戦い、心の中の水と御霊の福音を最後まで守ります。大艱難のとき、すべての聖徒はイエス・キリストを神と認め、主のお与えくださった完全な救済を信じ、神の前に殉教を受け入れます。
殉教の恵みをお与えくださった主に感謝いたします。