説教集

主題 10: 黙示録

[第21章-2] (黙示録 21:1-27) 神のお認めくださる信仰をもとう

(黙示録 21:1-27)
 
神は新たな天と地をくださいました。神は、みなさんが今見ているもの、最初の天と地とそれに属するものはすべて消え、その代わりに新たな天、新たな地、新たな海をくださり、その新たに創られた宇宙の中のすべてを新たになさるとおっしゃいます。これは、神である主が、最初のよみがえりに加わった聖徒に新たな天と地を贈り物としてくださるということです。この恵みは、罪の赦しを受けた聖徒に神がお与えくださる贈り物です。
このように、神は最初のよみがえりに加わった聖徒にこの恵みをくださるのです。この恵みは、イエス・キリストがお与えくださった聖なる水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けた聖徒にだけ与えられます。主はこうして聖徒の花婿となられます。その時から、花嫁がするべきことはただ、子羊の妻として花婿の保護、恵みと力に包まれ、栄光に満ちた御国で栄光の中で暮らすことだけです。
この部分ではまた、聖なる都新エルサレムが天から下るとも告げています。都は夫のために飾られた花嫁のように美しく整えられて天から下って来ると記されているのですから、これはありふれた町ではありません。
神は、聖都を聖徒のためにご用意なさいました。この都はエルサレム、神の宮殿です。この宮殿は、聖徒のためにだけ用意されます。そしてこれは、神である主がこの宇宙を創られる前からすでにイエス・キリストのうちに聖徒のために計画されていたものなのです。ですから、聖徒はこの恵みの贈り物に対して信仰をもって神である主に感謝し、栄光をささげずにはいられません。
こうしたこと、つまり聖徒が神の民となり、神がこうして彼らの神となられたことはすべて、神である主の恵み、すなわち、聖徒が水と御霊の救済のみことばを信じたことで神がお与えくださる恵みであり、贈り物なのです。
ですから、主の宮殿に入ってともに住む恵みを受けた者はみな、永遠に神に感謝と栄光とをささげます。聖書は、神は彼らの涙をぬぐわれ、彼らはもはや死ぬことも泣くことも、また苦しむこともなく、以前のことはすべて過ぎ去ったことであるとしているのです。悲しみや泣くこと、痛み、死、嘆きは今この世に満ち満ちていますが、新たな天と地では、これらはみな過ぎ去ったものとなります。主のお与えくださる新たな天と地に住む者は、もはや悲しみに涙することも、愛した者を失って嘆き泣くことも、二度とありません。
聖徒が新たな天と地に入る時が訪れると、最初の天、最初の地、そして彼らの悲しみはすべて消え去り、聖徒を待つのはただ、新たな天と地で永遠に栄光と神の恵みのすべての中で生きることだけなのです。神は最初の世界の不完全さをすべて取り除かれ、新たな世界を完璧になさいます。
第 21 章は、第 20 章で説明された千年王国の後、この世界が完全に滅ぼされた後に訪れる新たな天と地について述べています。この地上にわずかでも関わりのあるものはすべて第 20 章とともに終ります。反キリスト (獣) の時代、にせ預言者、それに従う者、そしてこの世界で神を信じないで敵対した者たちはみな、もはやありません。彼らはみな、千年王国が終焉するときに火の中に投げ込まれ、今はみな地獄にいるのです。
そこで、第 21 章で、神は聖徒にお与えになる新たな天と地について、そこは罪人が一人も存在しない、完全な世界だと告げられるのです。野生動物を見たいときには動物園に行くように、いずれはサタンとそれに従う者たちを見たい者は地獄を訪れなければならなくなります。
聖徒に新たな天と地をくださる場所には、主もまたともに住まれます。神はまた、美しい自然と鮮やかな緑の庭園のある聖なる都を造られます。新たな天と地が実現すると、最初の世界のものとその不完全な点はすべて消え、真理だけが存在し、完全な聖徒が天の御国全体の王となります。
 
 
現在の状態に失望してはならない
 
今のこの時代は、闇と絶望の時代です。この時代、未来は不確かで暗く、希望はどこにも見られません。福音を説いていても、時に欲求不満に陥り無力感を覚えるのは、このためなのです。私自身について言えば、このためによく心が沈みました。しかし、黙示のみことばを読み、その章句を説明しているうちに、終わりの時に臨んでいる聖徒と神のしもべには悲しむことが何もないのだということに気づきました。現在の艱難と苦しみはただ一時的なものであると心づかせ、目前にまばゆい世界があるのだと示されることで、神は私の心を二度と悩むことのないよう強くしてくださいました。
現在の状況だけを見るなら、人生は暗澹たるもので、悲しくつまらなく、福音に仕える間に起こるやむことのない問題に落胆させられがちです。しかし、肉の目には見えなくとも近づきつつある主の恵みのすべてがあるために、心はすべての惑いから解放され、大きな希望と喜びに満たされるのです。人間が悲しみのうちに生きる必要は全くないというのは、神がすでに新たな天と地とをくださっているためです。
みなさんは、新たな天と地を信じますか? 経験してはいなくとも、このことについて考えてみたことがありますか? 
この地球にもまた、美しい場所はあります。この世界のよい居住環境というとき、通常は木や川辺の緑の原、野の花、そしてよい人々のことをいっています。また、澄んだ水が流れ、悪い人が誰もおらず、何ひとつ欠けていません。こうした条件がすべて満たされると、これは最もすばらしい環境だと言います。しかし、天国ではすべてが完全であり、全世界の最良の場所よりもはるかによいのです。
そこで問題は、神は誰のためにそんなにも完全に造られた聖なる都をご用意なさり、もたらされるのかということです。神はこの都を、ほかならぬ聖徒のために造られました。聖徒が最初の地についてすべてを忘れることができるのは、このためです。聖徒は千年王国で栄光のうちに生きるでしょうが、神がほんとうに私たちにくださろうとなさっている次の世界、第21章に描かれている新たな天と地では、主とともにより大きな栄光の中で生きるのです。そのために、神はイエス・キリストを遣わされて人類を救われ、よみがえらせ、携挙なさるのです。復活なさったイエスのような完全な体で主とともに生きること、それがまさに聖徒を待ちうけている、喜びに満ち、祝福された生活なのです。
新たな天と地の御国をくださるために、神はみなさんや私をこの地上に生まれさせ、お救いくださったのです。聖徒がこの世界で神の深いみこころを知って生きるなら、みなどんな困難、苦しみ、悲しみ、あるいは抑鬱も知ることなく、よい人生を生きることができます。主が何をなさり、将来何をしてくださるかを見れば、みな意欲をもって前向きに生きることができます。
しかし、自身やこの地上の政治・経済・社会の絶望的な状態を見るならば、絶望せざるを得ないでしょう。みなさんも私も、神は新たな天と地をくださり、天国は私たちのものであることを決して忘れてはなりません。これは現実です。これは事実です。この世界が悲しませようとしても、悲しんだり腹を立てたりしてはいけません。ただ主だけを見ているのです。そして、主はほんとうに新たな天と地を聖徒にくださるのだと信じて希望をもって生きるのです。
神は、すべてを新たにしようとおっしゃいました。神は、すべてを新たにするというみことばを「これらのことばは、信ずべきものであり、真実である」から書き記せとヨハネに命じられました。最初のよみがえりに加わる者はまた、神がすべてを新たになさるところに住む恵みのすべてをも受けます。これは、人間の考えによっては想像することもできないようなことですが、神が聖徒のために備えられたことなのです。ですから、聖徒とすべてのものは、栄光と感謝と誉れとたたえとをその偉大なみわざを成就なさった神に永遠にささげるのです。
聖書には、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」 (ヘブル 11:1) とあります。つまり、こうしたことは自分の目では見ることができませんが、それでも真実なのです。私たちは、すべての罪から救われたいと願い、救済を信じてほんとうに救われました。そして、救われた後、完全な何ひとつ欠けることのない世界で永遠に生きたいと願ったために、神はほんとうにその希望をかなえてくださるのです。私たちが願い望むことは、すべて実現します。私たちの希望がどれも真実であるためです。
黙示録第 10 章で、主は、海と地とを踏んで立つ御使いを通してヨハネに話しかけられました。ヨハネが書き取ろうとすると、神は書かないようにとおっしゃいました。主がお話しになったことの中には、書き記すことをお許しにならなかった事項があります。それは、主が聖徒だけに明かされる奥義だからです。
この奥義とは、聖徒の携挙のことにほかなりません。厳密にどの時点で携挙が起こるのかを知るためには、まず神の第七のラッパがこの奥義を解く鍵であることを知る必要があります。では、いつ第七のラッパは鳴らされるのでしょう? 第七のラッパは、七年間の大艱難の前半三年半をわずかに過ぎた時点に鳴らされます。聖徒のよみがえりと携挙が起こるのは、この時です。そして携挙が終わると間もなく、七つの鉢の災害が続きます。
何年か前に、「小アジアの七つの教会」と題した信仰復興集会を開きました。私はまた、この小アジアの七つの教会を主題にした本を著しました。その内容は、この部分について説明したことと関連しています。その本の中の説教を読むと、時代はずいぶん変わったけれど、神のみことばは時が経っても少しも変わっていないと感じました。
みなさんは、新たな天と地、神がみなさんや私のために用意なさったところに住みたいですか? この世界の不完全さは、もはやそこにはありません。神がすべてを新たになさるとおっしゃると、資源再生のように、すでにあるものを変えられるのだろうと考える人々がいます。しかし、第 21 章以降を見ると、これはまったく新しい世界、古いものとは完全に異なるものなのです。新たに生まれた者は神の特性を分かちもつ者であるために、神が全く新しく造られた新たな天と地に加わります。つまり、彼らは神の領域を分かつ者となるのです。
考えるときには、何事も物質的な概念に基づくのではなく、霊的な次元で考える必要があります。みなさんが、神が実際に魂にくださったものを信じるような聖徒やしもべであり、また信仰をもって、こうしたことがいまだ成就してはいないけれどほんとうに実現すると信じられるよう祈ります。神はすばらしい恵みをくださいました。
神は、渇く者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませるとおっしゃいました。このみことばは、水と御霊の福音のことではありません。神がこの地上で福音をお与えになり、罪から救って渇きからお救いくださったと信じること、これもまたいのちの水を飲むことに似ています。しかし、この部分はこれだけではなく、新たな天と地で飲まれる実際のいのちの水のことを指しています。いのちの水を飲む者は誰も決して死なず、その体は主の体のようになり、主とともに永遠に生きるのです。
神である主はすべてのことをご計画になり、そのすべてを最初から最後まで成就なさいました。こうしたことをみな主がなさったのです。主はこれをご自分と聖徒のためになさいました。ですから、聖徒は神ご自身からキリストのものと呼ばれ、ご計画どおり、神のほんとうの子どもになったのです。水と御霊の福音を信じて聖徒になった人々は、神の大きな愛とすばらしいみわざとへの信仰により、感謝とたたえとを主に永遠にささげるのに何ひとつ欠けたところがないと知るのです。
主は、「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる」とおっしゃいましたが、ほんとうにいのちの水の泉を聖徒にくださり、永遠のいのちを享受するようなさったのです。これは、神が聖徒にお与えになる中で最大の贈り物です。聖徒は新たな天と地で永遠に生き、いのちの水の泉から飲むのですから、二度と渇くことがありません。つまり、聖徒は神である主のように神の永遠のいのちをもつ子どもとなり、栄光の中で生きるのです。このすばらしい恵みをお与えくださった神である主に再び感謝と栄光をささげます。
 
 
真の福音への信仰によって世に打ち勝つ
 
さて、使徒ヨハネは自分の時代に戻ります。第 7 節は、「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる」とあります。ここで「勝利を得る者」とは、主のお与えくださった信仰を守る者を指します。この信仰によって、すべての聖徒はあらゆる困難と誘惑とに勝利することができるのです。神である主と、主がお与えくださった水と御霊の福音の真の愛への信仰によって、聖徒は世の罪のすべてと神の裁き・敵・弱点、そして反キリストによる迫害に打ち勝つことができるのです。
完全な勝利をお与えくださった神である主に感謝と栄光をささげます。神である主を信じる聖徒は、信仰によって反キリストに勝利することができます。というのは、神は聖徒の一人一人にすべての敵に対する戦いで勝利することのできる信仰をお与えくださったためです。 こうして世と反キリストに信仰によって勝利した聖徒に、神は新たな天と地を相続させてくださいます。この強い信仰をお与えくださった神に感謝し、たたえます。
神は、勝利する者に涙も悲しみも心配事もない新たな天と地を相続させるとおっしゃいます。勝利する者だけがそれを受けることができるのです。この勝利の信仰が、主がお与えくださった水と御霊の福音への信仰です。これは、世・自分の罪・欠点、そして反キリストに勝利することのできる信仰です。
反キリストに勝利する信仰への報いとして、私たちは間もなく神から新たな天と地をいただきます。信仰のゆえにこれらの恵みを受けるのですから、反キリストが敵対して信仰を奪おうとしても、聖徒は信仰によって、敵のありとあらゆる手立てに打ち勝つことができるのです。勝利する者は、他人が何と言おうと神のみことばを信じ、主がすべての罪を取り除いてくださったという真理への信仰を守ります。罪の赦しを受けて新たに生まれ、終わりの時に生きている者は、信仰によって反キリストの計略に勝利しなければなりません。
主がすべての富と繁栄と栄光とともに新たな天と地をくださったという真理への信仰によって、私たちは短期間の艱難に勝利することができます。よりよい世界が待ち受けているときに、ほんとうにこの信仰の福音を裏切るでしょうか? 明日よりよいことが起こるという時に、たった一日耐え忍べば驚くべきすばらしいことが待っている時に、今日の困難を耐え忍ぶことができないということがあるでしょうか? みな耐え忍ぶことができます。
聖書ではよく、「信仰・希望・愛」を聖徒が心に保つべき重要な美徳であると告げています。希望をもつ人々は、神がくださった恵みのすべては現実のものなのであると信じて現在の艱難を乗り越えることができます。終わりの時の災いは短期間しか続きません。また、神は聖徒にそれを免れる道をお与えなので、みな耐え忍ぶことができるのです。みなさんが信仰の領域において、この瞬間からすでに新たな天と地に入り、そこで生きられますように。
信仰の領域では、すべてのみことばは信仰によって、肉の膚ではなく心に触れます。そうすると、心は新たな力を見出して強くなり、希望をもつのです。
聖徒はみな、終わりの時に殉教します。新たな天と地にかけた希望があると、新たな力を十分以上に得て殉教を受け入れることができます。
その真髄において、神である主は真理の神、愛の神です。では、神の前で根本的に臆病である人々とは、誰でしょう? 原罪とともに生まれ、主のお与えになった水と御霊の福音のみことばによって罪のすべてを清めらていない人々です。その根本において、神をあがめる以上に邪悪な者を拝むために、彼らは明らかにサタンのしもべとなっています。神である主の前に悪を拝むために、また光よりは闇を愛し従うために、彼らは神である主の前で臆病なのです。神の前に臆病である者はみな、火と硫黄の燃える池に加わります。
心の中の罪のために闇そのものである人々は神を恐れざるを得ないというのは、既知の事実です。サタンに属する者の魂は闇を好みますから、光となられたイエスの前では臆病なのです。彼らがその邪悪さと弱さとを神の前にもって行き、罪の赦しを受けなければならないのは、このためです。主に与えられた水と御霊の福音を信じない者は、神の前に最も深刻な罪人であり、神の敵なのです。
その魂が憎むべき者に属するために、また神に敵対し、ありとあらゆる罪を好み、罪を犯し、にせのしるしに従い、ありとあらゆる偶像を拝み、あらゆる種類の偽りを口にするために、神の正しい裁きによって彼らはみな、火と硫黄の燃える池に投げ込まれるのです。これが第二の死の罰です。
第二の死は地獄に送られる人々に宣告されます。彼らは臆病者、不信仰者、憎むべき者、殺人者、不品行者、魔術を使う者、そして偶像を拝む者であり、反キリストとそれに従う者たちともども、今神の愛を受け入れません。神を信じないのは、最も邪悪な人々です。聖書は、邪悪な者はみな火と硫黄の燃える池に投げ込まれると告げています。聖書がこれを第二の死と呼んでいるのは、このためです。
第二のよみがえりに加わる人々は、火に投げ込まれても死にません。そして、火に投げ込むということのために、彼らは永遠に生きる体に復活させられるのです。
神を信じない者は、火と硫黄の池に投げ込むべく復活されるのです。地獄の火で死ぬことなく永遠に苦むことになる第二のよみがえりは、すべての不信者のためにあります。
七つの鉢の災害が注がれた少し後で千年王国が実現され、そこでの千年間が過ぎると、聖徒は新たな天と地に移ります。「ここに来なさい。私はあなたに、子羊の妻である花嫁を見せましょう」という部分で、「子羊の妻」とはイエス・キリストがお与えくださった水と御霊の福音によって救われ、それを信じた人々を指しています。
 
 
聖なる都の栄光と美とは筆舌に尽くしがたい
 
聖なる都とされるエルサレムは、聖徒が花婿とともに住むところです。ヨハネの見た都は、実に美しくすばらしいものです。それは壮大で、内も外も宝石で飾られ、清らかに澄んでいます。御使いはヨハネに、イエス・キリストの花嫁が花婿とともに住むところを見せました。
宝石で築かれた宮殿に暮らすことを想像してみてください。十二種類の宝石で築かれた都で、子羊の花嫁となる人々は永遠に暮らします。都は、神が子羊の妻にお与えになる贈り物です。この部分では、エルサレムはまばゆく輝き、その光は最も高価な宝石に似て、透き通った碧玉のようであるとしています。
ですから、神の栄光は都とそこに住む者すべてとともにあります。神の領域は光のものであり、すべての闇と弱さと罪を清められた者だけがこの都に入って暮らすことができるのです。ですから、聖なる都に入るには、主がお与えくださった水と御霊の福音の真のみことばだけを信じなければならないのです。
この部分では、都は十二の門のある高い壁に囲まれているとしています。また、門には名前が記されており、それはイスラエルの子らの十二部族の名であるとあります。神は、ほんとうに都を聖徒のために高い壁で囲んで用意なさったとおっしゃいます。
これは、聖なる都に入る道がそれだけ困難であることを霊的に示しています。つまり、神の前にすべての罪から救われることは、人間の努力や神の創られた世界の物質的なものによっては不可能なのです。すべての罪から救われて神の聖なる都に入るには、イエスの十二使徒と同じ信仰、すなわち水と御霊の福音の真理を信じる信仰が絶対に必要なのです。ですから、この水と御霊の福音への信仰をもたない者は、誰も聖なる都に入ることができません。
この都は、神である主に指名されて門番として立つ十二人の御使いによって守られています。一方、「それらの門には……名が書いてあった」というのは、都の持ち主がすでに定まっていることを示しています。その持ち主とは、神ご自身とその民であり、都は神の子どもとなった神の民のものなのです。
聖なる都には、東西南北にそれぞれ三つの門があります。主がここでこれらの三つの門にわざわざ触れられているのは、私たちが信じている福音に特に関連があるために違いありません。ヨハネの手紙第一第 5 章 7-8 節では、天と地とで真の福音をあかしするものが三つあるとしています。この天と地の三つのあかしを信じる者だけが天国に入ることができるのです。私たち新たに生まれた者は、三位一体の神とその水、血、御霊によってお救いくださった義であるみわざを信じています。
十二使徒の名が都の壁の土台に記されているということは、主が約束なさったとおりのことを実行なさり、彼らの名を『いのちの書』から消されず、記入なさったことを告げています。
原文で用いられている「ファーロン」、ギリシャ語で「スタディオン」というのは長さの単位で、今日の基準では約 600 フィート (185m) にあたります。聖書では、天の四角い都の各面が12,000ファーロンであるとされていますが、これは、各面が約 2,220 kmであるということです。都は長さも幅も高さも同じだとされています。都の壮大な規模から、神の御国の偉大で栄光に満ちていることがわかるのです。
聖書では、「四」という数は苦しみを意味します。主が聖徒に求められる信仰は、誰もがもてるというものではなく、たとえ自分の頭で考えて完全には理解できなくとも、神のみことばをありのままに受け入れる人々だけがもつことができるのです。
キリスト教徒が、イエスの十字架と主が神であり救い主であるということを信じるだけで神の聖なる都に入ることは、不可能です。主ご自身がおっしゃったように、水と御霊によって新たに生まれなければ、誰ひとり神の御国に入ることはできないのです。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになった時に世の罪のすべてがその上に移され、人類に代わって十字架上で血を流して死なれてその罪を贖われたということを信じてはじめて、人は新たに生まれることができるのです。
「都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた」というところから、その信仰が金のような者だけが、すなわち真に神を信じる者だけがそこに入れることがわかります。これは、主の聖なる都に入ることを可能にする信仰とは、純粋で世俗のことがまったく含まれない、神のみことばを記されているままに信じる信仰だと告げているのです。つまりこれは、神の水と御霊の福音によって新たに生まれるみことばを純粋なままで受け入れ、このみことばを心から信じ、信仰を純化しなければならないということなのです。
都の壁の土台があらゆる種類の宝石で飾られているというのは、主のみことばによって、信仰のさまざまな面の糧を得ることができるというのです。ただの水と御霊の福音への信仰や、天国と千年王国への希望ではなく、鍛錬された信仰をもつことが必要です。この鍛錬された信仰もまた、現在の苦しみを耐え忍ぶ中で神のみことばから生じるのです。
主は、聖徒の罪をお赦しくださったばかりではなく、罪を赦された者が千年王国と天国に入るという希望をも、恵みにより満たしてくださるのです。悲しみが決してない新たな天と地に入れるようにしてくださったことで、私たち聖徒は、ただ神に感謝するばかりです。
聖なる都に入る聖徒は、この地上にいる間、かなりの忍耐をもって信仰の中心に堅く立たなければなりません。つまり、神である主の語られた真理のみことばを信じる者は、信仰を守るために非常な忍耐が必要なのです。終わりの時が来ると、信仰の敵、反キリストが現われます。
この反キリストは、サタンのしもべとして多くの信者を迫害し、信仰を裏切らせようとします。反キリストの側に立って信仰を放棄すれば、千年王国と天国が手の届かないものになるばかりではなく、サタンとともに地獄に投げ込まれることになるのです。
ですから、試練と迫害と終わりの時の災害の中にあって、聖徒はみな固く信仰を守る忍耐をもたなければなりません。このひるむことなき堅忍が新たな天と地を聖徒のものにするのです。
新たな天と地に住むことは、主の腕に抱かれて暮らすようなものです。新たな世界の光となられたイエス・キリストがこの聖なる地を照らされるので、太陽や月が輝く必要はありません。イエス・キリストは救い主、造り主、そして裁き手であり、新たな天と地では聖徒とともに生きられる神なのです。主によって人は天国に入り、主からすべての恵みが流れ出ます。聖徒は常に主をたたえる以外何もすることがありません。
キング・ジェームス版聖書では、第 24 節は次のようになっています。And the nations of them which are saved shall walk in the light of it: and the kings of the earth do bring their glory and honor into it. 地の栄光が天にもたらされるというのは、最初の地球で豊かであるがゆえに支配した者たちが、その富を新たな天と地に持って来るというのではありません。ここでいう「地」とは、千年王国の地を指しています。
聖徒はみな、同じように救われて千年王国に入りますが、それでも、ある者は十の都市を、ある者は五つの都市をというように、最初の世界で暮らしている間に福音を宣べ伝えた努力に応じて異なった権威を与えられます。
第 24 節は、異なった権威をもつ王たちが新たな天と地に移ることを述べています。つまり、千年王国で王であった人々が、主への信仰とすべての栄光と誉れとを携えて、王として新たな天と地に入るのです。ですから、これは私たちが今住んでいる最初の地とは何の関わりもありません。
聖なる都のある新たな天と地はすでに聖なる光に満ちているので、夜も邪悪な存在もありません。この世のキリスト教徒も非キリスト教徒も、水と御霊の福音の真理を知らない者はみな、汚れた者、憎むべき者、偽りをなす者です。ですから、そうした人々は、聖なる都に入ることができません。水と御霊の福音を信じる者は誰でも天国に入れるのですから、この水と御霊の福音は天国への鍵であり、また罪の赦しへの鍵でもあります。よろしいですか、神が自分にこの鍵をお与えくださったと知ったとき、その人の名が『いのちの書』に記されるのです。そして、この福音の真理を受け入れた時、聖なる都に入る恵みをまとうのです。
聖なる都はすでに与えられているのです。ですから、そのように希望をもって生きなさい。
現在私たちが直面していることは、すべてこの世俗的な世界の価値基準によって測られるので、何が真の幸福であるのかを見極めることができません。しかし、神の測りざおによって測るならば、天国をもっている人々が真に幸福な人であるとわかるのです。なぜでしょう? 遅かれ早かれ、世のものはすべて消え失せるからです。希望をつなぐべきところを何も示さぬまま、その終りに神がご計画になったように艱難と災害がもたらされると、すべては消え去ります。そうした、ただ腐り、燃えて灰になるような肉のものに希望をかけることほど愚かなことはありません。
それに対して、腐ることも燃えることもない天の御国に希望をかける人々は、恵まれた人々です。罪のない者だけが、神の用意なさった聖なる都エルサレムに入ることができます。この世界で最も幸福なのは、その罪をすべて赦され、清められ、天国を所有する人々です。
人間は、新たな天と地をお与えくださったことで神に栄光をささげる者、すべての魂が天国に入れるように真の福音を宣べ伝えることに献身する者として、祝福された生を生きなければなりません。
そうした祝福の中で生きましょう。神に愛され、主の御前に立った時にはその腕に抱かれて永遠に生きましょう。