Sermoni

主題 11: 幕屋

[11-1] (出エジプト記 27:9-21) 幕屋に啓示された罪人の救済

(出エジプト記 27:9-21)
「幕屋の庭を造る。南側に面して、庭の掛け幕を、その側のための長さ百キュビトの撚り糸で織った亜麻布を、張る。柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀とする。同じように、北に面して、その長さで、長さ百キュビトの掛け幕とする。柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀とする。また、西に面して庭の幅には五十キュビトの掛け幕、その柱十本、その台座十個とする。前面の東に面する庭の幅も五十キュビト。片側に寄せて、十五キュビトの掛け幕と、その三本の柱、その三個の台座とする。他の片側にも十五キュビトの掛け幕と、その三本の柱、その三個の台座とする。庭の門には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を使った長さ二十キュビトの刺繍した幕と、その四本の柱、その四個の台座とする。庭の周囲の柱はみな、銀の帯輪を巻きつけ、その鉤は銀、台座は青銅とする。この庭は、長さ百キュビト、幅は五十キュビトに五十キュビト、高さ五キュビト、幕は撚り糸で織った亜麻布、その台座は青銅とする。幕屋の奉仕に用いるすべての用具、すべての釘、庭のすべての釘は青銅とする。あなたはイスラエル人に命じて、燈火用に上質の純粋なオリーブ油を持って来させ、ともしびを絶えずともしておかなければならない。アロンとその子らは、あかしの箱の前の垂れ幕の外側にある会見の天幕で夕方から朝まで、主の前にそのともしびをととのえなければならない。これはイスラエル人が代々守るべき永遠のおきてである。」
 
 
幕屋の長方形の庭の囲いは、長さ100キュビトでした。聖書では、キュビトは、ひじから指先までの長さとして設定されており、現在の測定では約45cmです。そのため、幕屋の庭の柵の長さは100キュビトであったことは約45mであり、幅が50キュビトであったことは幅が約22.5mであることを意味します。ですから、これは旧約聖書の時代にイスラエルの民の間で神が宿っておられた家の大きさでした。
 
 
幕屋の外庭は囲いに囲まれていた
 
幕屋の模型を絵や写真でご覧になったことがありますか。大まかに言えば、幕屋はその庭と、神の家である幕屋自体に分かれていました。この神の家の中には、聖所と呼ばれる小さな構造がありました。聖所は、四つの異なる覆いで覆われていました。青色、紫色、緋色の撚り糸で織った亜麻布で織られた覆い、やぎの毛の覆い、赤くなめした雄羊の皮、ジュゴンの皮です。
幕屋の庭の東側には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で織られた門がありました。この門から入ると、全焼のいけにえの祭壇と洗盤が見えます。洗盤を通り過ぎると、幕屋自体が見えます。幕屋は聖所と至聖所に分けられ、至聖所には神のあかしの箱がありました。幕屋の庭の囲いは、白い亜麻布の掛け幕のある60本の柱で建てられました。一方、幕屋自体は48枚の板と9本の柱で建てられました。私たちは、神がその形式を通して私たちに語られていることを理解できるようにするために、幕屋の外部の特徴について少なくとも一般的な考えを持つ必要があります。
神は、48枚の板で造られた幕屋の中に宿っておられました。神はイスラエルの民に、昼は雲の柱で、夜は幕屋の上に現れた火の柱でその存在をお示しになりました。そして、神ご自身が宿っておられた聖所の中で、神の栄光がその場所を満たしました。聖所の中には、供えのパンの机、燭台、香の壇があり、至聖所の中には、あかしの箱と「贖いのふた」がありました。こうしたものは、イスラエルの一般市民にとって立入禁止の場所でした。幕屋の制度に従って、祭司と大祭司だけがこうした聖所に入ることができました。次のように記されています。「さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつもはいって礼拝を行なうのですが、第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです」 (ヘブル 9:6-7)。これは、今日の時代では、水と御霊の福音を信じる金の信仰を持っている人だけが、神に仕えながら神とともに生きられることを示しています。
供えのパンの机に置かれたパンの意味は何でしょう。それは神のみことばです。それなら、香の壇は何を意味するのでしょう。それは祈りについて教えています。至聖所の中には、あかしの箱、箱の上に置かれた純金で造られた「贖いのふた」がありました。ケルビムは、その上に翼を伸ばし、翼で贖いのふたを覆い、これらは贖いのふたに向かって互いに向き合っていました。これが神の恵みを授けられた場所、贖いのふたでした。あかしの箱の中には、十戒が刻まれた二枚の石の板、芽をふいたアロンの杖、マナで満たされた壺が置かれました。箱は金の覆い(贖いのふた)で覆われており、その上でケルビムは「贖いのふた」を見下ろしていました。
 
 
罪の赦しを受けた者はどこで生きているのか
 
罪の赦しを受けた人々が住んでいる場所は聖所の中です。聖所は、48枚の板で造られ、そのすべてに金が覆われていました。それについて考えてください。ほんの一握りの金色の壁ではなく、48枚の金色の板でできた金色の壁を見ると、どれほど鮮やかに輝くことでしょう。聖所の中とそのすべての用具が、このように純金で作られていたので、鮮やかに輝きました。
全焼のいけにえの祭壇と幕屋の外庭の洗盤は、すべて青銅でできており、その中庭の囲いは、銀と白い亜麻布で覆われた柱でできていました。対照的に、聖所の中の用具はすべて金で作られていました。燭台は金で削られ、供えのパンの机も切り出されました。聖所とその三面の壁のすべての用具は純金で作られていたため、聖所の中は常に金色に輝いていました。
このように聖所の中がこのように黄金の輝きで輝いていたことは、救われた聖徒が神の教会の中で貴重な信仰生活を送っていることを示しています。水と御霊の福音への信仰のうちに生きる聖徒は、聖所で見られる純金のようです。そのような聖徒が聖所の中で生きる生活とは、教会の中に宿り、すべて神の教会を通して、神のみことばを食べ、神に祈り、賛美し、神の御座の前に行き、毎日神の恵みのうちに包まれて祝福された生活です。これが聖所の中の信仰生活なのです。水と御霊の福音によって救われている義人だけが、聖所の中でこの貴重な信仰生活を送ることができるということを心に留めなければなりません。
 
 
神は、聖所の中と外を明確に仕切られた
 
ほとんどの家には囲いがあるので、幕屋の庭には60本の柱で作られた囲いがあり、白い亜麻布の垂れ幕に囲まれていました。庭の東側には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布がすべて見えるように、幅9mの長さで配置されました。
幕屋を研究する際に、神が私たちに求めている光輝く信仰とは何か、救われることの信仰とはどのような信仰であるかを明確に理解しなければなりません。幕屋に用いられる用具を通して、主がどのようにお救いくださったかを見なければなりません。聖所の中で捕らえられたこの金の光輝く信仰が何であるかを学ぶためには、まず幕屋の外庭に置かれた洗盤、全焼のいけにえの祭壇、幕屋の外庭に使用されるすべての用具を注意深く見なければなりません。そうすることによって、私たちはどのような信仰で、金色に輝く聖所に入る必要があるかを知ることができます。
幕屋の外庭には何があったでしょう。洗盤と全焼のいけにえの祭壇がありました。そして、60本の木製の柱に囲まれており、これらの柱には、亜麻布の掛け幕が庭の囲いとして置かれました。この囲いの柱はアカシア材でできており、その丈夫さにもかかわらず、非常に軽いものでした。この木で作られた柱の高さは約2.25 mで、通常の身長のほとんどの人が外庭の囲いの外から幕屋の中を覗くことができませんでした。しかし、この壁の前で意図的に何かを置いて踏台とするなら、庭の中を見ることができたでしょうが、そうした物がなければ、中を覗くことはできませんでした。これは、私たち自身の行ないの努力によって、神の御国に入ることは決してできないことを示しています。
外庭の木製の柱の下部には青銅の台座が置かれ、上部には銀の柱頭がありました。柱が単独で立つことができなかったため、銀の帯輪が隣り合った柱を確実につなぎ合わせていました。そして、柱を横方向にしっかりと支えるために、柱の銀の覆いに置かれた銀の鉤がつけられ、ひもで青銅の釘に結びつけられていました(出エジプト記 35:18)。
 
 
幕屋の庭の門に用いられた材料は何だったのか
 
幕屋の庭の門に用いられた材料は、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布でした。門の高さは2.25 mであり、その幅は約9 mでした。それは、青色、紫色、緋色の撚り糸で織られた幕と、4本の柱に掛けられた撚り糸で織った亜麻布でした。そのため、誰かが幕屋の中庭に入ろうとしたときはいつでも、その門を簡単に見つけることができました。
幕屋の庭の門に用いられる青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布の材料は、神が御子イエスの四つのみわざを通して、すべての罪から私たちを救われることを示しています。幕屋の庭の囲いの60本の木製の柱と亜麻布も、神が御子イエスを通してみなさんと私をどのような方法で罪からお救いくださるかを明確に示しています。
言い換えれば、幕屋の庭の門を通して、神は救済の奥義を私たちに明確に啓示なさっておられます。もう一度、幕屋の庭の門に用いられている材料、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布について調べてみましょう。これらの四つの糸は、イエスを信じて救われるために、きわめて重要です。これらの材料が重要でなければ、聖書はそれらをそれほど詳細に記録していなかったでしょう。
幕屋の庭の門に用いられるすべての材料は、神がみなさんと私をお救いくださるために絶対に必要なものでした。しかしながら、門が青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で織り込まれているという事実は、神が罪人をお救いになるために最も重要です。これらの四つの糸が、神の完全な救済のまさに啓示であるからです。これは神がお決めになった方法です。こういうわけで、シナイ山で神が幕屋の模型をモーセにお見せになり、このご計画に従って幕屋の庭の門を造るようにおっしゃったのです。
 
 
青色、紫色、緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の意味とは何か
 
聖所への入口は、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で織られた幕で造られており、聖所と至聖所の間の垂れ幕もこれらの四本の糸で織られていました。これだけでなく、大祭司のエポデや胸当ても、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で織られていました。それでは、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布は何を教えているでしょう。私たちの主が私たちをお救いくださるために絶対に必要だった、これらの青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布は、正確に何と告げているでしょう。この問題を綿密に検討する必要があります。
まず第一に、青色の糸はイエス・キリストのバプテスマについて告げています。バプテスマの重要性を知らない人は、青色の糸がイエス・キリストのバプテスマを指していることを知りません。そういうわけで、新しく生まれていない人は一般的に、青色の糸の意味は「イエス・キリストは神ご自身であり、人の肉となってこの地上に来られた」と主張します。一方、他の人は、「青色の糸はただみことばを意味する」と主張しています。しかしながら、聖書は、青色の糸とは「イエスがこの地上に来られた後、世の罪をご自身に受け取られたイエスのバプテスマ」を意味していると教えています。聖書は、青色の糸が、イエスがバプテスマのヨハネからお受けになった水のバプテスマを指していることを明確に示しています。幕屋のみことばを読んで、「ああ、神は私たちにイエスのバプテスマへの信仰の重要性を示したいと願っておられる」と悟るようになりました。
大祭司がいけにえをささげるときに着る服も、青ひもで織られていました。純金の札が「かぶり物」につけられており、大祭司が頭にかぶっていました。また、札を「かぶり物」に結びつけていた「ひも」も青でした。そして、この金の札には、「主への聖なるもの」と刻まれていました。大祭司の「かぶり物」に金の札を結びつけた青ひもは、主への聖なるものを与えるイエスのバプテスマを明確に示していることがわかります。
青色は一般に青空を思い出させますが、青色は神だけを指し示すものではありません。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布のうち、青色の糸は確かにイエス・キリストのバプテスマを意味しています。別の言い方をすれば、青色の糸は、イエス・キリストがバプテスマをお受けになって、この世のすべての罪人の罪を負われたことを告げています(マタイ3:15)。イエスがバプテスマを受けて、すべての罪を取り除かなかったなら、私たち信者は「主への聖なるもの」を与えることができなかったでしょう。イエスがお受けになったバプテスマではなかったなら、神の前で聖なるものを着ることはできなかったでしょう。
モーセに示された形式に従って、幕屋の庭の門を青色の糸で編むという神のご命令の霊的な意味をご存じですか。神が宿っておられた幕屋に通じる庭の門とは、イエス・キリストを指します。だれも天の御国に入ることはできませんが、イエス・キリストを通してのみ可能です。イエスを指す庭の門は、明らかに神が私たちを救済へと導く真理を啓示することを望んでおられたので、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で織られていました。紫色の糸は、「イエスは王の王」と告げており、聖霊を指しています。緋色の糸は、イエスが十字架で流された血を指しています。先ほど触れたように、青色の糸は、イエスがバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマを指します。
そのため、青色、紫色、緋色の撚り糸は、イエスのバプテスマ、神の受肉、十字架での死を告げています。これら三つの糸に示されているイエスのみわざは、ヤーウェの前に聖なる者として歩むことを可能にする信仰を与えてくれます。神ご自身であられるイエスが人の肉となってこの地上に来られて、バプテスマを受けることによって罪人の咎をご自分の身体に負われ、血を流されることによって、すべての罪の罰と呪いを身代わりとなって受けてくださったのです。これはまさに青色、紫色、緋色の撚り糸の霊的奥義です。
おそらく、みなさんはこれまで、青色の糸を神または神のみことばを示しているとだけ考えていたかもしれません。しかし、みなさんは今、青色の糸が実際にイエス・キリストのバプテスマを指していることを明確に知らなければなりません。イエスがご自分に移されるすべての罪を受け取られたバプテスマは、きわめて重要であり、神のみわざから除外することはできません。そのように、旧約聖書の幕屋から、神はその重要性を告げておられます。
 
 
イエスのバプテスマは私たちのすべての罪を負う方法だった
 
幕屋の囲いの柱は、アカシヤ材でできていました。これらの柱の下部には青銅の台座が配置され、これらの柱の上部には柱の頭がありました。これはまず、罪人は自分の罪のために裁かれなければならないことを告げています。罪のために一度裁かれている者だけが救われることができます。まだ裁かれておらず、ゆえに救われていない人々は、神の前に行くとき、罪のために永遠の罰を受けることを避けられません。
「罪から来る報酬は死です」(ローマ 6:23)と記されているように、罪人は間違いなく罪に対する神の恐ろしい裁きを受けるでしょう。ですから、罪人は罪のために一度神によって裁かれ、それから神の恵みに包まれて再び生きなければなりません。これが、新しく生まれるということです。イエス・キリストがバプテスマによって私たちのすべての罪を背負われたという青色の糸の信仰、そしてイエスが十字架で裁かれることによってすべての罪人をお救いくださったという緋色の糸の信仰、この信仰以外に、私たちを罪で一度死なせ、新しく生まれさせるものはありません。信仰のうちに裁きを通り抜けることができない人々には、彼らの不信のため、永遠の裁きだけが待っているということを、私たちは認識しなければなりません。
イエスのバプテスマは、私たちをすべての罪からお救いくださるために、キリストが私たちのすべての罪を負われる手段でした。イエスは、私たちの罪をすべてご自分に背負われるために、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになりました。イエスは神ご自身であり、それでも私たちをお救いくださるために、人の肉においてこの地上に来られ、人類の代表であるバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって罪人のすべての咎を負われ、罪人の身代わりとなって、ご自分のからだを十字架にささげ、水と血を流されることによって裁かれました。幕屋の庭の門は、イエスが私たちの救い主として成就なさったみわざについて、詳細に教えています。神は幕屋の庭の門によって、イエスが罪人の救い主になられたことを明確に告げておられます。
撚り糸で織った亜麻布は、旧約聖書と新約聖書のみことばを指しており、これは非常に詳細で、互いに一致しています。この撚り糸で織った亜麻布を作るために、それぞれの糸をどれほど精密に織り込むのでしょうか。この撚り糸で織った亜麻布を通して、神は私たちをどのようにお救いくださったかを詳細に語られています。
絨毯(じゅうたん)を見ると、異なる糸を織り合わせて編まれていることがわかります。このように、神はイスラエル人に、青色、紫色、緋色の撚り糸を織った亜麻布に織り込むことによって、幕屋の中庭の門を作るようにとおっしゃいました。これは、精密な神のみことばに隠されている水(バプテスマ)と血(十字架)と聖霊(イエスは神)を通して私たちのところに来られたイエスが、まさに私たちの救いの門であることを教えてくれます。精密な神のみことばに啓示されているイエス・キリストへの正しい信仰を持ち、神の愛に包まれることによって、私たちは信仰によって完全に救われています。
イエス・キリストは私たちを無計画にお救いになりませんでした。幕屋を見ると、これがわかります。イエスは本当に罪人を巧みにお救いになりました。囲いの柱だけを見ると、神がどれほど巧みに私たちをお救いくださったかがわかります。なぜ囲いの柱の数は60なのでしょう。数字の6は人間を指し示しており、数字の3は神を指し示しているからです。黙示録第13章には666の刻印があり、神はこの数字が獣の数字であり、賢い者はこの数字の奥義を知っていると告げています。したがって、666という数字は、人間が神のように振る舞うことを意味します。人類の願いは何でしょう。完全な神の存在のようになることではないですか。本当に神の存在のようになりたいのなら、イエスを信じて新しく生まれ、神の子どもにならなければなりません。60本の柱は、この意味合いを非常に詳細に示しています。
しかしながら、信仰を持つ代わりに、人々は自分自身の努力によってこの神性に加わろうとして、自慢の行ないや邪悪な行ないをします。人々は信仰を持たず、神に敵対する欲望だけを持っているため、人間の欲望に従ってすべてのみことばを再解釈し、自分の作った考えを誤って信じるという、これ以外の理由はありません。彼らが自分自身で完全になり、自分の肉の完全さに到達することを強いる肉の欲のために、彼らは神のみことばから遠く離れてしまいます。
 
 
幕屋のすべての構成要素に啓示された救済のみことば
 
イエス・キリストが罪人を救い、彼らを聖所に引き寄せるには、幕屋のすべての用具と材料が必要でした。全焼のいけにえの祭壇が必要であり、洗盤が必要であり、柱、青銅の台座、銀の柱頭、鉤、銀の帯輪もすべて必要でした。これらはすべて聖所の外にある用具であり、これらの材料はすべて、罪人を義人に変えるのに必要でした。
これらすべてのものは、罪人が神の御国に入って生きることができるようにするために必要でしたが、その中で最も重要なのは青色の糸(イエスのバプテスマ)でした。青色、紫色、緋色の撚り糸が幕屋の庭の門を造るために用いられました。これらの糸は、神を信じるときに私たちが必要とするイエスの三つのみわざを指します。第一に、イエスはこの地上に来られ、バプテスマによって私たちの罪をすべてご自身に負われました。第二に、イエスは神(御霊)であられます。そして第三に、イエスはヨルダン川でバプテスマのヨハネを通してご自身に受け取られたすべての罪の罰を受けるために十字架で死なれました。これは、罪人が救われ、義人となるために必要な真の信仰の正しい順序です。
聖書を読むと、主がどれほど精密なのかがわかります。この撚り糸で織った亜麻布のように非常に念入りに私たちをお救いくださった方は、神ご自身に他ならないことがはっきりと分かります。さらに、神は、幅 9 mの亜麻布に青色、紫色、緋色の撚り糸を織り込んで、イスラエル人に幕屋の庭の門を建てさせました。そのため、神は幕屋を遠くの方から見ても、幕屋の庭の門を非常に簡単に見分けられるようにしてくださいました。
幕屋の中庭の柱に掛けられた白い亜麻布の垂れ幕は、神の神聖さを表しています。ですから、罪人はあえて幕屋に近づくことはできず、青色、紫色、緋色の撚り糸に示されたイエスのみわざを信じることによって、ほんとうに救われたときにのみ、幕屋の庭に入ることができるのです。このようにして、神は、イエス・キリストが水と血と御霊を通して、罪人のすべての罪を消し去り、お救いくださったことを知ることができるようになさいました。
これだけでなく、幕屋の庭の門を含む幕屋を構成するすべての道具の材料は、神が罪人を義人に変えるために必要とされる精密なみことばも示しています。神がイスラエル人に、幕屋の庭の門を、だれもが見つけられるほど大きくするようにおっしゃったので、また、この門は青色、紫色、緋色の撚り糸を亜麻布に精密に織り込んで作られたため、神はすべての人が罪人を義人に変えることができるという重要なみことばを明確に理解できるようになさいました。
幕屋の庭の門は、神がアカシヤ材のようだった私たちを、青色の糸(イエスのバプテスマ)、緋色の糸(十字架での血)、紫色の糸 (イエスは神)を通して罪から完全に救ってくださったことを告げています。神は、これを明確に信じている人だけが、神の家である聖所に入れるとお決めになりました。
 
 
イエス・キリストは、この意味あいを通して私たちに告げておられる
 
神は、私たちがまず、イエスのバプテスマを通してすべての罪から洗い清められ、金のまばゆく輝く信仰生活を送る必要があるとおっしゃいます。これが、神ご自身が幕屋の模型をモーセにお示しになり、モーセを通して幕屋を造り、イスラエルの民のこの幕屋の制度を通して罪の赦しを受けさせた理由なのです。幕屋の庭を通って聖所に連れて行く信仰を思い出しましょう。幕屋の庭を通して、神はイエスが水、血、御霊を通して私たちをお救いくださったという真理への信仰を私たちに語り続けておられます。青色、紫色、緋色の撚り糸で織られた庭の門への信仰、大祭司がいけにえの子羊の上に両手を置くこと、このいけにえの子羊の流された血、そして大祭司が洗盤で手と足を洗った信仰――これらすべてのことから、水と御霊の福音への信仰だけが聖所に入り、そこで栄光のうちに生きることを可能にする純金の信仰であることを告げています。
幕屋を通して、神は私たち全員が救済の恵みと祝福を受けることをお許しになりました。幕屋を通して、私たちは神が私たちにお与えになった祝福を知ることができます。私たちは神の恵みの御座の前に行き、一度で救われることを可能にした救済の恵みを悟り、信じることができます。これがお分かりになりますか。幕屋を通して、私たちの主がみなさんと私をどれほど精密にお救いくださったか、救済をどれほど精密にご計画なさったか、そしてこのご計画に従って、神がいかに確実にそのご計画を成し遂げられ、罪人を義人となさったかがわかります。
おそらく、今までずっと曖昧にイエスを信じたことがおありですか。青色は空を意味するのだと信じていましたか。王の王であられるイエス・キリストがこの地上に来られ、十字架で私たちをお救いくださったという紫色と緋色の信仰だけをご存じだったのですか。もしそうなら、今こそ真の信仰を見つける時です。みなさんが青色の信仰であるイエスのバプテスマを明確に知り、それによって神がみなさんにお与えになった計り知れない救済の恵みを悟り、信じることを願っております。
神は、血と聖霊によってのみ私たちをお救いになったのではなりません。なぜでしょう。神は、青色、紫色、緋色を明確に語られ、また、これら三つの糸を通してイエスが私たちをどのようにお救いくださったかを、正確に語っておられるからです。私たちの神は幕屋を通して、イエスの救済のみわざを詳細に示されました。幕屋を造るようにモーセにお命じになった後、この幕屋を通して、神はこの方法で私たちをお救いくださると約束なさいました。約束なさったように、イエス・キリストは人の肉のうちに来られ、ヨルダン川の水(青色)でバプテスマを受けて、ご自身に罪を負われました。イエスはバプテスマを通して、実際に罪人をすべての罪からお救いくださいました。それなら、救済はどれほど精密で、正確で確実なことでしょう。
聖所に入ると、燭台、供えのパンの机、香の壇が見えます。至聖所に入る前に、私たちはしばらくの間、金色にまばゆく輝く、この聖所に住むようになり、私たちの心にみことばのパンを与えられます。これはどれほど恵まれていることでしょう。神の御国に入る前に、私たちは水と御霊の福音を通して新しく生まれることによって、完全に救われている者として神の教会に住んでいます。いのちのパンを与える神の教会は、聖所です。
聖所、つまり神の教会には、燭台、供えのパンの机、香の壇がありました。台座と支柱と、がくと節と花弁を備えた燭台は、純金一タラントを槌で打って一枚に作られました。このように純金一タラントを槌で打って作られた燭台は、私たち義人が神の教会と結びつかなければならないことを教えています。
供えのパンの机には、この堕落した世の汚れた教えから解放された純粋な神のみことばのパンを象徴する、種なしパンが置かれました。神の聖所、つまり神の教会は、パン種のないこの純粋な神のみことばを宣べ伝え、神の前で悪を行うことなく純粋な信仰によって生きます。
至聖所の垂れ幕の前に、香の壇が置かれました。香の壇は、神に祈りがささげられた場所でした。神は聖所の用具を通して、神の前に行くとき、私たちは結ばれ、神の純粋なみことばを信じ、祈りをしなければならないと告げています。神は義人の祈りだけに耳を傾けているので、義人だけが祈ることができます(イザヤ 59:1-2、ヤコブ 5:16)。そして、すべての人が神の前で熱心に祈るからといって、すべてが神にお会いできるわけではありません。
このように、聖所は、私たちが神の教会で救われることがどれほど栄光であるかを告げています。幕屋に用いられる主要な材料――青色の糸(イエスはバプテスマを受けた)、緋色の糸(イエスがバプテスマを通して私たちの罪をすべてご自身に背負われ、十字架で死なれて、私たちの罪の罰を受けた)、そして紫色の糸(イエスは神であられる)―――は、私たちが絶対に持たなければならない信仰を指しています。これら三つは、私たちの信仰全体を構成しています。イエスが神の御子であられ、本質的に神ご自身であられ、神が私たちをお救いくださったことを信じるときにのみ、神が宿る輝く金の聖所に入ることができます。これら三つの糸に示されているイエスのみわざを信じなければ、イエスをどれほど熱心に信じようとも、聖所に入ることはできません。すべてのキリスト教徒が至聖所に入ることができるわけではありません。
 
 
誤った信仰を持って幕屋の庭に入ろうとする者
 
今日、信仰を告白しても聖所に入ることができないキリスト教徒が大勢います。言い換えれば、盲目的な信仰で救われようとする人が大勢いるのです。イエス・キリストの血を信じるだけで救われ、イエスは神ご自身であり、王の王であると考える人は、まさにそのような人々です。彼らはイエスを単純に信じています。イエスの血だけを信じて、彼らは全焼のいけにえの祭壇の前に立って盲目的に祈ります。「主よ、私は今日も罪人です。主よ、お赦しください。十字架につけられ、私の代わりに死んでくださったことを主に感謝します。ああ、主よ、愛しています。」
朝にこれをした後、彼らは自分の生活に戻り、そして夕方に再び全焼のいけにえの祭壇に戻り、永久に同じ祈りをささげます。毎朝、毎晩、毎月、全焼のいけにえの祭壇に訪れる人々は、新しく生まれることはできず、自分の考えに従って誤った信仰に陥ります。
彼らは赤い炎で焼いた全焼のいけにえの祭壇にいけにえのささげ物を置き、そのささげ物を火でささげます。肉はそこの炎で燃えているので、燃える肉の臭いが広がり、白黒の煙が昇り続けます。全焼のいけにえの祭壇は、私たちが罪を消すように神にお願いするために泣く場所ではなく、実際、地獄の恐ろしい炎を思い起こさせる場所なのです。
しかしながら、人々は毎朝この場所に行き、「主よ、私は罪を犯しました。私のすべての罪を赦してください。」それから、彼らは自分の罪を本当に赦されたかのように自分で満足して、家に帰ります。「♫私は赦された。♪あなたは赦された。♫私たちはみな赦された」と歌うほど幸せなことさえあります。しかし、そのような感情は一時的なものです。すぐさま彼らは再び罪を犯し、再び全焼のいけにえの祭壇の前に立って、「主よ、私は罪人です」と告白します。毎日全焼のいけにえの祭壇に出入りする人々は、イエスに対する信仰の告白にかかわらず、依然として罪人です。そのような人々は決して神の聖なる御国に入ることができません。
それでは、誰が罪の赦しを完全に受け取り、神の聖所に入ることができるのでしょう。彼らは、神によって定められた青色、紫色、緋色の撚り糸の奥義を知り、信じている人たちです。これを信じる者は、イエスに移されたすべての罪を受け取られた、イエスの死への信仰によって、全焼のいけにえの祭壇を通り過ぎ、洗盤で手と足を洗い、イエスのバプテスマを通して罪がすべてイエスに移されたことを思い出し、それから神の聖所に入ることができます。水と御霊の福音を信じ、罪の赦しを受けている者は、信仰によって神の承認される信仰のため、その信仰によって天の御国に入ることができます。
青色の糸の聖書的な意味がイエスのバプテスマであることを、みなさんが悟り、信じることを願っております。今日、イエスを信じると告白する人は大勢いますが、イエスのバプテスマである水(青色の糸)を信じる人はほとんどいません。これは非常に悲しい現象です。イエスがただ神としてこの地上に来られたのではなく、十字架で死なれただけだったとしても、非常に多くの人々がキリスト教の信仰からバプテスマの最も重要な信仰を除外することは、大きな苦痛の原因です。今でも、みなさんが青色、紫色、緋色の撚り糸の信仰を知って信じ、それによって神の御国に入る者となることを願っています。
 
 
幕屋の青色、紫色、緋色の撚り糸に示された主を信じなければならない
 
私たちの主は、みなさんと私を完全にお救いくださいました。幕屋を見ると、主がほんとうに私たちを救ってくださった方法がどれほど精密であるかを知ることができます。このことについて神に感謝しても感謝しきれません。主が青色、紫色、緋色の撚り糸を通して私たちをお救いくださったこと、そしてこれらの青色、紫色、緋色の撚り糸を信じる信仰も与えてくださったことに、私たちはどれほど感謝していることでしょう。
罪人は、神の恵みをまとい、罪に対する神の恐ろしい裁きを経ることなく、聖所に入ることは決してできません。罪のために裁かれていない人が、どうして幕屋の入口を開けて聖所に入ることができるのでしょう。そうすることはできません。そのような人々が聖所に入ると、彼らは呪われ、一瞬で盲目になります。「うわァ、眩しいなァ。あれれ、どうして何も見えないんだ。外にいたときは、ただ中に入るだけなら聖所の中のすべての物を見ることができると思ったのに。なんで何も見えないんだ。それに、どうしてこんなに暗いんだろう。聖所の外にいるときはよく見えたのに…聖所は明るいと聞いていたのに。どうして外より暗いんだろう。」彼らは青色、紫色、緋色の撚り糸の信仰を持っていないため、霊的に盲目になったので、見ることができません。このように、罪人は決して聖所に入ることができません。
私たちの主は、聖所で私たちを盲目にされることなく、聖所で永遠に生きる祝福を受けることを可能にしてくださいました。神は幕屋のあらゆる所で見いだされる青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を通して、神は私たちの救済の方法を正確に告げられ、この預言のみことばによると、神は確かにすべての罪から私たちを救い出してくださいました。
私たちの主は、私たちが盲目にならず、神の輝く恵みのうちに永遠に生きるように、水と血と御霊を通して私たちをお救いくださいました(Ⅰヨハネ 5:4-8)。私たちの主は、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を通して私たちを救ってくださいました。私たちの主は、精密な神のみことばで私たちに約束なさり、この約束を成就なさることによって、お救いくださったことを告げておられます。
みなさんは、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に示されたイエスの精密なみわざを通して、みなさんと私が救われたと信じておられますか。はい!無計画に救われただけでしょうか。いいえ。青色、紫色、緋色の撚り糸を信じない限り、私たちは救われません。
青色の糸は神を指していません。それは、イエスがヨルダン川で世のすべての罪人のすべての罪を取り除いたイエスのバプテスマを指しています。
ちなみに、青色であるイエスのバプテスマを信じることなく、全焼のいけにえの祭壇の前に立つことは可能です。人々は、全焼のいけにえの祭壇のとなりの洗盤まで行き着くかもしれませんが、神が宿られる聖所に入ることはできません。幕屋の入口を開いて、聖所に入ることができる人々は、水と御霊の福音を完全に信じることによって罪の赦しを受けた真の神の子どもたちだけです。しかし、罪深い人は、誰であろうとも、決して聖所に入ることができません。私たちの救いに達するには、どこまで入らなければならないのでしょう。ただ幕屋の庭に入るときでなく、神がおられる聖所に入るときにのみ、私たちは救われるのです。
 
 
幕屋の内側の信仰と外側の信仰の違い
 
全焼のいけにえの祭壇と幕屋の外庭にある洗盤は、すべて青銅でできており、囲いは木、銀、青銅でできていました。しかし、幕屋に入ると、材料はまったく異なります。幕屋の重要な特徴は、それが「金の家」であるということです。三面の壁は、すべてアカシヤ材の48枚の板で造られ、すべて金で覆われていました。供えのパンの机と香の壇もアカシヤ材で造られ、金で覆われていました。燭台は、金一タラントを打って作られました。そのため、聖所の中のすべての用具は、純金で作られているか、純金で覆われていたのです。
一方、板の下にある台座は何でできていたでしょう。それらは銀でできていました。幕屋の中庭の囲いの柱の台座は青銅でできていましたが、幕屋の板の台座は銀でできていました。また、中庭の囲い柱は木でできていたが、幕屋の板は金で覆われたアカシヤ材でできていました。しかし、幕屋の入口の五つの柱の台座は、青銅でできていました。
幕屋の板のための台座は銀でできていましたが、幕屋の入口の柱のための台座は青銅で鋳造されました。これは何を意味するのでしょうか。それは、神の御前に来る者はだれでも、罪のために裁かれなければならないことを意味します。裁かれて死に至るとき、どのようにして神の御前に来ることができるでしょう。私たち自身が死ぬと、神の前に立つことができなくなります。
それゆえ、幕屋の入口の五本の柱の台座に用いられている青銅を通して、神は私たちに、罪のために裁かれなければならなかったが、イエスはバプテスマによって私たちの罪をすべてご自身に背負われ、身代わりとなって、こうした罪のために裁かれました。私たちは罪のために裁かれなければならない人々でした。しかし、他の誰かが私たちの身代わりとなって、私たちのすべての罪のために、この裁きをお受けになったのです。私たちの身代わりに、他の誰かが私たちのために死にました。私たちの身代わりに裁かれ、死なれたお方は、イエス・キリストにほかなりません。
青色の糸に示される信仰とは、イエス・キリストがバプテスマを通してご自分に移されたすべての罪を受け取られ、そうして私たちのすべての罪を赦してくださったと信じる信仰です。神がバプテスマによって移された、すべての罪の罰のためにイエス・キリストのいのちを奪われ、それによって私たちの罪をすべて解決なさったので、私たちはもはや罪の罰に問われることはありません。緋色に糸に示された信仰は、イエスが十字架で流された血への信仰です。この信仰とは、私たち自身が直面すべきだった罪の裁きを、イエス・キリストが代弁的に受けてくださったと信じる信仰です。
イエスのバプテスマを信じることによって罪をすべてイエスに移し、イエスがこうした罪のために、肉の死によって十字架で流された血を信じることによって罪をすべて裁かれた者だけが、聖所に入ることができます。これが、幕屋の入口の台座が青銅でできていた理由なのです。そのように、私たちは自分の罪をすべてイエスのバプテスマによってイエスご自身に負わせ、私たちの身代わりに裁かれたキリストの血を信じなければなりません。
お救いくださったイエス・キリストが神ご自身(紫色の糸)であられるという事実を、イエスのバプテスマ(青色の糸)を、イエスが人々の身代わりとして裁かれた(緋色の糸)という真理を確信している人々だけを、神は聖所に入ることができるのだとお決めになっています。神は、かつてイエスを信じてすべての罪を裁かれており、イエスがすべての罪から救われたと信じる者だけを聖所に入ることを、お許しになっています。
幕屋の扉の柱の台座は、青銅で鋳造されました。青銅の台座には、アダムの子孫として生まれた罪人が、誰であろうと青色の糸(イエスのバプテスマ)、緋色の糸(罪人の身代わりとなってイエスがお受けになった裁き)、そして紫色の糸(イエスが神ご自身であられる)の信仰を持っている場合にのみ、神の宿られる聖所に入ることを神がお許しになったという霊的な意味があります。門の柱の五つの台座はすべて青銅でできていたことは、ローマ 6:23に、「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と記されているように、イエスが私たちのすべての罪を水と血と御霊によって赦してくださったという神の福音を告げています。
 
 
みことばと神を無視してはならず、信じなければならない
 
イエスを信じるということは、無条件に救われるという意味ではありません。教会に出席することは、みなさんが無条件に新しく生まれることを意味しません。私たちの主は、ヨハネ 第 3 章で、水と御霊によって新しく生まれた人だけが神の御国を見ることも入ることもできるとおっしゃいます。イエスは、ユダヤ人の指導者でもあった神の忠実な信者ニコデモに断固としておっしゃいました。「あなたはユダヤ人の教師でありながら、どのように新しく生まれるかが分からないのですか。水と御霊によって新しく生まれたときにのみ、人は神の御国を見ることもできるのです。」 イエスを信じる人々は、青色の糸(イエスがバプテスマを受けたときに一度ですべての罪をご自身に背負われた)、緋色の糸(イエスが私たちの罪のために死んだ)、そして紫色の糸 (イエスは救い主であり、神ご自身であり、神の御子であられる)の信仰を持つ場合にのみ、新しく生まれることができます。ですから、幕屋の四分の一にある青色、紫色、緋色の撚り糸を通して、すべての罪人はイエスが罪人の救い主であると信じなければなりません。
新しく生まれることや、新しく生まれるみことばを知ることができないのは、多くの人々がこの真理を信じることなく、イエスを信じているからです。イエスを信じると告白しても、新しく生まれていないなら、父の御国である聖所に入ることも、正しい信仰生活を送ることもできないと、私たちの主は明確におっしゃいました。
私たちの作った考えでは、すべてのキリスト教徒がどのように信じていても、新しく生まれることを認められるなら、どれほど素晴らしいだろうかと思うかもしれません。そうではありませんか。人類をお救いくださるために、イエスがしてくださったことの詳細さえ知らずに、イエスの御名を呼び、イエスへの信仰をただ言葉で告白するだけで救われるなら、人々はイエスを信じるのが驚くほど簡単だと思うでしょう。新しいキリスト教徒に会うたびに、「♫私は赦された。♪あなたは赦された。♫私たちはみな赦された」と歌って、私たちは主に感謝するかもしれません。「信者が非常に多いので、あかしすることの要点は何ですか。物事はそのままで大丈夫です。これはただ素晴らしいじゃないですか。」 もしこれが本当なら、人々は救いについてあまりにも簡単に考え、主の御名を呼び求める人は誰でも救われるので、たとえ自分たちが願うどのような方法で生きていても、救いが来るのだと考えます。しかし、神は私たちにそのような盲目的な信仰を持って新しく生まれることはできないとおっしゃいました。それどころか、水と御霊の福音を知らずに救われたと主張する人々はみな、不法を行なっていると、神はおっしゃいました。
 
 
新しく生まれることは、肉のことではなく、霊のこと
 
イエスは人となられ、この地上に来られ、水と御霊の福音を通して私たちをお救いくださいました。肉においてイエスの父ヨセフは、大工であり(マタイ 13:55)、イエスはこの大工の父の下で家族に仕え、イエスご自身が生涯の最初の29年間大工として働いていました。しかし、イエスが30歳になられたとき、神のみわざを始めなければなりませんでした。
このようにイエスは神性と人間性の両方を持っておられたので、新しく生まれた義人もまた二つの異なる性質を持っています。私たちには肉と御霊の両方があります。しかしながら、自分の霊が新しく生まれていないのに、イエスを信じていると告白するなら、この人は新しく生まれていません。つまり、新しく生まれた霊ではありません。霊において新しく生まれることなく、イエスを信じようとするなら、この人はニコデモのように肉で新しく生まれようとしている人であり、ほんとうに新しく生まれた人ではありません。イエスは、その実体において神ご自身でしたが、それでもなお、弱さに満ち溢れた人間の肉の中におられました。そのように、私たちが新しく生まれたと言うとき、それは私たちの肉ではなく、霊が新しく生まれたことを意味します。
イエスを信じていると告白するすべての人が、確かに新しく生まれたなら、私は優しい牧師として知られることを試みたでしょう。なぜでしょう。なぜなら、私は真理を信じない者にそれほど怒りを覚えていないだろうからです。したがって、彼らが真理を知るようになることを望んで、私の説教において、そんなに無愛想なことはしなかったでしょう。私は、人々がどのように肉において聖くなることができるかを説明して、礼儀正しく、高貴で、慈悲深く、優しく、ユーモアな牧師として知られているでしょう。もちろん、自分のイメージをこのように美しくすることはできますが、決してそのようなことはしません。 「この牧師はイエスの聖なる慈悲深いイメージを本当に引き継いでいる」という印象を、みなさんの心に植え付けることができないからではありません。それは、人の肉が変わらないからであり、肉において少し親切で、優しく、慈悲深くあっても、この人が新しく生まれた義人であることを意味するわけではないからです。誰も肉において新しく生まれることはできません。神のみことばを信じて、新しく生まれなければならないのは、霊です。
イエスを信じるとき、みなさんは真理を知らなければなりません。「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ 8:32)。神の真理だけが私たちを新しく生まれさせ、罪の束縛から魂を解放し、私たちを義人として新しく生まれさせます。聖書を正しく知り、信じ、宣べ伝えるときにのみ、聖所に入り、真の信仰生活を送ることができ、同じように至聖所の「贖いのふた」のところに行くことができます。私たちの魂を新しく生まれさせる水と御霊の福音は、真理であり、これに対する私たちの信仰は、私たちの罪をすべて赦し、神とともに信仰の領域で生きることを可能にします。私たちの心にある水と御霊の福音によって、私たちは新しく生まれた神の子どもとして、霊的で輝く領域で主とともに幸せのうちに生きることができます。
盲目的にイエスを信じることは正しい信仰ではありません。人間の視点から見ると、私には多くの欠点があります。私は口でこれをただ言っているのではなく、何かをするたびに、多くの欠点があることに気づくのです。
例えば、参加する聖徒たちや新しい来訪者が安心してみことばを聞き、神の恵みに心を動かされ、新しく生まれる祝福を受け、心身ともに休んだ後に帰って行くように、聖書キャンプの準備をしているとき、前もって考えることも準備することもできなかったことがたくさんあることに気づきました。もう少し注意していれば、容易に処理できたはずのことが、準備時間が終わり、キャンプが始まる直前に出てくるのです。聖書キャンプの計画の段階でもう少し気をつけていれば、聖徒たちと新しい訪問者がみことばをよく聞き、救われて、楽しい時間を過ごせたはずなのに、私はなぜそのようことを先に考えずに準備しなかったのだろうかと思います。また、一日中働くときも私の効率が悪いので、努力に見合った結果が得られないことがよくあります。私自身も、欠点がありすぎることは承知しています。
「どうして私はこのようなことができないのか。どうして、これを考えなかったのか。私がすべきことは、もう少し注意を払うことだけだったのに、なぜそれができないのか。」私が実際に福音に仕えているとき、私はしばしば自分の欠点に気づきます。ですから、私は自分自身に気づいて認めます。「これが私なのだ。私はこのように至らないのだ。」口先だけでこう言っているのではありません。謙虚なふりをしているのでもありません。実際、私は小さなことも満足にできずに、中途半端なことをしているのです。自分を見て、私は本当に多くの欠点を感じています。
 
 
私たちは青色の糸への信仰を通して神聖さを受ける
 
人々は自分のことを考えると、間違いを犯すことなくすべてをうまくできると感じます。しかし、実際に課題に取り組むと、彼らの真の能力と欠点が明らかになります。彼らは本当に欠点があり、罪や間違いを犯さずにはいられないことを知ります。また、人々は自分が大丈夫だと考えるとき、自分の信仰がどれほど良いかという理由で、神の御国に行くのだと思い込みます。
しかし、肉は決して変わりません。欠点のない肉はありません。肉は常に間違いをし、その欠点を明らかにします。万が一、みなさんの肉が成し遂げた善のために、主の御国に行くことができると思うなら、みなさんの肉が成し遂げたことが何であろうと、それは神の前では絶対に無益であることを認識しなければなりません 。私たちが主の御国に入ることを可能にする唯一のことは、主が私たちをお救いくださった青色、紫色、緋色の撚り糸の真理のみことばへの信仰です。私たちの主が、青色、紫色、緋色の撚り糸を通してお救いくださったので、私たちはこれを信じることによってのみ聖所に入ることができます。
神が青色、紫色、緋色の撚り糸を通して私たちをお救いくださらなかったら、私たちはみな、聖所に入ることができなかったでしょう。私たちの信仰がどれほど強くても、私たちは聖所に入ることはできません。なぜでしょう。もしそうだとすれば、私たちが聖所に入ることができるように、私たちの肉の信仰が毎日良くなければならないことを意味するからです。私たちの信仰が毎日十分に良いときにのみ、神の御国に入ることができるなら、どうしてそのような弱い肉体を持っている私たちが、毎日自分の信仰を良くし、聖所に入ることができるでしょう。自分自身で罪の赦しを受ける方法がないとき、また、毎日罪を犯すときはいつでも心を改める信仰がないとき、どうすれば神の御国に入るための信仰を十分に高めることができるでしょうか。私たちの体は、そもそも罪を犯さない聖体でなければならないでしょうし、あるいは毎日悔い改めの祈りをささげ、断食しなければならないでしょう。しかし、いったい誰の体が聖いでしょう。また、誰にそんなことができるでしょう。
神が青色、紫色、緋色の撚り糸を通して、私たちをお救いくださらなかったら、天の御国に入ることができる人は私たちの中に誰もいないでしょう。私たちの信仰は、ある時には良くても、次の瞬間に消えてしまうようなものです。信仰が繰り返し良くなって消えてしまうなら、自分が本当に信仰を持っているかどうか困惑し、最初に持っていた信仰さえも失うことになります。最終的に、イエスを最初に信じてからずっと後に、私たちはさらに罪深くなります。しかし、イエスは、欠点だらけの罪人である私たちを完全にお救いくださいました。救済のご計画は、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に示されています。イエスは、私たちに罪の赦しを与えてくださいました。
この証拠がある場合にのみ、大祭司のように「主への聖なるもの」と刻んだ金の札をかぶり物につけることができます(出エジプト記 28:36-38)。すると、私たちは祭司職を行なうことができます。祭司として主に仕えながら、「主への聖なるもの」を人々にあかしすることができる人々は、水と御霊の福音を通して罪の赦しを受けているという証拠を、心に持っている人です。
金の札は大祭司のかぶり物に取りつけられており、この金の札をかぶり物に結びつけたのも、青ひもでした。ではなぜ神は、かぶり物をこの青ひもで縛るべきだとおっしゃったのでしょう。主が私たちをお救いくださるために絶対に必要だったのは、この青色の糸であり、この青色の糸は私たちの罪をすべてご自身に負わせるためにイエスがお受けになったバプテスマを指します。主が旧約聖書の按手と同じ形で、イエスのバプテスマを通して新約聖書の中でご自身に罪を負わせることによって罪を消し去られなかったなら、イエスをどれほどよく信じていても、ヤーウェから聖さを受けることはできません。金の札が青ひもで、かぶり物に結びつけられたのは、このためです。そして、「主への聖なるもの」と刻まれた金の札で大祭司を見るだれもが、罪の赦しを受けることによって、神の前で聖なるものでなければならないことを思い起こさせることができます。そして、それは人々が神の前でどのように聖なるものになることができるかを考えさせます。
それから、私たちも、どのように義人になっているかについても思い起こさなければなりません。私たちはどのように義人になっているでしょう。マタイ 3:15 を読みましょう。「ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』 そこで、ヨハネは承知した。」 イエスは、バプテスマをお受けになることによって、私たち全員を罪からお救いくださっています。イエスは、バプテスマで私たちの罪をご自身に背負われたため、これを信じる者は罪がありません。イエスがバプテスマを受けておられなかったら、どうして私たちは罪のない人であると言うことさえできるでしょうか。みなさんの目に涙を流して、イエスの十字架での死に対する信仰の告白だけで、罪の赦しを受けたのでしょうか。何らの関わりのないイエスの死に悲しむのは難しいと思って、祖父母の死、病気になったときの困難や自分の過去の苦難や苦しみを考えて、涙をこぼそうとする人が大勢います。みなさんがこのように泣くふりをしたり、イエスの十字架の裁きに本当に悲しむかどうかにかかわらず、みなさんの罪は決してこの方法で消されることはありません。
「主への聖なるもの」を彫っている金の札が、大祭司のかぶり物に青ひもで結ばれたように、私たちの罪を消し去り、私たちを聖になさるのは、イエスのバプテスマです。イエスはバプテスマによってすべての罪をご自身に背負われたために、ヤーウェはすべての罪を背負わされたために、また、世の罪はすべてイエスのバプテスマを通してイエスに移されたので、私たちの心は罪の赦しを受けました。私たちの心がどれほど感情に欠けていても、そして私たちの行動がどれほど事欠いていても、私たちは義人となり、聖書に記された青色の糸のみことばによって完全に救われています。自分たちの肉を見ると、少しも威厳がありませんが、この青色、紫色、緋色の撚り糸の信仰が私たちの心にあるので、つまり、私たちはイエスがバプテスマを通してご自身に罪を背負われ、十字架で罰をお受けになったと告げる水と御霊の完全な福音を持っているため、私たちは大胆かつ恐れることなく福音について語ることができます。私たちが信仰によって義人として生きることができ、また、この正しい信仰を人々に説くことができるのは、水と御霊の福音を持っているからです。
主の恵みには到底感謝しきれません。私たちの救いは無計画に私たちのところに来たわけではないので、私たちはそれに対してさらに感謝しています。私たちが受けた救いは、たとえ正しく信じていなくても、だれもが受けることができる些細なものではありません。「主よ、主よ」と言って、自分の気まぐれで主を呼び求めることは、そうするすべての人が救われるという意味ではありません。私たちの心には、水と御霊の福音を通して罪が消えているという証拠、主が青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって、私たちを精密に救われたというあかしがあるので、私たちはこの偉大な救済にとても感謝しています。
神の御子イエス・キリストを信じるすべての人は、心にこのあかしがあると、聖書が教えています(Ⅰヨハネ 5:10)。私たちの心にあかしがなければ、私たちは神を嘘つきに変えているので、私たちはみな、この決定的な証拠を心に持たなければなりません。そのように、あなたに挑戦し「あなたが救われたという証拠を見せてください。あなたは、人々が罪の赦しを受けるとき、聖霊を賜物として受け取り、救済の明確な証拠があると言います。この証拠を見せてください」と問い詰める人々に後ずさりする理由はありません。次のように証拠を大胆に示すことができます。「私は、イエスが私を完全に救ってくださった水と御霊の福音を私の中に持っています。私はイエスによって完全に救われたので、罪はありません。」
みなさんの心に救いの証拠がなければ、みなさんは救われません。人々がどれほど熱心にイエスを信じても、それ自体は救いを構成するものではありません。これは報われない恋です。それは、他の人がどのように感じているかを考慮しない恋です。私たちが愛せないような人が心をときめかせ、何かを期待し、恋し、愛されたくてたまらないというような顔でこっちを見ても、それは私たちが見返りにこの人を愛さなければならないという意味ではありません。同様に、心が神のために痛んでいるからといって、神は罪の赦しを受けていない人々を御腕に抱きしめることはありません。これは、神に対する罪人の報われない恋でしかありません。
神を愛するとき、私たちは神のみことばを信じることによって神を愛さなければなりません。神への愛は一方的なものであってはなりません。私たちは神への愛を神に伝えなければなりません。そして神を愛する前に、まず神がほんとうに私たちを愛しているかどうかを知らなければなりません。本当に私たちを愛していない他の人にすべての愛を捧げるなら、私たちが最終的に直面するのは失恋です。
私たちが罪に定められないように、主はすべての罪からの救いの栄光を着せてくださいました。神は私たちが神の御国に入り、神とともに生きることをお許しになり、神の恵みを通して罪の赦しを受けることができる贈物を与えてくださいました。神の救済は、天の無数の霊的祝福をもたらしました。言い換えれば、神がお与えくださったこの救済ひとつが、私たちに神からこうしたすべての祝福を受けることを可能にしているのです。
 
 
イエスご自身が私たちにもたらしている救済
 
私たちの主は、青色、紫色、緋色の撚り糸によってお救いくださいました。主は三つの異なる糸で作られた救済をお与えくださいました。この青色、紫色、緋色の撚り糸の救済は、神から与えられた救済の贈物に他なりません。この救済の賜物が、私たちが聖所に入り、聖所に住むことを可能にするのです。
水と御霊の福音は、みなさんと私を義人に変えています。それにより、私たちは神の教会に入り、きよい生活を送ることができるようになりました。そして、この真の福音によって、私たちは霊的な神のみことばを糧にして、神の恵みを受けることができるようになりました。また、私たちは神の恵みの御座の前に行って祈ることができ、それによって私たちが神から授けられた豊かな恵みを自分のものとすることができる信仰を与えられたのです。私たちの救済ひとつで、神は私たちに大きな祝福をくださいました。こういうわけで、救済がとても貴重なのです。
イエスは私たちに、岩の上に信仰の家を建てるようにおっしゃいました(マタイ 7:24)。この岩は、水と御霊の福音によってもたらされる救済に他なりません。ですから、私たちはみな、救われることによって、信仰生活を送り、救われることによって義人になり、救われることによって永遠のいのちを享受し、救われることによって天国に入らなければなりません。
この世の終わりの時が近づいています。したがって、この時代には、人々は正確なみことばによって救われる理由がたくさんあります。青色、紫色、緋色の撚り糸の信仰を知らずに、イエスを大まかに信じるだけで救われることができると言う人がいます。また、この方法で救われたために、信仰生活について話す必要はないと言う人もいます。
しかしながら、私がこれを繰り返し言うのは、心の中で罪の赦しを受けている人々だけが、神がお認めになる信仰生活を送ることができるからです。罪の赦しを受けたすべての聖徒の心は、聖霊が宿る聖なる神殿なので、新しく生まれた聖徒は、この聖さを汚さないために信仰生活をしなければなりません。
義人がどのように人生を送るかは、罪人がどのように生きるかとは全く異なる次元にあります。神の観点からすると、罪人の生き方は完全に神の基準を下回っています。罪人の人生は偽善に満たされています。彼らは律法に従って生きようと一生懸命努力します。彼らは、歩き方、生活の仕方、話し方、笑い方の基準を設定しました。
しかし、これは義人が生きる信仰生活から、かけ離れています。神は義人に「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とおっしゃいます。これが、神が義人にお与えになった生活様式です。義人が、心を尽くして神を愛し、力と知性を尽くして神のみこころに従うことによって、自分の人生を送るのは当然です。私たちの隣人を救うために、私たちは神のわざに無数の投資をしなければなりません。これがキリスト教徒の生活です。
自分自身が罪を犯さないということだけが重要だと思うレベルにとどまるなら、新しく生まれたキリスト教徒の忠実な生活に従うことはできません。私は新しく生まれる前に、保守的な長老派の宗派で律法的な信仰生活を送っていました。律法の生活に関する限り、それを徹底的に守ろうとしました。今日、人々はもはやこういうことをしない傾向がありますが、私はずっと前から宗教生活を送ってきたので、私は日常生活の中で律法を守ることに熱心でした。安息日を覚えて、これを聖なるものとしなさいと律法が命じているように、私は主の日に決して働かず、日曜日には車に乗ることさえしなかったほどに、私は律法に忠実に従いました。もし私がみなさんに私と同じように生きることを要求するとしたら、そのような律法生活を送ることができる人はほとんどいなかったでしょう。これは、私が新しく生まれる前の生活がどれほど律法的であったかということです。しかしながら、私がどれほど熱心に宗教的な日々を過ごしたとしても、そのような生活は神のみこころとは何の関係もなく、まったく役に立ちませんでした。
読者のみなさん、青色、紫色、緋色の撚り糸の信仰を持っておられますか。イエスの救済はこれらの三つの糸に含まれているので、信仰によって聖所に入ることができます。私たちの救いは、2,000年以上前に成就されました。イエス・キリストは、私たちがイエスを知る前でさえ、すでにバプテスマを受けてご自身にすべての罪を負われ、十字架で死ぬことによって私たちの罪の罰をお受けになりました。
 
 
罪からの救済はイエス・キリストのうちに定められた
 
新しく生まれていない者が幕屋に入ると、その庭の門から入るのではなく、不法に囲いを越えます。彼らは次のように言います。「なぜ囲いの亜麻布はこんなに白いんだ。かなり厄介だな。それを赤か青にすればよかったんだ。最近の流行りだ。それなのに、この囲いは白すぎる!目立ちすぎる。それに、どうしてこんなに高いんだ?2.25 mを超えている。私の身長は2 mにも達していない。囲いがとても高いのに、どうやって中に入るのか。まあ、はしごを使って登ることができるさ!」
そのような人々は善行によって入ろうとしています。彼らは、ささげ物、慈善活動、忍耐で幕屋の中庭の囲いを乗り越え、「2.25mの高さなら飛び降りられるさ」と言って、囲いから飛び降ります。それで幕屋の庭に登った後、彼らは振り返って全焼のいけにえの祭壇を見ます。それから彼らは祭壇から目を離して聖所に目を向けます。そして彼らが最初に目にするのは、その前にある洗盤です。
幕屋の庭の囲いの柱の高さは、2.25 m ですが、神が宿っておられる聖所の入口の柱と幕の高さは、4.5 m です。人々は、十分な決意があれば、自分の意志で幕屋の庭に入ることができます。しかし、高さ2.25 m の囲いを飛び越えて幕屋の庭に入ったとしても、神の宿られる場所に入ろうとすると、高さ 4.5 m の柱と聖所の入口の幕に出くわします。人々は自分の努力で 2.5 m 以上を飛び越えることができます。しかし、彼らは神によって定められた 4.5 m を越えることができません。これが彼らの限界です。
これは、私たちがイエスを初めて信じたとき、単に宗教として信じることができることを意味します。また、一部の人々は自分の意思によってイエスを救い主として信じることができ、救い主は四人の偉大な賢者のうちの一人にすぎないと信じることができます。人々がどのように信じているかに関係なく、彼らはどのような選択をしたとしても自分の信仰を持つことができますが、そのような信仰を通して、ほんとうに新しく生まれることができません。
ほんとうに新しく生まれるには、彼らの信仰によって青色、紫色、緋色の撚り糸の門を通過しなければなりません。私たちは、イエスが私たちの救い主であり、真理の入口であり、水と血と御霊を通して私たちをお救いくださったと信じて、神の前に新しく生まれました。三本の糸に示されたイエスのみわざを信じる信仰とは、水と血と御霊の信仰にほかなりません。 人々は他のことを自由に信じることができますが、このように信じることによって救われ、大いに祝福されるという肯定的な証拠はまったくありません。水と御霊の福音への信仰によってのみ、神の承認と神の救いの大きな恵みと祝福を受けることができるのです。この水と御霊の福音への信仰の目的は、私たちを神の恵みにまとうことです。
幕屋は、その中に家が立っている単なる長方形の庭だと思っておられますか。これはみなさんの信仰にいかなる利益をもたらすことはできません。幕屋は私たちに信仰全体について語っているので、この信仰が何であるかを正確に知る必要があります。
幕屋をよく知らないので、幕屋の高さはその囲いの高さ、約2.25 mであると思うかもしれません。しかし、そうではありません。たとえ私たちが庭に入らず、囲いの外側から幕屋を見たとしても、幕屋の高さは囲いの2倍であることがわかります。幕屋の底は見えませんが、幕屋は中庭の囲いよりも高くなっていることを告げて、まだその入口がはっきり見えます。
イエスを正しく信じ、それによって幕屋の庭の門を通って入り、罪の赦しを受けている人々は、全焼のいけにえの祭壇と洗盤で彼らの正しい信仰を確認しなければならず、そうしてはじめて聖所に入ることができるのです。聖所に入るためには、必ず自己否定がなければなりません。聖所の中の用具は、聖所の外にあるすべての用具と区別されなければなりません。
サタンが最も嫌いなものをご存じですか。サタンは、聖所の内側と外側の間に境界線が引かれていることを嫌います。神は聖所の内側と外側を分ける人々の間で働いておられるので、サタンはそのような線が引かれることを嫌い、人々にこの線を引かせないようにしようとします。しかし、これを覚えておいてください。神は、この信仰の境界線を引く人々を通して、明らかに働かれます。神は、この明確な境界線を引く人々を喜ばれ、彼らが自分の輝かしい信仰で聖所の中に住むことができるように、神は彼らに祝福をお与えになります。
人々が罪の赦しを受けることができるように、幕屋の外庭にあるすべての用具とそれらに用いられるすべての材料が神によって準備され、事前に準備されたと信じてください。そして、みなさんがこれを信じて聖所に入るとき、神はみなさんにさらに大きな恵みと祝福をお授けになります。
 
 
「贖いのふた」は、私たちが救済の恵みを受ける場所
 
至聖所では、二つのケルビムが翼を伸ばして、あかしの箱を覆ったふたの上から見下ろしていました。二つのケルビムの間のスペースは、「贖いのふた」と呼ばれます。「贖いのふた」は、神が私たちに恵みを授けてくださる場所です。大祭司がこの「贖いのふた」でイスラエルの民のために与えられた「いけにえの血」を七回振りかけたように、あかしの箱の覆いは血で染まりました。神はこうして「贖いのふた」降りて来られ、イスラエルの民にあわれみを授けました。これを信じる人々には、神の祝福、保護、導きが始まります。それ以降、彼らは神の真の民となり、聖所に入る資格があります。
この世の多くのキリスト教徒の中には、信仰によって聖所に入ることを許した人もいれば、聖所に入ることができるような信仰を持っていない人もいます。みなさんは、どのような信仰を持っておられますか。この明確な救済の線を引き、神の聖所に入ることができる信仰が必要です。こうするだけで、私たちは神によって大いに祝福されます。
しかし、このような信仰を持つことは、それほど簡単ではありません。 サタンは人々がこの明確な救済の線を引くことを嫌うので、常にこの線を曖昧にしようとします。「このように信じる必要はない。誰もがこのように信じているわけではないから、なぜあなたはそれをそれほど重視し、同じことを繰り返し続けているのか。落ち着いて、時代の流れに従えばいい。」 そのようなことを言って、サタンはこの救済の明確な線を曖昧にしようとします。また、サタンは私たちの肉体の弱さを明らかにし、それらを問題に変えようとします。みなさんは私たちを神から引き離そうとするサタンの当てにならない言葉に耳を傾ける人になるでしょうか。それとも、毎日自分の救済を思い出して、教会と結びつき、神のみことばに従い、祈りの生活を送り、神がみなさんに授ける恵みを受けることによって、生活を送りますか。
実際、罪の赦しを受けている人は、できる限り頻繁に救いについて瞑想するのが好きです。彼らは、水と御霊の福音を何度も熟考するのが好きです。福音を瞑想することは、みなさんにとって良いことであり、不可欠です。みなさんはこのようではありませんか。「うぇ、またその話か、もう救われているのに。話の素材と筋は違っていても、同じ古い話じゃないか。もううんざりだよ。」
これを言っている人がおられますか。毎日私自身について同じ話をするなら、残念な光景でしょうが、聖書が私たちに毎日救いを反芻すべきだと告げるとき、私は何ができるでしょう。旧約聖書と新約聖書の両方が水と御霊の福音について語っているのに、神の前にある悪とは、人々が実際にこれ以外のものを説教することです。聖書のみことばはすべて、水と御霊の福音について語っています。「救済、信仰生活、信仰、霊的生活、サタンとの戦い、天国、栄光、恵み、祝福、復活、永遠のいのち、希望、聖霊」――聖徒のこれらの重要な概念はすべて、この真の福音に関連しています。これら以外の他のことを語ることは、異端と偽りの教えに他なりません。似ているように見えても内容が異なるのは、誤った教えにほかなりません。外見は似ているが、水と御霊の福音とは異なる福音は、偽りの宗教のまがいの福音です。
神の教会が偽りの宗教の当てにならない言葉ではなく、毎日神のみことばを広めることはどれほど素晴らしいことでしょうか。私たちが神の教会と結びつき、純粋な神のみことばを聞いて信じることは、祝福です。神の教会は、水と御霊の福音を常に宣べ伝えることにより、聖徒が毎日神の恵みを考え、神に祈り、神を敬い、悪を追求しない生活を送ることを可能にします。罪の赦しを受けることができる真理のみことばをもう一度聞いて、信じたことに満足しておられませんか。私もとても幸せです。
もし私がこの水と御霊の福音以外の何かを宣べ伝えるよう強要されるなら、私は大いに苦しむでしょう。救済のみことばではなく、何らかの人の作った教えを広めるように強制されたなら、私は逃げたいと思うでしょう。もちろん、他に話すことがないからというわけではありません。私が対処できる他の人道的な問題はたくさんありますが、こうしたことはすべて不必要であり、新しく生まれた私たちにとって腐ったパン種の教えにすぎません。
神ご自身であられるイエスが私たちをお救いくださった、この水と御霊の福音だけが、何度も何度も噛んだとしても、その甘さを放つ貴重な神のみことばなのです。みなさんにお話しできることが他にもたくさんありますが、私たちを救う水と御霊の福音について話すとき、それが一番好きです。そのとき、私は最も高揚します。この救いについて話すとき、私は一番幸せです。これは、昔の思い出を思い出し、主が私を救ってくださったことを思い出し、もう一度感謝し、救いのパンをもう一度糧とすることができるからです。
この救済のみことばを聞いたとき、みなさんもそれが一番好きだと確信しています。毎日同じ話だと文句を言うかもしれませんが、心の奥底では、「またそれを聞いたけど、以前よりもずっといい。最初は、そんなにすばらしくなかったけど、聞き続けていると、これ以上に聞く価値のある話は他にないのがわかる。今日の話は何か特別なものだろうと思っていたけれど、結末は同じだった。それでも幸せだ。」これが、みなさんの心の気持ちだと思います。
兄弟姉妹のみなさん、私がここで説いているのはイエスのみことばです。説教者はイエスのみことばを宣べ伝えなければなりません。記された水と御霊のみことばを通して、イエスがなさったことを宣べ伝えることは、神の教会がなすべきことにほかなりません。私たちは今、教会の中で信仰生活を送っています。聖所の中に入ること、金一タラントを打って造られた七本の枝を備えた燭台に火を灯すこと、純金の家でパンを食べること、香の壇で祈ること、神の神殿に行くこと、神を礼拝すること、この金の家に住むこと――これら以外は私たちの信仰生活ではありません。
みなさんと私は今、神から与えられたこの信仰生活を送っています。罪の赦しを受け、正しい信仰生活を送ることは、神の金の家の中の生活がすべてなのです。 「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Ⅱコリント 4:16)。幕屋に示された青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布への信仰を持って、私たちの魂は金に輝く神の家に住んでいます。
私たちの罪と罰とから、私たちをお救いくださったことを、神に永遠に感謝いたします。ハレルヤ!