説教集

主題 11: 幕屋

[11-21] (レビ記 16:1-34) 贖いの日のささげ物をささげた大祭司

(レビ記 16:1-34)
アロンの二人の子の死後、すなわち、彼らが主の前に近づいてそのために死んで後、主はモーセに告げられた。主はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。勝手なときに垂れ幕の内側の聖所に入って、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現われるからである。アロンは次のようにして聖所に入らなければならない。罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を携え、聖なる亜麻布の長服を着、亜麻布のももひきをはき、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶらなければならない。これらが聖なる装束であって、彼は体に水を浴び、それらを着ける。彼はまた、イスラエル人の会衆から、罪のためのいけにえとして雄やぎ二頭、全焼のいけにえとして雄羊一頭を取らなければならない。アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族ために贖いをする。二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入り口の所に立たせる。アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするためにアザゼルとして荒野に放つためである。アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。主の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持ってはいる。その香を主の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。彼は雄牛の血を取り、指で『贖いのふた』の東側にふりかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない。アロンは罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持ってはいり、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』 の上と、『贖いのふた』の前に振りかける。」 彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。彼が贖いをするために会見の天幕にはいって、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。主の前にある祭壇のところに出て行き、その贖いをする。彼はその雄牛の血と、そのやぎの血を取り、それを祭壇の回りにある角に塗る。その残りの血を、その祭壇の上に指で七たび振りかける。彼はそれをきよめ、イスラエル人の汚れからそれを聖別する。彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをその山羊の頭に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。アロンは会見の天幕にはいり、聖所にはいったときにつけていた亜麻布の装束を脱ぎ、それをそこに残しておく。彼は聖なるところでそのからだに水を浴び、自分の衣服を着て外に出て、自分の全焼のいけにえと民の全焼のいけにえとをささげ、自分のため、民のために贖いをする。すなわち、罪のためのいけにえの脂肪を祭壇の上で焼いて煙にしなければならない。アザゼルのやぎを放った者は、その衣服を洗い、そのからだに水を浴びる。そうして後に、彼は宿営にはいることができる。罪のためのいけにえの雄牛と、罪のためのいけにえのやぎで、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に持ち出し、その皮と肉と汚物を火で焼かなければならない。これを焼く者は、その衣服を洗わなければならない。そのからだに水を浴びる。こうして後に宿営にはいることができる。以下のことは、あなたがたに、永遠のおきてとなる。第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなた方の中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。なぜなら、この日に、あなたがたをきよめるために、あなたがたの贖いがなされるからである。あなたがたは、主の前でそのすべての罪からきよめられるのである。これがあなたがたの全き休みの安息であり、あなたがたは身を戒める。これは永遠のおきてである。油をそそがれ、その父に代わって祭司として仕えるために任命された祭司が、贖いをする。彼は亜麻布の装束、すなわち聖なる装束を着ける。彼は至聖所の贖いをする。また会見の天幕と祭壇の贖いをしなければならない。また彼は祭司たちと集会のすべての人々の贖いをしなければならない。以上のことは、あなたがたに永遠のおきてとなる。これは年に一度、イスラエル人のすべての罪から彼らを贖うためである。」モーセは主が命じられたとおりに行なった。
 
 
大祭司が、贖いの日にイスラエル人のためにささげ物をしました。このささげ物は、年に一度、イスラエルの暦で第七の月の十日に行なわれました。この日、大祭司アロンはイスラエル人のためにささげ物をしました。人々の不正は全部いけにえの上に移され、きよめられました。ですから、贖いの日がイスラエル人の大祭の日となりました。
他のささげ物同様、贖いの日のささげ物もまた、傷のないいけえの動物、手を置くことといけにえの動物の血を流すことという、定められた方式に則って行なわれました。そのようにしてささげられたささげ物を、神は喜び受けられました。このささげ物が他のささげ物と違っていたのは、大祭司がいけにえのささげ物の血を至聖所に持って行かなければならない点でした。
自分と家族のためのささげ物をした後で、大祭司アロンはイスラエル人のために二頭の山羊をささげました。まず、罪のためのいけにえとしてささげた雄牛と同じようにして、一頭を神であられる主にささげました。次に、二頭目の山羊をアザゼルのための山羊としてささげました。アロンは山羊の頭に両手を置いてイスラエル人の罪をその上に移しました。イスラエル人の罪を受けた山羊は、係りの者の手で荒野に放たれました。
 
 
贖いの日のささげ物はイスラエル人の罪をすべてきよめた
 
贖いの日、大祭司アロンはイスラエル人の代表として、いけにえのささげ物の上に両手を置いて人々の罪を移しました。二頭の生きた山羊を取り、くじを引きました。一頭は神のために、もう一頭はイスラエル人のためです。
ここで、手を置くということは、その頭に両手を置いて、いけにえのささげ物の上に罪をすべて移すことを意味しました。手を置くことは、神の定められた罪を洗う方法で、新約の時代にもまた、イエスが人類の罪をすべて洗い流す際に同じ手を置く方法が用いられました。大祭司自身とその家族の罪、イスラエル人の一年分の罪を贖うためには、山羊の頭に手を置いて罪を全部その上に移すことが必要でした。大祭司がこのように頭に手を置いてイスラエル人の罪をいけにえのささげ物の上に移したので、イスラエル人の一年分の罪が全部消されました。このように、贖いの日のささげ物によって、イスラエル人はすべての罪から救われたことを神に感謝できたのです。
罪をもつ者はみな、逃れようもなく罪に定められます。いけにえのささげ物が身代わりとなって人々の罪の罰を受けるには、まず人々の罪を受けなければなりませんでした。大祭司が頭に手を置くことなしに神にささげ物をささげたなら、これは神に対する冒瀆行為となりますから、そのようなことはできませんでした。罪人となった全人類をお救いになるために、神は手を置くことによって成就される救済の方法を設けられなければなりませんでした。イスラエル人の罪を消すために、神は大祭司を立てられ、大祭司が代表としていけにえのささげ物の頭に手を置くことで民の罪をただ一度で消すようになさいました。ですから、幕屋で神にささげられたいけにえの動物はみな、手を置かれてイスラエル人の罪を受け、身代わりとして罪の罰を受け、血を流して死んだのです。
神の義と愛とにかなうためには、イスラエル人は年に一度の贖いの日、大祭司がいけにえの動物の頭に手を置き、喉を切って血を流し、犠牲としてささげることが必要でした。つまり、このささげ物によって、神はイスラエル人の罪をすべてただ一度で洗い流そうとなさったのです。これは、ご自分の慈悲と正しさとの両方を満たした、神の愛の律法でした。神は正しいので、ご自分の正しい律法に従って人々の罪をただ一度で消されるために、子羊イエス・キリストをご用意なさり、手を置く儀式によってイエスが罪を被り、十字架上で血を流すようになさいました。
ご自分を永遠のいけにえとしてささげられたイエスは、この方法ですべての人の罪をただ一度で被られ、一度血を流され、そうして人類を罪からお救いになるみわざを完了なさったのです。ですから、私たちもまた、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布に表わされた救済の真理を信じる信仰によって神の前に行かなければなりません。この信仰によって、すべての罪がただ一度で赦されるのです。ですから、罪の赦しをただ一度で受けたい人は誰でも、水と御霊の福音を心から信じる信仰をもって神の前に行かなければなりません。
 
 
手を置くことの意味
 
手を置かれるということには、「渡される、移される、埋められる」という意味があります (レビ記 1:3-4)。イスラエル人の誰かが心にもなく罪を犯してそれに気づいたときには、全焼のいけにえを神にささげなければなりませんでした (レビ記 4:27-29)。まず、傷のないいけにえの動物を連れて来て、その頭に手を置いて罪を移しました。それから喉を切り、血を取って、それを祭司に渡しました (レビ記 4:27-28)。祭司は血を指につけ、全焼のいけにえの祭壇の角につけ、残りは全部祭壇の土台に注ぎました。また、脂肪は祭壇の上で焼きました。神は、こうしてささげられた脂肪の焼かれた香ばしい香りをかがれました。
イスラエル人の罪を消すために神が贖いの日のささげ物の制度を定められたことは、すでに見ました。その日には、いけにえの動物の頭に手を置き、その血を取りました。この場合もまた、いけにえのささげ物の上に手を置くことが行なわれなければ、神はイスラエル人の罪を洗い流すことがおできになりませんでした。このように、旧約でささげられた贖いの日のささげ物は、新約の時代のイエスのバプテスマと血とに密接に関連しています。
旧約のいけにえのささげ物が傷のない動物でなければならなかったように、新約の時代にもまた 、イエスが傷のない神の子羊として来られ、すべての罪人の不正を洗い流すためにバプテスマを受けられ、十字架上で血を流されました。旧約で手を置くことによっていけにえの動物が罪人の不正を受けなければならなかったように、バプテスマのヨハネがヨルダン川でイエスにバプテスマを授けるためにその頭に手を置いたときに、世の罪が全部その上に移されました (マタイ 3:15)。旧約のいけにえのささげ物と新約のイエスは同じように頭に手を置かれ、血を流して死んでいます。旧約でも新約でも、罪人の赦しのために定められた、手を置くことと血を流すことからなるささげ物は同じです。
 
 
人類の罪は必ず神の怒りを受ける
 
神の前で人間は、負った罪のために殺された罪のためのいけにえのように、自分の罪のために死ぬしかない罪人でした。このいけにえのささげ物が細かく刻まれて全焼のいけにえの祭壇の上で火で焼かれる場面を想像すると、人間もまた、このように神の前で滅ぼされる定めにあったのだということが思われます。それを、主がヨハネからバプテスマを受けられ、血を流して死なれ、救ってくださったのです。
ですから、新たに生まれていない者は、神の前でその罪のために恐ろしい罰に臨んでいる罪人であると認め、主のバプテスマと血とを救済と信じなければなりません。人類を罪からお救いになるために、神は人間を罪のために罰される代わりに、救済のささげ物を用意なさり、永遠の犠牲のささげ物の上に罪を移し、血を流させ、それによって人類の罪をすべて赦されました (レビ記 16:1-34、ローマ 8:3-4、ヘブル 10:10-12)。みなさんは、まだ心に罪がありますか? では、まず、自分が神の罰を受ける定めにある罪人であると神の前で認め、神が世界創造の前にすでに計画されていたイエス・キリストによる救済のご計画を全うなさったと信じるのです。
罪は、ふさわしい代償を支払わなければ贖うことができません。神がイスラエル人にいけにえの制度をお与えになったのは、このためです。このいけにえの制度では、手を置くことと血を流すことが伴ったささげ物だけが、イスラエル人の罪を洗い流すことのできる正しい信仰のささげ物でした。
私たちも信仰によって、聖書に記されたいけにえの制度に従い、手を置くことと流血とを含むささげ物を神にささげるのです。主が血を流されたのは、バプテスマによって人類の罪を被られ、身代わりとなって罪の罰を受けられたのであり、そうして人類の罪を消されたのです (マタイ 3:15、ヨハネ 1:29、イザヤ 53:1-7)。水と御霊のみことばを信じ、いけにえのささげ物となられた主に手を置いて罪をその上に移すと、罪を被られた主が罪の罰も身代わりとして受けられたと信じて罪の赦しを受けることができます。水と御霊の福音を信じることによって、いけにえのささげ物となられた主の上にすべての罪を移し、主とともに死に、ともに生きることができるのです (ローマ 6:1-11; ガラテヤ 3:27)。
贖いの日のささげ物から霊的に学ぶべきことは、第一に、自分の罪と罪の罰とを認識し、神の望まれる信仰のささげ物をささげなければならないということ、つまり、バプテスマと十字架上で血を流されることによって人類救済を全うなさったイエスへの信仰をもたなければならないということです。イエスのバプテスマを信じ、その頭に手を置くのです。なぜでしょうか? 信仰によっていけにえのささげ物に手を置き、血を取ってはじめて、すべての罪から救われることができるためです。
このように、神の前に罪を赦されたいと思う者は誰でもいのちを贖わなければなりません。罪から来る報酬は死だからです。豊かでも貧しくとも、罪の代償を払い、いのちを贖うためには、いけにえのささげ物をささげなければなりません。そうしなければ、誰ひとり信仰によって罪の赦しを受けることはできません。
 
 
旧約における贖いの日のささげ物
 
レビ記第 16 章 6-10 節を読みましょう。「アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入り口の所に立たせる。アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするためにアザゼルとして荒野に放つためである。」
イスラエル人が信仰によって罪の赦しを受けることができるようにするために、大祭司が人々に代わって手を置くことと血を流すことを伴うささげ物をささげました。では、今日のキリスト教徒の信仰は、どうなっているのでしょう。罪を移してもいないささげ物で罪の赦しを受けようとする、不確かで根拠に欠ける信仰ではありませんか? 手を置くことによって罪をイエス・キリストの上に移すような信仰でないのなら、その人は問題を抱えています。イエスのバプテスマと十字架上の血とを信じる信仰ではないのなら、それは真の信仰ではありません。
私たちは過去一年、神の前で律法を守ることができず、あらゆる罪を犯してきました。ですから、旧約の時代に生きていたなら、大祭司が代表してささげた罪のためのささげ物を信じて罪の赦しを受けなければならなかったでしょう。信仰のささげ物を神にささげるには、まず自分が罪のために滅びる定めにあると認め、それから、神が設けられた、いけにえのささげ物の上に罪を移した手を置くことと、そのささげ物の血を流すこととを信じなければなりません。
いけにえの動物の上に手を置くこととその血を流すこととに救済の力があったので、旧約の人々は、大祭司が神の定められたいけにえの制度に従ってささげたささげ物によって罪の赦しを受けることができました。いけにえのささげ物の上に手を置くことによって、大祭司は人々の一年の罪をその上に移し、喉を切って血を取り、その血を「贖いのふた」の前と東側に七回散らしました。大祭司はそのようにして、毎年神に正しいささげ物をささげ続けました。このようにして、当時のイスラエル人は罪の完全な赦しを受けることができたのです。
このように、イスラエル人は大祭司のささげた罪のためのいけにえによって罪がすべて赦されたと心で信じ、確認しました。旧約の贖いの日のささげ物が示していることは、新約でイエス・キリストはヨハネからバプテスマを受けられて世の罪を被られ、十字架上で血を流されたのであり、人間はこのイエス・キリストを救い主として信じて信仰によって永遠の罪の赦しを受けなければならないということです。罪のために悩み苦しんでいるこの世のすべての魂は、水と御霊の福音を信じて永遠の罪の赦しを受けることができるのです。人々はこれを心で信じなければなりません。このように、すべての罪の赦しのささげ物は神が予め定められ、全うすると約束なさいました。この救済の約束はまた、幕屋の素材として用いられた青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によっても表わされています。
 
 
幕屋で全うされた贖いの日のささげ物
 
贖いの日、イスラエル人の一年の罪を処分するために、大祭司はイスラエル人全員が見守る前で両手をいけにえのささげ物の頭に置きました (レビ記 16:1-23)。人々を代表して頭に手を置いていけにえのささげ物の上に罪を移すことは絶対に必要なことでした。贖いの日に幕屋の中で大祭司アロンがイスラエル人のためにささげ物をささげる時には、他には誰ひとり幕屋に入ることができませんでした。贖いの日以外には、大勢の祭司が幕屋の庭にいたのですから、これは特別な行事でした。
大祭司は頭に手を置いていけにえのささげ物の上にイスラエル人の罪を移し、この犠牲の血を至聖所に持って入り、指で「贖いのふた」の東側と「贖いのふた」の前に七回散らしました (レビ記 16:14)。
このとき、血を「贖いのふた」の前と東側に散らすたびに大祭司の服の縁についた金の鈴が鳴ったので、幕屋の外に立っていたイスラエル人には鈴の音が聞えました。イスラエル人はこの鈴の音を聞いて、大祭司が自分たちのために神にささげ物をささげているのだとわかりました。鈴の音が七回鳴り終えると、安堵の息をつきました。贖いの日のささげ物が終了し、一年分の罪を赦すためのささげ物の儀式が完了したのです。
この後で、大祭司アロンは幕屋から出て、残ったもう一頭の山羊を贖いの日のささげ物とし、イスラエル人の見ている前でささげました。神はイスラエル人に、贖いの日には仕事をしてはならないとお命じになりました (レビ記 16:20-21、29)。イスラエル人の大群集がこのささげ物を見に幕屋の外に集まっている前で、大祭司は両手をいけにえの山羊の頭に置いて職務を果たし、係りの者に山羊を荒野に放たせました。
贖いの日、大祭司は山羊をイスラエル人の前に連れて行き、両手を山羊の頭に置き、イスラエル人の咎とそむきとをすべて告白してその上に移しました。「主よ、イスラエル人が過去一年に犯した罪をすべて告白します。私たちは、すべての律法を完全に守ることができませんでした。私たちは、主とお互いに対して無数の罪を犯しました。お命じになったとおりに生きることができず、するなとおっしゃっとことをしてしまいました。過去一年に実にたくさんの戒めを破ってしまいました。嘘をつきました。人を殺しました。姦淫しました。盗みをしました。」このように、大祭司は人々の前でいけにえの山羊の頭に手を置いてイスラエル人の罪を全部いけにえの山羊の上に移し、それから係りの者の手で荒野に放たせました。
罪から来る報酬は死ですから、イスラエル人の罪を負った山羊を神は生かしたおくわけにはいきませんでした。荒野に放されたいけにえの山羊は、イスラエル人の咎と汚点とそむきとを負ったために、苦しんで死ななければなりませんでした。さて、イスラエル人は、贖いの日のささげ物によって自分たちを縛っていた過去一年の罪を処分したので、みな主の仮庵の祭りを祝い始めました (レビ記 23:34)。
手を置くということは、それによって民全員の罪がいけにえのささげ物の上に移されたことです。大祭司がいけにえの動物の上に手を置くと、一年に積もったイスラエル人の罪がみな、ただ一度で移されました。大祭司が手を置くことによって、イスラエル人一人一人の罪が一つ残らず、ただ一度でいけにえのささげ物の上に移されたのです。
旧約で大祭司が手を置くことによってイスラエル人の不正が移されたように、現代人の罪もまた、いけにえのささげ物の上に移されるものでしょうか? もしそれができないのなら、現代の人間が罪の赦しを受ける道はどこにあるのでしょう? 誰が、どのように、誰によって、今の人の罪を移すのでしょう。旧約の時代に神が定められたのいけにえ制度に従って、新約の時代、イエス・キリストがバプテスマのヨハネからバプテスマを授けられて世の罪を負われました。大祭司がイスラエル人を代表してささげた贖いの日のささげ物で一年分の罪がいけにえの山羊の上にただ一度で移されたように、人間の罪は、最後の大祭司バプテスマのヨハネからバプテスマを授けられたイエス・キリストの上に移されたのです。では、今日の人間の罪はみな、どこにあるのでしょう? 今はイエス・キリストの頭の上にあります。
大祭司に手を置かれて、贖罪の山羊がイスラエル人の罪をすべて負ったように、イエスはこの時代に生きているすべての人間の永遠の罪の赦しのいけにえのささげ物となられました。人類の贖罪の山羊となられたイエスは、ご自分を人類の罪のためのいけにえのささげ物として神にささげられました。つまり、旧約で神がイスラエル人のためにいけにえのささげ物を定められ、罪をいけにえの動物の上に移して身代わりとして罰されたように、イエスはヨハネからバプテスマを授けられ、身をささげて十字架につけられたのです。
荒野に放たれた贖罪の山羊は生きることができません。水のない、砂ばかりの砂漠には、焼けるような陽光しかないのですから。同様に、イエスもまた十字架につけられるしかなかったのです。イエスはすでにバプテスマによって人類の世の罪を負っておられたためです。贖罪の山羊が生きるもののない荒野に放たれたように、世の罪を被られたイエスもまた、大勢の人々から憎まれ、嫌われました。贖罪の山羊が荒涼とした生きるものとてない荒野に連れて行かれて放されると、山羊はさ迷い歩き、ついには渇きから死んでしまったのではありませんか。
同様に、人類の罪を負われたイエスもまた大勢の人々から拒まれ、人類の罪の罰として十字架につけられ、血を流され、死なれなければならなかったのです。これが、人類に水と御霊の福音という真の救済をくださるためにイエス・キリストが全うなさった救済です。
イスラエル人は、罪の赦しの贖いの過程をその目で見て、心で信じました。彼らと同じように、私たちもまた、イエス・キリストの正しいみわざを見、聞き、心で信じることによって心に罪の赦しを受けることができます。このことから、イエス・キリストはヨハネからバプテスマを受けられ、世の罪を運ばれ、十字架につけられ、血を流され、死なれ、死者の中からよみがえられ、人間はこれらをすべて霊的な目で見、心で信じて救われることがわかります。
この贖いの日のささげ物は、イスラエル人が存在する限り続きます。彼らはいまだにユダヤ暦の第七の月の十日にささげ物をささげます。神が「以上のことは、あなたがたに永遠のおきてとなる。これは年に一度、イスラエル人のすべての罪から彼らを贖うためである。」(レビ記 16:34) とおっしゃったためです。イスラエル人にこのように贖いの日のささげ物をささげさせることによって、神は彼らの罪が洗い流されて罪の罰から救われるように慈悲をかけられたのです。
ちょうどこのように、神は今日の人間もまた、イエスがヨハネからバプテスマを授けられて世の罪を全部負われ、十字架につけられ、完全に永遠に罪をきよめられることを知ることができるようになさったのです。イエス・キリストはバプテスマによって人類の罪を負われ、永遠の天の大祭司となられました。今、自身の救済のためにするべきことは、この真理を信じること以外、何もありません。
 
 
救世主が犠牲となって父なる神にささげられた贖いのささげ物
 
なぜ神は、贖いの日のささげ物をささげるようにイスラエル人にお命じになったのでしょう? 人々が信仰をもって、父なる神がすべての人類の罪のためにバプテスマと流血とによって御子イエス・キリストに罪の贖いをおさせになる日を待つようになさるためです。父なる神のひとり子イエス・キリスト、人類の救い主がすべての人の罪を消されるためにこの世に来られ、神の愛によってすべてを全うなさり、救済を人類に明かされたのは、このためです。人類の罪をすべて被られるためにヨハネからバプテスマを受けられ、十字架上で血を流され、イエスは世のすべての罪と不正とを消され、人類の罪の罰を受けられ、そうして真の救い主となられたのです。
神はまずモーセを召されて律法をお与えになりました。次に青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布といった素材で幕屋を建てるようお命じになり、いけにえの制度を定められました。そうなさることで神は、イスラエル人が手を置くことと流血の重要さを知ることができるようになさり、幕屋で予言された救済の門であるイエス・キリストがこの世に来られ、バプテスマを受けられて世の罪を被られ、十字架につけられて血を流されることを示されました。神がお与えくださった、罪を洗う救済は、幕屋の入り口に用いられた素材に明確に示されています。
幕屋の入り口に用いられた素材のうち、青い糸の示す意味は、ヨハネからバプテスマを授けられることでイエスが世の罪をただ一度で被られるということを表わしています。紫の糸は、イエスが王の王、主の主であられることを表わしています。イエスは宇宙を創られたのですから。緋の糸は、イエスがバプテスマを受けられたために十字架上で血を流され、すべての罪人の罪の罰を受けられたことを表わしています。また、撚り糸で織った亜麻布は、聖書が青色・紫色・緋色の撚り糸として表わされた三つのみわざについて具体的に述べていること、みことばを信じる者に神が罪の赦しをお与えになることを告げています。
さて、よろしいですか、この真理、すなわちイエス・キリストが救い主であられ、ヨハネからバプテスマを受けられて十字架上で血を流されて罪をすべて洗い流してくださったというこの真理はまた、幕屋の素材として用いられた青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布という形で表わされているということを再度確認して、罪の赦しを受けるのです。モーセを通して、神は救済の律法、人類の罪の赦しの律法を定められました。そして時が来ると、イエス・キリストをこの世に遣わされ、ヨハネからバプテスマを受けて十字架上で血を流すようになさいました。それによって、イエスが世の罪を洗い流すいけにえのささげ物となられるようにするためです。そして、そうなさることによって神は、信じる者がみな、信仰によってその罪を一度で洗い流されるようになさいました。
ですから、イエス・キリストを救い主と信じると言うとき、イエスが受けられたバプテスマと十字架上で血を流されたこととを知り、信じていなければなりません。旧約のいけにえのささげ物が手を置かれて罪人の咎を負わされ、身代わりとして罰されて血を流したように、イエス・キリストはこの地上で生きるすべての者の罪のためのいけにえのささげ物として来られ、バプテスマを授けられて世の罪を被られ、十字架につけられて尊い血を流され、それによって、信じる者の罪をただ一度で消されたのです。
記されたみことばの真理は、ありのままに信じましょう。聖書に記された真理は、旧約で大祭司が人々のためにささげ物をささげたのと同じ方法で人類を世の罪のすべてからただ一度でお救いになるためにイエスがこの世に来られ、バプテスマを受けられ、十字架につけられ、血を流されたというものです。ですから、聖書は記されているとおりに信じるのです。人間は罪のために永遠に滅ぼされることを免れなかったのですが、イエス・キリストがこの世に来られ、バプテスマと血とによってすべての罪から救ってくださったのです。
神がこのようにすべての罪を赦してくださっているのに、それを信じないことは、神がけっしてお赦しにならない罪です。主は、唯一「聖霊をけがす罪」を除いて、世の罪をすべて消されました (マルコ 3:28-29)。ですから、心から罪の赦しを受けたいと思う人は、イエス・キリストがバプテスマを受けられ、血を流され、死者の中からよみがえられ、そうして人類を世の罪のすべてから救われたという真理を信じるのです。そのような信仰以外、罪の赦しのためにどんな良い行ないが必要でしょう? 水と御霊の福音の真理が何かを知り、信じる時がきたのです。
青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作られた幕屋の入り口が体現している真理は真の救済の福音であり、やがて来るイエス・キリストの影であることを、誰もが知り信じなければなりません。イエス・キリストを信じることに関しては、イエスが受けられたバプテスマと十字架上で流された血とが救済に不可欠なのですから、それを信じるのです。議論の余地がなく、反駁を赦さない真理は、バプテスマと十字架上で流された血、よみがえり、それにこれらすべては人類を世の罪から救うために行なわれたのだということを信じる者にイエスが救済をお与えになるということです。
 
 
父なる神の求められた御子の犠牲
 
ヘブル人への手紙第 10 章 5-9 節を読みましょう。「ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。『あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。《さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみ心を行なうために。》』 すなわち、初めには、『あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ (すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物) を望まず、またそれらで満足されませんでした。』と言い、また、『さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。』と言われたのです。後者が立てられるために前者が廃止されるのです。」
神がいけにえやささげ物を望まれなかったというのは、どういうことでしょうか。
この部分は、詩篇第 40 章 6-7 節からの引用です。これは、旧約の毎日のささげ物によっては世の罪をすべて完全に消すことができないのであり、そこで、永遠の罪のためのいけにえをささげるためにイエス・キリストがこの世に来られ、バプテスマを受けられ、血を流され、死者の中からよみがえられ、そうして人類全員の救い主となられたいうことを意味しています。詩篇第 40 章 7 節に「そのとき私は申しました。『今、私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります』」とあるのは、イエス・キリストがこの世に来られ、旧約に記されているとおり、手を置くことと流血とによってすべての罪を洗い流されたことを意味しています。
旧約の時代、イスラエル人の罪は、贖いの日に大祭司が手を置いて血を流すという形でいけにえの動物が神にささげられて、赦されました。同様に、人類全員のために永遠のいけにえのささげ物となられるためにこの世に来られたイエス・キリストは、手を置く形のバプテスマを受けられて人類全員の世の罪を被られ、世の罪を十字架まで運ばれ、磔刑に処され、尊い血を流して死なれ、全人類の罪の罰を受けられました。そうなさることによって、イエスは信じる者すべてに永遠の救済をお与えになりました。
神が幕屋の制度で約束なさった通り、新約でイエスがこの世に来られ、そうして救済をただ一度で全うなさったのです。ですから、信じる者はすべての罪から救われています。幕屋には、イエスががバプテスマを受けられ、血を流されてただ一度ですべての人の罪を消し去られるという、神の約束が示されていました。イエスはほんとうに来られ、バプテスマを受けられ、血を流されて、約束された救済を成就なさり、神のみことばを全うされたのです つまり、神の救済の約束はみな、確かにイエス・キリストにあって全うされたのです。
イスラエル人は、旧約の律法と預言者の言葉とが神のみことばであると信じました。しかし、彼らは新約の時代、イエス・キリストを神または救い主と信じることができませんでした。この世の人はみな、イスラエル人をも含め、イエス・キリストが神そのものであられると知り、やがて来る救世主であったのだということを心に受け入れなければなりません。
 
 
イエスは何のために来られたか
 
イエスは父なる神のみこころを全うなさるために来られたのですから、信じる者すべての救い主です。そして、永遠に彼らの罪を洗い流されるためにこの世に来られたのです。ヘブル人への手紙第 10 章 10 節に、「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです」とあります。イエス・キリストがこの世に生まれたのは、父なる神のみこころによるのだということを明確に知り、信じなければなりません。イエスは父なる神のみこころに従ってバプテスマを受けられ、みこころに従って十字架につけられ、十字架上で血を流して死なれ、死者の中からよみがえられ、そうして信じる者すべての救い主となられたのです。父なる神のみこころに従って人類の罪をすべて消されるためにイエス・キリストは、受けられたバプテスマと血を流されることとによって人類の罪をすべて消され、人類救済を成就なさらなければなりませんでした。ですから、イエスはすすんで犠牲となられ、完全な救済をお与えくださったのです。
イエス・キリストがイスラエル人の罪ばかりではなく人類全体の罪を消されるために犠牲になられたので、各自がこれを心で信じれば救われることができるのです。三十三年間の生涯でイエスはただ一度バプテスマを受けら、ただ一度犠牲となられ、それによって世の罪人をただ一度で救われました。これが唯一の完全な救済です。
人類が世の初めから終わりまでに犯す罪をただ一度ですべて消されたように、イエスはまた、人が信仰によってただ一度で救われることができるようになさいました。ご自分の身をただ一度ささげられることによって、イエス・キリストは人類を永遠に完全にしてくださいました。イエスはヨハネからバプテスマを授けられ、血を流されて人類の罪の罰を受けられたので、人間はこの福音を喜んで心で信じ、そうしてすべての罪から救われるのです。父なる神のみこころに従って、人類の罪をすべて負っていのちを贖われるためにイエス・キリストはこの世に来られ、父なる神のみこころに従って、神の愛による真の救済を明かされたのです。
このみことばは、今この世に生きているみなさんや私が信じるべき真理なのです。イエスのバプテスマと十字架上の血とを結びつけ、人間を完全に救う単一の真理として信じるのです。そうしなければ、永遠の罪の赦しを失います。ですから、記されたみことばに従い、水と御霊の福音の真理にしたがって信じるのです。水と御霊の福音は救済の光を投げかけますが、神を信じる際に何か加えたり真の福音から何かしら重要なものを差し引いたりするのなら、真理をありのままに信じないのなら、この救済の福音の光は失われ、隠れ、消えてしまいます。
悔い改めの祈りによって毎日神に罪の赦しを求めれば何とか罪の赦しを受けられると教えているかのように、水と御霊の福音の真理もまた単なる世俗的な教義の一つに過ぎないという思い違いをしてはなりません。ヘブル人への手紙第 10 章 11 節で神は、「また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません」とはっきりおっしゃっています。つまり神は、人間が毎日犯す罪は、十字架への信仰をもってただ神に日々の罪をお赦しくださいと頼んでも洗い流されることはないとおっしゃっているのです。
イエス・キリストがヨハネからバプテスマを受けられ、十字架上で死なれて父なる神にささげたいけにえのささげ物は完全な救済のささげ物であったのですから、このささげ物を信じることによって、聖徒は完全に救われているのです。ヨハネからバプテスマを授けられたときに世の罪がイエス・キリストの上に移されました。それで、イエスは人類の罪を十字架に運ばれ、そこで死なれて罪の罰を終わらせることがおできになったのです。そして、このために、イエスのバプテスマと流血とを信じる者の罪が洗い流されているのです。
イエス・キリストが受けられたバプテスマと十字架とを信じて、聖徒もまた信仰によってイエス・キリストとともに死に、ともによみがえったのです。ローマ人への手紙第 6 章 23 節には、「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」とあります。どんなものであれ、罪から来る報酬は死です。ですから、罪にはいのちをもって支払わなければなりません。イエス・キリストが受肉してこの世に来られ、ヨハネからバプテスマを授けられて十字架上で血を流されなければならなかったのは、このためです。人間の罪を実際にイエスの上に移すことは、バプテスマによって行なわれました。そうした罪を負われて死なれることによって、イエスは人間の罪を贖われ、すべての罪をただ一度で消されたのです。それなのに、神がこの福音の真理をくださったというのに、毎日犯す罪を赦してくれるよう神に願っている人々がまだ大勢いるのです。そうした人々は、水と御霊の福音の真理を知らないだけなのです。
人間が心に罪をもっていると、罪のために神の前で恐れずにはいられません。いまだ水と御霊の福音のことを知らず、罪を洗われておらず、良心の罪のために恐怖にとらわれている人々が、実際大勢いるのです。しかしながら、人々をすべての罪からお救いになるためにイエスがこの世に来られ、ヨハネからバプテスマを受けられ、十字架上で血を流され、完全にお救いくださっているのです。では、一体何を心配するというのでしょう。水と御霊の福音、神の救済の福音が完全に人間を救い、罪の罰を処理しているというのに。
イエスが水と御霊の福音によって人類の罪のすべてを消されたと知り、ほんとうに信じている者は、神が「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」(イザヤ 1:18) と約束なさったように、実際に信仰によって救われることができるのです。手を置くことによってすべての罪がいけにえのささげ物の上に移された、旧約で定められた神の律法に従ってイエスがバプテスマを受けられ、世の罪を負われたのですから、人はみな信仰によって救われることができます。イエスはヨハネからバプテスマを授けられて世の罪を被られたために、十字架上で死なれることが可能だったのであり、旧約で神が語られた救済が全うされたために、人間は信仰のみによってすべての罪から救われることができるのです。
この誤りのない真理がありながら、感情移入の練習であるかのようにイエスを信じている人々がまだ見られます。その人たちは、信仰の基盤がイエスが十字架上で受けられた恐ろしい苦しみへの感情移入であるために、信仰を強化しようとして毎日泣き、涙を流します。そうした人の心は全く誤っているのですから、そのような誤った信仰は捨てなければなりません。
救い主イエスのバプテスマと血とが必要なのは、みなさんや私です。イエスが同情や献身を必要とするのではありません。単純な事実は、救い主イエス・キリストが絶対に必要なのは人間のほうなのです。それなのに、特にこれといった理由もなく神を信じる大勢の人々が、何かを必要としているのは神なのだと信じています。まるで神が自分を信じてくれと頼んででもいるかのように。しかし、そのような恩着せがましい信仰は、神の憎まれるものです。
恩着せがましく、まるで好意を示しているかのようにイエスに向かって信じようと言う人々の心は、神よりも高い位置からそうしているのです。ですから、そのような高慢さではけっして人間を罪から完全に救う水と御霊の福音を心に受けることができません。神のみことばにほとんど注意を向けていないので、自分のまわりの他の人たちの言うこととほとんど違わないと思い、信じることが同情から神のために何かしてやっているのであるかのように嘲り、恩着せがましくします。
結局、そうした人々はイエスのバプテスマと流血とを自身の罪の赦しのためであるとは考えず、神に敵対しているのです。その人たちは、水と御霊の福音を信じもしないで、自分の罪は苦しい悔い改めの祈りによって洗い流すことができると考えます。神の名を空しく呼ぶために、その人たちは救い主イエス・キリストが完全に罪を消してくださったことを知りも信じもせず、そのため、救われることがないのです。
神は、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」(ローマ 9:15) とおっしゃいました。神が慈悲から救済の律法によって罪人をお救いになろうとお決めになったのなら、決められたとおりに実行なさいます。ですから、水と御霊の福音を信じて真の救済を受けるのです。
この水と御霊の福音のみことばを信じない者は、神の厳しさと怒りがどのように激しいかを身をもって知ることになるでしょう。それに対して、水と御霊の福音を信じる者は、神の愛がいかに大きく慈悲深いかを知るのです。神の前に自身の罪を認め、水と御霊の福音、神の完全な救済の福音を知り信じる者は誰でも、すべての罪から救われます。
イエス・キリストがバプテスマを授けられて人類の罪をすべて負われたと信じる者は、すべての罪から救われます。それに対して、この真理をさげすむ者は、罪のために恐ろしい罰に臨むことになります。ですから、この世の人はみな水と御霊の福音、まことの真理を信じなければなりません。神の裁きを恐れず、水と御霊の福音を信じない罪人は、必ず罪のために滅ぼされます。しかし、イエスが罪を洗い流してくださったという真理を信じる者は、すべての罪から救われます。
良心に罪がある者はみな不安です。そこで、不安な心をなだめようと、水と御霊の福音とはまったく異なった、根拠のない救済の教義を作り上げます。「私はイエスを信じているのだから、心に罪があってもいいのです」と言う人々さえいます。しかし、忘れてはならないことは、心に罪がある者はみな地獄の罰に臨むことになるということです。神はそのような人々に必ず罪の裁きを下されるからです。そうした人々はサタンの側にいるのですから、神は見過ごしなされません。
しかし、神の裁きを知る者は、神が罪を裁かれると知って、慈悲深い愛を乞い、すべての罪から救われたいと思い、真理を求め、神の側に立ちたいと願います。そのような人々には、イエス・キリストがバプテスマを授けられて人類の罪をすべて被られたという真理があります。罪人はみな、これを信じて罪の赦しを受けるのです。バプテスマによって、イエス・キリストは全世界の罪をただ一度で受けられ、十字架上で一度死なれ、それによってすべての罪を消し去られ、人間を義人となさいました。
水と御霊の福音のみことばによって、人間はみな神の救済とは何であるかを知り、この真理を心から信じる信仰をもたなければなりません。この真理を心で信じる者はみな、どんな罪を犯そうと必ず信仰によってすべての罪を洗われ、神から罪の赦しと永遠のいのちを受けるのです。みなさんは、この福音のみことばを信じ、水と御霊の福音、心の罪を全部消す福音を信仰したいと思いませんか? 神の前で水と御霊の福音を信じる者は、必ず罪の赦しを受けます。
 
 
悔い改めの祈りでは救われない
 
今日、イエスを信じるという人の多くが、毎日悔い改めの祈りをささげ、神に罪の赦しを求めています。そうした人々は、旧約の時代のように、毎日いけにえのささげ物を神にささげながら生きています。しかし、これは望ましい信仰生活ではありません。イエスは、人が悔い改めの祈りをささげるたびに、その人の罪を洗い流すために十字架上で血を流されるのですか? そうではありません。そうではなくて、イエス・キリストのバプテスマと流血の力は永遠に続くのだと信じて、ただ一度で罪を洗い流すのです。毎日悔い改めの祈りをささげて罪を洗い流してもらおうとする人々は、永遠の罪の赦しを受けることができませんし、真の救済を受けることのできる信仰ももっていません。
すべての人の罪がそのような悔い改めの祈りや人間の考えた儀式によって赦されるのなら、神は罪から来る報酬は死であると定めた律法をお作りにならなかったでしょう。罪を赦されるためには、信仰によって実際に罪をイエスの上に移すささげ物をささげなければなりません。もつべきものは、悔い改めの祈りをささげるような信仰ではなくて、幕屋の入口に用いられた青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の体現した、水と血の福音を信じる信仰です。つまり、よろしいですか、水と御霊の福音を信じる信仰だけが真に罪を洗うことを可能にするのです。これを心で信じるのです。
旧約の罪人が罪のためのいけにえをささげる際に頭に両手を置いて自分の罪をいけにえの動物の上に移したように、私たちはイエスのバプテスマを信じて罪をイエス・キリストの上に移さなければなりません。イエスのバプテスマと十字架上での流血とを信じる信仰によって、人は神のもとに行き、永遠の罪の赦しを受けることができるのです。神は、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ10:10)、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ 10:17) とおっしゃっています。
ヨハネの福音書第 1 章 29 節には、「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』」ここは、バプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授けた翌日したあかしを描いています。イエスがやって来るのを見たバプテスマのヨハネは、言いました。「ご覧なさい。あの方がいらっしゃる。」ヨハネの周りに集まっていた人々の間にざわめきが起こりました。ヨハネは叫びます。「見なさい。神の子羊ですよ。あの方こそ神の御子、人類の罪を負われた神の子羊なのです。あの方が救い主です。イエス・キリスト、神の子羊です。見なさい。世の罪を取り除く神の子羊を。」バプテスマのヨハネはイエス・キリストにバプテスマを授けて世の罪をその上に移していたために、イエスについてあかしすることができたのです。つまり、ヨハネがバプテスマを授けて人類の罪をイエスの上に移したので、イエス・キリストは父なる神のみこころに従って、人類の罪を被ったいけにえの子羊となられたのです。
旧約では、神にいけにえのささげ物をささげて罪の赦しを受けました。しかし、新約では、イエスのバプテスマと十字架上の血とを完全に信じる信仰だけで罪の赦しを受けることができるのです。神は雄牛・子羊・山羊といった家畜をイスラエル人の罪を消すいけにえのささげ物として受けられたので、無数の動物が血を流し、切り刻まれ、全焼のいけにえの祭壇で焼かれました。実際、無数のいけにえの動物が人々の罪のために殺されたのです。
しかし、新約の時代、イエスはそのような動物のいけにえをささげられず、ご自分の体を人類のためのいけにえとなさいました。神の子羊イエスはこの世に来られ、バプテスマによって世の罪を受けられ、十字架上で血を流されて、これを信じる者がただ一度で罪から救われるようになさったのです。イエスが来られたのは、水と血と御霊によって人類の罪を永遠に終わらせるためでした。
神は今、みなさんや私にこの真の救済の真理を信じよと命じておられます。神はおっしゃいます。「あなたたちを愛しているから、罪をすべて消しました。このようにあなたたちを救いました。だから、信じなさい。息子をあなたたちの罪のためのいけにえとして与えて、あなたたちの罪を消しました。息子にこの世で三十三年間生きさせ、バプテスマを受けさせ、あなたたちのために十字架上で血を流させました。そして、そうすることによって、罪と罰とから完全に救ったのです。この真理を信じることによって、わたしの腕に抱かれ、わたしの愛する子どもとなることができるのです。」これを知り、心で信じなさい。イエス・キリストのバプテスマと流した血とを信じる者は、すべての罪から救われるばかりではなく、神の子どもとなる権利を受けるのです
 
 
イエスはほんとうにこの世の罪のすべてを赦されたか
 
ヘブル人への手紙第 10 章 14-18 節を読みましょう。「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。聖霊も私たちに次のように言ってあかしされます。『それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。』またこう言われます。『わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。』」
ここは、「これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用」であることを明確にしています。すばらしい知らせではありませんか。人間の罪はみな、イエスが受けられたバプテスマによってその上に移されたのです。みなさんや私が生涯に犯す罪が全部イエスの上に移されたばかりではなく、全人類の罪もまた移されたのです。神の義をすべて満たすために、イエスは手を置く儀式を受けられました。バプテスマを授けられて水に入って上がられ、それによってすべての罪がご自分の上に移されるようになさいました。
さらに、すべての罪を負われ、十字架につけられて人類の罪全部の罰を受けられました。そのおかげで今、信じる者は罪の裁きから救われているのです。大祭司がいけにえの動物の頭に手を置いてイスラエル人の罪をその上に移したしたように、バプテスマのヨハネはバプテスマを授けて人類の罪をすべてイエスの上に移しました。そして、イエスの方は、そうして負われた罪を被られ、十字架につけられ、信じる者みなを罪から救われたのです。ですから、これを信じる者は神の子どもとなる権利を受けるのです。
ローマ人への手紙第 10 章 10 節には、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とあります。神の義を心で信じることによってすべての人が義とされ、救済の真理を心で信じることによって、罪の赦しを受けて天国に入ることができるのです。みなさん、みなさんは、イエスのバプテスマと血とが「神の義」、「救済の真理」、「罪の赦しの福音」を構成する重要な要素であると心で信じ、口で告白して救われていますか?旧約のいけにえの制度では、罪をささげものの上に移すために手を置くことなしにいけにえの動物を殺すことによっては、イスラエル人の罪は消されませんでした。同様に、十字架の血だけを信じてイエスが受けられたバプテスマを除外するのなら、罪をすべて洗い流すことはできません。
「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。」(ヘブル 10:17-18) なぜ神はここで、もはや人類の罪を思い出すことはしないとおっしゃったのでしょう? 人間は死ぬまで罪を犯し続けるしかないのですが、イエスがバプテスマを受けられて世の罪をただ一度で負われたために、人類救済が成就され、永遠に続くのです。そして、これを信じる者には、もう罪がありません。神が人間の罪を思い出される必要がないのは、このためです。
神の義とは、正義を意味します。神の義は、神が聖い方であられるように、水と御霊の福音を信じる者もまた聖く罪がないと定めています。そもそもの初めから、神は人類を愛され、ご自分の子どもになさりたいとお思いでした。しかし、どんなに子どもにしたくとも、人間には罪があったために、そうすることはできないのでした。そこで父なる神は、この問題を解決する方法を思いつかれました。
神が人間の身代わりの犠牲となる傷のないささげ物を用意なさり、罪をすべてそのいけにえのささげものの上に移して人類の罪を洗い流そうとお決めになったので、イエスはバプテスマを受けられ、人類のいけにえのささげ物となられ、身代わりとなって罰を受けられ、そうして永遠の罪のためのささげ物をささげることをためらわれませんでした。そして、この罪のためのささげ物によって神は、信じる者の罪をきよめ、子どもとなさるというみこころを成就なさったのです。今、この真理の福音を信じる者は、神の前ですべての罪を赦されています。イエスがバプテスマを受けられてすでに世の罪を全部洗い流されているのですから、身代わりとなって罰を受けられて人類の罪をきよめられたイエスを人間が信じるなら、もはや罪のためのいけにえをささげる必要はないのです。みなさん、私たちはまだ罪のためにいけにえをささげなければなりませんか? いいえ、まったく必要ありません。
イエス・キリストには罪のけがれがなかったのに、なぜ十字架につけられたか、おわかりですか? イエスは十字架につけられましたが、実際には、悪いことは何もなさっていません。イエスはヨルダン川でバプテスマを受けられて人類の罪をすべて負われたために、身代わりとして死なれなければならなかったのです。イエスが十字架上で死なれなければならなかったのは、すでにバプテスマの際に移された世の罪を被られ、すべての正しいことを実行なさる用意ができていためです。
神の御子がこのようにしてすべての正しいことを実行なさるためにバプテスマを受けられたというのに、どうして感謝せずにいられるでしょう。イエスは人類の罪を負われていたために、毛刈り人の前の羊のように黙って十字架の苦しみを受けられたのです。人間はみなイエスのバプテスマと十字架とを永遠に覚えておかなければなりません。イエスが十字架につけられて罰されなければ、人間が必ず罰を受けなければならなかったのですから。
主は人類の罪をすべて被られたばかりではなく、罪の罰をも全部受けられました。言葉を変えて言えば、人類の罪を被られた救い主であられるイエスは、人類を罪から救い、神のみこころを満たされるために、人類の罪のためのいけにえとなられ、黙って十字架の罰を受けられたのです。聖書に「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです」(ヘブル 10:18-19) とあるのは、このためです。
イエス・キリストがなぜ十字架につけられたか、わかりましたか? イエスの十字架だけを信じてはいけません。イエスがなぜ十字架上で死なれなければならなかったのかを把握し、その理由がイエスの受けられたバプテスマの中にあることを正しく理解し、信じるのです。自分たちの罪がどこでどのように洗い流されたのかを知り、信じたいのなら、それは、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを授けられた時に罪がイエスの上に移されたために、聖徒は信仰によって罪を洗われているのだと知り、信じるのです。
 
 
水と御霊の福音の真理を知り信じてすべての罪から救われる
 
ここまでお話ししてきたことは、聖書が詳細に語っている水と御霊の福音の真理です。これは宇宙創造以前にすでに計画されていた救済であり、この救済はまた、幕屋の入口に用いられた素材、青色・紫色・緋色の撚り糸という形で表わされているのです。仲間の働き手とともに、私はこの青色・紫色・緋色の撚り糸が体現している真理を世の無数の人々に説いてきました。そして今も、たった今も、この福音は宣教会の本によって全世界に広まりつつあります。
それでも、水と御霊の福音について何も知らないのにイエスを信じると言う人々が大勢います。言わせていただけば、そうした人々は愚か者です。この水と御霊の福音は、イエス・キリストが成就なさった真のいけにえの制度、幕屋に表わされていた救済の影の実体であるものについて告げている核心的な真理です。今度は、みなさんの番です。ほんとうの真理を知ることなく信じていたのなら、今こそ回心し、水と御霊の福音を信じ、罪の赦しを受けるのです。
イエスのバプテスマと十字架上の死とは、世界創造以前にすでに約束されていたのであり、それは、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布という形でも表わされていたのです。この約束を全うなさり、みなさんや私を実際に罪から救われるために、イエスはバプテスマを受けられ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、今は父なる神の右手の座に着いておいでです。
みなさんは、まだこの真理を知らずに自分の経験や感情に基づいてイエスを信じるつもりですか? 世の中にはそういう人が大勢います。しかし、その人たちは誤った信仰を改め、幕屋の入口の青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布に隠された水と御霊の福音の真理を心から信じるべきなのです。
ヘブル人への手紙第 10 章 19-20 節には、「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです」とあります。バプテスマを授けられて世の罪を被られたイエス・キリストが十字架につけられた時、神殿の垂れ幕が裂け、人類の罪がイエスのバプテスマと十字架上の血とによって洗い流されたのです。青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作られた神殿の垂れ幕はとても丈夫だったので、四隅を馬で引かれても裂くことができませんでした。
神殿のその丈夫な垂れ幕が、誰も触らないのに上から下まで裂けたことは、イエス・キリストが使命を果たされたその瞬間に天国の門が開かれたことを示しているのです。神殿の垂れ幕が上から下まで裂けたことは、罪の壁がすべて崩れたということ、神イエス・キリストが罪の壁を崩されたことを示しているのです。
では、罪の壁が崩されたというのは、どういうことでしょう? これは、イエス・キリストが受けられたバプテスマと十字架上の血とを信じて、誰もが罪の赦しを受けることができるということです。神が幕屋の入口によって表わそうとなさったことは、人類の救済は、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって示されたイエスのみわざによって、ただ一度で成就されたということです。神がすべての人類に約束なさった永遠の贖いが成就されたために、至聖所の青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の垂れ幕が、人間の手によってではなく、神ご自身の手で上から下まで真っ二つに裂かれたのです。
このことから、人類の罪のための永遠のいけにえとなられたイエス・キリストが、水と御霊の福音を信じる者を完全に救われたことがわかります。父なる神は、イエス・キリストが受けられたバプテスマと十字架上の血とを信じる者は誰でも罪の赦しを受け、神の前に立つことができると定められました。この真理を信じますか、どうですか?
神がみなさんを愛されたように、神の御子イエス・キリストもみなさんを愛され、ヨハネからバプテスマを受けられ、十字架につけられて完全な救済をくださいました。イエス・キリストによって与えられた神のこの愛を受け、人間が神の御国に入ることを可能にする真理を信じることによって、罪はみな消えたのです。水と御霊の福音を信じて、実際に犯す罪までも処理されました。人間の罪と罰とはすでにイエスのバプテスマと十字架上の血とによって洗い流されているためです。
ヘブル人への手紙第 10 章 22 節には、「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、体をきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」とあります。聖書は、罪を洗うことについて語り続けます。イエス・キリストがバプテスマによって人類の罪をすべて洗い流されたという真理を信じて、人は肉と心で犯す罪のすべてから救われます。
大祭司がささげ物をした後で青銅の洗盤で汚れを洗い流したように、私たちもまた、イエスのバプテスマを信じてすべての罪を洗い流した後でこの信仰を毎日思い起こさなければなりません。大祭司が青銅の洗盤で洗ったように、私たちも罪がすべてイエスのバプテスマによってきよめられたと毎日思い起こし、信じて、自分の犯す罪を洗い流すのです。この世に生きていれば、世の汚れにさらされることがあるのですから。
罪はみな、体でも心でも考えででも犯した罪は、世の罪に含まれます。では、どのような信仰によって、そうした世の罪を洗えるのでしょう? イエスが受けられたバプテスマによってのみ、洗い流すことができるのです。ひとたびイエスのバプテスマを信じてきよくなった者は、きよい心をもち続けなければなりません。ですから、罪を犯すたびに信仰によって洗い流すのです。毎日イエスのバプテスマを思い、信仰によって行ないの衣を洗う者は恵まれています。人間の罪はみな、ヨハネから授けられたバプテスマによってイエス・キリストの上に移されたのですから、毎日この真理について思いをめぐらし、信じることによって、すべての罪から永遠に救われるのです。
水と御霊の福音を信じ、自分の罪もまた、イエス・キリストがヨハネからバプテスマを授けられたときにその上に移されたのだと信じるのです。全能の神が世界創造以前、旧約の時代の前にご計画になっていたのですから、この福音を信じて失うものは何もありません。イエスはヨルダン川でバプテスマを受けられて人類の罪を負われ、十字架に行かれて罪の罰を受けられたという真理が、人間が神の義に達して救済を得ることを可能にしたのです。王の王であられるイエスが永遠に罪から救ってくださったのだと知ることを可能にし、邪悪な良心に血を注いで体をきよい水で洗った真理こそが、この水と御霊の福音なのです。水と御霊の福音は、人のいのちに不可欠のみことばであり、これは、信じたときにいっそう輝きを増すのです。
イエスが教えを説かれたのは三年間でしたが、人類を罪からお救いになるために最初になさったことは、バプテスマを受けられることでした。つまり、イエス・キリストは人類の罪を負われる必要があったのです。そのためには、ヨハネのところにおいでになってバプテスマを授けられなければなりませんでした。そこで、四つの福音書はいずれも、この重要な出来事について最初に語っているのです。
実際、みなさんも私も罪のために死すべき定めにあったのです。それが、どうなったのでしょう? 主がこの世に来られ、ヨハネからバプテスマを受けられ、神の子羊となられ、世の罪をすべて十字架に運ばれ、人類の罪のために両手両足に釘を打たれ、心臓の血を流されて死なれ、それから死者の中からよみがえられたのです。イエスが十字架上で最後の息を引き取られた時に「完了した」とおっしゃったのは、このためです。
イエスがおっしゃったり、なさったりしたことは、すべて事実です。イエスは人類を救われるためにその罪のためのいけにえとなられ、三日後によみがえられました。復活の後、イエスは四十日間復活のあかしをなさり、昇天され、今は父なる神の右手の座に着いておいでです。このイエス・キリストは、聖徒を迎えに再臨されます。最初にこの世においでの時、イエスは救い主として来られました。しかし、再臨される時は、信じない者すべてを滅ぼされる裁き手として来られます。
よろしいですか、イエス・キリストは裁き手としてこの世に来られ、ご自分がこの世で暮らされた三十三年間によって成就なさった水と血と御霊の救済を信じた者を召され、神の子どもとなさって千年王国に住み、天国に入ることができるようになさり、水と血と御霊の福音を信じずに神の愛を拒んだ者には永遠の裁きを下されます。
さあ、もはや水と御霊の福音を無視して知らないふりをしてはなりません。この救済の真理を信じるのです。そして、よろしいですか、神が幕屋といけにえの制度とで約束なさったように、イエス・キリストがこの世に来られ、手を置く形でバプテスマを受けられ、十字架につけられ、それによって全世界の民族をすべての罪から救われたのです。この真理を心の底から信じて罪の赦しを受けるのです。
それでも、イスラエル人は真理に背を向け、別の救世主を待っています。イスラエル人は、どんなにイエス以外の救世主を待ち望もうと、イエス・キリスト以外の救世主はいないと知るべきなのです。この地球上にイエス以外の救世主はいないということは、明白な事実であり、イスラエル人でさえこの真理に関しては例外ではありませんし、彼らのためにも他の救い主はいないのです。
ですから、イスラエル人はイエス・キリストを神の御子と信じない罪を悔い改め、イエス・キリストは真の救世主であると信じ、これを真理と認めなければなりません。イエス・キリストがやがて来る救い主そのものであると認め、信じることによって、イスラエル人は神の真の霊的に選ばれた民となるのです。
今でもイスラエル人はまだ、自分たちを世の苦しみと悩みとから救ってくれる、堂々として有能で強力な救世主を待っています。しかし、イエス・キリストがすでに救世主としてこの世に人間の肉の形で来られ、罪のために火で裁かれることを免れない彼らを救われているのです。ですから、彼らはこの真理を認め、信じるべきなのです。彼らの魂のために、旧約で約束されていたように、イエス自らがこの世に罪のためのいけにえのささげ物として来られ、すべての罪から永遠に救われ、神の民となさったのです。
救い主として来られたイエス・キリストは、水と御霊の福音、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布とで表わされた真理によって全人類を救ってくださったのです。そして主は、これを信じる者たちを必ずや千年王国でともに王としてくださいます。その後、永遠の神の御国に住み、神とともに幸福と栄光の中で永遠に生きるようにしてくださるのです。
ですから、この世にいる間に誰もが水と御霊の福音を心で信じて神の子どもになるのです。この真理の福音を信じる者だけが神の罪のない子どもとなることができ、次の世で待つ恵みのすべてを約束されるのです。
ハレルヤ。天の霊的恵みをくださった主に信仰をもって感謝いたします。主は、じきに戻ると約束なさいました。主よ、おいでください。