説教集

主題 11: 幕屋

[11-22] (出エジプト記 26:1-14) 幕屋の覆いに隠された四つの奥義

(出エジプト記 26:1-14)
幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければならない。幕の長さは、おのおの二十八キュビト、幕の幅は、おのおの四キュビト、幕はみな同じ寸法とする。その五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、また他の五枚の幕も互いにつなぎ合わせなければならない。そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に青いひもの輪をつける。他のつなぎ合わせたものの端にある幕の縁にも、そのようにしなければならない。その一枚の幕には五十個をつけ、他のつなぎ合わせた幕の端にも輪五十個をつけ、その輪を互いに向かい合わせにしなければならない。金の留め金五十個を作り、その留め金で幕を互いにつなぎ合わせて一つの幕屋にする。また、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作る。その幕を十一枚作らなければならない。その一枚の幕の長さは、三十キュビト、その一枚の幕の幅は、四キュビト。その十一枚の幕は同じ寸法とする。その五枚の幕を一つにつなぎ合わせ、また、他の六枚の幕を一つにつなぎ合わせ、その六枚目の幕を天幕の前で折り重ねる。そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に輪五十個をつけ、他のつなぎ合わせた幕の縁にも輪五十個をつける。青銅の留め金五十個を作り、その留め金を輪にはめ、天幕をつなぎ合わせて一つとする。天幕の幕の残って垂れる部分、すなわち、その残りの半幕は幕屋のうしろに垂らさなければならない。そして、天幕の幕の長さで余る部分、すなわち、一方の一キュビトと他の一キュビトは幕屋をおおうように、その天幕の両側、こちら側とあちら側に、垂らしておかなければならない。天幕のために赤くなめした雄羊の皮のおおいと、その上に掛けるじゅごんの皮のおおいを作る。
 
 
幕屋の覆い
 
ここで、幕屋の覆いに目を向けましょう。幕屋の覆いは四層からなります。モーセに幕屋を造るようお命じになったとき、神は詳細な指示をお与えになっています。特に注意するべきことは、幕屋の板とその中の器具類を覆った一枚目の覆いは幕屋の内側からしか見えなかったことです。この覆いは、幕屋の板・聖所・至聖所を地面まですっぽり覆っていました。覆いは青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で作られ、美しいケルビムの像が織り込まれていました。
覆いの第一層は、互いにつながれた二組の幕からできていました。幕はそれぞれ五枚の小さな幕をつなぎ合わせて作られていました。この二枚の幕をつなぐために、それぞれの幕の縁に青い糸の輪五十個が作られました。金の留め金でこの青い糸の輪をつなぎ合わせ、二枚の大きな幕をつないで一枚の大きな覆いにしました。
幕屋の第一の覆いは十枚の幕からなり、それはつながれて二枚の大きな幕をなしていました。長さは二十八キュビトありました。一キュビトは約 45 センチですから、現在の長さでいうと、約12.6 メートルあったわけです。それぞれの幕の幅は四キュビト、1.8メートルありました。まずそれぞれ五枚の幕をつなぎ合わせて二組の幕にされ、それからこの二枚が五十個の青い糸の輪と五十個の金の留め金でつなぎ合わされました。幕屋の第一の覆いは、このように作られていました。この他に三枚の覆いがありました。幕屋の第一の覆いは、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で作られ、ケルビムが巧みな細工で織り出されていました。
これは、天の御国への道を示すためでした。たとえば、幕屋の第一の覆いに用いられた青い糸は、イエスが世の罪を負われるためにヨハネからお受けになったバプテスマを示しています。バプテスマを受けられて、イエスは世の罪を被られました (マタイ 3:15)。イエスがバプテスマによって世の罪を被られたので、このバプテスマが救済の型となっているのです (ペテロI 3:21)。
幕屋の第二の幕は、山羊の毛でできていました (出エジプト記 26:7)。長さは第一の覆いより約90センチ長くなっていました。三十キュビトですから、長さは 13.5 メートル、幅は 1.8 メートルです。覆いは十一枚の幕からなり、五枚と六枚をそれぞれつなぎ合わせて二枚の幕になっています。この二枚は青銅の留め金でつなぎ合わされていました。
幕屋の山羊の毛で作られた第二の覆いは、イエスが神の義によって人類を聖くなさったことを告げています。主はこの世に来られ、三十歳になられたときにすすんでヨハネからバプテスマを受けられ、世の罪を被られたのです。この結果、主は世の罪を十字架に運ばれ、磔刑に処され、人類の罪をただ一度で消され、そうして救い主となられました。ですから、第二の覆い、山羊の毛でできた白い覆いは、犠牲の山羊となられ、バプテスマと血とによって人類を罪のないものとなさったイエス・キリストのことを告げているのです。
幕屋の第三の覆いは、赤くなめした雄羊の皮でできていました。これは、イエスがバプテスマを受けられて人類の罪を負われ、十字架に運ばれ、血を流して罰を受けられ、それによって人類をすべての罪から救われたことを告げています。
幕屋の第四の覆いは、ジュゴンの皮でできていました。ジュゴンの皮の意味するところは、イエス・キリストには、外見を見たときに何ひとつ好ましいところがなかったことを表わしています。しかし、イエスは実際には神であられました。ジュゴンの皮は、人類を世の罪から救われるために人間と同じ程度にまでご自身を卑しめられたイエス・キリストの姿を示しています。
さて、幕屋のこの四つの覆いについて、さらに詳しく検討しましょう。
 
 
幕屋の第一の覆いの霊的意味
 
幕屋の四つの覆いの第一に用いられた素材は、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布でした。これは、四つの色が幕屋の内側からよく見えるようにできていました。また、巧みな細工で天使が織り出されていて、幕屋を上から見下ろすようになっていました。四つの糸の霊的意味は、次のようになります。
幕屋の第一の覆いの素材として用いられた青い糸の表わしていることは、救世主がバプテスマによってただ一度で全世界の罪を負われたということです。主はこの世に来られ、旧約のいけにえのささげ物が、手を置くことによって移された罪人の咎を負ったように、世の罪をすべて負われるために人類の代表バプテスマのヨハネからバプテスマを授けられました。これはまた、イエスが人類の罪の罰をただ一度で受けられて世の罪を洗い流されたことを告げています。
一方、紫の糸は、この世に来られたイエス・キリストが王の王、絶対的な神であられることを告げています。これは、イエスが本質において神であられるということです。幕屋に用いられた緋色の糸は、ヨハネから受けられたバプテスマで人類の罪を一度で受けられたイエスが十字架で血を流され、身代わりのいけにえとして人類の罪を受けられたことを示しています。
イエスのバプテスマと十字架の死とは、傷のないささげ物が手を置くことによって罪人の咎をその身に受け、罪の罰を受けて血を流して死んだ旧約の時代のいけにえの制度と同じことです。新約では、イエスがバプテスマを受けられ、十字架に行かれ、その上で血を流して死なれました。
聖書は、イエス・キリストがいけにえのささげ物であるとしています。「イエス」という名は、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」(マタイ 1:21) という意味です。そして、「キリスト」とは、「油注がれた者」を意味します。旧約では、三種類の人々、王・預言者・祭司が油注がれました。ですから、「イエス・キリスト」という名は、救い主、神、天の御国の大祭司、永遠の真理の主を意味します。この世に来られ、ヨハネからバプテスマを受けられ、血を流され、主は救い主となられました。
このように、幕屋の第一の覆いは、救世主が青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって来られ、信じる者全員を罪と罰とから救われるということを明かしているのです。このみわざは、イエスのバプテスマと十字架の血にほかなりません。四色の第一の覆いに示された救済の奥義とは、救世主がこの世に来られ、バプテスマを受けられて人類の罪を被られ、十字架につけられて死なれ、死者の中からよみがえられるというものです。
これらのみわざによって、イエス・キリストは信じる者を罪から救われ、神の民となさいました。イエス・キリストは王の王、罪人の罪を消し去ったいけにえのささげ物であり、信じる者を罪と罰のすべてから救われたのです。
 
 
幕屋の第二の覆いの霊的意味
 
幕屋の第二の覆いに用いられた素材は山羊の毛でした。これは、やがて来る救世主が人類を罪と罪の罰とから救われて義となさることを告げています。つまりこれは、人間が神の義を受けるためには、水と血と御霊の福音を信じることが絶対に必要だということを示しているのです。神の義が人間の心を雪のように白く洗われ、それによって人間は罪の赦しを受けることが可能になったのです。
 
 
幕屋の第三の覆いの霊的意味
 
幕屋の第三の覆いの素材は、赤くなめした雄羊の皮でした。これは、救世主がこの世に来られ、バプテスマを授けられて世の罪を被られ、十字架につけられ、そうして民の罪のためのいけにえのささげ物となられることを表わしています。イエス・キリストが十字架で流された血は、世の罪から来る報いである死を贖うためのものでした。つまり、これは、イエス・キリストご自身がいけにえのささげ物となられ、そうして民を罪から救われたことを告げているのです (レビ記 16)。
贖いの日、イスラエル人の罪をすべて負うためにいけにえの山羊が二頭用意されました。その一頭は、罪の贖いのためのいけにえのささげ物として神にささげられました。その時、大祭司は両手を第一のいけにえの山羊の頭に置き、民の罪を一度で全部その上に移しました。それから血を取り、「贖いのふた」の東側に散らし、「贖いのふた」の前に七回散らしました。このようにしてイスラエル人の贖いのささげ物が神にささげられたのです。
次に、幕屋の周りに集まったイスラエル人の見守る前で大祭司が両手をいけにえの山羊の頭に置き、イスラエル人の一年分の罪をその上に移しました。これは、自分たちの過去一年の罪が全部、こうして大祭司が手を置くことによって取り除かれたと、イスラエル人に確信させるためでした。このいけにえの山羊は、すべての罪を負って荒野で死ぬべく送り出されました (レビ記 16:21-22)。これは、救世主がこの世に来られ、人類の代表バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられて世の罪を被られ (マタイ 11:11-13、3:13-17)、すすんで十字架につけられて罪の罰を受けられ、そうして民をすべての罪から救われるという、神のお約束でした。
 
 
幕屋の第四の覆いの霊的意味
 
ジュゴンの皮は、人間の姿であるとともに、主がこの世に来られた時の姿を示しています。主は、罪人を召されて義人となさるためにこの世に人間の肉の形で来られました。ジュゴンの皮はまた、イエス・キリストがこの地上に来られた時にご自身を高めず、卑しい生まれの者として身を低められたことを告げています。
旧約の時代、神は預言者を通して、救世主が来てこの世の罪人をその咎から救うとおっしゃいました。神は、しもべを通して告げられた預言のみことばをイエス・キリストのバプテスマと十字架の血とによって全うなさったのです。この預言の約束は、救世主がイスラエル人の罪ばかりではなく、この世のすべての人の罪と罰とを受けられ、信じる者をすべて救われてご自分の民となさるという、契約のみことばです。
出エジプト記第 25 章は、幕屋を建てるのに用いられた素材について述べています。幕屋の素材には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布、山羊の毛、赤くなめした雄羊の皮、ジュゴンの皮、金、銀、青銅、香料、油、宝石が含まれています。これらの素材はみな、救世主がこの世に来られてバプテスマと流血とによって民を罪から救われることを表わしています。ですから、幕屋の覆いに隠されているのは、神が民を罪から救われるために立てられた深遠なご計画なのです。
神はなぜ、幕屋の覆いの素材として青色、紫色、緋色の撚り糸を使うよう命じられたのでしょう? また、なぜ山羊の毛、雄羊の皮、ジュゴンの皮を使うよう命じられたのでしょう? 神が人類を世の罪から救われるために立てられたご計画を詳細に見ることが必要です。イエスが民を罪から救われた、青色、紫色、緋色の撚り糸に表わされたみわざをありのままに信じるのです。そして、罪から救われて神の民になるのです。つまり、幕屋の覆いによって表わされた神のご計画を知り、信じるのです。
 
 
四つの方法によって
 
幕屋の四つの覆いは、神が人類を罪から救われるための方法を詳細に告げています。救世主が受肉してこの世に来られ、ヨハネから受けられるバプテスマによって世の罪をすべて被られ、そうして負われた罪の罰として十字架につけられ、民の罪を贖い、その血によって罪から救うのです。しかしながら、この救済は、救世主を救い主と信じる者のためだけに成就されたのです。幕屋の覆いの素材の示しているように、イエス・キリストがバプテスマと十字架とによって来られ、一度で人類をすべての罪から救ってくださったと信じるのです。
幕屋の覆いの青色、紫色、緋色の撚り糸という形で表わされた予言にしたがって、新約の時代に神の御子がいけにえのささげ物として来られ、十字架につけられて血を流されました。さらに、幕屋の覆いに明かされた救世主を信じることによって、人は神に信仰のささげ物をささげることができるのです。この信仰が人を救います。
ですから、青色、紫色、緋色の撚り糸に表わされた真理を信じるのです。神の前に来て、青色、紫色、緋色の撚り糸に表わされたイエスのみわざを信じて信仰のささげ物をささげることができなければ、その人は必ず罪のために滅ぼされます。しかし、この真理を信じるのなら、その人は救済の信仰によって、いつでも子どもとして神の前に行くことができるのです。幕屋は、いけにえのささげ物となられ、青色、紫色、緋色の撚り糸によって表わされたイエス・キリストを信じない者は誰ひとり神の御国に入れないことを示しています。
ですから、幕屋の覆いは天国への道を示しているのです。青色、紫色、緋色の撚り糸によって明かされた真理を信じて天の御国に入る道を見出すのです。神の御国に入りたいと思う者は誰でも、まず青色、紫色、緋色の撚り糸によって表わされた罪の赦しの真理を信じて罪の問題を解決しなければなりません。ですから、人はこの真理を信じて教会に入るか、それとも信じないで神に拒まれるかの選択をしなければなりません。
もちろん、幕屋の覆いに明かされた救済の真理を信じるか否かは、それぞれの心が決めることです。しかし、この真理を信じなければ、その結果は誰にも耐えがたい破滅的なものなのです。みこころに従って輝く神の家に入るには、救世主がヨハネから受けられたバプテスマと十字架の血とを信じて永遠に罪から救われていなければなりません。人はみな、この救世主のバプテスマと十字架の血とがすべての罪を贖ったのだと心に受け入れて信じなければなりません。そのように信じてはじめて、永遠の罪の赦しを受け、神の栄光に入れるのです。
幕屋の第一の覆いは四色の糸で織られており、それは山羊の毛で織られた第二の覆いの下に敷かれていました。このことから、聖徒が罪の赦しを受けることができたのは、イエスのみわざ、バプテスマとその血とによるのだということがわかるのです。ですから、聖徒が神の義を信じて受けた罪の赦しは、第一の覆いに用いられた青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布への信仰に基づいているのです。このことがいかに確実なものであるかは、次のような聖書のみことばでわかります。
イザヤ書第 53 章 6 節には、「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」とあります。ヘブル人への手紙第 9 章 28 節は、「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自分をささげられました」と告げています。また、コリント人への手紙第二第 5 章 21 節には、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」とあります。ですから、これらの句から、人類の救済が、幕屋の第一の覆いに用いられた青色、紫色、緋色の撚り糸によって表わされたイエスの救済のみわざに基づいて全うされたということが分かるのです。キリスト自らが木につけられ、身代わりとして人類の罪の罰をその身に受けられたのは、まずヨハネからバプテスマを授けられて人類の罪を負われていたから可能だったことであり、十字架の上でだけ世の罪を負われたわけではないのです。
イエスは、バプテスマによって世の罪を被られ、そうしてそれを贖うために十字架で激しい苦しみを受けられた時、少しも恐れられませんでした。それどころか、喜ばれたのです。なぜでしょうか? それこそが「すべての正しいことを実行する」(マタイ 3:15) 瞬間であったためです。人類を罪から救われるために、イエスはバプテスマを受けられ、十字架で血を流されました。主がそうなさったのは、人類を愛されたからです。この世に来られ、ヨハネからバプテスマを授けられ、すすんで犠牲の杯から飲まれたのは、このためです。人類の罪と汚れとをバプテスマによって負われたために、主はゴルゴタで身代わりとして人類の罪の罰を受け、血を流すことがおできだったのです。
 
 
幕屋の第一の覆いをつなぎ合わせた留め金は金でできていた
 
幕屋の第一の覆いは、五枚の幕からなる幕二枚からなっていました。二枚は金の留め金でつなぎ合わされていました。これは実は、青色、紫色、緋色の撚り糸によって表わされた罪の赦しの真理を信じてはじめて天の御国に入れることを示しているのです。それぞれ五枚の幕からなる二枚の幕が五十個の金の留め金でつなぎ合わされていたことは、主の救済を完全に信じてはじめて、すべての罪から救われることを示しています。聖書では、「金」は神のみことばを信じる真の信仰を意味しています。
ですから、人間一人一人が必ず神のみことば全部を信じなければならないのです。青い糸によって表わされた真理を信じる信仰をもつことが特に重要です。イエスの磔刑だけでは人類の救済にこれといった効力はありません。なぜでしょうか? 磔刑の前、まず、イエスのバプテスマがなければならないためです。それによって罪人は、罪をイエス・キリストの上に移すことができたのです。十字架が救済に効果をもつのは、父なる神が、イエス・キリストがバプテスマを受けられて世の罪を負われるようになさったと信じたときだけです。
 
 
幕屋の撚り糸で織った亜麻布の語ること
 
これは、神が綿密な真理のみことばに従ってみわざを行なわれたことを告げているのです。救世主は実際にこの世に来られ、バプテスマのヨハネから授けられたバプテスマと十字架の血とによって人類の罪と罰を受けられました。このことは、すでにみことばで約束なさったとおりに救済が全うされていることを告げています。
新約の時代、主は実際にこの世に来られ、ヨハネからバプテスマを受けられて人類の罪を被られ、血を流して死なれ、人類の罪の罰をすべて受けられ、そうして救済の約束をすべて全うなさったのです。ヨハネからバプテスマを受けられ、十字架につけられることによって、主は父なる神のみこころを成就し、全うなさったのです。神がイスラエル人となさった契約はみな、御子イエスによって全うされました。
では、この真理に誰が注意を払うべきでしょうか? イスラエル人だけでしょうか? それとも、みなさんや私ですか?
幕屋の第一の覆いが五十個の金の留め金でつなぎ合わされていたことは、人間に本物の信仰を要求しているのです。これは、人が神の御国に入れるのは、幕屋の第一の覆いに用いられた青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって表わされたみわざによって、イエスが人類の罪をすべて洗い流されたと知り、信じたときだけであるということを示しています。
つまり、これは、罪の赦しは真理のみことばを信じることによってのみ受けられるのだということを示しているのです。旧約と新約のみことばによって、幕屋の覆いの体現したバプテスマと十字架の血とが人類をすべての罪から救ったのだと信じることによってのみ、人は真の救済を得られるということを、神は実際に詳細に示されています。
神は確かに、人間が幕屋の第一の覆いに用いられた青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布とによって明かされた真理を信じてすべての罪を洗い流され、雪のように白くなることができるようになさいました。そして神は、この信仰をもつ者だけに御国に入ることを許されます。人間は幕屋の覆いのことを知り、信じなければなりません。青色、紫色、緋色の撚り糸のみわざによって来られたイエス・キリストを信じて、人は神の子どもとなって御国に入る栄光を受ける資格を実際に得るのです。
救世主が青色、紫色、緋色の撚り糸によって表わされたみわざによって人類をすべての罪から救ってくださったというのに、どうして神の深く広い救済の愛を信じずに拒むことができるでしょう。信仰によってのみ得られる罪の赦しと天の御国を、どうして拒めるでしょう。人はみなイエス・キリストを、バプテスマを受けられ、十字架で血を流されて人類を世の罪から救われた救い主であると信じなければなりません。そうしてはじめて、神の民となれるのです。
幕屋の第一の覆いに用いられた青色、紫色、緋色の撚り糸の真理を信じない者は、信仰によってほんとうに罪を洗い流すことができません。この真理を信じない者は、神の子どもになれません。幕屋の覆いに用いられた青色、紫色、緋色の撚り糸に明かされた救済の真理を信じて永遠のいのちを受けなければならないのは、このためです。
 
 
山羊の毛の覆いは幕屋の第一の覆いよりも大きく作られた
 
山羊の毛で作られた幕屋の第二の覆いは、第一の覆いよりも大きくできていました。これは、神に敵対する者には、幕屋の第一の覆いに明かされた真理の一部分も見ることができないことを意味しています。実際、幕屋の第一の覆いの青色、紫色、緋色の撚り糸によって表わされた罪の赦しの奥義を隠す必要があったのです。ご自分を敬い恐れる者だけがイエスの青色、紫色、緋色の撚り糸によって表わされたみわざを信じて御国に入れるようにと神が定められたためです。
神が罪に落ちた人間を追い出された後で、いのちの木への道を守るためにエデンの園の東にケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた (創世記 3:24) のもまた、このためです。人が天の御国に入ることを可能にする真理は、神を信じることなしには、誰でもが見られるものではありません。神が幕屋の第二の覆いを山羊の毛で第一の覆いよりもわずかに大きく作られたのは、このためです。
幕屋の第二の覆いは、第一の覆いによって表わされた罪の赦しを受けてはじめて、人は義人になれることを示しています。言葉を変えて言えば、神はみことばを恐れと敬意をもって信じる者、真理のみことばを信奉する者だけをご自分の民となさるのです。神はそのように定めておられるのですから、まず青色・紫色・緋色、神の定められた罪の赦しの真理を信じていない者が子どもとなることを許されません。神のみこころは、心がよこしまな者は、青色、紫色、緋色の撚り糸の奥義をかけらほども気づくことがないようになさることでした。
 
 
幕屋の第二の覆いは山羊の毛で作られ、留め金は青銅でできていた
 
青銅の留め金の示す霊的意味は、人々の罪の裁きです。青銅の留め金は、すべての罪にはその正当な代償を払わなければならないことを告げています。ですから、青銅の留め金は、救世主が十字架で血を流されなければならなかったのは、この世に来られ、バプテスマで一度で世の罪を被られたためであるという真理を秘めているのです。救世主はまずヨハネから授けられたバプテスマによって世の罪を負われていたために、世の罪の罰をお受けになって十字架で流すことがおできになったのです。
青銅の留め金から、罪から来る報酬は死 (ローマ 6:23) であるという神の律法を見出すことができます。ですから、神は救世主によって人類の罪の裁きを全うされたのです。イエス・キリストがヨハネからバプテスマを授けられ、十字架で血を流されたので、人類の罪すべての裁きは完了しました。
神の前に行くときは、真理が何であるかを深く認識していなければなりません。人間はこの世で毎日、心で、考えで、行ないで罪を犯して生きています。それなのに救世主は、そうした、人間が毎日犯す罪をもすべて負われ、ご自分のいのちによって罪を贖われ、人類救済を完了してくださったのです。真理への信仰をもたないなら、神の前で人間の良心は萎え、死ぬことになります。ですから、死につつある魂が救われて再び生きることができるよう、誰もがこの真理を信じなければなりません。
人間の心は、青銅の留め金に表わされた真理を信じようと欲するでしょうか。青銅の留め金の告げている真理は、人間は罪のために滅ぼされることを免れないのだけれど、救世主がバプテスマを受けられて人類の罪を負われ、身代わりとなって罪の罰を受けられたというものです。イエスは実際にバプテスマと十字架の血とによって罪の罰をすべて受けられたのです。そうなさることによって、イエス・キリストは信仰をくださり、神の御国に入ることができるようにしてくださいました。
神の前で人が心に罪をもっていたなら、その人は地獄に投げ込まれなければなりません。罪のために、人間はただ永遠の死を受けるしかないのです。しかし、救世主は人間の罪のための身代わりのいけにえとなられて人類を呪いのすべてから救ってくださいました。人間は罪のために罰されるはずでした。それなのに、救世主が身代わりとなって罰を受けられたと信じて、今は神の御国に入ることができるのです。
この真理を心で信じて世の罪を赦され、罪の罰を逃れなければなりません。こうした救済のみわざをなさるために、救世主はヨハネからバプテスマを授けられて世の罪を受けられ、そうして負われた世の罪のために十字架につけられたのです。この真理を知り信じることによって、罪の赦しを受けるばかりではなく、罪の罰からも救われなければなりません。
救世主はこの地上に来られ、まず手を置く形でのバプテスマを受けられて、はじめて人類の罪を負われたのであり、そうして負われた罪の罰をお受けになることができたのだと信じるのです。救世主がヨハネから授けられたバプテスマによって世の罪をすべて負われたのなら、そうして負われた罪を贖われるために十字架につけられたのなら、そのように信じるべきなのです。そのように信じる者に、神は新たないのちをくださいます。
人間は罪のために地獄に行く定めにあったために、救世主が人類の罪を負われ、身代わりとなって死なれ、そうして人間の罪の罰を受けられたのです。罪の罰によって死ぬはずであった人間のために、主は身代わりとなって罰を受けてくださいました。主が人類を罪の裁きから救われるために十字架につけられて死なれたのなら、人間はそのように信じるべきです。
主の救済を肉の意思によるのではなく、みことばへの霊的信仰によって、魂に、心の底に受け入れるのです。今この福音を聞いたみなさんの一人一人が、この真理を心で信じなければなりません。救世主がバプテスマと流血とで救ってくださったのですから、信じる者はほんとうに救われます。
自分が地獄に行く定めにあると信じないのなら、青色、紫色、緋色の撚り糸によって来られた救世主を信じて救われる必要は感じないでしょう。しかし、自分がほんとうに地獄に行く定めにあるのだと信じるのなら、その人は青色、紫色、緋色の撚り糸によって来られた救世主を信じて救われる必要をはっきりと見てとるでしょう。イエスが「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ 2:17) とおっしゃったのは、このためです。この真理をこのように心で信じるのなら、その人は心に罪の赦しを受けます。
神の前で自分を律法で測るならば、どこまでも罪深く、永遠に罪のために呪われることになるということを否定することができないでしょう。この福音を信じてすべての罪を洗い流されるためには、罪のために地獄に行く定めにあるということを認めなければならないばかりではなく、また、そのような呪いを免れたいと心から願わなければなりません。これが、罪のすべての正当な裁きを信仰によって受ける唯一のいのちの道なのです。
幕屋の覆いに用いられた青色、紫色、緋色の撚り糸によって表わされたイエスのみわざへの信仰がなければ、人は必ずや地獄に臨むことになります。救世主が受けられたバプテスマと十字架で流された血とは、人類の魂の救済に密接に関連しています。
人間はアダムの子孫として生まれ、そのために罪深いのですから、地獄に行く定めにあります。ですから、人はみな神の前で、まっすぐに地獄に向かっている罪人であると認めなければなりません。これを認めますか? 神が人間をご覧になるとき、地獄に向かっていることをご覧になります。人間が自分を神の前で見るときにも、地獄に向かっていることを知るのです。みなさんも私も地獄に行く定めにあったために、救い主が罪からお救いくださるためにこの世に来られたのです。
この世に来られ、バプテスマを授けられ、血を流して死なれることによって、主は人類救済のみわざを成就なさいました。人間が本質的に地獄に向かっているのでなければ、主が救済のみわざをなさる必要はなかったでしょう。私たち新たに生まれた者も、今は心に罪がないのですが、かつてはみな明らかに罪深い存在でした。
罪深い者はみな地獄に行かなければなりません。罪から来る報酬は死です。これは、罪人は必ず地獄に投げ込まれるということです。しかし、信仰によって主イエス・キリストがくださった罪の赦しの賜物を受けた者は、永遠のいのちを得ます。みなさんと私が救世主イエスを救い主と信じたとき、主は愛によって、すべての罪と呪いとから救ってくださいました。アーメン。ハレルヤ。
 
 
心に主がくださった真の信仰があるかを確かめよ
 
自分自身をふりかえってみましょう。みなさんと私は、神のみことばの律法にしたがって信じていますか? もしそうなら、神の前でどうなったでしょう? 罪のために神に呪われることがないのですか? 神は罪深い者を罰せずにおかれるような不正な神ではありません。神は聖く正しいのですから、罪深い者を許容なさいません。神は、信じない罪深い者たちを必ず地獄に投げ込むとおっしゃいました。
神は、火と硫黄の燃える地獄に罪人たちを投げ込むとおっしゃいました。そこでは虫も死なないのです。自分なりに罪を洗おうとし、自分で心を慰めようとする者を、神は地獄に投げ込まれます。主がそのような人々に「不法をなす者ども、わたしから離れて行け」(マタイ 7:23) とおっしゃったのは、このためです。
ですから、救世主を信じ、主がこの世に来られた時に受けられたバプテスマ、十字架の血、死者の中からのよみがえりとを信じるのです。なぜでしょうか? そもそも、人間はみな神の前に罪深いのであり、そのために地獄に行く定めにあるためです。救世主が青色、紫色、緋色の撚り糸によって来られ、ご自分の体で救済のいけにえのささげ物をささげられ、人類の罪をすべて消されたのは、このためです。ですから、主が人類のためにバプテスマを受けられ、犠牲となられたことを信じるのです。人間はみな地獄に行く定めにあることを知らずにいては、主と関係がなくなります。
しかしながら、自分が罪のために地獄に行く定めにあるとは考えていない人々が実に大勢います。その人たちは、まったく健康なのだから医者の診断を仰ぐ必要はないと考えています。そうした人々は、イエスを穏やかで行儀のよい人物、尊敬に値する人物、教師としかみなしません。また、その人たちは、ただ骨のある人間であるように見せかけようとして、イエスを信じるふりをするのです。主はそうした人々に、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」(マタイ 9:12) とおっしゃいました。そうした人々は今すぐ聖書の観点から心を完全に点検するべきです。さもなければ、地獄に行くことになります。
救世主を信じるのは、救い主と信じて罪から救われるためです。救世主を信じるのは、虚栄心を満たすためではありません。そうではなくて、罪のために、みなさんも私も救世主を信じることが絶対に必要なのです。信じる理由はこうです。救世主イエスがこの世に誕生なさいました。三十歳のときにヨハネからバプテスマを授けられました。世の罪を負われ、磔刑に処されて血を流されました。三日後に死者の中からよみがえられました。昇天されました。今は父なる神の右手の座に着いておられます。こうしたことすべてが罪の赦しをあかししているのです。これらはみな、人類を罪から救われた救い主のみわざなのですから、どの一つも残さずにすべてを信じなければなりません。
人間の考えでは、幕屋の覆いは何か太い糸で織ればいいと思われるでしょう。しかし、聖書では、どのように作るのか、どの留め金は金で作り、どれは青銅で作るかと、神が詳細に仕様を指示しておられます。神はなぜそのような指示をされたのだと思いますか? 神がそうなさったのは、そうしたものの霊的意味を明かされるためだったのです。ですから、どの一つも見過ごしにはできないのです。
 
 
救世主となられたイエス・キリストのバプテスマと血とを信じよ
 
罪のために、人間は地獄に投げ込まれなければなりませんでした。しかし、救世主イエス・キリストがこの世に来られ、罪から救ってくださったのです。イエスは実際にバプテスマを授けられ、十字架につけられ、血を流されました。ですから、まず心でイエスのバプテスマと十字架で流された血とを信じないで自分に罪がないとだけ言うのは、不法です。救世主となられたイエスは、ほんとうに人類をお救いになるためにこの世に来られ、ほんとうにバプテスマによって人類の罪をその身に負われ、人類の罰を受けて死なれ、死者の中からよみがえられ、そうして真の永遠の救い主となられたのです。イエスがこのように救ってくださったのは、そうしてはじめて人間はこのイエスを信じて罪をすべて赦されることができるためです。
救済のみわざを完成なさるために、救世主はバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、それから十字架で死なれなければなりませんでした。これは、人間は最初から罪のために滅ぼされる定めにあったということです。しかし、実際は、もはや人がこの罰を受ける必要はありません。なぜでしょうか? 罪がなく、したがって罰されるはずのなかった救世主が、渡された罪を実際に被られ、身代わりとして人類の罪の罰をすべて受けられたためです。ですから、イエスのバプテスマと十字架の血とを心から信じることによって、人は罪の罰のすべてから救われているのです。
よく「Jesus loves you!(イエスは愛してくださる)」というステッカーが車の後ろ窓に張られているのを目にします。人間が知っておくべきだとイエスが思われているのは、それだけでしょうか? 主の救済は、そのような言葉だけでできているものではありません。主は、「あなたたちが心から愛しいのです。ですから、あなたたちの罪を赦しました。ただわたしを信じなさい。そうすれば子どもにしましょう」とおっしゃりたいのです。救世主は、実際にバプテスマを受けられ、十字架につけられ、血を流して死なれました。すべては人類を罪からお救いになるためです。主は実際に人類を救われ、待ち受けている裁きから救ってくださいました。
主は、人間の罪の病を癒す医師になられました。この世に来られ、バプテスマを受けられて、実際に人類の罪を負われ、十字架につけられて血を流して死なれ、ほんとうに死者の中からよみがえられ、そうして救ってくださったのです。人間が罪のために確実に地獄に向かっていたときに、主はすでにすべての罪の病を癒してくださっていたのです。人間は正しい信仰によって罪を癒されなければなりません。
人々が罪深くとも地獄に投げ込まれることがないのなら、救世主がこの世に来られて血を流される必要はなかったでしょう。しかし、人間は実際に地獄につながる恐ろしい罪の病に冒されているのですから、絶対にイエスを信じなければならないのです。実際、この恐ろしい罪の病にかかっている者は、地獄に投げ込まれることを免れません。救世主となられたイエスのバプテスマと血とを疑問の余地なく信じなければならないというのは、このためなのです。
心に罪をもつ者はみな、必ず地獄の罰を受けます。神の律法においては、罪から来る報酬は、誰にとっても死なのですから。簡単に言えば、心にごくわずかでも罪があるのなら、その人は地獄に投げ込まれるのです。イエスが人類のところに来られなければならなかったのは、このためです。人類の罪を完全に消された救世主を心から信じるとき、人はすべての罪から救われます。イエスを救い主と信じ、また、イエスが人類のためになさったことをありのままに信じるのです。
イエスは実際神そのものであられます。イエスは実際の創造主です。しかし、神の栄光を捨ててしばらくの間受肉されました。それは、愛しく思われる人間を恐ろしい罪の罰と地獄、滅びと呪いとから救われるためだったのです。そして、主は実際にバプテスマを受けられ、磔刑に処され、復活なさり、それから昇天なさいました。これが真理です。この事実を冗談に過ぎないかのように軽く見てはなりません。この事実を信じることは、選択の問題ではありません。人はこの事実を心で信じ、また確実に知っていなければならないのです。
いけにえのささげ物とされた子羊と山羊には罪があったでしょうか? どの動物も、罪が何かということについては少しもわかっていません。しかし、こうした動物たちは、手を置く儀式によって旧約のイスラエル人の罪を受けたために、身代わりとなって殺されなければならなかったのです。なぜでしょうか? 罪から来る報酬は死であり、それが神の定められたことだったからです。ですから、贖いの日にイスラエル人の罪をすべて受けたいけにえのささげ物もまた、当然死ななければなりませんでした。イエス・キリストが死なれなければならなかったのも、同じ理由からです。イエスはバプテスマによって世の罪をすべて負われていたのです。
誰のために、こうしたみわざは行なわれたのでしょう? それは、みなさんや私のためでした。では、これは、信じたり信じなかったりすることのできるものですか? 人々が信じないのは、罪の病の深刻さに少しも気づいていないためです。しかし、ほんの些細な罪であっても地獄に投げ込まれるのだということを知っていたなら、救世主イエス・キリストの救済を選択の余地のあるもの、結果を気にせずに信じたり信じなかったりすることのできるものとはみなすことができなかったでしょう。
人間に罪があれば、たとえ芥子粒ほどであっても、その人は地獄に投げ込まれます。滅ぼされます。人間がこの世ですることはみな、やがて永遠の呪いを受ける結果になります。罪があってもかまわないと思っている人々は、幻想に溺れているのです。罪の結果は間違いなく死です。もちろん、心に罪をもっていながら、一見人生で成功しているように見える人々が大勢います。若い人たちは有名人を崇拝しがちで、いつか会うことを夢見ます。しかし、そうした人々の華やかな生活は、永遠に続くのでしょうか? ごく短い得意の時期が過ぎれば、その多くは惨めなものになります。
世の中には、何をしてもうまくいかない人がいます。主にお会いする前に、みなさんもそんなふうに何ひとつ思うようにいかなかったでしょう。呪われた生を生きているかのように、絶対確実と思ったことがけっしてそうはならず、うまくいくと思ったことは、結局はだめになるのです。大きな夢をもったことがあるでしょうが、何ひとつ実現せず、夢はどんどんしぼんでいき、ついには消えてしまいます。最もささやかな夢さえも実現しないことに気づいたとき、結局夢は完全に消え去ります。
どうしてこうなのでしょう? それは、心にある罪のためです。心に罪をもつ者は、けっして幸福になれません。神は、その人がどんなに努力しようと、恵まれません。罪深いのに成功しているように見える人々がいるなら、神はその人たちを見捨てられたのです。現在の生活はうまくいっているようでも、神はその人たちを見放し、地獄に投げ込まれるのです。この世にいるのが罪のない者ばかりであったのなら、地獄は必要なかったでしょう。しかし、神は実際に地獄を造られました。それは、心に罪をもつ者のために造られたのです。
神は、罪の赦しを人間の心にお与えになるために、幕屋の第一の覆いを青色、紫色、緋色の撚り糸で作るようお命じになりました。これはまた、新約の時代が来ると、イエス・キリストがヨハネからバプテスマを受けられて世の罪を被られ、それから負われた罪の罰をとして十字架につけられて死なれることを明かしています。主は、ほんとうに罪人の救い主となられました。
主が青色、紫色、緋色の撚り糸のみわざによって罪人に罪の赦しをお与えになったのは、このためです。これがわかりましたか? イエス・キリストは、人類の罪を被るためにほんとうにヨルダン川でバプテスマを受けられました。そして、被られた罪を贖われるために十字架につけられて血を流されたのです。イエスがバプテスマを受けられたのは、人類の罪を負われるためでした。イエスが十字架で死なれたのは、まずヨハネから受けられたバプテスマによって人類の罪を負われたためであると信じていますか?
 
 
肉の体にあって、人はジュゴンの皮のようなものである
 
第四の覆いは、ジュゴンの皮でできていました。これは、旧約のヘブライ語で「Tachash (タハシ)」という哺乳類の訳語です。これは、英語版ではたとえば、「海牛」(NIV)、「アザラシ」(ASV)、「山羊」(NLT)、「イルカ」(NASB)のように、いろいろな動物として訳されてきました。この動物が何であったのかはわかりません。聖書文献学者は、この「Tachash」はおそらくは外国語からの派生語であろうとしています。いずれにしろ、「Tachash」という哺乳動物の皮が幕屋の第四の覆いに使われたのです。この覆いは、見た目には美しくはないものだったと考えてよいでしょう。
ジュゴンの皮でできた、この第四の覆いは、イエス・キリストが人間の肉の形でこの世に来られたことを示しています。しかも、その外見は少しも魅力的ではなかったのです。聖書は、次のようにその外見を描写しています。「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」(イザヤ 53:2) 
神の御子がこの世に卑しい生まれの人間の肉の形で来られたのは、死ぬまで恥多き生を生きるしかない者たちをお救いになるためでした。アダムの子孫である私たちを神がご覧になると、この皮の覆いのように魅力がないのでした。さらに、人間は罪を犯すことばかりを好みます。醜いジュゴンのように、人間は誕生のそのときから死ぬまで、自分の腹を満たすことだけに関心をもっているのです。イエスが人間の肉の形で来られ、苦しみを受けられたのは、まさにこのためでした。
自分の罪深い本質の深刻さを知る者だけが、救世主を信じて罪と罰とから救われるのです。ですから、自分の罪を知らずにいる人々や罪の罰を信じない人々には、罪の赦しを受ける資格がありません。神は、そのような人々は獣に等しいとおっしゃっています (詩篇 49:20)。
人間は神の姿に似せて造られたのですが、誰もが神の愛を受け入れるわけではありません。神の救済のご計画を信じない者は罪の赦しを心に受けることができず、死ぬべき定めにある獣のように滅ぼされるのです。人類のためのご計画がおありだったために、神はご自分の姿に似せて人間を造られたのです。
人々がしたり考えたりすることをよく見ましょう。別にみなさんのことを言っているのではありません。人類全体のことを言っているのです。たいていの人は、自分を造った創造主のことさえ知りません。さらに、その多くは、自分は罪を犯さない、自分は他の人たちよりましだと主張します。人間とは、なんと頑なで愚かなのでしょう。神を知らない人々は、まったく高慢です。自分を他人と比べたとき、実際、どれだけの違いがあるでしょう。どれだけ他人よりすぐれ、どれだけ劣っているでしょう。それなのに、人々は自分勝手な利益のために他人を傷つけます。これは、どれほど悪いことでしょう。
人間が神に対して生涯どれだけの罪を犯しているか、推測することもできません。これは、別に人間性を嫌悪して言っているわけではありません。神は大切なものとして人類を創られましたが、たいていの人は、自分が罪のために滅ぼされることになるのだということにまだ気づかずにいるのです。人々は、自分の魂をどうしたらいいのか知りません。自分の将来のために備えることができません。神のみことばを認めません。そして、永遠の滅びを避けるためには他に道はないのに、神を信じようとしません。こうした人々こそが、滅びる定めにある獣に等しい人々なのです。
 
 
神は人間を滅びるままになさらない
 
実際、人類を罪から救われるためにイエスがこの世に来られ、人類の罪をすべて消されるためにバプテスマを受けられ、十字架で血を流され、死者の中からよみがえられました。主はこうして真の救い主となられました。この真理を信じるのです。これを信じていますか? もしや、無知と聖書に関する知識の欠如から「それが何だっていうの。どんなふうにでもイエスを信じるなら、みんな天国に行くのでしょう」と思っているのではありませんか。また、「十字架の血さえ信じるなら、天国は私たちのものです」と言う人々もいます。しかし、こうした信仰は、ほんとうに正しいのでしょうか?
実際、神は真理の神です。神はご計画について話され、みことばにあるとおりに救済のみわざを全うなさり、罪の赦しをお与えくださり、この真理によってお会いになるお方なのです。神は生きておられます。神はたった今も、私たちの一人一人とともに、ここにおられます。心に罪をもつ者は、神を欺こうとしてはなりません。心に罪をもち、良心を苛まれているのなら、主が受けられたバプテスマと流された血とを信じて問題を解決しなければなりません。罪深い者は、自分が地獄に行く定めにあったために、主がバプテスマと十字架の血とによってすべての罪から救ってくださったのだと信じなければなりません。
水と血とを信じて罪の問題を解決できない者は、ただの一人もいないのです。しかし、主が水と血と御霊によって救ってくださっていても (ヨハネI 5:6-8)、こちらがそれを信じず、そのために滅びたなら、この結果の責任は完全に自分の側にあります。人はみな神の前で「私は罪深いので、地獄に行く定めにあります。でも、水と血と御霊の福音を信じています」と告白しなければなりません。このような信仰をもつべきです。主が水と血と御霊によってすべての罪から救ってくださったと心で信じるのです。まごころと信仰とによって、人は水と御霊の福音に表わされた真理と結びつくことができるのです。そうしてはじめて、人はすべての罪から救われます。
ですから、こうしたことすべてを理解し、その真理を信じるのです。幕屋と水と御霊の福音に表わされた真理を知りもしないで、「信じているのだから、まだ罪があっても天国に行くのだ」と信じる人々がいます。しかし、神は、罪のある者はみな地獄に投げ込まれるとおっしゃいました。イエスを信じているなら、罪があっても地獄に投げ込まれることはないとはおっしゃいませんでした。これは、はなはだしい愚か者になるようなものです。実際は好き勝手に信じていながら、イエスを信じているのだから天国に行くのだと言うことは、愚かさと無知、完全に盲目的な信仰の表われです。
また、別の人たちは言います。「ただの一人も地獄に投げ込まれるのを見ていませんし、天国に入った人もいません。最後の審判にならないとわかりませんよ。」しかし、天国と地獄は実在するのです。この世には、自分の目で見ることのできるものしか存在しないのですか? 自分の目で空気を見ることができますか? 目には見えない世界が確かにあるのです。神が見えないからといって神を信じない罪人はみな、滅びる定めにある獣のようなものです。
ですから人々は、心に罪があるのなら滅ぼされるのだと知って、水と御霊の福音を信じて神の裁きから逃れなければなりません。賢明な人間とは、自分の周りの人々にそれほど悪いことはしていないけれど、それでも神に対して悪いことをたくさんしているのだから、遠からず神の前に立った時には、きっと裁かれるのだと認める人々です。
無知や、神とその裁きとをないがしろにしたせいで滅びてはなりません。神は必ず、罪人を一人残らず地獄の永遠の炎で焼かれます。幕屋に表わされた真理を聞いていながら信じないで滅ぼされるのなら、その人はサタンの子どもです。救世主が人類に求められるのは、すべての人が罪の赦しを受けることのできる信仰をもち、天の御国に入ることです。
 
 
神は人間をおもちゃとして造られたのではない
 
神が私たち人間を造られたとき、その目的は、人間が罪に苦しめられずに生き、神の子どもとして永遠のいのちと光輝、栄光を神とともに享受するようになさることでした。人間を地獄に送らないようになさるために救世主がバプテスマを授けられ、世の罪を被られ、十字架で血を流され、そうして人類の罪をすべて消されました。神がこのように人類を愛しまれているのに、この愛を認めず、主のくださった救済をいいかげんに信じるなら、神の怒りを免れることはできません。
神は、御子を犠牲になさって人類を罪から救われました。救世主は人間の罪をすべて被られるためにバプテスマを受けられ、罪のためのいけにえとしてご自分をささげられて、実際に人類を世の罪のすべてからお救いになったのです。人間は罪のために地獄に行く定めにあったので、主が慈悲をかけられたのです。そのために主はバプテスマを受けられ、血を流して死なれ、死者の中からよみがえられ、そうして人類を罪のすべてから救われて神の子どもとしてくださったのです。神は人間をおもちゃとして造られたのではありません。
少し前のことですが、教会の姉妹の一人が大学にいたときに、卒業展を見に行く機会がありました。美術作品展示場にはさまざまな絵画がありました。卒業するクラスの制作した作品の一つは、アダムとイブが良いことと悪いことの知識の木から食べている場面を描いたもので、「神は人間をおもちゃとして造られたのか」という題がついていました。誰かがこの問いに対する答えを下に書き込んでいました。「神は退屈だったので、おもちゃとして人間を造ったのです。」
この答えほどはなはだしい誤りはありません。では、なぜ神は良いことと悪いことの知識の木を造られ、それからアダムとイブにその実を食べてはならないとおっしゃったのでしょう。結局のところ、神はすでに二人が実を食べることをご存じでした。それでも木を造られ、その実を食べてはならないとおっしゃったのです。二人が食べた時、罪に落ちた二人を神はエデンの園から追放なさいました。それから、罪のある者はまっすぐに地獄に送られるとおっしゃいました。なぜ神は、こういうことをなさったのでしょう? 神はほんとうにおもちゃがなく、退屈されていたために人間を造られたのでしょうか? 神が人間を造られたのは、あまりに退屈で、もう我慢ができなかったためでしょうか? もちろん、違います。
みなさん、神がほんとうに望んでおられたのは、人間をご自分の民となさること、不死になさり、ともに永遠に幸福に生きられることだったのです。こうしたことすべてを人間に与えようという神のみこころは、永遠の光輝と栄光を享受し、永遠に栄光の中で生きる不死の存在になさることでした。ですから、みなさんや私がサタンに欺かれて罪に落ち、地獄に行く定めにあったとき、神はお救いになるためにひとり子をこの世に遣わされたのです。そして、御子にバプテスマを受けさせて世の罪を被らせ、血を流させ、死者の中からよみがえらせることによって、サタンからお救いくださったのです。
しかしながら、無数の人々が、神は退屈を紛らわせるために人類をおもちゃとして造られたのだという、このばかげた誤解をしているのです。イエスを信じることをやめた人々と、そもそも信じたことのない人々の中には、神に対して恨みを抱き、「なぜ神は私を創っておいて苦しませるのだろう。なぜ信じなければならないと言い張るのだろう。なぜ信じたら救済を与えるが、信じなければ与えないと言うのだろう」と言う人々がいます。その人たちがこうしたことを言うのは、神が人類にくださった救済の深遠なみこころを知らないためです。
救世主のこの深いみこころは、人間を子どもとして受け入れてご自分の子どもとし、家族として天国の栄光と光輝のすべてを享受するようになさるというものでした。これが神が人間を創られた目的です。私自身、水と御霊によって新たに生まれるまで、この真理を理解することができませんでした。しかし、罪の赦しを受けて新たに生まれた後で、わかったのです。「ああ。だから主は私を造られたのだ。」
二千年以上前にこの世に来られたとき、救世主が人類の罪を負われるために実際になさったことは、何でしたか? 人類の罪を負われるために主がなさったのは、何でしたか? バプテスマを受けられ、血を流されました。そして、この二つはいずれも人類の罪を消すための正しい行ない、正しいいけにえであったのです。
ここに、人間が実際に神を信じなければならない理由と、イエス・キリストが救い主の神であられると信じなければならない理由とがあるのです。みなさんと私が地獄に行く定めにあったために、お救いになるために神ご自身が実際にこの世に来られなければならなかったのです。つまり、イエスはヨハネからバプテスマを授けられなければならず、十字架で死なれなければならず、死者の中からよみがえられなければならなかったのです。青色、紫色、緋色の撚り糸に明かされた罪の赦しを実際に信じるのは、すべての罪を赦されるためなのです。信仰をもたなければならないのは、神の人間に対する摂理を全うするためなのです。そして、人が主の救済を信じるのは、他の誰かのためではなく、自分自身のためにそうするのです。
 
 
今こそは神の救済の真理を信じるべき時である
 
次のようなことに気づきたいのなら、その人はまず誤った信仰を今すぐ捨て、水と御霊の福音を心で信じなければなりません。「自分が地獄に行く定めにあったとは知りませんでした。私はただ、イエスが人類の罪を消されたと聞いたので信じたのです。でも、私の信仰は完全に誤解に基づいていました。今は正しいことを学び、確固とした知識に基づいた信仰をもたなければなりません。これまでは誤って信じてきました。でも、まだ手遅れではありません。ただ、今からは、自分が罪のために地獄に行く定めにあるのであると認識し、救世主がバプテスマと流血とによって救ってくださったと心で信じて罪の赦しを受けさえすればよいのです。ああ、私は地獄に行くはずだったのだ。」
実際のところ、初めて信じたときには水と御霊の福音を正確に理解しているキリスト教徒はほんの一握りしかいないのです。私自身も、キリスト教徒になってから、イエスがバプテスマによって世の罪を被られ、それから十字架につけられて死なれたのだとすっかり悟るまでに十年かかっています。そのときになってはじめて、イエスを救い主と信じてほんとうに救われたのです。ですから、キリスト教徒になって十年後に、誤った信仰を捨て、水と御霊の福音を正しく理解するようになり、正しく信じたのです。しかし、他の人たちは、たぶん、真理を知って信じるまでには二十年以上かかるかもしれません。
そうした人々が、たとえ二十年後にでも、神は水と御霊によってお救いになろうとご計画だったのだと悟ったなら、自分の罪のためにイエスはバプテスマを受けられ十字架につけられたのだと信じるのです。神の前で真理を知りながら信じることを拒むほど邪悪なことはありません。しかし、キリスト教徒として十年、二十年生きてきてから今、水と御霊の福音を信じるのなら、何かいけないことがありますか? もちろん、ありません。これにはまったく悪いことも恥ずかしいこともありません。青色、紫色、緋色の撚り糸という形で表わされた罪の赦しをほんとうに知り信じるのなら、その人たちはほんとうに救われたのです。水と御霊の福音への信仰が神をお喜ばせするのです。実際に成就された、青色、紫色、緋色の撚り糸によって全うされたこの救済をみなさんが信じられることを願います。
幕屋の覆いは細部まで綿密に作られていました。赤くなめされた雄羊の皮が山羊の皮でできた覆いの上に置かれ、ジュゴンの皮がその上に置かれたということを見るだけで、人間は地獄に行く定めだったけれど、主がこの世に来られ、バプテスマを受けられて人類の罪を被られ、人類の罪のためのいけにえのささげ物となられて十字架で血を流されて死なれたという真理の表われを見てとることができるのです。人はみな水と御霊の福音を信じることができます。主が実際に人類を救われたのは、青色、紫色、緋色の撚り糸という形で表わされた、イエスのみわざによってです。幕屋の覆いは、ほかならぬこの救済の奥義を秘めているのです。
重要なことは、ただ聖書について学ぶことではありません。神が喜ばれるのは、学ぶことだけではなく、信じること、つまり、聖書が青色、紫色、緋色の撚り糸という形で明かしているイエスのみわざによって人類をお救いになろうと神が決められたと告げているのなら、実際にこれを心に受け入れて、そのように信じることなのです。こうして神をお喜ばせするのです。心に実際に神のみことばを聞き、自分の罪を認識し、主のバプテスマと十字架の血とを信じるのなら、罪の赦しを実際に受けることもできるのです。しかし、主がお与えくださった罪の赦しを信じないで、ただ理論的な問題として信じるのなら、罪の意識に苦しめられ続けることになります。
水と御霊を信じて自分の犯す罪の問題を解決できなければ、この罪の意識は心を苛み続けます。しかしながら、水と御霊の福音を信じるなら、罪の意識から解放されます。完全な罪の赦しを受けて罪のない者となったのなら、どうして再び罪に苦しめられることがあるでしょう。このように、信じるのです。水と御霊の福音を信じ、罪のすべての問題を解決するのです。そうしない人々は、罪の奴隷であり続けるしかありません。
人生はとても短く、苦しみに満ちています。神は、すべての人間が苦しむようになさいました。なぜ神は人間が苦しむようになさったのでしょう? それは、罪の苦しみによって、人間が水と御霊の福音の尊さに気づき、この福音を信じ、それによって実際に罪を赦されることを望まれたためです。神が人間に罪の苦しみをもたらされたのは、救世主がバプテスマと十字架の血とによって罪のすべてを洗い流されたのだと心で信じるようになさるためだったのです。水と御霊の福音を真理として信じないことは、このうえなく愚かなことです。人類の罪は、水と御霊の福音をほんとうに信じる信仰によってのみ、きれいに拭い消されるのです。
神は、真の福音を信じて罪の問題を解決せよとおっしゃっています。ですから、イエス、真の救い主を信じるのです。みなさんもまた、イエス・キリストが救い主であると心で信じてください。神の前で自分の罪を認め、水と御霊の福音を信じ、救われるのです。救い主イエスのバプテスマと十字架の血とを心で信じるなら、実際に罪のすべてを赦されます。イエスのバプテスマと十字架の血とを真理と信じてはじめて、人はすべての罪から救われるのです。
 
 
覆いの順番は、人類救済の手順と一致している
 
救済の手順の問題に関して、まず第一にすることは、この世に生まれたその瞬間から人間はみなジュゴン、滅びる定めにある獣と同じ罪深い存在であったと正直に認めることです。そして、罪のために殺されて地獄に投げ込まれる定めにあるのだと信じるのです。さらに、罪から救われるためにはいけにえのささげ物が必要なのであり、そこで、救世主が実際に来られてバプテスマを受けられ、人類の罪を終わらせる必要があったのだとも信じなければなりません。救い主は人間ではなく、神でなければならないということを信じるのです。そして、救い主イエスがバプテスマと十字架とによって、実際にすべての罪から救ってくださったのだと信じるのです。
そうでなければ、神は幕屋の覆いは二つだけになさったことでしょう。イエスのバプテスマを除いて救済が得られるものならば、幕屋に四つの覆いを作る必要はなかったでしょうし、神は、ジュゴンの皮と雄羊の皮だけで覆われたことでしょう。しかし、実際、二つの覆いだけが使われたのでしょうか? いいえ。幕屋は四種類の覆いで覆われなければなりませんでした。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で作られた幕、山羊の毛で作られた幕、雄羊の皮の覆い、そして、最後はジュゴンの皮の覆いです。
真理はありのままに信じるのです。イエスはバプテスマを受けられて人類の罪をすべて負われ、十字架で死なれ、それによって、罪のために地獄に行く定めにあった、汚れた哀れな人間の魂を救われ、神の民となさいました。これが幕屋の四つの覆いに隠された奥義であり、この四つの覆いの重ねられた順番は、人類救済の手順にほかなりません。
幕屋の第一と第二の覆いをつなぎ合わせるためには、それぞれ金と青銅の留め金が必要でした。そして、二枚の幕をつなぐために、それぞれの幕の縁に青い糸の輪が作られました。しかし、十字架の血だけを信じる者には、この青い糸の環につけられた金と青銅の留め金が具体的に何を意味しているのかを知ることは不可能です。水と御霊の福音を信じる者だけが、四つの覆いに秘められた真理を理解し、信じることができるのです。
青い糸の輪は、イエスがヨルダン川で受けられたバプテスマを指しています。では、なぜ人々は、イエスが世の罪を負われたバプテスマを信じないで、十字架の血だけを信じているのでしょう? それは、神のみことばをありのままに信じないためです。イエスを信じると言うとき、神のみことばに付け加えたり差し引いたりしては、正しく信じることができません。神のみことばは、「はい」と言って、そのまま信じるのです。
イエスを信じると言う人は数多いのですが、その多くはイエスが十字架で流された血だけを信じて、イエスの受けられたバプテスマを除外しています。多くのキリスト教徒が幕屋の覆いに表わされた真理の奥義を理解できないのは、このためです。また、救世主が完全に成就なさった真の罪の赦しを今日のキリスト教徒が信じないのは、このためなのです。その人たちは、ただ世界の宗教の一つの創始者として、まったく空しくイエスを信じています。ですから、多くのキリスト教徒は実際、誤った道を歩んでいるのです。彼らは毎日罪を犯し、それでも、毎日悔い改めるだけで天国に行けると主張します。世の世俗的な人々が実にしばしばキリスト教徒を非難するのは、このためなのです。
キリスト教徒に「どのように、また、どのような信仰によって、罪の問題をほんとうに解決できるのですか」と尋ねると、たいていは、「イエスの十字架で流された血を信じて悔い改めの祈りをささげれば解決できます」と答えます。そこで、「では、あなたの罪は心の中で解決されていますか」と尋ねると、そうした人たちは、「実は、まだ心に罪が残っています」と答えます。心に罪をもつ者は、まだ神の民ではありません。そうした人はイエス・キリストの外にいます。その人たちは、水と御霊の福音を信じてイエス・キリストの内に来なければなりません。
具体的にどのような方法で主が人類の罪をすべて消されたのかをありのままに詳細に知っておきましょう。主は、ヨハネから実際に受けられたバプテスマによって負われた世の罪を十字架まで運ばれ、血を流されて、人類の罪をすべて消されたのです。神のおられる所に入りたいのなら、青色、紫色、緋色の撚り糸で織られた救済を信じて入るのです。どんなに敬虔に神を信じていようと、ずっと誤解し、誤り信じているということはあり得ます。天の御国に入るには、救世主が実際に人類の罪を消された青色、紫色、緋色の撚り糸からなる救済を真理として受け入れ、信じるのです。
神の前で誤った信仰をもっていたなら、何度でも改め、正しく信じなければなりません。主が実際にバプテスマによって人類の罪を被られ、洗い流された救済を真理と信じるのです。主がバプテスマによって人類の罪をすべてただ一度で被られ、十字架の血によって人類の罪の罰をすべて受けられたのだと、ほんとうに信じるのです。
幕屋の青色、紫色、緋色の撚り糸によって表わされたイエスのみわざへの真の信仰によって、人は救世主にお会いできます。幕屋によって、水と御霊の福音をより確かに把握し、信仰が青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布という形で表わされた真理に基づいたものであると認識することができました。人がみなもつべき、極めて重要な信仰とは、青色、紫色、緋色の撚り糸からなる救済をほんとうに心で信じる信仰です。
みなさんは今、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布からなる、幕屋に秘められた真理を聞き、学んでいます。救世主は、青色、紫色、緋色の撚り糸の体現したみわざによって実際に人類の罪をすべて赦され、今私たちをお待ちです。
神は、この真理を心の底から信じよとおっしゃっています。みなさんは、まだ心に罪がありますか? では、自分の心の罪がどんなに暗く汚れたものであるかを神の前で認め、罪を告白し、青色、紫色、緋色の撚り糸によって明かされた真理を信じ、すべての罪の赦しを受けるのです。イエスがすでにすべての罪を贖ってくださったのだとほんとうに信じるなら、心にある罪を全部主の上に移し、完全な罪の赦しを受けることができるのです。
人はみな、神がほんとうに人類のためにご計画になった、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布からなる罪の赦しを心で信じなければなりません。神は、すばらしいイエスのみわざ、青色、紫色、緋色の撚り糸からなる福音をくださいました。それによって、人間が罪の赦しを受け、神の子どもとして力と権威とを享受できるようにしてくださいました。主は、与えられた青色、紫色、緋色の撚り糸によって表わされた救済のみわざを信じることによって人が罪と罰のすべてから救われ、永遠のいのちを受けられるようにしてくださいました。
青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって表わされた真理を信じて救われることを可能にしてくださったことを主に感謝いたします。この真理を信じることによって、人はすべての罪を赦され、信仰によって天の御国に入ることができるのです。ハレルヤ。