説教集

主題 27: コロナウイルスの時代において私たちへの神の手紙

[27-2] ( イザヤ 42:10-17 ) 終わりが近いこの時代に神の民に語られたみことば

( イザヤ 42:10-17 )
「主に向かって新しい歌を歌え、
その栄誉を地の果てから。
海に下る者、そこを渡るすべての者、
島々とそこに住む者よ。
荒野とその町々、
ケダル人の住む村々よ。声をあげよ。
セラに住む者は喜び歌え。
山々の頂から声高らかに叫べ。
主に栄光を帰し、
島々にその栄誉を告げ知らせよ。
主は勇士のようにいで立ち、
戦士のように激しく奮い立ち、
ときの声をあげて叫び、
敵に向かって威力を現わす。
わたしは久しく黙っていた。
静かに自分を押えていた。
今は、子を産む女のようにうめき、
激しい息づかいであえぐ。
わたしは山や丘を荒らし、
そのすべての青草を枯らし、
川をかわいた地とし、
沢をからす。
わたしは盲人に、彼らの知らない道を歩ませ、
彼らの知らない通り道を行かせる。
彼らの前でやみを光に、
でこぼこの地を平らにする。
これらのことをわたしがして、
彼らを見捨てない。
彫像に拠り頼み、鋳像に、
『あなたがたこそ、私たちの神々。』と言う者は、
退けられて、恥を見る。」
 

今日、私たちは礼拝のために集まっていますが、コロナウイルス対策のために社会的な距離を置く必要があるため、多くの聖徒たちが一緒にいることはできません。今日のメッセージを、礼拝に参加できない教会のメンバーたちに伝えていただきたいと思います。猛威を振るうコロナウイルスは非常に危険です。今日のニュースでは、釜山の教会が開催した青少年のリトリートで、150〜160人の参加者のうち、少なくとも30人の10代の若者が感染したということでした。おそらく、この感染症はさらに拡大するでしょう。
教会の中には、若者の黙想でやり過ぎて、参加者が疲れて倒れるまで一晩中祈り、叫ぶことを強要するところがあります。祈りの訓練は青少年の黙想では一般的なものですが、参加した学生があまりにも追い詰められると、体力を消耗し、時には幻覚を見てしまうこともあります。あまりにも激しい訓練のために、正気を失ってしまう参加者もいます。サタンはこの隙を突いて、異言を話しているかのように奇声を発するように被害者を陥れます。これを、聖霊を受けた証拠だと勘違いしている人が多いのです。このように、自分の罪の問題を解決していない人は、神のみことばを無視して、嘘つきに魂を託す傾向があります。このような勘違いをしているキリスト教徒にとって、信仰が強いか弱いかを測る信仰のバロメーターは、どれだけ悪霊にさらされているかということのようです。
最近、ある宗派の信者が悪魔にさらされているようです。こうした人々は、自分たちだけが144,000人の選ばれた人たちであると主張し、自分たちのことを霊的収穫者と呼んでいますが、それは神のみことばではなく、自分たちの考えに基づいた、まったく根拠のない嘘にすぎません。自分が144,000人の選ばれた人々の中にいると言っても、もし心に罪があれば、彼らの言っていることは実は全くの嘘なのです。彼らの主張は、神の前では全くの100%嘘です。
みなさんと私は今、世界がコロナウイルスに侵されている時代に生きています。聖書によると、終わりの時になると、さらに飢饉や病気が増えると書かれています。では、これから先、世界は良くなるのでしょうか。いいえ。もちろん違います。新約聖書には、さらに多くの病気が起こると記録されているためです。パンデミックで世界経済がさらに悪化するのは間違いありません。そして、これまで以上に多くの自然災害が発生します。ですから、これから先、この世界が良くなることは期待できません。
新約聖書の「ヨハネの黙示録」には、世の終わりが訪れるとき、人類の三分の一が自然災害で苦しみ、滅びると書かれています。また、世界の森林の三分の一が一度に焼かれ、海は血の海となり、生物が住めなくなると書かれています。
今日の聖書朗読は、未来に待ち受けているものについてです。では、そのような災害はいつ始まるのでしょうか。それは、神の怒りがこの地上に注がれたときに始まります。旧約聖書の時代を振り返ると、イスラエルの民は神の約束通りカナンの地に入り、繁栄していました。しかし、それにもかかわらず、彼らはやがてヤハウェの神を捨て、豊穣の神バアルや豊穣の女神アシェラといった異教の偶像を拝むようになりました。イスラエル人はこれらの偶像の祭壇で香を焚き、いけにえをささげました。その結果、神は怒りをあらわにされ、イスラエルの民は奴隷にされたり、戦争の捕虜として遠くの国に引きずられたりしました。旧約聖書の時代も新約聖書の時代も、神は同じように偶像崇拝者を罰することを望んでおられました。しかしながら、そのような偶像崇拝者に対しても、神はあわれみ深い愛を与えようとされました。神は、彼らを罪から解放なさるために、彼らのために指導者を立ち上がらせ、喜んで彼らを救われたのです。
 

終わりが近づいているときに主を賛美すべき理由

今日の聖書朗読で、主はご自分の民に希望のメッセ-ジをお与えになって、こうおっしゃいました。
「主に向かって新しい歌を歌え、
その栄誉を地の果てから。
海に下る者、そこを渡るすべての者、
島々とそこに住む者よ」(イザヤ 42:10)。
自然災害がこの世界を襲い、コロナウイルスのパンデミックにより国家間の貿易が遮断され、その結果、経済が崩壊する時代に、神はご自分の民に希望を語られました。つまり、神は水と御霊の福音を通して、終わりが近づくにつれて、すべての人類に新しい希望があることを伝えておられるのです。
このような終わりの時に生きている私たちは、水と御霊の福音のみことばによって、私たちの神であるキリストを賛美しなければなりません。それは、神が水と御霊の福音のみことばによって、私たちをこの世のすべての罪から救ってくださったからであり、その結果、この福音を信じるすべての人が神の御国に入り、住むことができるからです。そういうわけで、私たち水と御霊の福音を信じる者は、神を賛美すべきなのです。
この世界は今、私たちの神であるキリストの再臨が迫っており、水と御霊の福音を信じる者たちがキリストの結婚の披露宴に参加する日が近づいています。つまり、水と御霊の福音を信じる私たちを救ってくださった神が、今こそこの世の人々を裁かれる時なのです。神の裁きは、敵に騙された人々が、神のまことの愛を信じていないので、彼らの上に下ります。したがって、神は裁きの時が来たとおっしゃっているのです。このような時代に生きている私たち義人は、まことの神のみことばである水と御霊の福音のみことばを信じて、すべてのわざを遂行しなければなりません。私たちは、主のまことの愛のうちにとどまり、やがて罪から救ってくださった主にお会いする栄誉を得ます。しかしながら、義人は、神の教会に導かれてこそ、このような終わりの時を生きることができるのです。神のまことの愛に浸っている人は、神の愛のこもった配慮を受けることができます。しかし、このような終わりの時であっても、神ではなく偶像を崇拝している義人たちがいます。このような人たちは、その偶像崇拝を悔い改め、立ち返らなければなりません。それは、私たち義人が主のみこころに従った生活を歩まなければならない理由があるからです。
旧約聖書の時代、アハブ王はイスラエルの民を惑わし、バアルとアシェラを拝ませました。神の民が主なる神を礼拝するように導くのではなく、バアルを礼拝するように惑わしたのです。それは、妻のイゼベルのためでした。イゼベルは外国人女性でした。つまり、イスラエルの民の王であるアハブが、異教徒の女性と結婚したということです。イゼベルは、アハブとの結婚によって、自分の偶像であるバアルをイスラエルに紹介し、その祭司たちも一緒に連れてきました。彼女はアハブ王とイスラエルの民にバアルの像を建てるように促し、それ以来、イスラエルの民は主なる神の代わりにバアルを拝むようになりました。そこで、神はイスラエルの民に三年半もの間、干ばつをもたらし、悔い改める機会を与えられました。
神がこの飢饉をイスラエルの民にもたらしたのは、彼らが悔い改めて神のもとに帰ることを望まれたからです。しかしながら、イスラエルの民は神に従わなかったのです。神は、エリヤを通して、三年半続く干ばつによる深刻な飢饉を警告なさっていました。その時、エリヤは神の指示通りに小川に逃げ込み、そこで安全を確保することができました。そんな激動の時代に、神はエリヤのために、イスラエルの民の中のツァレファテのやもめも用意なさっていました。この未亡人は、当時、樽に小麦粉が一握りしか残っていませんでした。彼女は残りの小麦粉でパンを作り、自分と息子が死ぬ前に最後の食事をしようとしていましたが、神はしもべであるエリヤを通して、ツァレファテのやもめにその小麦粉でパンを作って持ってくるように指示なさいました。やもめは言われた通りにパンを作って神のしもべに仕え、その結果、小麦粉の樽が尽きることなく祝福されたことが聖書に記されています。この出来事は、神を恐れる者とそうでない者を対比することで、神の祝福と呪いがどのように受け取られるかを示しています。
ツァレファテのやもめの話は、イスラエルの一部の民が偶像に仕えていた一方で、神を恐れる人々がいたことを明確に示しています。それは現代でも同じです。世界中の多くの人々が神ではなく偶像に仕えていますが、神とともに歩んでいる人もいます。今の時代、キリストの愛と、キリストが与えてくださった水と御霊の福音を心に受け入れて、神の祝福を受けている人たちがいるのは、明らかです。一方で、神とその水と御霊の福音を心に受け入れることを拒み、無益な偶像に仕えて神に逆らい、最後には滅ぼされてしまう人たちも大勢います。偶像に仕えることで、神のまことの愛を拒絶しているのです。罪の奴隷であり、嘘つきに騙されて、神の真理に敵対し、神の怒りを買っているのです。このように神のまことの愛を拒み続けるならば、最後には神の怒りに直面し、地獄に落とされることになります。人類の罪が天におられる神に達するまで積み重なっていくと、そうした罪は神の火の裁きとなって、さばきとしてこの地上を襲います。現代の人類は災害に見舞われ、多くの人々が突然死しています。なぜだかわかりますか。それは、神のまことの愛を拒んだために、人々が死んでいるのです。人類の歴史を振り返ってみると、罪が重なるたびに、何らかの病気が発生し、人口が減っていきました。世界が科学的に進歩すると、それに伴って罪の文化も進歩し、人間はその文化の中に隠れて生きるようになりました。結局、人類は神から遠ざかり、雪崩のような呪いと苦しみの中で生きていくことになったのです。インカ文明にしてもローマ文明にしても、すべての文明は、偶像崇拝の文化が急激に高まったときに、忽然と地上から姿を消しました。中世には黒死病(ペスト)が人類を襲い、何千万人もの犠牲者を出しましたが、人類はこのパンデミックから立ち直ると、さらに高度な罪の文化を身につけていったことがわかります。
この地球上のすべての人間は、宇宙の創造主かつ罪人をすべての罪から解放してくださった救い主キリストである神を信じることによって、祝福された罪の赦しを受けるべきです。しかしながら、問題は、無数の人々がいまだに唯一のまことの神ではなく、偶像を自分の神として拝んでいることです。そのため、神は再び彼らを裁くことになります。私は、今の時代を襲っているコロナウイルスのパンデミックの中でも、神が人類に最後の霊的収穫を与えてくださることを祈ります。今日、神は、私たちが神の教会を通して水と御霊の福音を全人類に広めることを可能にしてくださいました。水と御霊の福音を信じる私たちは、電子ブック、印刷物、オーディオブックを通して、この福音を完全に宣べ伝えています。科学の進歩に伴い、人間の犯した不正が地球上にますます蔓延しているのは、この時代の事実です。しかしながら、神は病気という苦難を通して、水と御霊の福音のみことばを人類に広めておられます。それゆえ、神は私たち義人にも信仰を貫き、神を礼拝するように諭しておられるのです。
神は義人におっしゃっています。
「荒野とその町々、
ケダル人の住む村々よ。声をあげよ。
セラに住む者は喜び歌え。
山々の頂から声高らかに叫べ」(イザヤ 42:11)。
今日、世界中で私たちのように水と御霊の福音を宣べ伝えている人たちがたくさんいます。私たちは、水と御霊の福音のみことばをすべての国に広めることで、神を賛美することができます。神は、水と御霊の福音を信じる義人である私たちを愛しておられ、この神がこの地上に戻って来られることを信じているので、神を賛美することができます。神は私たちを祝福して、「イエス・キリストは、水と御霊の福音を信じる私たちを、ただ一度ですべての罪から救ってくださった。」と神の賛美を歌います。神は、私たち義人すべてに、神が私たちに与えてくださった恵みを賛美し、水と御霊の福音を全世界に広めなさいとおっしゃっているのです。
人間がどれだけ罪を犯しても、神は裁かないように見えることがあります。しかしながら、神の前に傲慢に歩き踊る罪人に対して、神はご自身が裁き主であることを明らかにしておられます。時々、神は私たち全員から沈黙して隠れておられるように見えますが、私たちは、神がずっと私たちの側におられ、私たちに語りかけ、助けてくださっていることを知っています。神は、水と御霊の福音を通して、私たちにご自身を現しておられます。神の沈黙はあまりにも長く、誰もが神は存在しないと思うかもしれませんが、人類の罪が積み重なってある限界点に達したとき、神がご自身を現すことを、私たちは人類の歴史から知っています。第二次世界大戦後、人類は爆発的に人口を増やしました。それに伴い、不正も増え、様々な悪事が発生しています。しかしながら、神の許しを得て、人類は水と御霊の福音を見つけ、信じる機会を再び得たのです。この機会を逃さないように、すべての人間が立ち返り、神から与えられた救いの祝福を見つけなければなりません。私たちは、神の祝福を活用して、水と御霊の福音を全世界に広めなければなりません。今、私たちは、世界中で戦争の恐怖にさらされている時代に生きています。しかし、戦争よりももっと恐ろしいのは、病気です。そして、それ以上に恐ろしいのは、経済の完全な崩壊です。このような時代になると、すべての人間は肉体的にも霊的にもひどい干ばつに見舞われ、ほとんどゾンビのようになってしまいます。このような時代になったとき、全世界に水と御霊の福音を宣べ伝えることができるように、神は私たちにすべての準備をさせておられることがわかります。
こうした困難な時代に起きているすべての出来事を見て、人間は神の前で厳粛に自分を測り、今こそ魂の救いを求めるべきです。彼らは次のことを自分自身に言い聞かせるべきです。「今までのようにしていたら、私は確実に滅びる。私は死に向かって進んでいる。この時代にどうやって罪から救われるのか。」 すべての人間は、自分の罪から救われる道を見つけるために祈るべきなのです。簡単に言うと、神は全人類に対して、神とその義を持つ水と御霊の福音を見つけて信じなさいとおっしゃっています。神は、「救いを受けなさい。」とおっしゃっているのです。神は全人類の救い主であるイエス・キリストを召され、イエス・キリストは私たちに与えてくださった水と御霊の福音を信じて天国に行く準備をしなさいとおっしゃっているのです。こんな時代だからこそ、人間は私たちのキリストである神を求めて叫び、神から与えられた水と御霊の福音を心から信じなければなりません。同時に、水と御霊の福音を見つけた者は、神を賛美し、より良い未来に備えることができる祝福を受けていることを忘れてはなりません。それに対して、水と御霊の福音を見つけられなかった人は、その魂が永遠に滅びるのを見ることになります。
この終わりの日に、神は私たち義人に、黙っていないで声高に叫ぶようにとおっしゃっています。戦士のように熱意を燃やして、祝福された救いのわざを大声で叫び、水と御霊の福音を宣べ伝えなさいと、神の働き手におっしゃっています。人々は、病気や戦争、経済的な災害など、この世のさまざまな苦難の中で、まことの愛を与えてくださった主を呼びに来るのです。すべての人間の神は、今、彼らにも水と御霊の福音を信じることによって、すべての罪の赦しを受けるようにとおっしゃっています。そして、私たち信者には、すべての罪人のために水と御霊の福音を叫べと、神はおっしゃっています。神は義人を通して語られるのです。すべての人間が正気に戻り、すべての罪人が、神から与えられた水と御霊の福音を信じることによって、心に罪の赦しを受けることができるように、私たちに叫ぶようにとおっしゃっているのです。言い換えれば、神は私たちの声を通して、水と御霊の福音が神のしもべによって説かれ、今の時代に生きるすべての人の心に入るようにみわざをなさるのです。
人は、自分がうまくいっているとき、快適なときには、救い主である神を求めない傾向があります。そういうわけで、神は時に人間にトゲのような苦難をお与えになるのです。私たち個人にも、国にも、そして人類全体にも、このようなことが起こるようになさっています。自分の罪のために苦しまなければ、神の前で自分のことで精一杯になるのが人間の本性です。苦難が訪れたときこそ、私たちは神の前に頭を垂れて、神の愛とあわれみを求めるのです。ですから、このような苦難の時に救い主である神を信じることは、最高の祝福と言えるでしょう。それでも、水と御霊の福音を信じている人の中にも、神ではなく偶像に仕える人がいます。神はそのような人たちに、次のようにおっしゃっています。「自分の罪を認めて、立ち返り、水と御霊の福音を宣べ伝えなさい。」
同僚の聖徒たちよ。たとえ水と御霊の福音を心から信じていても、肉の欲に従っているのであれば、神の御目から見ると、その人は偶像崇拝者と同じです。イスラエルの民は、主なる神がまことの神であることを知っていました。それにもかかわらず、彼らは神の代わりに偶像を拝んでいました。そういうわけで、神は彼らを罰したのです。私たちにも同じことが言えます。私たちが水と御霊のまことの福音を知り、信じていても、自分の肉のためだけに生きようとするなら、神は私たちが旧約時代の偶像崇拝者と同じであると教えておられるのです。つまり、水と御霊の福音を信じている人でも、福音を伝えることに人生をささげていなければ、神はアハブと同じだと言っているのです。神を敬い、愛していると言っても、神に喜ばれることをしなければ、神はその人を不信心者として扱うだけです。
神の教会は誰でも導けると思いますか。神が望んでおられる教会とは、水と御霊の福音を信じ、神のご命令に従い、偶像から離れ、主に仕える人々の集まりです。それを神の教会といいます。言い換えれば、神のみこころに従い、服従する人が神の教会の一員なのです。そのような人たちに、神はみわざをなさり、祝福してくださいます。神は、そのようなしもべたちの心に聖霊を注いでみこころを明らかにし、水と御霊の真理を宣べ伝えさせ、すべての聖徒たちが神のみこころに従うことができるように指導の義務を委ねられます。したがって、もしある人が水と御霊の福音を理論的なレベルでしか知らず、心から信じないでこの福音を伝えているなら、そのような人たちの集まりは神の教会ではありません。
しばらく前に、ある兄弟が神の教会を離れて自分の教会を立ち上げ、自分が神の教会だと主張しました。しかし、私は神に強制されて、彼に次のように言わせました。「兄弟よ。それは本当の神の教会ではありません。あなたは神に仕えているのではありません。あなたは自分の偶像に仕えているのです。あなたは今、水と御霊の福音を伝えるために多くのことをしていると思っているかもしれませんが、あなたの心はすぐに堕落して、主に仕えることができなくなります。そして、あっという間に普通の罪人と同じになってしまいます。それは、あなたが水と御霊の福音を説いて仕えているのではなく、自分の肉の欲に仕えているからです!」
罪の赦しを受けても、最近の多くの教会信者がそうであるように、人々が金儲けや自分や家族を豊かにすることにしか関心がないとしたら、そのような人々の集まりがどうして神の教会になるでしょうか。イエスや聖霊が彼らの心に働いてくださるのでしょうか。いいえ、聖霊は彼らのうちに働かれません。私は、自分が聖霊だと主張している人を知っています。彼は神を冒瀆する者です。自分が聖霊だと主張する人は、聖なる神を冒瀆しているのです。彼が食糧を食べ、トイレに行かなければならない肉を着た人間が、このように高慢に神に立ち向かうのは、とんでもないことです。聖霊は神ご自身であられるため、心が罪深い人がどうして神になれるというのでしょう。そのような人は、必然的に神のさばきを受けることになります。おかしな話です。このように神を冒瀆する者は全員、神のさばきを免れることができないので、自分の罪から立ち返らなければなりません。この人は、明らかに修練会のたびに白い馬に乗って現れ、自分の兄が教団の頭であり、自分が聖霊であると言っているようです。ヨハネの黙示録 第 6 章を見ると、四頭の馬が白い馬、赤い馬、黒い馬、青ざめた馬の順に現れます。白い馬に乗っているのはキリストで、神ご自身です。しかし、この嘘つきは、自分こそが白い馬に乗っているととんでもないことを主張しています。
神はここで、第 15 節でこうおっしゃいました。
「わたしは山や丘を荒らし、
そのすべての青草を枯らし、
川をかわいた地とし、
沢をからす。」
聖書はここで、神が世界に飢饉をもたらし、経済を飢えさせ、病気を解き放ち、世界を荒廃させるとおっしゃいます。一度でも世界的な飢饉が起これば、この世界は住めなくなります。インフレはコントロールできないほど急上昇します。それが神のもたらすものです。このように、神は終わりの日に言い表せないほどの災害を人類にもたらします。一方、義人に関しては、霊的に盲目の人たちを正しい道に導き、やみの中で光を放ち、神を賛美するようになさいます。そのような人たち以外に義人はいないということです。人々が義人の説く水と御霊の福音を信じて罪から救われれば、彼らもまた私たちと一緒に救いの神を賛美するようになるのです。最近、私たちは電子ブックや印刷物を通して水と御霊の福音を宣べ伝えていますが、もし罪人たちが私たちの宣べ伝えているものを読み、聞き、信じるならば、彼らもまた私たちと同じように信仰によって神を賛美するようになるでしょう。
 

神は終わりの日に、やみの中にいる人々を光へと導かれる

ここで、第 16 節を見てみましょう。
「わたしは盲人に、彼らの知らない道を歩ませ、
彼らの知らない通り道を行かせる。
彼らの前でやみを光に、
でこぼこの地を平らにする。
これらのことをわたしがして、
彼らを見捨てない。」
世界中の多くの人々が、水と御霊の福音を悟る日がもうすぐやってきます。しかしながら、今はまだ、世界中の数え切れないほどの人々が、水と御霊の福音のみことばを知らないのです。それにもかかわらず、現在、私たちはホームページをリニューアルしており、これが完成すれば、世界中のより多くの人々が水と御霊の福音に出会い、学ぶことができます。そして、私たちと同じように、このような人たちも、「ああ、神は水と御霊の福音によって、私たちを世のすべての罪から救ってくださったのだとわかりました。そして、神が私たちをこのように愛してくださっていることもわかりました。水と御霊の福音こそが、本当の救いの真理だ。」と言って、神が与えてくださる愛と救いを信じ、賛美するようになるのです。このようにして、人々は神から与えられた水と御霊の福音の真理を把握するようになります。このようにして、今まで暗闇に閉じ込められていた人、牢獄に閉じ込められていた人、罪にまみれていた人が、明るい光を発見し、この光の下に出てきて、信仰によって罪から救われるようになるのです。そして、そのような人々は、信仰によって神を賛美するようになるのです。
この終わりの時代にあっても、神は一人の罪人も見捨ててはおられません。それどころか、神の御目は、神を求めている人々のために高くも、低くも見ておられます。この世には、神を探している人もいれば、神に敵対している人も大勢います。さらに、心が貧しい人々の中に豊かな人々が大勢いるように、心が豊かな人々の中にも貧しい人々が大勢います。神は心の貧しい者を探しておられます。神が水と御霊の福音によってお救いになり、天の御国の賜物を与えてくださるのは、このような人たちなのです。
韓国のある大企業の社長で、肝臓がんの末期患者がいました。ある日、病院のベッドで聖書を読んでいると、「金持ちは天国に入れない」という聖句が出てきたそうです。そこで彼は、「自分は金持ちだから、天国には入れないのか」と深く悩んだそうです。彼は教会の牧師に向かって、「私は聖書の中でこの節を見つけました。お金持ちだから、天国には行けないということですか。私が天国に入るための方法を教えてください。」と尋ねました。しかしながら、牧師は彼に水と御霊の福音を教えることができませんでした。その牧師は、「次に訪ねたときに教えてあげます。」と言ったそうですが、その直後に社長は亡くなってしまいました。この話は、地元のキリスト教界で広く伝わり、やがて私たちの耳にも届きました。もし、私たちの兄弟姉妹が一人でもそこにいたら、この社長は罪から解放されていたでしょう。ここでいう金持ちとは、肉において豊かな人のことですが、霊的には、心が豊かな人は何があっても天国には入れないというのが、この聖句の真の意味です。神はすべての人におっしゃいました。
「心の貧しい者は幸いです。
天の御国はその人のものだからです」(マタイ 5:3)。
ここで神は、私たちが心の貧しい者でなければならないことを教えておられます。それでも、世の中には心が貧しくない人があまりに大勢います。大金持ちであっても心の貧しい者もいれば、少しでも金持ちになると心が傲慢になる者もいます。このように心が高ぶっている者は、神を求めないので、天国に入ることはできません。そういうわけで、神は、水と御霊の福音を信じることで人々が救われるように、この世に貧しさと苦しみを許してくださったのです。神はすべての人類に貧しさと苦しみを許されました。この金持ちの社長も、兄弟姉妹が語る水と御霊の福音の本に出会いさえすれば、罪の赦しを受けることができたのです。
神は今でも心の貧しい者を探しておられます。神を呼び、水と御霊の福音による罪の赦しの救いを求めている人を探しておられます。世界にはそのような人々が大勢います。ですから、今日、私たちのホームページや本で水と御霊の福音を読んだり聞いたりして、それを心から信じ、それによって罪から救われる人が大勢います。救いの主を探している多くの人々が、パソコンやスマートフォンで水と御霊の福音に出会い、読んだり、聞いたりしています。水と御霊の福音の全内容は、私たちのウェブサイトから見ることができます。神から与えてくださった水と御霊の福音による救いに到達したい人々、神の祝福を受けたい人々、真理を聞きたい人々は、すべてを見つけることができます。主を探している者にとって、私たちがウェブサイトにて無料で利用できるようにしている本は素晴らしいニュースです。神は、彼らを見捨てないとはっきりおっしゃいました。次のように書かれているとおりです。
「わたしは盲人に、彼らの知らない道を歩ませ、
彼らの知らない通り道を行かせる。
彼らの前でやみを光に、
でこぼこの地を平らにする。
これらのことをわたしがして、
彼らを見捨てない」(イザヤ 42:16)。
やみの中にいる人々を「神の教会」と「水と御霊の福音」に導き、主の愛と神の義を見つけて信じ、神を賛美することができるように、神は祝福してくださいます。
 

人類は信仰によって正しい神を受け入れる準備をすべき

最終的には、今日の聖書朗読で神は次のようにおっしゃいました。
「彫像に拠り頼み、鋳像に、
『あなたがたこそ、私たちの神々。』と言う者は、
退けられて、恥を見る」(イザヤ 42:17)。
神の前から地獄に投げ込まれた人たちは、神が水と御霊の福音を通して与えてくださる罪の赦しの救いを受け入れないために、このような悲惨な結果を迎えるのです。それに対して、主のおかげで新しく生まれている私たち義人は、全能の神、聖なる神、あわれみ深い神、聖なるキリストのみわざ、そして水と御霊の福音を信じて救いを受けています。ですから、私たちはみな、この神、イエス・キリストが私たちをすべての罪からただ一度で救ってくださったことを悟り、このことを心から信じて、神にすべての感謝をささげましょう。地獄に投げ込まれるしかなかった私たちを、神が水と御霊の福音によってただ一度ですべての罪から救ってくださったことを信じて、主に感謝しようではありませんか。私たちは、神以上に愛するものはなく、定期的にみことばに心を映し、道を踏み外したら立ち直りましょう。これらのことをすべて行うなら、私たちは神の愛を受け、神に対して従順に生きることができるようになります。そうすれば、毎日の生活の中で、神からの祝福を受けることができます。これを悟って、私たちは自分自身を見つめ直す必要があります。時々、自分の心を吟味する必要があります。この終わりの日に、水と御霊の福音を信じて罪から救われていることは、なんと素晴らしいことでしょう。私たち水と御霊の福音の信者が、神の民となっていることは、なんとありがたいことでしょう。裁きの神が私たちの神であり、救いの神が私たちの神であり、私たちがこの神を信じ、愛し、賛美していることは、なんと驚くべきことでしょう。そして、この神の愛を信じ、神を信じて、神を賛美し、礼拝している私たちがほんとうに祝福された者であることを、なんと感謝していることでしょう。
この終わりの時に、神とその義を知らない人は惨めです。そのような人々は、どんなにお金持ちであっても、最後には滅ぼされてしまいます。しかし、そのような人たちにも希望はあります。世界中の人々が、最も裕福な人から最も貧しい人まで、私たちの本に出会い、私たちの働き手に会えば、罪から救われるのです。水と御霊の救いの福音を読み、信じることによって、彼らも救われるのです。
人類は信仰によって公正な神を迎える準備をしなければなりません。すべての人間は、天国に入る準備をしなければなりません。といっても、私たちが旅をして、世界の隅々まで本を持っていかなければならない、ということではありません。今までやってきたこと、水と御霊の福音の使役を支え、この福音に仕え、残りの生涯を信仰によって生きることを続けていけばよいのです。私たちは終わりの日に生きていますが、私たちがすべきことは、主を賛美し、主を礼拝し、主のみことばに耳を傾け、主を敬い、主を宣べ伝えることであり、同時に、自分自身を大切にすることです。次のように書かれているからです。「主を待ち望む者は新しく力を得る」(イザヤ 40:31)。この終わりの時に生きる私たちは、私たちを完全にしてくださる主に目を向けなければなりません。そうすれば、私たちは勝利を得ることができます。そして、新しく力を得て、信仰生活の中で神からの祝福を受け、それによって、この地上での残りの時間を価値ある人生にすることができるのです。
この時間に行なっている説教は、ビデオや原稿として韓国の教会のメンバーや世界中の信者たちと共有できるように録音されています。このように、私の心からの願いを同僚の聖徒たちに伝えることができるのは、とても素晴らしいことです。私たちは、水と御霊の福音を信じて新しく生まれている神の民ですが、たった一、二ヶ月でも神への礼拝をやめてしまうと、非常に簡単にこの世の人間に戻ってしまいます。私たちの心は完全に神から離れてしまうかもしれません。ですから、私たちが神にささげているこの礼拝は、絶対に大切なものです。礼拝を行うことが困難でなかった頃の私たちは、礼拝をどのように扱っていたでしょうか。礼拝を軽く考えすぎていたのではないでしょうか。時には、ただのルーティンになっていて、習慣的に急いでやっていたこともありました。この一年間は、コロナウイルスのパンデミックに伴う規制により、礼拝の規模を縮小したり、時には中止したりしなければならず、私の心は重くのしかかっていました。なぜ心が重くなるのかを考え、祈ってみました。そして、神を礼拝しなければ、失敗するに決まっていると思い至りました。したがって、主がこの地上に戻って来られる日まで、信仰によって礼拝の祭壇を築いていかなければなりません。聖霊は私の心に理解を与え、「忙しいから、困難な状況に直面しているからといって、どうして神を礼拝しないのか。」と言われました。そこで、私は主に、「主よ、わかりました。私たちはあなたを礼拝します。私たちは礼拝を行います。」 こうして私は、教会のメンバーの健康と安全を守るために最大限の努力をしながら、礼拝を再開することにしたのです。
今日、朝の礼拝が終わって通路を歩いていると、ジウンさんが通路の端に立って私を待っていてくれました。挨拶をすると、ジウンさんは、「礼拝に参加できるようになって嬉しいです。」と言ってくれました。礼拝が中断されている間、彼女は惨めな思いをしていましたが、再び礼拝の時間に参加できるようになったことを喜んでくれていました。そこで私は、「私もとても嬉しいです。」と伝えました。喜んでいるのは私だけではなく、私たちの心の中にいる聖霊も喜んでいるのです。神を礼拝することは素晴らしいことです。この礼拝は、神の御目には祝福であることがわかります。罪の赦しを受けている人であっても、たった数ヶ月でも神への礼拝をやめてしまうと、信仰がなくなり、心が堕落してしまいます。完全にこの世の人になってしまいます。識別力を失い、心が世に向かってしまうのです。礼拝に参加することによって、私たちは神のみことばを聞き、神のみこころを悟り、神を敬い、聖霊のみわざへの従順において主に従うことができます。神のみことばによって、私たちの間違いが指摘され、修正され、主に従うことができるようになるのです。このような祝福は、神を礼拝するすべての人に保証されています。韓国の教会、そして全世界で働いている神の働き手や聖徒たちは、忠実に神を礼拝し、神の祝福を受けるべきです。どのような状況にあっても、すべての人が神を礼拝しなければなりません。そして、福音の使役を支え続けなければならないのです。私たちは時々、一時的に落ち込むことがあると思います。そうであっても、私たちは神を礼拝しなければなりません。ですから、まず自分のことよりも周りの同僚の聖徒たちのことを考え、お互いのためにあらゆる予防措置をとり、神を礼拝するために最善を尽くしましょう。私たちが主に出会うその日まで、みんなで神に祈り、神を賛美し、神のみことばを信じて生きていきましょう。みなさんに神の祝福がありますように。