説教集

主題 27: コロナウイルスの時代において私たちへの神の手紙

[27-4] ( エゼキエル 28:11-19 ) 神に敵対する者に抵抗して私たちの信仰を生き抜こう

( エゼキエル 28:11-19 )
「次のような主のことばが私にあった。
『人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。
神である主はこう仰せられる。
あなたは全きものの典型であった。
知恵に満ち、美の極みであった。
あなたは神の園、エデンにいて、
あらゆる宝石があなたをおおっていた。
赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、
緑柱石、しまめのう、碧玉、
サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。
あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、
これらはあなたが造られた日に整えられていた。
わたしはあなたを
油そそがれた守護者ケルブとともに、
神の聖なる山に置いた。
あなたは火の石の間を歩いていた。
あなたの行ないは、
あなたが造られた日から
あなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。
あなたの商いが繁盛すると、
あなたのうちに暴虐が満ち、
あなたは罪を犯した。
そこで、わたしはあなたを汚れたものとして
神の山から追い出し、
守護者ケルブが
火の石の間からあなたを消えうせさせた。
あなたの心は自分の美しさに高ぶり、
その輝きのために自分の知恵を腐らせた。
そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、
王たちの前に見せものとした。
あなたは不正な商いで不義を重ね、
あなたの聖所を汚した。
わたしはあなたのうちから火を出し、
あなたを焼き尽くした。
こうして、すべての者が見ている前で、
わたしはあなたを地上の灰とした。
国々の民のうちであなたを知る者はみな、
あなたのことでおののいた。
あなたは恐怖となり、
とこしえになくなってしまう。』」
 

堕天使

今日の聖書朗読では、神は、神の園に住むことを祝福された御使いの堕落について語られています。この御使いは、最初は自分の地位にふさわしく神に従った生活をしていましたが、心が傲慢になったために地位を捨て、最終的には神に追い出されてしまいました。旧約聖書の創世記には、神が御使いを創造したという記録はありません。聖書に御使いについての詳細な記述がないのは、神が堕落した人間をそのすべての罪から救う目的で聖書を書かれたからです。人類を罪から解放するという神の救いのご計画とその成就が、イエス・キリストによって成し遂げられたことを、神は聖書に記録されました。このように、聖書は主に救いの真理に焦点を当て、神がいかにして堕落した人間を罪から解放なさったかを示しています。神は、水と御霊の福音の真理を通して、ご自身の救いの摂理を私たち全員に明らかにしてくださることを喜んでおられます。
堕天使の働きについて知っておくことはやはり重要ですから、今日のエゼキエル書の聖句で神はそのことを語っておられます。ここで神は、ツロの王の罪を指摘なさり、この王の裁きを、神に反逆した御使いの裁きと同一視しています。これは、鈍感な私たちに教えるための神の知恵でもあります。ほとんど人は堕天使の働きを知らないので、無意識のうちに堕天使を崇拝しているのです。ここで問題なのは、誰もが御使いについての知識を必要としているにもかかわらず、それが私たちの現実ではないということです。不注意にも御使いを崇拝することになってしまわないように、この世の誰もが、神にそむく御使いについての正しい知識がなければ、神の祝福を受けることができません。神が私たちから隠された真理は、神が教えてくださらなければ理解できませんし、そうでなければ神にそむく御使いについて何も知ることができません。今まで神に敵対する者が誰なのかわからなかったのは当たり前のことです。神から与えられた水と御霊の福音による救いの真理を知った今、私たちは神にそむく御使いについて学び、その真理のうちにとどまるべき時なのです。水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けているなら、神のしもべから堕天使について教えてもらい、神がどのような信仰生活を望んでおられるのかを悟る必要があります。ですから、私たちは、神から与えられた水と御霊の福音のみことばへの信仰を持たなければなりません。神は、もはやご自身の目的を隠すことなく、代わりに水と御霊の福音を信じる信仰の民にそれを明らかにすることを喜んでおられます。
ここで、今日の聖書朗読では、ツロの王が堕天使のように自分の心を高めて神に対して罪を犯したことがわかります。神は、ツロの王と堕天使を通して、私たちに次のことを伝えておられます。それは、私たちの心が神の前で高慢になるなら、ツロの王や堕天使のように追い出されるということです。神の前で高慢になる者は、どんな人であっても神の裁きを受けるということを、堕天使を通して示しているのです。個人でも王でも、どんな立場の人でも、心が高慢になることは、神に敵対する者になってしまうことなのです。
ですから、私たちは神の属性についてもっと学び、明確な真理を守ることが非常に重要なのです。また、神にそむくことが悪魔の本性であることを悟らなければなりません。今日のエゼキエル書の聖書朗読は、堕天使の罪を詳細に記録しており、私たちに多くの霊的教訓を与えてくれます。神は、戦争の御使いミカエルや、良い知らせを伝えるガブリエルなど、さまざまな御使いにそれぞれの仕事を任せておられました。しかしながら、神から与えられた任務を遂行した後に、神に反逆した御使いもいたので、何があっても神に敵対する者になってはいけないという重要な教訓が、この記述から得られます。この堕天使の罪を通して、神は私たちに「高慢」について教えてくださっているのです。
 

自分の自由意志で神に敵対する者になったらどうなるのか

堕天使について言えば、聖書には第 13 節の終わりの方でこう書かれています。
「あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、
これらはあなたが造られた日に整えられていた。」
堕落する前のこの御使いの任務は、神が用意なさった楽器を使って神の聖さを賛美することでした。この御使いは、神が創られたすべての御使いの中で、高い地位にあったと書かれています。次のように書かれているとおりです。
「わたしはあなたを
油そそがれた守護者ケルブとともに、
神の聖なる山に置いた。
あなたは火の石の間を歩いていた。
あなたの行ないは、
あなたが造られた日から
あなたに不正が見いだされるまでは、完全だった」(エゼキエル 28:14-15)。
ここからわかるのは、神がこの御使いを創造なさったとき、その御使いに欠けているものがないように、完全に近い状態で造られたということです。また、ここから、神は人間だけでなく、創造なさったすべての御使いたちに自由意志をお与えになったことがわかります。神から与えられた自由意志は、神の栄光のために、神に喜ばれる形で行使されるのが当然です。言い換えれば、自由意志を持つ者は、神に従い、神のみこころに従って自分を服従させることによって、神の栄光のために生きるべきなのです。
堕天使の罪を考えてみると、彼に与えられた自由意志を悪用したことがよくわかります。堕落に陥る前は、最も身近な神に仕えていたことは間違いありません。神に最も近いところで神に仕えていた御使いが、神に敵対する者になってしまったのですから、神から追い出される理由は十分すぎるほどあります。この結果は、明らかに御使いが自分の自由意志を管理できなかったことに起因しています。私たち人間もまた、自由意志によって数え切れないほどの誤った判断をしています。現代においても、神にそむいた御使いの働きは、この世の無数の王や人々の心に入り込み、神にそむくように仕向けることです。多くの人々の心に入り込んだ、神に敵対する者であるこの悪霊は、彼らを神への反逆に駆り立てているのです。ですから、昔、神がご自分に敵対する者を裁かれたように、今日も、神はご自分に敵対する者全員を裁く日を待っておられます。ですから、私たちは堕天使の働きを正しく知り、決して堕天使の足跡をたどってはいけないのです。
今日の聖書朗読に出てくるツロの王は、イスラエルの民にとって人生の悩みの種でした。それは、イスラエルの国が神にそむいて罪を犯したとき、神はツロの王をその民のもとに遣わされ、彼らを虐げたからです。イスラエルの国が罪を犯したとき、神はその民をこの世の王たちに引き渡し、彼らの手で苦しむことを許されました。しかしながら、ツロの王は、ある地点で立ち止まり、行動を慎むはずでした。傲慢な彼は、自分の自由意志で止めるべきところを、かえって神の機嫌を損ねるような一線を越えてしまったのです。しかし、ツロの王は、イスラエルの民を迫害することに忙しかったのです。今、この世界の多くの王たちや人々の心に働きかけているのは、大昔に、エデンの園に住んでいた堕天使であることを忘れてはなりません。今日、義人を苦しめる人々がいますが、彼らは心に悪霊が宿っているから義人にそむいているのだということを、私たちは悟る必要があります。
 

私たちが神に敵対する者として生きるとしたらどうなるのか

水と御霊の福音を信じる私たちは、全能の神に大切にされて日々の生活を送っています。しかしながら、そのような私たちの中にも、神にそむき、結果として神に呪われてしまう人たちがいる可能性があります。水と御霊の福音のみことばを信じて、すべての罪の赦しを受けている義人の中にも、神の祝福を受けずにこの世に生きている人がいます。これはなぜでしょうか。まず、こうした人々は、水と御霊の福音がすべての罪から贖われることを可能にする本物の真理であると信じても、主の戒めと心を一つにしていません。それは、神の権威を無視して、自分の肉の利益だけを求めて生きようとするからです。現代の神の民の中にも、古代の堕天使のように、神のみわざにそむく者がいるからです。そういうわけで、神から霊的な祝福だけでなく、物質的な祝福も受けることができず、悲惨な生活を送っているのです。
もしみなさんが、神から与えられた水と御霊の福音を本当に信じているなら、この福音の宣教の邪魔をしてはなりません。どんな状況であっても、水と御霊の福音を広め、神のわざに仕えることに献身しなければなりません。今日、主から与えられた水と御霊の福音を信じて神の御目に義人となった人々は、全能の神の愛を信じているために、この福音の宣教に人生をささげたいと願っています。それは、水と御霊の福音を信じる者の心には聖霊が宿っており、この聖霊が神をたたえる生活を喜んでくださるからです。私たちは、全能の神の愛を信じているので、神の福音を宣べ伝えるときに心が最も満足するのです。それが、私たちが信仰によって神をたたえる方法です。それなのに、義人の中にも、水と御霊の福音を宣べ伝えるために生きようとしない人が時々見られるのは、なぜでしょうか。それは、そうした人たちが神の愛を自分の偶像や欲望に置き換えているからです。
使徒パウロは、次のように言いました。「御霊を消してはなりません」(Ⅰテサロニケ 5:19)。神が聖霊によって義人の心を鼓舞し、神のわざをさせてくださるとき、私たちの心は喜び、幸せになります。このように、私たち義人に、水と御霊の福音に仕えようとする気持ちを与えてくださるのが、聖霊なる神なのです。これは神のみこころですが、もし私たちがそれを無視するなら、神の愛にそむくことになってしまいます。ですから、私たちは神のみこころである水と御霊の福音を広めるために自分の人生をささげ、信仰によって生きなければなりません。そうしてこそ、私たちは神の愛と祝福を受けて生きていくことができるのです。もし私たちが神のみこころに敵対する者として、この地上での生活を送るなら、私たちには呪いと苦しみしか残りません。
次に、神に敵対する者はいつ破滅するのでしょうか。それは、神の裁きのときが来た時に起こります。今日の聖書朗読で、神のみことばは私たちにこう語っています。
「あなたの商いが繁盛すると、
あなたのうちに暴虐が満ち、
あなたは罪を犯した」(エゼキエル 28:16)。
もし私たちが水と御霊の福音を宣べ伝えることをあきらめて、肉的、世俗的な生活に満足を覚えるなら、最終的には、神の水と御霊の福音を信じる私たちでさえ、神のそむく者とともに永遠に滅ぼされてしまうのです。ここで聖書に書かれている「あなたの商いが繁盛する」とは、繁栄のことです。水と御霊の福音を通して全能の神の愛を信じていても、世で団結してこの福音に仕えていなければ、私たちも最後には神の敵になってしまうのです。もし私たちが神の祝福のおかげで繁栄を享受しているなら、神の喜びのために水と御霊の福音を広めるために、さらに忠実に生活を生き抜かなければなりません。傲慢な人の心は、自分の人生に神の義ではなく、自分の肉の繁栄を求めるとき、高慢の罪に陥ります。
ですから、私たち義人はこの世で生活をしながら、肉において豊かになったときには、より一層、福音を広めることに自分自身をささげなければなりません。私たちは、水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けているのですから、心がまっすぐであれば、この地上でも繁栄することができます。私たちは、水と御霊の福音を宣べ伝えるために団結して仕えている間にも、ときどき間違いを犯します。そのようなそむきの罪も、神が水と御霊の福音によってすでに洗い流してくださっていることを信じて対処すべきです。みなさんが神と一体となって生きるなら、神はみなさんの弱点をすべて覆ってくださいます。しかしながら、神のみこころを知りながらも神の義にそむく者の罪を、神はただ見逃すわけではありません。これが神の正義なのです。水と御霊の福音を信じる私たちが、世の富を求めるだけの生活をしていたとしても、神はただ黙って見過ごすことはありません。
私たちは、神に敵対する者が何をするかをもっと知らなければなりません。神が私たちをご覧になるとき、神は私たちの誇りをどのようにご覧になるでしょうか。それは、自分の能力だけを信じ、神に頼らないことであり――これが「傲慢」というものです。神の前で心が高ぶっている人は、神のしもべや民の権威を見下しているだけでなく、さらに一歩進んで神のわざを妨害しています。神のわざを妨害するからこそ、自分が神にそむくことになってしまうのです。神は私たち義人に対して、「同僚の言葉を無視するのは傲慢だ」とおっしゃっています。それは、神がその民の心の中で、「あなたの同僚の言葉は、わたしのことばだ」とおっしゃっているからです。神は、教会のメンバーの唇を通して、私たちの傲慢という罪について語っておられます。神はしもべを通してみなさんに語りかけ、私たちも教会のメンバーを通して神のご命令を聞くのです。みなさんと私が神の御目の前で道を踏み外すと、神は教会の人々を通して私たちに語りかけます。「あなたのしていることは間違っている。あなたは道を踏み外している。」と。神の警告を聞くのは、神の民を通してです。このような時だからこそ、私たちは同僚から聞いている言葉が神のみことばであることを認識でき、それに耳を傾けなければなりません。
同僚の諭しは神の声であることを悟らなければなりません。賢い者は、「ああ、神は今、私の心を謙虚にするようにおっしゃっているのだな」と把握すべきです。私たちが神の御目に祝福された者となるためには、神のみことばに耳を傾け、水と御霊の福音のしもべたちと心を一つにしなければなりません。私たちは、自分のプライドが信仰のなさから来ていることを自覚し、信仰を持ってプライドを捨てなければなりません。神の民は、教会の方針や指導者の導きに対しても信仰を持たなければなりません。私たちも指導者から神のみこころを正しく学んでこそ、正しい信仰生活を送ることができます。それは、神が、ご自身が設立された教会を通して私たちに語ってくださることを喜んでおられるからです。私たちは、全能の神には太刀打ちできないのですから、神のみことばに耳を傾け、信仰によって神に従うべきです。ですから、私たちは、神が今、同僚を通して私たちに語りかけていることを信じなければなりません。
聖書によると、神が天国で堕天使を創造したその日から、彼の義務は永遠に神を賛美することだったと書かれています。それが神に創造された目的だったので、御使いが聖なる全能の神にとどまり、ハープや風笛を持って、「聖なるかな、聖なるかな。神であられる主。」と歌いながら神を賛美していたら、素晴らしいことだったでしょう。このように、信仰によって神の支配の中にとどまっているならば、退屈する暇もないほどの喜びに満ちた人生を送ることができます。義人の生活は、毎日喜びにあふれ、毎日新たにされています。しかし、神に造られた御使いの一人が、高慢になって自分の持ち場を離れ、神の権威に挑戦したために、永遠の滅びに定められたことを忘れてはなりません。この御使いがなぜそのような傲慢なことを考えたのかを説明するには何が必要でしょうか。それは、彼が神の前で傲慢だったからです。神は彼に自由意志をお与えになったので、彼がそのような高慢な考えを持ち、そのような傲慢なことをすることが可能だったのです。神が自由意志をお与えになったのは、御使いが強制的に神に従うことを望まなかったからです。
この御使いは、自分の自由意志を行使した後で、自分自身が賢明であると考えたことが愚かでした。そのような考えが生じたとき、この御使いは自分を戒め、高慢な考えから立ち返り、神を恐れる本来の場所に戻るべきでした。それよりも、御使いは、全能の神にそむいて、「私はやってみる。部下たちと一緒にこの挑戦に立ち向かう。」と言って、全知全能の神にそむきました。そして、自分の考えに賛同した他の御使いたちとともに、神の権威に挑戦するという「高慢の罪」を犯してしまったのです。堕天使の傲慢な計画と行動をご覧になった神は、「あなたは天の果てまで高められるのか。いや、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。わたしはあなたのために黄泉の国を備え、穴の底にあなたを投げ込む。」とおっしゃいました。御使いのことを言っているのか、義人のことを言っているのかは関係ありません。誰であろうと、もし誰かの心と行ないが神の前で高慢であるならば、この人は神にそむいた敵対する者と同じように神に呪われるのです。
 

「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません」(ローマ 12:3)

私たちの思考は、時に無限の流れのように、一つの考えが次の考えにつながることがあります。私たちの思考の中でも、肉の思いは自滅的であるだけでなく、私たちを神に背かせるものです。それに対して、神の前での霊的な思いは、私たちを多くの魂を救うために働かせます。したがって、私たちが考えるときには、必ず御霊の思いを持つべきです。義人の御霊の思いとは、神を恐れ、魂をキリストに導くことです。私たちは、神の思いを考え、それを信じなければなりません。世の中の宗教は、人間の思考回路に頼って答えを見つけようとしますが、すべての問題の解決策は人間の心の中にあるのではなく、私たちのキリストである神がお与えになった真理の中にあるのです。それは、イエス・キリストが真理そのものだからです。人は自分の考えが深いと思っていても、実際には人間の考えは自分の肉の利益を求めるものであり、その肉の考えが最終的に人を霊的な混乱に駆り立てるのです。人類の救いの答えは、人間の考えではなく、私たちの神であられるキリストのみことばによります。人は肉の思いの果てに到達すると、自分が何を考えているのかさえ分からなくなってしまいます。そういうわけで、使徒パウロはローマ人への手紙の中で、「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。」と述べたのです。
私たち義人は、記された神のみことばに従って霊的なわざを考え、真理への信仰によって生きていかなければなりません。時に神は、「なぜあなたがたは肉のことを考えて時間を無駄にしているのか。」と私たちをお叱りになります。私たちの教会の初期には、「今は水と御霊の福音を宣べ伝えているけれど、10年後、20年後には、あなたも最終的には変わるだろう。」と言う人がいました。そんなことを言っていた人たちは、今はもう神の教会にはいません。無駄な肉の考えで、結局、自分を神の敵にしてしまったのです。神から与えられた水と御霊の福音のみことばは、すべての罪人をその罪から救う真理ですから、それは昔も今も、そしてこれからも永遠に救いの真理です。そして今、私たちが宣べ伝えている水と御霊の福音が、人々が罪の赦しを心に受けることを可能にするのであれば、神から与えられた水と御霊の福音の真理は、全人類にとって永遠の救いの福音なのです。
私たちが宣べ伝えるべき福音は、神が与えてくださった水と御霊の福音以外にはありません。なぜでしょうか。それは、主が、水と御霊のまことの福音以外に、人類に救いの真理をお与えになったことがないからです。水と御霊の福音以外の福音が、この世のすべての罪から私たちを解放したことがあるでしょうか。いいえ。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒 4:12)と書かれているからです。罪からのまことの救いを罪人にもたらした福音が、私たちが今宣べ伝えている水と御霊の福音です。神が人類にお与えになった救いの福音は、水だけの福音でも、血だけの福音でもなく、水と血と御霊の福音なのです。この神から与えられた水と御霊の福音のみことばは、今から30年後、40年後、500年後、5,000年後、そして永遠に、罪に陥ったすべての人を救い続ける真理です。
水と御霊の福音のみことばは、神が私たちに与えてくださった絶対に腐敗しない真の救いのみことばであり、神のみことばであり、永遠に変わることのない真理だからです。しかしながら、イエスを救い主として信じているにもかかわらず、まだ新しく生まれていない者は、「時間が経てば、この水と御霊の福音も変わるだろう。」と自分の肉の中で考えています。このように肉的な言葉でしか神のみことばを扱わない者は、その思いが死の思いにほかならないことを自覚しなければなりません。人間は、自分の肉の思いに屈して、神が人類にささげてくださった真の神とその義にそむくならば、滅びる定めにあります。人間の肉の思いは、神の御目にはすべて間違っています。
「あなたの心は自分の美しさに高ぶらせた」
みなさんには永遠に変わらない美しさがあるでしょうか。みなさんにはどのような美がありますか。顔なのか、体なのか、名誉なのか、金持ちなのでしょうか。みなさんの美しさはどれですか。ここで少し時間をとって、神が与えてくださった真の救いのみことばに従って、自分自身を振り返ってみましょう。神は今、水と御霊の福音を私たち全員に与えてくださっています。そして、水と御霊の福音を信じる私たちに、神の正しいわざを遂行するために必要なすべての才能と祝福を与えてくださいました。ですから、私たち一人ひとりには、神が与えてくださった尊い賜物が少なくとも一つはあるのです。私だけではなく、私の同僚もみな、少なくとも一つの賜物を持っています。しかしながら、中には自分だけが全世界で最高の才能を持っていると思っている人もいます。今日の聖書朗読に出てくる堕天使は、聖書によると、「あなたの心は自分の美しさに高ぶらせた」と書かれているので、神の御目にはとても美しかったに違いありません。そして、この御使いは、自分の輝きのために傲慢になり、自分の知恵を腐らせたとも聖書に書かれています。彼は、「神の御座を引き継ぐことができれば、神のようになれる。自分が神になって、神のすべての被造物を支配しよう。」と考えるようになりました。
 

真の知恵とは何か

真の知恵とは、自分の知識を何かに応用する能力のことです。「知識」はただ知っているだけですが、「知恵」は自分の知識を何かを成し遂げるために実行する能力のことです。ですから、神の愛を信じる人は、神のみことばへの信仰を持つだけではなく、知恵も持っていなければなりません。もちろん、人間が神のように賢くなることはありません。知識は学問があれば誰でも得ることができます。それに対して、神から与えられた知恵は誰もが持っているわけではないので、神に祈って神から受け取らなければならないものです。神から与えられる真の知恵とは、神から与えられたみことばを信じ、信仰によって歩むことです。それは、神の知恵は、神を信じ、神のみこころに従う者だけが持つことのできる祝福だからです。
銀行口座に二億円以上あったにもかかわらず、経済的に破綻したと思い、妻と子供を殺してから自殺してしまった人がいました。その人は、お金のトラブルで自殺し、妻と子供も連れて行くというメモを残していました。この人は、銀行口座に二億円あっても、自分はこの世で運命づけられていると思っていたのです。明らかに、彼には神の知恵がなかったのです。二億円は、大企業を経営するには足りないかもしれませんが、まともなビジネスに投資して、自分と家族のために努力して生計を立てるには、十分すぎるほどの金額でした。そうすれば、自分の子供たちの手本にもなったでしょう。しかし、この人には知恵がありませんでした。
堕天使が自分自身を見たとき、彼は自分が高くされていると思いました。栄光の中で生きていると思ったのです。神のすぐそばで神を賛美している御使いでしたから、自分の地位は確かに非常に高く、立派なものでした。傲慢な心が高じて、ついには自分が神になろうとし、地獄に落とされてしまったのです。この堕天使は、全能の神のすぐそばで仕えていたのです。つまり、この物語を通して、神は私たちに、「わたしの場所は誰にも奪われない。わたしが与えている恵みを受け入れる者だけが、わたしとともに住むことができる。」と語っておられることがわかります。神は御使いだけでなく、人間も造られました。
エデンの園で人間を創造された神は、人間が犯すであろう罪から解放なさって、救いの恵みを授けることを約束されました。「わたしは、全人類の救い主として、女のからだを通してこの地上に来ます。そして、水と血と御霊の福音によってあなたがたを救います。」と、みことばで約束されました。キリストがみことばで全人類に約束なさった通りに、この地上でキリストのみわざを遂行するためには、神ご自身がマリヤのからだを通して人の肉に受肉して生まれなければなりませんでした。そしてこの神は、私たちの罪を負われるためにバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架にかけられて死なれ、力を得て死人の中からよみがえり、それによって、今、水と御霊の福音を信じる私たち全員にとって、まことの救い主となってくださったのです。人類の罪からの救いは、旧約聖書も新約聖書も、すべてこのように聖書に書かれています。
しかしながら、今日、キリストである神の義について何も知らない人が大勢います。彼らは、神が私たちのためにこの地上に来られたとき、私たちを罪からお救いくださるために神ご自身が成就された水と御霊の福音の真理を知らないのに、神を信じていると言っているのです。ですから、人間は、神が自分たちを造られた理由や、神が造られた御使いの支配について、神のみことばを通して学び、理解しなければなりません。みなさんも私も、なぜ神が私たちをこの世の罪からただ一度でお救いくださったのか、なぜ神が今、私たちに神の愛と栄光を賛美するようにとおっしゃっているのか、はっきりと把握し、信じなければなりません。それは、私たちに対する神の目的を学び、理解すれば、神をたたえることができるからです。それは、神の摂理と神の目的を悟れば、神の義への信仰を通して神をたたえることができるからです。私たちはここで、神を賛美するという堕天使に託されていた任務を、神が私たちに託してくださったことを悟らなければなりません。そして、私たちはこのことを信じなければなりません。もし私たちが神の愛を知り、信じ、神の義を信じて賛美するならば、私たちは天地創造の時にこの御使いが受けた以上の高みにいることになります。それは、私たちが信仰によってまことの救いに達したという信仰と、天の栄光を身にまとっているため、神を賛美するようになったからです。
神を賛美することは、神が私たちのためにしてくださった正しいみわざをほめたたえることです。そういうわけで、神の愛と神の義のみわざをほめたたえ、賛美するのです。神をたたえるとは、私たちをこの世のすべての罪からただ一度で救ってくださっただけでなく、私たちの祈りに答えてくださり、日々の歩みを助けてくださり、神とともに生きることを祝福してくださった神に、日々の生活の中で感謝し、栄光を帰すことです。これこそが、神を賛美する生き方なのです。
今日、水と御霊の福音を信じるみなさんと私は、堕天使が失った栄光の務めを担い、享受することができる祝福を受けています。私たちは、水と御霊の福音を信じて神の子どもとなり、神は私たちを通してすべての栄光を受けることを喜んでおられます。これらはすべて神の祝福であり、神が私たちに与えてくださった天の知恵です。これは、神が私たちをお造りになった目的でもあります。神が私たち全員に水と御霊の福音のみことばへの信仰を持たせてくださったことは、まさに驚くべきことではないでしょうか。神が水と御霊の福音を信じる私たちにしてくださったことは、すべて驚くべき祝福です。
 

高慢がもたらす損失

堕天使はその高慢のために、与えられた美しい任務を失いました。彼は滅ぼされて、地獄の頭となりました。最後には、神にそむいて敵対する者になってしまったのです。私たちは今、水と御霊の福音を信じていますが、神の前でどのように生活を送っているでしょうか。私たちの中に、外見の美しさや才能などの高慢に屈して、神の憎しみの対象となっている人はいないでしょうか。美しい賜物や才能を持っていても、それに浮かれてはいけません。なぜなら、それはみなさんが神に仕えるために与えられたものだからです。
神は、タンバリンと笛とは金で作られ、これらは御使いが造られた日に整えられていたとおっしゃいました。つまり、神はこの御使いに、神を賛美するという祝福された任務をお与えになったのです。御使いは音楽学校に通っていたわけではありません。御使いに与えられた才能は、楽器を演奏する能力と、神の神聖さを賛美したいという心からの欲求でした。神の造られたものを目の当たりにして、彼の心には自然に音符が浮かび、神を美しく賛美することができたのでしょう。このように、水と御霊の福音のみことばを信じる私たちも、神からすでに与えられた素晴らしい才能を持っています。しかし、そのような才能があるからといって、自分が兄弟姉妹よりも優れていると思い、それを使って兄弟姉妹に対抗するならば、私たちは滅ぼされてしまいます。水と御霊の福音を信じる私たちが、福音を広めることをあきらめて、自分の金銭的な幸せを求めて世に出るなら、結局は神にそむくことになるでしょう。私たちの信仰生活は、神の御目の前で終わってしまうのです。
私も、神から与えられた才能がなければ何もできません。ですから私は、神から与えられた能力を使って、自分を救ってくださった救いの福音を宣べ伝えます。私は神の前で自分自身を自慢しません。私のすることはすべて神の栄光のためであり、それ以外の目的はありません。ですから、もしみなさんや私が、自分の才能に浮かれて、神に仕えることをあきらめてしまったら、堕天使と同じになってしまいます。今日、神の教会でも、自分の才能を神のために使わなければ、神は自分の才能を使ってくださいません。そのような人が神のわざを行なおうとすると、神はその人の心を謙虚になさって、「あなたが今やっていることは何の意味もありません。」とおっしゃるでしょう。このように、私たちが同僚と一致団結して神のわざに仕えるとき、神は私たちを選ばれ、神の器として使ってくださることがわかります。それとは対照的に、同僚たちや神のしもべを無視する人がいると、神は、「やめなさい。もうあなたをここで使うことはできない。」とおっしゃって、その人から任務を取り上げ、別の人にお与えになるのがわかります。
 

神はすべての人に自由意志をお与えになっている

人間も御使いたちも、神は彼らを造られたときに自由意志をお与えになりました。ロボットのようにお造りになったわけではありません。神に造られた御使いたちにも人格が与えられました。神は彼らに知性、感情、意志の能力――つまり、知り、感じ、行動する能力をお与えになったのです。神は人間にも同じように知性、感情、意志の能力をお与えになりましたが、これは人格とも呼ばれます。神は人間に理解し、感じ、行動することをお許しになりました。自分で何でも考えて行動する自由意志を与えられているのです。神のようになりたいと思えば、そう考えればいいし、神に挑戦したいと思えば、こうすればいいし、神に腹を立てて背きたいのであれば、ああすればいいのです。つまり、神は御使いを知的であり、感情的であり、意志を持った存在としてお造りになったのです。しかしながら、多くの御使いの中の一人が、神の権威に挑戦しました。そこで、神はその傲慢な御使いとその部下たちを地上に投げ捨てられました。
このように、神が人間をお造りになったとき、ロボットとしてではなく、人としてお造りになったのです。私たちは、神に背くこともできるし、逆に神が語られたみことばを受け入れて、すべての罪から救われることもできます。神は、私たち人間に自由意志を持たせてくださいました。神もまた人格者であり、水と血の福音に現われる神の愛と救いの祝福を信じる者に、神の愛と祝福を授けてくださいます。しかしながら、水と御霊の福音を信じて救われたといっても、全能の神にそむくなら、私たちも堕天使のように追い出されてしまいます。私たち水と御霊の福音を信じる者は、神が私たちに自由意志を与えてくださっていることを忘れてはなりません。このように、神はほんとうに公正な神です。私たちの創造主である神は、私たち造られたものに感情的に影響されることもなければ、ご自身が弱いからといって私たちに妥協なさることもありません。ですから、もしみなさんや私が神の前で傲慢になっているなら、その代償を払うのは当然のことなのです。
 

私たちは人格的信仰の共同体を成していかなければならない

水と御霊の福音を信じて罪から救われている者と交わりを持つとき、その人たちの話に耳を傾けてみましょう。そうすると、彼らから学ぶべきことがたくさんあることに気づくでしょう。「この教会のメンバーたちは、無駄に騒ぐことなく、神のわざを忠実に遂行している。彼らは私と同じ普通の教会のメンバーだけど、人格者であり、私は彼らを見習うべきだ。」と認識するようになります。ある人は感情の起伏が激しく、ある日は神を愛し、熱心に仕えていたのに、次の日には突然、深い倦怠感に沈み、仕えようとしません。一方で、より一貫性があり、自分に注目を集めることなく、教会のメンバーと団結して着実に主に仕える人もいます。
神の働き手たちを見ていると、それぞれに長所と短所があります。私たちに足りないものを持っているメンバーもいれば、メンバーに足りないものを私たちが持っているということもあります。そういうわけで、私たちは教会のメンバーとして、お互いに学び合い、団結しなければなりません。そうすれば、「この兄弟姉妹はとても尊敬に値する。彼らは素晴らしい。神は彼らによってとてもよく仕えられている。主に仕えるための知恵と信仰を与えてくださっている。彼らは神に祝福されているのだ!」と気づくことができます。神は、私たちのために聖書を記され、私たちが自分の心を傲慢に奮い起こすのではなく、それぞれがどんな立場であっても互いに団結すべきだということを、みことばを通して教えてくださいました。神のおかげで、私たちは一致団結して主に忠実に仕えることができています。神は私たちが今、主の仕事場で仕えることができるようにしてくださったので、私たち全員が福音の使役を支え、福音宣教のために努力をささげることができます。神が私たちをこの地上に残してくださったのは、私たちが団結して主のわざを支え、仕えるためです。
最近、ガルバオ牧師から、新型コロナウイルス感染症のせいで兄弟姉妹の間にかなりの不穏な空気が漂っているとのメッセージが届きました。愛する人たちが目の前でコロナウイルスに感染して死んでいくのを見て、会衆は大きな苦しみを抱え、深く苦悩しているとのことで、ガルバオ牧師から、少しでも励ましの言葉を送ってもらえないかとの依頼がありました。それを聞いた私は、神が文字宣教を再開しなさいとおっしゃっているのだと気づきました。そこで最近、私は神の教会での礼拝の時間に行なった説教集を修正したり、追加したりしています。それは、ガルバオ牧師をはじめとする海外の協力者たちから依頼されているからです。これらの新しい出版物のターゲットとなる読者は、海外にいる私たちの協力者だからです。私は、彼らに手紙を書くように説教を書いています。私が礼拝の時間に説く説教も、世界中の協力者たちに向けたものです。そのため、私はそれらを修正し、翻訳してもらっています。
このように、神はふさわしい時に合わせて様々な任務をさせてくださいます。委ねられた任務を黙々とこなすのが私たちの役目です。託された任務をその都度、信仰によって熱心に遂行することが、信仰生活のすべてです。それは、この世に生きている私たちがしなければならない任務は、すべて神のわざだからです。このように、私たちは主のわざを行ない、礼拝の時間には神を賛美し、みことばに耳を傾け、主の恵みをともに分かち合い、日々力を新たにしています。日々の生活が終わって、御国へ行く時が来たら、私たちも御国の栄光を享受するのです。
 

堕天使は二度と古い栄光を享受できない

水と御霊の福音を信じて神の民となっている者として、みなさんも私も、神とともに生きる栄光を享受するのです。神は私たちに、この時が来れば、私たちは顔と顔とを合わせて神を見るだろうとおっしゃいました。ですから、この希望を持って、私たちはみな毎日、主のわざを行ないましょう。私たちが水と御霊の主の福音を広めるために働くとき、神が私たちに授けてくださる生活の中で神を賛美するようになるでしょう。そして、このわざはすべて神の家族である兄弟姉妹と一緒に行われるので、どの瞬間も喜びにあふれています。この世で何をするにしても、それは神のわざのためですから、私はいつも喜んでいます。
私の心はいつも喜びに満ちています。というのも、私が神のわざを行なっているのは、神の水と御霊の福音を広めるためであり、神の教会のためであり、私たちの兄弟姉妹のためだからです。こうしたことは、私に喜びをもたらす考えです。「私が今、福音の使役を支えるための土台を築いているように、私たちの兄弟姉妹もこれらすべてのことを享受する。私がしているこの奉仕の仕事を通して、福音はさらに広まっていく。人々の心が癒される。水と御霊の福音は、もっともっと遠くまで宣べ伝えられる。私がこの地上で行なってきた仕事が、兄弟姉妹に多くの霊的祝福をもたらしていることを知り、とても嬉しく思う。私はこのことで祝福されている。私の労働の成果は、私だけでなく、私たちの教会の家族も享受しているのだから、これ以上のことは望めない。これこそが神の喜ばれることなのだ。」
これ以上の価値があるでしょうか。そして、これ以上のものを求めることができるでしょうか。いつの日か神の御国に入り、神と顔を合わせて永遠に生きることができます。みなさんも私と同じです。神から与えられた水と御霊の福音のみことばによって罪から救われているすべての者は、神の御目に尊いのです。私たちは、神の御目には卑しい者ではありません。私たちの兄弟姉妹の中には、肉的に何らかの欠点を持っている人がいるとしても、私たちはそのような人を見下してはいけません。むしろ、寛容さを示して、彼らを大切にし、次のように言うべきです。「私たちは理解しています。あなたは一時的に賢明でないことをしました。このことを通して、神があなたに教えようとしている教訓があるのです。」
しかしながら、中には自分のプライドが高く、神のわざを妨害する人もいます。このような人々は、神に敵対する者として扱われます。もし神のわざを妨害している人がいれば、その人はすでに堕天使の味方をしていることになります。ですから、私たちは、神を恐れる人を尊敬するだけでなく、神への信仰によって彼らを愛し、心を一つにしなければなりません。キリスト教社会には、「神ではなく、私だけに仕えなさい。」という指導者がいます。そのような人たちと心を一つにすると、堕天使と同じような扱いを受けることになります。堕天使は天国から追い出され、その地位を失いました。そこで、神はこの輝かしい地位を空けられ、ご自分のかたちに人間を造られ、そこに置こうとされました。神はまた、このご自分が造られた人間の生き物が罪を犯すこともご存じでした。そのため、神はご自分のかたちに造られた人間を罪から解放なさるための救いのご計画を備えてくださいました。
神ご自身が救い主としてこの地上に来られ、ご自身の犠牲と限りない愛と義によって全人類を罪から救ってくださいました。そして、水と御霊の福音のみことばを信じるすべての者に、神とともに生きるという祝福を与えてくださっています。そうすることで、神は水と御霊の福音を信じる私たちに、「神は私たちに救いと天の栄光と祝福を与えてくださった。」と、口々に神を自慢し、賛美するようにしてくださいました。そういうわけで、私たちは、神を誇る歌詞にメロディーをつけて、唇で神を賛美するのです。義人として、心が喜んでいるからこそ、神を賛美するのです。賛美を歌うことは、強制されてできることではありません。賛美歌の歌詞はどれも素晴らしいものです。神が私たちのためにしてくださった正しい祝福のみわざを賛美するとき、私たちの心はあっという間に新たにされます。喜びが湧き上がります。これが、私たちにとっての神の姿です。
 

神は今、私たちに霊的な教訓をお与えになるために語りかけている

箴言 第 16 章 18 節には、次のように書かれています。
「高ぶりは破滅に先立ち、
心の高慢は倒れに先立つ。」
神はここで、高ぶりは倒れに先立つことをおっしゃっています。心が高ぶらないようにと警告なさっています。私たちが神のわざのために何かをしたとしたら、それはすべて神から与えられた力、能力、祝福のおかげであり、私たち自身の力や強さのせいではありません。みなさんや私が神のわざのために何か良いことを成し遂げたとしたら、それは神や神の教会、そして周りの兄弟姉妹から得た助けのおかげです。新しく生まれる前に成し遂げたことにしても、この世に連れてきてくれて、育ててくれて、成長の面倒を見てくれた両親の助けがあったからこそ、成し遂げることができたのです。両親、兄弟、親戚、友人などの助けがなければ、私たちは何もできなかったのではないでしょうか。それでも、この堕天使は、「これが私だ!私の上には神しかいない。他のみんなは私の下だ。あとは、神のところに登っていけばいいのだ!」と思ったのです。
もし、この神に敵対する者のような傲慢な考えが頭をよぎったなら、それがいかに重大な過ちであるかをすぐに悟り、神に罪を告白し、自分を戒めなければなりません。唇を叩き、心を低くして、「あなたは気が狂っているのか。あなたが今ここにいるのは、神があなたを義人にしてくださったからだ。あなたは最初から義人として生まれたのか。あなたは神によって造られたのではないのか。あなたは神のように自分で存在しているのか。」と自分自身に言い聞かせるべきです。このように、私たちは決して神に敵対する者の味方に立ってしまうことがないようにしなければなりません。堕天使は、自分が神にそむくだけでなく、他の御使いを煽って神に逆らうように仕向けました。そういうわけで、堕天使は神に呪われたのです。みなさんも高慢に屈すると、サタンのように呪いの対象となります。サタンは高慢な者を自分の仲間に引き入れ、自分の道具として使います。
神は高慢な者を追い出されます。今日でも、世の王たちがあまりにも傲慢であれば、神は彼らを追い出されます。今でも、自分だけを自慢し、神の前でも傲慢になるような大物を神は追い出されます。そのような人々が最後には悲惨な目に遭うのを、私たちはこの世界で日常的に見ています。ですから、私たちは神の前で心を高慢にしてはいけないのです。
私たちは日々の生活に満足すべきです。食べるものがあり、着るものがあり、神の教会にとどまっていて、信仰の交わりがあるのですから、感謝して生きるべきです。今、神は私たちに神のわざを行なう使命をお与えになり、このような立場に置いてくださっているのですから、私たちは神に栄光をもたらすことをしているのです。みなさんも私も、特別な賜物を持っているから今の地位にいるのではありません。また、私がこの場で説教をしているのも、賜物があるからではありません。むしろ、私が神のみことばを読んだときに、みことばが何を告げているのか理解できるように、神が私に知恵と信仰と聖霊を与えてくださったからこそ、私はここに立っているのです。私が今、この瞬間にみなさんに説いているのは、神がみことばを通して私たちに語っておられることを、神が私に悟らせてくださったからです。
ここでの結論は、「私たちには誇るべきものは何もない。」ということです。私たちが何かに長けているとしたら、それはすべて神がそのような賜物や才能を与えてくださったからです。神がすべての才能を与えてくださっているのに、どうして傲慢になることができるでしょうか。私たちが神のわざを行なうとき、私たちは昼夜を問わず思慮深く、勤勉でなければ成し遂げることができません。私たちが神の栄光のためにすべての心と力を献身するとき、神は私たちのためにこのわざを成し遂げてくださるのです。神は、神のわざが成し遂げられるために、私たちにこの地上での「労働」をさせてくださったのです。ですから、私たちは自分の心を奮い起こすのではなく、仲間と心を一つにしなければなりません。
私たちは時々、自分が他の人より優れていると勘違いしてしまうことがあります。「自分には才能があるのだから、チームのトップになるべきだ。では、なぜ私よりも資格のない人がチームのトップになっているのに、私はスルーされているのだろうか。教会が偏っているのではないか。教会が私の才能を認められないからではないか。私はその人たちよりはるかに優れている。もし私がその地位を与えられたら、彼らの誰よりもずっと良い仕事をするだろう。」と考えてしまうのです。しかしながら、神はこのような考えの人にご自分の任務を任せたいとは思っておられません。弱い人とも心を一つにして、神のわざを行なうことを望んでおられます。強い人も弱い人もお互いに助け合って、団結して主の任務を果たすことを望んでおられます。神は、仕事が得意な人だけで仕事を完成させたいわけでも、一人だけで栄光を得たいわけでもありません。私たちの神は、私たちが良い任務を行なうことだけを望んでおられるのでは絶対にありません。
それどころか、神は任務を通して、私たちがキリストの愛を互いに分かち合い、自分の貴重な贈物を他の人に伝えることを望んでおられます。また、他の人の貴重な才能から学ぶことも望んでおられます。神は、私たちの心が教会の同僚の弱さに共感することを望んでおられます。体の弱い人がいたら、その人のことを理解して、「私もあの兄弟のような体の不調があったら同じようにすることでしょう。それは完全に理解できます。」と、神の愛によって一つになることを神は望んでおられます。神は、私たち全員が協力して、水と御霊の福音のわざを、神の善のために遂行することを望んでおられます。仕事がうまい人だけで栄光を得ようとは思われません。
ですから、仕事だけが得意な人に神の任務を任せるのではありません。その他の点も含めて、よく考えた上で、その人に私が考えた仕事をしてもらいます。もし、その人が「私はこういうことが苦手なのです。」と言ったら、「やってみてください。神に祈って、やってみてください。」と励ましの言葉をかけます。そうすると、多少の欠点があっても、その人はやり遂げられることが多いのです。誰もが最初から専門家ではありません。誰でも最初は失敗することが多いものです。しかしながら、神のわざをどのように行うかをよく考え、主に祈るとき、神はそのわざを遂行する力を与えてくださいます。神のわざを行なっているときに、私たちの心に信仰が芽生え、その信仰に従って神のわざが進んでいきます。その結果、より良い結果が得られるのです。
仕事の上手な人が任務を任されて、その任務がうまくいっても、霊的にはほとんど得るものがありません。反対に、仕事が苦手な人が仕事を任され、仕事がうまくいき、この人の信仰が少しでも成長して進めば、得られるものは大きいです。この人の信仰も高まるに違いありません。それが私の望むことです。ですから、自分は凄い働き者だと自慢している者には、私に、「あっちへ行け。あっちに行って働いてこい!」と言われてしまいます。私の心の中には神の心があるので、教会のメンバーと団結し、お互いを大切にし、神の民を認め、誉れのある者を識別し、ともに祝福を受け、その祝福をともに分かち合う人が欲しいのです。このような願望は、以前の私の心にはありませんでした。しかし、水と御霊によってこの地上に来られた主に出会った途端、湧き上がってきました。これは、なんと素晴らしいことでしょう。神は私に知恵をお与えになり、今日まで主のわざを準備させてくださっています。そして、時が来たら、神のわざを他の人に伝え、「あなたはここに来て神のわざを行なうべきです。あなたはあそこに行って神のわざを行なうべきです。」と言うことができました。
今日でも、王の心が水の川のようであるように、神は指導者の心を動かされます。神のしもべの心を動かすのは、神です。神のしもべは、主のわざを自分で決めるのではなく、個人的に好ましいと思う人に任せるのでもありません。神の支配はこの世のものとは異なります。教会の事務は神が監督しておられます。ですから、訓練が必要な人がいたら、その人にいくつかの任務をしてもらいます。しかし、聞く耳を持たない人もいます。言い訳ばかりして、決して聞く耳を持たない人もいます。教会の指導者の言うことを何度も聞こうとしないのは、堕天使のようになるのと同じです。みなさんは自分の指導者に耳を傾けるべきです。もし教会の指導者がある地位に就くように頼んできたら、「これは私に対する神のみこころに違いない。」と言って、指導者を信頼すべきです。それでも、ある人は自分の配置に不満を持ち、「なぜ私はこんな扱いを受けるのか。これは非常におかしい。私は嫌われているに違いない。どうしてこんなにいじめられるのだろう。」と不満を漏らす人がいます。そうではありません。それは、神がみなさんを訓練するために、みなさんにご自分の任務を担わせているのです。みなさんが十分に訓練されていないので、神がみなさんに霊的な訓練をさせているのです。そうして初めて、私たちは神と心を一つにし、神の祝福を受けることができるのです。
神は、神を賛美する合唱コンクールを誰に託すでしょうか。今も、天国にいる御使いたちは神を賛美しています。しかし、将来は誰がそれに加わるのでしょうか。神は、誰を通してご自身のみわざをされるのでしょうか。ヨハネの黙示録に目を向けると、義人たちが集まって神を賛美しているのがわかります。天国では、神の支配が新たに展開されます。そして、神がご自分の民に栄光の生活を授けてくださる日が来るのです。堕天使のような者には、神は栄光を授けられません。その時、天国にいる御使いたちは、神の息子や娘に仕える者となります。神は、御使いたちを私たち神の子どもにしもべとして割り当ててくださるとおっしゃいました。天の御使いたちは、みなさんのしもべであり、私のしもべでもあるのです。水と御霊の福音を信じて仕えている者は、天の御国の所有者です。この信仰こそが本物です。
人が傲慢になるのは、自分の嘘を本当だと錯覚しているときです。傲慢な人は、「これが私だ」と自分を自慢しますが、実際には数え切れないほどの欠点を持つ弱者にすぎません。しかしながら、私たちは、神が私たちを祝福なさり、知恵を与えてくださるならば、どんなことでもでき、どんな任務でも遂行できると信じています。ですから、このことを理解して、神が与えてくださった祝福、栄光の生活、栄光の仕事を受け取り、そのどれも決してサタンに奪われることなく、大切にして、自分の人生で神をたたえましょう。みなさんには、この地上で多くの祝福を受け、天国でさらに多くの祝福を享受していただきたいと思います。ハレルヤ。