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説教集

主題 2: 律法

[2-1] 律法に従って行動すれば、私たちは救われるでしょうか? (ルカの福音書10章25-30節)

律法で物事を行えば、それが私たちを救うことになるのか?
( ルカの福音書10章25-30節 )
「するとそこへ、ある律法師が立ち上がってイエス様を試してこう言った、『先生、私が何をしたら永遠の生命が受けられましょうか?』彼に言われた、『律法にはなんと書いてあるか?あなたはどう読むか?』そこで彼は答えて言った、「『あなたは心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの主(Lord)なる主(God)を愛さなければならない。』また、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」彼に言われた、『あなたは正しく答えました。そのとおり行いなさい。そうすれば、あなたは生きられる。』すると彼は自分を正当化したくて、イエス様にこう言いました、『それで、私の隣人とは誰ですか?』イエス様が答えて言われた、『ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、彼の衣服を剥ぎ取り、傷つけ、半殺しにしたまま、逃げ去った。』」
 
 
人間の最大の問題とは?
彼らは多くの誤った幻想を抱えて暮らしています。
 
ルカの福音書10:28、「そうすれば、あなたは生きられる。」
人は多くの間違った幻想を抱いて生きています。彼らはこの点で特に脆弱であるようです。彼らは知性があるように見えますが、簡単に騙され、自分たちの悪い面に気づいていません。私たちは自分のことを知らずに生まれてきますが、それでも知っているかのように生きています。人は自分自身を知らないので、聖書は私たちが罪人であると教えています。
人々は自分自身の罪の存在について話します。そして、彼らは善を行う能力がないにもかかわらず、自分自身を善であると特徴付ける傾向が強すぎます。彼らは自分の善行を自慢し、見せびらかしたいのです。彼らは自分たちが罪人であると言いながら、あたかも自分たちがとても善人であるかのように振る舞っています。
彼らは、自分には善がないし、善を行う能力もないことを知っていますが、他人を騙そうとし、時には自分自身さえも欺こうとします。「さあ、私たちが完全に悪ではないはずです。私たちの内には善良な部分もあるでしょう。」
したがって、彼らは他人を見て、自分自身にこう言います。「ああ、あの人があんなことをしなければよかったのに。そうしなければ彼のためになったのに。こんなふうに話していたら、もっとよかったのに。私は、こういうふうに福音を宣べ伝えるほうがいいと思う。彼は私より先に救われたのだから、もっと救われた者のように振る舞うべきだと思います。私は最近救われたばかりですが、もっと学べば、彼よりもずっとうまくやれるでしょう。」
彼らは心の中でナイフを研いでいます。「待ってろ。私があなたとは違うことが分かるでしょう。それで、あなたは今私より先にいると思うよね?待ってろ。聖書には『後の者が先になる』と記されています。それが私にも当てはまるってわかってる。待っててね、見せてあげるよ。」人は自分自身を騙します。
自分がその人の立場だったら同じように行動するのに、それでもその人を裁いてしまうのです。
人々に善を行う能力があるかどうかと尋ねると、ほとんどの人は「ない」と答えます。しかし彼らは自分たちにもその能力があると錯覚しています。だから死ぬまで必死に努力するのです。
彼らは自分の心の中に「善さ」があり、善を行う能力があると考えています。また、自分自身は十分に善良だとも思っています。どれだけ前に新しく生まれ変わったかに関係なく、主(God)への奉仕においてより大きな進歩を遂げた人でも、『私は主のためにあれもこれもできる』と考えます。
しかし、もし私たちの人生から主を排除したら、本当に善を行うことができるでしょうか?人間に善はあるのか?善い行いをして生きていけるのでしょうか?人間には善を行う能力はありません。人間は自分で何かをしようとすると、必ず罪を犯します。
救贖された後、イエス様を押しのけて、自分で善を行おうとする人もいます。私たちの中には悪しかありません。私たちは悪を実践することしかできません。自分自身では(たとえ救われた人でも)、罪を犯すことしかできません。それが私たちの肉体の現実です。
 
私たちはいつも何をしますか?善ですか、それとも悪ですか?
悪です
 
私たちの賛美集『主をたたえよ』にこんな歌があります、「♪イエス様がいなければミスする無価値な体、あなたがいなければ私は海を航海する帆のない船と同じです♪」イエス様がいなければ、私たちは罪を犯すことしかできません。私たちが義人であるのは、ただ救われたからです。実際には、私たちは悪なのです。
使徒パウロはこう言いました、「わたしは行いたい善をしなくて、行いたくない悪を行っている。」(ローマの手紙7:19)人がイエス様と一緒にいるなら、それは問題ではありません。しかし、主(God)と何の関係もないとき、彼は主(God)の前に善を行おうとします。しかし、努力すればするほど、彼はますます悪を実践していることに気づきます。
ダビデ王でさえ、同じ本性を持っていました。彼の国が平和で繁栄していたある晩、彼は散歩のために屋上に上りました。彼は誘惑的な絵を見て、官能的な快楽に溺れました。主を忘れたとき、彼はどんな様子だったのでしょうか!彼は本当に悪人でした。ダビデはウリヤを殺し、その妻を奪いましたが、自分の中の悪に気づくことができませんでした。彼は自分の行動に言い訳をしました。
そんなある日、預言者ナタンが彼のところに来て言いました。「ある町に二人の男がいて、一人は金持ちで、もう一人は貧乏でした。その金持ちは非常に多くの羊の群れと牛の群れを持っていました。しかし、貧しい男は、買って養った一匹の小さな雌羊の子羊以外には何も持っていませんでした。そしてその羊は彼と彼の子供たちと一緒に成長しました。その羊は自分の食べ物を食べ、彼の杯で飲み、彼の胸に横たわりました。そして彼にとっては娘のような存在でした。ある旅人がその金持ちのところに来たが、彼は自分の羊の群れと自分の牛の群れから取って、自分に来た旅人のために用意せず、貧しい人の羊を取って、彼に来た旅人のために用意した。」(サムエル記下12:1-4)
ダビデは「こんなことをした者は必ず死ぬだろう!」彼の怒りは非常に高まり、こう言いました、「彼は自分の羊をたくさん持っているから、きっとそのうちの一つを持って行くこともできるだろう。しかし、彼は客のために食べ物を用意するために、貧しい男のたった一匹の羊を奪ったのだ。彼は死ぬべきだ!」するとナタンは彼に、「あなたがその人です!」と言いました。私たちがイエス様に従わず、イエス様とともにいないなら、生まれ変わった人でもそのようになる可能性があります。
それはすべての人、たとえ忠実な人であっても同じです。私たちはイエス様なしではいつもつまずき、悪を行います。ですから、私たちは今日もイエス様が私たちの中にある悪とは関係なく、私たちを救ってくださったことを感謝します。「♪十字架の陰で休むことを望みます♪」私たちの心はキリストの救いの陰で休みます。しかし、日陰を離れて自分自身を見つめると、決して休むことはできません。
 
 

主(God)は律法の前に信仰の義を私たちに与えてくださいました

 
信仰と律法、どちらが先か?
信仰
 
使徒パウロは、主(God)はまず信仰の義を私たちに与えてくださったと言いました。信仰の義が最初でした。その方はそれをアダムとイブに与え、次にアベルに、さらにセトとエノクに...ノアまで下り、次にアブラハムに、そしてイサクへと下り、ヤコブとその12人の息子たちに至るまで与えました。律法がなくても、彼らは主(God)の言葉への信仰によって主(God)の前に義人となりました。彼らは主(God)の御言葉への信仰によって祝福され、安息を与えられました。
そして時は流れ、ヤコブの子孫はヨセフによってエジプトで400年間奴隷として暮らしました。その後、主(God)はモーセを通して彼らをカナンの地に導き出されました。しかし、400年の奴隷生活の間に、彼らは信仰の義を忘れてしまいました。
そこで主(God)は奇跡によって彼らに紅海を渡らせ、彼らを荒野に導きました。彼らがシンの荒野に到着したとき、主はシナイ山で彼らに律法を与えられました。主(God)は彼らに十戒を与え、それには613もの律法の詳細な条項が含まれています。「わたしは主(エホバ)、あなたの主(God)、アブラハムの主(God)、イサクの主(God)、ヤコブの主(God)である。モーセをシナイ山に登らせなさい、そうすれば私はあなたに律法を与えます。」主(God)はイスラエルに律法を与えました。
律法を与えたのは、彼らが『罪を悟るため』です。(ローマ3:20)それは主(God)が何が好きで何が嫌いかを人々に知らせ、主の義と聖さを明らかにするためでした。
400年間エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民は皆、紅海を渡りました。彼らはアブラハムの主(God)、イサクの主(God)、ヤコブの主(God)に会ったことがありませんでした。彼らは主(God)を知らなかったのです。
そして、その400年間、奴隷として生活している間に、彼らは主(God)の義を忘れてしまったのです。当時、彼らには指導者がいませんでした。ヤコブとヨセフは彼らの指導者でしたが、彼らは死んでしまいました。ヨセフは息子のマナセとエフライムに信仰を伝承できなかったようです。
そのため、彼らは主(God)の義を忘れていたので、再び自分たちの主(God)を見つけ、主(God)に会う必要がありました。そこで主(God)は、まず信仰の義を与え、彼らが信仰を忘れた後に律法を与えられました。律法を与えたのは、彼らを主(God)のもとに連れ戻すためなのです。
イスラエルを救い、彼らを主(God)の民、アブラハムの民とするために、主(God)は彼らに割礼を受けるように言われました。
主(God)が彼らを召された目的は、第一に、律法を立てることによって、主(God)がおられることを知らせるためであり、第二に、主(God)様の前に罪人であることを悟らせるためでした。主(God)が彼らに与えた救贖のいけにえによって救贖されることにより、彼らが主(God)の前に出て、その方の民となることを望んだのです。そして、彼らをご自分の民とされたのです。
イスラエルの民は、来るべきメシアを信じることによって、律法(いけにえ制度)によって救われました。しかし、いけにえの制度も時間の経過とともに薄れてきました。それがいつだったか見てみましょう。
ルカの福音書10:25には、「ある律法師が立ち上がってイエス様を試してこう言った」とあります。その律法師はパリサイ人でした。パリサイ人は主(God)の言葉に従おうとする保守的な人々でした。彼らはまず国を守ろうとし、それから主(God)の律法に従って生きようとした人々でした。そして、非常に衝動的で、ビジョンを達成するためにデモに頼る傾向のある熱心党もいました。
 
イエス様は誰に会いたかったのでしょうか?
牧者のいない罪人たち
 
今の時代にもそういう人はいます。彼らは、「この国の抑圧されている人々を救え」などのスローガンを掲げて社会運動を主導しており、イエス様が貧しい人々や抑圧されている人々を救うために来られたと信じています。そのため、彼らは神学校で神学を学び、政治に参加し、社会のあらゆる分野で「恵まれない人々を救おう」と努めています。
彼らは、「私たちは皆、聖なる慈悲深い律法に従って生きましょう。主(God)の言葉に従い、律法に従って生きなさい」と主張する人たちです。しかし、彼らは律法の本当の意味を理解していません。彼らは律法の文言に従って生きようとしますが、律法の聖い啓示を認識していません。
したがって、キリスト以前の約400年間、主(God)の僕である預言者はいなかったと言えます。こうして、彼らは羊飼いのいない羊の群れとなったのです。
彼らには律法も指導者もいませんでした。主(God)は当時の偽善的な宗教指導者たちを通して自分を明らかにされませんでした。その国はローマ帝国の植民地になっていました。それでイエス様は、ご自分に従って荒野に行ったイスラエルの人々に対し、飢えたままで送り出さないと言われました。牧者いのいない群れを憐れんでくださったのです。その時、多くの人々が苦しんでいました。
パリサイ人は、イスラエルの血筋、ユダヤ教の血筋で既得権を持つ人々で、本質的に律法学者と同じような階層に属する人々でした。彼らは非常に傲慢でした。
そしてこの律法師はルカの福音書10:25でイエス様に尋ねました、「私が何をしたら永遠の生命が受けられましょうか?」その律法師には、イスラエルの民の中で自分よりすぐれた者はいないように思われました。そこで、この律法師(救贖されていない者)は彼に挑戦して言いました、「私が何をしたら永遠の生命が受けられましょうか?」
この律法師は、私たち自身の反映にすぎません。彼はイエス様に尋ねました。「私が何をしたら永遠の生命が受けられましょうか?」イエス様は彼に言われました。「律法にはなんと書いてあるか?あなたはどう読むか?」
そこで彼は答えて言いました、「『あなたは心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの主(Lord)なる主(God)を愛さなければならない。』また、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
イエス様は彼にこう言われました。「あなたは正しく答えました。そのとおり行いなさい。そうすれば、あなたは生きられる。」
彼は自分が悪人であり、決して善を行うことのできない罪の塊であることを知らずに、イエス様に挑戦しました。そこでイエス様は彼に尋ねました。「律法にはなんと書いてあるか?あなたはどう読むか?」
 
あなたは律法をどう読みますか?
私たちは律法を決して守ることができない罪人です。
 
「彼に言われた、『律法にはなんと書いてあるか?あなたはどう読むか?』そこで彼は答えて言った、「『あなたは心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの主(Lord)なる主(God)を愛さなければならない。』また、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」彼に言われた、『あなたは正しく答えました。そのとおり行いなさい。そうすれば、あなたは生きられる。』」(ルカの福音書10:26-28)
「あなたはどう読むか?」つまり、どのように法を知り、理解するかということです。
現代の多くの人々がそうであるように、この律法師もまた、主(God)が律法を守るために自分に与えたと考えていました。そこで彼は答えた、「『あなたは心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの主(Lord)なる主(God)を愛さなければならない。』また、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』」
律法には欠点がありませんでした。主(Lord)は私たちに完全な律法を与えられました。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして主を愛し、隣人を自分のように愛しなさいと。私たちが心を尽くし、力を尽くして主(God)を愛することは正しいことですが、律法は決して守ることのできない聖なる言葉でした。
「あなたはどう読むか?」とは、律法は正しく正しいが、あなたはそれをどう理解しますか?この律法師は、主(God)が自分に従わせるために律法をお与えになったと考えました。しかし、主(God)の律法が与えられたのは、私たちが自分の不足を知り、自分の罪悪を完全にさらけ出すためです。「あなたは罪を犯した。わたしが殺してはならないと言ったのに、あなたは殺しました。なぜ私に逆らったのか?」
律法は人々の心の中にある罪をさらけ出します。ここへ来る途中、畑で熟したスイカを見たとしましょう。主(God)は律法によって私に警告された、「スイカを摘んで食べるな。そんなことをしたら、わたしに恥をかかせることになる。」「はい、お父さん。」「その畑は○○さんのものだから、絶対に摘んではいけない。」「はい、お父さん。」
決して摘んではいけないという法則を聞いた瞬間、私たちは摘みたいという強い衝動に駆られます。バネを押し下げると、反動でバネが押し上げられる傾向があります。人々の罪はまさにそのようなものです。
主(God)は私たちに決して悪を行ってはならないと言われました。主(God)は聖なるお方であり、完全なお方であり、そうする能力をお持ちなので、そうおっしゃることができるのです。その一方で、私たちは『決して』罪を犯さないことも、『決して』善を行うこともできません。私たちは心の中に善を『決して』持っていません。律法は絶対にダメと言っています(「決して」という言葉で規定されていました)。なぜか?人は心に欲望を持っているからです。私たちは欲望のままに行動します。私たちが姦淫を犯すのは、心に姦淫があるからです。
聖書を注意深く読むべきです。初めてイエス様を信じたとき、私は御言葉に従って信じました。イエス様が私のために十字架で死んでくださったことを読み、涙が止まりませんでした。私はこんなに悪い人間なのに、イエス様は私のために十字架で死んでくださったのです。イエス様を信じた私の心はひどく痛みました。もし信じるとしたら、御言葉に従って信じるべきだと思いました。
出エジプト記20章を読んだとき、「あなたは私の前に他の神々を持ってはならない」と書かれていました。私はこの御言葉に従って悔い改め祈りました。主(God)の前に他の神々を置いたことがなかったか、主(God)の御名をむなしく呼んだことがなかったか、他の神々の前で頭を下げたことがないか、記憶を探りました。私は、先祖を祀る儀式で何度も他の神々に頭を下げていたことに気づきました。私は他の神々を持つという罪を犯していたのです。
そこで私は悔い改めの祈りをしました。「主(Lord)よ、私は偶像を崇拝してきました。そのために裁かれなければなりません。私の罪をお赦しください。二度と同じようなことはしません。」したがって、一つの罪が処理されました。
その後に、私は主(God)様の名前をむなしく呼んだことがあるかどうか考えてみました。そして、主(God)を信じ始めた頃、タバコを吸っていたことを思い出しました。友人たちは私に「タバコを吸うことで、主(God)に恥をかかせているんじゃない?クリスチャンがどうやってタバコを吸うことができるの?」と言いました。
彼の名前を無駄に呼んでいたのではないか?それで私はもう一度祈りました、「主(Lord)よ、私はあなたのお名前をむなしく呼びました。どうかお許しください。タバコをやめます。」それで禁煙を試みたのですが、1年間はタバコを吸ったり止めたりを繰り返しました。禁煙は本当に大変で、ほぼ不可能でした。しかし、ついに完全に禁煙することができました。また一つの罪が解決されたと感じました。
次は、「安息日を覚えて、これを聖に守れ」となります。日曜日は他のことをするな、商売をするな、お金を稼ぐなということでした。だから、それもやめました。
それから、「あなたの父と母を敬え」がありました。離れているときは彼らを尊敬していましたが、近くにいるときは心の痛みの原因でした。「なんてことだ、私は主(God)の前で罪を犯しました。主(Lord)よ、お許しください。」私は悔い改めて祈りました。
しかし、両親はもう亡くなっていたので、もう両親を尊敬することはできませんでした。どうしたらいいでしょうか?「主(Lord)よ、どうかこの無価値な罪人をお赦しください。あなたは私のために十字架で死んでくださいました。」どれほど感謝していたことかわかりません!
そうやって、自分の罪をひとつずつ片付けてきたつもりでした。他にも、殺してはいけない、姦淫してはいけない、欲しがってはならない...などの戒めがありましたが、私はひとつも守っていないことに気づきました。私は一晩中祈りました。しかしご存知のとおり、悔い改めの祈りは楽しいものではありません。では、それについて話しましょう。
イエス様が十字架につけられたときのことを考えると、どんなに苦しかったか共感できました。そして、その言葉どおりに生きられない私たちのために死んでくださった。私は主(Lord)がどれほど私を愛してくださったかを考えて一晩中泣き、私に本当の喜びを与えてくれたことに感謝しました。
教会に通い始めた最初の年は概してとても楽でしたが、次の2年間は非常に難しくなりました。なぜならあまりにも頻繁に教会に行ったので、涙が流れるためにもっと一生懸命考えなければならなかったからです。
それでも涙が出なかったとき、私はしばしば山に祈りに行き、3日間断食した。するとまた涙が出てきた。涙に濡れて社会に戻り、教会で泣いた。
周りの人からは「山での祈りによって、あなたはとても聖になった」と言われました。しかし、涙は再び乾くしかありませんでした。3年目からは本当に大変になりました。私は自分が友人や仲間のクリスチャンに対して犯した過ちを思い出し、また泣きました。それが4年も続いた後、また涙は枯れた。私の目には涙腺がありましたが、もう機能しませんでした。
5年後、どんなに頑張っても泣けなくなりました。この状態がさらに数年続いた後、私は自分自身に対して嫌悪感を感じ、再び聖書に目を向けるようになりました。
 
 

律法は罪を知るためのもの

 
私たちは律法について何を悟らなければなりませんか?
私たちは決して律法を守ることはできません。
 
ローマの手紙3章20節には、「律法によって罪を悟る」とあります。私はこれを使徒パウロへの個人的なメッセージと考え、自分が選んだ言葉だけを信じていました。しかし、涙が枯れた後、私は信仰生活を続けることができませんでした。
そこで罪を繰り返し、自分の心に罪があること、律法で生きることが不可能であることを知りました。到底耐えられなかったのです。でも、律法は守るために与えられたものだと信じていたので、捨てることはできませんでした。結局、聖書に出てくるような律法師になってしまいました。信仰生活を続けることがとても難しくなったのです。
そこで、その苦難から逃れるために、真剣に祈り、主を求めました。その後、御言葉を通して水と聖霊の福音に出会い、私の罪はすべて取り除かれたと知り、信じるようになりました。
私には罪がない、という言葉を目にするたびに、心に爽やかな風が吹き抜けるようでした。私には罪がたくさんあったので、律法を読んでいるうちに、それらの罪を悟るようになりました。心の中で十戒を犯していたのです。心で罪を犯すのも罪なのに、知らず知らずのうちに律法を信じる人間になっていたのです。
律法を守っているとき、私は幸せでした。しかし、律法を守れなかったとき、私は惨めでイライラし、悲しくなりました。結局、私はすべてのことに疲れ果ててしまいました。もし最初から「いいえ、違います。律法には別の意味があります。それは、あなたが罪の塊であることを示しているのです。あなたはお金や異性、美しいものを愛しています。あなたには主(God)よりも愛するものがあります。あなたは世界のものに従いたいと思っています。律法は守るためではなく、心に悪を抱えた罪人であることを認めるためにあなたに与えられました」と教えられていたらどんなに良かったでしょうか。
あの時誰かが教えてくれていたら、10年間も苦しまなくて済んだのに。このように、私はこのことに気づくまで、10年間律法の下で生活していました。
第四の戒めは「安息日を覚えて、これを聖に守れ」です。それは、安息日には仕事をしてはいけないという意味です。長距離を移動する場合は車に乗らずに歩くべきだという意味です。そして、名誉のために説教する場所まで歩いて行こうと思いました。結局のところ、私は律法を説こうとしていたのです。したがって、私は自分が説いたことを実践しなければならないと考えました。とても難しくて諦めそうになりました。
ここに記されているように、「あなたはどう読むか?」私はこの質問を理解できず、10年間苦しみました。律法師も誤解していました。律法を守り、注意深く生活すれば、主(God)の前に祝福されると思っていたのです。
しかし、イエス様は彼に言われた、「あなたはどう読むか?」そう、正解だ。書いてあるとおりに読んでいる。それを守ってみなさい。そうすれば生きられるが、そうしなければ死ぬ。罪の報酬は死である。「守らなければ、きっと死ぬ。」(生の反対は死です。そうでしょう?)
しかし、律法師はまだ理解していませんでした。この律法師は私たち、あなたと私です。私は10年間神学を学びました。断食、幻覚、異言を話すこと等...あらゆることを試し、あらゆるものを読み、あらゆることをしました。しかし、霊的には、私は盲人でした。
それゆえに罪人は、救い主が私たちの主イエス様であることを分からせてくれる人に出会わなければなりません。そうすれば、罪人は「ああ、私たちは律法を守ることなどできない。どんなに頑張っても、地獄に行くだけだ。しかし、イエス様は水と聖霊によって私たちを救うために来られた!ハレルヤ!」と気づくでしょう。私たちは水と聖霊によって救われるのです。それは主(God)の恵みであり、贈り物です。だから私たちは主(Lord)を賛美します。
私は幸運にも絶望的な道を卒業することができましたが、神学の勉強に一生を無駄に費やし、死ぬまで真理に気づかない人もいます。何十年、あるいは何世代にもわたって信じていても生まれ変わることができません。
私たちが罪人であることを卒業するのは、律法を決して守ることができないと悟り、イエス様の前に立って水と聖霊の福音に耳を傾けるときです。イエス様に出会うとき、私たちはあらゆる裁きやあらゆる呪いから卒業します。私たちは最悪の罪人ですが、イエス様が水と血によって私たちを救ってくださったので、義人になります。
イエス様は私たちに、私たちは決して主(God)の御心に沿って生きることはできないとおっしゃいました。彼はこのことを律法師に話されましたが、理解していただけませんでした。そこでイエス様は、彼の理解を助けるために物語をお話しになりました。
 
信仰生活において人を堕落させるものは何か?
 
「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、彼の衣服を剥ぎ取り、傷つけ、半殺しにしたまま、逃げ去った。」(ルカの福音書10:30)イエス様は、この人が強盗に殴られ、死にそうになったように、誰もが一生苦しむのだとおっしゃったのです。
ある人がエルサレムからエリコに下って行きました。エリコは世俗の世であり、エルサレムは宗教の都、信仰の都、律法を誇る者の都を表しています。それは、もし私たちが宗教としてキリストを信じるなら、私たちは破滅せざるを得ないということを教えています。
「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、彼の衣服を剥ぎ取り、傷つけ、半殺しにしたまま、逃げ去った。」エルサレムは人口の多い大都市でした。そこには大祭司長、大勢の祭司たち、レビ人、そして多くの優れた宗教家がいました。律法に精通している人もたくさんいました。そこで彼らは律法を守ろうとしましたが、結局失敗し、エリコに向かいました。彼らは世界(エリコ)に落ち続け、盗賊に会いました。
その男はエルサレムからエリコに向かう途中で強盗に遭遇し、衣服を剥ぎ取られました。『衣服を剥ぎ取られる』ということは、彼が義を失ったことを意味します。私たちが律法に従って生きることは不可能です。使徒パウロはローマの手紙7:19-20でこう言いました。「わたしは行いたい善をしなくて、行いたくない悪を行っている。もし、わたしがしたくないことをするなら、それをしてるのはもうわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。」
私は、主(God)の御言葉通り、善を行いながら生きたいと願っています。しかし、「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い思い、姦淫、淫行、殺人、盗み、貪欲、邪悪さ、欺き、淫乱、邪悪な目、冒涜、高慢、愚かさが出てくる。」(マルコの福音書7:21-22)
それが心の中にあって、絶えず出てくるから、私たちはしたくないことをし、したいことをしません。私たちは心の中でそれらの悪を繰り返し続けます。悪魔がしなければならないことは、私たちに罪を犯す小さな衝動だけを与えることです。
 
 
全人類の心の中にある罪
 
私たちは律法に従って生きることができるのか?
いいえ
 
マルコの福音書7章には、「外から人に入ってくるもので人を汚すものは何もないが、人から出てくるもの、それが人を汚すものである」と言われています。
イエス様は、人の心の中には悪い思い、姦淫、淫行、殺人、盗み、貪欲、邪悪さ、欺き、淫乱、邪悪な目、冒涜、高慢、愚かさがあると語っておられます。私たちは皆、心の中に殺人を抱えています。
殺人を犯さない人はいません。母親は子供たちにこう言います。「ダメだ。それをしないで。それをしないように言ったじゃないか、ちくしょう。言ったろ、それをしないでって。」そして、「こっちにおいで。それをしないようにって何度も言ったよね。それでお前を殺すぞ。」それは殺人です。あなたの軽率な言葉で子供を殺すかもしれません。
しかし、もし彼らに怒りをすべてぶつけてしまったら、子どもたちは死んでしまうだろう。私たちは主(God)の御前で子供たちを殺したことになる。時々、私たちは自分自身を恐れます。「なんてこった!どうしてこんなことをしてしまったのだろう?」私たちは子供を殴った後の打撲傷を見て、そんなことをしたのは気が狂ったのではないかと思います。私たちがそのような行動をとるのは、心の中に殺人があるからでございます。
したがって、「わたしがしたくないことをするなら」ということは、私たちは悪であるから悪を行うということを意味します。そしてサタンが私たちを罪に誘惑するのはとても簡単です。
例えば、救われていない男が10年間、小屋の中で壁に向かって座り、韓国の偉大な僧侶ソンチョルのように瞑想しているとしましょう。壁に顔を向けて座っている間は良いのですが、誰かが食べ物を持ってきて、そして汚物を取り除かなければなりません。
そうなると、誰かと接触しなければなりません。それが男性であれば問題はありませんが、仮に美しい女性だったとしましょう。もし偶然に彼女を見かけたら、座っていたことが無駄になってしまいます。彼は、「姦淫をしてはいけない。心の中には姦淫があるが、それを捨てなければならない。振り払わなければならない。だめだ!心から消え去れ!」と考えています。
しかし、彼の決意は彼女を見た瞬間に消え去ります。女性が去った後、彼は自分の心を見つめます。10年間の努力が全て無駄になりました。
サタンが人の義を奪うことはとても簡単です。サタンがしなければならないのは、彼らを少し押すことだけです。人が救われずに一生懸命努力すると、罪に陥り続けることになります。その人は毎週日曜日に十分の一を忠実に納め、40日間断食し、100日間夜明けの祈りをします...しかしサタンは人生の良いことで彼らを誘惑します。
「あなたに会社で重要な地位を与えたいのですが、あなたはクリスチャンなので日曜日は働けないのですよね?とても素晴らしいポジションです。日曜日に3回働き、月に1回だけ教会に行くこともできるかもしれません。そうすれば、あなたはそのような高い名声を享受し、多額の給料を得ることができるでしょう。どうですか?」これでは、100人中100人が買収されるでしょう。
それでもダメなら、女性に弱い人がいます。サタンは彼の前に女性を置くと、彼は真っ逆さまに恋に落ち、即座に主(God)を忘れます。こうして人間の義は剥奪されるのです。
律法に従って生きようとしても、最終的に残るのは罪と痛みと貧困だけです。私たちはすべての義を失います。「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、彼の衣服を剥ぎ取り、傷つけ、半殺しにしたまま、逃げ去った。」
これは、私たちが聖なる主(God)の御心に従って生きてエルサレムに留まろうとするとしても、自分の弱さのせいで何度もつまずき、滅びてしまうということを意味しています。
そして私たちは主(God)の前に悔い改めの祈りを捧げます。「主(Lord)よ、私は罪を犯しました。私を許してください。もう二度とやりません。これが本当に最後になることを約束します。お願いだから、一度だけ許してください。」
しかし、それは決して続きません。人は罪を犯さずにこの世に生きていくことはできません。何度かは避けることはできるかもしれないが、再び罪を犯さないことは不可能です。それでまた罪が犯されるのです。「主(Lord)よ、どうかお許しください。」このようなことが続くと、彼らは教会(宗教)から遠ざかってしまいます。彼らは罪のために主(God)から離れ、最終的には地獄に落ちることになります。
エリコへの旅は世俗的な世界に落ち込んで世に近づき、エルサレムから遠ざかることを意味します。最初はエルサレムがまだ近くにありました。しかし、罪を犯しては悔い改めるというサイクルが繰り返されるうちに、私たちは世界に深く陥ってエリコの通りに立っていることに気づきます。 
 
誰が救われるでしょうか?
自分で頑張ることを諦めてしまった人
 
エリコに向かう途中、その男は誰に会ったのでしょうか?強盗です。律法の中で生きていない者は、卑しい犬になります。酒を飲み、どこでも眠り、どこでも小便をします。この犬は翌日目を覚ますと、また酒を飲みます。卑しい犬は自分の糞を食べます。だから彼は犬なのです。彼は酒を飲んではいけないと知っています。翌朝、彼は悔い改めますが、また飲みます。
それは、エリコに向かう途中で強盗に出会った男のようなものです。彼は置き去りにされ、傷つき、ほとんど死んでいます。彼の心には罪しかありません。これが人間というものです。
人々はイエス様を信じ、エルサレムで律法に従って生きていますが、心に罪だけを残して取り残されます。彼らが宗教生活で示すことができるのは、罪の傷だけです。心に罪を抱えた者は地獄に落とされる。彼らはそれを知っていますが、何をすべきかわかりません。あなたも私もそこに行ったことはありませんか?はい。私たちも皆同じでした。
主(God)の律法を誤って理解した律法師は、一生努力して、結局は傷ついたまま地獄に落ちる。彼は私たちであり、あなたであり、私です。
イエス様だけが私たちを救えるのです。私たちの周りには賢い人がたくさんいて、彼らは自分の知っていることを常に誇示しています。彼らは皆、主(God)の律法に従って生活しているふりをしています。彼らは自分自身に正直になれないのです。彼らは何が正しいか間違っているかを率直に言うことはできませんが、忠実に見えるように外見を整えることに常に熱心です。
その中には、エリコへ向かう途中の罪人や、強盗に殴られた者、すでに死んでいる者もいます。私たちは、主(God)の前に自分がどれほど弱い存在であるかを知らなければなりません。
私たちは主(God)の前でこう認めるべきです。「主よ、あなたが救ってくださらなければ、私は地獄に落ちます。どうか私をお救いください。あなたが真の福音を聞くことを許してくださるなら、私は雹が降ろうが嵐が吹こうが、あなたがお望みならどこへでも行きます。もしあなたが私を見捨てたら、私は地獄に落ちるでしょう。どうか私を救ってください。」
自分が地獄へ向かっていることを知っている人、自分で努力することを放棄して主(Lord)にしがみつく人、この人たちが救われることができます。私たちは決して自分の力だけでは救われません。
私たちは自分自身が強盗に出会った者と同じであることを知らなければなりません。
 
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