( マタイの福音書 3 章 13-17 節 )
「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』 ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』 そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」
今でも罪に苦しんでいる人はいませんか?
罪の束縛は終わったのでしょうか?
はい、終わりました。
私たちの主なる神は、すべての人のために、罪の鎖を断ち切ってくださいました。罪の下でつらい思いをしている人はみな、罪の奴隷ですが、主の贖いによって、主は確実に罪の束縛を断ち切ってくださいました。私たちの罪をすべて取り除いてくださったのです。今でも罪に苦しんでいる人はいませんか?
私たちは罪との戦いが終わったことを理解しなければなりません。私たちは二度と罪で苦しむことはありません。イエスがバプテスマと血によって私たちを贖ってくださった時、私たちの罪の束縛は終わりました。私たちのすべての罪は、その時、その場で終わったのです。神の御子は私たちの罪をすべて贖ってくださいました。神は、私たちを永遠に自由にしてくださったイエスを通して、私たちのすべての罪を贖ってくださったのです。
どれほど多くの人が自分の罪で苦しむか、ご存じですか? それは、アダムとエバの時代から始まりました。人類はアダムから受け継いだ罪に苦しんでいます。
しかし、私たちの神は、創世記 3 章 15 節に書かれている契約を結ばれました。その契約とは、すべての罪人を解放するというものでした。人間は、水と御霊によって、イエス・キリストの犠牲を通して、その罪を贖われるとおっしゃいました。その時が来て、神は私たちの救い主イエスを私たちの間に住まわせるために遣わされたのです。
また、イエスの前にバプテスマのヨハネを遣わすことを約束なさり、その約束を守ってくださいました。
マルコの福音書 1 章 1-8 節には、こう書かれています。「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」』 そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼は宣べ伝えて言った。『私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。』」
福音の証人であり、先駆けであるバプテスマのヨハネ
バプテスマのヨハネとは何者なのでしょうか?
最後の大祭司であり、全人類の代表です。
バプテスマはギリシャ語で「baptizo(バプティゾ)」といい、本来は「沈める」という意味ですが、「洗われる」「埋葬される」「浸される」「渡す」ということを暗示しています。イエスがバプテスマを受けられたとき、神の義が実行されました。「義」とはギリシャ語で「dikaiosune(ディカイオシュネ)」といい、「正しい」という意味のほかに、「最も適切」「最もふさわしい」「最も公正な状態」という意味があります。
イエスがバプテスマを受けられたのは、最もふさわしく、適切な方法で救い主となられるためでした。ですから、イエスのバプテスマと十字架を信じる人は、神からの贖いの贈物を受けるのです。
新約聖書では、バプテスマのヨハネが旧約聖書の最後の大祭司となっています。マタイの福音書 11 章 10-11 節を見てみましょう。聖書によると、バプテスマのヨハネは人類の代表であり、新約の時代の大祭司として、世の罪をすべてイエスの上に移し、旧約の大祭司職を務めたとあります。
イエスご自身が、ヨハネについてあかしなさいました。マタイの福音書 11 章 13-14 節で、「ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」とおっしゃいました。ですから、イエスにバプテスマを授けたバプテスマのヨハネは、大祭司アロンの子孫であり、最後の大祭司でした。聖書でも、旧約聖書でヨハネがアロンの子孫であることがあかしされています(ルカ 1:5、歴代誌Ⅰ 24:10)。
では、なぜヨハネはラクダの毛で織った物を着て、一人で荒野に住んでいたのでしょうか? それは、大祭司職を引き受けるためでした。全人類の代表であるバプテスマのヨハネは、人の中で暮らすことはできませんでした。そこで、彼は人々に、「まむしのすえたち。悔い改めなさい。」と叫び、人々に悔い改めの実を結ばせるためにバプテスマを授け、罪をすべて取り除いてくださるイエスのもとに立ち返るようにしたのです。何よりもバプテスマのヨハネは、イエスの頭に両手を置いたとき、私たちの救いのために世の罪をイエスの上に移したのです。
二種類のバプテスマ
バプテスマのヨハネはなぜ人々にバプテスマを授けたのでしょうか?
人々がすべての罪を悔い改め、イエスのバプテスマを信じて救われるように導くためです。
バプテスマのヨハネは人々にバプテスマを授け、そしてイエスにもバプテスマを授けました。一つ目は「悔い改めのバプテスマ」で、罪人が神のもとに立ち返ることを呼びかけるものでした。ヨハネを通して神のみことばを聞いた多くの人々は、自分の偶像を捨てて神のもとに立ち返りました。
二つ目のバプテスマは、イエスのバプテスマで、この世のすべての罪をイエスの上に渡すバプテスマでした。バプテスマのヨハネは、神の正しいことを実行するためにイエスにバプテスマを授けました。つまり、イエスはすべての人を罪からお救いくださるために、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたのです(マタイ 3:15)。
ヨハネはなぜイエスにバプテスマを授けなければならなかったのでしょうか? 世の罪を消し去るために、神はヨハネがすべての罪をイエスの上に移し、イエスを信じる人々が救われるようにしなければならなかったのです。
バプテスマのヨハネは、バプテスマによって世のすべての罪をイエスの上に移し、全人類が贖いの福音を信じて悔い改め、罪を洗われるように、イエスをあかしすることを使命とする神のしもべでした。そのため、ヨハネは荒野で一人で生きていかなければなりませんでした。バプテスマのヨハネの時代には、イスラエルの民はみな堕落し、根底から腐っていました。
そこで神は、旧約聖書のマラキ書 4 章 5-6 節で、「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」とおっしゃいました。
神の御目には、それまでエホバを拝んでいたイスラエルの民はすべて堕落していました。神の前で正しい人はいませんでした。神殿の宗教指導者たち、たとえば、祭司、律法の専門家、律法学者などは、特に根底から腐っていました。イスラエル人とその祭司たちは、神の律法に従って、いけにえをささげませんでした。
祭司たちは、神から罪の贖いのために与えられた按手と血のささげ物の儀式を放棄していたのです。マラキの時代の祭司たちは、律法的ないけにえの制度、按手といけにえの動物の血をささげることを放棄していたことが記録されています。
そのため、バプテスマのヨハネは彼らと一緒にいることができませんでした。彼は荒野に出て行き、叫びました。彼は何と言ったのでしょうか?
預言者イザヤの言葉を引用して、マルコの福音書 1 章 2-3 節に書かれています。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」
荒野の声は、人々に悔い改めのバプテスマを叫びました。聖書に書かれている「悔い改めのバプテスマ」とは何でしょうか? それはバプテスマのヨハネが叫んだバプテスマで、人々をイエスのもとに呼び戻し、罪をすべて取り除いてくれるイエスを信じて救われるようにするためのバプテスマです。悔い改めのバプテスマは、人々を救いに導くものでした。
「悔い改めてバプテスマを受けなさい。私たちの救い主イエスも同じようにバプテスマを受けて、あなたがたの罪をすべて取り除いてくださるのです。」 バプテスマのヨハネの叫びは、イエスが世の罪を取り除き、十字架で裁かれてすべての人を救い、神のもとに立ち返らせることでした。
「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります」(マルコ 1:8)。「聖霊のバプテスマをお授けになります」とは、すべての罪を洗い流すことです。バプテスマとは、「洗う」という意味です。ヨルダン川でのイエスのバプテスマは、神の御子がこのようにバプテスマを受け、私たちの罪をすべて取り除いて救ってくださったことを物語っています。
ですから、私たちは罪深い生活から立ち返り、イエスを信じるのです。イエスは、世の罪を取り除いた小羊です。これが、バプテスマのヨハネがあかしした贖いの福音なのです。
罪の贖いのための大祭司の任務
救いの道を整えたのは誰ですか?
バプテスマのヨハネです。
預言者イザヤは、こう預言していました。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けた」(イザヤ 40:2)。
イエス・キリストは、私たちのすべての罪を例外なく取り除いてくださいました。原罪も、今の罪も、未来の罪さえも、イエス・キリストのバプテスマによって洗い流されました。私たち全員を贖ってくださったのです。私たちはみな、神の贖いについて知るべきです。
すべての罪から救われるためには、バプテスマのヨハネがバプテスマという手段ですべての罪をイエスの上に移したという福音を信じなければなりません。
私たちは、「神は愛であるから、心に罪があっても、イエスを信じることによってのみ天の御国に入ることができる。」と誤解してはいけません。
すべての罪を贖われるためには、バプテスマのヨハネが世のすべての罪をイエスの上に移したイエスのバプテスマと十字架を信じなければなりません。バプテスマのヨハネが人類のすべての罪をイエスの上に移したのは、「水」によってです。
神が私たちを救うために最初になさったことは、ヨハネをこの世にお遣わしになることでした。バプテスマのヨハネは、神の使いとして遣わされ、バプテスマによって世のすべての罪をイエスの上に移す王の使節だったのです。彼は全人類の大祭司職を務めました。
神は、ご自身の使いであるバプテスマのヨハネを私たちのところに遣わしたとおっしゃいました。「わたしは使いをあなたの前に遣わす。」 「あなたの前」とは、イエスの前という意味です。なぜ神はイエスの前にヨハネを遣わしたのでしょうか? それは、世のすべての罪を、バプテスマによって神の御子であるイエスの上に渡すためでした。「あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。」 これが、この聖句の本当の意味です。
私たちが贖われて天国に行けるように、道を備えてくれたのは誰でしょうか? バプテスマのヨハネです。「あなた」とはイエスのことで、「わたし」とは神ご自身のことです。したがって、「わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。」とおっしゃったのは、どういう意味でしょうか。
私たちが天国に行くために、誰が道を整えるのでしょうか。バプテスマのヨハネは、イエスがすべての罪を洗い流してくださったと私たちが信じるように、私たちの罪をすべてイエスの上に移しました。ヨハネの役目は、イエス・キリストにバプテスマを授けることで、罪を渡すことでした。私たちが真理を信じ、贖われることを可能にしたのは、イエスとヨハネでした。
私たちの救いは何にかかっているのでしょうか? それは、神の御子イエスの義の行為と、神の使いであるバプテスマのヨハネが世の罪をすべてイエスの上に移したという事実を信じるかどうかにかかっています。私たちはみな、罪の赦しの福音を知るべきです。父なる神は、御子にバプテスマを授ける使いを先に遣わされ、この使いを人類の代表とされました。こうして、私たちのために贖いのみわざを完成させてくださったのです。
神は、しもべであるバプテスマのヨハネを遣わして、御子にバプテスマを授けさせ、イエスを信じる者たちに救いの道を備えさせました。これが、ヨハネがイエスにバプテスマを授けた理由です。バプテスマのヨハネによるイエスのバプテスマは、すべての人がイエスを信じて天国に行けるように、人類のすべての罪がイエスの上に移されたという、神の贖いの成就でした。
人類の未来の罪までもが、バプテスマによってイエスの上に引き継がれたのです。イエスとバプテスマのヨハネが一緒になって、私たち全員のために天国への道を備えたのです。このようにして、神はバプテスマのヨハネを通して贖いの秘密を明らかにされました。
ヨハネは人類の代表として、私たちが自分たちの贖いを信じて天国に行けるように、イエスにバプテスマを授けました。バプテスマによって、すべての罪をイエスの上に渡したのです。これが福音である喜ばしい贖いの知らせです。
なぜバプテスマのヨハネは生まれたのか
私たちは誰によってイエスを信じることができるのでしょうか?
バプテスマのヨハネです。
マラキ書 3 章 1 節には、「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。」と書かれています。聖書をよく読まなければなりません。なぜ神はイエスの前に使者を遣わしたのでしょうか? なぜバプテスマのヨハネは、イエスの 6 ヶ月前に生まれたのでしょうか?
私たちは、聖書の内容を理解しなければなりません。旧約聖書には、大祭司アロンの務めが記されています。アロンはモーセの兄でした。神はアロンとその子らに祭司として油を注ぎました。他のレビ人は彼らの下で働き、各種の道具を持ってきたり、パンの生地を混ぜたりしていましたが、アロンの子らは聖なる幕屋の中でいけにえをささげました。
アロンの子らには油が注がれ、彼らの間で平等に務めを分担していましたが、第七の月の十日の「贖いの日」には、大祭司だけが民の年ごとの罪のために贖いのいけにえをささげました。
ルカの福音書 1 章 5 節に、バプテスマのヨハネの血筋についての話があります。イエスを正しく理解するためには、この神の使者を正しく理解しなければなりません。私たちは、イエスのことはよく考える傾向がありますが、イエスの前に来たバプテスマのヨハネのことは多くを無視しがちです。わかりやすくお話ししましょう。
「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう』」(マルコ 1:1-2)。天国の福音は、いつもバプテスマのヨハネから始まります。
バプテスマのヨハネについて十分に学ぶことで、イエスの贖いの福音をはっきりと理解し、信じることができます。それは、すべての国の状況を理解するために、世界中に派遣した大使の話を聞くのに似ています。バプテスマのヨハネについて知るとき、私たちは神の贖いを非常によく理解することができます。
しかしながら、最近のキリスト教徒の中には、ヨハネの重要性を理解していない人が多いのは残念なことです。神がバプテスマのヨハネを遣わしたのは、退屈で他にすることがなかったからではありません。新約聖書の四つの福音書はすべて、イエスの贖いについて語る前に、バプテスマのヨハネについて語っています。
しかし、現代の伝道者たちは、バプテスマのヨハネを完全に無視して、イエスを信じるだけで救われると言います。その結果、人々は一生罪人として生き、地獄に落ちることになるのです。もしすべてのキリスト教徒が、バプテスマのヨハネの役割を理解せずにイエスを信じるだけなら、キリスト教は堕落してこの世の宗教になってしまうでしょう。真理を知らないのに、どうやって罪を贖うことができるのでしょうか? それは不可能です。
贖いの福音は、そんな単純なものでも、そんな簡単なものでもありません。非常に多くの人は、イエスが私たちのために十字架で死んでくださったので、贖いは十字架への信仰にあると考えます。しかし、罪を移すことについての真理を知らずに、イエスの十字架を信じるだけでは、どんなに強い信仰を持っていても、完全な贖いにはなりません。
神はバプテスマのヨハネを遣わして、贖いがどのように成し遂げられるのか、イエスがどのようにして世の罪を取り除くのかを世に知らせてくださいました。すべての真理を知って初めて、イエスが私たちの罪をすべてご自身に負われた神の御子であることを理解することができるのです。
バプテスマのヨハネは、贖いの真理について語っています。彼は、イエスが神であり、まことの光であることをどのようにしてあかしするようになったかを語っています。彼は、自分が光ではなく、ただ光についてあかしすることを明確に主張しました。また、ヨハネの福音書 1 章によると、イエス・キリストにバプテスマを授けて贖いの福音を備えたのは、バプテスマのヨハネであるとあかししています。
もし私たちがバプテスマのヨハネによる贖いに関するあかしを持っていなかったら、どうしてイエスを信じることができるでしょうか? 私たちはイエスを見たことがありませんし、異なる文化や宗教から来ているのに、どうしてエホバを私たちの神として信じることができるのでしょうか?
このように世界中に様々な宗教がある中で、私たちはどうやってイエス・キリストを知ることができるのでしょうか? イエスが実際に神の御子であり、世の罪をすべてご自身に負われて私たちを贖ってくださったことを、どうやって知ることができるのでしょうか?
私たちは旧約聖書を調べて、最初から贖いのみことばを見つけ、イエスが私たちの救い主であることを知らなければなりません。正しい信仰を持つためには、正しい知識を得なければなりません。真の知識がなければ何もできないのです。イエスを信じて救われるためには、バプテスマのヨハネがあかしした贖いの福音と、その中でのヨハネの役割を知らなければなりません。キリストへの完全な信仰を持つためには、贖いについての真理を知らなければなりません。
ですから、イエスが、「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ 8:32)とおっしゃったように、私たちはイエスのうちにある贖いの真理を知らなければならないのです。
聖書にある証拠
四つの福音書はどの時点から始まっているのでしょうか?
バプテスマのヨハネの出現からです。
それでは、聖書に記されている贖いの証拠をすべて探っていきましょう。四つの福音書がバプテスマのヨハネについて述べていることを明らかにさせます。ヨハネとは誰なのか、なぜ彼が「人類の代表」や「最後の大祭司」と呼ばれたのか、どのようにして世のすべての罪がヨハネによってイエスの上に移されたのか、イエスは私たちの罪をすべてご自身の上に負われたのか、そうではないのか、という点です。
四つの福音書がすべてバプテスマのヨハネから始まっているという事実に注意を払う必要があります。ヨハネの福音書 1 章 6 節には、福音書の中で最も重要な事実の一つが記されています。それは、世のすべての罪をイエスの上に移すという務めを誰が行なったのか、ということです。「神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである」(ヨハネ 1:6-7)。
「すべての人が彼によって信じるため」とあり、「光についてあかしするため」だったとあります。光とは、イエス・キリストのことです。つまり、ヨハネはイエスをあかしして、すべての人がヨハネによって信じるようになったということです。さて、マタイの福音書 3 章を詳しく見てみましょう。
マタイの福音書 3 章 13-17 節には、次のようにあります。「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』 ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』 そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」
なぜヨハネの血筋を理解しなければならないのでしょうか?
なぜなら、聖書には、ヨハネが全人類の大祭司であることが記されているからです。
バプテスマのヨハネは、世のすべての罪の赦しを成し遂げるために、イエスにバプテスマを授けました。イエスがヨハネからお受けになったバプテスマは、私たちの救いにとって最も重要な出来事でした。しかし、真理の全体像を詳細に理解し、信じるためには、まずバプテスマのヨハネを綿密に研究する必要があります。
ルカの福音書 1 章 1-14 節には、次のようにあります。「私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿にはいって香をたくことになった。彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。ところが、主の使いが彼に現われて、香壇の右に立った。これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、御使いは彼に言った。『こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。』」
ここでは、イエスの弟子であるルカが、ヨハネの血筋を詳しく教えています。つまり、イエスの弟子であるルカは、初めからヨハネの血筋を説明しているのです。ルカは、異文化の出身で主のことを知らないテオピロという人に福音を教えていました。
そこでルカは、罪人の救い主であるイエスのことを教えるために、バプテスマのヨハネの血筋を詳しく説明する必要があると考えました。私たちも人種の違う異邦人ですから、イエスの救いが具体的に順序を立てて説明されないと理解できません。その詳細を調べてみましょう。
ルカの福音書 1 章 5-9 節では、彼はこう語りました。「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿にはいって香をたくことになった。」
ここでは、ザカリヤが祭司職の習慣によって神に仕えているときに事件が起こりました。ルカは、ザカリヤがアロンの子孫であることをはっきりとあかししています。では、ザカリヤはどの組に属していたのでしょうか? これは非常に重要な点です。
ルカは、「さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていた。」と説明しました。ルカは、ザカリヤのことをよく知っていたので、ザカリヤとエリサベツの両方に触れて贖いの福音を説明したことがわかります。
バプテスマのヨハネは、ザカリヤと、その妻でアロンの娘の一人であるエリサベツとの間に産まれました。では、ヨハネの父であるザカリヤの血筋を見てみましょう。
バプテスマのヨハネの血筋
バプテスマのヨハネは誰の子孫ですか?
大祭司アロンです。
バプテスマのヨハネの血筋を理解するためには、旧約聖書の歴代誌第一 24 章 1-19 節を読まなければなりません。
「アロンの子らの組分け。アロンの子らは、ナダブ、アビフ、エルアザル、イタマル。ナダブとアビフはその父に先立って死に、彼らには子どもがなかったので、エルアザルとイタマルが祭司の務めについた。ダビデは、エルアザルの子孫のひとりツァドク、およびイタマルの子孫のひとりアヒメレクと協力して、彼らをそれぞれの奉仕に任命し、それぞれの組に分けた。エルアザルの子孫のほうが、イタマルの子孫よりも一族のかしらが多かったので、エルアザルの子孫は、父祖の家のかしらごとに十六組に、イタマルの子孫は、父祖の家ごとに八組に分けられた。彼らはくじを引いて互いにそれぞれの組に分かれた。聖所の組のつかさたち、神の組のつかさたちは、エルアザルの子孫の中にも、イタマルの子孫の中にもいたからである。レビ人の出の書記、ネタヌエルの子シェマヤが、王とつかさたち、および祭司ツァドクとエブヤタルの子アヒメレク、それに祭司とレビ人の一族のかしらたちの前で、それらを書きしるした。エルアザルの父祖の家を一つ一つ、イタマルのを一つ一つ。第一のくじは、エホヤリブに当たった。第二はエダヤに、第三はハリムに、第四はセオリムに、第五はマルキヤに、第六はミヤミンに、第七はコツに、第八はアビヤに、第九はヨシュアに、第十はシェカヌヤに、第十一はエルヤシブに、第十二はヤキムに、第十三はフパに、第十四はエシェブアブに、第十五はビルガに、第十六はイメルに、第十七はヘジルに、第十八はピツェツに、第十九はペタフヤに、第二十はエヘズケルに、第二十一はヤキンに、第二十二はガムルに、第二十三はデラヤに、第二十四はマアズヤに当たった。これは主の宮にはいる彼らの奉仕のために登録された者たちで、彼らの先祖アロンがイスラエルの神、主の彼に命じられたところによって、定めたとおりである。」
もう一度 10 節を読んでみましょう。「第七はコツに、第八はアビヤに。」 ダビデ王の時代には、数多くの祭司がいましたので、彼らの体系的な奉仕のための規定を設ける必要もありました。そこでダビデは、アロンの子らにくじを引かせ、いけにえが順番にささげられるようにしました。(みなさんご存じのように、アロンはモーセの兄です。神はモーセを代理人とし、アロンをイスラエルの民の前で聖なる幕屋の大祭司として任命されました。)
他のレビ人はすべて祭司の下に置かれ、アロンとその子らである祭司たちが、神の前ですべてのいけにえを担当しました。ダビデがくじを引く前は、アロンの子孫である祭司たちがその都度くじを引かなければならず、大きな混乱を招いていました。
そこでダビデは、各組を順番に並べて制度を設けました。祭司には、アロンの子らを先祖とする二十四の組があり、そのうちの第八組がアビヤでした。「アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。」と書かれています。つまり、ザカリヤはアビヤの組の祭司であり、二人とも大祭司アロンの子孫でした。
それは、バプテスマのヨハネの父であるアビヤの組の祭司、ザカリヤでした。私たちは、彼らがかつて家族内で結婚していたことを聖書から知っています。
そこでヤコブは、母方の叔父の娘と結婚したのです。この血筋の説明こそが、非常に重要です。「アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。」とあります。
したがって、彼は間違いなくアロンの子孫です。誰でしょうか? バプテスマのヨハネの父であるザカリヤです。これは、イエスの贖いと、バプテスマのヨハネの務め、そして世の罪をイエスの上に移すことを説明する上で、重要な事実です。
アロンの子らだけが祭司としての務めを行う
旧約聖書の時代には、誰が大祭司を務めることができたのでしょうか?
アロンと、その任命された子孫です。
では、アロンの子らが祭司として奉仕することは、聖書のどこに明記されているのでしょうか? それを調べてみましょう。
民数記 20 章 22-29 節には、次のようにあります。「こうしてイスラエル人の全会衆は、カデシュから旅立ってホル山に着いた。主は、エドムの国の領土にあるホル山で、モーセとアロンに告げて仰せられた。『アロンは民に加えられる。しかし彼は、わたしがイスラエル人に与えた地にはいることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命令に逆らったからである。あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。アロンにその衣服を脱がせ、これをその子エルアザルに着せよ。アロンは先祖の民に加えられ、そこで死ぬ。』 モーセは、主が命じられたとおりに行なった。全会衆の見ている前で、彼らはホル山に登って行った。モーセはアロンにその衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せた。そしてアロンはその山の頂で死んだ。モーセとエルアザルが山から降りて来たとき、全会衆はアロンが息絶えたのを知った。そのためイスラエルの全家は三十日の間、アロンのために泣き悲しんだ。」
出エジプト記には、大祭司アロンの子らが祭司職を引き受けるべきだという神の律法が記されており、任命された子らは、30 歳になったら父と同じように大祭司職を引き受ける必要があったのです。
出エジプト記 28 章 1-5 節には、次のようにあります。「あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせよ。また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表わす聖なる装束を作れ。あなたは、わたしが知恵の霊を満たした、心に知恵のある者たちに告げて、彼らにアロンの装束を作らせなければならない。彼を聖別し、わたしのために祭司の務めをさせるためである。彼らが作らなければならない装束は次のとおりである。胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯。彼らは、あなたの兄弟アロンとその子らに、わたしのために祭司の務めをさせるため、この聖なる装束を作らなければならない。それで彼らは、金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに亜麻布を受け取らなければならない。」
神は、モーセの兄アロンを明らかに大祭司に任命なさいました。祭司職は他の人には開かれていませんでした。神はモーセに、アロンを大祭司として聖別なさり、神がお定めになったふさわしい装束を作るように命じられました。私たちは神のみことばを決して忘れてはなりません。
また、出エジプト記 29 章 1-9 節にも、次のようにあります。「あなたは、彼らを祭司としてわたしに仕えるように聖別するため、次のことを彼らにしなければならない。すなわち、若い雄牛一頭、傷のない雄羊二頭を取れ。種を入れないパンと、油を混ぜた種を入れない輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべいとを取れ。これらは最良の小麦粉で作らなければならない。これらを一つのかごに入れ、そのかごといっしょに、あの一頭の雄牛と二頭の雄羊とをささげよ。アロンとその子らを会見の天幕の入口に近づかせ、水で彼らを洗わなければならない。あなたは、装束を取り、アロンに長服とエポデの下に着る青服と、エポデと胸当てとを着せ、エポデのあや織りの帯を締めさせる。彼の頭にかぶり物をかぶらせ、そのかぶり物の上に、聖別の記章を掛ける。そそぎの油を取って、彼の頭にそそぎ、彼に油そそぎをする。彼の子らを近づけ、彼らに長服を着せなければならない。アロンとその子らに飾り帯を締めさせ、ターバンを巻きつけさせる。永遠のおきてによって、祭司の職は彼らのものとなる。あなたは、アロンとその子らを祭司職に任命せよ。」
神は、アロンとその子らだけが祭司職を永遠に維持するために聖別されなければならないと規定なさいました。特に、「永遠のおきてによって」とおっしゃったのは、イエスがこの世に来られた後も、祭司職が有効であることを意味しています。
ルカは、ザカリヤが大祭司アロンの子孫であることを詳しく説明しています。ザカリヤが主の神殿で神の前で担当の祭司として仕えていたとき、御使いが現れて、祈りが聞かれたこと、妻のエリサベツが男の子を産むことを告げました。
ザカリヤはこれを信じられず、尋ねました。「妻も年を取っております。どうして子どもを産むことができましょう。」 彼の疑いのために、神はご自身のみことばが真実であることを示すために、しばらくの間、ザカリヤを口がきけないようにされました。
やがてザカリヤの妻が身ごもり、しばらくして処女マリヤも身ごもりました。この二つの出来事は、私たちを救うための神の準備された、みわざだったのです。哀れな人類を救うために、神はしもべヨハネとひとり子イエスをこの世に遣わさなければなりませんでした。
そこで、神は、御子を信じる者が救われるように、世のすべての罪を移すために、ヨハネにバプテスマを受けさせたのです。
神の特別な摂理
神は、イエスの贖いのみわざのために、誰をイエスの前に備えられたのでしょうか?
バプテスマのヨハネです。
イエス・キリストは、処女マリヤのからだから産まれた人類の救い主です。マリヤは、ユダの子孫であるヨセフと婚約していました。バプテスマのヨハネが大祭司アロンの家系で産まれなければならなかったように、イエスは神の契約を成就なさるために、ユダの子孫を通して産まれなければなりませんでした。
神はこの二人をこの世に生まれるように備えてくださいましたが、その順番はイエスの前にヨハネがいました。ヨハネが産まれたのは、イエスにバプテスマを授け、世の罪をすべてイエスの上に移すためだったのです。大祭司の子孫は、旧約と新約で結ばれた神の契約を成就するために、贖いのいけにえをささげなければなりませんでした。また、イエスの贖いの福音が正しく伝えられ、すべての人々が救い出されるようにしなければなりませんでした。
出エジプト記の中で、神はイスラエルに律法と契約をお与えになりました。これは、神の律法と幕屋のいけにえの制度であり、祭司の服装やいけにえの詳細、祭司の子らへの祭司職を受け継がせるということに至るまで、すべてが含まれています。神はアロンとその子らを永久に大祭司に任命なさいました。
そのため、アロンの子孫はみな、いけにえをささげることができ、大祭司はアロンの家系からしか出られないことになっていました。なぜそうなったのか、わかりますか?
アロンの多くの子孫の中から、神はザカリヤというある祭司とその妻エリサベツを選ばれました。神は、「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わす。」とおっしゃいました。神がザカリヤに、エリサベツに男の子を産ませること、そしてその子をヨハネと名づけることを告げられたとき、ザカリヤはとても驚き、その子が生まれて名前がつけられるまで、神の命令で口がきけなくなったのです。
確かに、ザカリヤの家系には男の子が産まれました。イスラエルの習慣によって幼子に名前をつけるとき、幼子は父親または親族の一人の名前をつけられました。
「さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜んだ。さて八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、母は答えて、『いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません。』と言った。彼らは彼女に、『あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません。』と言った。そして、身振りで父親に合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねた。すると、彼は書き板を持って来させて、『彼の名はヨハネ。』と書いたので、人々はみな驚いた。すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。そして、近所の人々はみな恐れた。さらにこれらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体にも語り伝えられて行った。聞いた人々はみな、それを心にとどめて、『いったいこの子は何になるのでしょう。』と言った。主の御手が彼とともにあったからである」(ルカ 1:57-66)。
男の子が生まれたとき、ザカリヤはまだ口がきけませんでした。幼子の名前を決めるとき、親族たちは「ザカリヤ」と名づけようとしました。しかし母は、「ヨハネ」という名にしなければならないと主張しました。これに対して親族は、家族の中にはそのような名の人はひとりもいないのだから、男の子を父の名にちなんでザカリヤと名づけるべきだと言いました。
エリサベツがその名前を主張し続けると、親族たちはザカリヤのところに行って、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねました。ザカリヤはまだ口がきけませんでしたから、書き板を持って来させると、「ヨハネ」と書きました。親族はみな、この珍しい名前を不思議に思いました。
しかし、名をつけると、ザカリヤはすぐに口がきけるようになりました。彼は神をほめたたえ、聖霊に満たされて預言したのです。
このように、ルカはザカリヤの家系でバプテスマのヨハネが誕生したことを伝えています。「アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。」 神の特別な摂理により、アロンの子孫であるザカリヤのもとに、人類の代表であるバプテスマのヨハネが生まれました。
バプテスマのヨハネとイエス・キリストを通して、神は人類の救いを成し遂げられました。私たちは、ヨハネとイエス・キリストによって行われた贖いのみわざを信じることで、すべての罪から救われるのです。
イエスのバプテスマ
イエスはなぜヨハネからバプテスマを受けたのでしょうか?
世の罪をすべて取り除くためです。
バプテスマのヨハネは、イエスが神の御子であり、私たちの罪をすべて取り除いてくださったことをあかししました。彼はバプテスマのヨハネであり、神の救いをあかしするために遣わされた神のしもべでした。神が私たちの救い主であることを、神ご自身が語らないということではありません。神は教会の中のしもべを通して、また救われたすべての神の民の口を通して、みわざをなさいます。
神は、おっしゃいます。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。……草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ 40:2, 8)。
神は、キリストが誕生する約 700 年前に、「あなたがたはもう罪人ではありません。わたしはあなたがたのすべての罪を贖い、戦いは終わったのです。」と、すでに約束なさっていました。このように、贖いの福音の声は、私たちに向かって叫び続けているのです。これが整えられた福音と呼ばれるものです。
バプテスマのヨハネの務めを理解し、世のすべての罪がバプテスマのヨハネを通してイエスの上に移されたことを本当に理解するとき、私たちはみな、罪から解放されることができるのです。
旧約聖書の最後の預言者であるマラキも、バプテスマのヨハネが備えられた神のしもべであることをあかししています。新約聖書は、バプテスマのヨハネの誕生と、彼を通して罪が移されるところから始まります。
では、なぜ彼をバプテスマのヨハネと呼ぶのでしょうか? それは、彼がイエスにバプテスマを授けたからです。バプテスマとは何でしょうか? 旧約聖書の「按手」と同じように、「渡す、葬られる、洗われる」という意味です。
旧約聖書では、人が罪を犯したとき、傷のないいけにえの動物の頭に手を置いてその罪をその上に渡し、いけにえはその罪とともに死んでいきました。『按手』とは『渡す』という意味です。ですから、『按手』と『バプテスマ』は、一見違っていても、同じ意味合いを持っています。
では、イエスのバプテスマの意味は何だったのでしょうか? イエスのバプテスマは、私たちが罪の赦しを受けるための唯一の方法でした。神は、「按手」によって罪がいけにえに移されるという律法を定めておられました。旧約聖書の時代には、罪人は自分の罪をいけにえの頭の上に移すために、いけにえの頭に手を置いていました。その後、いけにえの喉を切り、その血を祭司が全焼のいけにえの祭壇の角につけました。これが日ごとの罪を贖う方法でした。
では、彼らはどのようにして年ごとの罪を贖ったのでしょうか?
この場合、大祭司アロンは、イスラエルのすべての民のためにいけにえをささげました。バプテスマのヨハネはアロンの家系に生まれたので、彼が大祭司になるのが適切であり、神は贖いの約束に従って、彼を最後の大祭司にするように定められました。
バプテスマのヨハネは全人類の代表であり、イエス・キリストが生まれたときに旧約聖書が終わったので、最後の大祭司でした。旧約聖書でアロンが民の罪を贖ったように、新約聖書で世のすべての罪をイエスの上に移すことができたのは、バプテスマのヨハネ以外に誰がいるでしょうか? 旧約聖書の最後の大祭司として、また全人類の代表として、バプテスマのヨハネは、イエスにバプテスマを授けたときに、世のすべての罪をイエスに渡したのです。
ヨハネは世の罪をすべてイエスの上に移したので、水と御霊の福音を信じることで、私たちを贖うことができるのです。イエスはすべての罪人をお救いになるために小羊となられ、神が計画された通りに贖いのみわざを実行されました。イエスは、バプテスマのヨハネが、世の罪をすべてイエスの上に移した最後の預言者であり、最後の大祭司であることを教えてくださいました。
なぜイエスはご自分でできなかったのでしょうか? なぜバプテスマのヨハネが必要だったのでしょうか? バプテスマのヨハネがイエスの六ヶ月前に生まれたのには理由がありました。それは、旧約聖書の律法を成就し、その約束を成し遂げるためでした。
イエスは処女マリヤから産まれ、バプテスマのヨハネはエリサベツという不妊の老女から産まれました。
これらは神のみわざであり、すべての罪人を救うために計画されたものです。私たちを、罪との永遠の戦いと、罪深い存在のあらゆる苦しみからお救いくださるために、神はしもべヨハネを遣わされ、さらに御子イエスを遣わされたのです。バプテスマのヨハネは、全人類の代表として、最後の大祭司として遣わされました。
女から生まれた最もすぐれた人
地上で最もすぐれた人とは誰なのでしょうか?
バプテスマのヨハネです。
マタイの福音書 11 章 7-14 節を見てみましょう。「この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。『あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。この人こそ、「見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。」と書かれているその人です。まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。』」
人々は、「悔い改めなさい。まむしのすえたち。」と叫んだバプテスマのヨハネに会うために荒野に出かけました。イエスは、「でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。」とおっしゃいました。
イエスご自身が、ヨハネの偉大さをあかししてくださいました。「何を見に行ったのですか? ラクダの着物を着て、大声で叫ぶ野蛮人ですか? ラクダの毛を着ていたに違いありません。でなかったら、何を見に行ったのですか? 柔らかい着物を着た人ですか? 柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。しかし、彼は王よりもすぐれた者です。」とイエスはあかしなさいました。「柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。」
昔は、預言者は王よりもすぐれた者だと考えられていました。バプテスマのヨハネは、王以上であり、預言者以上の存在でした。旧約聖書のすべての預言者よりもすぐれていたのです。実際、最後の大祭司であり、人類の代表であるヨハネは、最初の大祭司であるアロンよりも重要でした。イエスご自身が、ヨハネがそのような存在であることをあかしされました。
人類の代表は誰でしょうか? キリストご自身を除いて、地上で最もすぐれた人物は誰でしょうか? バプテスマのヨハネです。「わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。」
バプテスマのヨハネは、罪との戦いが終わったことをあかししました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」 イエスが世の罪を取り除かれたことをあかししたのは、バプテスマのヨハネでした。
マタイの福音書 11 章 11 節には、「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」とあります。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりもすぐれた人がいたでしょうか?
「女から生まれた」とは、どういうことでしょうか? それは、全人類を指しています。アダムとエバを除いて、すべての人間は女から生まれました。そうです、女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネほどすぐれた者は現れていないのです。ですから、彼こそが最後の大祭司であり、人類の代表なのです。バプテスマのヨハネは、大祭司であり、預言者であり、全人類の代表でした。
旧約聖書では、アロンとその子らは、永遠に仕えるように神に任命されていました。すべての罪は、アロンとその子らによって洗い流されなければなりませんでした。それは、神がお命じになったことでした。
もし、他のレビ人が名乗り出て、あえてその祭司職に就こうとしたら、必ず死んでいたでしょう。彼らができることは、祭壇の火のための薪を集め、動物の皮を剥ぎ、脂肪を取り除き、腸をきれいにして、その内臓を宿営地の外に持ち出すことだけでした。厚かましくも自分で祭司の務めを肉体的にやろうとしたら、死んでいたでしょう。それが神の律法なのです。彼らは一線を越えることはできませんでした。
地上には、バプテスマのヨハネよりもすぐれた者は現れていません。彼はすべての人間の中で最もすぐれていました。「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」
バプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授けたことで人類の救いが成し遂げられ、イエスを信じる者は信仰によって義人になるので天の御国に入ることができます。
では、ヨハネの父親が息子にどのようなあかしをしたのかを見てみましょう。
ヨハネの父ザカリヤのあかし
ザカリヤは、自分の息子について何を預言したのでしょうか?
神の民に救いの知識を与えて主の道を整えることです。
ルカの福音書 1 章 67-80 節を読んでみましょう。「さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。『ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。』 さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。」
ザカリヤは二つのことを預言しました。彼は、すべての人々の王が来られることを預言しました。68 節から 73 節までは、神が約束を忘れず、神がアブラハムに約束なさったイエスが、その子孫を敵の手から救うために、処女マリヤから産まれることを、喜びをもって預言しました。
74 節から、「われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。」とあります。これは、アブラハムとイスラエルの民に対する神の約束を思い起こさせるもので、彼は、「恐れなく、主の御前に仕えることを許される」と預言しています。
76 節からは、息子に向けて預言しています。「幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」
ここで彼は、「神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。」と告げました。救いの知識は誰によって与えられると言ったのでしょうか? バプテスマのヨハネです。みなさん、これがわかりますか? バプテスマのヨハネは、神のみことばによって、イエスが世の罪を取り除いてくださった神の御子であるという知識を与えるためだったのです。
さて、マルコの福音書 1 章を見てみましょう。「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」』 そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた」(マルコ 1:1-5)。
イスラエル人は、バプテスマのヨハネの話を聞いて、異邦人の偶像を拝むことから立ち返り、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けました。しかし、ヨハネはこうあかししました。「私が水であなたがたにバプテスマを授けるのは、あなたがたが神のもとに立ち返るためです。しかし、神の御子が来られ、私からバプテスマを受け、あなたがたのすべての罪が同じように神の御子に移されます。そして、私からバプテスマを受けているときに、そのバプテスマを信じるならば、旧約聖書で按手によって罪が渡されたように、あなたがたの罪はすべて御子の上に渡されるのです。」 それがヨハネのあかしでした。
イエスがヨルダンでバプテスマを受けられたということは、死の川でバプテスマを受けられたということです。お葬式では、「♪甘い時間の流れの中で、我らその美しき海岸で出会おう♪」と歌います。私たちが死ぬとき、私たちはヨルダン川を渡ります。ヨルダン川は、死の川です。イエスはそこで世のすべての罪を負われ、「罪から来る報酬は死」であるため、この死の川でバプテスマを受けられたのです。
私たちの罪を引き継ぐバプテスマ
新約聖書では、手の対型は何ですか?
イエスのバプテスマです。
マタイの福音書 3 章 13-17 節には、こう書かれています。「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』 ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』 そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」
イエスはヨルダンに行き、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられました。彼はヨハネに、「わたしにバプテスマを授けなさい。」とお命じになりました。ヨハネは答えました。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」 天の大祭司と地上の大祭司がともに出会いました。
ヘブル人への手紙で述べられているように、イエス・キリストはメルキゼデクの位に等しく、永遠に大祭司です。これは、イエスには人間の系図がないことを意味します。アロンの子孫でもなければ、地上のいかなる人物の子孫でもありません。イエスは、私たちの創造主である神の御子です。そのため、イエスには系図がありません。イエスは、天の栄光を捨てて、ご自分の民を救うために地上に降りて来られました。
この世に降りて来られたのは、サタンの惑わしに苦しむすべての罪人をお救いになるためでした。また、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになることによって、世の罪をすべて取り除いてくださいました。「ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』 そこで、ヨハネは承知した。」
「今はそうさせてもらいたい。」 そうさせてもらいたい!イエスは全人類の代表として命じられ、バプテスマを受けるために頭を下げられました。旧約聖書では、神にいけにえをささげるとき、罪人か大祭司がその頭に両手を置いて罪を引き継いでいました。「手を置く」というのは、「渡す」という意味です。
バプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授けました。それは、旧約聖書の按手と同じでした。「渡す」「葬られる」「洗われる」「いけにえになる」も同じです。新約聖書は実体であり、旧約聖書はその影です。
旧約聖書では、罪人が子羊の頭に手を置くと、その罪が子羊の上に移り、子羊は殺されなければなりませんでした。死んだ子羊は埋葬されました。子羊の頭に手を置いた人の罪がいけにえの動物の上に移ったので、子羊は罪のために殺されることになったのです。子羊に罪が移ったのであれば、いけにえの制度に従って子羊をささげた人には罪がないのでしょうか? そうです。
このハンカチを罪とし、このマイクを子羊とします。私がこのマイクに手を置くと、この罪が子羊であるマイクに引き継がれます。神ご自身がそう決められたのです。「手を置きなさい。」 旧約聖書の時代、罪を贖うためには、いけにえの頭に手を置かなければなりませんでした。そうすれば、罪のない者になれるのです。同じように、イエスのバプテスマは、世の罪を洗い、葬り、イエスに渡すためのものでした。これは、まさにその通りです。
すべての正しいことを実行するとはどういうことでしょうか?
罪をイエスの上に移すことにより、すべての罪を洗い流すことです。
では、世のすべての罪を取り除くためにイエスがバプテスマを受けられたとき、本当にすべての罪がイエスの上に移されたのでしょうか? 世の罪がイエスに移され、すべての人が贖われたのです。それは、旧約聖書で罪がいけにえに移されたのと同じです。イエスはガリラヤからヨルダン川に来られ、ヨハネにおっしゃいました。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(マタイ 3:15)。
そして、ヨハネはイエスにバプテスマを授けました。イエスはヨハネに、バプテスマによって、すべての正しいことを実行するのは、自分たちにふさわしいのだとおっしゃいました。「すべての正しいこと」とは、「最も適切でふさわしい」という意味です。「このようにして、」 つまり、バプテスマという手段によって、すべての正しいことが実行されたのです。それは、ヨハネがイエスにバプテスマを授け、イエスがヨハネからバプテスマを授けられることは、世の罪をすべてイエスの上に移すために正しいことだったのです。
神は、イエスのバプテスマ、十字架での犠牲、そして私たちの信仰に基づいて、贖いを与えてくださいます。「すべての人は、その罪のために苦しみ、悪魔に苛まれています。したがって、彼らが救われ、天国に送られるためには、人類の代表であり、アロンの子孫であるあなたが、すべての人々のためにわたしにバプテスマを授けるべきです。ヨハネよ、わたしは、あなたからバプテスマを受けます。そうすれば、贖いのみわざが実行されるのです。」
「わかりました。」とヨハネは答えました。
そこで、ヨハネはイエスにバプテスマを授けました。イエスの頭に両手を置いて、世のすべての罪をイエスの上に渡したのです。こうして、イエスは私たちの罪をすべて洗い流してくださる救い主となりました。今、この方の贖いを信じることで、私たちは救われるのです。みなさんは信じますか?
イエスはヨルダンでのバプテスマの後、全人類の代表者の手を経て、最初の宣教のみわざとして、世のすべての罪をそのからだに負われて、三年半にわたって旅をしながら福音を宣べ伝えました。
イエスは、姦淫の現場でつかまえられた女に、「わたしもあなたを罪に定めない。」とおっしゃいました。なぜなら、イエスは女の罪をすべてご自身に背負わせ、その罪のために十字架で死のうとされていたからで、女を罪に定めることはできませんでした。ゲツセマネという場所で祈っていたとき、神のさばきの杯をご自分から取りのけてくださるようにと御父に三度祈りましたが、すぐにあきらめて、「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」とおっしゃいました。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」
イエスはどれだけの罪を取り除かれたのでしょうか?
世の罪全部です。
ヨハネの福音書 1 章 29 節には、「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』」とあります。バプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授け、その翌日、イエスがヨハネのほうに来られたので、ヨハネは人々に、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」と言いました。それがヨハネのあかしでした。
神の御子がこの世に来られ、その罪をすべて取り除かれました。バプテスマのヨハネは再びあかししました。ヨハネの福音書 1 章 35-36 節では、「その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、『見よ、神の小羊。』と言った。」とあります。
「神の小羊」とは、イエスが旧約聖書に書かれている、イスラエルの罪のために死んだ「いけにえ」の真の実体の人物であることを指しています。みなさんと私のために、神の御子であり、私たちの創造主であるイエスは、私たちのすべての罪、世が創造されてから終わる日までのすべての罪、つまり原罪からすべての咎、欠点から過失までのすべての罪を取り除くために、この世に降りて来られました。バプテスマと十字架の血によって、私たち全員を贖ってくださったのです。
イエスは私たちの罪をすべて取り除いてくださり、私たち信者に完全な贖いを与えてくださいました。このことを理解していますか? 「世の罪を取り除く神の小羊。」
この世にお生まれになってから約 2000 年が経過し、西暦 30 年にイエスが私たちの罪をすべて取り除いてくださいました。西暦 1 年は、イエスがお生まれになった年です。私たちは、キリスト以前の時代を「B.C.(紀元前)」と呼びます。イエスがこの世に来られてから約 2000 年が経ちました。
西暦 30 年、バプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授け、その翌日、ヨハネは人々に向かって、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」と叫びました。「見よ。」とあります。彼は人々に、すべての罪を取り除いてくださったイエスを信じるように言いました。イエスが神の小羊であり、私たちをすべての罪から救ってくださる方であることをあかししたのです。
イエスは私たちのすべての罪を取り除き、罪との永遠の戦いに終止符を打ってくださいました。神の御子が罪を取り除いてくださったので、私たちは今、罪がありません。バプテスマのヨハネは、イエスが私たちのすべての罪、つまり、みなさんと私の罪を取り除いてくださったとあかししました。「この人(ヨハネ)はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである」(ヨハネ 1:7)。
ヨハネのあかしがなければ、イエスが私たちの罪をすべて取り除いてくださったことをどうやって知ることができたでしょうか。聖書によると、イエスが私たちのために死んでくださったことを何度も伝えていますが、イエスが私たちの罪をすべて取り除いてくださったことを明確にあかししたのは、バプテスマのヨハネだけでした。
世の罪とは、どれくらいの罪なのでしょうか?
世の初めから終わりまでの人間のすべての罪です。
イエスの死後、多くの人がその事実をあかししましたが、イエスが生きている間にあかししたのはヨハネだけでした。もちろん、イエスの弟子たちも、イエスの贖いをあかししました。彼らは、イエスが私たちの罪を取り除いてくださったこと、イエスが私たちの救い主であることをあかししました。
イエスは世の罪を取り除いてくださいました。さて読者のみなさん、みなさんはまだ 100 歳になっておられませんね? イエスが世の罪を取り除かれたのは、イエスが 30 歳の時でした。この図を考えてみましょう。

最初の人間が創造されたのは、イエスが来られる 4,000 年前だったとしましょう。そして、イエスが来られてからは、2000 年しか経っていません。この世がいつまで続くかはわかりませんが、終わりは必ず来ます。イエスは、「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙示録 22:13)とおっしゃいます。
だからこそ、必ず終わりがあるのです。私たちは今、2000 年という年号が示す地点にいます。キリストが私たちの罪を取り除かれたのは西暦 30 年、十字架で死なれたのはその 3 年後です。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」 この世の罪、私とみなさんの罪を取り除いてくださいました。私たちは、イエスの誕生から 2000 年以上が経過し、イエスが私たちの罪を取り除いてから約 2000 年後の人生を生きています。私たちは今でも日々生きており、罪を犯していますが、イエスはすでに世の罪を取り除いてくださった神の小羊です。
私たちは、生まれた瞬間からこの世界で生き始め、罪を犯します。私たちはみな、生まれた瞬間から罪を犯しますか、犯しませんか? ——犯します。—— 全体の流れを見てみましょう。生まれた日から 10 歳になるまで、罪を犯しますか、犯しませんか? ——犯します。—— その罪がイエスの上に移されましたか、移されませんでしたか? ——移されました。—— すべての罪がイエスの上に移されたのですから、イエスは私たちの救い主です。そうでなければ、どうしてイエスは私たちの救い主なのでしょうか? すべての罪はイエスの上に移されたのです。
11 歳から 20 歳まで、私たちは罪を犯すのでしょうか、犯さないのでしょうか? 私たちは心の中で、そして行ないの中で罪を犯します。私たちは罪を犯すのがとても上手です。罪を犯してはいけないと教えられていても、生まれつき罪を犯しやすいのです。
神は、それらの罪がすべてイエスの上に引き継がれたとおっしゃいます。私たちが罪深い存在であることをご存じだったので、あらかじめそれらの罪をすべて取り除いてくださったのです。
そして、私たちは通常、この世界でどのくらい生きているのでしょうか? 仮に 70 年だとしましょう。その 70 年の間に犯した罪を全部合わせると、どれくらいの重さになるでしょうか? 8 トントラックに詰めれば、100台分以上になるでしょう。
私たちが一生の間にどれだけの罪を犯すか、想像してみてください。それらは世の罪ですか、そうではないですか? それらは、世の罪の一部なのです。生まれてから 10 歳まで、10 歳から 20 歳まで、20 歳から 30 歳まで...死ぬまで罪を犯しますが、それらの罪はすべて、バプテスマによってすでにイエスの上に移された世の罪の中に含まれています。
人の救い主イエス・キリスト
イエスはどれだけの罪を取り除かれたのでしょうか?
世の終わりまで、私たちと私たちの子孫と先祖のすべての罪です。
イエスは、それらの罪をすべて洗い流すために、肉の姿で来られたのだと教えてくださっています。しかし、イエスはご自分でバプテスマを受けることができなかったので、神は全人類の代表として選ばれたしもべのヨハネを先に遣わされました。「その名は、『不思議な助言者、力ある神。』」と書かれているとおりです。ご自身で、その知恵で、その助言で、人類の代表を先に遣わされ、神の御子イエスご自身が肉の姿で来られ、世の罪をすべて取り除いてくださいました。これは神の深遠なる摂理の素晴らしい救いではないでしょうか。
すばらしいことですよね。ですから、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになっただけで、全世界の人類の罪を洗い流し、一度だけ、十字架にかけられたことで、すべての人を罪から解放してくださったのです。私たち全員を解放してくださったのです。考えてみてください。20 歳から 30 歳までのすべての罪、30 歳から 40 歳までのすべての罪、40 歳から 60 歳までのすべての罪、70 歳までのすべての罪、100 歳までのすべての罪、そしてみなさんの子供たちの罪をすべて見てみましょう。主はそれらの罪をすべて消し去られたのでしょうか、それとも違うのでしょうか? そうです、消し去られました。この方こそ、人類の救い主イエス・キリストなのです。
バプテスマのヨハネが私たちの罪をすべてイエスの上に移し、神がそれを計画してくださったので、私たちはイエスを信じることで解放されるのです。みなさんや私は罪人でしょうか? 私たちの罪はすべてイエスの上に移されたのでしょうか、それとも違うのでしょうか? ――私たちの罪はすでにイエスの上に移されたので、私たちはもう罪人ではありません。――
この世に罪があるとあえて言う人はいないでしょう。イエスは、世のすべての罪を取り除いてくださいました。私たちが罪を犯すことをご存じだったので、未来の罪も背負ってくださったのです。私たちの中には、まだ 50 歳になっていない人や、人生の半分も生きていない人もいますが、私を含めて自分のことを永遠に生きるかのように話す人がいます。
波乱万丈の人生を送っている人は非常に大勢います。それを説明すると、次のようになります。カゲロウの寿命の半分は何時間でしょうか? 約 12 時間です。
「なんてことだ!こんな人に会って、私にハエたたきを振りかざしたのだ。危うく押しつぶされそうになったのだけど、半生の間にこんな残酷な人に会ったことはないよ。」 まだ 12 時間しか生きていないのに、話が止まりません。しかし、すでに人生の半分が過ぎているのです。
夜 7~8 時になると、人生の黄昏時を迎え、まもなく死を迎えます。カゲロウは 20 時間、21時間、中には 24 時間の熟年期まで生きるものもいます。彼らは生涯の経験を語るかもしれませんが、私たちにはどのように見えるのでしょうか? 70 歳、80 歳まで生きるとすれば、「笑わせないでくれ。」と言うでしょう。彼らの経験は、私たちの目には何でもないことです。
このたとえ話を、神と私たちの関係に当てはめてみましょう。神は永遠の存在です。永遠に生きておられます。世の初めと終わりを決めておられます。永遠に生きておられるので、永遠という時間軸を超えて、永遠に生きておられます。その永遠の位置から私たちを見ておられるのです。
昔々、神は世の罪をすべて取り除かれ、「完了した。」とおっしゃって十字架で死なれました。そして、三日目に復活され、天に昇られました。神は今、永遠に存在しています。今、私たち一人ひとりを見下ろしておられます。
ある人は言います。「ああ、自分はこんなにも罪を犯してしまったのか。たった 20 年しか生きていないのに、こんなにも罪を犯してしまった。」 別の人は言います。「私は 30 年生きてきて、あまりにも多くの罪を犯してしまった。あまりにも多すぎる。どうしたら罪のない人間になれるのだろうか?」
しかし、永遠の主は、「冗談を言ってはならない。わたしは今までのあなたがたの罪だけでなく、あなたがたが生まれる前の先祖の罪も、あなたがたの死後に生きる子孫の代々の罪も贖ったのです。」とおっしゃるでしょう。永遠の時間軸から、みなさんにこうおっしゃいます。これを信じますか? それを信じて、みなさんにただで与えられた救いの贈物を受けてください。天の御国に入りましょう。
自分の考えで自分を縛るのではなく、神のみことばを信じましょう。「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」 世の罪を取り除いてくださった神の小羊は、すでにすべての正しいことを実行してくださいました。イエスは世の罪をすべて取り除いてくださいました。そうしてくださったのですか、違うでしょうか? そうです、取り除いてくださいました。
イエスは、十字架で息を引き取られる直前に何とおっしゃったのでしょうか?
「完了した。」とおっしゃいました。
イエス・キリストは、バプテスマによって世の罪をすべて取り除かれ、ポンテオ・ピラトの法廷で死刑を宣告され、十字架にかけられました。
「彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、『どくろの地』という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであった。ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには『ユダヤ人の王ナザレ人イエス。』と書いてあった。それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった」(ヨハネ 19:17-20)。
続いて、十字架にかけられた後のことを見てみましょう。「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く。』と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した。』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった」(ヨハネ 19:28-30)。
酸いぶどう酒を受けられた後、「完了した。」と叫ばれ、頭をたれて亡くなられました。実際には死んでいたのです。イエス・キリストは三日目に復活なさり、天に昇られました。
ヘブル人への手紙 10 章 1-9 節を見てみましょう。「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。『あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。「さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。」』 すなわち、初めには、『あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした。』と言い、また、『さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。』と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。」
永遠の贖い
イエスを信じるようになってから、日ごとの罪の問題をどのように解決していけばいいのでしょうか?
イエスがバプテスマによってすでにすべての罪を消し去られたことを確認することによってです。
律法、言い換えれば、いけにえの制度は、後に来るすばらしいものの影でした。旧約聖書の羊やヤギのいけにえは、イエス・キリストが来られて、私たちの罪をすべて消し去るために、同じように罪を取り除くことを私たちに示していました。
旧約聖書の人々、ダビデ、アブラハム、その他すべての人々は、いけにえの制度が自分たちにとってどのような意味を持つかを知り、信じていました。それは、メシアであるキリスト(キリストとは「油を注がれた王」という意味)がいつか来られて、自分たちの罪をすべて洗い流してくださることを啓示していました。彼らは自分たちの贖いを信じ、その信仰によって救われたのです。
律法は、後に来るすばらしいものの影でした。日ごと、年ごとに、罪のためにいけにえをささげても、完全に贖うことはできません。そこで、完全で永遠の存在、傷のない方、神の御子が地上に来なければならなかったのです。
イエスは、聖書のある巻に、ご自分についてしるされているとおり、父のみこころを行なうために来たとおっしゃいました。「また、『さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。』と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。」 私たちが罪を贖われたのは、旧約聖書に書かれているように、イエス・キリストが私たちの罪を取り除いてくださったからであり、私たちがイエス・キリストを信じているからです。
ヘブル人への手紙 10 章 10 節を読んでみましょう。「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。私たちは聖なるものとされているのでしょうか、違うでしょうか? ——聖なるものとされています。——
これは何を意味しているのでしょうか? 父なる神は、御子を遣わし、御子がバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマによって私たちの罪をすべて御子に移し、十字架でただ一度だけ裁かれました。そうして、罪に苦しんでいる私たち全員を解放してくださったのです。それが神のみこころでした。
私たちを解放するために、イエスは一度だけ、永遠のいけにえとしてご自身をささげられ、私たちが聖なるものとされることができました。私たちが聖なるものとされているのは、イエスが私たちのすべての罪のためにご自身を犠牲にされ、私たちが裁かれる必要がないように、私たちのために死んでくださったからです。
旧約聖書のいけにえは毎日ささげられていましたが、それは日ごとの罪がすべて洗い流されるために別のささげものが必要だったからです。
イエスがペテロの足を洗ったことの霊的意味
これ以上、悔い改めの祈りをささげなければならない罪はありますか?
いいえ、ありません。
ヨハネの福音書 13 章には、イエスがペテロの足を洗う話があります。イエスがペテロの足を洗われたのは、ペテロがこれからも罪を犯すことを示し、その罪もすべてイエスが贖ってくださったことを教えるためでした。イエスは、ペテロが将来また罪を犯すことをご存じだったので、洗面器に水を注いでペテロの足を洗われました。
ペテロは拒もうとしましたが、イエスは、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」とおっしゃいました。この聖句の意味は、『あなたはこの後、再び罪を犯す。わたしがあなたの罪をすべて洗い流した後、あなたはわたしを否定し、また罪を犯すだろう。わたしが昇天した後も、あなたは罪を犯すだろう。だから、わたしがあなたの足を洗うのは、サタンがあなたを試みないように警告するためである。なぜなら、わたしはすでにあなたの未来の罪までも取り除いているからである。』という意味です。
イエスがペテロの足を洗われたのは、私たちが毎日悔い改めなければならないことを伝えるためだったと思いますか? そうではありません。もし、私たちが毎日悔い改めなければ贖われないのであれば、イエスは私たちの罪をただ一度ですべて取り除かなかったことになります。
しかし、イエスは、私たちを一度で聖なるものにしたとおっしゃいました。もし私たちが毎日悔い改めるなら、旧約聖書の時代に戻ってしまうかもしれません。そうしたら、誰が義人になれるでしょうか? 誰が完全に贖われるのでしょうか? たとえ神を信じても、誰が罪を犯さずに生きられるでしょうか。
悔い改めて聖なるものとされるのは誰でしょうか? 私たちは毎日絶え間なく罪を犯しているのに、どうやって一つひとつの罪の赦しを求めることができるでしょうか? どうしてそんなに厚かましくなって、毎日神に贖いを求められるのでしょうか? 私たちは、朝犯した罪をその日のうちに忘れ、夜犯した罪を翌朝には忘れてしまいがちです。すべての罪を完全に悔い改めることはできません。
ですから、イエスは一度だけバプテスマを受けられ、一度だけ十字架にご自身をささげられたので、私たちは一度ですべて聖なるものとなることができたのです。このことを理解できますか? 私たちは、ただ一度ですべての罪を贖われたのです。悔い改めるたびに贖われるわけではありません。
私たちは、イエスが私たちの罪、みなさんの罪も私の罪もすべて取り除いてくださったと信じることで、罪から救われています。
「また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。『それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。』 またこう言われます。『わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。』 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です」(へブル 10:11-18)。
ここの 18 節の「これらのことが赦されるところ」とは、どういうことでしょうか? それは、罪そのものが、どんな罪でも、例外なく、永遠に贖われたということです。神は罪を消し去って、私たちをすべて赦してくださったのです。みなさんはこれを信じますか? 「これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。」
これまでのことをまとめてみましょう。もしバプテスマのヨハネがイエスの頭に両手を置かなかったら、つまり、イエスにバプテスマを授けなかったら、私たちは救われたのでしょうか? いいえ、そんなことはありません。逆に考えてみましょう。もし、イエスがバプテスマのヨハネを全人類の代表に選ばれず、ヨハネを通してすべての罪を取り除かなかったら、私たちの罪をすべて洗い流すことができたでしょうか? それはできませんでした。
神の律法は正しいです。公平なのです。イエスは、ご自分が救い主であることも、私たちの罪をすべて取り除いてくださったことも、ただ口先でおっしゃることができませんでした。イエスは、実際に私たちの罪を取り除かなければならなかったのです。神であるイエスは、なぜ肉を持って私たちのところに来られたのでしょうか? それは、バプテスマによって人類のすべての罪を取り除くためでした。イエスは、ご自分が肉をもって永遠のいけにえとしてささげられない限り、私たちの心と肉から出て来るすべての罪を消し去ることができないことをご存じでした。
もし、イエス・キリストがバプテスマをお受けにならなかったら、私たちの罪はまだ残っていたでしょう。もし、イエス・キリストが私たちの罪を取り除かずに十字架につけられていたら、イエス・キリストの死は無意味なものになっていたでしょう。私たちとは何の関係もなかったことでしょう。全く意味のないことだったでしょう。
そこで、30 歳で公の宣教活動を始めたイエスは、ヨルダン川のバプテスマのヨハネのところに行ってバプテスマをお受けになりました。イエスの公の宣教活動は 30 歳で始まり、33 歳で終わりました。30 歳の時、バプテスマのヨハネのところに行ってバプテスマを受けられました。「今は、そうさせてもらいたい。このようにして、すべての人 が救われて義人になるのは、わたしたちにふさわしいからです。それがわたしたちのすべきことです。さあ、わたしにバプテスマを授けなさい。」 そうです、イエス・キリストはすべての人の贖いのためにバプテスマを受けられたのです。
イエスはバプテスマをお受けになって私たちの罪をすべて取り除かれ、私たちの罪はすべてバプテスマのヨハネの両手を通してイエスの上に移されたので、イエスが十字架で死にかけていたとき、神ご自身が目をそらされたのです。イエスがご自身のひとり子であるにもかかわらず、御子を犠牲にしなければならなかったのです。
神は愛ですが、その御子を死なせなければなりませんでした。そのため、3 時間の間、全地が暗くなりました。イエスは死ぬ直前に、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、すなわち、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。イエスは、私たちの罪をすべて背負われ、私たちのために十字架で身代わりの裁きを受けてくださいました。こうして、私たち全員を救ってくださったのです。イエスのバプテスマがなければ、イエスの死は意味のないものになってしまいます。
あなたは、罪人ですか、それとも義人ですか?
心の中に罪がない義人です。
もし、イエスがバプテスマによって私たちの罪をすべて取り除くことなく十字架で死なれたとしたら、イエスの死は贖いを成し遂げたことにはなりません。私たちを完全に贖うために、イエスはすべての人間の代表であるヨハネからバプテスマを受けられ、イエスを信じるすべての人が救われるように、十字架で裁きを受けられたのです。
そのため、バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は、激しく攻められています。バプテスマのヨハネが世の罪をすべてイエスの上に移したので、私たちの罪は贖われました。みなさんも私も、神を父と呼び、大胆に天の御国に入ることができるのです。
ヘブル人への手紙 10 章 18 節では、「これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。」とあります。みなさんはまだ罪人ですか? イエスがみなさんの負債をすべて清算してくださった今、みなさんはまだ負債を支払わなければならないのでしょうか?
大酒飲みで多くの債権者から借金をしていた人がいました。そんなある日、息子が大儲けをして父親の借金を全額返済しました。父は、そこら中の公営住宅にどれだけ借金をしていたとしても、もう借金はありませんでした。
これは、イエスが私たちのためにしてくださったことです。私たちのすべての罪を前もって十分すぎるほど支払ってくださいました。私たちが生きている間に犯した罪だけではなく、世のすべての罪です。そうした罪はすべて、イエスがバプテスマを受けられたときに引き継がれたのです。では、みなさんは今も罪人なのでしょうか? いいえ、そうではありません。
もし、私たちが最初からこの贖いの福音を知っていたら、イエスを信じるのはどんなに簡単だったことでしょう。しかし、今のままでは、あまりにも新しい響きなので、多くの人が不思議に思っています。
しかし、これは新しいことではありません。人類の歴史が始まったときから存在していたのです。以前は知らなかっただけなのです。水と御霊の福音は、常に聖書に記録されており、常に効力を発揮しています。ずっとそこにあったのです。みなさんや私が生まれる前から、聖書の中にありました。地球が創造されたときから、ここにあったのです。
永遠の贖いの福音
私たちは、神の前で何をしなければならないのでしょうか?
永遠の贖いの福音を信じなければなりません。
私たちのすべての罪を洗い流してくださったイエス・キリストは、みなさんや私が生まれる前からそうしてくださいました。すべての罪を取り除いてくださったのです。みなさんはまだ罪を抱えているのですか? いいえ。では、明日犯すであろう罪はどうでしょうか? それもこの世の罪に含まれます。
明日の罪を今、取り除きましょう。私たちが今まで犯してきた罪も、この世の罪に含まれていたのではないでしょうか? それは、イエスの上に移されたのではありませんか? そうです、移されました。
では、明日の罪もイエスの上に移されたのでしょうか? そうです、例外なくすべてを負われました。一つの罪も残されていません。福音は、イエスが私たちのすべての罪を一度に取り除いてくださったこと、そしてすべての罪を贖ってくださったことを、心から信じなさいと教えています。
「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」(マルコ 1:1)。天の福音は、喜びの知らせです。イエス・キリストは私たちに、「わたしはあなたの罪をすべて取り除きました。わたしはあなたの救い主です。あなたはわたしを信じますか?」とお尋ねになります。数え切れないほどの人々の中で、「はい、信じます。あなたが話してくださったことを信じます。あまりにも簡単なことなので、すぐに理解できました。」と答えた人はわずかです。このように信仰を告白した人は、アブラハムのように義とされます。
しかし、他の人は、「信じられない。私にはとても目新しく奇妙に聞こえます。」と言います。
すると、神は、「ただわたしに言いなさい。わたしはあなたの罪をすべて取り除いたのですか、そうでないのですか?」と尋ねられます。
「あなたは原罪だけを取り除き、私の日ごとの罪は取り除かないと教えられました。」
「あなたは頭が良すぎて、言われたことを信じられないようですね。わたしはあなたに何も言うことはありませんから、あなたは地獄に落ちなければなりません。」
主の完全な贖いを信じることで、私たちは救われました。自分には罪があると主張する人たちは、すべて地獄に行かなければなりません。彼らは自分で選択したのです。
贖いの福音は、バプテスマのヨハネのあかしから始まります。イエスはバプテスマのヨハネからのバプテスマによって私たちの罪をすべて洗い流してくださったので、私たちは信じることによって聖なるものとされます。
使徒パウロは、自分の手紙の中でイエスのバプテスマについて多く語っています。ガラテヤ人への手紙 3 章 27 節では、「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」とあります。「バプテスマを受けてキリストにつく」とは、キリストのバプテスマを信じることで、キリストと結ばれることを意味します。イエスがバプテスマを受けられたとき、私たちの罪はすべてバプテスマのヨハネを通してイエスの上に移され、完全に洗い流されたのです。
ペテロの手紙第一 3 章 21 節では、「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」とあります。
バプテスマのヨハネのあかし、イエスのバプテスマ、十字架での血を信じる者だけが、上からの贖いの恵みを得られるのです。
救いの型としてのイエスのバプテスマを心に受け、救われなさい。