(Ⅰペテロ 3:20-22)
「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」
私たちは何によって義人になれるのか
神の恵みによって
私たちがこの地上に生まれる前でも、神はすでに私たちのことをご存じでした。神は、私たちが罪人として生まれ、世の罪をすべて取り除かれたイエスのバプテスマを通して、私たち信者をみな救われました。神は、すべて信者を救われ、神の民になさいました。
これはすべて神の恵みの結果です。詩篇 第 8 篇 4 節には、「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」 と記されています。すべての罪から救われて贖われた者は、神の特別な愛の受取人です。彼らは、神の子どもです。
私たちが神の子どもになる前、義人となり、救われて神を父と呼ぶ権利を与えられる前に、イエスの血と御霊だけを信じていた私たちは、何者だったのでしょう。罪人でした。この世界で 70 年、健康なら 80 年生きるために生まれてきた罪人でした。
私たちが罪を洗い流される前、そしてイエスのバプテスマと血の福音への信仰を持つ前、滅びることが確実だった不正な民でした。
使徒パウロは、自分が使徒となったのは神の恵みによるものだと語りました。同様に、私たちが今の私たちになっているのは、絶対に神の恵みによるものです。神の恵みを神に感謝いたします。創造主は、この世に来られ、私たちを救って神の子ども、神の民となさいました。水と御霊の救済の恵みを神に感謝いたします。
神が私たちを神の子ども、義人となさるのはなぜでしょうか。私たちが見るからに美しいからでしょうか。私たちがとても立派だからでしょうか。それとも、私たちが善良だからでしょうか。それについて考え、しかるべきところに感謝をささげましょう。
その理由は、神が私たちを神の民となさり、ともに天の御国に住まわせるために私たちを創造なさったからです。神は、私たちがともに永遠に生きることができるように、神の民となさいました。これこそ、神が私たちを永遠のいのちで祝福なさった唯一の理由です。神が私たちをご自分の民になさったのは、私たちがより良く見えるからでも、価値があるからでも、他のどんな被造物よりも善良に生きているからでもありません。唯一の理由は、神が私たちを愛しておられるためです。
「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです」 (Ⅰペテロ 3:21)。「わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです」 (Ⅰペテロ 3:20)。
ごく少数の人が、町からひとり、氏族からふたりが救われています。では、私たちは他の人々よりも優れているのでしょうか。少しも優れてはいません。私たちには特別なところは何もありませんが、それでも水と御霊への信仰を通して救われているのです。
私たちが救われているのは、奇跡中の奇跡です。そして、神を父、主と呼ぶことができるのは、神からの無条件の贈物であり、祝福なのです。これは決して否定できません。私たちがまだ罪人であるなら、どうして神を父、主と呼ぶことができたでしょう。
私たちは、自分が救われているという事実について考えるなら、神が私たちを無条件に愛されていることがわかります。私たちは神に感謝できないでしょうか。神の愛と祝福がなければ、私たちは生まれ、絶望的な人生を送ってから死に、地獄に行ってしまっていたでしょう。私たちは、神の目に神の子どもになるのにふさわしい祝福と愛とに、神に何度も感謝いたします。
イエスのバプテスマを通して与えられた貴重な救済
ノアの時代の人々はなぜ滅びたのか
水(イエスのバプテスマ)を信じなかったから
「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。」 わずか八人の人々が水を通って救われたことがペテロの手紙 第一に記されています。ノアの時代には、どれほど多くの人々がいたのでしょう。どれほど多くいたのか知る方法はありませんが、仮に百万人いたとします。百万人からノアの家族 8 人だけが救われました。
その比率は現在と同じくらいでしょう。彼らは今、地上に 60億人以上の人々がいると言います。今日イエスを信じる者の中で、どれほど多くの人々が罪を洗われているでしょう。一つの町だけを見るなら、その数は非常に少ないでしょう。
私の町では、約 25 万人からなっていますが、罪から贖われているのは何人でしょうか。おそらく 200 人くらいでしょうか。すると、その比率はどうなるでしょうか。それは、贖いの祝福を受けているのが、千人に一人も満たないということです。
カトリック教徒を含む約 1200 万人のキリスト教徒が韓国にいると推定されています。これらのうち、何人が水と御霊によって新しく生まれているでしょう。私たちは、ノアの時代に地球の全人口のうち、たったの 8 人しか救われていなかったことを心に留めておくべきです。私たちは、イエスがすべての罪を取り除いたバプテスマを信じる者全員の罪を、洗い流されたことを知り、信じるべきです。
イエスがバプテスマと十字架の血とによって私たち全員を贖ってくださったことを信じる人は、多くはありません。「イエスの復活」という有名な絵を見てください。そこには、復活させられた人々が何人いるでしょう。人々は、エルサレムの城から、自分たちに対して腕を広げるイエスの姿に向かって下りて来ているのが分かります。彼らの中に、神学者や聖職者は何人いるでしょう。
今日、世界には大勢の神学者がいますが、贖いの極めて重要な真理としてイエスのバプテスマを知り、信じている人は、ほとんどいません。一部の神学者は、イエスがバプテスマを受けた理由は、彼が謙虚だったからであると言っており、また、ある人は、イエスがより私たち人間のようになるためにバプテスマを受けられたのだと言います。
しかし聖書には、ペテロとヨハネを含むすべての使徒たちが、イエスに私たちの罪の明け渡しとして、イエスのバプテスマをあかししていると記されており、私たちもそれを信じています。
聖書の中で使徒たちは、私たちの罪がバプテスマでイエスの上に移されたとあかししています。ただ、それを信じることによって救われるというのは、神の恵みに対する素晴らしいあかしです。
贖いのバプテスマについて「おそらく」というのはない
神の無限の愛を受けるのは誰なのか
イエスのバプテスマと血を信じる人
人々は、イエスを信じるだけで救われると信じる傾向があります。すべての宗派は、自分たちの信仰において救済を確信しており、そして多くの人々は、イエスのバプテスマが単なるキリスト教社会の教義であると考えています。しかし、そうではありません。私が読んだ数千冊もの本の中で、イエスのバプテスマと血における贖いと、神の救済との関係を明記した救済についての本を見つけることができませんでした。
ノアの時代、たった 8 人が救われました。今日、どれほど多くの人が救われているかはわかりませんが、おそらく多くはないでしょう。救われている者は、イエスのバプテスマと血を信じている人々です。多くの教会を訪れながら、真理の福音であるイエスのバプテスマの福音を宣べ伝えている人がほとんどいないことを私は何度も認識しています。
私たちがイエスのバプテスマと血の贖いを信じないなら、どれほど忠実に教会に通っていようと、まだ罪人であり、救われてはいません。私たちが一生、忠実に教会に通うでしょうが、心に罪があるなら、まだ罪人なのです。
私たちが 50 年間、教会に通って、それでも心に罪があるなら、50 年間の信仰は偽りにすぎません。一日だけ真の信仰を持つ方がはるかに良いです。イエスを信じている者の中で、イエスのバプテスマと血の意味を正しく信じる者だけが、天の御国に入ります。
真の信仰とは、神の御子がこの地上に来臨され、世の罪をすべて取り除くためにバプテスマをお受けになったという事実を信じることです。私たちを天の御国に導くのは、この信仰です。イエスが、みなさんや私のために十字架で血を流されたことも信じるべきです。また、神に感謝して栄光をささげるために、このことを知っておくべきです。
私たちとは何でしょう。私たちは、イエスのバプテスマと血で救われた男女の子どもです。どうして神に感謝せずにいられるでしょう。イエスは、私たちを救うために 30 歳だった時、ヨルダンでバプテスマを受けられました。これによって、主は私たちの罪をすべて取り除かれ、私たちのために十字架で裁きを受けられました。
私たちがそれについて考えるとき、私たちは謙虚に神に感謝せずにはいられません。イエスがこの世でなさったすべてのことは、私たちの救いのためであったことを知るべきです。まず、イエスはこの地上に来臨されました。彼はバプテスマを受け、十字架で裁かれ、三日目に死からよみがえられ、そして今や神の右の座におられます。
神の贖いは、例外なく私たち一人ひとりのためのものです。イエスによる救済はすべて、みなさんや私のためのものです。私たちは、神の愛と祝福のゆえに、神をほめたたえます。
私たちは、このような福音の歌を知っています。「♫美しい物語。♫世にいる非常に多くの人々の中で、私は神の愛と救いを持つ者。♫ああ、神の愛は、なんと素晴らしいことか。♫私への神の愛、神の愛 美しい物語。♫世にいる非常に多くの人々の中で、私たちは救われ、神の民となった者。私たちは神の愛をまとっている。♫ああ、神の愛、神の恵み。♫ああ、神の愛は、なんと素晴らしいことか。私への神の愛。♫」
イエスは、みなさんや私をお救いくださるために来臨され、イエスのバプテスマの贖いもまた私たちのためです。福音は、ただのおとぎ話ではありません。それは、つらい人生から私たちを美しい神の御国へ引き上げる真理です。信仰は、神とみなさんとの関係であることを心に留めておくべきです。
主は、私たちをお救いくださるために、この世に来臨されました。私たちの罪を洗い流すために、バプテスマを受けられ、十字架の裁きを受けられました。
忠実な者が神を父と呼べるのは、なんという祝福でしょう。私たちは、どのようにイエスを救い主として信じ、信仰をもって罪から救われるのでしょう。それは、私たちに対する神の無限の愛のため、可能なのです。まず私たちを愛してくださった神のため、私たちは救われているのです。
イエスは私たちの罪をただ一度ですべて洗い流された
私たちは、ただ一度で救われているのか、それとも徐々に救われるのか
ただ一度で
「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、……私たちを神のみもとに導くためでした」 (Ⅰペテロ 3:18)。イエス・キリストは、私たちの贖いのために、バプテスマを受けられ、悪い人々であったみなさんや私を救うために、一度十字架で死なれました。
私たちを神の裁きから免れさせるために、主はこの地上で一度死なれたのです。私たちが天の御国に入り、神の前で永遠に生きるように、神は人の肉のかたちでこの世に来臨され、イエスのバプテスマ、十字架での死、そして復活で、一度で私たちの罪をすべて完全に洗い流されました。
みなさんは、イエス・キリストがバプテスマと血で私たちを完全にお救いくださったと信じていますか。もしみなさんがイエスのバプテスマと血の福音を信じないなら、救われることはできません。私たちはとても弱いので、イエスがバプテスマと血ですべての罪をただ一度で完全に洗い流されたと信じないなら、新しく生まれることはできないのです。
イエスは、私たちの罪をすべて取り除くためにバプテスマを受けられ、私たちのために十字架で裁かれました。イエスは、バプテスマと血の贖いで、罪人の罪をただ一度で洗い流されたのです。
私たちが罪を犯すたびに悔い改め、常に善良で敬虔で、よく教会に多くのものをささげなければならなかったなら、私たち人間が贖われることは不可能だったでしょう。
したがって、イエスのバプテスマと十字架の血を信じることは、私たちの救いには欠かせません。私たちは、水と血とを信じなければなりません。ただ良い行ないをするだけでは、罪の赦しとは関係ありません。
貧しい人々のために高価なスーツを買うことや、牧師のためにおいしい料理を作ることは、みなさんの救いに何の役にも立たないでしょう。イエスは、バプテスマと血とを信じる者だけを救われます。神がイエスを通して、バプテスマと血とで、ただ一度で私たちをお救いくださったと信じるなら、私たちは救われるでしょう。
たとえ神がこのように聖書の中でおっしゃったとしても、それをさらに考えなければならないと考える人がいるかもしれません。これは彼ら次第ですが、私たちはそれが記されているとおりに神のみことばを信じるべきです。
ヘブル人への手紙第 10 章 1-10節には、主がただ一度で私たちをお救いくださったと記されています。イエスのバプテスマと血とを信じた者を、神がお救いくださったというのは、本当です。私たちもそのように信じるべきです。「♫主は一度死なれ、私たちを一度で救われた。ああ兄弟たち、信じて贖われよ。あなたの重荷をイエスのバプテスマのもとに置いて。♫」 イエスは、一度バプテスマを受け、一度血を流すことによって、すべての不信仰と罪からただ一度で私たちをお救いくださいました。
「正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです」 (Ⅰペテロ 3:18)。イエスは罪のない神であられ、決して罪を犯されませんでした。主は、人々を罪から救うために、人の肉のかたちで私たちのところに来臨されました。イエスは、バプテスマを受けて、私たちの罪をすべて取り除かれました。イエスは、罪と不正から私たちを救われたのです。
イエスがバプテスマを受けたとき、すべての人の誕生から死に至るまでの罪が、イエスの上に移され、十字架で血を流して死なれたとき、私たちはみな、裁きから救われました。イエスは、罪人のためにバプテスマを受けられ、彼らの身代わりとなって死なれたのです。
これが、イエスのバプテスマの贖いです。イエスは、罪人だった私たち全員をただ一度で救われました。私たち一人ひとりは、どれほど弱いでしょう。イエスは、私たちの誕生から死に至るまでの罪をすべて贖い、十字架での裁きのためにご自身をおささげになりました。イエスを信じる私たちは、イエスがバプテスマと血とで私たちをただ一度でお救いくださったことを信じるべきです。
私たちは弱いのですが、イエスは違います。私たちは忠実ではありませんが、イエスは忠実です。神は、私たちをただ一度で救ってくださいました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」 (ヨハネ 3:16)。神は、私たちに神のひとり子を与えてくださいました。神は、すべての人間のために裁きを受けるように、世の罪をすべて御子に移すために、御子にバプテスマを受けさせました。
これは、なんという驚くべき救済でしょう。これは、なんという驚くべき愛でしょう。神の愛と救済とを、神に感謝いたします。イエスのバプテスマと血、すなわちイエスのバプテスマと流された血、そしてイエスが神の御子であるという事実を信じる者を、神はお救いになります。
イエスを信じる者は、イエスのバプテスマと血の真理を信じて、救われることができ、義人として永遠のいのちを持っています。私たち全員がそれを信じなければなりません。
誰が私たちを救ったのでしょう。私たちを救ったのは、神だったでしょうか、それとも私たちを救ったのは神の被造物の一つだったのでしょうか。私たちを救ったのは、神であられるイエスでした。私たちは、神の贖いを信じたので救われました。そして、これが贖いの救済なのです。
イエスは救済の主
「キリスト」とは、どういう意味なのか
祭司、王、預言者
イエス・キリストは神であられます。イエスとは、救い主という意味であり、キリストとは、「油注がれた者」という意味です。旧約聖書で、サムエルがサウルに油を注いだように、王たちは油注がれ、預言者も油注がれました。預言者は、その務めを奉仕するために、油を注がれなければなりませんでした。
イエスは、この世に来られ、祭司・王・預言者の三つの務めのために油注がれました。天の祭司として、イエスは人間のすべての罪を取り除くために、バプテスマをお受けになりました。
イエスの父なる神のみこころに従いながら、イエスは父の御前で罪のためのささげ物としてご自身をささげました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」 (ヨハネ 14:6)。イエスは、バプテスマを通して私たちの罪をすべて取り除かれ、裁かれることによって、神を信じる私たちをお救いになりました。
「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである」 (レビ記 17:11)。イエスは、バプテスマの後、十字架で血を流され、こうして、私たち信者が救われるように、私たちの罪から来る報酬として、神の前にご自身のいのちをおささげになったのです。
イエスは、十字架で死んでから三日目によみがえられ、牢獄に捕らわれた霊たちに福音を説かれました。まだ贖われていない者は、罪の牢獄にいる霊的囚人のようなものです。イエスは、その人たちに真理の福音、水と血の福音を説かれます。神は、私たちを救うために水と御霊の福音をお与えくださいました。それを信じる者は、新しく生まれることができるのです。
イエスのバプテスマと血とが罪人を救う
どうすれば神の御前で良心に恥じることなく生きられるのか
イエスのバプテスマと血への信仰を持つことによって
イエス・キリストは、私たちの救い主であり、ペテロの手紙第一 第 3 章 21 節では、次のようにあかしされています。「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」 イエスのバプテスマの水は、罪人の救済に必要なものです。
イエスは、バプテスマを通して、これらの罪を背負われることによって、すべての罪人の罪を洗い流されました。みなさんは、イエスのバプテスマを信じていますか。私たちの心は、イエスのバプテスマを通してすべての罪が洗い流されたと信じていますか。私たちの心は、すべての罪を洗い流されていますが、私たちの肉はまだ罪を犯しているのです。
「新しく生まれる」ということは、その人が再び罪を犯さないという意味ではありません。私たち新しく生まれた者も罪を犯しますが、イエスのバプテスマへの信仰があるために、心が罪から、きよいままです。このように、先ほどの引用部分では、「肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いである」 (Ⅰペテロ 3:21) と述べています。
イエスが私の罪を洗い流してくださり、神が私のために裁きを受け入れてくださったのですから、どうして神を信じないでいられるでしょう。神であられるイエスがバプテスマと血とを通して、私をお救いくださったと知って、どうしてイエスを信じないでいられるでしょう。私たちは、神の前に救われ、今や私たちの良心は、きよいのです。私たちは、神が愛しておられないとも、イエスが罪を完全に洗い流されなかったとも、もはや神の前で言うことができません。
私たちの良心は、新しく生まれた後、はるかに罪に対して敏感になり、間違っているときはいつでも、そのことを私たちに告げてくれます。私たちの良心が少しでも悩まされるなら、イエスのバプテスマの力を自分に思い出させない限り、私たちは完全に罪から解放されることはできません。それが、良心に恥じることなく生きるための唯一の方法です。
良心が私たちを悩ませるとき、それは何かが間違っていることを意味します。イエスのバプテスマの水は、罪の汚れをすべて洗いきよめました。イエスは、バプテスマで私たちの罪をすべて取り除かれ、良心に対しても洗いきよめてくださいました。ほんとうにこれを信じるとき、私たちの良心はほんとうにきよめられることができるのです。どうしたら良心がきよめられるのでしょう。イエスのバプテスマと血とを信じることによってです。誰もが誕生から邪悪で汚れた良心を持っていますが、私たちの罪がすべてイエスの上に移されたと信じるなら、私たちはその汚れを消し去ることができます。
これが、新しく生まれた者の信仰です。これは自己催眠ではなく、みなさんが意識的に認めているものです。みなさんの良心は、きよいですか。良い人生を送ってきたから、きよいのでしょうか。それとも、すべての罪がイエスの上に移され、みなさんがイエスを信じているから、きよいのですか。みなさんが、きよい良心を得ることができるのは、この信仰を通してのみです。
いのちのある言葉があれば、いのちのない言葉もあります。どうすれば、すべての人々の良心をきよめることができるでしょう。私たちが義人となり、きよい良心を持つ唯一の方法は、イエスの完全な贖いを信じることです。
イエスのバプテスマを信じることが私たちを聖なるものとするとき、肉体の汚れを消されたという意味ではなく、私たちの良心が神に向けて、きよいということを意味します。そのために、イエスは来られ、バプテスマを受け、十字架で死に、死からよみがえり、今は神の右の座に着いておられます。
時が来ると、イエスは再びこの世に来られます。「二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」 (ヘブル 9:28)。私たちは、主を待ち望み、イエスのバプテスマと血とを信じて、罪のない者である私たちを連れに来られると信じています。
信仰の臨床実験
イエスのバプテスマなしに救われることができるのか
決して救われない
大田(テジョン)教会で、私たちは抜き打ち臨床実験を行ないました。
大田(テジョン)教会のパク牧師は、ある夫婦に、イエスのバプテスマの意味には触れずに、世には罪がないと告げました。夫は、他の教会に出席していたとき、すべての牧師がイエスのバプテスマによる贖いを省いて福音を宣べ伝え、そのために毎日悔い改めることを余儀なくされたため、夫は説教の間に眠っていました。
しかし大田(テジョン)教会で、すべての罪がイエスの上に移されたと言われたので、彼は両目を大きく開いて説教を聞きました。それは、彼の妻が彼に一緒に教会に来るように説得しやすくなりました。
ある日、彼は教会で座っていて、ローマ人への手紙第 8 章 1 節を聞いていました。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」 それで、彼は、すぐに思いました。「ああ、イエスを信じるなら、罪がなくなるのだ。私はイエスを信じているから、私にも罪はないのだ。」
そこで、義理の兄弟や大勢の友人に一人一人電話して、「キミの心には罪があるか。罪があるなら、キミの信仰は正しくない」と言いました。これで、パク牧師は途方に暮れました。夫はイエスのバプテスマについては知りませんでしたが、今や彼は罪がないと主張しました。
それから、夫婦は問題を抱え始めました。妻は、以前より宗教的になっていましたが、夫は罪がないと言っていながら、妻はまだ心に罪がありました。夫は数回しか教会に行きませんでしたが、彼は自分がすでに罪のない人だと言いました。
妻は、自分たちが二人とも、まだ心に罪があると確信していました。彼らはそれについて議論し始めました。夫は、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」 とあるのだから、自分には罪がないのだと主張しました。それに対して妻は、自分の心にはまだ罪があると主張しました。
それからある日、彼の妻はそれについてとても悩まされたので、すべての罪がイエスの上に移されたと告げたとき、それが意味することをパク牧師のところに行って、尋ねることにしました。
そこで、とある日の夕拝の後、夫を家に送り、妻はパク牧師に質問するために残りました。「あなたが私たちに何かを伝えようとしていることはわかりますが、重要な点が隠されているはずです。それが何であるか教えてください。」そこで、パク牧師は、水と御霊によって新しく生まれることについて語りました。
彼女は、なぜローマ人への手紙第 8 章 1 節に、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」 と記されているのかをすぐに理解しました。彼女は、すぐに信じて、救われました。彼女はついに、キリストにある者が罪に定められることのないように、私たちのすべての罪がバプテスマによってイエスの上に移されたことを悟りました。
彼女は、記されたみことばを理解し始めました。彼女はついに、贖いの鍵はイエスのバプテスマであり、私たちがイエスのバプテスマの贖いを通して、義人になることができることを知ったのです。
実際、夫は、家に帰らないで外で妻を待っていました。彼は、彼女の罪がすべてきよめられたという妻のあかしを聞いて、「えっ!?じゃあ、キミはもう贖われたんだね」と大喜びで尋ねました。
しかし、牧師が妻に語ったことを聞いた後、夫は困惑しました。以前にイエスのバプテスマの福音について決して聞いたことがありませんでした。イエスのバプテスマなしでも、もはや自分の心には罪がないと確信していたのです。ですから家で、彼らはまた口論しました。
今度は立場が逆転しました。妻は、自分の心に罪があるかどうか、夫を問い詰めました。妻は、イエスのバプテスマを信じないで、どうして罪がなくなることがあるのかと尋ねました。良心をよく調べるようにと夫に促しました。それで、彼は自分の良心を調べながら、まだ自分の心に罪があったことに気づいたのです。
ですから、パク牧師のところに行き、彼は自分の心には罪があると告白しました。夫は尋ねました。「いけにえのやぎの頭に手を置いたのは、殺す前だったのですか、殺した後だったのですか。」彼は、それまでイエスの水と御霊の福音のことを聞いたことがなかったので、ひどく困惑していました。
それがこの霊的実験の要点でした。イエスは、世の罪をすべてご自分の上に移すために、バプテスマを受けなければなりませんでした。そうしてはじめて、罪から来る報酬は死であるため、イエスは十字架で死なれたのです。
「ささげ物の頭に手を置いたのは、殺される前だったのですが、殺された後だったのですか。」彼は、手を置くこととイエスのバプテスマについて困惑していたため、こう尋ねました。そこでパク牧師は、イエスのバプテスマの贖いについて、彼に詳しく説明しました。
その日、夫は初めて水と御霊の福音を聞き、贖われました。彼は、ただ一度だけ福音を聞き、救われました。
それが、イエスのバプテスマを除外する実験でした。私たちは、自分には罪がないと言うかもしれませんが、イエスのバプテスマがなければ、私たちの良心にはまだ罪があるのです。イエスが十字架で死ぬことによってすべての罪を洗い流したのだと、人々はよく言いますが、イエスのバプテスマと血を信じる者だけが、実際に神の前で罪がないと言うことができるのです。
パク牧師は、この夫婦とともに、イエスのバプテスマへの信仰による贖いなしには、私たちの罪を完全に贖うことはできないことを証明しました。
救済の型 : イエスのバプテスマ
救済の型とは何なのか
イエスのバプテスマ
「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。」 イエスは、私たちの罪をすべて洗い流し、良心を雪のように白くするために、私たちの世界に来臨されました。イエスは、バプテスマを通して私たちの罪をご自分の身にすべて負われたために、私たちはすべての罪をきよめられました。イエスは、バプテスマと血とで私たちを救ってくださいました。したがって、すべての被造物は神の前に跪くべきです。
イエスを信じることは、私たちを救います。私たちは、イエスを信じることによって、神の子どもとなり、天国に行きます。イエスを信じることによって、義人になります。私たちは、王である祭司です。私たちは、神を父と呼ぶことができます。私たちはこの世に住んでいますが、私たちは王なのです。
みなさんは、神が水と御霊の贖いを信じる者をお救いくださったと、ほんとうに信じますか。私たちの贖いは、イエスのバプテスマがなければ、決して完全にはなりません。神とイエスが真実であると認める信仰は、私たちを完全に救ったイエスのバプテスマ、十字架、御霊の福音への信仰です。これが唯一の真の信仰です。
私たちの罪は、イエスがバプテスマで取り除かれたときに、洗い流され、私たちの罪はすべて、イエスが十字架で血を流されたときに贖われました。キリスト・イエスは、水と御霊で私たちをお救いくださいました。そうです。私たちは信じています。