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説教集

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 7-7] 人間を支配する律法 (ローマ 7:1-25)

(ローマ 7:1-25)
それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか────私は律法を知っている人々に言っているのです。夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫の生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分のしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法はよいものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」 ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
 
 
<ローマ 7:1>それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか────私は律法を知っている人々に言っているのです。────
使徒パウロは律法の機能について話しています。神の律法は罪人の生きている期間だけ支配すると述べています。
律法がその人を支配するのは生きている間だけというのが、律法の特徴なのです。神の律法の機能は、「罪から来る報酬は死」という規則にしたがって裁くことです。これが掟ですから、律法の前では、罪があるなら誰でも死を免れる道はありません。
パウロは、律法はその人が生きている期間だけ人を支配すると言いました。ですから、罪人が律法の支配から自由になるには、神の掟にしたがって死ななければなりません。それから神の義を信じてよみがえりを受けるのです。神の律法は明確な真実ですから、誰もが罪のために地獄に定められているということを律法の条項を通じて知り、認めなければなりません。
みなさんは罪から来る報酬は死という神の掟により、自分が地獄に定められていると認めておられますか。まだ神の律法の厳格さを認めておられない方がおられるなら、自分は神の律法に照らして地獄に定められているということをお認めになり、神の義を頼みになさってください。神の律法の機能は罪の知識を与えることだと認めるだけではなく、律法に照らすと、自分には罪があり、罪のために地獄に定められているのだということをも認める必要があります。使徒パウロはここで、罪のために神の律法にしたがって地獄に定められていることを認め、イエス・キリストのバプテスマと血によって来た救済を信じよと告げているのです。
 


最初の夫は死ななければならない

 
<ローマ 7:2>夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。
使徒パウロは世俗の結婚を例に、罪から解放されるには、人間は神の律法にしたがって死ななければならないことを説明しています。人間はみなアダムの子孫として生まれ、共通の祖先アダムから罪を受け継いでいます。それでは、まだ罪をもった罪人が、どうして新たな花婿イエス・キリストに近寄れるでしょう。パウロがここで、罪人は律法に照らして罪の罰を免れないだけではなく、罪のために霊的に死んでいることをも認めなければならないと言っているのは、そのためです。そうして、はじめて新たな花婿イエス・キリストを受け入れることができるのです。
キリスト教徒の中には、神を信じていると言いながら、記された律法のみことばに照らして自分の罪を認めず、罪のために地獄に定められていることも認めようとしない人々がいます。イエス・キリストの内に入りたい者はまず、神の厳しい掟である律法の前に立ち、自身の罪を認識し、罪の結果としての霊的死を認める必要があります。
使徒パウロはまた「しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます」とも述べています。では、どうしたら罪に対して死ねるのでしょう。イエス・キリストのバプテスマと十字架上の血とを信じるのです。信じるなら、罪に対して死に、神の義を得、そうして神に近寄れるのです。罪に対して死ぬには、まず自分の罪を認め、罪のために地獄の罰を受けるという呪われた定めにあることを認識してイエス・キリストを信じ、そのバプテスマと十字架上の死を共にするのです。
使徒パウロの述べていることは、神の義となられたイエス・キリストを信じるなら、罪に対して死ねるということです。みなさんもまた、罪に対して死に、神の義に対して生きたいのなら、水と血によって来られたイエス・キリストを救い主と信じなければなりません。
 
 

別の夫に行く

 
<ローマ 7:3>ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても姦淫の女ではありません。
ここは、神の義となったイエスのバプテスマと十字架の血とを信じるなら、罪をキリストに移してキリストにつき、キリストと共に死に、キリストと共によみがえりを受けているということです。
結婚した女が、夫が生きている間に別の男に行けば、その人は姦淫していることになります。神の義を信じないで罪をもち、別の宗教の信者でいるのなら、その人は実際にはサタンのしもべになっているのです。今日のキリスト教徒が、まだ神の義を信じて罪の問題を解決することをせずにいながら、自分はイエスを信じていると称しているのは、実際には神の民なのではなく、サタンの民なのです。
イエスを信じている者が、罪をそっくりもったままで、どうしてイエス・キリストを救い主と信じていると言えるのでしょう。つまり、ほんとうに正しくイエス・キリストを信じているのなら、イエス・キリストを通じて神の義が来たことを知って罪の問題をすべて解決し、キリストの民になったと言えるはずではないでしょうか。今日のキリスト教において神の義を知らずにイエスを信じている人は、実際には神の民になっておらず、サタンの民になっているのです。
イエスを救い主と信じていると言う時、神の律法の前で、ほんとうに神の義を知り、信じて罪の赦しを受けたのか、それとも、キリスト教徒でありながら罪の問題を解決していないのかどうか、考えてみる必要があります。まだ神の御前で罪人なのか、それとも義人になっているのかを確かめなければなりません。初心に返り、改めて神の義を信じ、イエスへの信仰を新たにしなければなりません。イエスを信じていると言いながら心に罪をもっていることはできません。神の義となられたイエス・キリストのバプテスマと十字架上の血とを明確に理解し、信じ、罪のない義人にならなければなりません。
 
 
主につく信仰をもつ
 
<ローマ 7:4>私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。
使徒パウロは、神の義について述べる際に不可欠の要素である、イエスがバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマについてあかしを続けています。イエス・キリストはヨルダン川でバプテスマを受けられ、それによって世の罪を被られたからです。罪に対して死ぬには、イエスがヨハネから受けられたバプテスマが神の義を成就するためのものであったことを知るような信仰をもたなければなりません(マタイ 3:15)。使徒パウロはここで、神の義を満たしたバプテスマについて再度述べています。
イエスを救い主と信じると言うとき、四つのことを信じていなければなりません。第一に、イエスが神の御子であると信じていなければなりません。第二に、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって、ただ一度で世の罪を被られたことを信じなければなりません。第三に、キリストはバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって世の罪を受け取っておられたので、十字架に行かれ、磔刑に処されて世の罪の罰を受けられたと信じなければなりません。同時に、私たちキリスト教徒はイエスの死につかなければなりません。キリストと共に十字架につけられたのです。そして最後に、キリストのよみがえりの際に、私たちの魂と体もまたよみがえりを受けたと信じなければなりません。
神の義を成すバプテスマを信じてはじめて、ほんとうにキリストのからだにより律法に対して死んだと言えるのです。私たちはイエス・キリストがバプテスマと十字架上の血によって成就された神の義を信じているので、今はキリストの御前に行き、神への新たないのちの実を結ぶことができます。イエスがバプテスマを受けられた時に世の罪が移され、十字架上の死によって、みなさんと私もまた罪に対して死に、イエス・キリストのよみがえりによって、私たちも神の義に対して生きるようになったということを知っていなければなりません。
 
 
律法主義的信仰
 
<ローマ 7:5>私たちが肉にあったときは、律法により数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。
神の義を知り、信じる者は神の義を心に受けています。そのため、御霊の賜物を受けます。神の義の福音を知らず、信じていなければ、御霊の民ではありません。ですから、そうした人は罪に支配され、罪の実を結ぶのです。
誰もが次のことを考えなければなりません。「私はほんとうに神の義を信じてキリストにつく者となっているのだろうか。それとも、神の義を知らずにイエスを信じているつもりになっているけれど、御霊をもってはいないのではないだろうか。」
使徒パウロの言う「肉にある者」とは、神の義を得ることができずに、まだ肉に属していて、死の実しか結べない者のことです。肉にある者は、律法のために罪に陥らざるを得ないことを理解する必要があります。神の律法は聖く、罪に気づかせるものだということは知っていますが、神の律法は心に情欲を起こさせ、ますます罪を犯させるものでもあることを知らなければなりません。つまり、神の律法を知れば知るほど、ますます肉の罪に陥るのであり、律法によって義人になるのは不可能なのです。使徒パウロが律法の役割を先のように説明しているのは、そのためです。
 
 
新しい御霊によって仕える
 
<ローマ 7:6>しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
パウロがここで言う「新しい御霊」とは何でしょう。これは神の義への信仰をいうのです。パウロが語っている神の義の福音は、主の語られた水と御霊の福音です。この福音を信じることは、イエスがバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマと十字架上の血、死とよみがえりを信じることです。
パウロのように神の義を信じるなら、私たちもまた、縛られていた罪に対して死に、律法の怒りから解放されます。パウロも、この時代の神の義を信じる者も、律法に則って神に仕えるのではなく、水と御霊の福音への信仰によって得た義によって仕えるのです。
神に正しく仕える信仰をもつのは誰でしょう。律法に則って神に仕える者は、究極的には神に仕えているのではなく、自分の肉にだけ仕えることになります。それに対して、神の義が示されている水と御霊の福音の真理を信じて神に仕える者は、神の正しい働きに仕えます。つまり、罪人を罪から救う水と御霊の福音をいたる所で宣べ広め、すべての人を罪から救うのです。ですから、神の義を信じる者は律法によって神に仕えることはしません。神の義を信じて神に認められるのです。
けっして律法主義的信仰で神に仕えようとしてはなりません。神の義の福音を信じておられるみなさんに申しますが、神の義を信じて神に仕え、従い、宣べ広めなさい。そうした信仰をもって信仰生活を送らなければなりません。
 
 
律法の機能
 
<ローマ 7:1>それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
まことに、パウロの言うように、神の律法は聖く正しいもので、人間に罪を気づかせるのです。律法自体は罪ではありませんし、また、信仰生活に無用なものでもありません。そうではなく、律法は何が罪とされるかを示す指標なのです。律法はまた、罪人にとっては魂と肉を支配し、堕落を防ぐものでもあります。律法のそうした抑制機能は、イエスを信じていながら、まだ神の義を知らない罪人であるキリスト教徒に、より有益です。
しかしながら、律法はまた、神の民になった、神の義を信じている者に罪を指し示す機能もあります。神の律法がなければ、誰も何が罪であるかわからないのですから、すべての人に不可欠です。しかしながら、神の義を信じる者が神に仕えるのは、律法の条項を恐れてのことではありません。それどころか、神の義を律法より高いものとして信じています。御霊をもち、神を信じているからです。ですから、神の喜ばれることをするようになるのです。
みなさんは神の義を知り、信じておられますか、それとも、自分なりの義によって、律法を守って神に仕えようとしておられるのですか。水と御霊の福音、神の義を得ることを可能にする福音を知り、信じて神に仕えなさい。
律法と義とをくださったことを主に感謝いたします。
 
 
律法がなければ、罪は死んだもの
 
<ローマ 7:8>しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
神の律法は確かに罪に気づかせます。パウロは新たに生まれる以前に律法の内にいた古い自分を振り返って、この部分を書きました。
パウロは自分の体験、神の律法の役割に気づいたことをあかししていますが、罪は戒めによって「機会を捕え」、悪い欲求を内に起こさせました。これが事実です。ご存じの通り、神の律法はそれ自体聖いので、神の聖さを明らかにします。しかしながら、律法にはそれ以外の機能もあります────心に潜む罪を明らかにし、掻き立て、罪を犯させるのです。パウロが「罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました」と述べているのは、そのためです。
神はご自分を信じる者みなに、毎日の生活で守るべき律法を信じよとおっしゃいました。律法は六百十三項目もの掟から成ります。これは肯定的・否定的、つまり、しなければならないこと、してはならないことの二つに分けることができます。律法は人間のしていいこと・悪いことを規定していますが、人間は十二種の罪をもって生まれてきますから、心に潜む罪がやがては表に出てきます。パウロは、律法が「私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました」と述べています。神がくださった律法なしには、人間は実際に罪があっても、それと知らずにいたのです。
使徒パウロは「律法がなければ、罪は死んだものです」と言いました。神の律法のみことばの前で、自分がどんな悪を行ったかを考え、そのすべてを認め、神の義を信じて感謝をささげなければなりません。
 
 

律法は人を死へと導く

 
<ローマ 7:9>私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
みなさんは、ほんとうに神の律法をご存じですか。神の定められた律法と罰とを知っておられるなら、神の目からすると、ご自分がはなはだしい罪人で、行く手には死だけがあることがおわかりでしょう。
パウロは神の律法を本当の意味で知る前、自分はまともな人間だと思っていました。しかし、ひとたび律法を理解すると、自分が神の御前ではとうてい生きていられない罪人であること、罪の報いが死であることを知りました。
神が創り主で裁き手であられることを理解するなら、神の戒めを正しく知り、神の掟の前に頭を垂れるようになります。そうするとき、神を本当の意味で神と認めているのです。それに対して、神を神と知らなければ、創り主で生ける神であられるお方の御前でも、律法のせいで恐れに震えることがありません。心が頑なになっていて、自分に恐ろしい裁きが下ることなどないと思っているのです。
しかしながら、創造の神を真に知り、その戒めを心に刻むなら、自分がまことに死に定められた罪人であることを知り、救い主イエス・キリストの義にすがります。
真に神の義を信じるには、イエス・キリストが創造の神であられることを認め、自分が主の御前で罪人であることを告白し、同時に、罪の報いとして罰されることを免れなかったのに、神の義によってすべての罪からお救いくださったことを感謝しなければなりません。
 
 
おお! どうしてそういうことが
 
<ローマ 7:10>それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
長年神を信じていると、パウロと同じことに気づくことになります。しかしながら、問題は、通常、多くのキリスト教徒はそうしたことを悟らず、ただ律法を守って自分なりの義を立てようとするのです。
パウロもまた、新たに生まれる前は、神の戒めを守れば永遠のいのちを受けられると思っていました。そこで、律法の六百十三項目の戒めをすべて守り、上は神に栄光をささげ、近くは同胞を愛そうと懸命に努力しました。しかしながら、実際にはどうなったかというと、「いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わか」ったのです これは、パウロが律法本来の役割を知ったということです。律法の機能は、人間に罪を認識させることであり、また、神の戒めがいかに厳しいものであるか気づかせ、また、罪のために死ぬしかないことを悟らせることにあります。
パウロはこれを悟ると同時に、自分にはイエス・キリストが必要であり、神の義が人間のそれよりはるかに偉大であることを知ります。パウロは神の義を完全に理解した人です。だからこそ、自分の経験に基づいて、あのような告白ができたのです。今のこの時代にイエスを救い主と信じている私たちもまた、パウロと同じ神の義を知り、自己の経験に基づいて、そうした告白ができなければなりません。水と御霊の福音のみことばを軽んじなければ、パウロと同じように神の義を理解できるはずです。神の義への信仰の恵みがみなさんにありますように。
 
 
律法を誤解する
 
<ローマ 7:11>それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。
使徒パウロほど神の律法を深く理解した人はほとんどいません。パウロは神の戒めのみことばから、自身の至らなさを深く理解したのです。パウロは自分が罪のために死ぬ定めにあることを深く知って、「戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです」と告白しました。
悲しい現実はというと、大方のキリスト教徒は、ただ神の戒めを守って事足たれりとしているのです。また、神の戒めに忠実であることが自分の義だと思い、後生大事に努めて満足しているのです。しかしながら、心に神の義をもたないなら、戒めのいくつかを守れるからといって自分の義に満足しているのではなく、神の戒めから自身の不完全さを知らなければなりません。信仰によって神の義をもたないのなら、まだ神の目には罪人だからです。罪人なのですから、神の戒めをある程度守るからというだけで、誇るべき義は何もありません。
パウロは罪人であった当時の自分を振り返り、経験を通じて知ったことを告白しています。神の御前で自分の罪を深く認識した者は、使徒パウロと同じように、神の義を示す水と御霊の福音のみことばを信じて告白ができます。
 
 
よき律法と罪の塊である人間
 
<ローマ 7:12>ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
使徒パウロは、自分が毎日守っている神の律法の戒めがみな聖く、正しく、また良いものだと知りました。自分が神の御前では罪の塊であり、地獄に定められていたのだと率直に告白しました。自分の罪に気づき、基本的に地獄に定められているのだと知った者は、神の義を得ることを可能にする水と御霊の福音のみことばを神に感謝し、信じます。この世の中にはイエスを信じると称するキリスト教徒が大勢いますが、神の目には自己が罪深い者であることを誰もが知っているわけではなく、また、水と御霊の福音のみことばが神の義を成すということを知る者は、ほとんどいません。
では、みなさんはどうでしょう。ほんとうに水と御霊の福音のみことばによって神の義を見いだされましたか。イエスのバプテスマと血とで成就された神の義を見出せないままでイエスを信じているとおっしゃっているのなら、その人はまだ罪に埋もれて生きており、イエスを信じていない者同様、破壊されることになります。
律法のみことばに照らして自分の罪を見出し、みことばから水と御霊の福音に示された神の義を見つけなさい。水と御霊のみことばの内に神の義を見出し、イエスを救い主として受け入れるなら、その人は永遠に救われます。
 
 
罪を極めて深刻にするもの
 
<ローマ 7:13>では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。
使徒パウロは、律法を廃止せよと主張しているのではありません。旧約のみことばは新約のこの時代には無用だという間違った考えをもつ人がいます。しかしながら、パウロは神の律法の機能を、罪が「罪として明らかにされ」ることだとし、また、律法のみことばが「良いもの」だと信じました。
パウロは神の律法と戒めを正しく理解しました。ですから、神の義を見出した時、それを正しく理解し、従い、信じることができたのです。彼は、神が人類にお与えになった掟や戒めは良いものだったと言うのです。
人間は神の戒めを通じて自分の罪を知り、神の義を心に受け入れなければなりません。神は義の救済をくださるために律法の良いみことばを定められ、人間が罪に気づき、救済の真の福音を信じることができるようになさいました。人類に真の救済をもたらす福音は主のバプテスマと十字架上の血とから成ります。この福音こそが、主の語られた水と御霊の福音のみことばなのです。
みなさんが神の戒めを通じて、極めて罪深い自己を認識され、神の義の示された福音を信じ、罪から完全に救われますように。
 
 
肉の無力
 
<ローマ 7:14>私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
パウロは肉の無力さを告白しています。パウロは当時、神の義を得ていたのですが、それでも自分の肉は律法の教えにはなはだしく背いていたというのです。パウロは霊的に高い信仰の境地に到達したため、深い尊敬を受けています。しかしながら、それは、パウロの肉が私たちのものと異なっていたからではありません。パウロは私たちと同じ肉をもち、私たちと同じ罪を犯しました。それでも神の義にすがり、信じ、神の義を説いたのです。つまり、パウロは肉の弱さを見て、イエス・キリストの明かした神の義をますます固く信じ、感謝したのです。
第 14 節以下のことをパウロが述べた理由を正しく理解するには、彼の状態、つまり、この言葉が神の義を信じる前と後のどちらのことを言っているのかということを知っていなければなりません。パウロがここで述べているのは、人間の肉は新たに生まれる前も後も律法に違反し、罪を犯し続けるということです。しかしながら、パウロは、神の義を成就したイエス・キリストを信じて勝利の生を生きた信仰の人なのです。パウロが神の義を信じて勝利したのなら、私たちもまたパウロと同じ信仰により勝利できることをお教えくださったことを主に感謝しなければなりません。
みなさんは、ご自分の義と神の義のどちらに満足しておられますか?
 
 
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで
 
<ローマ 7:15>私には、自分のしていることがわかりません。私は自分のしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
パウロがここで、自分のしていることがわかないと言っているのは、肉の行為についてです。パウロが第 15 節で言わんとしているのは、人間には肉と魂の両面があるということです。パウロは自身の肉が心の中の御霊の望むようにではなく、肉の欲情に従うのを見て、嘆いています。
パウロは、肉がいつも神のみこころに逆らおうとするから、そうなのだとしています。つまり彼は、神の義を信じる者の体が新たに生まれていない者の体と同様に、律法の禁じる罪に従っているのを見たのです。ですから、思うにまかせないことを嘆いて「私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と言っているのです。パウロはこのように嘆いていますが、すぐに、イエス・キリストを通じて来た神の義を喜んでいます。
人間の肉はいつでも肉の欲求を満たそうとします。肉の欲情は、神の御前では常に罪にあたります。ですから、神の義を信じる者は誰でも、この義を世界中に広めなければなりません。パウロがローマ 12:1 で「そういうわけですから、兄弟たち、私は、神のあわれみのゆえにあなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」と述べているのは、そのためです。
よろしいですか、神の義を信じて新たに生まれた者であっても、肉は常に罪に従うものなのです。しかしながら、神の義を信じる者の霊は、いつでも義に仕えて従おうとします。
神の義を信じる者であっても、心しておかなければならないことが一つあります。それは、肉の永遠不変の真実、すなわち、霊は神の義に仕えたいと願っても、肉はまだ肉の欲情に従おうとするということです。ですから、神の義を信じる者は神の義に仕えて生きなければなりません。
 
 

律法は良いものであることを認めよ

 
<ローマ 7:16>もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
パウロはここで、神の律法は良いものであることと、自分の肉の弱さとを認めています。神の律法は永遠に良いのです。それに対して、人間の肉は常に反抗し、罪を犯します。人間の肉は常に神のみこころに逆らい、敵対するのです。自分の肉に何か良い点を期待することは誰もできません。神の義とそれに従う御霊への信仰にだけ善を期待できるのです。
人間の肉が邪悪であることを認めなければなりません。しかし、御霊に従う心と体は良い働きために用いられる器です。神の義はいつでも、信じる者の霊を神の喜ばれる道へと導くのだということを信じていなければなりません。
 
 
肉の欲情
 
<ローマ 7:17>ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
使徒パウロは、神の義を信じていても、肉はまだ罪に仕えていると述べています。彼はここで、心の中に肉と御霊の両方に仕えたいという欲求があることを明かしています。パウロは肉の考えのために多くの困難に臨み、いつでも主から来た神の義にすがっていたのです。神の義にすがって従う以外に道がなかったからです。
 
 

肉にはよいところが何もない

 
<ローマ 7:18>私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
人間の肉は善を行いたいと願っても、実際に善を行うことができないのです。肉の考えでは誰も神のみこころに従えません。ですから、神の義を信じる者でも、神のみこころを求め、知ってはじめてみこころにつき、従うことができるのです。
よろしいですか、聖徒と神のしもべが神のみこころについて主に従おうと願ってはじめて、神のみこころに従えるのです。この世で正しく生きたいと願う者は誰でも、自分の肉ではなく神のみこころに従わなければなりません。
 
 

善を行うことは肉の力では不可能

 
<ローマ 7:19>私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
基本的に、神の義に従うのでなければ、誰一人真に良いことを行えず、悪だけを行うのです。それが、神の義に従わない結果であり、そうした人の典型的な生き方なのです。
神の義を信じ、記されたみことばに従ってはじめて真に良いことを行えます。使徒パウロもまた、信仰により神の義に従うことなくして善を行うことはできなかったとあかししています。
では、私たちはどうでしょう。自分もまたパウロのようであることは否定できません。ですから、神の義を信じる者であっても、誠実かつ高潔に生きたいのなら、神の義を信じて真の福音に仕えることは絶対にやめてはならないのです。神の義を信じ、主の御前に立つ日まで仕えてはじめて、罪に陥るのを免れるのです。ですから、自分の肉には何も期待せず、神の義の福音に一歩一歩仕え続けなければなりません。
次のことを誰もが知っている必要があります────人間の肉や世俗的な考えでは善を行えない。神の義を信じ、仕えて、はじめて義の真の働き手になり、神をお喜ばせできる。このように信じなければなりません。
 
 
パウロに罪はあったか
 
<ローマ 7:20>もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
パウロがここで「私のうちに住む罪」と言っているのを、心に罪があったのだと誤解してはいけません。パウロの心には神の義があったのですから、実際には罪がありませんでした。
では、「私のうちに住む罪」とは何のことだったのでしょう。パウロの言う、内に住む罪とは何なのでしょう。ローマ 7:18 で触れている、肉の考えを指しているのです。パウロはいつも「世俗的な考え」を「肉」、「霊的考え」を「神の義に従う正しい心」と呼んでいました。パウロは人間の心には二つの思いがあることを説明しています。使徒パウロは、自分の望まない罪の中に住めば、それは、神の義と御霊ではなく、肉の心、人間の肉に従っているのだと言うのです。
使徒パウロのことを心に罪をもった神のしもべだと考えるのは誤りです。基本的に、使徒パウロの心には神の義への信仰があり、したがって、罪はなかったのです。
すると、「でも、彼は罪を犯したと言っていたのではないか。それは彼が罪人であったということなのではないか」と思われるでしょう。しかしながら、パウロは神の義をもつ者であり、罪人ではなかったのです。神の義を信じていたのですから、実際は罪がありませんでした。まだ罪がありながら義認説に基づいて罪なしとされていたのではありません。
この点を理解しておかなければなりません。肉において罪を犯さずにはいられない弱い人間であっても、神の義の福音を信じて罪のない者になれるのです。実際に神の義の福音を信じる者が自分の心を調べると、罪がなくなっていることがわかります。
聖書には「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです」(ローマ 1:17)とあります。神の義を知り、罪のない者になりなさい。
 
 
キリスト教徒はみな体と魂をもつ
 
<ローマ 7:21>そういうわけで、私は善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
神の義を信じて罪の赦しを受けた者でも、神の義と肉の両方に従いたいと思うのです。心の一部は御霊に従いたいと思う一方で、別の部分は肉に従いたいと願います。ですから、肉が世俗的な欲情に従い、神から与えられた霊的欲求が神の義に従いたいと願うのは、自然なことです。一人の人間に二つの律法と二つの心があるのですから、当然、葛藤が生じます。
そこで、二つの心のどちらに従うかによって、安らぎを得るか、苦しむことになるかするのです。ですから、使徒パウロの会得した真理を知ることが、まことに重要なわけです。神の義を知り、信じなければいけません。しかしながら、信仰によって神の義を得た後でも、まだ霊と肉の板ばさみになって苦しみます。神の義を信じて乗り越えなければならないということを知る必要があります。
神に従うには、肉に二つの心があるという事実をなでて通るのではなく、神の義を信じて霊に従わなければならないのです。神の義を信じる者の心には霊の心と肉の心が共存するのだということをけっして忘れてはなりません。自分の内に二つの心があることを知る者は、神を信じてサタンと戦い、勝利できます。
 
 
内なる人として
 
<ローマ 7:22>すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
ここは神の義を知り、信じる者の心について述べています。水と御霊の福音のみことばを信じると、罪から救われ、神の罪のない民となり、みことばを糧とし、信仰と義のしもべになります。つまり、神の忠実な働き手になるのです。
 
 
体の中の異なった律法
 
<ローマ 7:23>私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
使徒パウロの心の中では、御霊に従おうと願う心を肉の心が除こうとしていました。そこで、パウロは苦しみました。しかし、人間の心に二つの思いがあり、それが相争うのは不可避のことでした。聖徒や神のしもべが自己と果てしなく戦っているのは、そのためです。神の義を信じているのですから、戦いに疲れ倒れても、当然ながら、やがて勝利します。神の義を信じる者は誰でもそうした戦いをします。勝利をもたらす主を信じるなら、勝利できます。
 
 
哀れな人々を救われる主
 
<ローマ 7 :24>私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
キリストの民となった神の義のしもべが戦いに疲れ、倒れるなら、それは、肉の欲求充足と肉の欲情の罪を絶えず求めるからです。しかし、義のしもべに勝利させる将軍がいます。その名はイエス・キリストです。主は救い主で、部下が倒れて助けを求めると、いつでも神の義の福音の剣を手に救いに来られます。その剣の一閃で、罪と呪い・恥・侮蔑の報いである死を除かれます。部下を救済の衣で包み、新たな力をお与えになり、立たせ、神の義のために力強く生きられるようになさいます。
神の義を信じる聖徒や神のしもべが罪との戦いに倒れた時にはいつでも、イエス・キリストが勝利させてくださいます。自分自身との戦いに敗れた者には義の王イエス・キリストが救いに来られ、勝利させてくださいます。聖徒が神に感謝し、栄光をささげるのは、そのためです。
神の義を信じる者は苦しい状況にある時、主の義の力により新たな力を与えられ、また立ち上がって勝利するよう助けられます。そうした経験は義によってはじめて得られます。
 
 
心で神の律法に仕える
 
<ローマ 7:25>私たちのイエス・キリストを通して神に感謝いたします。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
神の義を知り、信じる聖徒と義のしもべは、イエス・キリストがくださった水と御霊の福音のみことばを信じてすべての罪に打ち勝ちます。神の義を信じて罪と戦い、勝利し、そうして神に感謝します。これが神の義を信じてしもべとなった者の勝利と恵みです。
みなさんは、そうした、勝利する幸いな信仰をおもちですか。そうした信仰と勝利は、神がイエス・キリストを通じてくださった水と御霊の福音の真理への信仰によって得られます。これを知り、信じる者はみな、自己との戦いに最終的な勝利を得、神に栄光と感謝をささげるようになります。
こうした勝利する信仰は律法主義的信仰では得られません。また、キリスト教教義を信じていて得られるものでもありません。あらゆる罪に勝利させてくれる水と御霊の福音を信じてはじめて、そうした信仰を得られるのです。
神の義を信じる義人と神のしもべはみな、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に従っています。しかしながら、イエス・キリストはそうしたものすべてに勝利できるようにしてくださいます。神の義を信じる者がみな、永遠に感謝するようになるのは、イエス・キリストのおかげです。
ハレルヤ。あらゆる罪に勝利させてくださる神に感謝いたします。