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説教集

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 8-4] 肉の思いは死であり、御霊による思いはいのちと平安である(ローマ人への手紙 第 8 章 4-12 節)

(ローマ人への手紙 第 8 章 4-12 節)
「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでも、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
 
 
海外伝道は書物によって行なうのが効果的で、それを私たちは今行なっています。神のみことばを読み、みことばを信じるために信仰が深まるとき、私たちは幸いです。
人々はこれまでの五世紀間、漸進的聖化や義認説のような偽りの教理、祈りや悔い改めによって贖罪は可能だという主張などにだまされて苦しんできました。
ローマ人への手紙第8 章 3 節は、肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださったといいます。神は、私たちをすべての罪から救うために、御子を罪深い肉の形でお遣わしになって、肉において罪に定め、裁かれたのです。
今日は、ローマ人への手紙第 8 章 4 節から 12 節に神の真理を見ましょう。ローマ人への手紙第 8 章3-4節には「肉において肉を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」とあります。もちろん、問題は、これはどういうことか、です。
 
 
第一に、肉に従って歩まないとは、どういう意味でしょう?
 
これは、肉のためになることを求めないということです。これは、霊の望むことと肉の欲望とを区別し、神のみ言葉に従わない者から離れているということです。第 5 節は「肉に従う者は肉的なことをもっぱらに考えます」とあります。「肉的なこと」とは、どういう意味でしょう? これは、たとえ教会に出席しても、それは自分の欲求のためであるような人々がいるということです。
単純に言えば、キリスト教徒は世俗的な職業上の利益を求めて教会に行くべきではないということです。そういうことをする人々は肉に従って生きているのです。その人たちは、顧客を獲得しようとして会衆の数の多い教会に行って自分の仕事を紹介し、宣伝します。その人たちが教会に行きイエスを信仰するのは、肉のためなのです。
別の人たちもいます。キリスト教の社会で分派主義を教える人々、信者に物質的なご利益だけを追求することを教える人々もまた、肉によってのみ生き、肉のことだけを考えているのです。
キリスト教社会では、分派主義によく出会います。では、この分派主義者とは、何者でしょう? 自分たちの派の優越性についての誤った信仰で自らを欺いている人々です。この人たちは、自分たちの宗派は某さんによって設立され、何某という神学者がついていて、自分たちはこれだけ大きくて世界中に広く知られており、これこれの確固として伝統をもっている云々と言います。こういった自慢話は虚栄心を満足させ、この人たちなりの信仰を作り上げているのです。今日の世界にはこうした信仰をもつ人が多いのです。
分派主義者がイエスを信じるのは、肉のためなのです。肉に従って生きる人々は、自分たちの教会や大きな教会に参加していることで得られる物質的利益を自慢します。教会の中には、「汝の妻を愛せ」ということを共同体の目標にしているところもあります。しかし、これは「肉に従う者」そのものです。教会は、自分の妻を愛することを目標として設定するべきですか? するべきではありません。では、私は妻を愛してはいけないと言っているのですか? もちろん、違います! しかし、こうした目標は、どんなにすてきで魅力的でも、教会の基本的目標ではあり得ません。
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えます。今日、あまりに多くの神父がこのようになり、教会の会員数、献金の額、建築物をより大きくすることのみを考え、それが信仰の主目的になってしまっています。より大きく、高く、大きい教会を建てることがその人たちの最大の目標です。表面ではより多くの信者を集めることが天国への道につながると言って言い訳しますが、最終的な目的はより大きな教会を建てるためにより多くの金を集めることなのです。
教会を肉に従わせることで、その人たちは信者を狂信者に変えてしまいました。牧師の中には、会衆を半ば狂い、幻想をもち、完全に誤り導かれた狂信者に変える能力によって成功している人々がいます。
 
 

神の御霊に従って生きる者

 
しかしながら、キリスト教徒の中には、本当に神の御霊に従って生きる人たちもいます。この人たちは、御霊に従い、神のみことばに従って生き、聖書に書かれていることを信じて自分自身の考えは否定し、神の喜ばれるように行ない、水と聖霊の福音を説きます。
聖書は、御霊に従って生きる者は御霊に属することをひたすら考えると言っています。神の義を信じることによって赦されたのなら、無思慮な生き方をせず、御霊のしわざを考えて生きるべきです。御霊に従って生きる人々は、霊的に考え、信仰によって御霊に属することを行なおうとします。御霊に属することを追い求める人々は幸いです。その人たちは神の喜ぶ人々であり、世界の罪人を救い、信仰によって生きます。私たちは罪を赦されているのですから、心を霊的なことにもっぱら向け、神の御心に従って生きなければなりません。
私たちのいのちの目標は、御霊のしわざを全うすること、すなわち水と聖霊の福音を説くことです。御霊に属することをひたすら考えましょう。みなさんは、御霊に属することにどれだけ心を向けていますか? 私たちは霊的な戦いを戦っているのですから、神の義を信じ説くことで御霊に属することを実践するのです。弱く欠点だらけではあっても、いつでも主を喜ばせることを考え、心を神のみわざにもっぱら向けて、御霊の仕事に挑むのです。一つの仕事が終わっても、まだ、さらに主を喜ばせる仕事をしようと努力するのです。
私たちは今、書物によって水と聖霊の福音を世界中に宣べ広げています。毎日 200 人から 300 人がウェブサイトを訪れて、キリスト教図書やe-bookを受け取っています。私たちは信仰をもって水と聖霊の福音を世界中の国のあらゆる人々に広める活動によって、共に神の教会で福音に仕えているのです。心を御霊のことにもっぱら向けているのでなければ、こうした御霊の実を与えられることはなかったでしょう。私たちは、心を御霊のことにもっぱら向けて神のみわざをひとつひとつ実行していきましょう。そうすれば、箴言第 31 章にある徳高い妻のように、霊的婿、イエス・キリストを喜ばせることができるのです。
第8節は、「肉にある者は神を喜ばせることができません」とあります。これは、罪の赦しを得ていない人々のことを指しています。「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ 8:7―8) 内に御霊をもたない罪人は、神のみわざをすることも喜ばせることもできません。
罪人は自らを神の律法の対象としません。また、神の義の対象ともしません。この人たちは神を喜ばせることができません。御霊が内に住んでいないので、神のみこころが何かを理解できないからです。主を喜ばせるのは、水と聖霊の福音によって人類のすべての罪を赦すことです。主は罪人の賛美や崇拝を喜ばれません。
神は罪人がたたえても、喜びません。罪人が礼拝でどんなに手を挙げて神をたたえ涙を流しても、神を喜ばせることはできません。罪深いキリスト教徒は、感情に酔って神を喜ばせようとします。この人たちは主を喜ばせることができません。罪のある人たちが主を喜ばせることができないのは、罪人であるからです。どんなに努力しても、罪人は決して主を喜ばせることができません。これは、どれだけ主を喜ばせる気持ちがあるかの問題ではありません。こうした人たちが主を喜ばせることがそもそも不可能であるということなのです。
神は、人々がより大きな教会を建てることをお喜びになるでしょうか?お喜びにならないでしょう。より大きな教会の建物に移ることが必要なら、ぜひともより大きな教会を建てなければいけないでしょう。しかし、ただ建てるということのためにより大きな教会を建てるのは神を全く喜ばせません。
例えば、私の町の教会は、最近 300 万米ドルを使って新しい教会を建てました。十分に使える状態で収容能力も足りているそれまでの教会がそのすぐ隣にあるのに、です。会衆の数が多い時でも 2、300 人であるときに、そのような教会を建てることが本当に必要だったのでしょうか? 教会は煉瓦でできてはいません。神は、私たちが神殿であり、神の御霊は義である者の心の中に住むとおっしゃいます。
必要に応じてより大きな教会を建てることは正しいことですが、それだけを目的により大きな教会を建てることが神に栄光を加えるでしょうか? いいえ、加えません。より多くの人々を教会に集めることが神の栄光を増すでしょうか? いいえ、そうするだけでは神を喜ばせることはできません。肉にある者は神を喜ばせることができません。
時に、義である人々でさえ、肉の利益のみを追求することがあります。この人たちは神を喜ばせることができません。義である人々の中には、依然として罪人のように肉の考えに縛られている人々がいます。この人たちは神を喜ばせることができません。実際は、その人たちは教会で健康的な信仰生活を送ることができず、不服を言い、神の教会を嫌がり、やがては教会を去ります。
ですから、私たち義である者は、肉のためのみを追求する生活ではなく、義であり、神を喜ばせる生活をしなければならないのです。神の仕事と神の義とを考え、神の義のしわざに仕え、自分たちの体、心、所有物を神の義の道具として使うべきです。神を喜ばせる生活をしましょう。
 
 

キリストの御霊の中にいる人々

 
一緒に第 9 節を読みましょう。「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」
パウロによると、この節は、水と聖霊の福音を信じるなら、すなわち、神の義を信じるなら、そして、罪を赦されたなら、私たちはもはや肉の中にではなく御霊の中にいるということを意味しています。御霊を心にもつ人は、キリストのものであり、キリストの御霊をもたない人は、キリストのものではありません。
ですから、私たちは肉の中ではなく、御霊の中にいるのです。水と聖霊の福音によって罪から救われて御霊の中にいる者は、自分がキリストの中にある義として神を喜ばせることのできる、義の兵士であることを忘れてはならないというのです。自分の肉の弱さに絶望することなく、信仰によって神を喜ばせるのです。私たちは弱いのですが、神のものであり、神の中にあって、それゆえに神の働き手であるのです。
新たに生まれた後に肉の利益だけを追求することは、許されていないのです。義である人は、神の義のためにのみ生きるよう定められています。第 10 節は、「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています」とあります。
実際、私たち、私たちのからだは罪のゆえにイエス・キリストと共に十字架につけられたのです。私たちは神の義のみわざによってすべての罪から救われたのです。この義があるために、義である人の霊は永遠のいのちをもつのです。永遠のいのちです! 義とされた人々は、もはや自分たちの肉のためだけに生きることを許されていないということを心しておきましょう。新たに生まれた後に神の義のために生きない人々は、神の恵みから遠いのです。
私たちは神の義のために生きるよう定められています。みなさんの中には、水と聖霊によって新たに生まれた後で、「聖書には肉にある者は神を喜ばせることができないと書いてあるではないか。私はその一人に違いない」と絶望を感じる人がいるでしょう。しかし、それは本当ではありません。神は、神の義の兵士として生きるように私たちを造り直されたのです。
おそらくは、聖書を誤解して、そのように考える人々はいます。義である人の中でさえ、からだは肉に従って生きるのであり、肉は弱いのだから、自分は神に従って生きることはできないと考える人々もいます。しかし、実際は、御霊を内に宿す人々は、神の仕事を行なうことを喜ぶのです。神の仕事を行なうことで人は幸福、喜びをもち、健やかになるのです。その一方、神の仕事をしない生活は、動機や目的のない、呪われた生活です。
水と聖霊の福音を受け入れて神の義に住むとき、御霊が私たちの中に住みます。御霊は贖罪を受けた人すべての上に来て住みつきます。御霊が内に住んでいる人々には、何が起こるでしょう? その人たちは神の義に仕え、神の義の仕事を行うよう定められているのです。
つまり、罪の赦しを受けて義とされた人々は、信仰によってのみ生きることになるのです。義である人は、信仰に生き神の仕事を行うときだけ信仰を保てます。義をもちながらこの世で肉によって生きられると思うのなら、それは、自分が罪の赦しを受け、すでに定めが変わっているのだということに気づいていないためなのです。
義である人の定めは変わっています。新たに生まれる前、その人たちは世界と自分自身の目的のために生き、肉の欲求に従って生きて幸せでした。しかしながら、新たに生まれた後、またそのように生きることは不可能です。私たちは罪の赦しを得たのです。八桁の収入を得たところで、幸福でしょうか? 他の人々の魂をこの世から救うために身を捧げなければいけないとき、どうして物質的なものだけで満足できるのでしょう?
つまり、みなさんには、肉と御霊のことについてよくよく考えていただきたいのです。知るためには、実際に行なう必要はありません。ただ、このことについて真剣に考えてみるだけでいいのです。
ローマ人への手紙についての前書では第 1 章から第 6 章、本書では第 7 章から第 16 章までを説明しています。私のキリスト教図書シリーズの二冊の説教集第 4 と第 5 は、世界中のキリスト教徒に送られるでしょう。このキリスト教図書シリーズによって多くの人が神の義を知るようになるはずです。この前の三冊の説教集では、神の救済についての基本的教義について話しました。第一巻は、福音について、第二巻は神学上の問題、第三巻は聖霊について、正しく御霊を受ける方法について述べています。そしてこの、ローマ人への手紙を扱った第四巻と第五巻は、神学的教義の多くがいかに誤っていて、キリスト教徒がイエスを信じても罪が消えないのはなぜか、いかに水と聖霊の福音が神の義を表しているかを詳細に述べています。
福音は本書によって今まで以上に世界に広がるでしょう 最初の二冊のときに比べて、三冊目を出版したときには、福音伝道がすばらしく前進しました。現在、第三巻のあとで、これまで以上に多くの人がキリスト教図書シリーズの第一巻と第二巻を求めています。
ローマ人の手紙に関する二巻が刊行された後で、水と聖霊の福音の力の大きさが分かるでしょう。神の義を知るようになった人々の上に多くの恵みが豊かに与えられますように。読者は、ローマ書をどのように読むべきかを理解するでしょう。すなわち、神の義は福音への信仰の中にあるのだということを理解するのです。
私たちはみな共に、この福音のために働いています。みなさんも神の仕事をしているのではありませんか? みなさんは、罪人を罪から救うための福音を説く仕事を支援しています。自分の役割に忠実に福音に仕えれば、世界中の数多くの魂が罪から救われるのです。では、どうして世俗的な仕事のためにこの尊い仕事を放棄できるのでしょう?
私たち義とされた者は、もはや自分たちの肉のためだけに生きる定めにはないのです。今、私たちは神の義を達成すること、魂を救い、義のために生きるよう定められているのです。ですから、残りの生涯を神のため、真の福音のため、そして罪に失われた魂の救済のために生きてください。
これがローマ人への手紙がこの部分で言っていることなのです。では、第 10 節と第 11 節を見ましょう。「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
上の節は、私たち、私たちのからだは罪のためにずっと死んでいるのだというのです。しかし、霊は神の義と信仰のゆえに生きています。神の義を信じるのなら、その人は新たないのちを得ます。私たちは、神の義を信じることによって新たないのちを得ました。
第 11 節は「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」とあります。これは、神が世界の終わりに私たちをよみがえらせるという意味です。ずっと以前、肉と罪のためだけに生きた人生は過去のものとなり、私たちの定めは残りの生涯を神と神の義のために生きるものに変りました。
みなさんは、義の生活に退屈し、「義である人々はよく集まっていろいろ話すんだろうな」と思うでしょう。しかしながら、教会にとどまれば、隣に座った新たに生まれた信者があくびするのを聞いたり、その人たちの賛美や声を聞くだけでも、心は新たになります。それは、御霊が教会と信者の心の中で働くからです。心は新たになり、心に新たな力を得、霊的ないのちのパンによって養われ、出かけて霊的な仕事を行なうという霊的な任務を得ます。
みなさんは、信者の集まりで元気を回復するでしょう。世の中から離れたという事実が、みなさんの定めが変わったことを示しています。肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えるというのは、このためです。今や義となった私たちは、もはや肉に従っては生きていません。義である者は、もう罪の奴隷ではいたくないのです。少なくとも御霊に従って生き、心を霊的なことに向けたいのです。義である者は、御霊のことを行ない、魂をキリストに勝ち取るために働きます。
神の仕事にいそしみ、自分自身の考えはおいて、神の仕事に心を向けましょう。今からはずっとこのように生きるのです。水と聖霊の福音を信じることで赦しを受け、みなさんの定めは神の義のためにのみ生きるように変えられました。この真理がおわかりになるとよいのですが。
残念ですが、みなさんはもう、世の中に戻って罪の奴隷になることはできません。今世の中に戻ったら、それはみなさんにとっては死です。肉のことを考えるのは死です。このうえ肉の欲情を求め続ければ、霊が死に、心が死に、体が死ぬのです。イスラエル人は、脱出の後、エジプトには戻りませんでした。紅海を渡ってからは、エジプト人に会ってもうれしくはなかったでしょう。同様に、義とされた者はもはやエジプトに戻れませんし、霊的エジプト人に会っても幸せになれないのです。
義である新たに生まれた人が世の中に出て行って世の罪人と共に生きたなら、その人は教会に戻りたくて気が狂いそうになるでしょう。その人は教会を恋しく思います。ですから、心を御霊のことに向けて生きましょう。
神の御霊のこととは、どういうことでしょう? それは、神のことではないのですか? それは、神の福音に仕えることではないのですか?それに、私たちは弱く不完全なのではありませんか? みなさんは弱く、私も弱いのです。しかし、弱く不完全だったときに罪の赦しを得たのではありませんか? もちろん、そうです! では、御霊はみなさんの中に住んでいますか? 答えは、そう、その通りです!
では、心を御霊に属することに定めることができるのではありませんか? もちろん、できます。私たちは心を御霊に属することに定めることができるのです。神がみなさんの定めを、御霊に属することを行なうように変えられたのをご存知ないのですか? これを信じますか?
私たちの心は変ったのです。実際は、変っているのに、自分の心が変ったのを知らないというなら、問題です。心をもっぱら神の義に向けていましょう。そうすれば、神の教会はみなさんの家となり、仲間の信者は同じ御霊にあって、兄弟姉妹、両親、つまり家族となるのです。同じ教会の人はみな、家族となります。これまでこのように考えたことがなかったのなら、いまこそ改めて、この教えについて真剣に考えてください。
肉と血の家族だけが自分の家族だと考えてはいけません。ここが、みなさんと新たに生まれた人みなの家なのです。全員、神の家族の一員なのです。御霊に従って生きなければならないのはこのためです。神のために生きましょう。御霊による思いは、いのちと平安なのですから。