Search

説教集

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 9-4] 使徒パウロの悲しみの出所 (ローマ 9:1-33)

(ローマ 9:1-33)
私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいです。彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」 このことだけでなく、私たちの父イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と言っています。こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利をもっていないのでしょうか。ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。「たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」また、イザヤがこう預言したとおりです。
「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。それは、こう書かれているとおりです。「見よ、わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く、彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
 
 
<ローマ 9:1-2>私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
使徒パウロは、これまで正しい真理について述べていました。使徒パウロの説いたのは、罪人をすべての罪から救った神の義のことでした。パウロの説いた神のみことばには、神の義とは何か、どのように成就し、それがどう適用されるのかが記されています。使徒パウロの説いた真実を知り、信じたなら、神のくださる恵みすべてを誰もが得られるでしょう。みなさんに神の恵みがありますように。
しかしながら、使徒パウロの説いた神の義は完全であっても、イスラエル人は、神の義を成就したイエス・キリストを受け入れる信仰をもちませんでした。そのためにパウロはいつも悲しみ、嘆いていたのです。彼はイスラエルの人々の救済に関する問題で悲しんでいました。使徒パウロの嘆きと悲しみが消えるのは、水と御霊の福音の主人公で救い主であられるイエスをイスラエルの民が受け入れた時でしょう。パウロの心を苦しめる嘆きは、イスラエルの民が神の御前に立つ時まで続きます。
たった今、イスラエル人の一人一人が、救世主イエス・キリストを旧約で予言された救い主と認めるべきなのです。そうしなければ、けっして救世主にお会いできず、天から来る新エルサレムを得ることができません。
イスラエルの民がその苦しみのゆえに救世主イエス・キリストを救い主と信じる時は迫っています。やがて、イスラエルの民がその苦しみの中で、二千年前に来られたイエス・キリストが救い主であったと信じる日が来るでしょう。
 
 

パウロの信仰 

 
<ローマ 9:3> もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいです。
これは神の義を信じる者の心を表しています。私が申しているのは、パウロの心がこういうふうだったということです。彼は、たとえ自分自身がキリストに呪われることになろうと、自分の民族、同胞、家族が救われてほしいと願いました。私が言いたいのは、そうした心こそが義人の心だということなのです。
義人は神のくださった救済を多くの人と分け合うことを喜びます。しかしながら、罪人は義人とは違い、良いものを得ることだけに専念します。良いものを分け合うことを喜びません。
主は、多くを受けた者は多くを分け合わなければならないとおっしゃり、また、「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」(ルカ 12:48)ともおっしゃいました。ですから、神の義を心にもつ者は、神のみこころのとおり、全世界に神の義を広めたいと願うのです。たとえ多くを失うことになっても、そうしたいと思うのです。
たった今も、水と御霊の福音のみことばを信じる者は、数多くの魂と多くを分け合うことに喜びを見出しています。そうした心が、神の子どもになった者に与えられた神の義の心なのです。神の義をもつ者は、他人を救うために多くの苦しみを受けています。それは、そうすることで最も心が安らぐからです。
 
 

イスラエル人が神の特別の愛を受けても

 
<ローマ 9:4-5>彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。
イスラエル人は肉にも霊にも多くの恵みを神から与えられた民族です。神は彼らの神になられ、戒めをお与えになり、神に犠牲をささげる祭司を彼らの中から出すという恵みを約束なさいました。しかし、彼らは神の恵みを信じなかったので、神の恵みであったイエス・キリストを自分たちの国から追い出したのです。ですから、外国人が、神の義となられたイエス・キリストについての知識のおかげで多くの恵みを得ることになったのです。イスラエルの民がイエス・キリストを救世主と信じなかったので、外国人の中で神の義を信じた者に神の義の恵みが与えられたのです。
イスラエル民族が受け入れなかったイエス・キリストは、もともと神で救い主です。ですから、誰もが神を愛し、たたえ、崇め、栄光をささげるべきお方だということを知らなければなりませんでした。これはまことに大切なことで、いくら強調しても、し足りません。
イエス・キリストが神であられるということを知り、信じなければなりません。主がすべての罪人のために救い主としての使命を果たされたことを知っていることが肝要です。
 
 
神のご計画は実行された 
 
<ローマ 9:6-9>しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」
神はこのように働かれます。神はみわざをなさるとき、まず約束をなさいます。
たとえば、神がヤコブとエサウに話された後でなさったことが考えられます。神はまずアブラハムに約束をなさってから、イサクをお与えになりました。
神はアブラハムに息子を与えようと約束なさいました。それは、サラの体から息子を与えようという意味でした。しかしながら、約束がなかなか実現しないようだったので、アブラハムの心は人間流の解決法を求め、イシュマエルという息子を得たのです。ところが神は、アブラハムにサラを通じて息子をお与えになろうと約束なさってから二十年後にそれを実行なさったのです。神がアブラハムに息子を与えようとおっしゃったのは、肉の子ではなく、信仰の子どもをお与えになるという意味だったのです。このように、神は肉の繁栄ではなく霊的繁栄を約束なさり、実現される神だということを理解しておかなければなりません。
私たちは、神がお求めになる霊的信仰を顧みずに肉の繁栄の実現を待つことがあります。しかしながら、私たちはみことばを目標として信仰生活を続けなければならないのです。肉の欲求を満たすことを願ってみことばを解釈するなら、それは大きな間違いです。みことばは常に、その実現に必要な信仰を要求します。この霊的原則を信じて、神の御前で信仰に生きなければなりません。
神のお求めになる信仰は、みことばがいつでも実現することを信じる信仰です。神は、常にみことばを信じる信仰をお求めになります。みなさんも、水と御霊の福音によって神の義がすべて実現したと告げるみことばを心から信じなければなりません。
 
 
神による選びは目的なく行われたか 
 
<ローマ 9:10-13>このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。
聖書では選びについて、「行いにはよらず、召してくださる方による」としています。このことを心しておかなければなりません。
よろしいですか、神が民を選ばれるにあたっては、人間の行いによるのではなく、召される方によるのです。神はその義をお与えになろうとなさるからです。神はそれが、イエス・キリストを通じて、ご自分の義によって、生まれつきの罪人である者をみなをお召しになり、お召しに応えた者を罪から救って民にするためだったとおっしゃいます。
神の義を知らなければなりません。神のお召しに関しては、ヤコブはお召しになっても、エサウはお召しにならなかったことには理由があるとしています。「神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方による」と述べている理由がおわかりですか。これは、ヤコブのような罪人を罪からお救いになるためだったのです。
神はヤコブのような人を愛されますが、エサウのような人は憎まれます。エサウのような人は自分の義を多くもつため、神の義を無視し、心に受け入れないからです。神は人間の義を砕こうとなさいます。実際、人間をお救いになるために、ご自分の義によって人間の義を砕かれるのです。神はその義によって罪人をすべての罪からお救いになろうとなさいます。
レベカの子宮にいたヤコブとエサウのうち、神はその一人だけをご自分で選ばれました。どちらがご自分の義を受け入れるか、どちらが拒むかをご存じだったからです。ですから、エサウではなく、ご自分の義を受け入れるヤコブを選ばれたのです。神がエサウとヤコブの二人のうち一人をこれといった理由もなく一方的に選ばれたと言う人がいます。しかし、よろしいですか、神が理由もなく何かをなさることは絶対にないのです。
神は真理の神です。真理であられる神が裁きと行いにおいて偽りをすると考えるのは間違いです。神は絶対に不正な選びはなさいません。なぜでしょう。「召すこと」は神の選びの内で予め定められているのです。神によって選ばれる者が予定されていなければ、神は、ご自分の選びに誤りがあるとおっしゃるでしょう。しかし、よろしいですか、神は間違いをおかされません。神は、「わたしが道であり、真理であり、いのちです」とおっしゃったのです。これは、神が真理であり、いのちを与える主、人間が永遠のいのちを得、罪の赦しを受ける道だという意味です。神はすべてをご存じだからです。
みなさんと私は本質的に邪悪で弱く、できる限り互いを欺いているのではありませんか。ですから、イエス・キリストの内に選ばれるほかなかったから私たちを選ばれたなら、それは間違いなのでしょうか。絶対に違います。神は、傲慢な者、自分なりの義を多くもつ者、自分なりの正義にあふれている者、自分にはそれほど欠点がないと信じている者を選択から除外されます。
では、傲慢で自分なりの義に満ちた人間を神がご自分の民に選ばれるのは、正しいことでしょうか。真理の神は、間違ってもそうしたことはなさいません。誇りに満ちて傲慢だったエサウではなく、欠点があり、弱く、自分なりの義もたいしてないヤコブを神が選ばれたことを私たちはたたえます。
神はエサウのような人間の神ではあられません。ヤコブのような人間の神であられます。神は憐れみの父です。神は真理の神です。主は慈悲の神です。しかしまた、誇りに満ちた者に怒りを注がれ、傲慢な者を砕かれる神でもあられるのです。
父なる神は、民を選ばれ、愛される際、誇りに満ちた者には怒りを注がれ、謙虚な者には憐れみを示されます。父なる神は、ひとり子イエス・キリストのバプテスマと十字架上で流された血とによって人間を救われたことを、人間が知ることをお望みです。
神は民を選ばれます。イエス・キリストの受けられたバプテスマと十字架の血とによってお召しになったお方の義を信じる者には、神が子どもになる恵みをお与えになるということを知っておかなければなりません。みなさんが神の義を知られ、なぜ神がエサウでなくヤコブを選ばれたのかを知る恵みを得、神を正しく信じられることを私は願っております。神は、その義によってヤコブを愛され、神の義を拒んだエサウを憎まれました。
 
 
ほんとうに神の憐れまれる者 
 
<ローマ 9:14-16>それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
神がエサウではなくヤコブを愛されたのは不正でしょうか。違います。神は人間をご覧になって、哀れな者を罪から救われます。ですから、神の憐れまれる者が神の救済の愛を得て、すべての罪から救われ、その民になるのです。罪の赦しを受けて神の民になるのは、神の憐れみを受けているかどうかによるのであって、聖化されるまで努力したからではないのです。
神の御前で罪の赦しを受けるには、自分の考えを捨てなければならないということを知っておかなければなりません。神の御前で自分の考えを捨てなければ、善行によって罪の赦しを受けようと努力するような考え違いをしてしまいます。神の御前で罪の赦しを受けたいと思う者は、自分の考えを捨てなければなりません。そうしてはじめて救済、つまり、神のしてくださった義のみわざを信じることができるのです。これは、罪の赦しを受けたいのなら、自分で努力することをやめ、自分の考えを捨てなければならないということです。自分の考えを捨てると、神のしてくださったことがわかるようになります。
私たちはこれまで何か信仰のうえで努力して救われようとしてきたでしょうか。いいえ。それなら、自分の考えは捨てましょう。神のくださった義の愛を仰ぎましょう。そうすれば、イエスが人類の罪を被られるために受けられたバプテスマ、十字架の血、死、そしてよみがえりが明確に見えるようになります。すると、神の義がはっきりと示されます。
ヤコブのように神の愛を受けたいですか? それなら、自分がヤコブのような人間であることを認めてください。よろしいですか、エサウのような人間は罪から救われないのです。そういう人は神が憐れまれないからです。水と御霊によって来た神の義がみなさんをすべての罪から完全に救うことを信じなさい。
 
 
頑なな者には神の怒りが向けられる 
 
<ローマ 9:17>聖書はパロに「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と言っています。
パロのような人を立ててご自分の全能を人々に示すこともまた、神のみこころです。この世に生きている人々の中で、頑なな心の人は神に逆らって滅ぼされます。しかし、その滅びの様子から、神が生きて働いておられることを人間が見られるようになさいました。ですから、人間にもそれがわかるのです。最近、水と御霊の福音を広めていたしもべを悪く言っていた人が皮膚がんで亡くなりました。
聖書にも、パロが頑なさからイスラエルの民を解放しなかったために、神が紅海の水でエジプト人を溺れさせたという記述があります。また、アシュルとバビロンの軍勢がイスラエル人と戦って国を失ったことについての記述もあります。このように、個人であろうと民族であろうと、神とその民に敵対した者は、みな滅びることになるのです。
心の頑なな人が、神の義を信じなかったエサウやパロのように滅びるのは、神の力です。エサウのような人は神の義を信じないために神に憎まれ、滅びます。心の頑なな者が滅ぼされることから、神の力と、神が生きておられることがわかるのです。神はエサウのような人に怒りの力を示されますが、ヤコブのような人には愛と憐れみを示されます。神はそのようにして、ご自分が生きていることとその力とをいずれの人々にも示されるのです。
これを教訓とし、神の御前で頑なな心をもって滅ぼされるような人間にはならないようにしましょう。神の御前で憐れみを待つ者にならなければなりません。どうして神の御前で心頑なな者になる必要があるでしょう。神の御前で心が頑なであるのは傲慢だからです。私が申しているのは、私たちは高慢になれるほど立派なのかということです。私たちには、神の御前でさえ誇れるようなものが何かあるでしょうか。神は価なしにその義をくださいます。それを信じない、どんな理由があるのでしょう。
神の義は水と御霊の福音に完全に示されています。なぜそれを信じないで神から憎まれなければならないのでしょう。神の義の愛を信じて神の愛をまとう者にならなければなりません。ですから、高慢になって信じないような人間になる必要はないのではありませんか。誰にとっても、神の御前で高慢になって益になることはありません。かえって、神の御前で高慢な者は、神の怒りを受けます。そうすると、そのために神の御名がますます広く知られるようになるのです。
 
 
神は裁きと慈悲をお与えになる
 
<ローマ 9:18>こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。
ここは、誇るべきものをもたない者に神がその義と罪の赦しとをお与えになるということです。神の目からすると、人間にはあまりにも欠けたところが多いため、深く憐れまれるのです。
神の人間へのみこころはどうなのでしょう。神は哀れな者をご自分の愛と憐れみと義とで包まれます。しかし、心が頑なで高慢な者には、その心をますます頑なにして、地獄の罰を下されます。ですから、神の御前で誇りに満ちているような人間ではなく、神の慈悲を求める謙虚な人間にならなければなりません。
神は人間をご覧になるとき、高慢な者と憐れな者の二種類に分けられます。神はみこころのままに行われます。誇りに満ちた者には罰を、哀れな者には義の愛をお与えになります。
神のことを専制的で理不尽で、無思慮で偽りに満ちていると考えてはなりません。神は真理の神です。神は理性・思慮・憐れみ・公正さをもって行動なさることを知っておかなければなりません。
 
 
神の正義を認めて慈悲を求めよ 
 
<ローマ 9:19>すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」
ここで問題になるのは、「神はなぜ、罪の種として生まれた者をその違反のために責められるのか」ということです。実のところは、罪の種として生まれた者であっても、心を謙虚にして神を認め、神の憐れみの愛を信じる者を子供になさって恵みをお与えになり、高慢な者には呪いを下し、謙虚な者に恵みをお与えになることが神のみこころなのだということなのです。ですから、人間に恵みや呪いを下されることが悪いとは言えません。神のなさることは正しいみわざです。神のなさることを誰が争えるでしょう。誰にもできません。なぜでしょう。神のなさることは完全で正しいからです。
人間の目には、誰もみな同じように見えるでしょう。しかしながら、神の目からすると、その愛を着せたくなる哀れな人もいれば、頑なで高慢で、愛ではなく呪いを下したくなる者もいるのです。あまりに哀れな者に憐れみの愛をお与えになるのは神のみこころなのですから、誰にもそれを止められません。また、傲慢かつ頑なで、神の義を受け入れないような人間には、その力で怒りを下されることもまた、誰にも止められません。神のなさることには誰も、抵抗も妨げもできないのです。
 
 
神を責められるか 
 
<ローマ 9:20>しかし、人よ、神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。
ここでは、憐れみを受けるにふさわしい者を神がその義によって憐れまれることの何が悪いのかと尋ねています。「なぜ私をこんなに傲慢な人間にしたのですか」と神に抗議することはできません。もし傲慢な人間がいるのなら、それは神がその人をそのようになさったのではなく、その人が頑なで神の憐れみの愛を受け入れなかったからなのです。
人間は誰も神を呪えません。神がどんな悪いことをなさったでしょう。神が何か不正をなさったでしょうか。絶対にそういうことはありません。神は、罪に陥った人間に罪の赦しの救済の義をお与えになりました。それなのに、神を信じる人間と信じない人間がいるのです。だから恵みを受ける人間と呪われる人間がいるわけです。
それでも、神は公正ではないと言って、神を悪く言う人々がいるのです。これは、神が恣意的に人間をえこひいきなさり、ある者を愛し、別の者を憎まれて、恵んだり呪ったりなさるのだと誤解しているからなのです。しかしながら、神はひいきなさいませんし、不公正でもありません。神はまことに公正ですから、人間のほうが誤解して、神の公正さを理解できずにいるのです。
人間は愛する際に偏見が働きますが、神はそういうことをなさいません。人間は自分たちを神に投影しているから、誤解するのです。父なる神はひとり子をこの世に遣わされ、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けにならせて世の罪を負わせられました。そうして、人類全員を救うための神の義が成就したのです。イエスはバプテスマを受けられ、十字架上で死なれ、よみがえりによって永遠の救い主になられました。神の愛は公正なのですが、人間は自分の頭で考えて誤解して、神を悪く言っているのです。そうした人は悔い改めなければなりません。
 
 
神には物事を公正にする権利がある 
 
<ローマ 9:21>陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利をもっていないのでしょうか。
ここは、神にはあらゆる権利があるという意味です。神に人間を子どもになさる権利がないはずがないというのです。まことに、神には人間を子どもになさる権利がおありです。みこころを受け入れないで敵対する者を地獄に送る権利が、神にはあるということでもあります。もちろん、神にはあらゆる権利がおありです。神のなさることには、みじんも悪い点がありません。何か悪いことがあるとすれば、それは人間の考えや心、信仰でしょう。
人間は誤った信仰をもち、神の義を受け入れずにいて、自分の考えだけが正しいのだと主張します。そうした人の考えでは、毎日悔い改めの祈りをささげ、徐々に聖くなりながら生き、神の子どもとして生を終えて救われるのが正しいということになります。しかし、神のみこころはそうではありません。
神のみこころは、人間が神の義を信じるなら、永遠のいのちを得られるようになさることにあります。父なる神のみこころは、御子をこの世に遣わされ、バプテスマによって世の罪を被らせ、十字架につけさせて、罪人をすべての罪から救うことにあります。それが神の義です。つまり、神の義を信じる者を子どもになさり、信じない者を滅びのしもべになさるのが神のみこころなのです。神は善意とともにあらゆる権威をもおもちです。
 
 
怒りを受ける定めにある者を憐れまれるのは神のみこころ 
 
<ローマ 9:22>ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
神は、ご自分の豊かな栄光と義とをお知らせになって、滅ぼされるはずであった人間を滅びからお救いになりました。人間はもともとみなサタンに欺かれ、そのしもべになっていました。サタンに欺かれてその誘惑に負けた者は、神との交流を失いました。そして、神と敵対するようになりました。神は、そうした者を滅ぼすことになさいました。神の御前で罪のある者や、神に敵対した者は、罪のために地獄の罰を受けることになるだけです。つまり、彼らは罪のために滅びに定められたのです。神はそうした人間に豊かな憐れみの衣を着せ、罪の赦しの恵みをお与えになることになさいました。神はそうした者に寛容に忍耐なさりながら、ご自分の愛で包むことになさいました。
神はその義の愛で人間を包むことになさったのですから、人間には文句を言う理由はありません。かえって、神のすばらしい愛をたたえるべきです。罪人を罪から救うみわざを実行しようと神がお決めになったのなら、人間はみな感謝し、神の栄光をたたえるべきです。神のなさることには誰一人介入できません。たとえ妨げたいと思っても、その権威は人間にはありません。
 
 
神のなさることにはまったく悪いことがない
 
<ローマ 9:23>それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。
神がその義によって罪人をお救いになろうと決められたとしても、誰がそれに不服を唱えることができるでしょう。神の義を信じる私たちは、神が悪いとは言えません。私たちはみな、高潔なみわざをなさる神を敬い、感謝するしかありません。正しいとか悪いとか裁こうなどとは、思いもよらないことです。神の行われる義のみわざを誰がいいとか悪いとか言えるでしょう。神の義を信じる者も、信じない者も、誰にもそういうことはできません。
 
<ローマ 9:24-26> 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。
「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、
愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。
『あなたがたは、わたしの民ではない』と、
わたしが言ったその場所で、彼らは、
生ける神の子どもと呼ばれる。」
アダムの子孫として生まれた私たちは、もともと神の民ではありません。しかし、神の憐れみの愛を受けて神の子どもになりました。私たちはみな神の御前で怒りの器でした。しかし、哀れな者たちを神は憐れみの器とみなされたのです。
神は、子どもになさろうとする者が怒りの対象となることから救われました。神が人間をご覧になったとき、ある者たちはあまりに哀れで、怒りの下から救うしかなかったのです。そこで、憐れみの愛を注がれて人間をご自分の民になさったのです。そのおかげで、神の義をまとった者は信仰によって神の子どもになりました。
人間はもともと神の怒りを受ける定めにありました。ローマ書 11:32 には「なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです」とありますが、私たちは心からこれを信じています。
人間はみな本来は罪の種であり、神に従うことができません。しかし、愛に満ちた神は、不従順な人間に憐れみの愛をお与えになって、すべての人をご自分の民になさいました。ですから、神の義の愛は、神を信じる者だけに与えられているのです。
 
 
イスラエル人のごく少数だけが神の民になったのか 
 
<ローマ 9:27-28>また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。
「たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、
救われるのは、残された者である
主は、みことばを完全に、しかも敏速に、
地上に成し遂げられる。」
たとえ大勢のイスラエル人がいても、終わりの日には、イエス・キリストを救い主と信じる者だけがご自分の民になると、神はおっしゃっています。
それならば、数多くのイスラエル人の中で、ほんの少数だけが怒りから救われて神の民になるということなのでしょうか。そうなのです。ここは、神がイスラエル人のうちごく少数、それに外国人からも少数だけを救われるということなのです。神の怒りを受けるべき大勢の人間の中で、ごく少数だけが神の憐れみを着ることで怒りを免れ、神の民になるのです。
神はみことばをすべて実現なさり、それから、この世を終わりになさいます。神は、怒りを受けるはずの者たちの中から愛と憐れみを注ぐべき者を必ずや見つけ出され、ご自分の義を着せて民となさるみわざを成し遂げられるでしょう。それが終わると、この世の歴史を終わりになさいます。神からの罪の赦しをまとうのなら、神の憐れみを受けられるよう、心を備えなければなりません。
 
 
神はご自分の義を信じる者をこの世に残された
 
<ローマ 9:29> またイザヤがこう預言したとおりです。
「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、
私たちはソドムのようになり、
ゴモラと同じものとされたであろう。」
ここは、神がご自分の憐れみの義を信じる者を残されなかったなら、全世界が罪のために滅ぼされたろうというのです。神は世のすべての人のために、神の義を信じて説く者を残されました。それが水と御霊の福音のみことばを信じている者です。神の怒りを受けるべき罪人であっても、神の義を含む真理を信じて、すべての罪から救われるのです。神の義を説き、神の怒りを受ける定めにある者を罪から救うために働く神の義のしもべ、神はそういう者をみなさんのためにこの世に残されました。
みなさんも他の人々もみな、神の義を信じて説く者を受け入れなければなりません。彼らは神の義の使者なのですから。神がなぜそういう者をこの世に残されたのかを考えるなら、それが自分のためなのだということがおわかりになるでしょう。もともと神の怒りを受けるべく定められている人間は、水と御霊の福音を信じる者を神の使者として受け入れなければなりません。
神が罪人のために神の義を信じる者をこの世に残されたことを、みなさんも他の人々も知り、感謝し、信じなければなりません。神の義のしもべの説く水と御霊の福音を信じる者は、神の怒りから救われています。
 
 
立派な行いをしても神の義を得ることはできない
 
<ローマ 9:30-32>それでは、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょう。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
これまで、イスラエルの民は神の御前で行いによる義を追い求めていました。すなわち、彼らは神の義となられたイエス・キリストを信仰することなく生きてきたのです。ですから、神の怒りから救われることも、神の民になることもできずにいるのです。しかしながら、外国人は律法の義に従うのではなく、神の義を含む水と御霊の福音のみことばを信じて、すべての罪から救われ、神の民になりました。
今この瞬間にも、イスラエル人の信仰と律法の義に従っている外国人は、滅びに定められています。罪から救われていないからです。
今日イエスを信じている人の中で、水と御霊の福音に示された神の義を知らずにいる人は、罪から救われていないために、最後には滅びに臨みます。人間の義と律法主義的義によって神の義に敵対したため、イエスを救い主と信じていても、罪の下に閉じ込められているしかないのです。誰に属するかとは関わりなく、イスラエルの民も外国人もみな、神の民になるには、神の義を信じなければなりません。神の義は水と御霊の福音に完全に示されています。
 
 
神の義を信じる信仰なしにはイエスを正しく信仰できない
 
<ローマ 9:33>それは、こう書いているとおりです。
「見よ、わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く、
彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
父なる神はイエスを天国への道の救い主となさいました。神の義となられたイエスのヨルダン川でのバプテスマと十字架の血とを信じない者は、天国の門をくぐれません。このことを覚えておかなければなりません。
今日、天国に入ることと罪の赦しを受けることを望んでイエスを救い主としている人が大勢います。しかしながら、イエスを信じているのはいいとして、神の義を信じていない人が多いのです。イエスがバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマと、十字架上で流された血とが、まことに信者の救済の義、神の義であったことを知らずにいるからなのです。ですから、信仰において失敗するのです。父なる神は、誰でもイエスを救い主と信じなれるようになさいました。しかし神は、イエスのバプテスマと十字架の血とが神の義を成すのだと知らなければ、その信仰は無益なものになると定めておられます。
ですから、イエスを救い主と信じる者は、神の義を成すイエスのバプテスマと十字架の血とを信じて、はじめてすべての罪から救われるということを心しておかなければなりません。神の義への信仰の内で、神の御恵みがみなさんの上にありますように。
これまで、私は教会と共に働いてきました。神の義を信じるみなさんと一緒に主にお仕えできるようになったことに感謝しております。主に心から感謝いたします。次の著書でもみなさんにお会いできますように。