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説教集

主題 10: 黙示録

[第11章-1] 二本のオリーブの木とふたりの預言者とは誰か (黙示録 11:1-19)

二本のオリーブの木とふたりの預言者とは誰か
(黙示録 11:1-19)
それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上ってくる獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。諸々の民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、言った。
「万物の支配者、 
常にいまし昔います神である主。
あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。
諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。
死者のさばかれる時、 
あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、 
また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、 
地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」       
それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。
黙示録第 11 章は、神のみことばすべてがそうであるように、極めて重要です。神には、この世界を破壊するにあたって事前になさるべき重要なみわざがあります。それは、これを最後としてイスラエル人を収穫することです。神にはまた、イスラエル人と異邦人の双方のためになさることがありました。それは、彼らを殉教させて最初のよみがえりと携挙に加えることです。
聖書ではこれらのことについて総合的な説明をしているので、神による罪の赦しの救済が新約でどのように成就されるかを見つけるだけでよいのです。聖書がこれらの話題について語っているのは、それらを審らかに調べなければ、黙示録に登場する聖徒、神のしもべ、イスラエル人について混乱するだろうからです。
 
 

釈義

 
第 1 節: すると、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。」
ここから、神の恵みによってイスラエル人を罪から救うわざが始まろうとしていることがわかります。ここで「測る」というのは、終わりの時にイスラエル人をその罪から救うために神ご自身が介入なさることを意味します。
第 11 章の本文では、イスラエル人の罪からの救いに焦点を当てましょう。このみことばは、それ以後、水と御霊の福音の福音がイスラエル人に広められて、イスラエル人をイエス・キリストの救済のめぐみによってすべての罪から救われた神の民に変える、神のみわざの開始を示しています。神は終わりの時にイスラエル人に罪の赦しをお与えになるために黙示録第11章を記されました。第 1・2 節の「測り」とは、すべてのことに基準を設けることを意味します。神が聖所を測られる目的は、すでにイスラエル人を救うことをご計画になっておられて、彼らの心に救済を受ける用意ができているかどうかを知ることにありました。もし彼らの心がまだ準備できていなければ、その心が正しくなるように準備するのです。
 
第 2 節:「聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。」
神はサタンに、異邦人を三年半踏みにじる力をお与えになりました。ですから、すべての異邦人は、七年間の大艱難の前半三年半の間に、できるだけ早く心に贖いのみことば、すなわち水と御霊の福音を受けなければなりません。この世界の歴史は、大艱難の前半を過ぎ後半に入ると終わります。じきに、近い将来、すでに罪から救われた聖徒同様すべての異邦人がサタンに踏みにじられる時が来ます。
ですから、異邦人は大艱難の前半三年半が過ぎる前に罪の赦しを得て殉教の信仰を備えなければならないのです。このとき、前半三年半の間、イスラエル人もまた恐ろしい艱難に苦しみます。しかし、彼らもまた、その時にはイエスが救い主である事実を受け入れます。結局、イスラエル人は大艱難の前半三年半の間に罪のすべての赦しを受けます。よろしいですか、神は大艱難の間にさえイスラエル人に罪の赦しをお与えになるのです。
 
第 3 節: 「それから、わたしがわたしの二人の証人に許すと、彼らは荒布を着て、千二百六十日の間預言する。」
神は特に二人の証人をしもべとしてイスラエル人の中から用いられます。神がイスラエル人のために任じられる二人の預言者には、かつての預言者の倍の力が与えられ、彼らのあかしの言葉によって、イスラエル人がイエス・キリストを救い主として受け入れるよう、彼らの中でみわざを始められます。この二人の預言者の働きによって、多くのイスラエル人が真に新たに生まれた神の民となります。
神は、終わりの時にイスラエル人を罪から救うために二人の預言者に奇蹟を行なわせることによって、その預言者たちに導かれるようになったイスラエル人がキリストにもどり、救い主と信じるようになさるのです。この二人の預言者は大艱難の前半三年半、千二百六十日間イスラエル人に神のみことばを説きます。水と御霊の福音をイスラエル人に与えて信じさせることにより、神は彼らに、新約時代の異邦人に信仰によってすべての罪の赦しをお与えになったのと同じ救済をお与えになります。
 
第 4 節: 彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
ここで「二本のオリーブの木」とは、二人の預言者 (黙示 11:10) を指します。それに対して「二つの燭台」とは、神が異邦人の間に築かれた教会とイスラエル人の間に設けられるようになさった教会を指しています。神はユダヤ人と異邦人の両方の間に教会を築かれました。そして、最後の日まで魂を罪から救う働きを続けられます。
「二本のオリーブの木」と「二つの燭台」によって、神は旧約の時代にイスラエル人をその罪から救うために預言者をお立てになって彼らに話しかけ、彼らを通して働かれたように、終わりの時が訪れると、イスラエル人の中から二人の預言者をお立てになり、みことばを説かせ、イスラエル人をイエスに導かせられるのです。
イスラエル人は異邦人出身の神の預言者をまじめに受け止めることができず、神のしもべの言うことを聞きませんでした。彼らはいけにえの制度と旧約の預言についてすべてを知っています。ですから、神は終わりの時の預言者をイスラエル人の間からお立てにならなければなりません。イスラエル人は聖書に通暁しているので、走りながらでもトーラー全文を暗誦できるほどなのです。彼らが異邦人の神のしもべを決して信じないのは、このためです。
しかし、神のしもべは、みなさんや私が今宣べ広めている水と御霊の福音を聞いて、彼ら自身の中から現われます。水と御霊の福音の信者が自分たちの中から出て、神の任じられた二人の預言者が立って神のみことばを説明し、説くと、イスラエル人は初めて信じるようになります。
イスラエル人は、この二人の証人が自分たちを終わりの時に罪から救うために神ご自身が遣わし立てられた預言者であることを知ります。預言者たちは、イスラエル人がよく知り信じている旧約時代のしもべが行使したと同様に強力な力を行使します。ですから、イスラエル人はその目で、二人の証人が実際に起こす強力な奇蹟を見ることになります。そこで、イスラエル人はイエス・キリストにもどり、主を信じます。彼らが私たちと同じようにイエス・キリストを神の御子で救い主であると知ると、同じ信仰をもちます。つまり、水と御霊の福音を信じて彼らもまた救われるのです。
この二人の証人は、七年間の大艱難のうち千二百六十日間、イスラエル人に神のみことばを説明し、糧とさせます。新約の時代の異邦人であるみなさんや私が水と御霊の福音を信じることによって救われたように、神は、イスラエル人もまた、この水と御霊の福音を信じることによって終わりの時に救われるようになさるのです。
第 4 節に「彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である」とあるように、聖書ではこの二人の証人を「二本のオリーブの木」と呼んでいます。「二本のオリーブの木」とは、終わりの時の二人の預言者を指します。第 10 節には、「また地に住む人々は、彼らのことを喜び祝って、互いに贈り物を競い合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである」とあります。ここでは、「二本のオリーブの木」が誰であるかに焦点を絞ってみことばを解釈します。
旧約の時代、オリーブの木は聖域の備品や神殿の祭壇にその油を注いで清めるために用いられました。このオリーブ油は、それ以外にも神殿の灯明をともすのにも用いられました。神殿では純粋なオリーブ油だけが用いられました。神は、神殿で他の油が使われることを許されず、オリーブ油だけが用いられるよう指定なさいました。ですから、オリーブの木は無花果の木同様、イスラエル人を象徴します。
この「二本のオリーブの木」と「二つの燭台」については、さまざまな解釈があります。自分たち自身がオリーブの木なのだと主張する人々さえいます。しかし、「二本のオリーブの木」は油注がれた者を指すのです。旧約の時代、預言者、王、あるいは神官の位に着く者には油が注がれました。このように油を注がれると、御霊がその人の上に下りました。ですから、オリーブの木は聖霊によって孕まれたイエス・キリスト (ローマ 11:24) を指します。この点については、さまざまな誤解があります。
それでも、本文を通して触れられている二人の証人である「二本のオリーブの木」は、終わりの時にイスラエル人の救済のために神が特に立てられるしもべを指します。
第 4 節は、こういうことなのです。そして「二つの燭台」とは、神が異邦人の間に築かせられた教会とイスラエル人が建てるようになさった教会とを指しています。旧約の時代、イスラエル人は本来、神の教会をもっていました。しかし、新約の時代以降、彼らはもはやこの神の教会をもちませんでした。なぜでしょう? 彼らがまだイエス・キリストを認めず、また心に御霊をもたないからです。
水と御霊の福音もイエス・キリストも受け入れないために、神の教会はもはや彼らのもとにはありません。しかし、世界が終末を迎える前、大艱難の前半三年半の間に、神はイスラエル人も教会をもつようになさいます。聖書が二人の証人である「二本のオリーブの木」について語っているのは、このためです。
主はユダヤ人と私たち異邦人の両方のために教会を築かれ、魂を罪から救うわざをなさいます。そして、これらの教会によって、神は反キリストの出現まで魂を罪から救う霊的わざに仕えるようになさるのです。これは、神が聖徒、教会の会員を道具として、罪に迷う魂を救う活動をおさせになるということです。ですから、残された活動に忠実に励むのです。
 
第 5 節: 彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。
神がこの力を二人の預言者にお与えになったのは、彼らが特別な使命を果たすためでした。終わりの時にイスラエル人を悔い改めさせ、サタンに勝利させるために、神は二人の証人を殺そうとする者は自身が傷つくようになさり、みことばの力がこの二人の証人とともにあることを示されます。
ですから、イスラエル人はこの二人の預言者の教えを信じてイエス・キリストにもどります。神が二本のオリーブの木、すなわち二人の証人をイスラエル人に遣わされるのは、終わりの時に彼らが救われるようになさるためなのです。
 
第 6 節: この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。
イスラエル人は、神の任じられたしもべが力を示さなければ悔い改めないでしょうから、神は二人の証人がご自分の力を使うようになさいます。二人の預言者は、イスラエル人をイエスに導くばかりではなく、力で神の敵に打ち勝ち、その使命をすべて果たすでしょう。神が二人に特別の力をお与えになるのは、預言のみことばのすべてをイスラエル人に説かせ、イエス・キリストが彼らが長く待ち望んだ救世主であるとあかしさせ、信じさせるためです。
 
第7節: そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
このみことばは、七年間の大艱難の前半三年半の過ぎた時点で反キリストがこの世界に現われることを示しています。イエス・キリストを待ち望んだ救世主であると信じる人々がついにイスラエル人の中から現れるのは、このときです。しかしその多くは獣、すなわち反キリストとそれに従う人々から信仰を守るために殉教します。神の二人の預言者もまた、その使命を果たしたとき殉教します。
この二人の証人が反キリストによって殺されるのは、神のみこころによるものです。なぜでしょうか? 神は、彼らに殉教者のための報酬をお与えになるおつもりでもあるからです。この報酬とは、最初のよみがえりに加わり、主と共に子羊の結婚の祝宴に臨み、永遠に喜び、永遠の生を受けることです。この恵みをすべての聖徒にお与えになるために、神は彼らが信仰のために殉教することを求められるのです。ですから、すべての聖徒は殉教を恐れも避けもすることなく、確固とした信仰をもって受け入れ、すばらしい報酬を受け取るのです。
 
第 8 節: 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
この句は、「二人の証人」がまさにイスラエル人の中から出ていることを告げています。神がイスラエル人のために用いられる二人のしもべは、異邦人からではなく、イスラエル人自身の中から現れます。ですから、二人の証人はイエスが十字架につけられたのと同じ場所で殺されます。このことは、この二人の証人がイスラエル人であることを明瞭に告げています。イスラエル人にとって、彼らが神のしもべです。
霊的にソドムやエジプトの人々のようであるイスラエル人に、神は二人の預言者を立てられ、彼らに力をお与えになり、イエスがイスラエル人の待ち望んできた救世主であるとあかしさせ、イスラエル人が悔い改めてイエスを信じるようになさるのです。
反キリストは、イエスが十字架につけられたゴルゴタという場所で神の二人のしもべを殺します。反キリストに従う人々には邪悪な霊がついていますから、イエスを信じてあかしする二人のしもべを死ぬほど憎むのです。かつてイエスを十字架につけ、そのわき腹を槍で突いたローマ兵士のように、邪悪な霊をもつ人々はイエスを憎むばかりではなく、神の証人二人をも憎み、殺します。
 
第 9 節: もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。
イスラエル人の中にも、イエス・キリストを救い主であると信じない人々がいます。二人のしもべ (二本のオリーブの木) の肉の死を見て、こうした人々は勝利感に酔い、この勝利感を強めるために、犠牲者を正しく埋葬しようともしません。しかし、彼らの勝利は神が「二人の証人」を再びよみがえらせると雲散霧消し、人々は神を恐れるようになります。
彼らは神のしもべ二人の死を喜び合うでしょうが、それは長くは続きません。じきに反キリストはイエス・キリストの敵ではないことを知るのです。失望とうつろさが彼らを包みます。
人々は、二人の預言者の説く神の予言のみことばを嫌います。二人の神のしもべと敵対するために、彼らはやがて最後の救済の収穫から除外され、サタンに従う者となるのです。
 
第 10 節: また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。
二人が神の予言のみことばを説くと、イスラエル人の救済のために立てられた二人の証人は、サタンに従う者たちにとって厄介な存在になります。そこで、彼らはこの二人の証人の死を喜び、互いに祝って贈り物を贈り合います。
私たちも、煩わしい思いをさせられてきた人がいなくなると喜びます。反キリストとそれに従う人々は、神の任じられた二人の証人がみことばを説くと、それを憎みます。神のみことばを聞くたびに、彼らの霊は苦しみに襲われます。二人の証人がイエスについて話すたびにひどく苦しめられるために、この二人が反キリストによって殺されるのを見て、喜ぶのです。彼らが贈り物を贈り合い、互いに祝うのはこのためです。
 
第 11 節: しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
しかしながら、神は二人の証人を最初のよみがえりに加えられます。このみことばは、主のお与えになった救済のみことばを信じて罪から救われた後、信仰を守るために殉教した聖徒が最初のよみがえりに加わるということのあかしです。
いのちの息が「三日半の後」二人に入るのは、主自身が肉の死からよみがえらせられたように、間もなく彼らをよみがえらせることを示しています。神がすべての聖徒にこの最初のよみがえりの信仰をお与えになったのは、聖徒自身にはすばらしい神の恵みですが、罪人たちは、このことから大きな失望と恐れを抱くようになります。聖徒の最初のよみがえりは神のお約束であり、また彼らの信仰への報酬でもあります。
 
第 12 節: そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。
このみことばは、すべての聖徒のよみがえりと携挙とを指しています。主の預言のみことばを信じ、すべての罪から救われた人々は、信仰を守るために殉教する以外に道はありません。この句は、主がそうしたすべての聖徒をよみがえらせ、携挙なさることを示しています。神への忠実さから殉教した聖徒と神のしもべは、主への信仰のゆえに空中に引き上げられる (携挙) 恵みを受けます。主がお与えくださった罪の赦しを信じて救われた後で殉教することに対して、よみがえりと携挙によって報いてくださる主に感謝せずにはいられません。
父なる神は、反キリストに敵対してイエス・キリストがお与えになった水と御霊の福音を信じて殉教した人々すべてによみがえりと携挙とをお許しになります。このことを信じるのです。聖徒のよみがえりと携挙とは、神のお与えくださった水と御霊の福音への信仰による救済に発する恵みです。終わりの時のサタンとそれに従う人々は、迫害し殺した聖徒たちがよみがえって携挙されるのを目にして、自分たちの努力が水の泡になるのを見ます。
神は殉教した聖徒をよみがえらせられ、携挙なさいますが、まだ地上にいる人々には、その上に七つの鉢の災害を注いで滅ぼされます。このみわざがすばやく完了すると、主は聖徒と共にこの地上に下られ、義人をキリストの結婚の祝宴に招かれます。主はこの祝宴を千年間続けられます。この千年間が過ぎると、主はごく短い間、サタンが底知れぬ所から上がって神と聖徒に対して戦うことをお許しになります。しかしやがてサタンとそれに従う者たちを滅ぼし、裁き、永遠の炎の中に投げ込まれます。それに対して、義人は主の天の御国に入り、共に永遠に生きます。
 
第 13 節: そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため7七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。
神は、イスラエル人の救済のために立てられた二人の預言者の殉教とよみがえり、携挙の後、御使いたちが七つの鉢の災害をこの地上に思うさまに注ぐことをお許しになります。聖徒の携挙の後まだ地上にいる人々は、七つの鉢の災害を贈り物として受けるのです。その時になってはじめて、彼らは恐怖にとらわれ、神に誉れをささげますが、それは何の役にも立ちません。神の愛への真の信仰による行ないではないだろうからです。
この世界が破壊されると、義人は永遠の天国、永遠のよみがえり、永遠の恵みを受けますが、罪人には地獄の永遠の火の中での苦しみだけが待っているのです。誰もが水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けなければならないのは、このためです。罪を贖われた人々は、神が約束なさった新たな世界を信じるので、水と御霊の福音をすべての人に説くのです。
 
第 14 節: 第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。
異邦人とイスラエル人の両方にとって、神の送られる第三の災害は、救われ、殉教してよみがえりと携挙に加わった人々以外のすべての人々を襲うのです。
御使いが第六のラッパを鳴らしてから第七のラッパの音によって七つの鉢の災害が始まるまでの災害は、第二の災いと呼ばれています。七つのラッパの災害は、初期、中期、後期の三つの期間に分けられます。自然災害と反キリストによる聖徒の殉教は、第一と第二の災いになります。それに対して、第三の災いは、世界を完全に破壊する災害です。この第三の災いは、いまだこの地上に残っている罪人の上に注がれる、神の怒りの鉢です。
 
第 15 節:第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」
「天に大きな声々が起こった」というのは、この世界で七つの鉢の災害が始まる時には、罪のすべてから救われていた聖徒としもべとがすでに天国にいることを示しています。ですから、神の民はその時もはやこの世界にはいません。このことを覚えておきましょう。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」
このとき、聖徒は天国で主をたたえますが、七つの鉢の災害が注がれた後で、新たになった地上に主と共に下り、共に千年間この世界を支配するのです。それから、その後で主と聖徒とは新たな天と地で永遠に支配します。
人類を罪からお救いになるために、主はずっと、王として支配するのではなく、しもべとして仕えてこられました。主は、水と御霊の福音を救済と信じる人々に、神の子どもとなる恵みをお与えになりました。主は永遠の王なのですから、主はまたその民に永遠に支配おさせになります。ハレルヤ! 主よ、ありがとうござます。
 
第 16 節: それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、
神はすべての栄光を受けるにふさわしい方です。すべての罪から救われた人々がひれ伏して、礼拝し、神をたたえるのは、いかにもふさわしいことなのです。罪人を救うみわざをすべてなさった主は、たたえと礼拝をすべての聖徒と被造物から永遠にお受けになるにふさわしい方なのです。
 
第 17 節:言った。「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。」
その後、ご自分の民と永遠に支配なさるために、主はサタンに勝利なさり、父なる神から偉大な力をお受けになります。そうして、主は永遠に支配なさいます。主はそうなさるにふさわしい方です。主に栄光あれ。世の罪をすべて消され、水と御霊の福音を信じる者をすべてお救いになり、敵を裁かれた主は、偉大な力を得て永遠に支配なさるにふさわしいお方です。そうして、神の支配権を認める人々はみな、主の偉大な力と愛によって、永遠に神をたたえる栄光に包まれます。
 
第 18 節: 「諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」
七つの鉢の災害が注がれると同時に、霊的に異邦人のままである人々の肉の破壊が起こります。みことばは、その時は神がすべての裁き手としてすべての人を裁かれ、しもべと預言者・聖徒、神をあがめる人々に報われ、敵対し、みこころに従わない者たちを滅ぼされる時であるとしています。主はご自分の権威を認めない者たちの上に怒りの裁きを下されますが、聖徒には共に栄光を受けさせられます。これは、主が善と悪すべての裁き手となられることを意味します。
主が新たに生まれた者の王であり、また、すべての裁き手として御座に着かれると、世の罪人と義人はみな公正な裁きを受けます。このとき、判決として、聖徒には天国で永遠の命をお与えになりますが、罪人には地獄での永遠の滅びと罰とをお与えになるのです。イエス・キリストの権威とその民の支配の恵みは永遠に続きます。最初の世界はこのときに終わり、第二の世界、キリストの御国が始まります。
 
第 19 節: それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。
神は聖徒、義人にご自分の神殿の中に住む恵みをお与えになります。これらすべては、イエス・キリストとともにある人類への神の約束のみことばに従って成就されます。神の御国は神の預言のみことばによって始まり、それはこの預言の成就とともに完了します。
聖徒のよみがえりと携挙、イエス・キリストと共に子羊の結婚の祝宴に参加することと、王として永遠に支配する恵みに至るまで、神のお約束のすべてはイスラエル人と私たち異邦人に等しく与えられています。また、終わりの時にイスラエル人の救済と私たちの救済とを同じように行なわれ、双方をこの期間に殉教させ、同じよみがえりとその後の携挙をお与えになり、同じ栄光に包んでくださいます。 みことばは、イスラエル人と異邦人とは肉においては別々の民であっても、霊的には同じ神の民であると告げているのです。
多くの人々は、新たに生まれた者は七年間の大艱難が始まる前に携挙されると主張し、信じています。しかし、それは違います。聖書に基づいて言えば、七年間の大艱難の前半三年半の間、人々は真の福音を聞いて救われ続けるのです。それから反キリストが現われ、聖徒は殉教し、そのよみがえりと携挙の後にキリストの子羊の結婚の祝宴が続き、聖徒は共に千年間支配することを許されます。
聖徒は、殉教とよみがえり・携挙がいつ起こるかについて正しく知っておかなければなりません。この時を知らずには、混乱のうちに惑い続け、霊的に死にます。
終わりの時についての神の摂理を正しく知る人々は、よみがえりと携挙を待ち望み、勤勉に福音に仕えます。この地上には全く希望がないことを知る人々は、水と御霊の福音を信じて新たに生まれた人々と同じ希望をもつはずです。そして、聖徒は神のみことばを信じて殉教します。
時を見極める信仰は、この時代に不可欠なものです。恐ろしい災害と艱難とが全世界に訪れ、反キリストの出現する時は、すぐそこまで来ています。今こそは眠りから覚める時です。聖徒は大艱難の苦しみのほとんどを経験しなければならないことを心しておきましょう。そして、キリストの再臨、聖徒のよみがえりと携挙、キリストとともに子羊の結婚の祝宴に参加することを信じていることが肝要です。この時代に最もふさわしい信仰をもつには、水と御霊の福音の箱舟に乗らなければなりません。
今のこの時代を知ることによって、みなさんがこの時代に緊急に必要とされ、最もふさわしい信仰をもたれること願い、祈ります。