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説教集

主題 11: 幕屋

[11-9] 全焼のいけにえの祭壇に現われた信仰 (出エジプト記 27:1-8)

全焼のいけにえの祭壇に現われた信仰
(出エジプト記 27:1-8)
「祭壇をアカシヤ材で作る。その祭壇は長さ五キュビト、幅五キュビトの四角形でなければならない。高さは三キュビトとする。その四隅の上に角を作る。その角は祭壇の一部でなければならない。青銅をその祭壇にかぶせる。灰を取るつぼ、十能、鉢、肉刺し、火皿を作る。祭壇の用具はみな、青銅で作らなければならない。祭壇のために、青銅の網細工の格子を作り、その網の上の四隅に、青銅の環を四個作る。その網を下方、祭壇の出張りの下に取りつけ、これを祭壇の高さの半ばに達するようにする。祭壇のために、棒を、アカシヤ材の棒を作り、それらに青銅をかぶせる。それらの棒は環に通されなければならない。祭壇がかつがれるとき、棒は祭壇の両側にある。祭壇は中をからにして板で作らなければならない。山であなたに示されたところにしたがって、彼らはこれを作らなければならない。」
 
 
全焼のいけにえの祭壇
全焼のいけにえの祭壇に現われた信仰について話したいと思います。イスラエルの民が日々の生活の中で守るべき神の律法と戒めの613条のいずれかを破ったとき、および自分の罪を認めたときには、神に定められた「いけにえの制度」に従って、傷のない「いけにえ」を神にささげました。そうした「いけにえ」をささげた場所が、全焼のいけにえの祭壇です。つまり、イスラエルの民は、傷のない「いけにえの動物」の頭に両手を置き、その喉を切って血を流し、その血を全焼のいけにえの祭壇の角につけ、残りを地面に注ぎ、このいけにえの肉を祭壇の上で焼くことによって、罪の赦しを受けていたのです。
 
 

全焼のいけにえの祭壇の霊的な意味とは何か

 
長さと幅の両方が2.25 m(7.5フィート)、高さが1.35 m(4.5フィート)の全焼のいけにえの祭壇は、アカシヤ材でできていて、青銅で覆われていました。イスラエル人はこの全焼のいけにえの祭壇を見るたびに、彼らは自分たちが自分たちのさばきにとらわれて、さばきを免れなかったのは自分たちであることを悟るようになりました。そして、いけにえの動物が死に至ったように、彼らもまた、自分の罪のために死ななければならないことを悟りました。しかし彼らはまた、自分たちの罪のために、メシヤがこの地上に来られ、さばかれ、いけにえのささげ物のように死に至ることによって、罪を消し去ると信じるようになりました。
全焼のいけにえの祭壇は、私たちの救い主イエス・キリストの影でした。傷のない動物が按手と血を流すことによって、いけにえにされたように、イエス・キリストは神の御子として私たちのところに来られ、私たちのすべての罪の罰をお受けになりました。旧約聖書のいけにえのささげ物が、按手と血を流さなければならなかったのと同じように、イエスはヨハネからバプテスマをお受けになってご自分に移された世の罪を受け入れられ、十字架で血を流すことによって、こうした罪の罰をお受けになりました。
 
 
イスラエル人は罪を赦されるために、全焼のいけにえの祭壇でいけにえのささげ物をささげなければならなかった
 
レビ記第 4 章を見ると、油注がれた祭司、イスラエルの全会衆、統治者、または一般の人々が罪を犯したときはいつでも、神に対するいけにえのささげ物を連れて来て、その頭の上に両手を置き、それを殺して、血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇に携えて行って、神にささげることによって、罪の赦しを受けていたことがわかります。
実際のところ、この全焼のいけにえの祭壇は、イスラエル人が毎日罪のためのいけにえをささげる場所だったので、忙しくない日は一日もありませんでした。自分たちの罪を取り除こうと思ったイスラエル人は、傷のない動物を準備し、それを彼らのいけにえのささげ物として、全焼のいけにえの祭壇の上で神にささげました。罪人は、いけにえの動物の頭の上に手を置いて、すべての罪を移し、罪のさばきとして、その喉を切り裂いて血を取りました。すると、祭司はいけにえのささげ物の血を全焼のいけにえの祭壇の角に塗り、その肉と脂肪を祭壇の上で焼いて煙にしました。このようにして、イスラエルの民は、罪の赦しを受けたのです。
罪人やその代表者たちは、いけにえの頭の上に手を置いて殺し、全焼のいけにえの祭壇の角に血を塗り、残りの血を地面に注ぎ、それによって彼らの罪を赦す「いけにえのささげ物」の脂肪を燃やして煙にしなければなりませんでした。したがって、多くの人々は、いけにえの動物を全焼のいけにえの祭壇に連れて行き、いけにえの頭の上に手を置き、血を取り、それを祭司に渡さなければなりませんでした。
いけにえが全焼のいけにえの祭壇でささげられたとき、これらのいけにえのささげ物は傷がないものでなければなりませんでした。そして罪人が神にいけにえをささげるとき、彼らは傷のない動物を神の前に確実に連れて来る必要があり、そしてこうした傷のないいけにえの頭の上に手を置くことによってのみ、彼らの罪は動物に移されたのです。そのように、いけにえのささげ物をささげるとき、何も省略されることができませんでした。
通常、罪を犯した人は自分のいけにえの動物の頭の上に自分の手を置かなければなりませんでしたが、イスラエルの全会衆が罪を犯したとき、その代表的な長老たちは、いけにえのささげ物の上に手を置きました(レビ記 4:15)。もちろん、頭に手を置かれた「いけにえの動物」は、その喉を切られ、血を取られることによって殺されなければなりませんでした。そして最後に、祭壇の上で焼いて煙にされなければなりませんでした。
そのため、全焼の肉、脂肪、木の煙が常に全焼のいけにえの祭壇の周りの場所を満たし、その角とその下の地面はすべて、いけにえの動物の血に浸されていました。全焼のいけにえの祭壇は、イスラエルの民の罪を清めるためにいけにえのささげ物が神にささげられた罪の赦しの場所でした。
煙が常に立ち上っていた、この全焼のいけにえの祭壇は、長さと幅がともに2.25 m(7.5フィート)の正方形で、高さは1.35 m(4.5フィート)でした。青銅の網細工の格子がその中央に置かれ、その網細工の上で薪の火で焼かれた「ささげ物」から絶え間なく煙が立ち上りました。このように、ささげ物が焼かれ、神にささげられた場所は、全焼のいけにえの祭壇でした。
 
 
全焼のいけにえの祭壇の用具はすべて青銅でできていた
 
全焼のいけにえの祭壇の用具は、灰を取り除くために用いられ、すべて青銅でできていました。全焼のいけにえの祭壇そのものは、アカシア材の上に青銅を覆うことによって作られたので、祭壇とその用具はすべて青銅でできていました。
この全焼のいけにえの祭壇の台座は、明確な霊的意味があります。台座は、神の前で罪のさばきを指します。このように、全焼のいけにえの祭壇は、罪深い者が最も確実に罪を裁かれることを、私たちに明確に示す場所なのです。神は必ず罪のために人々を罰されます。いけにえのささげ物が罪人に代わって焼かれ、さばかれた場所とは、この全焼のいけにえの祭壇であり、祭壇自体とその用具はすべて青銅でできていました。そのように、こうしたことから、あらゆる罪には必ずそのさばきが伴うことがわかります。
祭壇とは、罪のために人々は罰されて死に至らざるを得ません。しかし、全焼のいけにえの祭壇に連れて行き、それを神にささげることによって、いけにえの動物をいけにえの祭壇のところに連れてきて、それを神にささげることによって、彼らは罪を洗い流され、罪の赦しを受け、再び生きることができることを示しています。ここで、全焼のいけにえの祭壇で犠牲にされた、いけにえはすべて、イエス・キリストのバプテスマと血が信者の罪を赦していることを私たちに告げています。ですから、全焼のいけにえの祭壇でいけにえのささげ物をささげたこの信仰とは、イエス・キリストのバプテスマと血への信仰として新約聖書の時代まで続いています。
イエス・キリストを救い主として信じるとき、私たちは罪の赦しとしてイエスのバプテスマと血を信じる信仰を神にささげなければなりません。旧約聖書で、この信仰とは、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍された幕屋の庭の門が開いて、入る信仰から来ています。
 
 
全焼のいけにえの祭壇で犠牲になった、すべてのささげ物はイエス・キリストを象徴する
 
十字架
イエス・キリストがこの地上に来られたとき、イエス・キリストは何をなさったでしょう。私たちは罪深かったし、神に対して罪を犯し、神の律法と戒めを破りました。しかし、私たちのこうしたすべての罪を消し去るために、イエス・キリストはヨハネからバプテスマをお受けになり、それによって自分の世の罪を負われ、それによって十字架で血を流されました。
いけにえのささげ物がイスラエル人の罪を負われ、按手でその上に罪を渡されたイスラエル人の罪を負われ、それによって殺され、全焼のいけにえの祭壇で焼かれたように、イエス・キリストが傷のない「いけにえのささげ物」として、この地上に来られ、バプテスマをお受けになったので、イエスは十字架で犠牲の血を流され、私たちの代わりに十字架で死ぬことがおできになったのです。主は私たちが罪のために裁かれる代わりに、イエスの手足の両方を釘づけにされ、その血を流されることによって、私たちのためにすべての罪の罰をお受けになりました。このように、イエスは私たちをすべての罪と罰から救ってくださいました。
この全焼のいけにえの祭壇の真の実体となられたイエス・キリストは、この地上に来られた時に何をなさったのでしょう。イエス・キリストは、バプテスマで私たちの罪をすべて負われ、十字架につけられて死なれ、そして死者の中からよみがえられ、私たちをお救いくださっています。私たちの主はこの地上に来られ、私たちのある救済を完成なさり、それから天の御国に昇天なさいました。
 
 
毎日罪を犯さずにはいられない私たち
 
全焼のいけにえの祭壇にはまた、「昇る」という意味もあります。実際のところ、みなさんも私も毎日罪を犯します。したがって、私たちはいつも神にいけにえのささげ物をささげていなければなりません。そのために、罪の罰の煙が常に神へと立ち昇っています。いったい、罪を犯さずに完全に生きられるような日があるでしょうか。イスラエル人のいけにえのささげ物は、祭司たちがイスラエル人の無数の罪を赦し、もはやそれを実行できなかった、そうした「いけにえのささげ物」をささげることに疲れ果ててしまうまで、継続的にささげられました。イスラエルの民は毎日律法を破って、神に対して罪を犯したので、毎日いけにえのささげ物をささげなければなりませんでした。
イスラエルを代表するモーセは、イスラエル人に神の律法の613条と戒めを伝えました。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである」(出エジプト記 19:5-6)。 
すると、イスラエルの民は次のように約束しました。「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます」(出エジプト記 19:8)。ですから、イスラエルの民は、モーセの前に現われた神、モーセを通して語られた、この神を真の神として認め、信じたいと思っていました。そして、この神に守られたいと思ったのです。神が自分たちに語られたことをすべて守ることによって、神の特別な宝であるだけでなく、祭司の王国、神に属する聖なる国になろうと望んでいました。そのように、神がお与えになった戒めをすべて守ろうとしたのです。
神は、イスラエル人が罪を犯すことをすでにご存じだったのでしょうか。もちろんです。神がモーセをシナイ山に召され、啓示によって幕屋を示され、その形式を詳細に示され、それを建てるようにお命じになって、指示どおりに建てさせたのは、このためです。神はまた、幕屋でいけにえをささげられることになる「いけにえの制度」を定められました。
イスラエルの民が神に罪のためのいけにえをささげようとするときは、傷のない雄牛、羊、やぎ、山鳩または鳩を連れて来て、わずかな例外を除いて、いけにえのささげ物の頭の上に手を置いて、その上に罪を確かに移さなければなりませんでした。それから喉を切って血を取り、それを祭司に渡しました。その後、祭司はその血を取り、全焼のいけにえの祭壇の角に塗り、残りの血は地面に注ぎ、いけにえのささげ物を部分に切り分けて、祭壇の上に置き、そして焼いて神にささげました。
イスラエル人は、このようにして罪を赦されることができたのです。ささげ物が焼かれたとき、彼らはその肉だけでなく、その内臓と肝臓から脂肪をすべて取り除いて焼かなければなりませんでした。このようにして、神はイスラエル人の罪を赦されたのです。
 
 

すべての罪の赦しを受ける方法

 
自分自身を見ると、いつも罪を犯さずにはいられないことを認識します。私たちは、いつも罪を犯して生きています。弱いから、あまりに多くの欠点があるから、貪欲すぎるから、あるいは力が強すぎるからといった、さまざまな理由で無数の罪を犯します。イエスを救い主として信じる人々でさえ、罪を犯さない人はいません。
神を信じているにもかかわらず、いつもこのように罪を犯している私たちが、こうしたすべての罪を洗い流されて救われる唯一の方法とは、イエス・キリストのバプテスマを信じることです。イエスは、水と血とによって来られた神であられます(Ⅰヨハネ 5:6)。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を通して、全焼のいけにえの祭壇のいけにえのささげ物として、この地上に来られました。このイエスがバプテスマをお受けになって私たちの罪を負われ、十字架で血を流されて死なれることによって、罪から来る報酬を支払ってくださったのに、どうして信仰によって罪の赦しを受けることができないのでしょう。メシヤであられるイエス・キリストの救済のおかげで、みなさんと私は信仰によって罪の赦しを一度に受けることができました。
確かに私たちはいつも罪を犯していますが、イエス・キリストがこの地上に来られたときに成就なさったバプテスマと血による救済のおかげで、私たちは罪のすべてから解放されることができました。私たちの主は、バプテスマによって私たちの罪を負われ、世の罪を十字架まで運ばれ、十字架につけられ、それによって私たちをすべての罪からお救いくださったのです。私たちの罪のためにバプテスマをお受けになり、磔刑で私たちの罪の罰をお受けになって、死者の中からよみがえられて、この真理を信じる私たちをお救いくださっています。私たちは罪のために滅ぼされることを免れなかったのですが、イエスが青色、紫色、緋色の撚り糸を通して与えてくださっている救済とあわれみのおかげで、みなさんと私は信仰によって救われています。つまり、神は私たちを罪から救っておられるのです。私たちが罪から救われているのは、神を信じることによってなのです。これは、全焼のいけにえの祭壇が私たちに示しているものです。
幕屋の内側はすべて美しかったのだと思うかもしれませんが、実際にその庭に入ったとしたら、思いがけない嫌な光景に出くわすことでしょう。長方形の形をした全焼のいけにえの青銅の祭壇は、いつでも煙と炎を噴出していて、恐ろしいでしょう。青銅の祭壇は罪人を待っていて、その地面は血に染まっていて、誰もがこれが罪を罰するための場所であることを悟るでしょう。この場所が、いけにえのささげ物が毎日ささげられている場所だったように、みなさんは全焼の肉と木の悪臭に圧倒されるでしょう。
全焼のいけにえの祭壇の下で、血が川のように流れていました。イスラエル人が罪を犯すときはいつでも、いけにえの動物を幕屋に連れて来て、手を置いて罪をその上に移し、喉を切り、血を取って、この血を祭司に渡しました。祭司は、血を全焼のいけにえの祭壇の角に塗り、残りを地面に注ぎました。
その後、ささげ物を部分に切り分け、腎臓と脂肪とともに、その肉を網細工の格子の上に置いて焼きました。血が取られると、最初はかなり流動的で、赤く流れます。しかし、しばらくすると、凝固して、べたつくようになります。みなさんが実際に幕屋に入ったとしたら、この恐ろしい血を目にしたことでしょう。
イスラエルの民が神の戒めを破ったときはいつでも、全焼のいけにえの祭壇を通して、自分が祭壇の上のいけにえのささげ物と同じように死ぬべきだと認めました。なぜでしょうか。神が彼らと血によって契約を結ばれたからです。「あなたがたがわたしの律法に従うなら、あなたがたはわたしの民、祭司の王国となるが、守ることができなければ、いけにえのささげ物が殺されるように、死ななければならない。」神は、このように血の契約を結ばれたのです。そのため、イスラエル人は、罪を犯して律法を破ったなら血を流さなければならないという事実を受け入れました。
実際のところ、イスラエル人だけでなく、神を信じる者も、罪のためにいけにえの血をささげなければならないのです。それは、神の前で罪を犯し、そのために心に罪があり、それがどんなに小さくても大きくても、結果として、この罪の罰に直面しなければならないことを示しています。罪から来る報酬は死であるという、さばきの律法は、神の前ですべての人に適用されますが、実際に神のさばきを恐れて、神のいけにえの制度に現わされた神の救済の律法に身を委ねようとする人はそれほど多くいません。
全焼のいけにえの祭壇は、罪から来る報酬は死であると定めた律法によれば、イエス・キリストが幕屋の庭の門に現わされた青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を通して、私たちを罪と罰からお救いくださっていることを告げています。いつも罪を犯し、罪のために罰されなければならない私たちのために、キリストは人の肉のかたちで、この地上に来られ、ヨハネからバプテスマをお受けになることによって、私たち人類の罪をすべて負われ、こうした世の罪を十字架まで運ばれ、十字架につけられ、そこで血を流され、はなはだしい苦痛と痛みを受けられ、ご自身を犠牲となさり、それによってみなさんと私をすべての罪からお救いくださっています。
みなさんと私が信仰によって救われることができたのは、キリストがご自分のからだを犠牲になさって、それによって私たちをお救いくださっているからです。つまり、罪のために死を免れなかった人々のために、イエス・キリストがバプテスマによって罪をすべてご自身に負われ、十字架につけられて死なれ、死者の中からよみがえられ、それによってすべての罪と罰からお救いくださっているのです。
この全焼のいけにえの祭壇を見ると、この信仰をもつようになります。いけにえのささげ物がいつも祭壇でささげられていたのを見ると、日々の罪のために死ななければならなかったのは私たちであるにもかかわらず、神は私たちをいけにえのささげ物に変えることはせず、代わりに私たちの主ご自身がこの地上に来られ、私たちの救いを成就なさったのだということを認識し、信じることができるのです。バプテスマをお受けになり、十字架で血を流され、死者の中からよみがえられて、イエスは私たちをお救いくださっています。
 
 
神は律法だけによって私たちを扱っておられない
 
神がみなさんと私、ならびにイスラエルの民全員をただ律法に従って裁かれたとしたら、この地上でまだ何人が生きているでしょう。神が律法だけで私たちを測られ、裁かれるなら、私たちの誰ひとり、一日も生きることはできなかったでしょう。私たちの大多数は、24時間も生き残ることはできず、ほんの数分で死んでしまいます。わずか1時間で死ぬ人もいれば、10時間生き延びる人もいるでしょうが、その違いはわずかです。いずれにせよ、私たちはみな死ぬことになります。人々は、現在のように60歳、70歳、80歳、さらにそれ以上に達するほど長く生きることはできないでしょう。あっという間に、誰もがさばかれます。
今朝何が起こったか考えてみてください。みなさんの息子さんは一晩中パーティーを続けて、ベッドから出ようとしません。みなさんの奥さんがみなさんを起こそうとしています。叫び合いが続き、みなさんの息子さんが母親に起こされたことで、母親に怒鳴り、みなさんの奥さんは、息子さんの母親を怒鳴ったことで息子さんに怒鳴って、叫び合いが続いて、それによって朝の戦いが始まります。結局、ここで母と息子の両方が神の前で罪を犯し、どちらも一日ももちません。彼らは二人とも、この罪のために罰されるからです。
しかし、神は正しい律法だけによって私たちを扱っておられません。「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない」(詩篇 103:10) 
義の律法によって裁かれるどころか、神は代わりに、この義の律法を成就なさるために、私たちに代わる「いけにえのささげ物」を備えてくださいました。このいけにえのささげ物の上に手を置いて、その上に罪を移すようになさって、そして私たちの命の代わりにこのいけにえの血を神にささげるようになさって、神は私たちの命でなく、いけにえのささげ物の命を受け入れられ、私たちとイスラエル人の罪を含む人類のすべての罪を赦され、私たちをすべての罪からお救いになり、再び生きるようになさっておられます。信者たちを罪から救うことによって、神は彼らをご自分の民となさっておられます。このようにして、神はイスラエルの民を神の御国の祭司になさったのです。
ここでのいけにえのささげ物とは、イエス・キリストにほかなりません。私たちの罪のために、イエス・キリストがこのいけにえのささげ物となられ、罪の罰を受けようとしていた私たちをお救いくださるために、バプテスマによって私たちの罪をすべて負われ、十字架で血を流して死なれました。私たちを罪からお救いになるために、父なる神のみこころに従って、神のひとり子がこの地上に人の肉のかたちで来られ、バプテスマによって「いけにえのささげ物」となられたのです。ヨハネから受けたバプテスマによって人類の罪を負われ、そうした世の罪を十字架まで運ばれ、十字架につけられて血を流され、それによってご自身をいけにえとなさり、死なれ、死者の中からよみがえられて、イエスはみなさんと私を完全にお救いくださっています。
イエスが身代わりとなってバプテスマをお受けになり、十字架につけられ、三日目に死者の中からよみがえられたという救済のみことばを聞くと、私たちの心は大いに躍ります。罪のない神は、私たちの代わりに、すべての罪をご自分の移すバプテスマをお受けになったので、そうした罪から来る報酬として、あらゆる迫害、しいたげ、痛み、苦しみ、そして最終的には死に至りました。そもそもすべてが私たちのものであったはずです。それによってキリストが私たちを罪から救われたのに、この真理を信じないことほど悪意のあるものはありません。
 
 
青色、紫色、緋色の撚り糸を通して成就された救済を信じなければならない
 
青色、紫色、緋色の撚り糸を通して成就された救済を信じなければならない
イエス・キリストが私たちのためにバプテスマを通して私たちの罪とその罪の罰を負われたとき、そしてイエスが私たちの代わりにご自分をいけにえとなさって、みなさんと私を罪からお救いくださったとき、私たちはみな、「主よ、感謝します」と言わなければなりません。多くの人は、愛の物語、人生の物語、またはあらゆる心のこもった物語に触れることによって容易に刺激を受けますが、神の無条件の愛に対する彼らの心の場合、氷のように冷たいです。主が私たちのためにバプテスマをお受けになり、十字架で血を流されたほどに、主の恵みは非常に偉大なのに、この恵みに気づかず、感謝することのない獣のような人々がいまだに存在します。
神の御子イエス・キリストがこの地上に来られ、私たちのためにいけにえのささげ物となられました。イエスは、バプテスマによって私たちのすべての罪をご自分のからだに受け入れられ、十字架でご自分のからだをささげることによって、ご自身をいけにえとなさいました。イエスは、すべて私たちのために、侮辱され、裸にされ、迫害され、虐げられました。このようにして、主は私たちを救っておられるのです。私たちが神の子どもになっているのは、この真理を信じることによってなのです。これは、言葉では表現できない、神の偉大な恵みであり、すべての最も偉大な啓示です。このようにしてキリストが私たちをお救いくださっているのに、多くの人々がまだそれを聞いた後でも神を信じておらず、感謝していないのを見ると、私は深く悲しみます。
みなさんと私がすべての罪から救われているのは、イエスがこの地上に来られ、バプテスマをお受けになり、ご自身をいけにえとなさったからです。したがって、イザヤ書 53:5 には、次のようにあります。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
私たちは生涯を通して罪を犯します。私たちの主は、すべての罪、さばき、滅び、呪いから罰されることを避けられなかった私たちをお救いくださるために、天の御国の御座を捨て、この地上にまで降りて来られました。ヨハネの前にご自分の頭を垂れて、バプテスマをお受けになり、そうした罪を十字架まで運ばれ、大いに苦しみを受け、心臓の血をすべて地面に流され、死者の中からよみがえられ、私たちの救済の真の神になっておられます。
みなさんはこの事実について考え、それを心の奥深くに保つでしょうか。みなさんがみことばを聞くとき、イエス・キリストが確かに人の肉のかたちでこの地上に来られ、バプテスマをお受けになり、十字架につけられて死なれ、ご自分の民を罪からお救いくださるためによみがえられたということを信じるべきであり、大いに刺激されるはずなのは、当然のことです。私たち全員が地獄に定められていることを悟るなら、この救済がどれほど刺激的であり、どれほど感謝しているかを心の奥深くに悟ることができます。私たちは神を信じて神の民になりたかったのですが、これを達成する方法はありませんでした。しかし、罪の赦しをほんとうに求めたみなさんと私のために、キリストがこの地上に来られ、バプテスマをお受けになり、十字架で死なれ、そして三日目に死者の中からよみがえられたという真理のみことばで会ってくださっています。
イエスのいけにえがなかったら、どうして救済を受けることができたでしょう。決してできませんでした。イエスのバプテスマと十字架の血でもなく、幕屋に現われた青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布による救済でもなかったなら、救いは私たちにとって真夜中の夏夢に過ぎなかったでしょう。イエスのいけにえがなかったら、私たちは決して罪から解放されず、罰を免れることはできず、地獄の永遠の火の中に投げ込まれ、永遠に苦しんでいたでしょう。しかし、旧約聖書のいけにえのささげ物と同じように、キリストは私たちのためにご自身をいけにえとなさることによって、私たちをお救いくださっています。
 
 

新約聖書で成就された青色、紫色、緋色の撚り糸の救済

 
愛する読者のみなさん、幕屋に用いられた青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布による真理を決して忘れてはなりません。撚り糸で織った亜麻布は、ずっと昔から神ご自身が私たちの救い主として私たちのところに来られることを約束なさったみことばである、旧約聖書と新約聖書のみことばであり、このお約束に基づいて、イエス・キリストはこの地上に来られたのです。青色の撚り糸は、この地上に来られたキリストがバプテスマを通してすべての罪を負われたことを告げています。つまり、キリストは私たちを罪からお救いくださり、罰から救い出すという約束にしたがって、バプテスマをお受けになりました。私たちの罪とこの世のすべての人の罪をご自身に負われるために、イエスはヨハネからバプテスマをお受けになり、確かに世のすべての罪を負われたのです。イエスが私たちのいけにえのささげ物として来られ、バプテスマによって罪をすべて負われたことを忘れるなら、救済はなかったために、このことを決して忘れてはなりません。
多くの場合、私たちは自分自身に大きな自己重要性をつけ加えて、この世界に住んでいます。人々の心は、他の誰かが自慢しているのを聞くと堪えられませんが、それにもかかわらず自慢するのが大好きです。しかし、私は自分自身についてではなく、他の誰かについて自慢し始めたある時が来て、これは私が青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を通してお救いくださった、イエスに感謝するようになった時でした。つまり、私はイエスについて自慢するようになりました。さて、私はイエスがこの地上に来られ、私たちの罪を消し去るために、バプテスマによって私たちの罪をすべてご自身に負われ、イエスのバプテスマのゆえに十字架につけられることがおできになり、このようにして主が私たちをお救いくださっていることを、できるだけ頻繁に伝え、自慢します。私はこの真理を自慢し、宣べ伝え、神にすべての栄光をささげることを忘れません。
しかし、イエスを信じていることを告白しているにもかかわらず、
バプテスマを省略しながら、みことばを宣べ伝える人、あるいはイエスの御名を借りることによって、自分たちを自慢する人があまりに大勢います。自分の生計に月300ドルしか費やさなかったと主張する偽牧師がいました。それが素晴らしい成果であるかのように、彼は月額300ドルで十分に稼ぐことができるという自慢を使って、その会衆が彼のすべての費用を支払うので、彼は旅行中にお金を取る必要はありません。 しかし、信者のお金はどういうわけかお金ではないのでしょうか。彼自身のお金だけが重要でありながら、このお金は何の意味もないのでしょうか。このキリスト教徒の指導者は、自分が何かを必要とする時はいつでもただ祈るだけでよいと主張しました。「神様、私の旅費をまかなってください。主よ、あなたを信じています。」 この祈りをもって、何人かの聖徒たちが飛び出して、彼にたくさんの現金を与えたと、彼はあかししました。まるで自慢するものであるかのように、こういうことを言うような人々を見て、みなさんは何を連想しますか。
マタイの福音書 3:13-17 には、次のようにあります。「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』 ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』 そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」 この節は、イエスがバプテスマをお受けになったときに何が起こったかを説明しています。イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって、水から出られたとき、天国の門が開かれ、父なる神の声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 バプテスマのヨハネは、その時にびっくりしました。
バプテスマのヨハネは、このヨルダン川で二回驚きました。イエスが自分のところに来られ、自分からバプテスマを受けることを望まれた時に、ヨハネは最初に驚きました。そして、イエスにバプテスマを授けた後、天国の門が開かれ、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と告げる父なる神の御声を聞いたときに、またびっくりしたのです。
イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになった理由は何でしょう。ここのマタイの福音書 3:15 が答えを与えてくれます。15節と16節をもう一度読んでみましょう。「ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』 そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」
マタイの福音書 3:15 は、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになった理由を告げています。イエスは、天の御国の大祭司であられ、神のひとり子であられても、それにもかかわらず、神の民である私たちを罪からお救いくださるために、この地上に来られたのです。つまり、イエスは私たちの罪を負われ、私たちの身代わりとなって、ご自分をいけにえとなさって、そうした罪から来る報酬を支払う「いけにえのささげ物」として、この地上に来られました。イエスがヨハネからバプテスマをお受けになろうとしたのは、このためです。
しかし、なぜイエスはバプテスマのヨハネ以外の人からバプテスマをお受けにならなかったのでしょうか。バプテスマのヨハネが女から生まれたすべての人々の中で最もすぐれた人だったために、彼は人類の代表者だったからです。マタイの福音書 11:11 には、次のようにあります。「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」 バプテスマのヨハネは、旧約聖書の時代からマラキ書で預言された神のしもべでした。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」(マラキ 4:5)。バプテスマのヨハネは、神が遣わされると約束なさった、まさにこのエリヤでした。
神は、なぜバプテスマのヨハネをエリヤと呼ばれたのでしょう。エリヤは、イスラエル人の心を神に立ち返らせた預言者でした。当時、イスラエルの民はバアルを神として拝んでいましたが、エリヤは、真の神がバアルかエホバ神か、誰であるかをはっきりと示しました。彼は信仰といけにえのささげ物によって、本当に生きておられる神をイスラエルの民に示し、それによって偶像を拝んでいた彼らを真の神に導いた預言者でした。旧約聖書の終わりに、神が「預言者エリヤをあなたがたに遣わす」と約束なさったのは、このためです。神のかたちに造られたすべての人間は、偶像礼拝と悪魔崇拝という間違った道を歩んでいたので、神は彼らに神のもとに導くしもべを遣わすとおっしゃいました。こうして来られるだろう人とは、バプテスマのヨハネです。
「ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」 この来たるべきエリヤとは、バプテスマのヨハネにほかなりません。11節と12節には、次のように記されています。「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」
ですから、ここで「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」と告げているのは、神がすべての人類の代表としてバプテスマのヨハネを立たせたことを意味します。 神はバプテスマのヨハネを、イエスの誕生の六ヶ月前にこの地上に生まれさせました。そして神はヨハネを旧約聖書の最後の預言者、そして祭司として備えてくださいました。したがって、地上の大祭司として、バプテスマのヨハネはイエス・キリストにバプテスマを授け、それによって人類のすべての罪をイエスに移しました。つまり、バプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授けたのは、世の罪をすべてイエスの上に移すためでした。イエス・キリストがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったのは、バプテスマを通して人類の罪をすべてご自身に負わせるためだったのです。
イエスがマタイの福音書 3:15 で、次のようにおっしゃったのは、このためです。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」 イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって、世の罪をすべて受け入れたときにのみ、すべての正しいこと(義)が実行されることができたので、イエスはそれがふさわしいとおっしゃったのです。
 
 
私たちの主はこのようにしてこの方法で罪人を救っておられる
 
イエスのバプテスマ
イエスがヨハネからお受けになった、このバプテスマは、旧約聖書の按手と同じです。言い換えれば、旧約聖書の時代に、人の罪をいけにえのささげ物に移すために、全焼のいけにえの祭壇の前で行われたのは、按手だったのです。この地上に来られ、バプテスマをお受けになることによって、イエス・キリストは按手の約束を成就なさいました。罪人がいけにえのささげ物の上に手を置いて、その上に自分の罪を移した日ごとのいけにえがささげられたときはいつでも、そして、大いなる贖罪の日である第七の月の十日、年ごとのいけにえがささげられたときはいつでも、それを通して大祭司は、いけにえの頭の上に両手を置くことによって、すべてのイスラエル人のその年の罪の代価をその上に移しました。
旧約聖書の按手のように、イエスはバプテスマをお受けになって、世の罪をすべて受け入れられたので、こうしたすべての罪を洗い流され、そしてイエスは人類のそうした罪を負われたので、私たちの身代わりとなってこれらの罪の罰をお受けになり、ご自身をいけにえとなさいました。このようにして、イエス・キリストは私たちの救済の真の神になることがおできになったのです。
そのように、私たちは自分の罪のため、私たちは死に直面し、罰されることを免れることができなかったことをほんとうに認めなければなりません。これを知り、感じなければなりません。そして、私たちの救い主イエス・キリストがこの地上に来られ、私たちのためにご自身をいけにえとなさってお救いくださっていること――つまり、イエスのバプテスマ、磔刑、よみがえりによる救済のみわざを通して、イエス・キリストが私たちの罪をすべて洗い流され、罪から完全にお救いくださっていることを認識しなければなりません。また、イエスが私たちに救済の賜物をくださったこと、イエスが私たちの救済を成就なさり、この完成した救済を私たちへの贈物としてお与えくださったことも信じなければなりません。イエスはすべての正しいことを実行なさっておられるので、もし信じるだけなら、そして受け入れるだけなら、その人は確かに救われるでしょう。
これを私たちに認識させるために、幕屋の庭の門は、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍されていました。幕屋の庭の門を開けて入るなら、最初に全焼のいけにえの祭壇に出くわすのは、このためでもあります。全焼のいけにえの祭壇でささげられた「いけにえ」はまた、それによってイエス・キリストが私たちをお救いくださる救済の啓示でもありました。全焼のいけにえの祭壇でいけにえとなったささげ物は、按手によって罪人の咎を受け入れ、罪人の身代わりとなって血を流して死ななければなりませんでした。それから、いけにえのささげ物の血が祭壇の角に塗られ、残りは地面に注ぎかけられました。その後、彼らは全焼のいけにえとして祭壇の上に動物の肉と脂肪をささげました。これらは、いけにえのささげ物が神にささげられた方法でした。いけにえのささげ物のこうしたすべての特徴は、イエス・キリストが私たちの救い主となっている方法とまったく同じです。つまり、いけにえのささげ物を通して、神は、イエス・キリストがこの地上に来られ、このように私たちをお救いくださることを示されたのです。
間違いなく、罪人の手は、全焼のいけにえの祭壇でささげられた「いけにえの動物」の上に置かれなければなりませんでした。幕屋が水と御霊の福音について語っているのは、このためです。イエス・キリストは、この地上に来られ、人類の罪をご自身に負われるためにバプテスマをお受けになりました。バプテスマとは、キリストが父なる神の前で世のすべての罪人のためにいけにえのささげ物となるために受けた救済の対型なのです。
この幕屋を通して、私たちは今、明確な信仰を持つことができます。いけにえのささげ物が贖いの日、大祭司の按手を通して、イスラエルの民の罪を受け入れたのと同じように、そして彼らの罪がすべてその上に移されたので、彼らの身代わりとなって、いけにえとされなければならなかったのと同じように(レビ記 第16章)、イエス・キリストは私たちの罪をご自身に負われ、そうした罪のために私たちのいけにえのささげ物となるために、この地上に来られたのです。そして、確かに私たちのいけにえのささげ物となられ、それによって私たちをすべての罪と罰とからお救いくださっているのです。私たちは今、この愛の救済を完全に信じることができます。神が私たちにくださった、この愛の救済を神に感謝し、負債を返すことができるのは、この真理を信じることによってなのです。
幕屋についてどれほど知識があるとしても、その人が信じなければ、この知識はすべて役に立ちません。したがって、私たちはイエス・キリストのバプテスマがいかに重要であるかを認識し、同様に信じなければなりません。幕屋には三つの門があり、そのすべてが青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍されていました。人々は、自分たちの無知のために幕屋のそれぞれの門を異なって表現するかもしれません。
撚り糸の順序としては、最初に刺繍されるのは青色の撚り糸で、次に紫色の撚り糸、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布の順です。これはまさに神が旧約聖書の時代にイスラエル人にそれを建てるようにお命じになったために、このように門を作ることによってのみ、幕屋の本物の門として正しく説明することができるのです。
このように門を作らなければならなかった理由がありました。イエス・キリストが人類の救い主として人の肉のかたちで、処女マリヤの身体を通してこの地上にどのように生まれたかに関係なく、そもそも私たちの罪を負われるためにバプテスマを受けられなかったなら、イエスは私たちの真の救い主になることがおできにならなかったでしょう。イエスがバプテスマを受けられなかったなら、十字架につけられて十字架で死ぬこともできなかったでしょう。そのため、青色の撚り糸を最初に刺繍されなければならず、その相対的な重要性もまた重要でした。
 
 
私たちは誰を信じなければならないのか
 
ですから、私たちを罪からお救いくださっているイエス・キリストを信じなければなりません。この神の御子、私たちの救い主イエス・キリストがくださっている救済を信じるときにのみ、私たちはほんとうに新しく生まれることができます。神の御子を救済の神だと信じ、神がこの地上に来られ、私たちのためにバプテスマをお受けになって一度で罪を負われ、十字架で私たちの罰をお受けになったという真理を信じるとき、私たちはみな、真の救済を受けることができるのです。
イエス・キリストは私たちの罪をバプテスマ以外の方法でご自身に負われることがおできにならなかったので、この正確な方法で私たちの罪を負われることによってのみ、イエスは十字架に行かれ、十字架で血を流され、そこで死ぬことがおできになったのです。イエスがどのように神の御子であられ、どのように私たちの救い主としてこの地上に来られたとしても、イエスがバプテスマを通して私たち自身に罪を負われなかったなら、私たちの救いはこの世では決して見いだされなかったでしょう。
したがって、みなさんの罪がすでに消されていることを完全に確信するためには、みなさんが聖書の証拠を詳細に確認することが不可欠です。
少しの間、みなさんにかなりの借金があると仮定しましょう。それで誰かがみなさんに言います。「心配しないでください。お支払いします。心配する必要はありません。この問題を解決してみせますよ。」 彼に会うたびに、この人は私たちに言い続けます。「心配しないようにあなたに言いませんでしたか。私が処理すると言ったでしょ。」 みなさんがなぜ彼を信じていないのかと尋ねて、この人はさらに怒っていると仮定しましょう。この人が毎日みなさんに「私はそれをすべて完済しました。私を信じてください」と言ったとしても、彼が実際に借金を返済しなかったら、みなさんは彼をただ信じるだけで、この借金から本当に解放されるでしょうか。もちろん違います。
彼がどんなに自信を持って、「あなたが私を信じれば、あなたのすべての負債は解決されます」と、みなさんに言ったとしても、彼が実際にそれを返済しなかったなら、借金はそのまま残り、この人はみなさんを欺いているだけです。そこで、みなさんは彼に何度も尋ねます。「あなたは借金を返済しましたか。」 それから彼は繰り返しみなさんに言います。「なぜあなたはそんなに疑わしいのですか。無条件に私を信じたらどうですか。私は借金をすべて完済したと言ったでしょ。あなたがすべきことは、私を信じることだけですが、それでもあなたはとても疑わしいです。このようにならないでください。」 そこで、みなさんが心から彼を信じたと、もう一度仮定しましょう。しかし、みなさんがどれほど彼を信じたとしても、彼が実際に借金を返済しなかったなら、彼の言葉はすべて嘘です。
 
 
これが今日のキリスト教徒の信仰の仕組み
 
今日のキリスト教徒は言います。「イエスは十字架で尊い血を流すことによって、あなたを救っておられます。イエスがそこで罪のすべての罰をお受けになりました。このようにして神があなたを救ってくださっています。」 多くの牧師は会衆にこのように説教します。会衆の中の誰かが立ち上がって、「でも、私はまだ罪深いです」と彼らに言うとき、彼らは、「それはあなたが少ししか信仰を持っていないからです。ただ信じてください。あなたの不信仰こそが罪です」と言います。「私は信じているのに、どうしてまだ罪深いのか分かりません。私は本当に信じています。」 「あなたには十分な信仰がありません。もっと信じる必要があります。山に登って断食をしてみてください。食事を抜いている間に信じてください。」「食事を抜かずにただ信じられないのですか。」「いいえ、断食している間に信じてみなければなりません。」
今日の牧師の多くは、みなさんに信じるように言っていますが、彼らはみなさんの罪の問題を解決していません。彼らは信じていないために、みなさんを非難するだけです。みなさんの方では信じようとしますが、信じるのはあまりにも難しかったり、あるいはみなさんは、ほんとうに盲目的に信じますが、みなさんの罪の問題はまだ残っています。ここで何が問題になっているでしょう。これを説明できるものは何でしょう。イエス・キリストがバプテスマをお受けになって、彼らの罪をすべて負われたことを知らないので、人々は真の強い信仰を持つことができません。それは、彼らがどれほど信じても、罪の問題を解決できない妄想を信じているからです。
信仰は、明確な証拠なしに無条件に信じるだけで生まれるのでしょうか。もちろん違います。罪の問題が実際にどのように解決され、それを信じるかを知るときにのみ、信仰全体が一度で生じるのです。「私はあなたを疑いましたが、あなたがすでに私の罪の問題を解決したことはあまりにも明白です。どれほど信じようとしなくても、私はあなたの救済を信じざるを得ません。なぜなら、この救済は非常に確かだからです。私の問題を解決してくれて感謝します。」 言い換えれば、私たちは最初は疑うかもしれませんが、私たちの救いの証拠は非常に確かなものですから、もはや疑うことはできません。イエスは私たちの救いとその証拠のしるしとして、水と御霊の福音と呼ばれるイエスの領収証を私たちに示してくださいました。「わたしは、このようにあなたのために負債を返しました。」 すべての負債が返済されたことを示すこの領収書を見るときにのみ、真理の信仰が私たちに生じることができるのです。
どのように罪が救われたのか、どのように私たちの罪が消されたかについての証拠がないとき、神を信じると告白したり、神ご自身であられるイエス・キリストが救い主であると言ったり、救い主を信じることを主張するとしても、信じることはできません。つまり、罪から来る報酬の全額の支払いを示す領収書を見ていなければ、確信を抱くことができません。この領収書を見ずに信じる人々は、最初は強い信仰感があるように見えるかもしれませんが、彼らの信仰は実際には、単純に盲目です。それは狂信的な信仰に過ぎません。
 
 
狂信的な信仰を良い信仰とみなしているのか
 
狂信的な信仰を持つ牧師が他の人にも同じ狂信を要求したなら、どのようにしたいのでしょう。「信じなさい。火を受けよ。ファイヤ、ファイヤ、ファイヤ!火のような聖霊よ、私を火で満たしてください。主があなたがた全員を祝福なさると信じています。私は神があなたがたをみな、裕福にすると信じています。神があなたがたを祝福すると信じています。神があなたがたを癒してくれると信じています。」 そのような牧師がこのようなショーを立ち上げると、聴衆の耳が鳴り響き、心が躍り始めます。最高品質の音響システムを介して、「ファイヤ、ファイヤ、ファイヤ」と叫び始めると、会衆の心は彼の声の雄大な音に高揚し始めます。すると、まるで強い信仰が生じたかのように、彼らは感情的に圧倒され、「主イエスよ、来てください。ああ、聖霊よ、来てください!」と泣き叫びます。
この時、牧師は次のように言って、聴衆の感情をさらに刺激します。 「祈りましょう。聖霊が降りてきて私たち全員を満たしてくださると信じています。」 バンドが感動的な賛美歌を演奏するとすぐにこれに続き、人々は手を高く上げて熱狂的になり、感情的な爆発が最高頂に達します。まさにぴったりのタイミングで、牧師がこう言います。「では献金をささげましょう。特に、今夜、神があなたから特別献金を受け取りたいと望んでおられます。この特別献金をすべて神にささげましょう。」
人々は自分の感情に圧倒され、ポケットを空にしてしまいます。この偽牧師は、集めたお金をすべて積み上げるのに十分な大きさの巨大な説教壇をすでに準備しており、その正面に何十もの捕蝶網(献金皿)を置いています。バンドが賛美歌を演奏し始め、人々の心が自分たちの興奮に圧倒されると、聴衆の中に蝶採集者(献金皿を回すボランティア)を送り込まれます。
献金が増えるほど祝福が増えると嘘をつくことによって、また人々の感情を刺激することによって、そのような偽牧師は人々に涙を流させて、財布を開けるように仕向けます。それは、彼らの理性と知覚を奪い、代わりに感情で彼らを圧倒することによって、気づかれることもなく、自分たちにお金を手渡させることです。これは、神のみことばにも、どのような説教にも基づいておらず、詐欺にまみれた狂信的で盲目的な行ないです。このように、信仰が狂信的である牧師は、人々の感情を潜在的な目的に達するように刺激します。
主がバプテスマによって私たちの罪を負われたことを知り、このイエス・キリストを救い主として信じているなら、私たちは揺さぶられることはなく、平穏な状態を保ちます。私たちを静かに刺激する唯一のことは、イエスがバプテスマによって私たちの罪を負われ、十字架につけられて死なれたことです。これについて考えると、神ご自身であられるイエスがバプテスマによって私たちの罪を負われ、こうした罪から来る報酬を支払うために死なれたとき、私たちは非常に感謝し、心は大きな喜びに満たされます。しかしながら、私たちの心の中でこの静かな刺激は、この世の他の何よりもはるかに偉大です。ロマンチックな愛の告白も、この世界で最も貴重なダイヤモンドの贈り物も、これ以上に私たちを刺激することはできません。
対照的に、熱狂的な狂信者の刺激はそれほど長くは続きません。 彼らはこの刺激にしばらく居座るかもしれませんが、毎日罪を犯し、そのような罪に恥をかかされるとき、恥から顔を隠さざるを得ません。「イエスが私たちのために罰をお受けになり、十字架で死なれたのに、なぜ私はまだ毎日罪を犯しているのだろう。」 したがって、彼らは面目を失い、時間が経つにつれて刺激を受けられなくなります。さらに、恥ずかしさから、彼らは神の前に行くことさえできません。
神が私たちに全焼のいけにえの祭壇をお示しになったのは、このためです。この全焼のいけにえの祭壇に、いけにえの制度に従ってささげられた「いけにえのささげ物」とは、私たちの救い主イエス・キリストに他なりませんでした。このように、全焼のいけにえの祭壇は、イエスがこの地上に来られることを表わしており、実際、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を通して私たちを一度にお救いくださっています。神は私たちにこの全焼のいけにえの祭壇を見せられ、それを信じることによって私たちが救われることを望んでおられます。
 
 
この時代に私たちがしなければならないことは何か
 
この時代に、新しく生まれた私たちがしなければならないことは、たくさんあります。まず第一に、世界中に水と御霊の福音を宣べ伝えなければなりません。私たちは、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布による真理について無知なままでいる人々に、真理を広め、それによって彼らが地獄の火の罰から救われるように助けなければなりません。なぜでしょう。幕屋に現われた水と御霊の福音を悟らず、信じることもせずに、イエスに従う人が大勢いるからです。
この真理を彼らに広めるために、私たちがすべきことはまだたくさんあります。全世界に送られる本を出版しなければなりません。こうした本を作るための翻訳、校正、編集から、それらを印刷して世界中の国々に送るために必要な資金を確保するまで、実際に行われる必要のある多くの作業があります。
ですから、同僚や伝道師たちを見ると、彼ら全員がどれほど忙しいかがわかります。神の教会のすべての聖徒たちと働き手はこのようにとても忙しいので、彼らは肉体的に困難な時期を経験しています。 マラソンランナーが42.195 kmのコースのある地点に達すると、あまりに疲労が激しいために、自分が走っているのか何かまったく違うことをしているのかさえわからなくなることがあるそうです。要するに、極度の疲労は精神的に彼らを空虚にするでしょう。おそらく、私たちは今、福音のために私たちが走るこの地点にも達しました。福音のために生活を送ることは、マラソンランナーがするように、止まることなく私たちの目標に向かって長い距離を走るようなものです。福音のために走ることは、主の日が来るまで続けなければならないため、私たちはみな、困難に直面しています。
しかし、主が私たちのうちにおられ、私たちは水と御霊の福音を持っており、私たちの信仰は、主が青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で私たちをお救いくださっていると信じており、そして最も確かな真理を持っているので、私たち全員が新しい力を受けることができるということです。みなさんと私がこの賜物を受けているのは、イエスが私たちに救済の賜物をくださったからです。ですから、私たちの肉の困難は、私たちを悩ませることはできません。逆に、それが難しくなるほど、義人はより強い力が見いだされます。私は、ほんとうに主に感謝します。
霊的に、私たちの心や思い、そして実際の環境の全体にわたって、私たちは主が与えてくださったという新しい力、主が私たちとともにおられるという新しい力を感じることができます。神が私たちを助けてくださり、抱きしめてくださり、私たちとともにおられると感じることができるので、私たちは神にさらに感謝します。ですから、使徒パウロはまた、次のように語りました。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでも、できるのです」(ピリピ 4:13)。したがって、主が私たちに力を与えられなければ、私たちは何もできないことを毎日告白します。イエス・キリストは私たちのためにバプテスマをお受けになっただけでなく、十字架につけられることによって私たちのためにご自身をいけにえとなさり、ご自身の死に直面し、死者の中からよみがえられ、それによって私たちの真の救い主になっておられます。全焼のいけにえの祭壇を見るときはいつでも、この真理を思い起こします。
全焼のいけにえの祭壇はアカシヤ材で作られ、厚い青銅で内側と外側を覆われていました。その高さは約1.35mでした。青銅の網細工の格子は高さ約68cmで、その中央近くに置かれました。ささげ物の肉はこの格子の上に置かれ、焼かれました。
全焼のいけにえの祭壇を見るときはいつでも、自分自身をありのままに見ることができなければなりません。また、イエス・キリストが肉においてバプテスマをお受けになって、ご自身に罪を負われ、十字架で血を流すことによって罪のすべての罰をお受けになったことを知ることができなければなりません。みなさんと私は、罪と罰のために神の前でほんとうに死を免れることができませんでした。私たちの罪と罰のため、みなさんと私は永遠に死に、呪われることを免れられませんでした。しかし、私たち全員のために、旧約聖書のいけにえのささげ物のように、永遠の贖いのいけにえとして、この地上に来られ、バプテスマをお受けになって死なれたイエス・キリストのため、私たち全員が救われているのです。
いけにえの動物は、生きていると可愛くて見えて抱きしめたくなるかもしれませんが、按手によって罪を受け入れた後、喉を切られて血を流して死んだら、その動物はどれほど恐ろしいことでしょうか。この悲惨な方法で死ぬに値した私たちが、自分の罰を免れたことは、ほんとうに大きな祝福です。この祝福は、主が救済の賜物をくださっているために可能になっています。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に現わされたように、イエス・キリストは人の肉のかたちで、この地上に来られ、バプテスマと十字架の血によって、みなさんと私を救われ、それによって私たちに真の救済の賜物をくださっています。このように、神はみなさんと私に救済の賜物をお与えになっているのです。みなさんは、これを心で信じますか。イエスの愛である、この救済の賜物を信じますか。私たちはみな、この信仰を持たなければなりません。
私たちが全焼のいけにえの祭壇を見るとき、イエス・キリストが私たちをこのようにお救いくださっていることに気づかなければなりません。イエスは、救済の賜物を私たちに与えてくださるために、このようにご自身をいけにえとされたのです。いけにえのささげ物に手が置かれたように、そして、このいけにえのささげ物が血を流して死んだように、イエスはこのように苦しむことによって、私たちに救済をお与えくださっています。このようにして、イエスは罪から私たちをお救いくださっておられるのです。これを認識し、神の前で心の中で信じ、イエスに心から感謝をささげなければなりません。
神は私たちにくださっている救済の賜物と愛を、信仰によって受けるように望んでおられます。神は、水と御霊を通して来られることによって成就なさったバプテスマと十字架の血とによる救済を、私たちが心の中で信じることを望んでおられます。みなさんが心の中で主の愛を信じ、主の救済の賜物を受け入れることが、私の願いです。みなさんは、ほんとうにそれを心に受け入れていますか。
 
 
あなたのためにこの方法でご自身をいけにえとされたのは誰か
 
私は、ある証人のチラシを見たことがあります。「誰があなたのために死ぬだろうか。今日、あなたを慰めてくれた人にお会いしましたか。イエス・キリストは、あなたのためにご自分をいけにえとされました。あなたの心はこれで慰められていないだろうか。」 バプテスマをお受けになることによって、本当にみなさんの罪を負われ、みなさんの身代わりとなって、みなさんの罪を消し去るために十字架で死ぬのは、誰でしょうか。誰がみなさんにその愛を授けるために、すべてのその血を流し、死ぬのでしょうか。誰がみなさんのために、この犠牲に直面しても構わないと思うでしょうか。それはみなさんの親戚ですか。みなさんのお子さんでしょうか。ご両親でしょうか。
彼らの中の誰でもありません。みなさんを造られた神ご自身です。みなさんを罪からお救いくださるために、この神は人の肉のかたちで、この地上に来られ、みなさんの罪を負われるためにバプテスマをお受けになり、みなさんの罪の罰をお受けになるために十字架につけられて血を流され、みなさんの真の救い主となられ、再び死者の中からよみがえられ、今も生きており、みなさんに神の救済と愛を賜物としてお与えになりました。みなさんは、ほんとうにこの愛の救済を心に受け入れることを望んでいますか。みなさんは本当に心の中で信じていますか。
信じる者はだれでも主を受け、主を受ける者はだれでも救われます。主を受けるということは、キリストがお与えくださっている救済と愛を受け入れることです。私たちが救われるのは、この愛、この罪の赦し、この罪の担い手、この罪の罰を心に信じることによってなのです。これが救済の賜物を受ける信仰です。
幕屋のすべてがイエス・キリストを表しています。神は私たちにどのようないけにえも要求なさいません。神が私たちに求めておられるのは、神が私たちの心にくださっている救済の賜物を私たちは信じるということだけです。「あなたに救いの贈物を与えるために、わたしはこの地上に来た。旧約聖書のいけにえのささげ物のように、わたしはあなたの罪をすべて、按手によって、わたしに移されたものを受け入れた。そして、このいけにえのささげ物のように、わたしは、あなたのためにあなたの罪の恐ろしい罰を受けた。このようにして、わたしはあなたを救っている。」 これが、神が幕屋を通して私たちに語っておられることです。
神がどのように私たちを救われ、私たちをこれほどに愛され、このようにして完全な救済の賜物を私たちにくださったとしても、私たちが信じなければ、すべてが無益です。キャビネットにある塩は、それが塩辛い味のためにみなさんのスープの中に最初に入れなければならないのと同様に、みなさんと私が心の中で信じないなら、神の完全な救済でさえ、完全に無益になります。心の中で水と御霊の福音を感謝せず、私たちの心に受け入れなければ、イエスの犠牲は無益になります。
救済は、救い主であられる神イエスがみなさんに何を犠牲にして愛してくださったかを知って、心の中に受け入れ、そうしたことを感謝するときにのみ、みなさんのものになるのです。キリストの完全な救済の賜物をみなさんの心に受け入れず、頭の中でそれを理解するだけなら、それは完全に無益です。
 
 
あなたがすべきことは、ただ真理をつかむこと
 
ストーブでスープがどれだけ煮立っていてもかまいません。みなさんが自分で塩を入れるつもりだと思っていて、実際には入れない場合は、スープがしょっぱくなることはありません。全焼のいけにえの祭壇でいけにえとなった、いけにえのささげ物のように、私たちの主がバプテスマをお受けになって、みなさんの罪からお救いになり、私たちのためにご自身をいけにえとされていることを、みなさんが心の中に受け入れて、信じるときにのみ、みなさんは救われることができます。神がみなさんに救済の賜物をくださっているとき、感謝の気持ちでそれを受け入れてください。主が私たちを完全に救われたとおっしゃっているとき、私たちが行う正しいこととは、単にそう信じることです。
神がみなさんに与えてくださった神の愛は、中途半端なものでしょうか。もちろん違います。私たちの主の愛は完全です。言い換えれば、私たちの主はみなさんと私を完全にそして完璧に救っておられるのです。主はバプテスマによって完全に私たちの罪を負われ、十字架で確かに死なれたので、この愛に疑いの余地はありません。主は私たちを完全に救われ、救済の賜物を私たちにお与えくださっています。私たちはみな、神がくださっている救済の賜物を受け入れなければなりません。
とりあえず、私が最も貴重な宝石で作られた非常に貴重な宝石を持っていると仮定しましょう。私が贈り物としてそれをみなさんに与えるなら、あなたがすべきことは本能的にそれを受け入れるだけです。これは、そうではありませんか。それをみなさんのものにすることは、みなさんにとってどれほど単純で簡単でしょうか。この宝石をみなさんのものにするには、みなさんがすべきことは、手を伸ばしてそれをつかむだけです。それでおしまいです。
ただ心を開いて、バプテスマによってすべての罪をイエスに移すなら、すべての罪の赦しを受け、空っぽの心に真理で満たすことができます。このようにして、主が私たちに救済を無料の贈物として与えてくださると言われたのです。救済は、手を差し伸べて掴むだけで、みなさんのものになります。
私たちは救済を贈物として受けていますが、1円も支払っていません。そして、神はこの贈物を受けたいと望む人にだれでも、喜んでお与えになるため、感謝してそれを受けている人は祝福されます。受け入れることによって、彼らは神の心を喜ばせているために、喜びのうちに神の愛を受け入れる人々は神の愛に包まれ、この贈り主を愛する人たちです。この贈物を受け入れることは正しいことです。この真の救済の賜物がみなさんの賜物になり得るのは、神がみなさんにお与えになっている完全な救済の賜物を、みなさんが受け入れるときだけなのです。みなさんがどれほど努力しようとも、救済の賜物を心に受け入れないなら、それがみなさんのものになることは決してありません。
私もこの救済の賜物を受けています。「ああ、主は私のためにこのようにバプテスマをお受けになった。このようにバプテスマを受けることによって、主は私のすべての罪の罰を受けられた。主は、ついに私のためにバプテスマを受けてくださった。主よ、感謝します。」 これが、私が信じるようになったものです。ですから、私は今、罪がありません。私は完全な罪の赦しを受けています。みなさんも、この罪の赦しを受けて救われることを望むなら、今それを受け入れてください。
それ以来、私はこの救済の賜物についてずっと考えてきました。今でも改めて考えてみると、私の救済を主に感謝せざるを得ないことに気づきます。この救済の愛は私の心の中にあるので、私はそれを決して忘れることはできません。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に現われた真理である水と御霊の福音を受け入れて信じることによって、罪の赦しを初めて受けたとき、神に限りなく感謝しました。そして今でも、数十年経った今も同じ感謝の心があり、毎日新たにされています。
イエスは確かに私をお救いくださるためにこの地上に来られ、私の罪をご自身に負われるためにバプテスマをお受けになり、私の罪の罰をお受けになるために十字架で死なれたのです。こうしたすべてのことが私のためになされたのだと悟ったとき、私はすぐにそれらを受け入れ、私のものにしました。私はこれが自分の人生の中で最高のこと、すべての中で最も賢明で賢い行動であったことを常に認識しています。したがって、私は主がほんとうに私を愛してくださり、私を世話してくださると信じています。また、主が私を愛してくださったので、主はこうしたすべてのことをなさったと、私は信じて告白します。「主よ、あなたに私のすべての感謝をささげます。あなたが私を愛しておられるように、私もあなたを愛しています。」 このように告白することは、新しく生まれている者にとって大きな喜びです。
私たちの主の愛は永遠に変わりません。私たちに対する主の愛が永遠に変わらないように、主に対する私たちの愛も永遠に変わることはありません。時に、私たちが苦しみ、困難に直面すると、私たちの心が迷い、この愛を忘れて裏切りたいとさえ思うかもしれません。しかし、私たちが痛みに圧倒され、私たちの意識が私たちを失敗させるときでさえ、そして私たちが考えることができるすべてが自分の痛みであるときでさえ、神は私たちの心が神の愛を決して忘れないように、私たちを忠実に支えてくださいます。
神は私たちを永遠に愛しておられます。主が私たちのために被造物としてこの地上に来られたのは、私たちをご自分の死ほどに愛しておられたからです。さて、私はみなさん自身のために、この神の愛を信じるように、みなさんに勧めます。そして、それをみなさんの心に受け入れてください。みなさんは今、信じておられますか。
この愛で私たちを罪から完全にお救いくださった主に感謝いたします。