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説教集

主題 27: コロナウイルスの時代において私たちへの神の手紙

[27-3] 神は私たちを通してご自身の栄光を現される ( イザヤ 44:21-23 )

( イザヤ 44:21-23 )
「『ヤコブよ。これらのことを覚えよ。
イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。
わたしが、あなたを造り上げた。
あなたは、わたし自身のしもべだ。
イスラエルよ。
あなたはわたしに忘れられることがない。
わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、
あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。
わたしに帰れ。
わたしは、あなたを贖ったからだ。』
天よ。喜び歌え。
主がこれを成し遂げられたから。
地のどん底よ。喜び叫べ。
山々よ。喜びの歌声をあげよ。
林とそのすべての木も。
主がヤコブを贖い、
イスラエルのうちに、
その栄光を現わされるからだ。」
 

旧約聖書では、神はしばしばヤコブを二つの異なる名前で呼んでいましたが、今日の聖書朗読ではそのようになっています。
「ヤコブよ。これらのことを覚えよ。
イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ」(イザヤ 44:21)。神はヤコブをただのヤコブと呼ぶことも、イスラエルと呼ぶこともできましたが、そうではなく、ヤコブに二つの名前をつけて呼ぶようにされたのです。
神がヤコブとイスラエルという二つの名前を使われたのには理由があります。「ヤコブ」は一人の人間として、「イスラエル」は神に祝福された者として呼ばれているのです。神は、水と御霊の福音を信じる人たちにも、このように二つの名前を使って呼んでくださいます。私たちの与えられた名前を使って、「○○さん」と呼びますが、私たちの神であるキリストから与えられた水と御霊の福音を信じる者として呼ぶときには、「義人」と呼んでくださいます。旧約聖書に出てくる「イスラエル」という名前は、ヤコブが一晩中、神と祈りの中で格闘した後、祝福として与えられたものです。その意味は、「神と格闘して勝利した者」です。
ヤコブがヤボクの渡しで兄のことを祈っていたときのことです。「主よ、私の兄が私を殺そうとしています。明日までにはここに来るでしょう。どうか彼の怒りから私を守ってください。兄から私を守り、私を祝福してください。あなたが祝福してくださらない限り、私は祈ることをやめられません。あなたを行かせません。」 そして、神はヤコブから去ろうとし、「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」とおっしゃいました。ヤコブは、「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」と言いました。結局、ヤコブの心からの祈りに感動したのか、神は寛容にも「あなたを祝福しよう」とおっしゃいました。そして、神はヤコブのもものつがいに触れて、「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。」と言われました。そうして、この時からヤコブの名前はイスラエルに変わりました。神がヤコブを懲らしめ、祝福なさったのは、ヤコブを通して神の御国を築くためだったのです。この出来事から長い時間が経ち、ヤコブの子孫はエジプトから脱出してイスラエル王国を見つけることになりました。ヤコブの名前がイスラエルに変えられたのは、神の祝福された地方によるものでした。これと同じように、神は、みんな罪人だった私たちを祝福なさって、水と御霊の福音を見出し、私たちを神の民、聖徒、義人と呼んでくださっているのです。すべては神の祝福と摂理です。
聖書によると、次のように書かれています。「ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ」(イザヤ 44:21)。この聖句には、ヤコブを通して神の御国を築くための、神の特別な摂理が記されています。神はヤコブをご自分のしもべと呼ばれました。しもべは主人の命令に従うものです。つまり、神がヤコブをご自分のしもべと呼ばれたのは、ヤコブを通して「みこころを成し遂げる」ということを意味しています。このように、新約聖書の現代においても、水と御霊の福音を信じる私たちに、神は無限に祝福された計画を持っていることを明らかにしておられます。今、みなさんと私は水と御霊の福音を信じ、神は私たちを神の御国の民としておられます。これから先、神は、水と御霊の福音を信じている私たちを通して、ご自分の御国に住むという永遠の祝福を与えてくださる神の慈悲と恵みがどれほど偉大かを明らかにしてくださいます。そして、神は私たちを通して、神が永遠に賛美と礼拝を受けるにふさわしいお方であることをあかししてくださるのです。
今日、神がご自身の民、しもべと呼んでおられるのは、水と御霊の福音を信じる私たちです。それは、神が私たちを通してご自分の御国を紹介するからです。旧約聖書の時代に神がしもべを通してみわざをなさったように、新約聖書の現代においても、神は水と御霊の福音を信じる者を通して、世界中の人間を罪から解放するために、みわざをなさっておられます。神は、私たち主のしもべを通して、ご自身の愛と救いのみわざを完成させておられることがわかります。みなさんも私も、今は神のしもべであることを忘れずに、神の御国の建設のために自分の人生を一途にささげなければなりません。
イザヤ書 第 44 章 21 節には、次のようにあります。「イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。」 ここで神は、御国のわざをしている水と御霊の福音の信者であるみなさんと私に、いつまでも大切にしてくれるとおっしゃっているのです。神は生ける神であり、今、神の教会に生きているすべての人々とともに歩み、誰一人として忘れられることがありません。このことをはっきりと自覚して、私たちは信仰によって生きるべきです。
私たちは、コロナウイルスのパンデミックが猛威を振るっている最中であっても、神はご自身の民やしもべとともに働いておられることを信じなければなりません。神は私たちの使役を助けてくださり、いつも一緒に歩んでくださっています。したがって、ここで語られたことを思い出しながら、神に忘れられないように祈るならば、私たちも神のわざが展開されるのを見ることができます。今この瞬間にも、神は私たちのすべての祈りに耳を傾けてくださっていると信じなければなりません。
では、なぜ神は、水と御霊の福音を信じる私たちに、コロナウイルスのパンデミックという苦難をお許しになったのでしょうか。それは、第一に、この終わりの時に生きるすべての人間に神の愛と救いをお与えになるためであり、第二に、水と御霊を信じる神の民が信仰の勝利者となるように目覚めさせるためです。そういうわけで、神はこのような困難な状況を許されるのです。事実、神は義人の神であることを否定できません。ですから、たとえ私たちが神に祈らなかったとしても、神は私たちの必要性をご存じであり、祝福してくださいます。しかしながら、そうであっても、水と御霊の福音を信じる私たちは、神に祈らなければなりません。なぜなら、私たちは日常生活の中で、神への慎みと恐れとをもって、神をたたえる義務があるからです。このような理由から、神は私たち全員がそれぞれの持ち場から水と御霊の福音の使役を支えることを許されたのです。私たちは、神が私たち一人ひとりに神のわざを委ねておられること、そしてそのわざを通して神が栄光を受けておられることを悟らなければなりません。
神は私たち義人に、「神に祈るように」とおっしゃったのは、神が私たち全員を助けたいと思っておられるからです。言い換えれば、神は、私たちが神のわざを行なうことができるように、私たちの生活の中で神の助けを求め、神を賛美しなさいとおっしゃっているのです。日々の歩みの中で、生ける神に助けを求めることは、神を賛美する生き方です。神は、私たちが祈るときに助けてくださると約束してくださっていますが、これこそが祈りなのです。神は、私たちの生活において神に忠実に仕えることができるのは、私たちの祈りによってであることを示しておられます。したがって、私たちは、神との交わりを共有するために、祈らなければなりません。水と御霊の福音を信じる私たちが今日、神と交わることができるのは、神のみことばへの信仰と私たちの祈りのおかげです。ここで、私たちは、祈りによって神の大きな祝福を受けていることを悟ることができます。
それゆえ、この終わりの時に、神は私たち主の信者がそのような困難な人生に直面することを許されたのです。神との交わりを分かち合うために、神は私たちに苦しみに耐え忍ぶことを許されることがあります。水と御霊の福音を信じる私たちが神に祈ると、神はそれに答えてくださいますし、このように私たちの祈りが神に答えられると、私たちは感謝に満たされます。神は、私たちが神に祈ることで、神と交わっていることを悟るようにしてくださいます。つまり、神を心から信頼することで、感謝と報恩の気持ちが生まれるのです。これは、現代に生きる私たちへの神からのメッセージです。神の祝福は、私たちが神にささげる祈りや信仰生活の中にちりばめられています。このような時代に、神とそのみことばへの信仰によって生きているならば、私たちの心は、神が祝福してくださった恵みの生活に感謝するように自然に結びついています。信仰によって神に感謝する以外にありません。そして、神が私たちのためにしてくださったみわざを賛美する以外に、何もすることがないということにも気づくのです。
 


わたしに帰れ


今日、イザヤ書を通して、神は私たちにもおっしゃっています。
「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、
あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。
わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」(イザヤ 44:22)。ヤコブとその子孫であるイスラエルの民は、人生の中でどれだけ神に対して罪を犯したのでしょうか。神の御目には、すべての人間は悪を行なう者どもの子孫であり、欺瞞に満ち、欠点に満ちていると映っています。確かに、人は自分の状況が良くなる兆候があると、自分を罪から救ってくださった神を信じて生きることをやめ、中には神を裏切る人もいます。日常生活の中で神を礼拝することもなく、神の愛を軽んじているのです。そこで、旧約聖書の時代には、神の民が傲慢になるたびに、彼らが神を探すように、神が彼らに苦しみをもたらしました。イスラエルの民が神を探し、苦しみの中で神に叫んだとき、神は敵の手から彼らを解放なさいました。このように、イスラエルの民は、異邦人よりもはるかに多くの愛と保護を受けました。神は彼らに多大な祝福をお与えになりました。神の民が神に祈るたびに、神は誰も無視なさらず、すべての祈りに答えられました。
このように、新約聖書の時代に生きている水と御霊の福音を信じる私たちをも、神は祝福してくださっています。私たちが自分の弱さから人や神に罪を犯しても、神への信仰を与えてくださることによって、苦しみの圧迫から解放してくださいます。私たちが常にみことばを信じることを祝福なさり、私たちの心をきよめてくださいます。神は私たちに祝福されたみことばをお与えになり、私たちが犯した数え切れないほどの罪を、「かすみのようにぬぐい去った」と断言しておられます。現代においても、水と御霊の福音のみことばによって、私たちの傷や罪をすべて消し去ってくださったと、神は語っておられます。
イザヤ書第 44 章 22 節には、次のようにあります。「わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」 ここでの「贖う」という言葉は、「何かを、対価を払って買い取る」という意味です。アメリカでは建国以来100年近く、南部の州では奴隷制度があり、人間を私物として売り買いすることが合法とされていました。エイブラハム・リンカーン大統領は反奴隷政策をとり、最終的には奴隷解放宣言を出して無数の奴隷を解放しました。このことから、リンカーンはアメリカ人が最も尊敬する大統領として常に選ばれています。今日に至るまで、リンカーン大統領は多くのアメリカ人に愛され、尊敬されています。
世界中のキリスト教徒に愛唱されている讃美歌の中に、「アメイジング・グレイス」というものがあります。この賛美歌の歌詞は、主と出会う前に奴隷商人だったジョン・ニュートンという人物によって書かれたものです。主の愛を知り、信じるようになったニュートンは、自分のような人間を罪から救ってくださった主の愛を思い、自分の信仰の証として「アメイジング・グレイス」を作詞しました。
ここでいう「贖う」とは、まさにそのことを意味しています。次のような話を考えてみましょう。奴隷市場にいたある人が、奴隷をかわいそうに思い、自分のお金で奴隷の一人を買いました。そして、自分に売られた奴隷に向かって、「私は今、自分のお金であなたを、代価を払って買った。しかし、私はあなたを奴隷から解放したい。あなたのために、あなたの目の前でこの奴隷の書類を破って燃やす。あなたは今、奴隷状態から解放された。あなたは自由だ。今すぐ行って、自由を享受しなさい。」と言いました。代金を払って奴隷を購入することは、まさに「贖罪」を意味しています。
ヤコブの神は、水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けている私たち全員を贖ってくださったお方です。私たちの神であるキリストは、水と御霊の福音のみことばを信じる私たちに、世のすべての罪からの救いをもたらしてくださいました。みなさんと私をこの世のすべての罪からただ一度で救ってくださった神は、私たちの主イエス・キリストです。私たちを罪から救ってくださった神は、奴隷を解放したエイブラハム・リンカーンとは比べ物にならないほど誉れ高い方です。それは、神がすべての罪からの救いの恵みを全人類にもたらしてくださったからです。
聖書によると、「わたしは、あなたを贖った。」と書かれています。ここでの「贖う」という言葉は、「代価を払って買い取る」という意味であることを理解することが大切です。新約聖書の時代に、イエスはバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマによって世のすべての罪を負われ、十字架にかけられて血を流すことによって、世の初めから終わりまでの人類のすべての罪の代価を支払ってくださいました。みなさんのためにも、私のためにも、イエス・キリストは私たちを罪からただ一度で贖ってくださったのです。
みなさんと私をこの世のすべての罪からただ一度で救い、私たちの地位を回復するために、私たちの神であるキリストは天の栄光を捨てて、この地上に人として来られました。そして、三十三年間この世に住みながら、義のみわざを完成させてくださいました。このみわざこそが、神が人類のためになさった贖いのみわざなのです。みなさんはこの真理を理解し、信じておられますか。新約聖書の時代、イエスは人類の罪の問題を解決なさるために、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、このバプテスマによって人類の罪をすべて負われ、その後、十字架でご自分のからだを差し出され、血を流されました。イエスは、このようにして人々の罪を贖ってくださった贖い主です。イエス・キリストは、バプテスマによって人類のすべての罪を受け入れ、私たちのすべての罪から来る代価をただ一度で支払ってくださった神ご自身です。バプテスマのヨハネを通してこの世のすべての罪をバプテスマで受け入れ、これらの罪の代価を支払うために、自ら進んで手足を使って十字架につけられた神です。心臓の血をすべて注いで死なれましたが、死人の中からよみがえられた神の御子です。このように、私たちの神であるキリストは、人の肉に受肉してこの地上に来られ、自らの血を流して人類の罪の代価をすべて支払われ、死人の中からよみがえられた神なのです。
私たちの神であられるキリストは、水と御霊の福音を信じる私たちを、この世のすべての罪から解放してくださったお方です。私たちの神であられるキリストは、サタンと戦われ、その勝利を信じる私たちに救いをもたらしてくださった方です。聖書によると、次のように書かれています。「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」(コロサイ 1:13)。生ける神キリストは、お受けになったバプテスマと流された血によって、私たちをただ一度で贖われ、私たちを罪と罰から解放してくださいました。もしみなさんが今、この水と御霊の真の福音のみことばを信じ、イエスがみなさんのためにしてくださった贖いのみわざを心から信じるなら、みなさんもすべての罪から解放されるのです。主は、水と御霊の福音を信じている私たちを、すべての罪と地獄の罰から救ってくださいました。主なる神ご自身がこの地上に来られ、バプテスマと血によって罪の代価を支払ってくださったので、信者は神の民となり、神の御国で永遠に幸せに暮らし、神の祝福を永遠に享受することができるのです。
そういうわけで、主はイザヤ書第 44 章 22 節で、「わたしは、あなたを贖った。」とおっしゃったのです。私たちは信仰をもって、私たちの主キリストがこの地上に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって私たちの罪を負ってくださったことを感謝しなければなりません。信仰をもって、私たちの神であるキリストが、人の肉に受肉してこの地上に来られて、バプテスマをお受けになり、十字架で血を流してくださったことに感謝しなければなりません。私たちは、すべての人が信じる者にならなければなりません。ひょっとして私たちは、水と御霊の福音によってもたらされた罪からの救い、神の愛と神の贖いの贈物を軽んじてはいないでしょうか。なぜなら、私たちのイエス・キリストは、バプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマによって、私たちのすべての罪と世のすべての罪を受け入れられ、ただ一度ですべての罪を負ってくださったからです。人類のすべての罪は、こうしてイエス・キリストのからだに移されたのです。私たちは、イエスが、みなさんの罪も私の罪も含めて、すべての罪を背負ってくださったおかげで、人類は、その罪のために当然受けるべき罰から解放されたことを、必ず覚えておかなければなりません。
主が私たちに与えてくださった水と御霊の福音は、人類にとってかけがえのない救いです。それはなんと素晴らしい贖いなのでしょうか。イエスは聖なるお方で、根本的に罪を犯すことができません。神ご自身であるイエス・キリストは、私たち人間のように弱くはないので、罪を犯すことはありません。世界の基の置かれる前から、神はみなさんと私のために壮大で祝福されたご計画を持っておられました。このご計画に従って、神ご自身が私たちを神の民となさるためにこの地上に来られ、水と血によって私たちを救ってくださいました。神ご自身がこの世に来られたときにバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマとは、神がみなさんと私のためになさった義のみわざです。これは旧約聖書に書かれている神の祝福された約束でもあります。処女からお生まれになったイエス・キリストは、人の肉に受肉してこの地上に来られ、バプテスマによって私たちの罪を負われ、十字架で血を流されました。このようにして、永遠の救いのご計画を成就してくださいました。みなさんも私も今、この水と御霊の福音を信じ、主は私たちをこの世の時を越えたすべての罪からただ一度でお救いになり、信じる者すべてに主の恵みを与えてくださいました。水と御霊の福音を信じる私たちをこの世の罪と永遠の罰からただ一度で救われ、主なる神は私たちをサタンの罠と罰から永遠に解放してくださったのです。
主は、水と御霊の福音を信じる私たちが罪の罰を受けることがないように、また、復活の賜物をお与えになるために、この義のみわざをなさったのです。主がご自分のからだを差し出されてバプテスマをお受けになって、十字架につけられたのは、みなさんと私のためです。次のように書かれているとおりです。
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた」(イザヤ 53:5)。神ご自身であるキリストは、しばらくの間、天の御座を捨て、この地上に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、両手両足を十字架につけられてご自分のからだをささげられました。キリストがバプテスマの結果として十字架でお受けになった罰は、この世の何よりもはるかに苦しい罰です。それでも、私たちをこの世の罪から解放なさるために、イエス・キリストはバプテスマをお受けになり、十字架につけられました。両手両足を釘づけにされ、動脈を切られ、心臓は完全に血を流し、力尽きるという、最も苦しい罰に耐え忍ばれました。イエスは十字架で「わたしは渇く。」とおっしゃり、「完了した。」という最後の言葉を発した後、息を引き取られました。このことからも、イエスの十字架の苦しみがいかに大きなものであったか、また、人類を贖うために受けられたこの苦しみがいかに私たちに平安をもたらしたかがわかります。主が受けられた十字架の罰は、この世で最も耐え難い刑罰でした。それから、イエスは三日目に死人の中からよみがえられました。主のみわざは、この真理を信じる私たち全員を、すべての罪からただ一度で解放するには十分すぎるほどのものであり、水と御霊の福音を信じる私たちに永遠のいのちを祝福してくださいました。
イエスが十字架で血を流されたのは、バプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマによって、人類のすべての罪をただ一度で受け入れてくださったからです。このようにバプテスマのヨハネのバプテスマによってこの世のすべての罪をただ一度受け入れられたイエス・キリストは、人類のすべての罪の代価をすべて支払うために十字架にかけられて死なれました。これが、神であるイエス・キリストご自身が人類の贖いのために成し遂げられた救いのみわざです。主は、この世のすべての罪、永遠の地獄、永遠の滅び、無限の呪い、永遠の苦しみからただ一度で解放なさって、信者たちに救いをもたらしてくださった義なる神です。人の肉に受肉してこの地上に来られ、神の義を実行されたイエス・キリストは、今、水と御霊の福音を信じている私たち全員を、すべての罪から解放してくださった救い主なのです。
私たちは、主が受けられたバプテスマと主が流された血のおかげで、信仰によって罪から救われているのですから、この福音のみことばに感謝しなければなりません。そして、私たちは忘れてはなりません。私たちは、水と御霊の福音をいつまでも心に留めておきます。聖霊は、私たちが水と御霊の福音のみことばを忘れないようにしてくださる神であり、この福音を信じる私たち一人ひとりの心に宿っているからです。全人類は言うに及ばず、みなさんと私をこの世の罪と死から救うことができるのは誰でしょうか。イエス・キリスト以外の誰が、みなさんと私をこのように深く愛し、私たちを栄光に導くことができるでしょうか。私たち人間をこのように愛してくださった神は、水と御霊によってこの地上に来られたイエス・キリストにほかなりません。みなさんと私をほんとうに愛し、水と血によってこの地上に来られて私たちを救ってくださったのは、イエス・キリスト以外にはいません。
最近、世間の注目を集めている、ある話題の教団があります。私はそのような教団には全く興味がありません。しかし、ほとんどの教会がこの教団に会員を奪われるのではないかと恐れていると言われています。そのためか、最近では、この問題のある教団のメンバーが入ってこないように、礼拝の時間にはドアに鍵をかけている教会もあるようです。
今はインターネットの時代ですから、この教団の創立者である牧師の説教に出会うことは簡単です。そこで、彼の説教を聞いてみました。黙示録第 1 章 1-7 節を読んだ後、彼は自分が聖霊であると主張しました。彼の説教の要旨は次のようなものでした。「イエスは神の御子であるにもかかわらず、私たちを救うために人の肉に受肉してこの地上に来られたのではないか。同じように、私も肉に受肉してこの地上に来た聖霊です。そのために、この終わりの日には、聖霊としての私の言葉に耳を傾けてこそ、あなたがたは救われるのです。」 私は、他の宗派が説いていることを盲目的に批判したり、否定したりしません。しかし、この人の主張はあまりにも不条理で、私は言葉を失いました。
水と御霊の福音の真理によって、私たちの神であるキリストは、すべての人間をこの世の罪からただ一度で贖ってくださいました。私たちは、神であるキリストご自身が、私たちのすべての罪の代価をすべて支払ってくださったという、この水と御霊の福音の真理を信じています。イエス・キリストが私たちの罪のさばきを代わりに受けてくださったので、私たちはキリストのバプテスマとその犠牲の血を私たちの救いとして信じています。私たちの神であるキリストが、水と血によって私たちの罪の代価をただ一度で贖ってくださったので、私たちは今、水と御霊の福音によってこの地上に来られたイエス・キリストを、まことの救い主として信じることができるのです。イエス・キリストがこの地上を歩まれた時になさった義のみわざは、明らかに永遠の罪の赦しのしるしとなっています。イエス・キリストが世の罪から私たちを解放してくださったという救いの真理と、イエス・キリストが救いの義のみわざを成就してくださったことによる祝福された救いの賜物を、私たちが永遠に信じることができるというのは、とても素晴らしいことです。私たちの心は生まれた瞬間から罪深いものだったので、当然のことながら地獄に行くべきだったのですが、主がこの地上に来られたとき、バプテスマによってこれらの罪をすべて洗い流され、十字架で血を流されることによってその代価をすべて支払ってくださいました。これが、私たちの信じていることです。
水と御霊の福音は救いの真理ですから、この真理を信じている私たちは、救い主である神の義を永遠に賛美することがふさわしいのではないでしょうか。永遠に主を賛美することは、罪から救われたすべての人にふさわしいことなのです。ですから、私たちは全世界の全人類に水と御霊の福音を現し、宣べ伝えずにはいられません。水と御霊の福音は、全世界に罪からの救いをもたらしています。私たちは、この水と御霊の福音を世界中のすべての人にあかしせずにはいられません。世のすべての罪から私たちを救い、天のすべての祝福を与えてくださった神に、栄光、誉れ、感謝をささげることができるのは、私たちにとって計り知れない特権です。ハレルヤ。誰もが私たちの神であるキリストの義を賛美しなければなりません。すべての人間が永遠に神を拝み、賛美することは当然のことなのです。
 


神をたたえる者


みなさん、ここで第 23 節を見てみましょう。
「天よ。喜び歌え。
主がこれを成し遂げられたから。
地のどん底よ。喜び叫べ。
山々よ。喜びの歌声をあげよ。
林とそのすべての木も。
主がヤコブを贖い、
イスラエルのうちに、
その栄光を現わされるからだ。」
神を賛美するのは、私たち信者にほかなりません。それは、神が私たちを輝かせてくださったからであり、したがって、これを信じる私たち全員も、私たちの神の栄光を賛美することができるのです。
では、私たちはいつ、どのようにして神をたたえることができるのでしょうか。私たちは、神が人類をこの世のすべての罪から贖ってくださったことを、全世界に向けて宣べ伝え、あかしすることによって、神をたたえることができます。水と御霊の福音を叫び、宣べ伝えることによって、この輝かしい福音の知らせをまだ聞いたことのない人々が、神が私たちに天の栄光をまとわせてくださったことを実感することができるのです。福音を広めるために証人の生活を送ることは、私たちが神にささげることのできる最大の賛美です。「神は水と御霊の福音で人間をすべての罪から救ってくださったほどに、神は人間を深く愛しておられます。」とあかしする人は、神に忠実な祝福を受けた者です。今、私たちは印刷された本、電子ブック、オーディオブックで、神の救いの真理をあかししています。私たちは、神とその福音、すなわち水と御霊の福音を全世界に明らかにするために、信仰生活であかししているのです。福音を広めるために献身されたあかしの生活こそ、神の栄光を現すものです。私たちがそのような生き方をするとき、私たちの神がすべての栄光を受けるのです。なぜなら、神ご自身がこれらすべてのことをご計画し、完成なさったからです。今この瞬間にも、私たち義人は日々の歩みの中で神をたたえています。この地上に住むすべての人の中で、神から与えられた水と御霊の福音を信じ、神に従う人ほど光栄な者はいません。神をたたえる者は、福音の証人です。私たち義人は、神の愛と水と御霊の福音を信じ、この信仰をもって、神にすべての栄光を帰しています。神は、私たちがこのような輝かしい生活を送れるように祝福してくださっています。言葉では表現できないほどの感謝の気持ちでいっぱいです。
イザヤ書 第 44 章 23 節には次のようにあります。
「天よ。喜び歌え。
主がこれを成し遂げられたから。
地のどん底よ。喜び叫べ。
山々よ。喜びの歌声をあげよ。
林とそのすべての木も。」
神は、水と御霊の福音を信じる私たちに、神の栄光のみわざを担わせたことを語っておられます。神をたたえる生活とは、第一に、神の救いのご計画と神が愛をもって成就してくださった義の救済を信じ、第二に、神の栄光の愛と真理をたたえ、全世界に宣べ伝えることです。言い換えれば、私たちは、水と御霊の福音を与えてくださったことを、信仰をもって感謝するだけでなく、神が人類を世の罪から贖ってくださったことを世界の果てまで宣べ伝えることによって、神をたたえるのです。水と御霊の福音を信じる私たちは、今、信仰によって、全世界に福音を伝える義務を果たしているところです。水と御霊の福音を宣べ伝えることは、ほんとうに神に仕え、神をたたえることです。この水と御霊の福音を信じ、感謝することで、私たちは正しく、公正であり、徳のある神を高めるべきなのです。私たちが心を込めてこのわざに献身しているからこそ、神は私たちを喜ばれるのです。
私は毎朝10時に、毎日の使役の報告を受けています。今日の報告では、The New Life Missionのホームページの更新がかなり進んでいることを知らされました。私はこの素晴らしいニュースを神に感謝し、神を賛美しました。そして、働き手たちの懸命な働きを褒めました。水と御霊の福音を全世界に広めるために、私たちは現在、多言語で広告を出しており、世界中の人々が私たちのウェブサイトを訪れ、水と御霊の福音の本を読むことができるようになっています。最近では、スマートフォンを持っていない人はほとんどいません。そこで、書籍やウェブサイトの広告は、パソコンだけでなく、スマートフォンでも閲覧できるようにしました。また、私たちの書籍は、電子ブックやオーディオブックとして、自分の国の言葉でダウンロードできます。また、水と御霊の福音を信じて世界中で宣教活動をしている私たちの協力者たちが、このウェブサイトで互いに交わりを持つことができます。なんと素晴らしい、祝福された交わりなのでしょう。
この混沌とした時代に、私たちの証人は全世界に水と御霊の福音を宣べ伝えています。彼らは神のしもべとして神の命令を遂行しているのですから、神の正しいわざをしているこの証人たちを神が助けてくださらないことがあるでしょうか。神は、水と御霊の福音を信じる証人たちが、真の福音を宣べ伝えるわざを遂行できるように、必ず助けてくださいます。神は彼らに力と知恵と祝福を与えておられますが、これからもさらに大きな祝福を与え、守ってくださると信じています。このようにして、私たちの証人を通して、水と御霊の福音が全世界に伝えられ、世界中の罪人もただ一度で罪から救われるのです。証人たちが宣べ伝える水と御霊の福音のおかげで、世界中の人々が心を悩ます罪の呪いから救われるのです。そして、彼らも私たちと同じように神をたたえるようになると信じています。
私とみなさんは、水と血の福音を信じて、すでに神の義を賛美するに至っています。罪から救われた私たちは、コロナウイルスのパンデミックのこの時代に、どのように生きていけばいいのでしょうか。もし、神に命じられた通りに水と御霊の福音を広めていなかったら、今、私たちはこの地上でどのような喜びがあるでしょうか。神は、私たちを、神の証人として、神のまことのみわざを宣べ伝えるようにされました。ですから、私たちは強くなりましょう。
水と御霊の福音を信じる者として、みなさんも私も世のすべての罪から贖われたのですから、私たちは信仰をもって神をたたえることができます。そして、神の御国で神とともに永遠に生きることができるのです。さらに、神は今、私たちを世の罪から救ってくださっただけでなく、まだ新しく生まれていない者たちも救ってくださるので、私たちは大きな希望を持っています。神が私たちに全人類へ神の愛と救いを宣べ伝えさせてくださったように、こうした人々も罪から解放されるようにしてくださると信じています。神は、水と御霊の福音を宣べ伝えているみなさんと私を通して、今の時代が終わる前に、神のすべてのわざを完成させてくださると信じています。主は、この時代が終わる前に、世界をすべての罪から解放する救いのみわざを完成させるとおっしゃいましたが、私たちはこの約束を信じています。
人類は非常に困難な時代を生きていますが、神は敵から解放するという素晴らしいわざを成就してくださいます。私は、10~30年ほどで、水と御霊の福音をほぼ全世界に広めることができると確信しています。また、100~200年後には、水と御霊の福音を知らない者は、この世界にいなくなると信じています。全世界の人々が、水と御霊の福音を救いの真理として知るようになります。しかしながら、すべての人が水と御霊の福音を信じるわけではありません。今もそうですが、この福音を信じる人もいれば、信じない人もいます。このことについて、「すべての人が信仰を持っているのではないからです。」(Ⅱテサロニケ 3:2)と、神は聖書に記されました。
私たちは、反キリストがやがてこの世界に現れ、神に敵対すると信じています。反キリストは、自分が神であると主張し、水と御霊の福音を信じている人たちをも欺こうとするでしょう。その時、サタンは神に対して最後の抵抗をしますが、神は、水と御霊の福音を信じる私たちを通して、まことの神が誰であるかをはっきりと証明なさり、私たちも、生ける神が世のすべての罪から私たちを贖ってくださり、罪の代価を支払われて、ただ一度で私たちを買い取ってくださったことを、信仰によってあかしするのです。終わりの時が来たら、私たちは私たちの神であるキリストをあかしし、キリストが世の罪から私たちをただ一度で贖ってくださったことをあかしします。私たちの心に宿っている神の霊は、私たちが反キリストに屈しないように力強く働いてくださるでしょう。私たちの神であるキリストを信じて、私たちは殉教し、この殉教によって神をたたえるのです。私たちがこれらのことを受け入れることができるのは、神ご自身である聖霊が私たちの心に働いておられるからです。私たちが反キリストに降伏することを拒み、そうするとき、私たちの神であるキリストがまことの神であられることを、その信者を通して現してくださいます。その時、神は私たちを通して、ご自身のすべての栄光を受けることになるのです。私たち水と御霊の福音を信じる者たちが殺されてから間もなく、イエス・キリストがこの地上に戻って来られ、人々を携挙なさり、天国に連れて行ってくださいます。終わりの日には、先に亡くなった水と御霊の福音を信じる者たちも、私たちと一緒に空中に引き上げられ、神をたたえて永遠に生きるという誉れを得ることになります。神は、水と御霊の福音を信じる私たちが、怪我も病気もしない神のからだで、御国で永遠に生きることを祝福してくださいます。
ですから、私たちがこの地上に生きている間に、水と御霊の福音を全人類に宣べ伝えることは、神のみこころなのです。それに対して、敵はこの水と御霊の福音を伝えることを妨害しようとします。しかしながら、神は私たちに天の力をお与えになり、私たちが信仰によってその義務を果たすことができるようにしてくださいます。ですから、水と御霊の福音を信じる者は、イエス・キリストが神ご自身であられることを信じ、信仰によって祈りながら、勝利の人生を目指さなければなりません。私たちが神に祈り、キリストのうちに信頼を置くときはいつでも、栄光のうちに日常生活を送ることができます。ですから、敵のことを心配する必要はないのです。今、私たちに残された唯一の仕事は、水と御霊の福音を信じて、神から委ねられた仕事を遂行することです。私たちの神であるキリストへの信仰をもって、来たるべき終わりの時のために生活を備え、神の約束のみことばへの信仰をもって、生活の中でキリストのあかしをしなければなりません。私たちは、信仰によって主であられるキリストに目を向けましょう。私たちの羊飼いであるイエス・キリストに希望を託し、彼とともに生きなければなりません。私たちはこの神を仰ぎ、信じて、頼らなければなりません。
私たちは、今やっている伝道の仕事を続けなければなりません。時には、悲観的な考えが心に入ってきて苦しむこともありますが、「イエス・キリストの名によって命じる。サタンよ、立ち去れ!」と言って、その考えに抵抗しなければなりません。私たちの心に恐怖や悲観的な考えを植えつけようとするサタンの考えを、信仰によって退けなければなりません。私たちの神であるキリストとそのみことばを信じて、義人の敵を打ち破らなければなりません。
コロナウイルスのパンデミックは、時折、暗い気持ちにさせられます。ウイルスに感染して死んでしまうのではないか、水と御霊の福音を十分に広めることができないのではないか、水と御霊の福音を信じているにもかかわらず、この世で破滅してしまうのではないか、などと思うことがあります。このような有害な考えが心に入ってきたら、信仰によってそれらに抵抗し、祈りによって打ち負かさなければなりません。その都度、「イエス・キリストの名によって命じる。サタンよ、立ち去れ!」と言って打ち勝たなければなりません。神は、罪から救われた私たち全員に、「あなたはわたしに忘れられることがない。」とおっしゃったのに、なぜ心配しなければならないのでしょうか。どのような状況にあっても、私たちのキリストである神は、私たちを忘れることなく、大切にしてくださり、いつも私たちとともにいてくださいます。ですから、私たちは、敵に身をゆだねるために、神への信仰を失うことがあってはなりません。水と御霊の福音を信じる私たちは、私たちの王であるイエスを信じることによって勝利を得ることができます。私たちが神の前では弱くても、私たちの神は強いのです。神は、水と御霊の福音を信じて神の子どもとなっている私たちを忘れることなく、いつも見守っていてくださいます。このように、私たちは私たちの神であるキリストを信じ、この信仰をもって、いつも主に目を向けていなければなりません。
この終わりの時に生きている私たちは、信仰によって、「サタンよ、立ち去れ!」と叫ばなければなりません。私たちは、神への信仰によって、神の敵であるサタンに抵抗しなければなりません。なぜでしょうか。それは、私たちがもろい人間であり、サタンが私たちに植え付けようとしている恐怖に私たちの心が負けてしまう可能性があるからです。悪い夢、不穏な夢を見たら、「サタンよ、立ち去れ!」と信仰によって断ち切らなければなりません。不安な生活をしていると悪い夢を見ます。みなさんが神から離れ、世に向かって少しずつ進んでいるときに、不穏な夢を見るのです。それは、みなさんの潜在意識が夢に現れているのです。神は、私たち義人に、神の記されたみことばを通して語られますが、毎晩の夢を通してみこころを啓示されることはありません。私たちは、神のみことばではないものを決して信じてはいけません。私たちは、記された神のみことばだけを信じなければなりません。「たとえ明日、世界が終わるとしても、私はリンゴの木を植える」という格言と同じ心境で、神への信仰を持って生きていかなければなりません。みなさんと私はこれから、神の喜びのために水と御霊の福音を広めることに献身して、毎日を生きなければなりません。
みなさんと私を通して、神はご自身を栄光に導くみわざを続けてくださいます。みなさんと私は、神のしもべであり、終わりの時代に生きるキリスト教徒です。神は、私たち信者を通して、天のすべての栄光を受け、また、私たち全員にすべての栄光をまとわせてくださいます。神は、このことを必ず私たちに実現してくださいます。ハレルヤ!神にすべての感謝をささげます。