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· 聖所の垂れ幕と柱 (出エジプト記 26:31-37)

聖所の垂れ幕と柱
(出エジプト記 26:31-37)
「青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作る。これに巧みな細工でケルビムを織り出さなければならない。これを、四つの銀の台座の上に据えられ、その鉤が金でできている、金をかぶせたアカシヤ材の四本の柱につける。その垂れ幕を留め金の下に掛け、その垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。至聖所にあるあかしの箱の上に『贖いのふた』を置く。机を垂れ幕の外側に置き、その机は幕屋の南側にある燭台と向かい合わせる。あなたはその机を北側に置かなければならない。天幕の入口のために、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で刺繍をした幕を作る。その幕のためにアカシヤ材の柱五本を作り、これに金をかぶせる。それの鉤も金で、また、それらの柱のために青銅の台座五つを鋳造する。」
 
 

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聖所の柱と、その垂れ幕の色に含まれた霊的な意味について深く考えたいと思います。ここで考えている幕屋とは、長さ13.5 m(45フィート)、および、幅4.5 m(15フィート)と測定され、聖所および至聖所と呼ばれる二つの部屋に分けられていました。聖所の内側には、燭台、供えのパンの机、香の壇がありました。一方、至聖所の内側には、あかしの箱と「贖いのふた」が置かれました。
聖所と至聖所で構成された幕屋が、幅は約70 cm(2.3フィート)、高さは4.5 m(15フィート)と測定されるアカシヤ材の板で、四方を囲まれました。そして天幕の入口には、金をかぶせたアカシヤ材の五本の柱が置かれました。外庭から幕屋に入った入口そのものは、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作りました。
幕屋の外庭には、60本の立っている柱があり、それぞれの高さは2.25 m(7.5フィート)と測定されました。幕屋の東側に置かれた庭の門も、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍されており、この外庭の門を通過することによってのみ、だれもが幕屋の庭に入ることができました。この幕屋の庭には、全焼のいけにえの祭壇と洗盤がありました。
この二つを通り過ぎると、高さ4.5m(15フィート)と同じ高さを測定する、天幕の入口が見当たるでしょう。この天幕の入口には、五本の柱があって、その台座は青銅でできていました。幕屋の庭の門のように、天幕の入口も青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作り、五本の柱の頭部にある留め金に掛かっていました。この垂れ幕は、天幕の内側と外側を分ける仕切りだったのです。
 
 
私たちが最初に考慮しなければならないものは、天幕の入口の柱
 
天幕の入口の五本の柱は、高さ4.5m(15フィート)と測定されました。これらの柱には、青色、紫色、緋色の四本の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍された垂れ幕が置かれました。
まず第一に、天幕の入口の五本の柱が、高さ4.5 m(15フィート)と測定されたという事実に焦点を当てましょう。これの意味とは何でしょう。それは、神ご自身が私たちの罪を消し去られ、私たちを神の子どもになさるために、いけにえの大きな代価を支払ってくださったことを意味します。なぜなら、みなさんと私は、私たちの根本において、そのように不完全で弱い存在であるため、私たちは非常に多くのそむきを犯して、この世に生きています。みなさんと私は、この世であらゆる瞬間に罪を犯さざるを得ない最悪な罪人なので、私たちは多くの欠点と咎があります。天幕の入口のこれらの柱は、私たちをそのような欠点や世の罪から救い出すために、神がひとり子イエス・キリストを私たち自身の罪の代価として、ご自身をいけにえとなさり、それによって確かに私たちを世の罪からお救いくださっていることを示します。
つまり、私たちの欠点、この世で犯された罪のために、イエス・キリストが神の前でご自分のからだをいけにえのささげ物としてささげられ、世の罪の代価を十分以上に返済なさり、それによって私たちをお救いくださっています。もし人が不実なことを行ない、あやまって主の聖なるものに対して罪を犯したなら、罪過のためのいけにえとして、雄羊一頭を連れて来なければならず、それにその五分の一を加えて、祭司に渡さなければなりませんでした(レビ記 5:15-16)。これは、イエス・キリストがみなさんと私を罪からお救いくださるために、ご自身をささげられ、それによって私たちの罪の代価を十分以上に返済してくださっていることを意味します。主は、私たちの罪を消し去られるためにこの地上に来られ、私たちのこうした罪のために、ご自身を私たちの罪過のためのいけにえとして、おささげになりました。
全焼のいけにえ、罪のためのいけにえ、和解のいけにえといった、聖書のいけにえとは、罪を犯した人々が、いけにえのささげ物の上に手を置いて、それにより彼らの罪をその上に移すことによって、彼らの罪を消すことができるように、ささげられたのです。そのような「いけにえ」のうち、罪過のためのいけにえとは、「いけにえのささげ物」が人の欠点を消し去るためにささげられたものです。この罪過のためのいけにえは、人が不注意によって他の人を傷つけたときに、被害者に補償し、関係修復のためにささげられたのです。そして、罪過のためのいけにえには、罰金および賠償金を含む賠償額に20%の賠償金を加えられました。これは、罪過のためのいけにえの基本的な必須条件でした。人が他の誰かに危害を加えたときに、人の汚れを贖うという特定目的のためにささげられた「いけにえ」だったのです(レビ記 5:14-6:7)。
みなさんと私は、罪から遠く離れているでしょうか。私たちは罪を犯しながら、生涯にわたって暮らさないでしょうか。みなさんと私はアダムの子孫であるために、私たちはそうせざるを得ません。私たち自身は非常に多くの罪を犯しながら、自分の欠点がどれだけ多いのか、そしてどのような人生を生きるのかを知っています。私たちはお互いに対して、そして神に対して、どれほど多くの悪を行なっているでしょう。私たちの生活を送るとき、私たちがこうした悪をしばしば忘れてしまうのは、ただ私たちがそれを認めるのに遅すぎて不完全だからです。しかし、私たちが神の前で単なる罪人であるというのは、私たちがお互いに対して、および、神に対して非常に多くの不実なことを行なっていることを、みなさんと私は神の前で認めざるを得ません。
そのような罪人をすべての罪からお救いくださるために、神はイエス・キリストを彼らの罪過のためのいけにえとして遣わすことを望まれました。イエス・キリストがご自分のいけにえの代価を通して、私たちの罪の罰を受けてくださることによって、神は私たちに救済の賜物をお与えになっています。父なる神が御子をこの地上に遣わされ、バプテスマを受けさせ、十字架につけさせたとき、私たちをすべての罪からお救いになり、ご自分の民となさるために、どうして私たちが自分自身をこのいけにえの尊さと比較できるでしょうか。私たち罪人をすべての罪からお救いくださるために、私たちの主は、罪から来るすべての報酬を支払うために、ご自身をいけにえとなさり、それよって私たちを世の罪からお救いくださっています。どうしてこれが神の驚くべき恵み以外の何物であり得るでしょう。神の愛はどれほど深く、どれほど広く、どれほど高いでしょう。天幕の入口の柱が4.5 m(15フィート)ほどの高さがあったという事実は、イエス・キリストを通して与えられた、私たちに対する神の愛について教えてくれます。
私たちのような価値のない存在を罪の罰からお救いくださるために、私たちの主はご自身のいけにえを通して、私たちをお救いくださっています――私はこの真理を神に感謝いたします。私たちが罪の罰のために地獄に定められざるを得なかったのに、そして、主が私たちをこうした罪からお救いになるために、私たちに代わって、ご自身のからだをささげられたのに、どうして私たちは主に感謝できないのでしょうか。私たちは主に感謝をささげます。ヨハネからバプテスマをお受けになることによって、ご自分の尊いからだに私たちの罪を負われ、十字架の血で私たちの罪の代価を支払われ、それによって私たちをすべての罪と罰とからお救いくださっています。したがって、私たちはこの福音への信仰をもって、神に感謝するしかありません。これが、天幕の入口の柱にある深い救済の意味なのです。
天幕の入口の五本のそれぞれの柱は、高さ4.5mでした。数字の「5」は、聖書で「神の恵み」を暗示します。したがって、五本の柱があったということは、神が私たちにお与えになっている救済の賜物を暗示します。神が私たちを愛され、神による救済の愛のうちにまとわせてくださることによって、私たちをご自分の民とならせるために何の欠陥もないようになさいました。聖書において、金とは、神の青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を通して、私たちをお救いになっている神を信じる信仰を指します。つまり、金によって、聖書は、神ご自身がこの地上に来られ、バプテスマをお受けになって私たちの罪を負われ、十字架で死なれ、死人の中からよみがえられ、それによって私たちを完全に義となさっている真理を、心から信じる「信仰」について教えています。聖所の柱にすべて金をかぶせていたのは、このためです。
天幕の入口の柱の台座が青銅でできていたことは、身代わりとなって罰された主が、私たちの罪のためにほんとうに地獄に定められざるを得なかった私たちを、主ご自身のバプテスマと十字架の血を通して、お救いくださっていることを啓示します。私たちは傷だらけだったので、本当に死に至らざるを得なかった無価値な存在でした。それでも、私たちをご自分の民になさるために、私たちよりも遥かに価値のある、絶対的で聖なる神は、ご自身をいけにえとなさり、それによって私たちを父なる神の子どもになさっています。金が、この真理を信じる信仰を指しているのは、このためです。このように、私たちは天幕の入口の色を理解しなければなりません。そして、天幕の入口の色をよく考え、感謝し、心の中心で信じなければなりません。
 
 
天幕の柱の青銅の台座
 
天幕には、その入口の柱の台座だけが青銅でできていました。これは、この地上でみなさんと私が互いに対して、そして神に対して多くの罪を犯しており、そのために、私たちはこうした罪のために罰されることを避けられませんでした。これらの青銅の台座に隠された真理とは、私たちに全焼のいけにえの祭壇について考えさせます。罪人が幕屋の門を通り抜けて、その庭に入ると、最初に見当たるのは、全焼のいけにえがささげられた、この全焼のいけにえの祭壇でした。
ここで「祭壇」という言葉には、「昇る」という意味があります。全焼のいけにえの祭壇とは、イエス・キリストがバプテスマをお受けになり、私たち罪人全員の代わりに、身代わりとなって十字架でご自身をいけにえとなさった真理にほかなりません。全焼のいけにえの祭壇は、按手によって罪を受け入れた「いけにえ」が、こうした罪の罰として死に至らしめられた場所でした。祭司は、こうした「いけにえ」のささげ物の血を全焼のいけにえの祭壇の角に塗り、残りの血をその下の砂地に注ぎ、祭壇の上にある肉を火で燃やして煙にしました。それは、罪を負った「いけにえ」が殺された死の場所でした。
幕屋の庭の門と幕屋自体との間には、全焼のいけにえの祭壇が置かれました。そのように、幕屋に入りたかった者は誰でも、まず、この全焼のいけにえの祭壇を通過しなければなりませんでした。ですから、全焼のいけにえの祭壇を通り抜けなければ、幕屋に入る道は絶対にありませんでした。言うまでもなく、全焼のいけにえの祭壇は、正確に、イエス・キリストのバプテスマと十字架の影です。そして、主のバプテスマと十字架とは、神の前に来るすべての罪人の咎を贖うものです。
このように、最初に彼らの罪を持ち、全焼のいけにえの祭壇で止まることなく、また、いけにえのささげ物が、按手によってこうした罪を負われ、この代わりにいけにえの血を流すことによって、彼らを罪から救ってくれたことを覚えておくことなしに、罪人は神の前に行くことはできません。この信仰とは、神の前に行く道であり、同時に罪の赦しと罪の罰(つまり、罪のために死ぬ)を受ける祝福へと導くものです。
イスラエルの民が罪を贖うためにいけにえを連れてきたとき、彼らはまず「いけにえ」の頭の上に手を置いて、罪をいけにえに移し、それを殺して血を取り、それからこの血を全焼のいけにえの祭壇の角につけ、残りの血をすべて祭壇のふもとに注ぎました。全焼のいけにえの祭壇の下の地面は地でした。ここでの地とは、人間の心を指します。このように、罪人はすべての救済の律法に従って、いけにえのささげ物が罪を受け入れ、代わりに死んだと、心の中で信じることによって罪の赦しを受けることを私たちに告げています。全焼のいけにえの祭壇の角は、霊的にさばきの書に記された罪を告げています。
旧約聖書の時の罪人は、彼らがいけにえのささげ物の頭の上に手を置いて、それによって彼らの罪をその上に移し、このささげ物が血を流して、全焼のいけにえの祭壇にささげられたという事実を信じることによって、罪の赦しを受けることができました。按手といけにえのささげ物の血と焼くこともなかったら、これにより、罪人は罪を贖うことができ、彼らが神の前に行く道は完全に阻止され、もはや聖なる神の前に行くことができなくなっていたでしょう。要するに、彼らに神の前に行かせるようにした、このいけにえの制度を除いて、他の真理はありませんでした。
このように、イエス・キリストのバプテスマ、イエスの死、贖いのいけにえへの信仰なしには、私たちが罪の赦しを受けて神の前に行く道はありません。イスラエルの民が最も美しく、完璧で、かわいく、傷のない子羊を祭司にどのように連れてきたとしても、彼らの手が頭に置かれていなかったなら、それによって罪が受け入れられず、血を流さず、死ななかったなら、これは何の効果もなかったでしょう。
私たちの信仰に関して言えば、イエス・キリストがヨハネからお受けになったバプテスマと、イエスが十字架で流された尊い血が、私たちの罪をすべて贖っていると信じなければ、罪の完全な赦しを受けているとは言えません。イエスがお受けになったバプテスマと十字架での死は、罪人と父なる神の間に明らかに立っているため、罪人を咎から救うための仲介者となっています。
全焼のいけにえの祭壇は、天国におられる全能の神ご自身がイエス・キリストのうちに備えられ、成就された救済のご計画を含む模範です。モーセは、神がシナイ山でお示しになった救済の方法と型に従って幕屋を建てました。聖書の中を見ると、この指示が繰り返し出されていることがわかります。「よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ」と出エジプト記 25:40が述べているとおりです。
人々は十字架を作り、十字架にイエス・キリストを掛けることはできましたが、これ以上、彼らは他に何もできませんでした。彼らは手でイエスを縛り上げ、カルバリーに彼を引っ張って行くことができました。彼らは、神の前で何をしているか知らないまま、イエスを十字架につけました。神がすでにご計画になった摂理にしたがって、こうしたすべてのことが成就されなければならなかったので、罪人はここまで行くことができました。しかしながら、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって、それによって世の罪を負われ、そうした罪を一度で洗い流され、十字架で血を流されることによって、ただ一度でバプテスマと十字架の血とを通して、すべての罪人をお救いくださっているのは、イエス・キリストなのです。
このように、十字架で主イエス・キリストの死の前に、ヨハネからお受けになったバプテスマは、私たちの救いに絶対不可欠な最も重要な出来事でした。罪とその罰を受けてくださったことは、創造の前から神によって決められました。ヨハネの福音書 第3章で、イエスはニコデモに、これは水と御霊の福音であるとおっしゃいました。ですから、イエスのバプテスマと十字架は、イエス・キリストのうちにあらかじめ計画されて、決定された神の摂理です。
イエスご自身が、次のようにおっしゃいました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ 3:16)。そして、イエスのバプテスマに関して、ペテロも次のように述べました。「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです」(Ⅰペテロ 3:21)。使徒の働きにも、次のようにあります。「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました」(使徒 2:23)。
イエスがお受けになったバプテスマと十字架の血とは、全能の神の目的とご計画によってすべて成就されました。こういうわけで、この真理を心に受け入れることも信じることもしなければ、だれも神の御国に入ることができないので、私たちは神が私たちに信仰を求めておられることを認識し、信仰を持たなければなりません。水と御霊の福音を信じる信仰なしには、誰ひとり救われることができません。イエスがご自分から進んでヨハネからバプテスマをお受けになり、ご自身を罪人の手に渡して、十字架で血を流そうとお決めにならなければ、罪人は決してイエスを十字架につけることができなかったでしょう。イエスは、他人によってゴルゴダの丘に引かれて行くようにと促されたわけではなく、完全にご自分の意志から、バプテスマをお受けになって世の罪を負われ、十字架で血を流され、それによって罪人をすべての罪からお救いくださっています。
イザヤ書 53:7には、次のようにあります。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」 ですから、主イエス・キリストのバプテスマと十字架での死とは、完全にご自身のみこころによるものであり、そうしたことによって、イエスのバプテスマと十字架の血とを信じる人々を、ただ一度で、すべての罪からお救いくださっているのです。こうした主のみわざに関して、ヘブル人への手紙の著者もまた、次のように記しています。「しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」(ヘブル 9:26)。
キリストのバプテスマと十字架での死との影を示す全焼のいけにえの祭壇に、天の救済の霊的賜物を見ることができます。全焼のいけにえの祭壇でのいけにえのささげ物の死は、すべての人の罪のために必要とされた、まさにイエスのバプテスマと死を暗示しているのです。旧約聖書では、按手によって罪を負われ、身代わりとして死んだ「いけにえのささげ物を通して、罪人は咎を贖われました。同様に、新約聖書では、神の御子がゴルゴダの丘で圧制者の手で殺される前に、まずイエスがヨハネからバプテスマを授けられることによって、世の罪を負われ、十字架につけられ、血を流して、死ななければならなかったのは、このためです。
そのように、神は、御子を殺した殺人者たちとご自分との間に和解をもたらすために、イエスが両手を置かれ、死ぬために十字架につけられるようにご計画なさり、定められたのです。神は、按手と死によって構成された救済の律法をご計画になり、この律法にしたがって、イスラエルの民がいけにえのささげ物をささげることによって、罪の赦しを受けることを可能になさいました。
つまり、神ご自身が罪人を救うためだけに、和解のいけにえとなられたのです。この神の救済は、なんと計り知れないほど深く、賢明で正しいことでしょう。神の知恵と真理は、驚くほど素晴らしく、私たちにはとても計り知れません。按手と血を流すことによって構成され、全焼のいけにえに祭壇に啓示された神の救済の摂理を誰が想像できるでしょう。パウロのように、私たちができることはただ驚嘆するしかありません。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう」(ローマ 11:33)。水と血と御霊の福音は、神が罪人を完全にお救いにくださっている、唯一の正しい福音です。
 
 
全焼のいけにえの祭壇の角
 
幕屋の庭に置かれた全焼のいけにえの祭壇の四隅には、青銅の角がつけられました。聖書で、この角とは罪のさばきを示します (エレミヤ 17:1; 黙示録 20:11-15)。これは、十字架の福音が、イエスがお受けになったバプテスマに基づいていることを示します。したがって、使徒パウロは、次のように言いました。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」(ローマ 1:16)。また、コリント人への手紙第一 1:18には、次のように記されています。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」
そうした全焼のいけにえの祭壇の角は、神の正しいさばきと救済が、イエスのバプテスマ、十字架での死、よみがえりを通して完全に成就されていると明確に告げています。
 
 
全焼のいけにえの祭壇の環に通した二本の棒
 
荒野で建てられた幕屋のすべての用具は、動かせるようになっていました。これは、イスラエルの民の荒野の生活にふさわしい方法でした。彼らは、カナンの地に定住するまで、荒野で歩き回らなければなりませんでした。彼らが荒野を通る間に、荒野の生活が続いていたため、イスラエル人が移動するよう神から命じられたときに祭司が祭壇を運べるように、神は全焼のいけにえの祭壇で引っかける二本の棒を用意させました。
出エジプト記 27:6-7には、次のようにあります。「祭壇のために、棒を、アカシヤ材の棒を作り、それらに青銅をかぶせる。それらの棒は環に通されなければならない。祭壇がかつがれるとき、棒は祭壇の両側にある。」 二本の棒が全焼のいけにえの祭壇の両側に四個の青銅の環に通されているので、レビ人は、イスラエルの民が移動する際に祭壇を担いで運ぶことができました。全焼のいけにえの祭壇は、キリストのバプテスマと十字架を啓示しています。ですから、レビ人が二本の棒で全焼のいけにえの祭壇を持ち上げて、荒野で運んだように、イエスのバプテスマと十字架の福音もまた、この世の荒野全体を通して神のしもべによって運ばれるのです。
次に進む前にもう一つ確認しておかなければならないことは、イスラエル人が全焼のいけにえの祭壇を運ぶようにした二本の棒があったという事実です。同様に、水と御霊の福音もまた、二つの部分から構成されます。一つはキリストがヨハネからお受けになったバプテスマであり、もう一つは主イエス・キリストが十字架でお受けになった罰です。この二つが結ばれると、罪の赦しの救済は完了されるのです。全焼のいけにえの祭壇は二本の棒がありました。言葉を換えて言えば、それは取っ手がありました。一本の棒だけでは、祭壇を動かすときに安定しなかったために、一本の棒では不十分でした。
このように、水と御霊の福音もまた、二つの部分から構成されています。イエス・キリストがヨハネからお受けになったバプテスマと、十字架で流された血があります。言い換えれば、イエスのバプテスマと十字架での死とは、一緒に正しい真理を構成する相互補完的な要素です。イエスのバプテスマと血が、罪人の罪の赦しを正しく完了しています。こうした二つ(イエスのバプテスマと十字架での死)は、一つが無視されるなら、もう一つを無視するのと同じことになります。キリストのバプテスマと流された血とがなければ、救済はあり得ません。
もちろん、よみがえりも重要です。キリストのよみがえりがなければ、何の結果もなく、キリストの死は空しくなるでしょう。死んだキリストだけを信じていたなら、主はご自身さえも、誰ひとりお救いできなかったでしょう。しかし、バプテスマをお受けになり、十字架で血を流して死なれ、再び生きるために死に打ち勝ったキリストは、水と御霊の福音を信じて神のもとに来た者にとって、真の救い主になっておられます。イエスはまた、永遠の救済の主、守り手となられました。
キリストのよみがえりなしに、キリストの死だけを広めることは、不合理であり、詐欺にすぎません。キリストのよみがえりなしには、キリストの十字架は神の失敗に過ぎなかったでしょう。またイエスをただのつまらない犯罪者にしてしまったでしょう。これだけでなく、聖書のみことばをあざ笑う結果となり、神を嘘つきにするでしょう。キリストがヨハネからバプテスマをお受けになったので、イエスは十字架で死なれ、死人の中からよみがえられ、それによって神を信じる人々の真の救い主となっておられるのです。
今日のキリスト教徒の多くが従っている、福音全体からイエスのバプテスマを除外している福音は、神を裏切り、人々を欺いて、魂を地獄へと導きます。そのような福音を信じることは、神の永遠の真理のみことばを無視し、退けることです。キリストの十字架だけを教えている偽預言者は、キリスト教を世の数多くの宗教の一つに過ぎないものに変えています。彼らが従っている福音が、水と御霊の真の福音とは全く異なるのは、このためです。
キリスト教は、唯一の神と生けるキリストを信じる唯一の宗教です。しかしながら、キリスト教が他の世の宗教すべて以上のものに見えていて、本物の真理であると主張するとしても、水と御霊の福音への信仰を取り残して、ただ一神教的な信仰を詳しく説明するだけなら、それは愛と真理の信仰ではなく、高慢の宗教に過ぎません。
 
 
全焼のいけにえの祭壇の場所
 
ここでもう一度、全焼のいけにえの祭壇が幕屋の庭の中に置かれた場所について考えてみましょう。幕屋のすべての備品のうち、全焼のいけにえの祭壇は最も大きいものでした。それはまた、祭司が礼拝のために聖所に入ろうとしたときに、順を追って出くわした幕屋の最初の器具でした。全焼のいけにえの祭壇は、神への信仰の出発点であり、人々が神に近づくためには、神の公式に従うことが求められます。つまり、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマと十字架とを信じないことは、誰ひとり生ける神の前に行くことができないために、全焼のいけにえの祭壇は、信じない人よりもむしろ、信じる人になることによって、すべての罪の問題を解決しなければならないという真理を啓示しているのです。
私たちが罪から救われているのは、信じないことによってではなく、神の御子のバプテスマと死を信じることによってなのです。私たちは、神の御子のバプテスマと流された血を信じることによってのみ、罪から救われ、新たないのちを受けています。まさにこの水と御霊の福音が非常に重要で、根本的であり、最も完全であるため、それについて心の中で繰り返し思いを巡らさなければなりません。この福音を認め、それを信じなければなりません。私たちは心の中で、地獄に定められていたことを信じ、また、この信仰とともに、主がバプテスマをお受けになって私たちの罪をすべて負われ、十字架で血を流されることによって、私たちの罪の罰をお受けになったと信じなければなりません。
全焼のいけにえの祭壇とともに、天幕の入口の柱の台座が青銅でできていたことは、私たちがみな欠点のゆえに地獄に投げ込まれるに値するという事実を認めなければならないことを告げています。そして、「罪から来る報酬は死」と告げている神のさばきによると、私たちはみな罪のために地獄行きであることは明らかです。
しかし、ほんとうに地獄に行かなければならない私たちのような、つまらない存在をすべての罪のさばきからお救いくださるために、主は肉のからだでこの地上に来られ、バプテスマをお受けになって人類の罪をその身に負われ、世の罪を十字架に運ばれ、血を流されることによって罰を受けられ、それによってみなさんと私を罪と罰から完全にお救いくださっています。この真理を信じる人々だけが、神の教会に加わり、神の民になることができるのです。天幕の入口の垂れ幕と柱とは、この信仰を持つ人々だけが神の民になり、神の御国に入ることができることを示しています。
 
 

天幕の入口の垂れ幕の四つの色に啓示された真理を信じなければならない

庭の門
みなさんは、主がこの地上に来られ、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに白い撚り糸で織った亜麻布からなる主のみわざを通して、私たちをお救いくださっていることを信じますか。紫色の撚り糸は、イエスが神ご自身であられることを意味します。青色の撚り糸は、神ご自身であられるイエスが人となられ、この地上でバプテスマをお受けになることによって、私たちの罪を負われたことを意味します。そして、緋色の撚り糸は、このように私たちの罪をすべて受け入れられたイエス・キリストが、十字架につけられることによって、ご自分の尊いからだをいけにえとなさったことを意味します。バプテスマをお受けになって十字架につけられたイエスが、死人の中からよみがえられ、それによってみなさんと私を完全にお救いくださっていると信じることは、私たちにとってきわめて重要です。
この真理をほんとうに信じる人々だけが神の教会の働き手となることができるのです。天幕の入口の柱は、働き手を指します。そうしたことは、このように信じている人々だけが神の民であり、そのような人々だけが働き手や柱として神に用いられることができることを示します。
白い撚り糸で織った亜麻布は、神の民、義人となっている者は、ほんとうに心にまったく罪がない者であることを教えています。義人とは、青色、紫色、緋色の撚り糸の真理を信じることによって、罪の赦しを受けている者です。私たちの主は、この地上に来られ、ヨハネからお受けになったバプテスマと十字架の血を通して、すべての罪人を救っておられます。主は、ご自分の尊いいのちをささげられることによって、私たちを救っておられるのですから、私たちは水と血とによって来られた主を信じざるを得ません (ヨハネI 5:6)。
紫色の撚り糸は、イエスが王の王であられるという事実を指します。言い換えれば、主が卑しく欠点に満ちた私たちを、ご自分の尊いいのちをささげることによって、お救いくださり、それによって私たちを神の民としてくださっているのだと信じなければならないのです。さて、この真理を心の中で信じるだけで、完全な救済への信仰によって、私たちはみな罪のない義人となることができます。私たちがそのような信仰を持てるように、この信仰の贈物をくださっていることを、神に感謝しなければなりません。
実際、私たちがこの真理を信じるようになっていることは、それ自体が神からの贈物です。罪からの救いもまた、神の贈物です。神は、私たちよりはるかに尊いご自分のいのちをお与えになることによって、私たちの罪からお救いくださっていないのでしょうか。イエスがバプテスマをお受けになり、十字架で死なれ、死人の中からよみがえられ、それによって救済の賜物をくださっておられるため、今この福音を信じる者はみな、救済の贈物を受け、神ご自身の民となることができます。救済のに関しては、私たち自身の働きは全くありません。青色、紫色、緋色の撚り糸によって来られたイエス・キリストをただ信じること以外に、私たちにとってすべきことは何ひとつありません。この救済は私たちへの神の賜物です。
イエスへの信仰はまず、「私たちは、ほんとうに地獄に行く定めにあるのだろうか、ないのだろうか」と考えるところから始まります。なぜでしょうか。なぜなら、最初に罪深い真の自分自身を認識して認めるとき、イエスが私たちの罪のために罪過のためのいけにえとなられた真理を信じざるを得ないからです。罪を犯しているときでも、救われることができるのは、私たちに代わって、ご自身をいけにえとなさった主によって与えられた救済の賜物によって可能にされるのです。私たちは、イエスを信じるだけで救われているでしょうか。それによって私たちは、信仰によって神の民となっているでしょうか。本当にそのような信仰を持っておられますか。私たちの救いが自分の働きによるのではなく、神の贈物であると告白できるでしょうか。私たちが神から与えられた救済の賜物の前に、私たちはみな地獄に定められていたことを本当に認めたでしょうか。こうした問題をもう一度、再検討しなければなりません。
 
 

幕屋はイエスの詳細な肖像

 
幕屋に啓示された真理は、偽預言者の口を封じます。私たちが彼らの前で幕屋のみことばを開き、それについて話すと、彼らの偽りがすべて明らかになります。
天幕の入口の柱は、すべて金で覆われていました。これは、幕屋のどこにも人間の痕跡がないことを示しています。幕屋の内側のすべてのものは、金で覆われていました。その入口の柱は金で覆われており、柱の上部もまた金で覆われていました。しかしながら、柱の台座は青銅でできていました。これは、私たちの罪と欠点のため、みなさんと私はみな地獄に定められていたことを告げています。そうではありませんか。ほんとうにそうではありませんか。みなさんもまた、毎日犯す罪と欠点のために地獄に定められていたことを、ほんとうに信じておられますか。みなさんが罪のために地獄に定められたことは、正しいさばきが神にもたらされます。では、このさばきを認めるでしょうか。そうしなければなりません。これは単なる知識ではなく、信じることによって受け入れなければならないことです。
聖書には、次のようにあります。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ 10:10)。私たちは、心の中で自分が地獄に定められていたことを認めるとき、および主が青色、紫色、緋色の撚り糸に啓示されたみわざによって成就された救済の賜物をお与えくださることによって、私たちをお救いくださっているという真理を信じるとき、私たちはみな、聖所に入って生きることができるのです。私たちは、主がこの地上に来られ、私たちよりはるかに尊いお方がバプテスマをお受けになることによって私たちの罪を負われ、十字架で血を流して死なれ、そうすることによって私たちを罪をすべて洗い流されて、罰からお救いくださっていると信じます。私たちを青色、紫色、緋色の撚り糸を通してお救いくださることによって、主は私たちを義人になさっています。
私たちは、これをほんとうに心の中心で信じなければなりません。この真理を心の中心で信じる人々だけが神の民になり、働き手となることができるのです。この真理をただの人間の作った考えの一つとして受け入れることは、真の信仰ではありません。「なるほど、幕屋にはこういう意味があるんですね。青色、紫色、緋色の撚り糸については、よく教会で聞いていますが、そういうふうに解釈できるのですね。」 今までは真理をこのように自分の考えでのみ信じていたとしても、今は水と御霊の福音を心の中で真剣に信じなければならない時なのです。
天幕の入口の柱の台座は、青銅でできていました。しかし、青銅の台座は、天幕の入口の五本の柱にだけ用いられています。対照的に、至聖所の垂れ幕のための柱には青銅の台座がありませんでしたが、そうした柱の四つの台座は、みな銀でできていました。聖書では、銀は神の賜物と恵みを示しており、金は心の中心で信じる真の信仰を示しています。一方、青銅は罪のさばきを示しています。私たちはみな、罪のために神によってさばかれるように定められていたのではありませんか。みなさんの一人ひとりが、罪と欠点を神と人々の前でさばかれなければなりませんでした。そうではありませんか。みなさんだけがこのようであると言っているのではありません。むしろ、神の前で私自身もこのようであると認めます。つまり、これをみなさんに対してだけでなく、自分自身に対しても問うているのです。そして、私に関して言えば、私は欠点のために神にさばかれるように定められていて、また、律法に基づいて、罪のために地獄に定められていたことを、神の前で完全に認めます。私は、これをはっきりと認めます。
そのような私のような存在のために、主はこの地上に来られたのです。主が人として肉において来られ、私のすべての罪をバプテスマをお受けになることによって、ご自分のからだに負われ、十字架で死なれることによって私の罪の罰をすべてお受けになり、そして死人の中からよみがえられて私の完全な救い主になっておられます。これが、私が信じていることです。そして、そう信じたとき、神が創造の前からご計画になっていた私の救いは、すべて成就されたのです。私が心の中心でこれを信じたときに成就されました。
みなさんの心もまた、このようです。この真理を信じることによって、神がこの世界の基を置かれる前から、すでにイエス・キリストのうちにご計画されていた救済もまた、みなさんの心の中で成就されるのです。みなさんを神の民にする神のご計画とは、みなさんがこのご計画を心の中心で信じるときに成就されます。真の救済が私たちの心の中心で起こるのは、心の中で信じることによってなのです。救いは、私たちの肉の考えによっては成し遂げられません。救いは、どんな神学的教義によっても起こりません。むしろ、それは真理への信仰によってのみ起こるのです。
 
 

救済は、創造の前からイエス・キリストのうちに計画されていた

 
救済は、イエスのバプテスマと十字架の血を通してイエス・キリストのうちにある私たちに与えられている賜物です。この救済は、この地上で約2000年前に実際に成就されました。そして、誰ひとり、この救済の賜物からは除外されていません。イエスが、すべての人の罪を消し去る神の救済のご計画を成就されたからです。ですから、この救済を心の中心で信じた人々はみな、神の子どもになっているのです。彼らの罪はすべて雪のように白く消し去られており、ただで罪の赦しを受けています。
しかし、この世には罪の赦しを受けていない人々が大勢います。こうした人々とは誰でしょう。彼らは、真理を知っていても、それを信じていない人々です。心の中心で、自分は地獄に定められていることを告白していない人々、そして水と血と御霊の福音を認めていない人々――そのような人々は主とは何の関係もありません。
神の救済は、自分の罪深い本性を知り、罪のために罰されるよう定められ、地獄に捨てられると認める者だけに与えられるのです。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍された、天幕の入口の垂れ幕の五本の柱は、どこに据えられていたでしょう。青銅の台座の上に据えられていました。みなさんと私は罪のために地獄に定められていました。この事実を認めるときにのみ、私たちの救いがこの認識の上に据えられることができます。「神は、実に、世を愛された」ために、みなさんと私のために、主はこの地上に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架で血を流され、ご自身をいけにえとなさり、それによって罪からの救済をお与えくださっているのです。
ですから、みなさんと私は、ほんとうに心の中心で水と御霊の福音を信じなければなりません。少なくとも一度は、心が、「私はほんとうに地獄に定められているけど、主が水と御霊によって私をお救いくださっているのだ」と認めなければなりません。それで、救われるために心の中で信じなければならないのです。ローマ人への手紙 10:10には、次のようにあります。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
救済をほんとうに心の中心で信じ、それを口で告白しなければなりません。「主は、青色、紫色、緋色の撚り糸によって、お救いくださっている。私は地獄に投げ込まれ、罰されるはずだったけど、主が身代わりとなって私の罪を洗い流され、私の罪を負われ、私の代わりにすべての罰をお受けになり、それによって完全にお救いくださっている。主は私を完全に神の子どもとなさっておられるのだ。」 このように、心の中心で信じて、口で告白しなければなりません。信じておられますか。
もしかして、青色、紫色、緋色の撚り糸の真理を信じていても、および、主がこのようにしてお救いくださっていると信じていても、みなさんはまだ地獄に定められていたという事実を認めておられませんか。聖書には、次のようにあります。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ 3:23)。真の信仰とは、すべての人が罪を犯しており、そのために地獄に行かなければならないとしても、主がこの地上に来られ、バプテスマをお受けになり、十字架で死なれ、死人の中からよみがえられ、それによって私たちを完全に義人となさっているのだと信じることです。
この救済は、なんとすばらしいものでしょう。ただ驚くべきことではありませんか。幕屋は、どのようにでも作られたものではなく、詳細にわたる神のみことばに従って建てられました。幕屋を通して、詳細に神はご自分の尊いいのちをささげることによって、私たちをお救いくださると預言なさいました。神は幕屋を通して、イエスがバプテスマをお受けになり、十字架で死なれることによって貴重な救済をお与えくださること、私たちがすべきことは、これを心の中心で信じることであると告げています。だれがみなさんのために救済を与えることができるでしょう。みなさんのような人の肉のかたちで来られたイエス・キリストを信じることによって、みなさんは救われます。
もし誰かがみなさんの罪を負い、みなさんの代わりに罰されたなら、感謝するのに十分な理由がありますが、私たちよりも百万倍も気高くて豊かな主イエスは、私たちのためにご自身の貴重ないけにえをささげました――これは、どれほど感謝するでしょう。いと高き主が青色、紫色、緋色の撚り糸で、私たちに救いを与えてくださっているという事実は、どれほど貴重な贈物でしょう。この贈物はどれほど貴重でしょう。どうしてそれを心の中で信じられないのでしょうか。
自分の罪深さを認める者全員が、この真理を信じなければならないのは、このためです。この真理を信じる資格がある人とは、自分が地獄に追い出されざるを得ないことを認める者です。自分がほんとうに罪人であり、地獄に確実に定められていると認める者だけが、神の尊い救済を信じ、同様に、信仰によってこの救済を受ける資格があるのです。真理を心の中で信じる者は、神の教会の働き手となることができます。
私たちは、たとえ自分の限界能力を持っていても、この世界で有名になった人々と自分たちを比較したとしても、自慢することのない卑しい存在です。これが事実であるのに、聖なる、完全で、全能の神の前に、どうして自分たちを自慢できることがあるでしょうか。神の前でできることはただ、私たちは自分の欠点のために死なざるを得ないとしても、私たちをお救いくださっていることを認めることだけです。
聖書には、次のようにあります。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ 6:23)。確かに、私たちは自分の罪のために死の報いを払わなければなりませんでした。しかし、主が、地獄に定められていた私たちをお救いくださっているので、今はこの信仰によって天国に入ることができるのです。この信仰が取り除けば、私たちはみな百回も地獄に定められます。そうではありませんか。もちろん、そうです。私たちはみな、地獄へ追い出されるに値します。
しかし、計り知れない愛を持つ、いと高き主が、この地上に来られ、バプテスマをお受けになり、血を流され、十字架で罰されたので、私たちは今、確実な地獄の目的地から免れています。主は、私たちのために尊いいのちをささげてくださっておられるため、私たちは罪の赦しを受けています。そうであるなら、私たちは主がただ一度ですべての罪から救われ、そのために救済の賜物を与えてくださっていることを、どうして信じられないのでしょう。どうして義人になることを拒めるでしょうか。これをどうして信じられないのでしょう。天幕の入口の垂れ幕用の柱が金で覆われていたように、ですから私たちも信仰のうちに心を完全に包まなければなりません。私たちは完全に、そして全体的に信仰をもって自分自身を覆わなければなりません。水と御霊の福音を心の中心に信じなければなりません。この真の福音を心の中心で信じることなしに、神の前に行くことはできません。
私たちがほんとうに地獄に縛られる罪人になることができるのは、信仰によるものです。私たちはまた、神の前で義とされることができるのは信仰によるものです。つまり、罪人が主の水と血とによって私たちをお救いくださっていると信じることによって、罪人は罪の赦しを受けることができます。このようにして、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル 9:27)という主のみことばが成就されるのです。
私たちがこの世に一度生まれたとき、私たちはすでに自分たちの罪のために罰されることになっていました。しかしながら、神は私たちの主イエス・キリストを通して、救済の賜物を私たちにお与えくださっています。したがって、私たちは心の中心で水と御霊の福音を信じることによって、神の子どもになることができています。神は信じるすべての人に救済の無条件の愛をお与えになっています。しかし、神は不信仰の罪のために、この福音を信じない人々をさばき、罰するでしょう(ヨハネ 3:16-18)。
 
 
私たちは、こうした救済の二つの事実を信じなければならない
 
私たちは罪のために罰され、死に至らざるを得なかった罪人でしたが、神がご計画になり、私たちに与えてくださっている青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布の救済を信じることによって、私たちは罪の赦しを受けています。ほんとうに、私たちは「私は、ほんとうに地獄に定められている」と神に告白し、「だけど、主が私を水と血とによってお救いくださっていると信じます」とも告白しなければなりません。水と血と御霊の福音、つまり、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布の真理を信じなければなりません。私たちが救われているのは、心の中心にこの真理を信じることによってです。私たちが救われるのは、福音を信じることによってなのです。
私たちは、水と御霊の福音を信じることによって救われています。人々が神ご自身の民になることができるのは、主が青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を通して地獄に定められたすべての人間をお救いくださっていると信じるときだけです。信じますか。青色、紫色、緋色の糸、それに撚り糸で織った亜麻布への信仰だけが、真の信仰なのです。
これが天幕の入口の垂れ幕に啓示された霊的な意味です。信じますか。人々は心に真理を信じるようになると、真の信仰について正しく話すことができます。本物の信仰とは、心の中で信じずに唇だけで真理を告白することではなく、心の中心で真理を信じながら、口で信仰を告白することです。みなさん全員が、自分を永遠に救っている青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布による救済を信じなければなりません。
どれほど懸命に神に仕えても、神に十分感謝しきれません。では、どうして救済を忘れることができるでしょうか。主が、地獄に定められざるを得ない、みなさんと私をすべての罪からお救いくださっていることをどうして忘れることができるでしょう。私たちの欠点が毎日明らかにされるとき、どうして水と御霊の福音を忘れることができるでしょう。救われる道がまさにこの福音の他にないのに、どうしてこの福音を無視できるでしょうか。私たちはいつも感謝しています。いつも喜んでいます。いつも主をたたえずにはいられません。
この真理を知らない人々は、神は人間をただのおもちゃにして、からかっているのだと言います。彼らは神に敵対し、「神は退屈しているに違いない。私たちを神のおもちゃとして造り、私たちで遊んでいるのさ。神は私たちが罪を犯すことを知ってるけど、私たちが罪を犯すのを見ているだけで、今、神は罪人を救っていると言います。神は私たちをからかっているだけじゃないですか。神は私たちを造って、それから神が感じるままに私たちで遊んでいるだけです。それで、神は私たちをおもちゃにしたのではありませんか。」 無数の人々がこのように考えています。もし神がほんとうに自分たちを愛したなら、自分たちを至らない罪人として造る代わりに、完全な存在として造るべきだ、と言って、彼らは神に恨みを抱きます。神の心に無知のままであり、非難している指を神に向ける人は非常に大勢います。
 
 
私たちは神に造られた被造物
 
植物や動物のように、人間も神によって造られた生き物です。しかし、神は私たちを植物や動物のような人間に造られませんでした。神が私たちを造る前から、神は私たちを御子イエス・キリストのうちにご自分の民となさり、私たちを神の栄光に加わることをお許しになることをお決めになっていました。神が私たちを創造されたのは、この目的のためです。人間の創造の目的は、他の被造物の目的とは異なりました。それでは、神が人々を造られた目的とは何だったのでしょう。神の栄光を単純にたたえるように造られている植物や動物とは異なり、彼らがすべての栄光と素晴らしさのうちに神の御国で永遠に生きるためでした。神による人間の創造の目的とは、人間が自分の罪深い性質を知り、創造の主として彼らをお救いくださっている救い主を認めて信じ、それによって将来、完全になり、神の御国に入ることを可能にすることでした。
神は私たちをロボットやおもちゃとして造られたのではなく、私たちが創造主を認め、救い主を信じ、水と御霊の福音を通して新しく生まれることによって、神の子どもになるように私たちを造られました。このように、この私たちの創造の目的に従って、私たちは栄光を受け、享受します。この地上では、福音で他の魂に仕えるために自分を犠牲にしていますが、神の御国では仕えられます。神の人類の根本的な目的は何だと思いますか。それは人間が神の素晴らしさと栄光を永遠に享受できるようにするためでした。人間を創造する上での神の目的とは、彼らを神の民とされ、彼らが神ご自身の素晴らしさと栄光に加わることができるようにすることでした。
なぜ私たちは生まれたのでしょう。人生の目的とは何でしょうか。私たちはどこから来て、どこに向かっているでしょう。そのような哲学的な質問にはまだ答えが出ていないので、人々はまだ問題を解決しようとして悩んでいます。自分の未来を知らずに、占い師や魔術師に目を向ける人さえいます。こうしたことすべては、私たちを創造した神を認めること、そして神が人類にくださっている救済を信じることに対する、人類の失敗の結果です。
しかしながら、私たちを神ご自身の子どもにするために、神は私たちを他のすべての被造物とは異なるように造られました。そして神は創造の前から、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で、私たちの救済をご計画なさって、水と御霊によって私たちをお救いくださっています。青色、紫色、緋色の撚り糸に啓示された救済の律法で、私たちをお救いくださることによって、神は確かに私たちに対する神の目的を成就なさっています。
したがって、私たちは今、イエス・キリストのうちに永遠のいのちを私たちに与えるという、この神の目的を知り、信じなければなりません。私たちがこれを知らなければ、人生の謎は永遠に解決されません。なぜ私たちはこの世に生まれたのでしょう。なぜ生きなければならないのでしょう。なぜ食べなければならないのでしょう。なぜ私たちは運命的に生きなければならないのでしょう。生と死、老化と病気の問題をどのように解決できるでしょうか。なぜ罪のために地獄に行かなければならないのでしょう。なぜ人生はそんなに悲劇的なのでしょうか。なぜ人生は非常な痛みがあるのでしょう。そのような質問はすべて、イエス・キリストのうちに私たちをお救いくださっている水と血の福音を通して、神からの答えを見つけることができます。
神が、地獄に定められていたみなさんと私をすべての罪からお救いになり、永遠のいのちを受けるように、神は私たちがこの地上に生まれることをお許しになり、私たちの疲れた暗い生活の中で天の御国を望むようにさせました。私たちが水と御霊の福音を信じるとき、人生の謎はすべて解決されます。
 
 
神は、あなたと私のために偉大で立派な計画を立てられた
 
神が計画されたように、神は御子イエス・キリストをこの地上に遣わされ、バプテスマを受けさせることによって、御子の尊いからだの上にすべての罪を移し、御子を罰され、私たちのために御子を死に至らせ、それによって永遠の滅びに直面していた私たちを、すべての罪、罰、呪いからお救いくださっています。さて、私たちはこの真理を信じなければなりません。そして、不可避の滅びの定めから私たちを神の御子の御国に移し、永遠のいのちを享受することができるようにしてくださった神に感謝をささげなければなりません。言い換えれば、神からの救済の真理とは、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍され、天幕の入口に掛けられた垂れ幕に啓示されている水と御霊の福音です。
天幕の入口の柱の青銅の台座は、私たちに根本的な罪深い性質を示し、それによってイエスの水と血の福音を信じることを可能にします。天幕の入口の柱と、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって刺繍された幕は、地獄に定められていた私たちを、イエス・キリストの尊い「いけにえ」を通してお救いくださっている神のあわれみを啓示しています。このように水と御霊の福音を信じることによって、私はすべての罪から救われています。みなさんもそう信じますか。
幕屋に啓示された真理を信じますか。みなさんと私はみな、ラッキーです。地獄に直行している多くの人々がいるにもかかわらず、私たちは真理を見つけ、今ではイエス・キリストのうちに生きているために、ほんとうに素晴らしい祝福です。私たちは確かに、この世に生まれ、罪を犯すしかなく、地獄に定められ、臆病な生活を送り、地獄に追い出されることを避けることはできず、この世で無価値で無益でした。しかし、それにもかかわらず、私たちの主はこの地上に来られ、バプテスマをお受けになり、十字架で死なれ、死人の中からよみがえられ、それによって永遠に私たちを罪からお救いくださっています。私たちは、もはや地獄とは何の関係もないだけでなく、価値があり、有用で、機能するようになったという事実に驚かざるを得ません。
聖所に入ることができる者とは、ただ一度で罪の赦しを受けている人です。主は私たちの過去の罪を消し去っただけでなく、バプテスマをお受けになることによって、私たちの生涯のすべての罪を負われ、十字架で死なれることによって、私たちのすべての罪を永遠に消し去っておられます。したがって、このようにして、一度で成就された救済を信じる者だけが、祭司の信仰を持つ者であり、そのような人々だけが聖所に入ることができるのです。
厳密に言えば、幕屋の制度によると、普通の祭司は至聖所に入ることはできませんでしたが、大司祭だけが入ることができました。そして、永遠の大祭司はイエス・キリストに他なりません。イエス・キリストがこのように私たちをお救いくださっていると信じる者だけが、神の家に入ることができ、イエス・キリストとともに至聖所にも入ることができるのです。
「これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブル 10:18-22)。自分自身を地獄に行く定めにある邪悪な者だと認識し、きよい水(イエスのバプテスマ)とイエスの血できよめられていることによって、すべての罪の赦しを受ける者だと認識する者は、神の御国に入り、永遠に神とともに住むことができます。
私たちの罪がきよめられているのは、私たちが毎日罪を悔い改めたからではなく、主が私たちの罪をすべて永遠に消し去られているのは、主がこの地上に来られ、バプテスマをお受けになって、私たちの世の罪をただ一度で負われ、十字架で罰されたからです。「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」 イエスはバプテスマをお受けになり、人類の罪をただ一度で負われ、世の罪を十字架まで運ばれて死なれ、死人の中からよみがえられ、それによって私たちを永遠にお救いくださっています。この真理を心の中心で信じる人々だけが、聖所に入ることができます。主が私たち全員を一度で救われ、私たちの全生涯と全宇宙のすべての罪を処理してくださったと信じることによって、ただ一度で罪の赦しを受けます。
主がバプテスマをお受けになることによって、ただ一度で私たちの罪を負われたと信じますか。そして、主が世の罪を背負われ、十字架で死なれ、死人の中からよみがえられ、それによってただ一度で私たちの完全な救い主になっておられることを信じますか。33年間の生涯を通して、主はこの世のすべての罪を永遠に消し去っておられます。そうした罪をすべて消され、これっぽちも残されませんでした。これが私の心の中心にあると信じます。イエスがバプテスマをお受けになり、世の罪をただ一度で負われ、十字架で血を流されることによって、私のすべての罪を罰をお受けになり、ただ一度で死人の中からよみがえられることによって、私の完全な救い主になっておられることを信じます。私がすべての罪から救われているのは、この信仰によるのです。
これを信じることによって、私たちはみな天の御国に入ることができるのです。この世に生きていながら、この信仰について毎日考えなければなりません。なぜでしょう。まだ犯していない罪でさえ、主が取り除かれたからです。しかし、罪を犯すたびに、告白しなければなりません。そして、そうした罪でさえ、主がバプテスマで負われたことを、心の中心で信じなければなりません。もう一度、信じることによって、主が世の罪を処理なさったのだと認めなければならないのです。なぜでしょうか。水と御霊の福音について何度も何度も反芻しなければ、私たちの心は汚れるからです。まだ犯していない罪でさえ主が取り除かれたので、私たちの弱点が明かされるときはいつでも、信仰をもって、青色、紫色、緋色の撚り糸のみわざを主に感謝しなければなりません。
主がこの地上に来られ、私たちの罪をただ一度で負われたことを、私たちはみな信じなければなりません。イエス・キリストがバプテスマを通して、世のすべての罪を受け入れられたために、ただ一度で、私たちのすべての罪がイエス・キリストの上に移されました。イエス・キリストがバプテスマをお受けになって、十字架で死なれることによって、私たちに永遠の救済をお与えくださっているので、この真理をしっかりと勇敢に信じなければなりません。私たちの主イエスは、ヨハネからお受けになったバプテスマへのしっかりした信仰で、神の御国を奪い取ることができるとおっしゃいます。イエスは、次のようにおっしゃいました。「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」(マタイ 11:12)。私たちが体、思い、心、肉の欠点のすべての罪を赦されているのは、この信仰によるのです。私たちの主がバプテスマによって、こうした罪をすべて負われ、罪の罰をすべてお受けになったと信じることによって、私たちは神の御国を奪い取るために、すべての罪から救われなければなりません。
みなさんがどれほど至らない存在であっても、この信仰さえ持てば、みなさんは信仰の民です。みなさんは至らない存在ですが、主はみなさんを完全にお救いくださっているので、これを信じなければなりません。私たちの主が永遠に生きておられるように、私たちの救いも永遠に完全です。私たちがすることはすべて、イエス・キリストが私たちに与えてくださっている救済を信じることです。そうなのです。私たちは心の中でイエスを信じることによって救われています。
主は私たちの完全な救い主であられるので、私たちの罪の問題をすべて解決なさっています。主がバプテスマをお受けになり、十字架で血を流され、一度死なれ、死人の中からよみがえられ、それによって永遠の救済をお与えくださっていると信じますか。この救済は、どれほど驚くべきものでしょう。私たちは行ないにおいて不完全ですが、この真理を信じることによって、まだ神の御国に入ることができるのです。私たちは神の御国に入り、神の栄光と神の素晴らしさをすべて享受することができるのは、信仰によるのです。水と御霊の福音を信じる者は、それを享受する資格があります。しかし、この信仰がなければ、誰ひとり神の御国に足を踏み入れることさえできません。
青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を通して、私たちをお救いくださっている真理は、創造の前からイエス・キリストのうちにご計画されていました。神が私たちをお救いくださることを決められたので、主はこの世に来られ、バプテスマをお受けになって、私たちの罪をただ一度で負われ、世の罪を十字架に運ばれ、ただ一度罰を受けられ、一度死なれ、一度死人の中からよみがえられ、それによって私たちに永遠の救済をお与えくださっています。これは、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布のみわざによって作られた救済であり、私たちはこの救済を信じなければなりません。そうしてはじめて、私たちは信仰によって完全に神の民となるのです。そうしてはじめて、私たちは信仰によって神の働き手となるのです。私たちは、完全な神の御国に入り、永遠に生きます。
完全な神が私たちを完全にお救いくださっていますが、私たちの肉がまだ不完全であるために、私たちは毎日まだ不完全です。しかし、どうでしょう。主が完全にバプテスマを受けられたとき、実際に私たちの罪を負われたのでしょうか、負われなかったのでしょうか。もちろん、負われました。    主がバプテスマによって私たちの罪を取り除かれたため、私たちは罪がすべて確かにバプテスマによってイエスの上に移されたのだと認めます。みなさんは、罪が本当にイエスの上に移されたと認めますか。そうすることによって、イエスは私たちの罪と世の罪を十字架まで運ばれ、十字架につけられ、それによって神の救済の計画を完全に成就なさったのです。私たちは不完全ですが、信じることによって神の御国に入ることができます。何を信じることによってでしょう。イエスの青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布のみわざを信じることによって、私たちは神の御国に入ることができるのです。
罪の赦しを受けた後、教会で良い信仰持ち、うまくやっているのは、不完全な者です。神の教会は強い者が支配する場所ではなく、不完全な者が信仰によって支配する場所です。なぜでしょう。神の教会では、自分が不完全であることがわかっている場合にのみ、まだ信仰によって主に従うことができるからです。それは、傷の思いやりと癒しの場所です。天国は、幼児が「まむしの子に手を伸べ」(イザヤ 11:8)、噛まれてはならず、この地上の楽園とは神の教会にほかなりません。これは、神の教会の驚くべき奥義です。
私たちが神の御国に入るのは、信仰によるのです。天の御国を奪うのは、堅固な信仰によって攻める者です。みなさんは、この真理を心で信じますか。私も信じており、私が神に感謝をささげるのは、このためです。
私がこの福音に仕えているのは、神に感謝しているからです。青色、紫色、緋色の撚り糸の真理を知らない人が、まだ大勢いるために、福音に仕えます。しかし、今、他の人がこの福音に仕えるかどうかという問題は別として、最初に自分で福音を信じる必要があります。
イエスがすべての罪から、ただ一度でみなさんをお救いくださっているという真理を信じ、それによってすべての罪から救われることを願い、祈ります。