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幕屋の研究

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· 至聖所に入れる人々 (出エジプト記 26:31-33)

至聖所に入れる人々
(出エジプト記 26:31-33)
「青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作る。これに巧みな細工でケルビムを織り出さなければならない。これを、四つの銀の台座の上に据えられ、その鉤が金でできている、金をかぶせたアカシヤ材の四本の柱につける。その垂れ幕を留め金の下に掛け、その垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。」
 
 

幕屋の材料

 
幕屋は、四種類の覆いで覆われた小さな折りたたみ式の家でした。それは、さまざまな材料でできていました。――例えば、その壁はアカシヤ材の板48枚でできていました。それぞれの板の高さは4.5 m(10キュビト:15フィート)、幅は67.5 cm(1.5キュビト:2.2フィート)でした。すべての板は金で覆われていました。
幕屋の覆いは、次の材料でできていました。第一の覆いは、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍された幕でできていました。第二の覆いは、やぎの毛でできていました。第三の覆いは、赤くなめした雄羊の皮でできており、第四の覆いは、じゅごんの皮でできていました。
私たちがすでに調べているように、天幕のすべての入口は、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍されていました。
至聖所の入口の垂れ幕に用いられた四本の撚り糸の色は、人々を罪からお救いになっているイエス・キリストのみわざを啓示しています。こうした四つの色は、イエス・キリストが私たちに罪の赦しの賜物をお与えになることを啓示する真理の光であるため、こうした四つの色は、信者たちが非常に感謝するべきものです。
聖所と至聖所の入口の材料は、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍された布でした。天幕のすべての入口は、こうした布でできていました。人が聖所へと続く天幕の入口を通り抜けた後には、至聖所の入口の垂れ幕があります。至聖所の入口は、主が青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に啓示された四つのみわざで、私たちの罪が贖われていることを示します。
聖所と至聖所に用いられた青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布とは、メシヤがこの地上に来られ、バプテスマをお受けになり、血を流され、それによって救済のみわざを完成なさることを啓示している影なのです。これらのうち、青色の撚り糸は、イエスがお受けになるバプテスマを啓示する影であり、緋色の撚り糸は、イエスが負われる世の罪のためにささげる「いけにえ」の影なのです。私たちの罪を洗い流すために、主がバプテスマをお受けになり、罪の罰をお受けになりました。これが、至聖所の入口の垂れ幕が暗示するものです。
 
 
幕屋の床
 
聖所と至聖所の入口の材料
幕屋は、地面である低地の砂の上に建てられました。ここでの地面とは、人々の心を指します。幕屋の床が砂と地面
でできていたことは、イエスが私たちの心の罪を消し去られるために、人の肉のかたちで、この地上に来られたということも教えています。イエスが人類のすべての弱点を経験なさったので、お受けになったバプテスマと、十字架で流された尊い血によって、すべての罪を洗い流されました。私たちの主は、この世に真理のまばゆい光を照らされ、人類の根本的な罪の問題を解決なさるために、この地上に来られたのです。イエスは、全宇宙とその中のすべてのものを造られた創造の神であられ、すべての呪いと罪から人類をお救いになるために、この地上に来られた救済の光なのです。
 
 
至聖所の柱
 
至聖所の柱は、アカシヤ材の四本の柱でできていました。聖書では、数字の「4」は苦しみを意味します。至聖所の柱は、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に啓示された救済の輝く光を信じない限り、人々が救われないことを示します。つまり、これらは、神ご自身の苦しみを通して、神ご自身によって成就された水と御霊の福音を信じることによって、救済のまばゆい光を発見できるということを啓示しています。
至聖所に入り、神の御前に立ちたい人はだれでも、神が備えてくださった救済の福音である、水と御霊の輝く福音を信じなければなりません。しかし、神に定められた福音を信じることなく、神のもとに来る人々は、神の燃える怒りに直面するでしょう。神の前に立つ人々は、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に啓示された、まばゆい真理を信じる信仰を持たなければなりません。真理の輝く光を通して、私たち全員が神の宿られる至聖所に出て来なければなりません。
旧約聖書に啓示された罪の赦しの福音とは、青色、紫色、緋色の撚り糸に啓示された救済の真理です。新約聖書に啓示された罪の赦しの福音とは、イエスがお受けになったバプテスマ、イエスの十字架の血、そしてイエスの復活を通して成就されました。私たちは、この最も聖なる福音を信じる信仰を持っているときにのみ、至聖所に入ることができるのです。
 
 

私たちは、青色、紫色、緋色の撚り糸に啓示された救済を信じなければならない

 
ヘブル人への手紙 11:6 には、次のようにあります。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」 神は永遠に生きられるでしょう。そして、神は私たちに永遠のいのちをお与えになるために、人の肉のかたちでこの地上に来られ、バプテスマをお受けになり、十字架につけられて死なれ、死人の中からよみがえられ、それによって私たちの救い主になっておられるイエス・キリストへの信仰により、罪の赦しを受けるように祝福なさっています。私たちの罪のために身代わりとなったさばきにより、私たちの古い自分のすべての罪を洗い流され、水と御霊の福音を信じる信仰を私たちの魂にお与えになることによって、主は完全無欠の聖さを私たちにまとわせておられます。
主が私たちに新しい「いのち」をまとわせてくださることによって、主は私たちが神の御前に行き、神に祈ることを可能になさっておられます。さらに、主はまた、私たちが神の御前に立ち、神を私たちの父と呼べるという恵みもお与えになっています。こうしたすべてのことは、神が私たちにお与えになっている救済によってもたらされている神の賜物なのです。青色、紫色、緋色の撚り糸の真理を通して、この救いを私たちにもたらしてくださることによって、神は私たちが救われ、神の御前に立つことを可能にする信仰を持たせてくださっています。
もし、みなさんと私が明日死んでいたなら、私たちはみな、天国に行くと十分に確信しているのでしょうか。ここで私たちの将来について少し考えてみましょう。人々が死ぬと、彼らはみな、神のさばきの座に立つようになります。これは、私たちがこの地上で犯してきたすべての罪の問題を解決しなければならないという意味にすぎません。――では、どうしたらこの問題を解決できるでしょうか。ただ盲目的にイエスを私たちの救い主として信じるなら、これは単なる宗教を信じているということを意味するのではありませんか。 
私の人生には、水と御霊の福音について知らず、十字架の血だけを盲目的に信じることによって、自分の罪の問題を解決しようとした時期がありました。当時、私はイエスが自分のような人々のために、十字架につけられて死なれ、そして罪のすべての問題を解決なさった、と固く信じていました。しかし、この信仰によっては、私が犯した日々の罪の問題を解決することはできませんでした。それどころか、ここで私の霊が完全に新しく生まれたのは、青色、紫色、緋色の撚り糸に啓示された救済を信じることによってでした。
私たちがイエスを救い主として盲目的に信じるとき、私たちのすべての罪は本当に消し去られるのでしょうか。私たちを聖なる神の前に行けるようにする信仰は、イエスを盲目的に信じることによっては見いだされず、真理を知り、信じることによって見いだされるのです。私たちがどれほど熱心にイエスを救い主として信じても、青色、紫色、緋色の撚り糸で、罪人をお救いくださっている真理の福音を知らなければ、聖なる神にお会いすることはできません。私たちが聖なる神にお会いできるのは、水と御霊の福音を信じる信仰を持つときだけなのです。では、どのような信仰の材料が、救われた者として神の前に立てるようにする真理を構成するのでしょうか。私たちにそのような信仰を持たせる福音とは何でしょうか。この福音とは、水と御霊の輝く福音なのです。
私たちの主が、この地上に来られ、ヨハネからバプテスマをお受けになることによって、世の罪を負われ、十字架につけられ、ご自分の血を流され、三日目に死人の中からよみがえられ、それによって信じる私たちのために、神の完全な救済を成就なさいました。私たちの魂が罪をきよめられるように望むなら、私たちが真理のまばゆい支配に入ることができるのは、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマ(マタイ 3:15)と、十字架の血(ヨハネ19:30)を信じるときだけなのです。私たちの救い主として、水と御霊の輝く福音によって来られたイエス・キリストを信じない限り、決して白い雪のようにきよい心を持つことはできません。
時々、私たちは自分の肉の弱さを見て、それらを慨嘆します。しかし、たとえそうでも、水と御霊の福音のため、主がバプテスマと血によって、私たちのすべての罪を消し去っておられるために、私たちはまだ神に感謝をささげるようになります。みなさんと私は、それ以外の方法で決して自分たちが聖になることはできませんでしたが、水と御霊の福音を信じることによって、聖になっているのです。主は、私たちを罪から完全にお救いくださっています。青色と緋色の撚り糸の福音を信じることによって、私たちをすべての罪から救われている真理の輝く光を発見することができます。水と御霊の福音によって、主は私たちを健全で聖にしてくださっているのです。
マタイの福音書 19:24で、私たちの主は、次のようにおっしゃいました。「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 霊において豊かな人々は、水と御霊の福音を信じることによって、罪の赦しを受けることができるとは信じていないために、救われません。天国に入ることを望む、霊においてほんとうに貧しい人々だけが、神の助けを求め、自分自身の義を投げ捨て、代わりに神の義を100%信じ、水と御霊の福音を信じることによって、永遠のいのちを受けることができるのです。私たちが最も聖なる神にお会いできるように、水と御霊の福音は救済のまばゆい光を輝かしています。私たち自身で、決して聖になることはできませんが、主から与えられた水と御霊の福音を信じるときに、確かに聖になることができ、真理のまばゆい支配に入ることができるのです。
 
 
私たちは宗教的および教義的な信仰を放棄しなければならない
 
ヨハネの福音書 3:3 で、イエスご自身が、次のようにおっしゃいました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 これに対して、ニコデモは返事として尋ねました。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」(ヨハネ 3:4)。 
新しく生まれていない人々にとって、信仰によるだけで新しく生まれることは不可能に思えます。時々、イエスの弟子たちでさえ、イエスのみことばを理解せず、それについて疑問を持っていることさえありました。したがって、主は一度、ご自分の弟子たちに、次のようにおっしゃいました。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」(マタイ 19:26)。もちろん、人間が宗教的な信仰を持って神の御国に入ることは不可能ですが、水と御霊の福音を信じることによって、御国に入ることは可能です。私たちは、自分自身で聖になることはできませんが、主がこの地上に来られ、バプテスマを通して世の罪をご自分のからだに負われ、十字架につけられ、死人の中からよみがえられ、それによって私たちのすべての罪を永遠に消し去っておられる救済のまばゆい光を輝かせておられる、と信じる者です――神が彼らに、ご自分の御国に入るようになさっています。
幕屋の材料として用いられた青色、紫色、緋色の撚り糸に啓示された真理とは、イエスが新約聖書で成し遂げられた水と御霊の福音に複雑に関連しています。言い換えれば、水と御霊の福音とは、青色、紫色、緋色の撚り糸に啓示された真理と同じなのです。青色、紫色、緋色の撚り糸とは、イエスの実際の救済の影であり、水と御霊の福音とは、この影の本物の実体なのです。
したがって、水と御霊の福音を通して救済のまばゆい真理を発見し、その中で安らぐことができます。水と御霊の輝く福音には、乳離れした子どもが母親の腕の中で遊んだり、休んだり、安らかに眠っているように、平安があります。私たちが最も聖なる神にお会いすることができているのは、福音のうちに最も聖なる光を発見することによるのです。神が私たちにお与えになっている救済を見いだすことができるのは、水と御霊の輝く福音を信じることによるのです。永遠の安息を受けることができるのは、神によって与えられた、この救済を信じる人々だけです。
要するに、水と御霊の最も聖なる福音を信じることは、私たちが至聖所に入るようにする唯一の信仰なのです。この水と御霊のまばゆい福音を信じる信仰は、罪の赦しを私たちのものとして取れるようにします。私たちの主がこの地上に、バプテスマと十字架を通して、私たちの罪をただ一度で消し去っている福音の真理によって来られました。主は今、ご自分が青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって、私たちになさった約束を成就なさっています。イエスを救い主と信じ、水と御霊の福音を信じる者だけが、永遠のいのちを受け、天国に入ることができるのです。
この水と御霊の真の福音が30年前から宣べ伝えられていたなら、確かにたちまち世界中に広がっていたでしょう。しかし、この真理が終わりの時に広められるのは、神の摂理なのです。私たちの主は黙示録で、終わりの時に無数の人々が罪から救われるとおっしゃいました。主はまた、多くの殉教者が存在し、艱難の時の間には無数の人々が主を信頼し、自分たちの殉教を受け入れることによって自分たちの信仰をはっきり示すであろうともおっしゃいました。つまり、私たちの主は、終わりの時を、多くの魂を収穫する時であると強調なさっておられるのです。神のご計画とは、この真理の福音をほんとうに信じている人々だけが、すべての罪からの救済の賜物を受けることです。
みなさんがすべての罪から救われているのは、今この時代に水と御霊の福音を聞くことに恵まれているからです。この水と御霊の福音を私たちにお与えくださったことを、神にほんとうに感謝します。水と御霊の福音を聞いていなかったら、私たち全員に何が起こっていたでしょう。しかし、今でさえ誰もが水と御霊の福音を受け入れるわけではないというのは、事実です。この真理は、ただ誰の心にも入ることができるものではありません。
実際、この世界中には多くのキリスト教徒がいますが、彼らの多くは水と御霊の福音を知ることも信じることもしていないのがわかります。では、どうすれば真の福音を知らない、こうした人々が罪から救われることができるのでしょう。神が私たちに、キリスト教文献を通して真の福音を広めることをお許しになっているのは、そのためです。
世界中には、私たちが広めている福音の本を読んだ後にのみ、水と御霊の福音が何であるかを知るようになったことをあかしする人が大勢います。彼らはみな、この水と御霊の福音を知る前、十字架の血しか知りませんでした。しかし今、彼らは水と御霊の福音の明確な理解に達し、それを信じることができたことを主に感謝しています。また、イエスがヨハネからバプテスマをお受けになったという事実に隠された、そのような重要な意味を知らなかったと、あかしする人も大勢います。彼らは今、この福音を信じており、そのことを神に十分に感謝しきれません。
水と御霊の福音のように、幕屋の庭の門も青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布でできていたことがわかります。こうした四つの色は、水と御霊の福音と同じです。そして同様に、水と御霊の輝く福音は、聖所の入口の垂れ幕と至聖所の入口の垂れ幕に啓示されます。さらに、幕屋の第一の覆いも同じ四つの色――青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布――によって刺繍されました。この真理は、イエスのバプテスマと血を指します。イエスがご自身を天の御国への道であると告げられたのは、そのためです。イエスがこの地上に来られ、水と御霊の福音の真理で罪人をお救いになることによって、イエスは信じる者を罪のない者になさっています。
天の御国への道とは、イエスのバプテスマと血を信じる信仰の中に見いだされます。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって、イエスは私たちを罪から完全にお救いくださっています。みなさんは、この真理をどこで見つけられると思いますか。イエス・キリストがお受けになったバプテスマと十字架の血を信じるなら、みなさんはただ一度ですべての罪から救われ、ただ一度で永遠のいのちを受けるでしょう。
では、イエス・キリストを何らかの形で信じる信仰と、水と御霊の福音を正確に信じる信仰との間には、どんな違いがあるのでしょう。主が罪人を咎からお救いになっているのは、水と御霊の福音によるため、この福音を信じることは、主を正しく信じることなのです。主は、ご自分のバプテスマと十字架の血によって罪人をお救いくださっているので、この主を救い主として信じることは、主が成就なさった水と御霊の福音を信じることによって、罪から救われるのと同じです。何らかの形でただ主の御名を信じることは、私たちが罪を贖われて、天国に入ることを意味していません。
むしろ、私たちが罪の赦しを受け、神ご自身の民になれるのは、イエス・キリストが私たちのためにヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架でご自分の血を流され、すべての罪の罰を受けられ、死人の中からよみがえられたことを正確に信じることによるのです。神は、水と御霊の最も聖なる福音を信じる信仰を持つ人々だけを、天の御国に入るようになさいます。しかし、水と御霊の福音を信じない人々は、新しく生まれていないために、天の御国に入ることができません。
幕屋に啓示された水と御霊のまばゆい光の福音を信じることによって、私たちはこの地上で暮らしながら、最も聖なる信仰を受けることができました。私たちの行いは不完全ですが、私たちがそのような信仰を持つとき、義とされていないと誰が言えるでしょう。水と御霊の福音を信じることによって聖になっているのに、私たちにどうしてまだ罪があり得るのでしょうか。一部の人々は、私たちが肉において、まだ罪を犯し続けるのに、私たちには罪がないとどうして言えるのかと疑問に思うかもしれません。
しかし、これは彼ら自身の肉の考えです。水と御霊の福音を知り、信じる人々は、人間には不完全な身体があるため、死ぬまで罪を犯さずにはいられないことに同意します。しかしながら、彼らはまた、イエスのバプテスマと十字架の完全な救済のうちに、彼らが将来犯す罪を含め、すべての罪を永遠に贖われているのだと信じます。
みなさんと私が、この地上で暮らしながら、そのような霊的信仰のみことばを分かち合い、最も聖なる信仰を持てるのは、主が青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に啓示された救済を私たちに与えてくださっているという事実のためです。主が、私たちへの贈物として水と御霊の福音の真理を信じられるようにする信仰を、お与えになっているからです。主への信仰をもって、私たちは主に仕え、互いを愛し合いながら、互いに交わりをもつことができます。――これが、私たちの真の幸福があるところです。
私たちは、この福音を神に感謝せざるを得ません。水と御霊の福音を知り、それを信じることができたのは、なんとすばらしいことでしょう。私は、イエスのバプテスマについて全く知識が無かったとき、神は真理のみことばを通して、この水と御霊の福音を信じる信仰を私の心にお与えになっています。水と御霊の福音を信じることによって、私たちはみな天の祝福を受けているのです。
 
 
心の中にある真の福音のため、私は真の感謝の気持ちをもって、それを宣べ伝える 
 
聖書を読みながら、心に疑問が浮かび始めました。なぜイエスはバプテスマをお受けになったのか。この疑問が浮かび続けたので、私は聖書を通して、その答えを見つけようとしましたが、誰ひとり私に教えることができませんでした。水と御霊の福音を知るようになるまで、このテーマに非常に興味を持っていたのは、そのためです。
よくマタイの福音書 3:13-17からの聖句を読みます。特に、イエスがバプテスマをお受けになる前に、ヨハネにおっしゃったところです。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」 しかし、私はその意味を決して理解できませんでした。ですから、イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになった理由について、他の人によく尋ねましたが、完全に満足のいく答えを決して聞きませんでした。それにもかかわらず、神は私に、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマの目的を悟らせるようになさいました。これは、まるで盲人が視力を取り戻したかのように、私にとって霊的な革命でした。このように、私を罪から救った青色、紫色、緋色の撚り糸に啓示された真理を悟るようになったのは、私がマタイの福音書 3:13-17の意味を悟った後でした。
この真理を把握する前、十字架の血だけを救いとして信じていましたが、その現実はまだ罪があって、そのために罪人だったということでした。当時、私はイエスの血によって原罪だけを贖われると信じていましたが、私の実際の罪は、まだ心の中に残っていました。私は、人を完全に罪のない者にさせる信仰を知りませんでした――つまり、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマを完全に気づいていませんでした。しかしながら、暗い部屋で電気がつけられるのと同じように、神は、罪の赦しのまばゆい光で、私の心を照らしてくださいました。「ああ、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマは、旧約聖書のいけにえの制度の按手と密接に関連しているのか!それで、これが水と御霊の福音なのか!」
ですが、それが何になったでしょう。この真理を悟った後、私の認識にびっくり仰天して、私の心に大きな混乱が生じ始めました。「ほかの福音はなく、この水と御霊の福音が唯一の真の福音であるなら、この世界はどうなるのだろうか。」 私は、福音派の信仰が聖書的に健全であると思っていました。しかし今、私は最終的に、水と御霊の福音以外のすべての福音がサタンから来ている偽物であることを悟るようになりました。
ですから、それ以来、私がしていることは、水と御霊の福音以外に真の福音はないと信じ、宣べ伝えることだけです。一部の人々は、これについて私を批判しています。神はまた、多くの欠点のある人に、青色、紫色、緋色の撚り糸に啓示された救済の真理を示されます。神はまた、この真理が本物の福音であると私に信じさせ、宣べ伝えるようにもなさっています。この世には似ている福音がたくさんありますが、真の福音は、たった一つです。私が水と御霊の福音を全世界に広めることを決めているのは、このためです。
私が罪の赦しの真理をどのように宣べ伝えるようになったのか、また、どのように水と御霊の最も聖なる福音を知り、信じ、広めるようになったのかを考えると、私は自分がどれほど神から祝福されているかを悟るようになります。私がしたすべてのことは、イエスがヨハネからバプテスマをお受けになることによって、世の罪を負われ、十字架で血を流されたと信じることだけでした。それでいて、私のすべての罪が消えてしまいました。水と御霊の福音は本物の真理であり、この福音をくださったことを主に感謝いたします。私は、確かに神から大いに祝福されている人です。水と御霊の福音を信じるみなさんも、そのような祝福された人々です。
こうしたすべてのことは、神が私に授けてくださっている祝福だと信じます。使徒パウロが、「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず」(Ⅰコリント 15:10)と告白したように、私に授けてくださった恵みをたたえずにはいられません。正直なところ、それは、青色、紫色、緋色の撚り糸に啓示された真理の福音を聞くことができる、神の教会ではなかったでしょうか。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布のみことばを聞いて、信じる人は、心をきよめられます。では、水と御霊の福音を信じない人々は、この福音についてどう思っているでしょう。彼らにとって、水と御霊の真理は退屈にすぎません。
みなさんは、至聖所の入口の垂れ幕の、青色と緋色の撚り糸を信じる信仰をもっておられますか。このみことばを聞くとき、みなさんはすでにそれを知っていると考えるのではなく、真理が心に見いだされるかどうか自分自身を調べてください。つまり、今みなさんは、聖書のみことばにしたがって、水と御霊の福音を信じる者でなければなりません。神の教会に来て、神のみことばを聞き、天国に入る特権を与えられるなら、幸運で祝福されるでしょう。
しかし、そうでない場合、水と御霊の福音を知ることも、真の信仰を持つことも、天の御国に入ることもできないなら、ごく平凡でありふれた人の作った話だけを聞いただけで、これがみなさんにどのような利益をもたらすのでしょうか。みなさんが信じている福音が水と御霊の福音と異なるなら、みなさんの魂は主の前でどのような関連性があり得るのでしょう。使徒パウロの信仰と私たちの信仰が同じであるように、神のみことばとみなさんの信仰がまったく同じでなければなりません。ペテロが信じた水と御霊の福音はまた、私たちが信じている福音と同じです(Ⅰペテロ 3:21)。
これらの終わりの時に、私たちに水と御霊の真の福音を信じるようになさったことを、神にとても感謝しています。そして、みなさんが私たちの本において、水と御霊の福音の真理を保ち、それを他の人と分かち合うとき、彼らも罪の赦しを受け、喜びのうちに神に感謝するようになります。私たちは、幕屋のすべての型と用具が、私たちのすべての罪を消し去られた救い主の詳細な肖像であることを悟らなければならず、この真理を神に感謝しなければなりません。
私たちが至聖所の入口の垂れ幕に啓示された真理を信じるとき、私たちは救われて天国に入るように祝福されます。さらに、神は私たちに、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布でできた罪の赦しの真理を全世界に広めるようになさっています。神は、私たちにこの仕事を委ねてくださっています。私たちは、それぞれの任務を引き受けた場所で、私たち一人ひとりに割り当てられた仕事に忠実であり、神はこの忠実さのために私たちを祝福なさっています。
神に感謝をささげます。幕屋の庭の門に用いられた青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に啓示された水と御霊の福音が、至聖所の入口の垂れ幕に啓示された四つの色と同じであると信じて、信仰をもって神を賛美します。さて、みなさんが信仰によってすべての罪から救われ、神が永遠に宿られる至聖所に入れる人であることが、私の心からの願いです。みなさんの信仰も、この真理の上にしっかり立っておられるでしょうか。